目次
- 1 万葉集から富士山を知る
- 2 なまよみの甲斐の国
- 3 黄泉の国とは精神世界のことである
- 4 水江の浦の島子(浦島太郎)を詳しく解説する
- 5 まとめ
- 6 後編へつづく
わたしの故郷、甲斐の謎が解けた。前編と後編に分けてその謎を解明していく。
初めてこのブログに辿り着いた方へ このブログの「読み方マニュアル」 つぎに「このブログについて」を読んでもらうとこの記事への理解が深まると思います。
万葉集から富士山を知る
万葉集 第3巻319番「詠不盡山歌一首」
万葉集の中には富士山のことを歌ったものがある。作者は高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)。彼は奈良時代の歌人。旅行中に歌を作り、その地方の伝承や伝説に基づいた歌が多いのが特徴とのこと。
(2020/10/09追記:この歌、実ははっきりとした作者が分かっていないらしい。だとしても、この考察では虫麻呂と仮定して進めていきます。)
富士山について詠んだものと訳をこちらのサイトから引用させていただきます。
不尽山を詠む歌一首
なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と 此方此方(こちごちの) 国のみ中ゆ 出いで立てる 富士の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行(ゆ)きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも います神かも 石花海(せのうみ)と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水の溢(たぎ)ちぞ 日の本の 大和の国の 鎮(しづ)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河(するが)なる 富士の高嶺(たかね)は 見れど飽かぬかも
不尽山を詠む歌一首(訳)
甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。
言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。
日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。
神の山「富士山」
この歌は簡単に言えば『富士山すごい』っていう歌である。山梨と静岡の真ん中にそびえる富士山はとても高くて、噴火で降り積もる雪を消し、降り積もる雪は噴火を消す。そんなことが繰り返されている、霊妙な神の山。
繰り返されていて、高い山であること。それは「永遠」を意味する。この歌のタイトルを見ると、万葉集原文では富士のことを「不尽(不盡)山」と書いている。尽きない山ということである。尽きないということは「永遠」である。
神とは永遠の命を持つもの。富士山は尽きることなく成長を繰り返し、どの山よりも高くなった。虫麻呂が富士山を神の山と認識するのは、富士山のそういった姿を見て永遠を感じているからである。富士山が日本を象徴する山である所以はここにある。
「永遠」を知る人々
日本は紀元前から現代まで続く皇室が存在している国で、尽きることなく血が受け継がれている珍しい国。きっと、日本人は「永遠」を知っている。
そして「永遠」を一番知っているのが甲斐の国の住人なのではないかと考えている。わたしはこの歌からそのことを紐解いてみたい。
なまよみの甲斐の国
甲斐と黄泉の関係
この歌は「なまよみの甲斐の国」ということばから始まる。甲斐の国とは山梨県のこと。私はある日、甲斐の枕詞が「なまよみ」であると知った。
「なまよみ」はどんな意味かというと、漢字で書くと「生黄泉」とか「半黄泉」という説があり、何故か「黄泉」との関連があるようなのである。
山梨県出身者として、甲斐の枕詞が何故「なまよみ」なのか知りたいと思っていた。最近その謎を解き明かす瞬間がやってきた。なまよみの謎を解き明かすためにも、まずは枕詞とはなんぞや?というところからお勉強していきたい。
枕詞について
