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バルトロマイとはイエスの12使徒のうちの1人。とある2ちゃんねる内の書き込みを偶然見たことがきっかけで、彼に興味を持った。調べているうちに点と点が繋がって何かが見えてきた。今回の記事では今まで注目されていなかったバルトロマイという人物のことを考察していく。

2020/4/23追記:今回の記事は以前書いたものだけど、いろいろと雑なところがあったので大幅に手直し。カテゴリも変えて再投稿。

最後の晩餐に描かれていないはずの聖杯

オカルト板のとある書き込み

55 :本当にあった怖い名無し:2018/04/01(日) 01:56:49.19 ID:01bYXx560.net
誰かのためにネタ投下
海外の記憶違い動画漁ってたんだけど
レオナルドダヴィンチの最後の晩餐壁画
その人は映画のダビンチコードを見て聖杯がないとセリフを聞いて
あったはずだと確認すると本当になくて驚愕

しかし、その画像をよく見るとびっくり聖杯がある
wikiなどの縮小された画像で浮き出る、左の壁に埋まる聖杯
なんでこんな簡単に見つかること映画でもネットでも言及しないんだと
改変を疑っている


実際画像見たら本当に聖杯埋まってる
拡大したら通路の背景の模様だけど他の通路はほぼそういうのない事から意図的
おそらくダヴィンチはパラレル改変を観測してる

異世界総合スレ 2 (時空の歪み・パラレルワールド)

あるとき、オカルト板の異世界スレを見ていたらこんな書き込みが目についた。この書き込みをした人は海外の記憶違い動画を見てレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の絵の中に聖杯が描かれていることに気がついた。どういうことなのか、詳しく説明していく。

海外の人の記憶違い

昔の記憶と違ったこと

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」はトム・ハンクス主演で映画にもなっている有名な作品である。

「ダ・ヴィンチ・コード」は最後の晩餐の絵の中に「聖杯が描かれていないこと」に注目し、謎解きをしていく物語。

その海外の人は「最後の晩餐の中に聖杯は描かれている」という記憶を持っていたのに、ダ・ヴィンチ・コードを見たことで「聖杯が描かれていない」という事実を知り驚いた。

マンデラエフェクト

オカルト界隈では人間の「記憶違い」という現象が、違う世界線(パラレルワールド)で起きた出来事なのではないか?という考え方がある。それをマンデラエフェクトと呼ぶ。

マンデラ効果(マンデラこうか 英: Mandela Effect)とは、事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象を指すインターネットスラング、およびその原因を超常現象や陰謀論として解釈する都市伝説の総称である。当時存命中だった南アフリカの指導者ネルソン・マンデラについて、1980年代に獄中死していたというあり得ない記憶を持つ人が大勢現れたことに由来する造語で、それ以外の事例に対しても広く用いられている。

wikipedia

つまり、その記憶違い動画の人は「聖杯が描かれていた世界線」から「聖杯が描かれていない世界線」に移動した!と思いその動画を作ったのであろうか。

日本人は気がついてしまった

しかし、この記憶違い動画を見た2ちゃんねらーが「最後の晩餐」の絵を確認したところ、聖杯が描かれていることに気がついたのだ。

つまり、ダ・ヴィンチ・コード以前にはあった聖杯が、ダ・ヴィンチ・コード後に消えて、2018年時点また現れているということ。これはすごい。

ダヴィンチコード以前の聖杯がどんなものであったのかはわからないが、とりあえず「最後の晩餐」の絵を確認してみよう。

バルトロマイの頭上に聖杯がある?

本当にあった

Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg
wikipediaより

本当に聖杯に見えるものがある。画像を小さくすると浮き上がる感じ。絵の中一番左側の人は12使徒の中のバルトロマイという人物。彼の頭上に聖杯に見えるものがある。

「最後の晩餐」で画像検索するともっとわかりやすいものもある。これってすごい発見だと思うのだが、確かにネットサーチしても言及している人はいない。

イエスの血が注がれた聖杯

ダ・ヴィンチ・コードについて

ここで「ダ・ヴィンチ・コード」の結末をとても簡単に説明しておきたい。実はイエスには妻子がいて子供もいたという。イエスの血脈は現代まで続いていたが、それはキリスト教最大の秘密であった…というおはなし。

