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誰もが知っている「かごめかごめ」というわらべ歌。オカルト勢はこの歌について様々な解釈を行っているようです。今回はこの歌の本当の意味を、お教えいたしましょう。

「かごめかごめ」の歌詞は怖い?

本当は怖いかごめ歌

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。

かごめかごめ(Wikipedia)

まずはこの歌の様々な解釈を見てみる。wikipediaに一通りの解釈が載っているが、オカルトっぽいものを取り上げたい。

いろんな解釈

陰謀説

「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。

かごめかごめ(Wikipedia)

人間の欲の為に子供を殺された女の恨みの歌』であるという説。

囚人説

かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。

かごめかごめ(Wikipedia)

牢屋の中にいる囚人が死を迎えるのか、生き残るのか、運命の歌』であるという説。

神示説

「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

かごめかごめ(Wikipedia)

肉体の束縛から逃れ、悟りを得る歌』であるという説。

かごめ歌の解釈には不気味さを感じさせるものが多い。最後のものは囚われからの救いを感じさせるような説ではあるけれど。

ヘブライ語説

他の有名な解釈に『この歌詞自体がヘブライ語である』という説がある。こちらのサイトがとても詳しいので解説を引用させてもらう。

カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであることから、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていたことが記載されています。

(中略)

ところが、これだけカゴメ印とダビデの紋との共通点が指摘され、「契約の箱」と「籠の中の鳥」の関連説が囁かれてきたにも関わらず、そのカゴメ印のわらべうたとなる「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で書かれているということについて、これまで多くは語られてきませんでした。

「かごめかごめ」の意味とは Part I

この説が考えられたのは『ユダヤと日本には繋がりがある』という「日ユ同祖論」が発端であると思われる。「日ユ同祖論」を知らない人はググってください。

個人的に「日ユ同祖論」はワクワクして好き。日本語とヘブライ語の発音が似ているというのは面白い。引用させていただいたサイトの方によると、かごめかごめの歌の単語を似た発音のヘブライ語に変換し、またそれを日本語へと訳してみると、こういった意味になるそうだ。

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた

「かごめかごめ」の意味とは Part I

何かが(誰かが)囲われていて(囚われていて)、封じられたものに火をつけ燃やし尽くす。最後には何故か見捨てられてしまう。やはりこの解釈もちょっと怖い。さらには別の解釈も考えられるという。

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!
お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く!

「かごめかごめ」の意味とは Part I

前の解釈では「お守りの岩」というものが役に立たなかったが、こちらの解釈では「お守りの岩」から水が湧き荒地が支配された。

ヘブライ語説を簡単に説明すると『山のような人目につかない場所に囲まれ隠されていた「神宝」を取り出し、新しい地に遷す(うつす)という』ような意味合いではないかという。そして『火をつけ燃やす』というのは「神の裁き」を意味しているのではないかということ。

囲われ隠され安置されている「宝」は燃やされた。その結果、「宝の安置場所」は見捨てられた。もう一つの解釈では「宝の安置場所」には水が湧き支配された。神の裁き(火)の結果が二通りあるということになる。

旧約聖書を教典とするユダヤ教。旧約聖書の中に登場する、神の指示で作られた「契約の箱」というものがある。それは、イスラエルから失われ行方が分からなくなったまま現在に至る。神宝である「契約の箱」は日本にあるのかもしれない…という話に続いているので、詳しくは引用元サイトをぜひお読みください。

日本語→ヘブライ語→日本語という変換が、カバラのゲマトリアを思い出させる。かごめ歌は、変換させることで本当の内容が分かる暗号のようなものかもしれない。

UOZAブログ的「かごめかごめ」の解釈

pancyan説

いくつかの説を簡単に紹介してきたが、ここからは全ての解釈をまとめるような「pancyan説」を提唱していきたい。わたしの考えた解釈とそれぞれの単語の意味合いは以下のようになる。その後、歌詞の内容も詳細に解説していく。

四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。

籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線
鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物
夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上
鶴と亀→寿命と長寿、人間と神
滑った→真実を知ること

「籠の中の鳥」の意味

人間は現実世界を生き、現実世界という籠(囲い)に守られている。この当たり前のことを「籠の中の鳥」と表現している。

かごめかごめの遊び方は、中心に目隠しをした鬼を置いて、他の人が周りを囲む。中心にいる鳥が「人間である自分自身」であり、それを囲む他者は籠(現実世界)ということになる。

国や社会の中に生きている個人。籠の中の鳥とは『自分と、周りを取り囲むもの(他者、環境など)』と考えてほしい。人はひとりでは生きていけないから国や社会や他者に守られている。

守られていることを忘れてしまうほど長く籠の中を生きている私たち。けれど、いつしかその現実世界に疑問を感じるようになる。今現在、この社会はおかしい、この国に違和感を感じる、などと思う人が増えてはいないだろうか?

「いついつ出やる」の意味

現実世界(籠)からの脱出

「いついつ出やる」という言葉は、守られた現実世界からいつかは出ようとすることを暗示している。予言とも思える言葉である。人間は現実世界を信用しなくなったとき、そこから出ようと考えるようになる。

現実世界から逃れようとする人間が目指す場所と言えば、苦しみが無くどこまでも自由な「理想郷」ではないだろうか。けれど現実にそんな「理想郷」など存在しない。私たちは現実から逃れる為に現実には無いものを想像する。無ければ空想の世界で創り出すしかないのだ。

私たちは「理想郷」を天国や涅槃などと名づけたり、物語にすることがある。が、そのような現実世界には無い場所(空想の世界)は「精神世界」と呼ぶ方が適切である。「現実世界」の対になるものとしての「精神世界」である。