枕詞(まくらことば)とは、主として和歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。序詞とともに万葉集の頃から用いられた技法である。
wikipedia
<中略>
このように枕詞は特定の言葉と結びついた組み合せで成り立っているが、平安時代以降の場合は歌の意味には直接的に関係しないことが多いと一般には解釈されている。
枕詞は特定の言葉の前につく決まり文句のようなものである。「甲斐」の前には必ず「なまよみ」がつく。そんな感じ。枕詞は古いものであり、平安時代以降はだんだん使われなくなっていく。
平安時代末の人物顕昭の著書『古今集序注』には、藤原教長の説として「マクラ詞トハ常詞(つねのことば)也」と記されている。
wikipedia
『枕詞とは常の言葉』と藤原教長さんが言うように、枕詞とはある言葉に対して日本人が持つ変わらないイメージのようなものなのではないだろうか。枕詞は言葉遊びとしての側面もあるところが面白い。
枕詞とそれに結びつく言葉との関係を分類したものについてはいくつもの研究があるが、もっとも大別的な分類をおこなった境田四郎の説によって示せば、(1)意味関係でかかるもの(2)音声関係でかかるものということになる。
wikipedia
<中略>
きわめて大雑把に示せば、音でかかるものと意味でかかるものの2種類が枕詞には認められることになる。一方「あしひきの」や「ぬばたまの」のように、諸説はあるものの由来のわからない枕詞も多い。これは『万葉集』の時代には既に固定化されていたもので、先例にならって使用され続けたものと考えられている。
こちらの説明のように枕詞にはかかり方というものがあって、音でかかったり意味でかかったりする。その例は上記wikiのリンクから各自確認していただくとして、枕詞の中には由来がわからないもの(かかり方が分からないもの)も存在している。
その中に甲斐にかかる「なまよみ」という言葉も含まれるのである。由来はわからないけれど「なまよみ」が古来からの甲斐のイメージであるはず。
生黄泉の交ひ(なまよみのかひ)
インターネットで調べたところ「なまよみの甲斐」考というPDFがでてきた。都留文科大学の鈴木先生が書いたもの。それを拝見すると「なまよみ」の由来は諸説あるが、なかでも支持を得ているのが「生黄泉の交ひ(なまよみのかひ)」というものであるらしい。
なまは「不完全な・未熟」という意味、よみは「黄泉の国」という意味。そこから「不完全な黄泉」→「半ば黄泉の国」→『甲斐の国は現世と黄泉が交差している』という解釈からくる「なまよみ」である。
しかし、国を冠する枕詞は国を讃えるものであるはずとのこと。「なまよみの甲斐考」を書いた鈴木先生は「生黄泉の交ひ(なまよみのかひ)」という解釈では国の枕詞としてふさわしくないのではないか、という考察をしていて「行吉(なまよ)みの甲斐」という説を押していた。
現世と黄泉が交わる甲斐
わたしは『現世と黄泉が交わっている』という解釈は甲斐の国を讃えていると思う。むしろ、最高の褒め言葉であると感じる。だから山梨県出身の私としては、甲斐の国の枕詞は「生黄泉」であってほしいと思う。
現代人は「黄泉」を死者の国として忌み嫌うから、現世と黄泉が交差する国など縁起が悪いと感じるのだろう。けれども、古代人の考える「黄泉」は現代人の考える「黄泉」とは大きく違うのである。
ということで「甲斐」と「黄泉」の関係を考える前に、前編では「黄泉」の真実とは何なのかを紐解いていくことにする。
黄泉の国とは精神世界のことである
現実世界と精神世界
心の中の世界
さっそくだが、黄泉の国とは「精神世界」のことを表す言葉であると私は確信している。先ほどの「生黄泉の交ひ」という解釈では「不完全な」という意味で「なま」が使われているが、私は『なま=現実・よみ=精神』という解釈で考えている。
つまり甲斐の国は、現実世界と精神世界が交差する国ということ。現実世界というのは、私たちが今生きているこの世界のことで、精神世界というのは心の中のこと。現実と鏡あわせになっているのが精神の世界でもある。
