目次
- 1 山が神聖視される理由
- 2 黄泉比良坂は黄泉の国の出入口なのか?
- 3 古事記・黄泉の国訪問神話
- 4 黄泉比良坂の秘密
- 5 日本神話は人間の成長物語
- 6 山が「神」であることの理由
- 7 富士山という「高天原」
- 8 山が「神」であることのまとめ
- 9 富士山のオカルト
- 10 日本神話の凄いところ
これまで前編と後編に分けて甲斐の国の枕詞が何故「なまよみ」であるのかを考察してきた。番外編ではその中で解説しきれなかったことについて。
精神世界の出入口と言われている「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の謎を紐解きながら、山の秘密を探っていきたい。
初めてこのブログに辿り着いた方へ このブログの「読み方マニュアル」 つぎに「このブログについて」を読んでもらうとこの記事への理解が深まると思います。
山が神聖視される理由
富士山は神の山
万葉歌人の高橋虫麻呂が「富士山」の歌を詠んでいる。その歌については前編に引用した。虫麻呂は、富士山が「永遠」を象徴する「神の山」であることを歌っている。
古代から山は神聖なものとされているが、現代人はその真意に気がついていない。
「隠されたもの」は美しい
理由はわからなくても山の神聖さを感じ取ることができる人間。近年ではパワースポットと称して山に行く人も多い。
山から採れる鉱物に魅力を感じる人もいる。人間はものごとの美しい側面を好む。スピリチュアルな人たちは美しい水晶が大好きであるが、最終段階の「美しさ」に力を見出している人も多い。そんな人たちは「美しさ」が現れるまでの過程を理解しているのだろうか。
空洞の中にできる水晶。外側から見たらただの岩のようだけど、割ってみれば中にはキラキラとした結晶がある。鉱山から切り出され、磨かれてこそ「隠された」美しさが現れる。
山には秘められた力がある
その「美しいもの」を隠している山の方がもっと力がある。山はとても厳しくて恐ろしい場所でもあるが、わたしは山の本当の厳しさを知った人だけが「美しいもの」に辿り着けることを知っている。
その「美しいもの」とは目に見えて美しい宝石などではなく、『目には見えない美しいもの』である。それは「永遠」と言われるものであり、山は「永遠」を隠している特別な場所なのである。
「永遠」を隠す山
浦島太郎のお話では、目に見えない「永遠」が玉手箱の中に入っていた。それを信じられなかった島子は箱を開け「永遠」を逃してしまう。
目に見えないものに気がつかない人たちが、目に見えてわかりやすい「美しい宝石」に力を見出すのと同じことである。
ということで、今回は山が「永遠」を隠している場所であり「神」とされる理由について「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の謎を紐解きながら解説していきたい。
(とはいいつつ磨かれた宝石にパワーがあるのも事実。水晶の万能性はすごい。クォーツ時計にはじまり、電子機器には欠かせない。ちなみに甲斐の国は水晶の産地であった。)
黄泉比良坂は黄泉の国の出入口なのか?