関連記事:「なまよみの甲斐の国」現実世界と精神世界が交差する国-前編

現実世界(籠)の外は精神世界

私たちは「理想郷」が現実には無いと思っているからこそ、現実世界(籠)の外に「理想郷」があると思っている。つまり『籠(現実世界)から出る時』というのは「精神世界」へ足を踏み入れる時を指しているのだ。

「精神世界」に詳しい人がいるとすれば、薬物中毒者や上級瞑想者なのかもしれない。「精神世界」を体験する方法として、幻覚を見せるような物質を利用する、精神を超集中して自力で入り込む、などがある。また夢を見ることや臨死体験も「精神世界」の一種である。

かごめ歌はそんな「精神世界」の真実を教えてくれるもの。籠(現実世界)から一度も出たことがない鳥(人間)が、籠の外(精神世界)に飛び出したらどうなるのか。その先には何があるのか。

「夜明けの晩に」の意味

曖昧な時間が精神世界へと誘う

「夜明けの晩」について、wikipediaに載っている解釈を一部紹介する。

  • 「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。
  • 「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。つまり「夜明けの晩」とは「存在しない時間」のこと。
  • 「朝」と「晩(夜)」、対称的な物事の象徴を指している。
かごめかごめ

「真夜中過ぎ・存在しない時間・対称的な物事の象徴」これら解釈は全て正しい。夜が明けるのに晩であること。夜が明ける直前の時間だけれど夜という時間をも指していて、朝と晩という対極にあるものがひとつの言葉になっている。「夜明けの晩」とは朝なのか夜なのかわからない曖昧な時間である。

「いついつ出やる」から続く言葉であるのだから、籠から出るきっかけになるのが「夜明けの晩」である。籠の外である精神世界に向かうには、現実世界と精神世界の境界線を越えなければいけない。境界線はとても曖昧だから、人間にとって「理解し難いもの」なのである。

関連記事:黄昏に生きる 宵に友なし

「かごめかごめ」は人間の心の中

わたしは、かごめ歌が「人間の心の中」を歌ったものだと考えている。人間の心の中で特に人間が理解し難い感情が、かごめ歌に表現されているのだ。人々がこの歌を不気味に感じるのは「理解し難いもの」が怖いから。人間の心の中にある「理解し難い感情」とはどんなものだろうか。

揺れ動く心

人間の心はいつでも揺れ動いている。喜び・怒り・哀しみなど、様々で複雑な感情があるようで、単純化してみればポジティブか、ネガティブという二極化ができる。喜びはポジティブ、怒りや悲しみはネガティブに仕分けられる。

感情を二つに分け目盛りで表すとして、ポジティブ最高値を+10として一番上に置く。ネガティブ最高値を-10として一番下に置く。簡単に言ってみれば、この目盛りを上下にいったりきたりしているのが人間の心なのである。

晩は-10の感情

目盛りの一番下「−10の感情」を体験したことがある人は少ないかもしれない。そこは地獄とも言える底である。体験したことがなくても、そんな感情が恐ろしいことだけはなんとなく想像できるはずだ。

最悪最低なネガティブ感情。それは何度でもやってきて、苦しみを更新していく。底だと思っていたところからさらに下がり、底にたどり着くまで何回もそれが続く。感情の底辺にはまったら抜け出せない。「夜明けの晩」の「晩」という言葉はそんな「感情の底(−10の感情)」を意味する。

一方で「夜明け」とはどんな感情なのだろうか。「夜明けの晩」とは『対称的な物事の象徴』である。だとすれば、晩(-10)の反対である一番上の目盛り(+10)が「夜明け」なのかもしれない。

重なる2つの世界

感情の目盛りが上であれ下であれ、最高値に近づくほど、籠の外である「精神世界」にも近づく。私たちは「現実世界」を生きているけど、心の目盛りを移動することで「精神世界」へ近づくことができる。

目盛りが最高値に近づくほど「精神世界」の濃度が高まる。「現実世界(0)」から「精神世界(±10)」へのグラデーションのようになっていて、それら世界の区別をつけることは難しい。

2つは全く別の世界であるが、心の揺らぎと共に世界間をスライドしていく。だから私たちはとても曖昧な世界を生きていると言える。「夜明けの晩」という言葉は、夜明けなのか晩なのかわからない、2つの世界を生きる曖昧さをも表現している。人間の中にある「理解しがたい感情」とはこの曖昧さ、でもある。

kokoronomemori

空想の世界は精神世界

天国・常世の国などは「精神世界」であると言ったが、霊界・幽界・あの世、黄泉などの言葉も全て「精神世界」を意味する。死者が存在すると言われている場所も私たちの心の中にあって、現実には存在しない。自分だけが個人的に体験する世界である。

人間は「現実世界」と対比するためにそういった場所を想像する。例えばアトランティスやムー大陸なども人間が空想するもので、現実には存在しない。実在を否定すると夢を壊してしまうかもしれないけれど、そんな場所が古代にはあったのかもしれない、と考えをめぐらすことは人間が「精神世界」と「現実世界」を区別するために大切なこと。

籠の外へ出ることは難しい

人間が籠から出るきっかけになるのが「夜明けの晩」である、と言ったけれど、ネガティブな感情を嫌というほど経験することに耐えられなくなると、籠(現実世界)から出ようと考えるはずだ。

現実世界を抜け出だそうと考える時、心はネガティブ感情の最高値(-10)に向かっている。けれど、そう簡単には籠から出ることはできない。境界線で必ず足止めを喰らう。そうしてもがいているうちに地獄のような「感情の底(-10の感情)」を経験することになるだろう。

