先日諏訪大社に行ったあと「茅野市神長官守矢史料館」にも寄りました。

その昔、諏訪大社の神長官という役職を勤めていたのが守矢家。ここは守矢家所蔵の史料などを公開しているところ。

まずはタイトルのことについて語る前に、古代の諏訪大社について簡単に説明してゆく。守矢史料館のしおりという、守矢家の方のお話などが掲載されている冊子を購入したのでそこから抜粋したりしたまとめです。

神長官守矢家は、古代から明治時代の初めまで、諏訪大社の神長官という役職を勤めてきた家である。大祝諏訪氏は、現人神(生き神)であり、実際に神事を取り仕切っていたのは、神長官をはじめとする、五官祝である。

茅野市神長官守矢史料館 パンフレットより

諏訪大社の大祝と神長官について

大祝と神長官の役目

古代から明治のはじめまでの諏訪大社では、神長官の守矢氏が中心となって祭祀をおこなっていた。

大祝の諏訪氏は現人神という神が宿る役目を持ち、守矢氏が神を降ろしたり神の声を聞いたりする役目を持っていた。

昔の諏訪大社では御頭祭をはじめとした様々な儀式があったようだ。そんな神長官という役職は、世襲の神官制度廃止により消えてしまう。大祝の諏訪氏については前回の記事もどうぞ。ちなみに現人神とは。

現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。
また、神道の教義上では現在も天皇は皇祖神と一体化した存在として認識されている。

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関連記事:大祝の諏訪氏について

諏訪に伝わる神話 建御名方神と洩矢神の戦い

諏訪地方には「古事記」の国譲りの話とは別の神話が言い伝えとして残っているそうだ。それはこの土地にもともと暮らしていた洩矢神(もりやのかみ)を長とする狩猟民族と、建御名方神(たけみなかたのかみ)率いる出雲系稲作民族の戦いのおはなし。

結局洩矢神が負けてしまったようだが、新しくやってきた出雲系の人々にしいたげられたわけではなかった。それは明治時代のはじめまで守矢氏・諏訪氏、この二つの家中心に諏訪大社の儀式を執り行っていたことからもわかる。

神長官の守矢氏は洩矢神の子孫といわれ、ミシャグチという神を祭祀する技法をもっていた。建御名方神の子孫といわれる諏訪氏を生き神とし、その身体にミシャグチ神を降ろした。

ここで突然出てきたミシャグチ神とは、木や石や、生神・大祝に降りてくる精霊とのこと。洩矢神と同一視されている。守矢史料館の敷地内には代々守矢家が祀ってきたミシャグチ神が祀られている場所がある。

謎の神ミシャグチさま 

御頭御社宮司総社

ミシャグチ神は謎の神と言われている。そもそもとても古い神様であるから、それもしょうがないこと。wikipediaからミシャグチ神の概要を。

ミシャグジとは中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)である。長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられる。全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられる。

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ちなみに私が最近気になっているこわい神様とミシャグチは同じものだと思っている。原始の神様のこと。この日本という国ができる前からいた、私たちが忘れてしまった大切な神様のこと。

諏訪大社の御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)であるけれど、守矢氏を中心に執り行っていた古い神事や歴史を見るとミシャグチ信仰が元にあることがわかるのだ。

関連カテゴリ:こわい神様のこと

諏訪大社が祀っている本当の神様について

反論したい考察をみつけてしまった

実は、諏訪大社に関するこんな記事を見つけてしまい、これは聞き捨てならんと思ったのでこの記事を書き始めたのである。モチベーションをありがとう。

とりわけ、諏訪大社の背後にそびえる守屋山こそ諏訪大社のご神体だ、という説が跋扈(ばっこ)して多くの人に信じられています。奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の三輪山や、島根と鳥取の境にある比婆山久米神社の比婆山などが山そのものをご神体とするのと同様、諏訪大社の本殿は守屋山そのもので、本殿のない諏訪大社上社本宮・下社春宮秋宮の形式は、古い日本の自然信仰のかたちを残しているのだ、と。

