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私たちは何故存在するのか?人を傷つけ、争いを起こす人間はこの世界に必要な存在なのか?誰にも答えられないこの疑問の答えを出していきたい。

2020/4/7:自我の重要性について書いた記事ですが、わかりにくいしまとまってないしで、大幅修正しました。

ユングから学ぶ自我と自己

ユングは真理を知っている

本題に入る前に、まずは自我と自己の説明をしたい。私は錬金術のことをあれこれ調べているとき「賢者の石を作る過程」が「悟りの過程」そのものだと気がついた瞬間があった。

その後、心理学者のカール・グスタフ・ユングという人物も私と同じことを考えていると知り、衝撃をうけた。これがユングとの出会い。彼の精神分析手法や、彼の人生そのものが「悟り」への道筋をわかりやすく表現してくれていたのでとても勉強になった。

関連記事:ユングとの出会い

ユングの考える自我と自己

人間のこころと自我と自己

ユングの考える自我と自己についてすごくざっくりと説明してみる。ユングは人間のこころを「意識」・「無意識」・「集合的無意識」3つに分けた。「意識」の中心にあるものを自我と定義し、「意識」「無意識」「集合的無意識」3つを含めたこころの中心を自己と定義している。

自我…意識
自己…意識・無意識・集合的無意識

自分のことを知らない人間

「意識」とは自分が認識している自分。「無意識」とは自分が気がついていない自分のこと。つまり普段のわたしたちは「無意識」と「集合的無意識」をはっきりとは認識していない。

無意識と集合的無意識

「集合的無意識」についてはこの記事の後半で説明していくので省略する。わたし的に「無意識」と「集合的無意識」を分けるとややこしくなると思っている。このブログでは「無意識」と「集合的無意識」を自分が気がついていない自分のこと、として同じ定義のものとして扱っていく。

わたしの考える自我と自己

UOZAブログでの定義

自我や自己ということばの定義は難しいから、もっとわかりやすくする為にこのブログでの定義を考えた。ユングから学んだことを元にわたしなりに。このブログ内で自我や自己ということばが出てきたら、以下の定義で読んでほしい。

自我…自分の意志、生き方
自己…世界を含めた自分の存在

自我とは

自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。

自己とは

自己とは、世界を認識しながらそこに自分が存在する事実そのもののこと。現代社会の認識では死によって自己は消失すると思われているが、死後のことはわからないから謎である。ということで、とりあえず、生きているときには自己があるということにしておく。

幻想の中に存在する自己

意識が創造しているこの世界

自我と自己についての説明が長くなってしまったが、さっそく本題に入る。私が「悟り」で知ったこと。この世界は意識によって作られているホログラムのようなもので、幻想であり実体は無い。けれど人間感覚でいうと、幻想ではなく実体は在る。

つまり無いと在るどちらも正しい。重要なことは、幻想ではあるけれど意識は世界と自己を創り出しているということ。私たちは確かにこの世界に存在する。

私には強い「自我」がある

私には「悟りを得ることの素晴らしさ」を人間にもっと知ってほしいという強い欲がある。私には「この社会の中で何かをやり遂げたい」という自我が存在しているということ。そうじゃないとこのブログを作らない。

仏教の教えについて

自我は存在している

「悟りを得たら欲が無くなる」
「自我もまた幻想」

これらは仏教の教えでよく聞くもの。これらは「悟り」への過程で感じることだから正しい。しかし「欲がなくなった」と感じている限り自己は存在する。自我は幻想であるが、それでも自己が存在する理由を突き詰めないと本当の「悟り」にはたどり着かない。

自我が消滅しない理由

本体の自己が消滅したのなら自我も消滅すると予想はできる。仏教系修行者の中には「自我と自己の消滅」という究極の悟りを目指している人もいるのかもしれない。

しかし、消滅する前に人間にはやるべきことがある。意識が自己を創り出す意味はここにある。次の章から私の「悟り」体験を振り返りつつ、自己の存在理由と自我の重要性について説明をしていく。