精神世界は心の中にあるから目には見えない。幻覚剤などを使用した時には目に見えることもある。現実ではありえない幻覚の世界は心の中がそのまま映像化されたものである。
黄泉の国の出入り口
現実の反対の世界として精神世界(心の中)が存在している。それを日本では古代から「黄泉」と呼ぶのである。古事記では、黄泉の国の出入り口を黄泉比良坂(よもつひらさか)と呼んでいる。黄泉の国には出入り口が存在していて、黄泉の国への入り方は昔話にも残されている。
黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。
wikipedia
水江の浦の島子(浦島太郎)
水江の浦の島子を詠む歌一首
高橋虫麻呂の他の作品を読んでみると「浦島太郎」のお話を思い出し、詠んでいるものがある。実は「浦島太郎」は精神世界(黄泉の国)へ行くお話なのである。
その虫麻呂の歌を訳だけ、再びこちらのサイトから引用させていただく。読むのが面倒であれば、わたしの超訳をどうぞ。
春の日の霞んでいる時に、住吉の岸に出て佇み、釣舟が波に揺れているのを見ると、遠い昔のことが偲ばれる。水江の浦の島子が、鰹を釣り上げ、鯛を釣り上げして得意になり、七日間も家に帰らず、海の境を越えて漕いで行くと、海神の乙女に偶然行き遭って、親しく語り合い、事が決まったので、契りを結び、常世に至り、海神の宮殿の、奥深くの立派な御殿に、手を取り合って二人で入って暮して――老いもせず、死にもせずに、いつまでも生きていられたというのに、人間界の愚か者が、妻に告げて言うことには、「暫くだけ家に帰って、両親に説明し、明日にでも帰って来よう」と言うと、妻が答えて言うことには、「この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら、この櫛笥を絶対あけてはなりません」と、そんなにも堅く約束したことだったのに――。島子は住吉に帰って来て、家はどこかと見るけれども見つからず、里はどこかと見るけれども見当たらず、不思議がって、そこで思案することには、「家を出て三年の間に、垣根も無く家が消え失せてしまうなんて。この箱を開けてみれば、昔のように家は存在するだろう」と、玉櫛笥を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方までたなびいて行ったので、びっくりして飛び上がり、叫び、袖を振り、転げ回り、地団駄を踏んでいるうち、突然気を失ってしまった。若かった肌も皺が寄ってしまっていた。黒かった髪も白くなってしまっていた。後々は息さえ絶え絶えになり、挙句の果て死んでしまったという――その水江の浦の島子の、家のあったところが見える。
水江(みづのえ)の浦の島子(しまこ)を詠む歌一首
島子のおはなし超訳
大阪、住吉郡にある入江で釣り船を見ていると遠い昔のお話を思い出すなぁ。
島子(浦島太郎)は釣りに熱中するがあまり、七日間も海にいた。その結果海の女神と出会い、親しくなり結婚することになった。そこでと精神世界の境目を越えて常世へ至った。そこは年を取ることのない永遠の国であり、二人は立派な御殿で仲良く暮らした。
それなのに人間界の愚か者である島子は「現実世界に一回帰って両親に説明してくる」と、妻である海の女神に言った。妻は「またこの永遠の世界に帰ってくるならば、この櫛笥(くしげ)を開けてはいけません」と箱を渡した。
島子が地元に帰ってくると風景が変わっており家もなくなっていた。不思議に思い考えた末、島子はもらった箱を開ければ当時の家や風景が戻ってくるかもしれないと考え、箱のふたを開けた。すると白い煙が出てきて永遠の国になびいていき、驚いた島子は叫び転げまわり、顔にはシワが増え、黒髪も白くなり、しまいには死んでしまった。
そんなことがあった島子の家が見えるなぁ。
精神世界へ行った人のおはなし
虫麻呂の歌の中に出てくる「浦島太郎」は私達がよく知っているものとはちょっと違う。虫麻呂の「浦島太郎」は黄泉の国がどんなものであるかを説明するにはちょうどいい。
現代人が知らない「黄泉」の真実、つまり古代人が認識していた「黄泉」とはどんなものなのか?虫麻呂の歌を引用しながら、詳細に解説していく。
水江の浦の島子(浦島太郎)を詳しく解説する