前編では黄泉の国の出入口が「脳」であるということを紐解いた。思考を集中させることで、現実世界から精神世界という「黄泉の国」に入る。その方法については、出雲地方に脳磯(なづきのいそ)神話として残っている。
そして同じく古事記に記される「黄泉比良坂(よもつひらさか)」という坂も『黄泉の国の出入口』とされている。私が紐解いた答えは「脳」であったが、こちらは「坂」である。
イザナギとイザナミが登場する「黄泉の国訪問神話」の中に「黄泉比良坂」は登場する。まずはそのお話をwikiから引用しながら内容について説明していく。そのあと、出入口である「脳」と「坂」の違いについて解説していきたい。
古事記・黄泉の国訪問神話
黄泉の国に向かうイザナギ
男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギはイザナミに会いに黄泉の国に向かう。 イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、けして自分の姿を見ないでほしいと言って去る。
精神世界へ足を踏み入れるイザナギ
このお話の前に、イザナミはカグツチという火の神を産んだことにより、陰部に火傷を負い亡くなってしまったという経緯がある。イザナギはそれを悲しみ、黄泉の国のイザナミに会いに行く。
この場面は、黄泉の国でイザナミに再会するところであるが、高橋虫麻呂版「浦島太郎」において、海の中で女神に出会う場面に対応している。
黄泉の国も海の中も精神世界のこと。つまり、ここでも脳内で思考を集中して『精神世界に足を踏み入れている』ということである。
悲しむイザナギ
それを表しているのが「悲しんだイザナギ」の記述である。このお話の前に、イザナミを失った悲しみと怒りによって子供であるカグツチを殺しているイザナギ。
人間は「死」に対して恐怖を感じているから、身近な人間の「死」に深い悲しみを受けるものである。それがイザナギの「怒り」に現れている。
深い悲しみを感じている時、人間の脳内はその「悲しみ」に一点集中している。これこそが、精神世界へ足を踏み入れる作業。
浦島太郎神話との違い
「浦島太郎」では、島子(男)は黄泉の国で、海の女神(女)に出会っている。イザナギ(男)も黄泉の国で、イザナミ(女)と出会っている。というか、こちらはわざわざ会いに行った。
「浦島太郎」のおはなしでは、偶然「精神世界」へ辿りついてしまい、偶然「女」に出会ったと言える。この違いはとても意味のあるものだから別記事で説明します。
怒りに燃える醜いイザナミ
なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。 怒ったイザナミは鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。
女に出会うことの恐ろしさ
精神世界の中で女神と出会い箱をもらうことは、実はとても恐ろしい試練。島子は試練を乗り越えられなかった結果「死」の恐怖を味わい死ぬことになった。黄泉が「死者の国」と言われる理由である。
こちらは前編からの引用。『黄泉の国で女に出会うこと』についての恐ろしさに触れたが、こちらの物語でも、怒ったイザナミの描写は『試練を与えてくる女の恐ろしさ』を表現している。
死者イザナミ
生きているものは必ず死を迎え、腐ってから土に還る。だから腐っているイザナミは死者である。
イザナミには黄泉醜女(よもつしこめ)という手下がいる。追いかけてくるその手下を「葡萄」や「筍」を投げて足を止めた。
葡萄と筍は生の象徴
聖書の中にはイエスの「血」を表すものとして「葡萄酒」が登場する。葡萄の実を絞ると赤い汁が出てくるが、それを「血」と見立てているのである。
血というのは『生きている』証。同じく筍も、節を作りながら上へと成長する様から『生きているもの』を表現している。
食べることは生きること
死者にとっては「生きていること」がとても羨ましい。幽霊が「うらめしや〜」と言うのも生きている人に対してそんな気持ちを向けているから。
そして「食べる」という行為も「生きている」ことの表現。だから死者である醜女は、葡萄や筍という「生の象徴」であるものに夢中になり足を止めてしまった。
黄泉の国の食べ物
少し話が戻ることになるが、イザナギがイザナミを連れて帰ろうとする場面についてもう少し詳しく解説する。
イザナミは『黄泉の国の食べ物を食べてしまったのでもう帰れない』と宣言してから、帰れるかどうかを黄泉の神々に相談するから自分の姿を見ないでほしい、という流れになっている。
「食べる」ことは生きていることの証なのに、死者であるイザナミは「黄泉の国」で既に何かを『食べている』。
矛盾と思われるが、こう解釈することができる。黄泉の国というのは現実世界とも言えるのである。イザナミは生者でもあるということ。
前編から「黄泉の国とは精神世界のことである!」と散々解説しているのに「黄泉の国は現実世界」とはどういうことなのか?
