UOZAブログのルール

2018年から始めたこのブログ。自分なりの書き方ルールが定まってきた。「解脱したい人」の為のブログであるから、わたしは「解脱」を目指す人のために全力を尽くしたい。(ブログの中だけで疲れない程度に…。)

「解脱」への道は誰にでも開かれていて、特別なものではない。目指していれば必ず解脱できる。だからこそ、このブログは誰にでも読みやすいものにしたいと思っている。

難しい言葉を使わないようにしたり、日本語を大事にしたり。それから、わたしなりの「言葉の定義」は一番大事。「言葉」の意味の捉え方は人間によって様々だから。

ルールを理解してもらった上で読んでもらえれば「解脱」への理解が深まるはず。ぜひ目を通してください。

文章の中のルール

太字の文章

これはそのまま。大事な文章だと思うところはこのシンプルな強調を使っている。本当は全部の文章を強調したい…。

青い背景の文章

この青い背景を使用した文章は、その記事の中で一番言いたいこと。その記事の結論などは、この青い背景を使用しています。

黄色の背景の文章

別の記事内で「青い背景を使用した文章」だったものを引用した時に、この黄色の背景を使用しています。再利用している、ということ。別の記事の中では「一番大事な言葉」なので、その記事の中でも一応大事な文章である。

緑の背景の文章

この緑の背景を使用した文章は、青い背景にするほどではないが、その記事の中で大切なこと。この緑の背景の定義はまだ曖昧なところもあるので、いつかしっかりと決まるかもしれない。

言葉の定義

はじめに

このブログの中で何度も使う「言葉」にはわたしが決めた定義がある。まずは、このブログで一番使う言葉、「解脱」と「悟り」の違いをはっきりとさせておきたい。「悟り」と「解脱」を分けて考えることで「解脱」しやすくなる。

現代では「悟り」を体験する人は多く存在している。しかし、多くの人が「悟り体験」に捉われ「解脱」できていないことが問題である。あいまいな「言葉」の中身をはっきりとさせておけば、自分がどこにいるのかを確かめることができる。

解脱の定義について

人間の最終目的

まずは世間一般の「解脱」のイメージについてwikipediaからまとめてみる。

もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。

wikipedia

『解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。』

ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である。これら4つの目標はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。

wikipedia

『ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である』

仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること。

wikipedia

『煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。』

ヒンドゥー教や仏教で『最終目標・人生の目的・自由の境地』と説明されるように「解脱」とは人間という存在の「最終目的」であることがわかる。

生きること

では人間の「最終目的」とは何か?『人間の存在意義を完全に知ること』である。さらには「人間の存在意義」とは何か?人間は『生きるため』に存在しているのである。

「生きること」について本質的に理解している人は殆どいない。「生きること」がどういうことか簡単に説明すると、この厳しい現実世界の中で自分を救い出すこと。この『生きることの真意』については「解脱」することができないと、身をもって実感できないと思う。『解脱する瞬間』が『自分を救う瞬間』になるのだから。

罪悪感と現実世界

「解脱」するためには、人間の中に必ず存在している「罪悪感」を消すことが必要になる。人間は意識的にでも無意識的にでも「罪」を犯していることに対して「罪悪感」を持っている。だからこそ「恥ずかしさ」や「怒り」や「苦しみ」を感じる。

「生きること」が苦しいのは現実世界が存在しているからでもある。「罪悪感」を持っているからこそ「苦しみ」をもたらす現実世界が創造され「輪廻」も発生している。つまり「罪悪感」を消し去れば「輪廻」から抜け出すことができる。

解脱の定義

自分の中の「罪悪感」を完全に消し去ることで「輪廻」から抜け出すこと。そのうえで「生きること」の真意を知ること。

「罪悪感」を消す方法を理解して「生きること」の真意をはっきりと言葉で説明できて、「死」を迎えるまで「正しい生き方」をまっとうすること。これができれば「解脱」している。

結果として現れる解脱

ここまで「解脱」の定義を説明してきたけれど、実際に「解脱しているかどうか」は「死」の後に結果として分かること。生きている間はあくまでも「解脱することが約束されている」だけ。

このブログを書いているわたしは、たまに記事内で『わたしは解脱した』と書いているが、実際には「解脱することが約束されている」ということになる。毎回このことを説明していると文章の量が多くなってしまうので、こちらの記事ではっきりとさせておく。

解脱したかどうかを判断するのは自分

『わたしは解脱した』という言葉に対して、顔をしかめる人もいるかもしれない。けれど「解脱しているかどうか」は他人が判断して決めることができないものである。「解脱したかどうか」を判断するのは自分自身。本質的には世界には自分一人しか居ないのだから。

「解脱したかどうか」を「解脱していない人」が判断するのは難しいことだから、このブログで解説していく予定の「解脱する為の情報」は信じてもらうしかない。

間違った解脱の定義

世間の「解脱」の定義として間違っているものが二つある。「悟り」の定義の説明に進む前に、確認しておきたいこと。

『無我を知ること』…この世界は幻想であるとか、この世界はそもそも存在していない、とかいう考え方のこと。それを知るだけでは「解脱」にはならない。これらは次に説明する「悟り」の段階で知ることである。

『愛によって全てが存在していること』…これは、本来「解脱」してからわかること。理解する前に「愛」の大切さを知ることはとても簡単なこと。「解脱」しなくても誰でも知っているものだから、「解脱」できているとしたら安易に「愛」の大切さを説くことはしないはずである。「愛」とは実はすごく怖いもの。