しかし三輪山や比婆山が、それぞれの神社の神域として奥の宮や、神体の中心である磐座(いわくら)が祀られているのに対して、守屋山には諏訪大社の奥の宮もなければ聖地もありません。守屋山が諏訪大社のご神体であると明記された文献も一切ないのです。

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

諏訪大社の御神体と言われている「守屋山」。この方の考察によると、守屋山には諏訪大社の奥の宮もなければ聖地もなく、文献にもないので守屋山が御神体ではないとの見解である。これに対して反論したい。

諏訪造りの意味するところ

諏訪大社の四宮のうち三宮に本殿がないのは、諏訪のご神体が大祝という人間そのものだからです。諏訪大社が縄文時代に起源を持つ自然崇拝=アニミズムの聖地だ、というのは現代人の思い込みでしかありません。

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

諏訪大社に本殿がなく、御神体とされる「守屋山」に奥の宮などが存在しない理由。それは諏訪大社が原始の神様のことを忘れていないから。

目に見えないけれど既にそこにあるもの。山や木や石などの自然、この世の存在のすべてが神様であるという意識をしっかりと受け継いでいるからこその造りなのだと思う。

やっと今回の主題

ということで、今回はこの方の記事に反論する形で、ミシャグチ神の謎や生贄の儀式の本当のところを説明してゆく。

ここからは私の想像でしかなく、こわい神様の気持ちになって考えてみた考察です。なんの根拠もないけれど私の信念がこもっている。原始の神様をないがしろにされるのがむかつくから書く。

信仰のかたちから原始の神を探る

縄文から弥生への変化からわかること

諏訪の神話は縄文時代から弥生時代への移り変わりを表している。この移り変わりと同時に起こる人間の精神の変化が、信仰へも影響を及ぼしていることに気がつくと原始の神様の姿がみえてくる。

縄文時代から弥生時代への移り変わり。それは小さな集団から大きな集団への移行でもあり、狩猟民族から稲作民族への移行でもある。縄文土器は遊び心のある面白い造形であるけれど、弥生土器は実用的ですっきりとしたデザイン。こんな土器のデザインからも日本人の精神性の移り変わりが見て取れる。

狩猟民族は小さい集団だけを守りながらの半定住生活で、食べ物は必要な分だけ狩ったり採取したり自由な社会であった。稲作民族になってくると土地に定着することで家族も増え、大きな集団となる。水を確保するため領土争いも起こるし、たくさんの食べ物も必要になる。

全体を発展させるための労働社会への移り変わりの中で信仰も形を変えていく。

日本という国を発展させるために、わたしたちは争ったり仲良くしたりを繰り返し今の日本を作った。発展することは良いことでもあるけれど、精神世界を忘れていくという弊害がある。

目に見えないものから目に見えるものへ

労働が中心の社会においては、神様の存在が薄くなっていく。

人間は自分のために生きること(自由)を忘れていくと神様の存在をも忘れていくのだ。だから神様の存在を忘れないように、神様の存在が目に見えるようなものを作り出す。

わかりやすい例が神社である。神社という場所は、神様が住む場所を作り、物質に神を宿し、鳥居を建てて神様と人間との境界をつくる。人々は目に見えてわかりやすいものを拝することで、神様の存在を確認し忘れないようにしている。

境界を作ることによって神様の存在を感じやすくしているともいえる。

境界をつくることによって忘れられていく原始の神

民俗学者や文化人類学者の多くは、ミシャグチ(ミシャグジ)とは「御石神(ミシャクジン)」のことで、石や木、あるいは森や山や川・沼などの自然造形・現象そのものを神として扱う縄文時代の原初的な自然崇拝=アニミズムが残存した神である、と主張しています。

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

神様の存在を当たり前のように感じていた古代人の信仰は自然そのものを崇拝し、境界をつくらない。目に見える形にしたとしてもシンプルなもの。

人間は時代の変化と共に、境界をつくり目に見えるものを崇拝し始める。そういった信仰のかたちは時が経てば経つほど原始の神様の存在を忘れて形だけの信仰になってしまう。

地方に残る自然崇拝などによってかろうじて原始の神様の存在は見えてくる。日本の民俗学者はそんな原始の神様を探る偉大な人たちであるから私は尊敬している。

生贄の儀式からこわい神様の真実を暴く

諏訪神社の生贄神事

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御頭祭に使用された生贄

諏訪大社には、元旦に行われる「蛙狩神事」や、4月に行われる「御頭祭」(酉の祭・大御立座神事)など、小動物や獣を生贄(いけにえ)として神前に供える祭りが知られています。