さらには「イザナミは死者である!」という今までの解説も台無しである。混乱すると思うが、こちらの答えは後ほど詳しく。
桃を投げるイザナギ
イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。
智慧で敵を撃退する
醜女をうまくかわしたイザナギであるが、今度は雷神と鬼軍団を送り込むイザナミ。手下が多いのも恐ろしい女の特徴である。醜女は女の手下であったが、今度はもっと強い男軍団である。イザナギは今度は桃の木の実を投げて彼らを撃退した。
桃の実が象徴するものは、ずばり智慧である。桃の実は3個投げている。3という数字にも意味がある。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるが、3という数字も智慧の象徴なのである。
3という数字について
またまた聖書のはなし。イエスが誕生した時には東方の三賢者という三人の男たちがお祝いに訪ねてきている(マタイによる福音書)。賢者は智慧を表すから、3という数字は智慧との関連があると言える。それから、3は一番バランスが取れた数字とも言える。
過去このブログで説明してきたことであるが「解脱」するには智慧が必要である。智慧によって男性性(1)と女性性(2)が完璧なバランスを持ったときに「解脱(3)」することができる。つまり、3は智慧なのである。ちょっと説明が足りないかもしれないが、ここはとりあえず先に進む。
関連記事:バルトロマイから学ぶ解脱のための智慧
男の手下には「解脱のための智慧」が必要
女は葡萄と筍でかわすことができたが、男は桃である。この違いに注目すると面白い。女の手下は「生の象徴」で追い返すことができたが、男の手下には「智慧」が必要ということである。(→違いに関する解説もやはり別記事で…)
中国において桃は「不老長寿」を表す縁起のいいもの。「不老長寿」というのは「永遠」を表す。後編でも説明したが、「永遠」を獲得できるのは「解脱」できる人だけ。
実はこの「黄泉の国訪問神話」はイザナギが「解脱」を目指しているお話。イザナギは桃という「解脱の為の智慧」を持っている、ということになる。
雷神や鬼軍団はとても手強い。桃太郎のお話は桃から生まれた主人公が鬼退治をする話であるが、やはり桃太郎も「智慧を持つ者」の象徴。「解脱」するにはその手強い相手を智慧で撃退せねばならないのである。
黄泉比良坂に巨石を置く
最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。
イザナギは智慧で鬼軍団を撃退することができたが、親玉であるイザナミはさらに追いかけてきた。イザナギは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に巨石を置いて道を塞いだ。ここは、女(死者)との別れの場面である。
ところで、この物語はイザナギの「解脱物語」であるが、「解脱」というのは男性性と女性性の統合が行われること。男と女が別れたということは「解脱」に失敗したと思われるが、こちらは正しい決別である。(→別記事で説明します)
毎日1000人死に1500人生まれる
閉ざされたイザナミは怒って『毎日人を1000人殺してやる』と言い、イザナギは『それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしよう』と返事して、黄泉比良坂を後にする。
ここで二人が宣言したことは現実世界の掟となる。人間は死んでまた生まれ、死よりも生まれる方が500人多い。人間社会が発展していくことの予言でもある。
この場面は人間の歴史が始まった瞬間。つまり、私たちが神から人間になることを決めた瞬間なのである。神は「永遠」の命を持つ者であるが、「永遠」の命を失った人間が誕生した瞬間ということ。
この物語はイザナギの「解脱物語」でもあるし、『人間の成長物語』でもあるのだ。
黄泉の国から根の国へ
イザナギが桃の実を投げた時には、既に黄泉の国から「黄泉比良坂のふもと」に到着している。この「ふもと」と表現されているところは地上である。そして地上というのが日本神話で「根の国」と呼ばれる場所である。
イザナギは黄泉の国を出て、巨石を置き、女と別れ、根の国に到着したということである。
根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にある(大国主の神話)。しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。