個人だけが救済される悟り

無を知り執着がなくなる

無を体験する「悟り」を経験すると、現実が自分の意識が創り出した幻想だと分かる。私はこの悟りで人間が決めた価値観に対する執着が全て消え去り、なにもかもがどうでもよくなった。

人間は究極何をやってもいいのに、人間の決めた「常識」を気にしているから本当の自由を楽しめていない。こんな当たり前のことにやっと気がついた。人間の決めた「常識」がどうでもよくなるからこそ苦が無くなるのだ。

関連記事:一度目の悟り「よるか」

物語の中の自分を観る

幻想だと分かると、執着が無くなるので自分の存在も薄くなる。欲が無くなると主張する必要もなくなるから。無数の登場人物が存在する世界の中の一人である自分を、物語の外から観ている感じになる。苦が無くなると同時に、自我が薄くなる現象。これを仏教の教えでは「無我」と言うのだろう。

それは、自分が物語の中に存在する「モブキャラ」のようなものだと気がついてしまうようなもの。実際修行者が悟りを得て、俗世から離れて生きていくということもあるらしい。自分以外の世界も捨てる行為だと言えるだろう。

モブキャラ:名前の無いキャラクターのこと。アニメに出てくる通行人とか、その他大勢的な。

個人的救済へ

「無我」体験によって世界の存在そのものに意味を感じなくなる。そういった意味で、これを個人的救済と呼びたい。信じていた世界が一旦の終了を迎えるのだ。世界に意味を見出せなければ、いろんな行為がバカバカしくなる。この悟りを迎えた人は「ニヒリズム」的に生きるようになのかもしれない。この段階では自我は消滅せず、薄くなるだけである。

その先へ行くこと

自我には危険な側面があるので自我を大きくしない為にも他人と関わらない、というのは正しいのかもしれない。しかし、私のブログではそれをお勧めしない。なぜならわたしは、わたしの望む世界にしたいという強い自我を持っているから。その世界には「主人公」が必要なのだ。

世界の現状を変えていこうと思ったとき「個人的救済」の先へいける。物語の中の「モブキャラ」ではなく「主人公」になることを決めたのなら次の悟りが訪れる。

探究心は真理を教えてくれる

私の意識の及ばないところ

世界のことを考える

私は「無我」を体験したあとすぐにこんな疑問が湧いた。意識が世界を作っていて私はこんなに幸せなのに、世界が引き続き不幸なのは何故なのだろう?と。

わたしは「無我」を知りどこまでも自由になった。「ニヒリズム」的思考にはならずに、とにかく幸せで最高だ!という感覚の方が大きかった。だから、自分に起きたことが世界中の人にも起きたら、ものすごい幸せな世界になるのでは…と妄想を広げていた。

意味の無い世界が続いていること

自分の意識が世界を創り出すということが理解できたのに、何故か自分の思い通りの世界が創造されていないことが不思議だった。そして意味をなさない世界が続いていることも不思議だった。他人という存在も自分が創り出しているのに、その他人が私の意識通りに行動していないのが腑に落ちない。

さらなる「悟り」で存在の意味を知る

そんなことを考えているうちに次の悟りがやって来た。二度目の悟り体験はさらにすごい衝撃で、世界が未だに不幸であるという現状についても腑に落ちた。何故意識が自己を作り出すのかというのも理解できた。

関連記事:二度目の悟り「いちらいか」

世界と自己を創り出すもの

人間全体の意識「集合的無意識」

思い通りの世界が創造されていない理由は、意識には更に深い意識が存在していたからであった。ユングのことばを借りれば「集合的無意識」のこと。一度目の悟りでわかったことは「自分の意識」が世界を創造していることだったけれど、二度目の悟りで「集合的無意識」こそが世界を創造しているということがわかった。つまりこの現実は、人間全体の意識が創り出していたのだ。