+10へ向かう人

現実世界を抜け出す為に、ポジティブ感情の最高値(+10)に向かう人もいる。今回はネガティブの話がメインだけど、説明だけはしておきたい。

ポジティブ最高地に到達すると、現実世界と精神世界を隔てる境界線から出られなくなってしまう。そこは限りなく「精神世界」に近い場所だから、居心地がとても良いのだ。自分が望んだ空想の世界の中にずっと居るということである。それは、少し怖いことであるけれど、幸福ではあるのでそこを目指す人々もいる。

境界線上で苦しみもがくこと

「夜明けの晩」は、曖昧な世界で籠の外に出る為にもがいている状態を表している。その時「現実」と「精神」の境目がなくなり、精神が混乱し現実にも影響を及ぼす。精神的な障害で苦しんでいる人は「夜明けの晩」にいるのかもしれない。「夜明けの晩」に長くとどまるのなら、いずれ「鶴と亀と滑る」ことになる。

「鶴と亀と滑った」の意味

夜明けの晩に起きること

まずは、wikipediaにある「鶴と亀と滑った」の解釈をいくつか紹介しておきたい。

  • 「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。
  • 清元節の浄瑠璃「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。
  • 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。
  • 対称性が崩れる、対称性が破れることを指している。
かごめかごめ

縁起の良い鶴と亀が滑ること。それをポジティブなものと解釈するか、ネガティブなものと解釈するかは意見が分かれるところ。「滑った」を「統べた」と考える人もいる。

けれど「鶴と亀が滑る」のは「感情の底(−10の感情)」の時なのだから、ネガティブな解釈としてみたい。長寿の象徴である鶴と亀が滑るから「死」を表す、という解釈にわたしも同意したい。

鶴と亀はなぜ長寿なのか

「鶴は千年亀は万年」という言葉があるが、そもそも長寿のイメージはどこから来たのか調べてみた。

鶴と亀は、千年、万年の寿命を保つという、「淮南子‐説林訓」などに見える中国の伝説から出た語

コトバンク(鶴は千年亀は万年)

淮南子(えなんじ)という古代中国の思想書に、そんな記述があるそうだ。特に亀は中国で昔から縁起が良いものとされている。中国神話における四神、青龍・玄武・白虎・朱雀、の「玄武」とは亀なのである。正確には亀と蛇が合わさった姿で霊亀(れいき)とも呼ばれる。詳しいサイトがあったので引用させていただく。

霊亀は古代の人々が作り出した長寿を象徴する霊獣であり、長寿の代名詞ともなっています。張衡は《霊憲》で、”蒼龍がとぐろを巻いて左に、白虎は猛々しく右に、朱雀は翼を奮って前に、霊気は首を巻いて後ろにいた。”と描写しています。龍と鳳と麒と亀は古くから四大神獣とされており、尊い生き物とされていました。

霊亀:四霊の一柱でおめでたくて長寿の象徴である亀

玄武とは四神の内、北方を守護する黒い霊亀です。四神の中でもとりわけ信仰されているのがこの玄武であり、真武大帝として生命を司るその神性より四神最強はこの玄武なのではないかと思います。玄武はもともとの名前は玄冥と言い冥界へ行き神託を受けて帰ってくる霊亀の事を指していました。その神託は火にくべた亀の甲羅の割れ具合で判断されました。つまり玄武はもともとは亀甲占いから作り出された存在だったのです。玄冥はその後陰陽五行説に取り入れられて北方を守護する玄武となりました。

玄武:亀と蛇が合体した四象で、水と人の生死を司る神秘的な霊獣

このように、生命を司る神が玄武(亀)であるようだ。だからこそ鶴よりは寿命が長いのではないだろうか。

鶴は人間的長寿、亀は神的長寿

「籠の中の鳥」とは『現実世界に囲われている人間』のことだと既に述べた。わたしが考えるに、かごめ歌における鶴(鳥)も「人間」を表している。その対照になるものとしての亀は「神」を表す。

鶴である人間は100歳を越えて生きることもある。神である亀は人間よりも遥かに長く生きる。「鶴は千年」は人間としての寿命(長寿であること)、「亀は万年」は神としての寿命(永遠であること)、であると考えられる。めでたい意味が二重に重なっている。

感情の底で理解すること

『長寿の象徴である鶴と亀が滑るから「死」を表す』という解釈は、鶴である人間も神である亀も「死」を迎える、ということを意味する。「感情の底」で理解することは『人間はまだしも、神さえも死を迎える』という真実である。

心の存在が人間を苦しめる

神は人間を「心」がある者として創造した。言い換えてみれば、神は「苦しみ」を感じる仕組みを持つかたちで人間を創造したのである。

「揺れ動く心(感情)」があるから「楽しいこと」や「嬉しいこと」を感じることができるけれど、同じく「苦しみ」や「悲しみ」も感じてしまう。ポジティブな感情を固定することができれば、苦しむ心配もないのだけれど。

「心」が存在する限り「苦しみ」からは逃れられないことは、人間である限り「苦しみ」からは逃れられないことを意味する。「感情の底」でもがき苦しみ「心」というものを知れば知るほど、現実世界に救いなど存在しないことを悟ってしまう。生きている間に、永遠の自由が得られるような「理想郷」が現実に現れることもない。

籠の中の鳥は夢を見ている

籠の中の鳥は、夢を見ている。『幸せな人生を生き、苦しみなく寿命をまっとうする』という夢。それは人間の「平凡な夢」なのかもしれない。『そんな夢を見る人間』の象徴が「鶴(長寿)」であり、『その夢を追うこと』の象徴が「亀(永遠)」なのである。けれど、感情の底では、鶴も亀も自分も滑る。

人間が死を迎えれば夢を追うことも出来なくなる。死がある限り、長寿も永遠もいずれは無になる。そのような平凡な夢でさえも幻想であり、そんな夢を見ていた自分自身を呪う。