wikipedia
引用からもわかるように「根の国」は地上説、地下説、海の底説、などと論じられていて、所在がはっきりとしない場所である。
黄泉の国=根の国と思っている人もいるようなのだが、この二つの国の違いを理解していないと、日本神話は読み解くことができない。
黄泉比良坂の秘密
現実世界は「生者の国」
精神世界は黄泉の国であり「死者の国」である。そして、鏡合わせの世界である現実世界は「生者の国」と呼ぶことができる。
前編で解説した「浦島太郎」のお話から分かるように、精神世界の先には「永遠」を体験できる竜宮城が存在していた。楽園のような場所であるが、そこは「死者の国」である。
鏡合わせである「生者の国」には楽園が存在せず困難ばかりが待ち受けている。そして「永遠」も存在しないから、人間は必ず死ぬ。
人間はそんな「現実世界」を嘆き悲しむものだけど「困難」や「死」には大切な意味がある。
現実世界は『生きていること』を体感するための場所。その体験を際立たせるために「生者の国」の反対側に「死者の国」が存在しているのである。どちらか片方だけでは意味がない。
「解脱」した視点でみる日本神話
鏡合わせの世界
現実世界(根の国/生者の国)
…死が存在する。苦しみが存在する。
↑
自分(葦原中国/解脱者の国)
…死も永遠も存在する。
↓
精神世界(黄泉の国/死者の国)
…永遠が存在する。苦しみは存在しない。
鏡合わせの世界であることについて分かり易く整理してみた。後編では「精神世界」と「現実世界」を行き来することができる性質を持った人について説明してきたが、イザナギが到着した「根の国」とは「現実世界」のことなのである。
突然登場した「葦原中国(あしはらのなかつくに)」も日本神話に登場する国のひとつ。現実と精神の間には「自分」がいるのであるが、そこが「葦原中国」。これが日本神話を読み解くための重要ポイント。
豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)もしくは、中津国(中つ国)とも言う。日本書紀には、豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)という記載がある。
wikipedia
垂直型構造の世界観において高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所で、地上世界を指すとされる。また、中国には「中心の国」という意味もある。
正しい「自分」視点で見ること
現実と精神の間にいる「自分」とは解脱した状態の「自分」である。詳細には『解脱することが決定している自分』のこと。古事記のお話を正しく紐解くには「解脱」した視点で読むことが大切となる。
「自分」の居場所は曖昧
「解脱」していない人間について
人間は精神世界と現実世界を往来することができるのであるが、私たち通常の人間は「解脱」していないので、その二つの世界を不安定にふらふらとしている状態。
「現実」と「自分」と「精神」は重なり合っているから『自分がどこにいるか』を客観的に認識できていないのである。
脳内の作用によって二つの世界を往来している、という仕組みに気がつくことができていないから「自分」の居場所もわからない。
「死者の国」に生きている人
「黄泉の国訪問神話」を解説した章の中で、『黄泉の国は現実世界でもある』『イザナミは死者であり生者である』と説明した。「現実世界」と「精神世界」が重なり合っていることが、その答えとなる。
通常の私たちは「現実世界」と「精神世界」のどちらに存在しているか認識できていない。そして「自分」の居場所を認識出来ていない場合「現実世界」の方に偏っていたり、「精神世界」の方に偏っていたりする。(その件については後編でも書いた。)
「現実」と「精神」が重なり合うこの世界では「精神世界(死者の国)」に生きている人もいる、ということ。私たち人間の中には『死者と同じ性質を持つ人』も存在しているのである。『醜い姿を見られて怒りに燃えるイザナミ』は「死者の性質」そのものである。
私たちの世界にもそんな人間が存在しているが、彼らは「精神世界」に住んでいる、ということになる。ややこしい話だけれど、私たちは全員「生きて」この世界に存在していると思っているようだが『生きながら死んでいる人』も存在している、ということ。
根の国から出発する「黄泉比良坂」
黄泉比良坂は黄泉の国とは繋がっていない