最後の晩餐を見て貰えばわかるのだが、真ん中のイエスとイエスの左にいる人(マグダラのマリア)との空間がV字だからこれが絵の中に隠された聖杯だということ。マグダラのマリアはイエスの妻で、その子供の存在を表しているのが聖杯というわけ。

聖杯伝説

聖杯はキリスト教においてイエスの血が注がれたことを象徴する重要なアイテム。西洋には聖杯伝説というものもあり、それは騎士たちが聖杯を求め冒険するおはなしである。最後の晩餐で使用された聖杯を実際に探し求める人々もいるし、秘密めいたオカルトアイテムであると言える。

共観福音書によれば、最後の晩餐でイエスはパンを裂き「私の体である」と言って弟子たちに与え、杯を取って「私の血である」と、弟子たちにその杯から(ワインを)飲ませる。『ヨハネによる福音書』にはこの場面はない。

wikipedia

聖杯から導き出されるもの

聖杯にまつわる2つのオカルト

先ほど見つけた聖杯の下にいる人がバルトロマイである。これを見てわたしはバルトロマイにこそイエスの血が受け継がれているのではないかと感じた。聖杯から導き出されたこの2つのヒントを元に仮説を立ててみたい。

  1. 聖杯とはイエスの血が受け継がれることの象徴
  2. 最期の晩餐のバルトロマイの頭上に聖杯が現れていること

わたしの大胆な仮説

実は昨今のオカルト界隈では日本が世界を救うという説が囁かれている。キリスト教信者が待ち望んでいるキリストの再来が日本で起こると信じている人たちがいる。

もしかしたらイエスの血が注がれているバルトロマイは日本に関係があり、日本でキリストの再来が起きるのかもしれない。次の章から、このとんでもない仮説を裏付けるものを探していきたいと思う。

聖書でほとんど語られない使徒

バルトロマイについての情報

バルトロマイについては聖書ではほとんど語られません。ただ、アンデレに連れられてキリストと出会った時、彼は「はえぬきのイスラエル人」と呼ばれています。内容は聖人についての様々な物語を記した「黄金伝説」によって語られます。バルトロマイはインド、ペルシャ、ゲルマニアを伝道して歩き、アルメニアで殉教しました。通常は髪の黒い、髭をたくわえた中年の人物として描かれます。

https://www.paintweb.jp/iconology/twelveapostles/bartholomew/

さっそくバルトロマイについていろいろ調べた。引用元から特徴をあつめてみると、髪の黒い、髭をたくわえた中年である。イエスからは「はえぬきのイスラエル人」と呼ばれ高評価である。

バルトロマイはシモン・ペトロたちのようなイエスさまからの直接の招きを記述されることもなく、また徴税人マタイやトマスのように、主との直接的で劇的な出会いという感動的な信仰体験も分からない。あるいは、熱心党のシモンのような強烈な自己主張を持った人物でもない。さらに、実はバルトロマイは姓名ではない。アラム語で「バル」は「(誰々)の子」の意であり、「トロマイ」は「タルマイ」だから「タルマイの子」の意味の言葉である。従って、彼は名前で呼ばれていない。彼の存在は氏名を覚えられず、通称、日常使われていた俗称で記憶されているだけなのである。要するにバルトロマイは目立たない弟子だったのだが、常に主イエスのそばにいて寝食を共にし、沢山の主のお言葉を聞き、目を見張る振る舞いを見、そして何よりも主に祈っていただいた。

http://nskk-tohoku.com/old/kyoukuhou/sitonimanabu.html

イエスとの間に劇的な出会いもなく、特徴的な信仰体験もない。自己主張を持った人物でもない。とにかく目立たない弟子であったのだが、常にイエスのそばにいて、何よりも主に祈ってもらっていた。

目立たないが、はえぬき

インターネット上を調べてみてもバルトロマイの情報は少ない。12使徒の中でも目立たない人物であるのだけど、イエスの近くにいてイエスからの評価が高いとの噂。

最期には皮を剥がされた人

ナタナエルとしても知られていたバルトロマイは、アジアへの宣教師でした。 彼は、今日のトルコで証し、アルメニアで説教したことで、むちで打たれ皮膚がはがれて亡くなりました。

https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-death-apostles.html

ネットに落ちている情報をまとめると、バルトロマイはインド・ペルシャ(現代のイラン?)・ゲルマニア(現代のドイツポーランドチェコあたり)・トルコ・アルメニアなどを宣教したのだが、かわいそうな最期を迎えている。生きたまま皮膚を剥がされてしまったという伝説が残っている。