「苦しみ」からは決して逃れられないし、永遠を得ることもない、という真実を知った自分も滑る。「鶴と亀と滑った」が表現するのは「あまりにも深い絶望」である。人間(鶴)も神(亀)も心の中で死ぬ。

籠に守られるか境界線を超えるか

『幸せな人生を生き、苦しみなく寿命をまっとうする』ということについて疑問を持たず、未来に希望を持って生きている人が「籠の中の鳥」である。それが人間の通常であり、籠に守られている状態なのである。(現代ではそれが通常ではないかもしれない…。)

それなのに籠を出ようと考えてしまい、境界線に足を踏み入れ「あまりにも深い絶望」を体験する。その結果、境界線を越えることは出来ず「死」を選ぶ人も多い。しかしながら、境界線を超えられる人も存在している。

「後ろの正面だあれ?」の意味

籠の外にあるもの

「感情の底(-10)」を乗り越え、境界線を超えた人だけが知る秘密がある。それは、ネガティブ最高値(-10)とポジティブ最高値(+10)が同じものであるということ。一番下(-10)と一番上(+10)、これら対極は正反対にあるようで全く同じ地点にある、という秘密である。

正反対の感情が全く同じ地点であるということが何を意味するのか。「心」が判断をしなければポジティブに感じる事もネガティブに感じる事も、それは「ただの事象」になるということ。

例えば、『人が生まれること』と『人が死ぬこと』。どちらも「ひとつの事象」である。嬉しくなる出来事や悲しくなる出来事があるが、ひとつひとつの「事象」に感情の色をつけているのは人間の「心」である。

心は判断をやめられない

人が生まれるという感動的な体験も、人が死ぬという悲観的な体験も『それらは、全く同じ事象だ』と冷静に言い放つ人がいたらどのように感じるだろうか?『他者の気持ちが分からない、恐ろしい人だ』と、思うかもしれない。

感情が存在しないような人、他者の気持ちが分からない人、悪いことを平気でする人などが「サイコパス」という言葉で揶揄されることがある。そのような人に対して嫌悪感を持ったり否定的な気持ちになるから、そういった言葉で表現するのだろう。

そのように人々は観測したものをすぐさま判断し、良い(ポジティブ)か悪い(ネガティブ)かを当てはめ表現している。目にした「事象」、耳にした「事象」を瞬時に判断する生き物が「心(感情)」を持つ人間である。

事象と感情は強く結びついている

「現実世界」に居るとき、「事象」と「感情」は人間の中で重なり合い区別することができない。とある事象について「ポジティブ(良い)」か「ネガティブ(悪い)」か、という判断が瞬時に自動的に行われている。

その結果「事象」と「感情」はセットで記憶に残る。人間は「事象」より「感情」の方を強く記憶している。「感情」から『忘れていた別の事象』が呼び出されることもある。「事象」と「感情」の結びつきは強い。逆に「感情」が強く働かなければその「事象」はあまり記憶に残らないだろう。

「事象」と「感情」の結びつきを弱めることができれば、それらを区別することができるはずだ。「事象」と「感情」を全くの別物と認識できれば、『人が生まれること』も『人が死ぬこと』も単なる「事象」となり、同じものとなる。

境界線を越えた瞬間に起こること

「あまりにも深い絶望」を体験すると境界線を超えてしまう。つまり「心」の目盛りが振り切れると、突然、不思議な感覚が訪れることになる。時間というものが突然無くなる感覚である。

通常「心」は時間の流れと共にあるから、感情の目盛りも上下する。時間の流れに乗り、心の判断が自動的に起こり記憶され、「事象」と「感情」は人間の中で結びつきを強めていく。

けれど時間の流れが消失してしまえば目盛りも動かない。時間が止まると(時間が消失すると)、心も判断を止めてしまう。すると「事象」と「感情」の結びつきが離れてしまうのである。

悟り、覚醒、アセンション、ワンネス、陰陽の統合、などと呼ばれる神秘的な体験がある。それらも、心の揺れ動きが止まり『事象と感情が分離した』瞬間の体験である。

この体験によって、記憶の中にある「事象」からも「感情」を除くことができるようになる。苦しかった事・嬉しかった事など、対極にあると思っていた「事象」が「同じ」であることにも、気がついてしまうのだ。

心の働きが止まる

境界線を越えることは、心の機械的な判断を止めた瞬間。心臓が停止した一瞬ということでもある。経験したことが無い人は驚くことかと思う。その体験に「神」のようなものを感じたりもするはずだ。

心の判断を止めることができれば、心がとても楽になる。人間は時間の流れの中で常に判断をしているのだから、生まれて初めての心の休息となるだろう。そして記憶の中にある様々な「事象」から「感情」が分離された結果、記憶の中にあったポジティブな出来事、ネガティブな出来事の差が無くなる。

そんな体験をしても一瞬で現実世界に戻り、また時間が進む。だからその瞬間に何が起きているか詳細に理解できている人は少ないのかもしれない。体験した人はその一瞬を「無我」とか「真我」とか「今ここ」などと呼んでいるのではないだろうか。

大きな開放感、宇宙と一体になるような体感、真実を知ったような感覚。それは時間が無いから判断もない「全ての事象」が動きを止めて存在する世界で起きること。『全てが同じで違いが無いもの』だと知る。

心の停止による事象の消滅(生成)もある

話の流れ上深堀りしないけれど、心が停止する際に『全ての事象が消滅したり生成したりする』体験もある。心の停止後また心は動き出す。その一連の働きの中に、以下のような過程を見出すことができる。今回は「事象の消滅(事象の生成)」の部分については触れない。

事象と感情の分離(事象の統合)→事象の消滅(事象の生成)→事象と感情の結合(事象への判断)