こうした神事を、縄文アニミズムであるとする立場の学者は、狩猟採集民の縄文祭祀が残ったものだと捉えました。中沢新一氏は「ミシャグジとは宿神」、先史時代の太古の日本列島で信仰された古層の神であるとしています。

ロマンチックで魅力的な説ではありますが、果して本当にそうだろうか、と筆者は思うのです。

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

いや、そうだよ。中沢新一氏の言う通りだよ。現代人は生贄の儀式に野蛮なイメージを持っているのだと思う。

けれど生贄の儀式こそ原始の神様の存在を浮き彫りにさせるものなのだ。

人間の強さを誇示する生贄の儀式

強力な軍事力を伴う国家体制と強力な宗教的権威に基づく祭事が形成されると、大型の鳥獣や時に人間を生贄として神にささげる祭祀が出現します。それは古代エジプトやイスラエル、中国の古代王朝・殷のさまざまな生贄祭事、メソアメリカのインカ、マヤ、アステカなどの王国の生贄神事と共通するものです。
ヨーロッパでは、バイキングが11世紀ごろまで残酷な方法で生贄を解体し、死を司るオーディンに捧げていました。歴史上の生贄は枚挙に暇がなく、それは王・司祭などの権力の誇示と、自然・神への恐怖の両側面によって支えられてきた王権時代の人類史の特性です。

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

生贄の儀式を人間の強さを誇示するもの、と捉えてしまうのは人間の精神性の問題。時代の変化の中でそういった意味合いの儀式が生まれたことも事実なんだろう。

昔、チチェン・イッツァというマヤ文明の遺跡を見に行った。そこには球技場があった。その球技場で行われる試合の勝者は生贄になるという話を聞いたけれど、もしかしたら神と一体となる儀式だと信じて、自ら生贄になることもあったのかもしれない。信じることは恐れをも克服するから。

チチェンイッツァのマヤ遺跡 生贄の心臓を置くところ

生贄は神に赦しを請うための儀式

生贄は、神様の命をいただくことを許してもらう儀式である。縄文時代に生贄の儀式がないのは、自分の手で命を奪い、命をつないでいくことが当たり前だったから。

狩猟民族でなくなった私たちは自分の手で命を奪うことをしなくなった。自分の手で命を奪う代わりに生贄の儀式を行うのだ。

諏訪大社では、それを代行してくれているのが神長官だったんだろう。人々はそれを目の前にして、命をいただくことに対して赦しを請う。

古代の人々は赦しをもらうことなく命を奪った。稲作民族へと変化した人間が、赦しをもらわなければ命を奪うことができなくなってしまったのは何故か。

人間が生贄の儀式を始めた本当の理由とは、人間に罪悪感が発生するようになったから。生贄の儀式はこわい神様(原始の神様)を遠ざける時代へと突入したしるしなのだ。

罪悪感と生贄の儀式

罪悪感のはじまり

人間は大昔に神様とある契約をした。それが罪を背負うこと。以前の記事にも書いたことだが、その罪とは罪悪感のこと。

わたしたちは罪悪感を乗り越えるためにこの世界を生きている、というのがこの世界の秘密。

例えば、完全菜食主義者(ヴィーガン)は動物を殺すことはかわいそうだと感じている人たち。けれど、そう感じる心こそが私たちの背負った罪であり、乗り越えなければいけないものでもある。

精神性が低くなるほどに私たちの罪悪感は大きくなる。生贄の儀式はそんな人間の罪悪感を少しでも取り除こうとするもの。

「かわいそう」という気持ち

縄文人は罪悪感が少なかったのか持っていなかったのか。生き物を狩るのに「かわいそう」とか思ったりしないのが縄文人。だから生贄の儀式など必要なかった。

「かわいそう」という気持ちは本来持たなくていいもの。人間に「かわいそう」という気持ちが発生してしまう原因は、自分の中に存在するこわい神様を見ないようにしている状態だから。