「精神世界」と「自分」と「現実世界」は重なり合っていることについて説明できたから、やっと「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の謎解きに入る。
世間では「黄泉比良坂」が現実世界と精神世界の境界であると言われているがちょっと違う。現実と精神が重なり合っているから「黄泉比良坂」と「黄泉の国(精神世界)」が繋がっていると思ってしまうのである。
黄泉の国へ繋がる穴を塞ぐ
「黄泉の国訪問神話」において、イザナギが「黄泉比良坂のふもと」に巨石を置いた場面を思い出してほしい。その場面では、精神世界(黄泉の国)との境界線をしっかりと引く作業が行われている。精神世界へ行くための穴(黄泉の穴)を塞いでいるということである。
つまり、イザナギが「現実世界」で生きることを決めた場面となる。ここで「黄泉の国」への道は閉ざされた。「精神世界」との境界線を引かないと「黄泉比良坂」は出現しない。
「黄泉比良坂」の出現方法
雷神と鬼軍団に桃を投げ撃退する場面では既に「黄泉比良坂のふもと」に到着していたが、黄泉の国の魔物を撃退することができたからこそ「黄泉比良坂」が出現したのである。
「黄泉の国訪問神話」は「精神世界」へと別れを告げ「現実世界」に生きることを決めた物語。現実を生きる、という決意をしたことで「黄泉比良坂」が現れた。つまり「根の国(現実世界)」から出発している坂なのである。
重なり合う「根の国」と「葦原中国」
さらにややこしい話が続く。精神世界と別れを告げた時点で、自分の立っている場所だけが「葦原中国(あしはらのなかつくに)」に変わる。ここでまた世界が重なり合うことになる。「葦原中国」と「根の国」はぴったりと重なり合っている。
通常の人間が生きている場所は「根の国と黄泉の国」が重なり合っている世界。しかし、試練を乗り越え、そこを抜け出すと「葦原中国と根の国」が重なり合う世界へ移動するのである。
「解脱」することが約束された地
「解脱」するためには「現実世界」で試練を乗り越える必要がある、ということは後編でも説明してきた。「現実世界」で「解脱」するための試練を受けることを決めた人間だけが「葦原中国(あしはらのなかつくに)」に足を踏み入れることができる。
しかしそこは「現実世界」なのであるから、自分以外の人間が生活しているのは「根の国」。これが重なり合っているということ。
「自分」を見つけられない状態では「黄泉の国と根の国」をふらふらとしている人間。「解脱」することを決めたら、初めて「自分」の居場所を認識できるようになる。その自分の居場所こそが「葦原中国」である。
現実と精神の中心に「自分」がいる、としっかりと認識出来ている人は黄泉の国(精神世界)や根の国(現実世界)どちらかに偏ってしまうことが無い。
「解脱」することが約束されている人間は「葦原中国」の上に立ち、根の国を生きるのである。
曖昧な世界に生きる私たち
私たちは「現実世界」にいると思っているが実はとても曖昧な世界に生きている。自分の居場所を見つけられた人だけが、この世界のとても複雑な構造に気がつく。
葦原中国という『解脱することが約束された地』に足を踏み入れることができた人間は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」という坂を登っていくことになる。
次の章からは「黄泉比良坂」を登った先にあるものについて説明していく。
日本神話は人間の成長物語
日本神話の国々の繋がり
私たちの世界は下記のように表すこともできる。この表は下から見ていくとわかり易いから、下から順に説明していく。
自我/高天原/常世の国
↑
自己/葦原中国…黄泉比良坂
↑
現実の自分/根の国…黄泉の穴
↑↓
精神の自分/黄泉の国
往来し「学ぶ」
「精神世界」と「現実世界」は往来できるようになっている。「根の国」には「黄泉の穴」と言われる『黄泉の国への出入口』がある。その出入口を利用し「根の国」と「黄泉の国」を往来し、学ぶことになる。
「自分」をみつける
バランスよく学ぶことができた人は、いづれ「自己」を見つけることになる。「自己」を見つけた人は「黄泉比良坂」へと辿り着く。そこはもう「葦原中国」という解脱することが約束された地なのである。
「山」の頂上を目指す
「葦原中国」には「黄泉比良坂」がある。その坂は「根の国と葦原中国」が重なる世界が麓となる上り坂。人間の意識では「現実世界」である。
さらなる努力を重ねその坂を登って行くと、最終的に「高天原」という場所に到着することになる。