完全なる精神世界

先ほどまで解説してきた「精神世界」と『境界線を越えた先にある精神世界』は、厳密に言えば違う世界である。私たちが現実世界で体験する「精神世界」には、生きている自分の願望が混ざることがある。それが天国などの空想世界である。

境界線を越えた先にあるものは「完全なる精神世界」で、そこには時間が無い。一方、現実世界で体験する「精神世界」には時間が有る。思考するには時間の流れが必要で、思考による自由な空想が現実世界の中に「個人的な精神世界」を作る。

「完全なる精神世界」は時間と思考の始まりとなる「無」であるから、思考がまだ起きていない。だからこそ「事象」への判断が起きず、自由な思考による空想世界も存在しない。

kago-in-out

時間が無いから鶴と亀が統べる

ところで、「夜明けの晩」は『存在しない時間』であるという解釈があった。「夜明けの晩」に境界線を越えることができれば、完全なる精神世界で時間が無い状態を体験するのだから、やはりその解釈は正しい。完全なる精神世界は『心が判断をしない究極の体験』ができる本当の「理想郷」と言ってもいいのかもしれない。

「朝(夜明け)と晩」も「鶴と亀」も対極にあるものを表している。それはポジティブ(陽)とネガティブ(陰)である。時間の無い世界では、鶴も亀も同じもの。統一されているのだから『鶴と亀が統べる』という解釈もまた正しいのである。

無の世界では、人間(鶴)にも神(亀)にも違いはない、ということにもなってしまう。仏教を信仰する人が仏陀を師と仰ぎ仏陀を最上級とするのも、現実世界では「心」が『違いを判断している』から。「わたしはブッダだ」と発言できてしまう人は、判断をしない「完全なる精神世界」を知る人かもしれない。自分とブッダを同等に置いているのだから。

判断しているのは自分なのか心なのか

さて、境界線を越えることができれば『完全なる精神世界』を体験し「鶴と亀が滑った(統べる)状態」を知ることになる。けれどその世界に長くとどまることはできない。瞑想が得意な人は長い間そこにとどまるのかもしれないが、生きている限りまた「現実世界」に戻ることになる。

「完全なる精神世界」で体験したことを「現実世界」に持ち帰ってみれば、ありとあらゆる事象を良い(ポジティブ)か悪い(ネガティブ)か判断し分別をしているのは「自分の心」だと気が付くことになる。そして、その体験を他者に語りたくなるであろう。

完全なる精神世界を体験した人が、インターネット上でその体験を言葉にして伝えようとしている。その内容を見ると『全ての事象を心(意識・脳)が自動的に判断している』と結論づけている人が多い。わたしの観測範囲ではあるが。彼らの多くは『自分が判断している』とは結論づけていないのである。

彼らは「自動的に判断する心(意識)」のことを『神のようなもの』『自分ではないもの』だと感じている。そして、幻想のような世界が在るだけて『自分は存在していない』とも言うだろう。ここではっきり言っておきたいのだけど、「自動的に判断する心(意識)」は紛れもなく「自分」のものであり「自分」は存在している。

現実世界から「苦しみ」を消す方法

「完全なる精神世界」を体験したら、心が停止した瞬間の『判断しないここち良さ』を記憶してしまう。だからまた現実世界に戻った時、判断したくなくなる。しかし「現実世界」には時間が流れているから「心」は必ず判断をしてしまう。

完全なる精神世界で「事象」と「感情」を分離できたのだから、現実世界に於いても「事象」と「感情」を分離しようと考えるだろう。しかし、社会や他者との関わりを持って生きるのなら「事象」と「感情」の分離は不可能である。現実世界では「事象」に「感情」で色をつける責任を負わなければいけない。それは「苦しみ」を負うことに繋がる。

もう「苦しみ」には戻りたくない、という強い気持ちから、「苦しみ」から逃れる別の方法を見出すことになる。それが「自分」と「心」を分離するという方法である。そうすれば「心のみ」が判断しているということにできる。

「判断する心」のことを、神・宇宙の意識・真我などと呼び『人間とは違うもの』にして、判断責任を負わせる。そして「自分(人間)」という個人の判断責任を放棄する。現実を生き続けなければいけない人間が「苦しみ」をこれ以上体験しない為の知恵である。

判断する自分を認めないこと

境界線を越えることは「心」というものを見破る瞬間。心を見破ることができれば全ての事象は『自分の心が判断している』という理解に到達する。けれども、現実世界に戻った時、心はまた自動的に判断してしまう。判断してしまう限り「苦しみ」も消えない。

『自分の心が判断している』ことを私たちは「自我」と呼ぶ。「心」と「自分」を分けてしまう人は、判断の責任を負うことになるから「自我」を嫌う。自分に心がある、としてしまうと「苦しみ」を自分自身が呼び寄せてしまうことになるから「自分」から「心」を切り離そうと努めるのだ。

境界線を越える経験を経た宗教者やスピリチュアリストは『自我を離れ感情を揺れ動かさない方法』を布教している。現実では「苦しみ」が消せない、ということを隠したまま。

心(意識)も体も「自分」のものであるのは当たり前のことなのに、彼らは「苦しみ」を深く知っているから「判断する心を持つ自分」を認めない。自分という存在を消すことを「苦しみ」から逃れる方法とするのだ。

後ろの正面は自分だった

「後ろの正面だあれ」という言葉は、ある物事について、ポジティブであるかネガティブであるかを判断しているのは自分自身(心)であるということ。後ろ(ネガティブ)も正面(ポジティブ)も自分。「目を逸らすことはできない真実」を表現しているのである。