精神世界(黄泉の国)へ行く
水江の浦の島子が、鰹を釣り上げ、鯛を釣り上げして得意になり、七日間も家に帰らず、海の境を越えて漕いで行くと…
現実(なま)で集中し、精神(よみ)へ入る
この場面は精神世界へ入り込む方法を表している。島子が釣りに熱中し七日間も海にいることは、精神世界へ入り込むことのできる極限状態であることを表す。人間が極限状態まで集中すると精神世界へ行けるのである。
先ほども触れたが、幻覚剤を使用して幻覚を見ている時も精神世界に足を踏み込んでいる状態。浦島太郎は亀の背中に乗って海の中の御殿へと向かうが、現実ではありえない世界観である。それが黄泉の国であることの表現と言える。
人間は不思議で、極限まで集中することで脳内に何かしらの変化が起きる。「ゾーンに入る」と表現されることもある。幻覚剤も脳の神経系に作用するもの。脳内で一つの思考に集中することは、黄泉の国への入り口となるのである。
ある一つのものに極限に集中したとき、普段は目に見えることのない、心の中にあるものが表へと出てくる。そのときはもう黄泉の国に居る。「海の境を越えて漕いで行くと…」という表現は現実と精神の境目を越えていったということである。
脳磯(なづきのいそ)
脳磯(なづきのいそ)という磯は邑人が朝夕に往来している または 木の枝は人が引き寄せたかのようである。磯から西の方に6尺ばかりの窟戸(いわやど)があり、この窟の中に人は入ることができない。そのため奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと必ず死ぬ。だから土地の人は古より今に至るまで黄泉(よみ)の坂、黄泉の穴と呼ばれている。
出雲郡条の神話
上記は「出雲国風土記」の一文。出雲国(現在の島根県東部)の土地について記してある古代の書、出雲国風土記を現代語訳しているサイトから引用させていただいた。これは、出雲郡宇賀郷に伝わるお話である。
脳磯(なづきのいそ)という海辺は、村人が朝夕行き来しているが、そこから西の方に洞窟があり人が入ることができない。夢の中でこの海辺の洞窟あたりに行くと必ず死ぬ。そこは「黄泉の坂」や「黄泉の穴」と呼ばれている。
島根県出雲市にその「黄泉の穴」ではないか?と言われている猪目洞窟というというところもある。
脳磯神話の超訳
脳磯神話をわたしなりに訳してみた。脳という漢字が使用されている磯、のお話であることがポイント。
村人がいつでも行き来している海辺であるが(いつもはあれやこれや考える脳という器官で) 磯から離れた(喧騒から離れて思考を集中する) 人が入れないところに(現実ではないところが) 黄泉への穴がある(精神世界への入り口である)。
この言い伝えは、そのまま、脳が黄泉への入り口だということを教えてくれている。昔からある地名などには必ず意味がある。人間はあるものに名前をつける時、意味のない言葉をつけることはない。
「夢の中でこの海辺の洞窟あたりに行くと必ず死ぬ」というのは、精神世界(黄泉の国)がとても危険な場所であるということ。それについては後半で説明する。
「悟り」が起きる
海神の乙女に偶然行き遭って、親しく語り合い、事が決まったので、契りを結び、常世に至り…
さて極限状態になり、精神世界に足を踏み入れた島子は海の女神に出会うことになる。そして女神と語り合い、めでたく結婚した。この場面は「悟り」を表している。
「悟り」というのは「輪廻から解脱」した状態を覗くことである。話が長くなりそうなので、今回は「輪廻からの解脱」については説明しない。詳しくは関連記事をご覧ください。
「輪廻から解脱」するには男性性と女性性の力が均等になることが必要となる。それを島子(男)と女神(女)の結婚という形で表している。注意してほしいのは、「解脱」は結婚した状態を保つことであり、それを保てない状態が「悟り」であるということ。
関連カテゴリ:輪廻からの解脱
常世の国(永遠)に至る
海神の宮殿の、奥深くの立派な御殿に、手を取り合って二人で入って暮して――老いもせず、死にもせずに、いつまでも生きていられたというのに…
立派な御殿で二人仲良く幸せに暮らし、老いもせず、死にもしない楽園のようなところ。これが常世の国(永遠)というもの。