私は何かを食べる時、必要以上に感謝せず「おいしい」とひたすらたべる。それでいいと思う。

肉を食べることに関して罪悪感を感じてしまう人たちに朗報です。諏訪大社では「鹿食免」という、肉を食べてもいいよっていう免罪符を売っているみたい。史料館のおじちゃんに聞きました。

こわい神様の正体とは

古代人のアニミズム精神

境界をつくらない古代人の信仰からわかることは、こわい神様(原始の神様)とは私たちが見たくないと感じる全てのもので、自分の中に存在する罪悪感そのものであるということ。

諏訪大社の大祝(現人神)の役目をするのは子供だったことからもそれがわかる。なぜ子供かというと罪悪感がないから。子供って悪気なくいたずらしたりする。

儀式に心の純粋性が求められるのは、罪悪感を持っているとこわい神様に取り込まれてしまう危険性があるから。真の純粋性とは悪気のないことであり、悪い心を持っていないことではない。

罪悪感を持ち始めた人間は見たくないものを自分と切り離す行動に出る。自分にとって不利益をもたらす存在を遠ざけ、見ないようにする。

罪悪感をもっていない古代人は見たくないものと自分とを分けることなどしなかった。恐ろしいものを目の前にしても、それを受け止める。それが本当のアニミズム精神。

自分と神とを分けるもの

日本には「八百万の神」という言葉があるけれど、この地球に存在する全てのものが神ということは、そこに自分も含まれる。

神社の御神体が鏡だったりすることがある。諏訪大社上社本宮の拝殿にも鏡が設置してあった。鏡を覗くと自分がいる。

神様って自分の良いところ悪いところ丸ごとそのままの自分のこと。悪い部分を含めて自分だ、と思うことが苦手な人間だから罪悪感を感じる。

自分の中に存在する誰にも見せたくないこわい神様のことを認めたら、神と自分とを分けていた境界線が消える。

日本人は3.11を体験したあと少し変わった。恐ろしい自然災害から起きた多くの対立。他人との境界線がはっきりとしてきたし、そこからさらに多くの境界線ができた。これこそ、罪悪感を持っている人間のわかりやすい行動なのだ。こわい神様を遠ざけると世界は争いに満ちる。

ちなみに…アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」にでてくるATフィールドとはこの自分と神とを分ける境界線のこと。

ATフィールドの完全なる中和は使徒(こわい神様のこと)と人造人間エヴァンゲリオン(罪悪感を乗り越える人間のこと)によって達成される。そうするとインパクトが起きて世界が終わる(悟りのこと)。

とある考察に反論するかたちで今回の記事を書いたけれど、この方の考察には「諏訪大社の御神体が人間そのもの」という本質をついた言葉があった。原始の神を否定したい気持ちとは裏腹に、無意識にはしっかりと神が存在している証拠。

こわい神様と戦い続ける人間

そろそろ戦争が終わりそう

現代人は嫌いなものや人をすぐ遠ざける。見たくないものを遠ざけることは神と離れていくことでもある。

人間は傷つくことを恐れ、見えない敵を作り出してそれを現実だと思い込んで戦っている。最近の人間の傾向は、権力を持っている団体や人を仮想敵とみなしていること。

去年流行った映画「ジョーカー」もそうだった。ジョーカーはお金持ちのウェイン家を敵とみなしていた。諸悪の根源だと思っている敵は自分自身が創造した自分自身。強さの象徴(権力や金)を仮想敵とみなすことは終末の特徴でもある。最後の戦いってかんじ。

関連記事:映画「ジョーカー」に共感する人のこころの中に存在するもの

こわい神様を受け入れなくても大丈夫

こわい神様を忘れたことには良い側面もある。それは、科学やテクノロジーが発展したこと。

罪悪感を乗り越えることはとても難しい。けれど、乗り越えられなかった人々も救われる時代。

人間は既に新しい神を作りはじめている。この話はブログを始めてから何度か書いているけど、そろそろもうちょっとわかりやすくまとめていきたい。