「後ろの正面」という言葉もまた、対極を表す言葉。正面であり後ろであることは、ポジティブでありネガティブであること。籠の中の鳥(人間)は必ず判断をしているのだから、現実世界(籠の中)を生きているのならば、その責任を背負わなければならない。

籠の外(完全なる精神世界)に出たとしても心が停止した一瞬があるだけで、そこには何も無い。また籠の中(現実世界)に戻ればやはり「苦しみ」は消えない。このように、不都合な真実が隠されているから、人々はかごめ歌から不気味な雰囲気を感じ取るのだろう。

絶望から夜明けへ

最後に「夜明けの晩」という言葉についての補足をしたい。「晩」はネガティブ最高値(-10)であったが、「夜明け」は暗闇から開放される時間帯であるから、ポジティブなものを感じさせる。

「感情の底(-10)」であるのに「夜明け」でもあることには深い意味がある。ヘブライ語説と同じように「夜明け」の解釈は2通り考えられるのである。『心が事象を判断している』という真実を知ったあと、どのように世界を認識するのか。不都合な真実を知ったとしても、解釈次第で「幸せ」になることはできる。

夜明けの解釈・その1
「事象」について、ポジティブかネガティブかを「心」が機械的に判断していて、その作業に「自分」は関係ないと考えること。「自分」は存在しないのだから「世界」に意味がなくなる。よって「苦しみ」から開放される。

夜明けの解釈・その2
「事象」について、ポジティブかネガティブかを「自分の中にある心」が判断していると考えること。「自分」が心をコントロールしているのだから、「苦しみ」も「喜び」も自分の手の内にある。全てを「自分」が決定しているから、コントロールできる「世界」となる。よって「苦しみ」から開放される。

2通りの解釈は、どちらも「苦しみ」を乗り越えることができる「夜明け」なのである。どちらの解釈を選んでも「苦しみ」から解放される。「晩」と対極にある「夜明け」とは、『新たなる世界の見方』だと言えるだろう。

3つの対極

人間が「心」を知るために、「心」に深く入り込み、「心」が全ての事象をネガティブに判断した結果、『心が全ての事象を判断』しているということに気がついて世界についての解釈を改める。この過程を歌っているのが「かごめかごめ」になる。

目に見える世界を構成するありとあらゆる事象は全てが同等であるのに、ポジティブかネガティブに仕分けしているのは「心」。さらに細かく仕分けすることで、悲しみ・喜び・怒りなどの多彩な感情の違いも生まれる。

全てが同等であるのに、目に見える世界には初めから「違い」が存在している。そのことを強調するのが『夜明けの晩・鶴と亀・後ろの正面』というこの3つの言葉である。

夜明けがあり晩がある。鶴がいて亀がいる。後ろがあり前がある。自然(環境)にはそもそもこの対極が表現されている。ということは『世界とは、判断をしている心がそのまま現れているもの』という気付きにもなるはずだ。

心が機械的に判断していると思うのならば、心の存在を認めている。だとすれば「自分は存在しない」という答えは有り得ない。何故なら「心」が現実に現れたものが『自分という肉体』なのだ。つまり、「夜明けの解釈・その2」が「正解」となる。

『心が全てを判断している』という理解の後に、世界をどのように解釈するのか。その解釈にもまた対極が現れてしまう。『世界と自分は関係無い』と考えるのか、『世界と自分は関係有る』と考えるのか、という違いである。

私たちは対極のある世界に住んでいるのだから、判断をするのは当たり前のこと。だから解釈だって2通りに分かれてしまう。そして「正解」をどちらかに選ぶこともまた正しい。

わたしがこのブログで言う「解脱」の意味は、『心というものを理解した結果(解釈)には2通りある』ということを正しく理解し、強い心でどちらかを選択をすること。それが私たちの本当の終着点であることはまだあまり知られていないのかもしれない。

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「かごめかごめ」は人間の心の歌だった

童歌「かごめかごめ」の意味

繰り返しになるけれど「かごめかごめ」の意味を、最後にもう一度文章にしてまとめておきたいと思う。単語の意味も更新しておく。

籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線
鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物、人間の心
籠の内側→現実世界、現実世界で空想する精神世界、時間が有ること
籠の外側→完全なる精神世界、時間が無いこと
夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上
鶴と亀→寿命と長寿、人間と神
滑った→真実を知ること
後ろの正面→対極にあるもの

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる

籠に囲まれるように、他者や社会という現実世界に囲まれ、当たり前のように生き続けている私たち。いつしか自分自身の「心」に注目する時がやってくる。「心」は揺れ動きポジティブな感情やネガティブな感情、様々な感情を引き起こすもの。

自分の「心」に注目すればするほど「ネガティブな感情」を繰り返すことにストレスを感じるようになる。やがて、生きている世界そのものにも「ネガティブ」な感覚を持つことになる。籠の中の鳥(人間)は現実世界を生きることに違和感を感じ、籠から抜け出す方法を模索する。

夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

人間は現実世界から抜け出す為に、心の自由を求め、それぞれの「理想郷」を夢想する。夢を持つこと・何かを信仰すること・欲に溺れること。そうやって心の中に「理想郷」を創る。

それぞれの理想郷(方法)で「苦しみ」のある現実世界から目を逸らす。現実世界から抜け出すのは難しいと理解しているから「理想郷」を創り、現実世界から抜け出したようにふるまうのである。

「理想郷」を創ることができない人々も存在する。彼らは現実世界から本気で抜け出そうと願い「心(精神世界)」の中へとさらに深く踏みこんでしまう。現実世界と精神世界の境界線(夜明けの晩)を彷徨いながら「ネガティブ感情の底」へと堕ちていく。

やがて「心」は世界の全てを『ネガティブなもの』と判断し、鶴と亀と滑る。それは「死」という選択を考える程に世界に絶望を感じること。けれど、そんな深い絶望を乗り越えることはできる。ついに、現実世界から抜け出すのだ。

うしろの正面だあれ?