そこは「解脱者の国」であり、常世の国とも呼ばれる。そこで人間はやっと「自我」というものを見つける。
高天原(たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら)は、『古事記』に含まれる日本神話および祝詞において、天照大御神を主宰神とした天津神が住んでいるとされた場所のことで、有名な岩戸の段も高天原が舞台である。
wikipedia
成長の順序
人間→神
何もない自分→自己→自我
黄泉の国→根の国→葦原中国→高天原
「黄泉の国」から「高天原」までの道のりは、人間から神へと成長していく物語。つまり日本神話には『解脱する方法』が描かれている。
『解脱までの道のり』を日本神話で表現してみると、黄泉の国という「海」を抜け出し、根の国で「坂」に辿り着き、葦原中国で「山」に登り、「高天原」で神と成る。という感じ。
ということで「葦原中国」と「高天原」が「解脱者の国」であることが説明できたかと思う。具体的には「高天原」はもう国という概念ではない。そこには『完全なる神』が住んでいるから。「神」は国を作らない。
日本神話の国々「図解」
ここまで説明してきた日本神話の国々の関係性をわかりやすくイラストにしてみた。
黄泉の国(精神世界)は目に見えない場所。だから点線で表現してある。そして鏡写しである根の国は、私たちの認識している現実世界であるから実線で表現してある。
山が「神」であることの理由
「高天原」という山への坂
「黄泉の国」には幻想の楽園が存在していたが、「高天原」とは「解脱する人」が必ず行けるところで、本物の天国であり楽園である。根の国(葦原中国)には「解脱」するための坂が存在していることになる。
「高天原」は神の住む場所である。それを現実世界で表現しているのが「山」であり、だからこそ入口が「坂」なのである。何故「高天原」が山なのかというと、山に登ることを「解脱の為の試練」と例えているから。
黄泉の国という精神世界でも『女からの試練』があったが、現実世界での試練が『山を登ること』。精神世界で試練を受け、現実世界でもさらなる試練を乗り越えることができないと「解脱」することはできない。
思考は現実となる
私たちが住んでいると思っている現実世界は精神世界を鏡写しにしたものである。つまりは精神世界という非現実な場所で思考したことが、現実世界という実在する場所で現実となって現れている。
現実世界に存在するものは、全て私達が思考しているものだったりするのだけど、この話は深追いすると単なるスピリチュアルになってしまいがちなのでここまでにする。
とはいえ「解脱」したときには驚くことになるだろう。あまりにも非現実的すぎて信じられないかも。
現実世界の秘密
山が存在する理由
人間は「解脱」する為に生まれてきたから、現実世界も「解脱」に導かれるよう巧妙に形作られている。人間が「解脱」を求めているから、現実世界に「山」が創り出されている。
信じられないだろうが、人間の身体の仕組みも「解脱」の過程と一致する。人間が生まれ、育ち、死を迎えるまでの一連の流れはその例としてわかりやすい。
生まれてくる前は子宮という羊水に満たされた海の中にいて(黄泉の国)、産道を通り抜け(黄泉の穴)、母親と繋がっているへその緒を切られる(イザナミとの別れ)。
そして、現実世界へと生まれ出る(根の国へ出る)。現実世界で困難という山を乗り越え成長し(黄泉比良坂を登っていく)、いずれは老いて墓に入る(高天原に到着する)。
死んで山に眠る人間
古代人が古墳という山を作っていたのは「解脱」することは山の頂上に到達することだと知っていたから。古墳を「高天原」に見立てているのである。
古墳が王の墓であったことも、力を持つ者だけが「解脱」する資格があることを知っていたから。力を持つ者とは「智慧」を持つもの。古墳は大きければ大きいほど力(智慧)を持つ者の象徴である。
そして、山は高ければ高いほど困難が多い。多くの困難を越えた人だけが「高天原」に到着する。だから、人間は現実世界で高い山に挑戦したくなるのだろう。山に登ることは神に近づくことだと、無意識で知っているのだから。
御神体としての山
過去記事では諏訪大社の御神体が「守屋山」であることについて書いた。古代の人々は山こそが「高天原」である、と知っていたから「守屋山」を「神」とするのである。古代人は現実世界と精神世界の存在を知っていたし、構造も理解していた。
富士山という「高天原」
「高天原」はどこにあるのか?