バルトロマイと日本の繋がり

殉教の地アルメニア

自己主張しないし、本名でも呼ばれていなかった影の薄いバルトロマイ。バルトロマイが殉教したのはアルメニアという国。彼が最後を迎えたこの国について調べてみた。

あまり馴染みのない小さな国だが最近ではIT立国らしい。アルメニアは世界最古のキリスト教国で、旧約聖書におけるノアの方舟伝説の方舟が最後にたどりついた地とも言われている。

それから「アララト山」という山がある。聞き覚えがある…と思って調べてみたら日本とのオカルト繋がりがあった。

都市伝説

千円札に描かれている富士山。その下の湖に映っている富士山がアララト山を表しているという都市伝説があった。実際のアララト山を確認したところ、確かに富士山にそっくりだった。

それからアルメニアの博物館には「ロンギヌスの槍」が展示されている。日本でアニメ、エヴァンゲリオンが流行らなかったら「ロンギヌスの槍」という単語が日本人に周知されることはなかったはず。日本との繋がりがあると言えるような言えないような…。

アルメニア人とユダヤ人と日本人

実は、オカルト界隈では有名な「日ユ同祖論」というものがある。日本の神道とユダヤ教には多くの共通点が見つかるという。この日ユ同祖論の話を広げていった結果「イエスの血脈が日本に渡っている」という噂はすでにある。

アルメニア人ってユダヤ人と同じくディアスポラ(離散の民)らしい。ユダヤ人とアルメニア人は似たような歴史を持っている。この事実にもまた日本との奇妙な繋がりを感じる。とはいっても、バルトロマイと日本を繋げるのはやはり無理やりかもしれない。

バルトロマイの真実

バルトロマイはイエスの隠し玉

日本とバルトロマイのつながりに関する考察は都市伝説の域を出られないと思う。けれど私は、バルトロマイが「皮を剥がされた」というところに強く惹かれている。

私は「悟り」という体験を経て、この世界の真実を知った。その経験からバルトロマイが意味するところを導き出したい。バルトロマイがイエスの隠し玉であることは間違いない。

バルトロマイのアトリビュート

西洋美術では人物を象徴する持ち物(アトリビュート)が描かれることがある。歴史上の人物、神話の人物にはアトリビュートが決まっていたりする。アトリビュートについてはこちらのサイトがわかりやすかったのでリンクを貼っておく。

バルトロマイのアトリビュートはナイフと皮である。ナイフは男性の象徴であり、皮は蛇の脱皮と同じく生まれ変わることを象徴している。バルトロマイの頭上にある聖杯の意味をここに付け足し、バルトロマイがどんな人物なのかを考察していく。

ナイフと皮と聖杯の意味するところ

強さを持ち皮を脱いだ人

バルトロマイは強さを持つことによって再生が起きた人物だと考えられる。再生はある智慧を持っていなければ起きないことである。つまり、バルトロマイには智慧があり「悟り」が起きているのだ。何を言っているか分からないと思うが、ひとまず以下にまとめてみる。

バルトロマイはナイフ(男性性)を持って、聖杯(悟りの智慧)を獲得し、皮を脱いだ(再生した)人物である。

「 悟り」とは何か?

「悟り」には男性性の力(ナイフ)が重要となるのである。正しい男性性を発揮し、試練を乗り越えると「悟り」という再生が起きる。これは「悟り」という体験をした者しかわからないことであるから、説明してもなかなか理解してもらえないとは思う。「悟り」についてはこのブログで書き続けていることなので別の記事も参照あれ。

聖杯の意味するところ

私の経験から、バルトロマイのアトリビュートと合わせて聖杯の意味を考えたことのまとめ。聖杯は「悟りの智慧」を象徴するものであるということ。「悟り」が起きると心の中の男性原理と女性原理について理解できる。その正しい理解が「悟りの智慧」なのである。

エメラルドタブレット

太陽の力と月の力を注がれた聖杯の図 「薔薇十字秘密のシンボル」より

聖杯が「悟りの智慧」だということは、薔薇十字団や錬金術師たちが残した絵からもわかると思う。太陽(男性原理/つよいこころ)と月(女性原理/受け入れるこころ)と聖杯(悟りの智慧)は彼らにとって重要なシンボルである。