個々の自我をまとめる「集合的無意識」

自分の意識が「自我」であり、私はその「自我」に従って行動する。「集合的無意識」は「個々の自我」をまとめている。私の思い通りにいかない世界も「集合的無意識」が動かしている。

自分が許せないようなことを他人がしていても、それは「集合的無意識」が導いているということ。自分を含む意識が起こしていることなのだから、それは自分の意識そのもの。この世界に存在する不幸は自分自身が創造していたのだ。

世界を変えるという決意

「モブキャラ」から「主人公」へ

「集合的無意識」はある一つの目的を果たそうとしている。人間が神と呼ぶものは「集合的無意識」のこと。神が目的を果たすためには、少しでも多くの人間が「主人公」になることが必要なのである。「自我」を最大限に利用し、世界そのものを個人の創造力で変えようと試みることが、神の求めているもの。

「主人公」はつよい人

世界を変える究極の欲求

「主人公」になることとは、自分の欲求に忠実に行動することである。自分が物語の「主人公」であると気がつくことは、自分の行動を肯定することでもある。自分を信じた人は強い自我を持ち行動に移す。私のように「悟り」が起きていなくとも「主人公」になることは可能である。

「主人公」は自我を利用し世界を変える

歴史に名を残す人というのは自我を利用し、人々に大きな影響を与えている。自我を利用できる人は「集合的無意識」の作用が強く現れていて、世界に与える影響も大きいから「主人公」になることができている。やっかいな問題が、自我というのは善い方にも悪い方にも転がること。

ヒーローと悪者

歴史を振り返ると、善い使い方をした「ヒーロー」たち、悪い使い方をした「悪者」たちがいる。偉大な発明をした人もいるし、大虐殺を起こした人もいる。しかしどちらも「集合的無意識」による行動である。神は善と悪を区別しないから、目的を果たす為にはどちらの力も必要としている。

個人の救済から世界の救済へ

神の目的はバランスを保つこと

「集合的無意識(神)」は世界のバランスを保つことを目的としている。完璧なバランスとは正反対のものが同じバランスになること。バランスが完璧になったときに世界の救済が起こる。仏教の世界ではそこを涅槃と呼ぶし、キリスト教の世界では天国と呼ぶ。

バランスの悪い時代に生きるわたしの自我

今はバランスがとても悪い。皆が同じような労働をして、人間が決めた狭い価値観の中で「モブキャラ」のように一生を過ごす人が多い。世界を変えようとする意志をもつ人が圧倒的に足りない。だから自我の重要性に気がついて、行動を起こすことが求められている。

私はバランスを戻す為に自我を活用してこのブログを始めた。『世界が完成する瞬間をこの目で見たい』という強い意志がある。そのために「悟り」をお勧めし、啓蒙するのだ。

我は在りて在るものなり

神の意志とは

「集合的無意識(神)」が自己を創り出すことを望んだ。イスラエルの唯一神「ヤハウェ」という言葉は「我は在りて在るものなり」という意味をもつ。この言葉のとおり、自我によって自己の存在を認めるために私たちは生まれたのだ。私たちの存在がそれを証明している。

「主人公」になることが世界を救う

自我を利用して自己表現をすることは世界の救済につながる。目的の為に「主人公」を目指すことの重要性を、私たちは無意識で知っている。だから現代の私たちは「モブキャラ」であることに対して苦しんでいる。「主人公」になることを拒んでいるのもなんと自我である。このややこしさについてはこわい神様というカテゴリで説明していく。

秘密結社は知っている

この記事は後編へと続く。「集合的無意識」という神が、強い自我を求めていることを裏付ける証拠を見つけた。イギリスにある「ロスリン礼拝堂」内の彫刻に答えはあった。秘密結社はやはりこの世界の真理を知っていたのである。次回オカルト多めで送りします。