高天原の所在地については古来より諸説あり、『古事記』における神話をどのように捉えるかでその立場が大きく異なる。
wikipedia
wikipediaを読むと、高天原には天上説・地上説・作為説があるようだ。日本神話探求者たちは本当の「高天原」を探しているらしい。
山には統べるものが住む
日本には各地に「高天原」と呼ばれる山が存在する。おそらくその名前が付く山は過去に「統べるもの」が住んでいた名残。山とは「統べるもの」が住む場所なのだ。
『高天原に住む神』は『葦原中国に住む現人神』を統べる。「現人神」は『根の国に住む人間』を統べる。「人間」は『黄泉の国に住む死者』を統べる。
現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。
wikipedia
また、神道の教義上では現在も天皇は皇祖神と一体化した存在として認識されている。
「統べるもの」は必ず上に立つ。だから頂点の神が住む高天原は一番高い場所である必要がある。
『下にあるものを完全に理解する』ことができなければ「統べるもの」になる資格はない。「統べる」には全てを認め、受け入れ、理解する能力が必要となる。その力は「解脱」したとき初めて手に入るもの。
日本で一番高い場所
日本で一番高い山は「富士山」である。ということは、本当の「高天原」とは「富士山」だったのかもしれない。
オカルトマニアにはおなじみの「宮下文書」には富士山に古代王朝が存在したというお話もあったりする。
実は、古事記や日本書紀の中に「富士山」は全く登場しない。その理由について考察を繰り広げている人々もいるが、そのあたりを深追いするよりも私たちには『やるべきこと』があるはず。
過去の「高天原」
「富士山」はまだ人間というものが生まれる前に神が住んでいた「高天原」だったのかもしれない。「富士山」が「高天原」だったとしてもそれは遠い過去のお話。人間が生まれる前の時代のことは私たちが知る由もないこと。
私たちは「高天原」から抜け出して「人間」になった存在。そのことを伝えるお話が、イザナギとイザナミの「黄泉の国訪問神話」である。『男と女の別れ』が「人間になったこと」を表している。
過去の「高天原」を探し出しても意味がない。そこにもう神は居ないのだから。ということは、新しい「高天原」を探し出し、生み出すことが本来の人間の使命であるはず。まずは一人一人が「神」に近づく努力をするべきだと思う。
精神を清め、正しい生き方を見つけることの方が重要。だから古事記も日本書紀も「富士山」に触れていないのだろう。
富士山のように高い山
人間が「富士山」のような高い山に登る努力を続ければ「解脱」して「現人神」に成れるのである。諦めずにその努力を続けた人だけが『神の意識』を知り、この世界の秘密も知ることになる。
「現人神」とは、先程wikiから引用したように、『人間で居るまま神の考えていることを知ること』である。
関連記事:現人神である天皇の仕事
山を登ることはとても危険で厳しいけれど、頂上に着いたら眼下に素晴らしい景色を見ることができる。そんな辛く厳しい「解脱」への試練とはどういうものなのか、詳しくは関連カテゴリの記事をどうぞ。
関連カテゴリ:輪廻からの解脱
「神」には成れない?
「高天原」所在地について作為説が持ち出されるのもある意味正しい。人間が想像する天国のような「高天原」を「現実世界」の上に実現することはとても難しいこと。人間が本当の「神」に成ることは夢のような物語である。
神に成ることは次元が変わること。「日本神話は人間から神へと成長していく物語」と説明したけれど、人間はまだ「神」に成ることはできない。現時点では。
とはいえ、想像を現実にする力を持っているのが人間。この世界の仕組みを理解することのできる「現人神」が増えていけば「高天原」が実現し、神と成れる人も現れるのかもしれない。
関連記事:新しい太陽の国
山が「神」であることのまとめ
虫麻呂は知っていた?