つまり、西洋の人たちが聖杯を探し求めていた理由は「悟り」へ到達するためである。それは永遠を実現するための智慧であり、聖杯に神を見出していたのである。

関連記事:秘密結社が隠してきたもの

ダ・ヴィンチがナイフに表現したかったもの

面白い解釈の一つに、ダ・ヴィンチが人物像を描くノートの中で、ナイフを持つ男をこう説明している点があることを指摘するものがある。「絶望している男はどのように描くか」という問いに対して、(ダ・ヴィンチは)次のようなイメージを抱いていた。<絶望している男はナイフをふるい、両手で衣服をひきさいてしまったように描かねばならない。>と。彼はナイフが強い感情表現のためのモチーフであると考えていたのだ。」(「レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯」田中英道より抜粋)

ダ・ヴィンチ・コードにおける「最後の晩餐」の解釈について

とあるサイトから引用させてもらう。ダ・ヴィンチは「強い感情表現のためのモチーフ」としてナイフを描いている。「悟り」に必要なのは男性性という強い自我である。それは強い感情表現そのものである。

ナイフ(男性性)の使い方が重要である

さて、レオナルドの手記では、以下のように書かれている。「もう一人は別の男に囁いている。それを聞く男は耳を貸そうとふりむいている。片手にはナイフ、他の手にはナイフで半分切りかけのパンを握ったまま。他の男はナイフを握ってふりむきざまに、手でテーブルの上の杯をひっくりかえす。」どうも、皆、パンの食事のためにナイフを使っていたようである。それで、驚いたはずみに、いろいろアクションとるシーンをダ・ヴィンチはイメージしていたようだ。

ダ・ヴィンチ・コードにおける「最後の晩餐」の解釈について

そして、ダ・ヴィンチはナイフについてこうも言っている。最後の晩餐中の使徒たちはパンを食べるためにナイフを使用していた。「ナイフを握ってふりむきざまに、手でテーブルの上の杯をひっくりかえす」というある男のイメージ。杯をひっくりかえすという表現は聖杯を正しく受け取れないことを意味するはずだ。

テーブルの上の杯をひっくり返す

杯をひっくり返すことの真意は、ナイフ(男性性)の使い方を間違えているということ。しかしナイフは正しく使うことで聖杯を獲得できるものでもある。「正しく使う」とはどういうことなのか、神の息子であるイエスがそれを教えてくれる。

復活した人、イエスキリスト

復活とは生まれ変わること

イエスは十字架に磔にされ、一度死んだにもかかわらず復活した人物である。イエスは目に見える神秘体験として地上で「悟り」を表現したのだけど、本当は心の中に起こることを伝えている。それは「悟り」を体験するとわかることでもある。

生きたまま復活することも可能である

「悟り」とは心が一度死んだあと再生することである。その内情の説明は難しいが、言葉で表現するとしたら「ナイフ」で心を刺され一度死んだあと、全てを知り復活すること。自分の心をナイフで刺すことはとても苦しい。このことについては、イエスもこう語っている。

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

マタイによる福音書 26章39節

十字架に磔になる前のイエスの言葉である。実際に磔にされたので苦しいのは当たり前であるが「杯を過ぎ去らせてください」と言っているのは、聖杯を獲得するための作業の苦しさを表現していると言える。イエスでさえ逃げたいほどの辛さなのである。

ナイフの正しい使い方について

ダ・ヴィンチは知っている

「絶望している男はどのように描くか」という問いに対して、ダ・ヴィンチは次のようなイメージを抱いていた。「絶望している男はナイフをふるい、両手で衣服をひきさいてしまったように描かねばならない。」と。

ナイフに関するダ・ヴィンチのこの言葉。絶望の縁に立たされたとき、ナイフをふるいながらも「自分の衣服を両手でひきさく」と表現しているのは、再生を意味していると思われる。これは、バルトロマイが皮を剥がされたことと同じ。

正しいナイフの使い方

絶望した時にナイフで人を殺めるのではなく、自分の手で自分の皮を剝ぐというイメージ。ダ・ヴィンチによるナイフの解釈は、絶望の中にありながらも人を殺めることのない心の強さ、その先にある心の「死」と「復活」、それが「聖杯」を獲得する為の道のりであることを知っているように思える。