現実世界の外にあるのは「完全なる精神世界」。そこは心が停止した世界で、時間が無い。心が揺れ動くことが無いから「事象」から「感情」が分離してしまう。記憶の中にある、楽しい事や悲しい事、全ての事象から「感情」を取り除くと、それらは単なる事象となる。

「心」が揺れ動かないから、ネガティブやポジティブの判断をしない「心」を体験し、「心」が解放される。そして『自分の心が全ての事象に色を付けている(判断している)』ことを理解する。違いを決めているのは「自分の心」で、全てのものは本来ひとつ(同等)だったと知る。

つまり、後ろの正面(ネガティブとポジティブ)は「自分」だった。世界そのものは単なる事象の集合体であり、ある事象について悪(ネガティブ)なのか善(ポジティブ)なのかは「自分(心)」が決めていたのだ。

人間の正体とは?

四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。

これがpancyan説であるけれど、人間の正体は「心」だったということ。世界を解釈するのは「人間の心(感情)」であるということ。苦しみも喜びも「心」次第。「心」に操られている存在が人間である。

籠の中にいる鳥が籠の外へ出ようとする時、自ら「ネガティブ感情の底」へと堕ちていく。そして「心」に操られている自分に絶望する。けれど籠の外では「心」の束縛から自由になれる。

籠の外では「生きる」ことができないことも知る。時間が無いことは死んでいるのと同じこと。結局私たち人間は、時間が有る「現実世界(籠の内)」で生きるしかない。

籠の内側から外側に出ようともがくことで「心」の真実を知ることができる。その真実を知った後「現実世界」をどう生きるのか?結局「生きる」為には選択を続けることが必要で、『選択を続けること』についても善か悪かを選択することになる。その選択が世界の見方を左右している。

結局どの説も正しい

pancyan説を読んだ後にもう一度他の説を振り返ってみると、どの説も間違いではないことがわかるかもしれない。

例えば、妊婦が囚われているというのは正しい。人間の心には男性性と女性性があり、女性性が「心(思考)」を司っているから、籠の中は妊婦で表現されている。子供が殺されることをネガティブに思うのは「心」であるから「心」への憎しみが表現されている。

関連記事:女性性が心を司る

ヘブライ語説には2通りあったが、選択次第で「世界の見方」が変わることを表している。安置されている「神宝」とは「心」のこと。

ヘブライ語説の『封じて安置すべきものを取り出せ!そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!』という訳は『心に注目し(取り出し)、心を燃やし、今見ている世界を根絶せよ』という意味になる。「心」を自分の力でコントロールするために必要なものは「怒り」。心を燃やすような「怒り」の力で「心」の支配から脱出するのだ。

今回の記事では「怒り」については触れていないけれど、「鶴と亀と滑った」という言葉が表現する『あまりにも深い絶望』を経験したのならば「心」を燃やすことが必要である。とはいえ「怒り」は扱いにくいものだから、失敗すれば世界が燃やし尽くされる結果にもなってしまう。「怒り」を上手く扱うことができれば水が湧き、新しい世界が生まれるだろう。

関連記事:エメラルドタブレットと怒り 怒りと鬼

籠の中は時間と心で成り立っている

時間の中にある原因と結果

「かごめかごめ」の解説が思ったより広がりすぎてしまった。最後に、心と時間の関係についてもう少しだけ話して終わりにしたい。

心とは機械的なもので「原因(入力)と結果(出力)」という、シンプルな反応をするもの。『原因=起きたこと』について『結果=ネガティブorポジティブ』で返す。このシンプルな計算結果が、人間が生きる「現実世界」に現れている。国も町も社会もルールも、全てが計算結果の産物。その結果がまた原因となり永遠に続いている。

心の機械的な反応で私たちの生きる世界が成立しているのであるが、時間が進まなければ心も動かない。心は時間の中でしか働かない。

関連記事:因果(原因と結果)と時間

時間の流れと蓄積される情報

結果(事象)には感情の色が付いているから、長く生きれば生きるほど「感情の記録」も蓄積される。大人になればなるほど、ネガティブ感情の方が記憶に残りやすくなり結果を出すのが怖くなる。誰だってネガティブな感情を繰り返したくないだろう。

長く生きるほど(時間が経過するほど)情報過多になり、さらには『結果を出したくない』という気持ちも強くなっていくと、脳内の情報整理が滞り混乱してしまう。そこから「ネガティブ感情の底」を経験するような流れになる。

リセットで時間の始まりに戻る

けれど、感情の底を越えてしまうことができれば「事象」から「感情」が取り除かれる。つまり、それまでの「感情の記録」が全リセットされる。それは「心のリセット」であり、『時間の始まりに戻ること』でもある。「心のリセット」とは巷で「悟り」と呼ばれるもの。

私たち人間は生まれた時からずっと情報を蓄積しているから「心のリセット」が起きると赤ちゃんに戻ったような感覚になる。けれども大人には生きてきた経験があるから、記録された「事象」はリセットされない。

「心のリセット(悟り)」が起きると、これまで経験した「事象」をポジティブに書き換え、これから経験する「事象」をポジティブという結果にしようとするのが大人である。やはり「ネガティブな結果」は出したくないという気持ちが出てしまう。悟った人がやたらポジティブになるのはこの為。

関連記事:悟ってやたらポジティブになったわたしの話

時間は過去から未来へ、心は上から下へ

ポジティブからネガティブへ

心というものは時間と深く関係している。時間は過去から未来へと一方通行に流れていて、心はポジティブ(+10)からネガティブ(-10)方向へ流れている。目盛りでいうと上から下へという流れである。