虫麻呂が「永遠」を富士山に見出すのも当たり前なのである。人間が最終的に目指しているのは神の精神であるから、日本で一番高い山を無意識に褒め称えてしまう。
高橋虫麻呂の詠んだ、そのほかの歌を読んでみると、どうやら「解脱」の近くにいた人であるっぽい。個人的になんだか気になる人物である。
新しい「高天原」を目指す
「富士山」は『過去の高天原』である。現代に生きる私たちは『新しい高天原』を目指すべきである!という結論で、この記事のまとめとしたい。
このブログでは何度でもお伝えしているが、この世界には永遠に変わることのない原理がある。この世界は「形を変えて同じことが繰り返し起きる」ということ。だから新しい「高天原」が現れる可能性は十分ある。富士山が噴火でもしたら、その合図かも。
富士山のオカルト
幻の湖、赤池
富士山周辺には富士五湖と呼ばれる5つの湖が存在するが「赤池」という6つ目の湖が存在する。他の湖の水位が上昇すると現れることがあるらしい。
今年はその「赤池」が久しぶりに出現したそう。前回は2011年に出現したもよう。「赤池」が出現するのは「現実世界」で困難に立ち向かえ!という神からのメッセージなのかもしれない。
「赤」という色は「現実」を表すのかも、と映画「TENET」や「マトリックス」を見て思っているから。
関連記事:まるとあかと錬金術
富士山頂上の所在地
富士山の8合目からは住所が存在しないらしい。そこは「富士山本宮浅間大社」の敷地内であるらしく、地図にも県境の境界線は示されない。
『境界線がない』ことは「神」がそこに住んでいることの現れである。「神」は決して境界線を引かないから、国もつくらない。
国を作るのは、他人を認めることが出来ない「人間」の特徴である。山梨県でもない、静岡県でもない曖昧な場所。私たちは無意識で「富士山」が「過去の高天原」であったことを知っているのかもしれない。
日本神話の凄いところ
この世界の構造を理解できるもの
今回の記事を書きながら、日本神話が世界の構造を理解するのにとても便利で分かりやすいものだと気がついた。
しかも日本神話の神様が祖先である天皇が未だに実在しているのであるから、実はすごい国日本。やはり「解脱」が約束されている国である。
自分を知ることができるもの
人間から神へと成るには、自分を見つけていく作業と同じ。再掲になるがこういうこと。
人間→神
何もない自分→自己→自我
黄泉の国→根の国→葦原中国→高天原
人間から神に成るということは『何もない自分』の中から「自我」を見つけていく辛く厳しい作業でもある。「黄泉の国」から「高天原」に到達する物語を通して、その作業がどういったものなのかを教えてくれるのが日本神話。
関連記事:自我と自己の違いについて
過去と未来と人類の秘密
自分を見つけるには「人間の過去を辿る」ことが必要になってくる。「黄泉の国」から「高天原」への道。「黄泉の国」を尋ねることは過去への道であり、「黄泉比良坂」を登ることが「高天原」へ続く人類の未来への道となる。
過去を知り、未来を目指して生きる人だけが『祖先の秘密』を知ることになる。しかし、過去を振り返らなくても、山を登らなくても『祖先を知ること』になる時期は、いづれやってくるのではあるが…。
過去を知ることや山を登ることを避けている人は秘密を知らないまま、祖先を知る。その時きっと大きな後悔を残すことになる。
過去を知ること、未来を進むことについては、映画「TENET テネット」の考察でも詳しく書いている。そちらの記事もぜひどうぞ。映画を観てからご覧ください。
関連記事:「TENET」オカルト考察 その1
日本神話の謎解きはほどほどに
日本神話の謎解きをしている人々に言いたいこと。日本の失われた歴史の秘密を暴いたところで、自分自身が成長していなければ何も意味がない。
自分自身を「神」に近づけていく努力が必要なのに、謎解きばかりに意識を向けて自分の行いを見直すことができていない人が多すぎる。
それでいいのか日本人。日本神話は過去のお話であるが、過ちを繰り返さない為に、過去起きたことを記録し書物として残すのである。
過去に縛られず、過去からしっかりと学ぶことが大事。一人一人がより良い未来を目指していけば必ず「新しい高天原」が現れることになる。
まだまだ続く
ところで。イザナギとイザナミの「黄泉の国訪問神話」を解説したけれど、疑問を残したところがいくつかある。別記事で改めて解説することにします。
黄泉の国、根の国、葦原中国についてもまだまだ説明し足りないかも。というか「山」の話もまだまだし足りない。山と蛇のこととか。
「「なまよみの甲斐の国」番外編-山が神である理由-」へのコメント
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