間違ったナイフ(男性性)の使い方では聖杯を獲得できない(杯をひっくりかえす)。そうならないために、わたしたちは正しいナイフの使い方を心得、聖杯(悟りの智慧)を獲得する必要があるのだ。

ペトロの持つナイフ

最後の晩餐の中では、ペトロが右手にナイフを持っている。そのナイフの先がバルトロマイの方を指していることも意味深である。ダ・ヴィンチはバルトロマイこそが正しくナイフを使う人物であると教えてくれているのかもしれない。

バルトロマイは「悟って復活」した人物

肉体の「死」を経験することなく人間は「死」を体験できる。イエスはそれを肉体で表現し、奇跡として人々に知らせたのである。バルトロマイのアトリビュート(ナイフと皮)、頭上にある聖杯という事実は「復活」の表現としか思えない。以下にこれまでの途中経過をまとめてみる。

生きたまま皮を剥がされた伝説を持つバルトロマイは、死ぬことなく心の中の「復活」を経験しているのではないか。彼は殉教しているが「最後の晩餐」の中では頭上に聖杯がある。これは彼の「復活」を預言しているとも言えるのではないだろうか?

復活に必要なとある試練

最後の審判にバルトロマイの姿がある

バルトロマイの姿がミケランジェロ「最後の審判」の中に描かれている。絵の真ん中よりちょっと右下、剥がされた皮とナイフを持っているのがバルトロマイこの剥がされた皮はミケランジェロ自身とも言われている。

ミケランジェロの罪悪感

最後の審判を描いた時のミケランジェロの心境を以下のサイトから引用させてもらう。ミケランジェロは「最後の審判」を恐れながらこの絵を描いたようなのだ。

皮を剥がれて殉教した聖人バルトロマイにミケランジェロ自身を模した皮を持たせています。これは、自分が美術のために友人を裏切ったことへの罪悪感だと言われています。

当時、権力をほしいままにしていたメディチ家と市民の間で激しい争いが起こり、ミケランジェロの友人たちも数多く虐殺されました。だけどミケランジェロは芸術のためにメディチ家についたのです。

友人を裏切り芸術の道を選んだミケランジェロは罪の意識に苛まれ、「最後の審判」の時をとても恐れていたそうです・・・友を裏切った4年後にシスティーナ礼拝堂の最後の審判を描き始めているので、私たちは彼の後悔の念と引き換えに圧倒的な芸術を目にすることができているのです。

https://kaigablog.com/last-judgement/

審判を恐れるミケランジェロ

「最後の審判」の時に天国と地獄どちらに行くかの判断基準は、罪を背負っているかどうか。その罪とは罪悪感である、ということはこのブログで説明もしている。ミケランジェロは罪悪感という罪を持っていたから「最後の審判」を恐れた。

関連記事:原始の神と罪悪感

試練を乗り越えた白髭のバルトロマイ

脱いだバルトロマイと脱いでないバルトロマイ

最後の審判の絵を再び見て欲しい。皮を脱いだバルトロマイはスキンヘッドで白髭、皮の方は黒髪である。ミケランジェロが皮と自分を重ねたのは罪を背負っていたから。とすると、黒髪の皮の方が罪を持つ姿。そして白髭の方が罪を乗り越えた姿であると思われる。

重荷を下ろす鍵はナイフである

人間が背負った罪を降ろすためには、心の中の悪と向き合う試練を通過しなければならない。先ほどから説明してきた、ナイフを正しく使用し聖杯を獲得するための試練。それは、心の中にある自分への罪悪感をナイフによって消し去ることなのである。

白い髭の賢者

説明してきたとおり、バルトロマイは「聖杯」を手に入れている。罪悪感を消し去る強いこころ(ナイフ)を持ち、再生(皮を脱ぐ)した。

皮を脱いだ方の白い髭のバルトロマイ。白髭は老賢者を表し、老賢者は智慧を持つものの象徴である。ここにも「悟りの智慧」を持ったバルトロマイが表現されている。

罪悪感から逃げないアーティスト

罪悪感は秘密を知っている

ミケランジェロがバルトロマイの皮と自身を重ねていたのは、罪を下ろすための「智慧」を知るものがバルトロマイであること知っていたからであろう。

ミケランジェロは芸術のために権力側についた。それが罪悪感として彼にのしかかった。しかし、その罪悪感が名画「最後の審判」を生み出した。

偉大な芸術家は争わない

メディチ家と争うことなく正しい強さを発揮したミケランジェロは聖杯の秘密を知るものとしてふさわしい人物である。

本当の芸術とは自分を表現すること。争うことではない。ダ・ヴィンチもミケランジェロも作品でそれを表現してくれている。

現代のアーティスト

現代のアーティスト達が、権力に対抗することがアートだと勘違いしている。アートが戦争を起こしているし、自分の中の罪悪感から逃げている。言いたいことは山ほどあるがまた別の記事にしたいと思う。