悟りの定義について

神秘体験のようなもの

「悟り」とは「解脱」の前段階である。「悟り」のことを、一瞥体験・覚醒・ノンデュアリティ・ワンネスなどと呼んだりもする。

突然にやってくる「悟り体験」は「宇宙」と一体化したりだとか、「無我」を感じたりだとか、「愛」というものを体験する感動的なものだったりとか、とてつもない「幸福感」を感じるもの。この世界のことがなんとなくわかってしまうような体験でもある。しかし「一瞥」という言葉の意味からもわかるように、「悟り」とは「解脱」という状態を少しだけ覗き見ること。

苦しみの原因を知ること

「悟り」が起きるとその感動的な体験によって「苦しみ」が無い世界を知る。「苦しみ」が起きる原因が「現実世界」に惑わされている「自分自身」であると、初めて知る瞬間なのである。

「解脱」した状態は輪廻から抜け出すこと。つまり人間に「苦しみ」を与える「生きることそのもの」から抜け出すこと。しかし「悟り」状態では「罪悪感」が現実世界を発生させる『苦しみの大元』であることには気がついていない。「現実世界」は自分を惑わせる幻想である、と考えることによって「苦しみ」は消える、ということに気がつくだけである。

悟りの定義

自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつくこと。しかし「苦しみ」をもたらす「現実世界」が創造される原理を理解していない。

「悟り体験」してみればわかるけれど、その後も自分自身に「苦しみ」は続くし、目に見える世界にも「苦しみ」が存在する。自分に未だ「苦しみ」をもたらす現象の意味や、世界そのものに「苦しみ」が無くなっていないことについて説明できない。

全人類の「苦しみ」が無くなる方法を理解できることが「解脱」なのである。「解脱体験」では輪廻から抜け出たことに対する無限の「幸福感」を体験できる。「一瞥」と「無限」は全くの別物。

悟りを解脱と取り違えている人

「悟り」が起きたことで『最終目的を達成した』と勘違いしている人も多い。世界に起きている困難や苦しみを「無視」して自分だけの幻想的な世界を創り出している人がそれである。

「悟り」が起きてしまうと自分に生まれる「苦しみ」を上手に避けることができるようになる。だから「幸せ」を感じやすくなる。それは良いことでもあるけれど「解脱」からは遠ざかる行為。

例えば今は世界中で「新型コロナウイルス」が猛威を振るっており、経済が大打撃を受けたり暴動が起きたりもしているが、そういった問題を『自分とは関係ないもの』として見てしまう。

自分だけは幸せを感じて、世界に存在する「苦しみ」から目を背けているのが『悟ってはいるが、解脱できていない』人々。世界に存在する「苦しみ」を見ないように、感じないようにすることが人間の心の弱さである。その方法は一時的には自分を救うけれど、現実世界そのものにどうしようもない困難が訪れた時には心が崩壊してしまう。

神秘体験ではない悟りや悟りっぽいもの

ちなみに、神秘体験のような「悟り」が突然やってこなくても、人生の中で学びを得て「苦しみ」を上手に避ける方法を会得する人もいる。そして、「悟り」という一瞥体験をしても「苦しみ」を避ける方法を見出せない人もいる。

「苦しみ」を避ける方法を見出せない人の「神秘体験」はそこまで大きなものではなかったのかも。もしくは体験そのものへの理解が追いついていないか。

つまり、悟りっぽいものを体験したとしても普通の日常を送る人も多く存在する。逆に宗教やスピリチュアルの道に進む人は「悟り体験」に大きな興味を持ち、さらに探究したい人。

神秘体験の意味を積極的に探ろうとする「解脱」を急ぎたい人と日常生活の中でゆっくりと「解脱」を学びたい人。人間はそれぞれ違った個性をもっているから、真理探究のスピードも様々である。急ぎすぎることのデメリット、ゆっくりすぎることのデメリットは存在するから、実は真ん中がちょうどいい。

悟りが起きない人

「悟り」が訪れていない人間は「最終目的」が存在することさえ気がついていない。人生が1度きりであると思っていたり「死」を迎えたら無になると思っていたりする。「死」を迎えたらまた新しい「人間」として「生」が始まる。繰り返す「生」は人間の「最終目的」を知るまで終わらない。これが輪廻である。

しかし「解脱」するために必ずしも「悟り体験」をしておく必要はない。むしろ、しないほうがいいのかもしれない。先ほど説明したように「悟り体験」に大きな感動を覚えると、宗教やスピリュアルに陥ってしまい考え方が凝り固まってしまうこともある。

「悟り体験」は「苦しみ」を持つ自分自身を一旦救うものである。現実世界で「苦しみ」に対処できる高い能力を持つ者は「悟り体験」が起きないこともある。日本人はその高い能力を持つ民族であると思っている。

まとめ

この記事以前の過去記事の中で使用している「悟り」や「解脱」という言葉について。定義が定まっていないまま「悟り」と「解脱」を使用している記事もある。これから記事の修正をしていく予定だけれど、修正しないものもあるかも。

それから、過去記事はたまに読み返して、気がついたことを追記したり書き直したりしていることがある。一回読んだとしても、読み返してみるのもいいかも。たぶん、わたしのブログは「解脱」への理解が深まるごとに、内容の意味がわかってくるようになっている。

定期的に更新します

ということで、簡単なルールと言葉の定義を理解した上でこのブログを読んでほしいと思う。その他の「言葉」にも、定義をはっきりとさせたいものがあるから、気が向いた時にこの記事は更新していく。