けれど人間の「心」はいつでも揺れ動いていて、ポジティブになったりネガティブになったりしているから、そのような一方通行の流れとの矛盾を感じるかもしれない。意味が分かりにくいかと思うので、図で説明したい。

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人間は『ポジティブ感情からネガティブ感情への流れ』の方を強く意識してしまう。だからこそ、ネガティブに囚われると沼にはまったように堕ちていく。もちろん、『ネガティブ感情からポジティブ感情へ流れること』もあるけれど、ポジティブな感情がどんどん高まることは感覚的に捉えられない。

つまり感覚的には「ポジティブ感情からネガティブ感情へと移り変わる流れ」が支配している。心は常に上と下を行ったり来たりしているけれど、長期的に見れば上から下へと流れているということ。

底をついたらリセットが起き、また上へ

このような『時間と心の一方通行の流れ』があるから、「心のリセット」は「感情の底(-10)」でしか起きないのである。その後、心の流れは「ポジティブ最高値(+10)」に戻り、また「ネガティブ最高値(-10)」へと向かい流れ始める。

「ポジティブ最高値(+10)」に戻る前に、感情は「ゼロ地点」に戻る。事象に感情の色を付けることをやめて、事象が同等になることが「ゼロ地点」に戻ること。整理すると「心のリセット」では以下のような流れが起きていることになる。

ネガティブ最高値(-10)→ ゼロ地点 → ポジティブ最高値(+10)

「ゼロ地点」とは、グラフにある目盛りの+10と-10の間の0ではなく、グラフの外である「完全なる精神世界(時間も目盛りもない世界)」のこと。(本当はグラフ内の0でもあるのだけれど、話がややこしくなるので割愛。)

「心のリセット」は一瞬であるから「ゼロ地点」の詳細を掴むことが難しい。この流れと「ゼロ地点」を精妙に紐解くことができれば、「夜明け」の解釈が2通りあることを理解できるだろう。それがこのブログで言う「解脱」である。

関連記事:「悟り」と「解脱」の違い

繰り返す流れと複数回のリセット

感情の流れは繰り返すものだから「リセット(悟り)」は人生の中で一度だけ起きるものではない。さらには「リセット(悟り)」が起きたとしても、あまり意識しないまま(気がつかないまま)その後の人生を生きることもある。

『アセンション・ワンネス・覚醒・陰陽統合』などと呼ばれている体験は、「苦しみ」に強く意識を向けないままで起きる「リセット(悟り)」かもしれない。今回解説したような『絶望するほどの感情の底』を経験(意識)してからの「リセット(解脱)」はなかなか起きない。その前に死を選んでしまうからだ。

ちなみに、わたしは「苦しみ」に強く意識を向けないままの「リセット(悟り)」を2回体験している。そこから理解したことをこのブログに綴っている。

これはわたしの予想であるけれど、「現実世界」に何か大きな「苦しみ」が近づいているのを感知すると心の防御反応として「リセット」が起きるのではないか。現実世界における「大きな苦しみ」に備えて「心のリセット」を起こせば、頭を整理整頓させパニックを防ぐこともできる。心は未来を知っているのだ。

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苦しみの終わりは時間の矢の先にある

破壊と再生で成長する世界

心(精神世界)は「上から下」への流れだけれど、目に見える世界(現実世界)は「下から上」へと流れている。精神世界と現実世界は逆の流れを持っているのである。

今回説明してきた精神世界とは「個人の心」のことになる。それはとても個人的な世界で、一人一人が違う「心の世界」を持っている。そして、目に見える現実世界は「全人類(全体)の心」になる。現実世界は「集合的無意識」が現れたもの。全体の心は目に見えるが、個人の心は目に見えないのが、この世界の不思議である。

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私たちの生きている現実世界は、長期的に見れば上へ上へと成長している。そして「心の世界(精神世界)」とは逆に、一番上でリセットが起きるようになっている。現実世界の物質的豊かさや技術的成長が最高潮に達すると、必ずリセットが起きる。

リセットとは「破壊」である。破壊が起きた後は再生が起きる。例えば経済危機は『現実世界のリセット』後の大きな下り坂であるが、その後波はまた上っていく。破壊と再生を繰り返さなければ現実世界の成長はない。もちろん「心の世界(精神世界)」も破壊と再生を繰り返しているのだから、現実世界と同じく成長する。

繰り返すのだから、心もネガティブに留まり続けることは無く「苦しみ」には必ず終わりがある。それが感情の底(-10)で経験する「リセット(破壊)」である。けれども「苦しみ」に終わりがあるのか、終わりがないのかを決めているのも「心」であることを忘れてはならない。

心に「終わり」を決めること

現実とは違い「個人の心」は目に見えないから「終わり」も見えない。私たちは当たり前にある上下する波(パターン)を掴めていないから、終わりが見えない「心」に翻弄される。

その上「心(精神世界)」では時間の流れを自由に操作できてしまうから厄介なのである。上から下への流れを無視することができてしまう。

だからいつまで経っても「終わり」を決めることができず、「心(精神世界)」で擬似的に苦しんだり楽しんだりを繰り返してしまう。『擬似的な感情』を現実に持ち込み「死」を引き起こすこともあるから「心」は恐ろしい。

「心」の流れを理解し「心」の流れに身を任せることで「苦しみ」に終わりを決めることができる。「心」の支配から逃れるには、強い心で『終わりを迎えること』を選択する必要がある。苦しみから自分を救うのは、未来の危機を感じた自分の心だけなのである。

自分の心を深く知り、心の波(パターン)を掴むことで、現実世界と精神世界の波(パターン)が一致する。心と現実の奇妙な一致を体験し、自分の心が世界を動かしているのを感じることになるかもしれない。