輪廻からの解脱で永遠を得る

正しい心の強さで試練を乗り越え、聖杯を獲得する。つまり、罪悪感と向き合い続けることで最終的に再生が起きるのである。けれどそれは辛く苦しいものなので、人間は逃げ続ける。

しかし逃げずに戦い続けた人は、輪廻からの解脱という永遠をもたらす智慧を得る。西洋において聖杯を探し求める人々は「輪廻からの解脱」を探し求める人々とも言える。

関連記事:輪廻から解脱する方法

イエスの血が受け継がれた国

日本人は託されている

自己主張しないバルトロマイ

目立たなくて自己主張もしない黒髪のバルトロマイはどこか日本人と重なる。いつもイエスのそばにいたバルトロマイは神の真意を知っているはずだ。

イエスの近くにいる者

観光で当たり前のように神社仏閣を訪れる日本人。無信仰のふりをして、信仰のかたまりのようなところに行きたがる。八百万の神という日本的信仰は、目に見えるもの全てに神が宿っているという考え方。これはいつも神がそばにいるということである。

「最後の審判」の中でイエスの近くにいるバルトロマイ。そのイエスの目線はバルトロマイに注が れているように見える。イエスは日本人に本当の「復活」を託している。私はこれを今回の考察の結論としたいと思う。

考察の結論

本当の神の心を知る日本人が生きながら皮をぬぎ「復活」を遂げる。日本人は、イエスが成し遂げることができなかった本当の天国を実現することのできる力を持つのではないだろうか。

背負った重荷を下すことができるのは、日本人の内に秘められた強さだけなのかもしれない。日本という国を観察していると、私はそう感じるのだ。

関連記事:「AKIRA」から学ぶ金田の強さ

「復活」には地獄が必要

地獄にヒントがある

右(天国)と左(地獄)

最後の審判の絵の中でイエスが手を上げている方が右側で、天国へ引き上げられている人達。左側が地獄へ落ちる人達となっている。英語の「right」は「正しい」という意味。これは古代ローマ人たちは右が善、左が悪という認識を持っていたことから来ている。

三途の川を渡った先には

絵の下の方を見てもらいたい。左側の地獄に落ちた人々が船に乗り、右側の大地にたどり着くことができれば天国に上がることができる。天国と地獄の間にはイエスが磔にされた十字架がある。これは「死」を経験し「復活」した者だけが天国へ行けるとの表現であろう。

地獄経由天国行き

「復活」には必ず地獄で「死」を経験する必要がある。罪悪感と向き合う辛く苦しい試練の先に「悟り」があることを表している。ダ・ヴィンチ・コードの続編「インフェルノ」のことを調べているときに、ダンテの「神曲」という叙事詩が、そのことを表現していると知った。

地獄の先には「復活」があるということ。これがどういう意味なのかは別の記事にまとめたいと思う。もしも、世界を救う気持ちがあるのならば、まずは地獄のことを知ろう。次回「インフェルノ」から学ぶ地獄編をお楽しみに。

おわりに

西洋と東洋の知恵

最後の晩餐の聖杯にまつわるはなし、2ちゃんねらーが絵の中に聖杯を見つけたはなし。なんだか、これが西洋と東洋を表しているとしか思えない。

シンボルを用いて気づきを与えてくれる西洋の力。もともとあったものを見つける東洋の力。真理(聖杯)は、相反するものを正しい目で見ることができる人のものであると信じている。

信じることがすべて

今回のバルトロマイ考察は私の想像に過ぎないけど、結局は信じることが大切。日本に救世主が現れるとしたらバルトロマイのように強さを持って、皮を脱いだ人である。

そんな人が日本に増えることを願って。2ちゃんに書き込んでくれた人のおかげで楽しい考察ができた。ありがとう見知らぬ誰か。わたしのためにネタ投下してくれたのかも。