「悟り」が起きたことによって、常世の国に至った島子。「輪廻から解脱」すると常世(永遠)の状態が続くが、常世の国は一時だけそれを体験できる場所である。
常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。
wikipedia
人間界の愚か者が、妻に告げて言うことには、「暫くだけ家に帰って、両親に説明し、明日にでも帰って来よう」と言うと、妻が答えて言うことには、「この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら、この櫛笥を絶対あけてはなりません」と、そんなにも堅く約束したことだったのに――。
人間は愚かな生き物
ここは、人間の弱さを表す場面である。「人間界の愚か者が」というところは、弱い心を持っていることが愚かなことである、という戒めである。
島子は常世の国を楽しんでいたのに、両親を心配してしまい現実世界に帰ろうと決めた。自分だけが楽しんでいることに罪悪感を感じ、両親の様子を見に帰ろうと考えることは、一見優しい心のように思える。けれども、ほんとうは、心の中に湧き上がる罪悪感が「優しさに見えるもの」を生み出すのである。
人間の弱さは罪悪感から来るものである。だからこそ虫麻呂は「人間界の愚か者が」という言葉で、永遠の幸せを自ら遠ざけている人間の弱さを強調している。
「この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら」と箱を島子に渡す女神。常世の国に戻るのなら箱を開けてはいけない、と妻(女神)と約束を交わした島子。ここでも人間の心のあり方が試されることになる。
約束を破る人間
島子は住吉に帰って来て、家はどこかと見るけれども見つからず、里はどこかと見るけれども見当たらず、不思議がって、そこで思案することには、「家を出て三年の間に、垣根も無く家が消え失せてしまうなんて。この箱を開けてみれば、昔のように家は存在するだろう」と、玉櫛笥を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方までたなびいて行ったので…
島子は現実の世界に帰ってきた。すると家がなくなり町もなくなっていた。不思議に思い考えた末に、開けてはいけない箱を開けてしまった。
この場面は約束を守ることができない人間の弱さを表現している。
現実世界と精神世界の時間の流れ
現実に帰ってきたら家が無くなっているのは、現実世界と精神世界の時間の流れが違うということ。つまりは、精神世界に3年いたら現実世界ではものすごーく時間が経っていたということ。町ごと無くなるような時間の経過であることがわかる。
この場面について考えるには相対性理論を持ち出さなければならない。世間ではこのお話に特殊相対性理論を適用しウラシマ効果と呼んでいたりする。島子が光速宇宙船で異世界(黄泉の国)に行ったのではないか?ということ。
相対性理論には特殊相対性理論・一般相対性理論と二種類ある。このお話にどちらを適用したら正しいのか私の中でまだ結論は出ていないが、一般相対性理論も適用できるんじゃないか…というかどちらも適用できるのでは?と思ってる。
そして、相殺されて結局時間の流れは変わらないのでは?とかぐるぐる考えていたりするけど、ここで結論を出すと長くなるのでこの話はここまで。
現実世界と精神世界は時間の流れ方が違う。ということだけ頭に入れておいてほしい。ここはサラッと流して、次の話題にうつる。
「永遠」は手で掴めないもの
『常世の国から持ってきた箱を開ければ、全て元に戻るだろう』と考え、箱を開けてしまう場面について。彼は常世の国の全能性を過信していたからこそ、箱を開けてしまったのだろう。
常世は永遠で幸せで何でも手に入るような国であるから、島子がそう考えてしまったのも無理はない。しかしその過信から約束を破ってしまったのであろう。
『玉櫛笥を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方までたなびいて行ったので…』この場面は約束を破り「永遠」を失ってしまったことの表現である。
白い雲は『島子が手にした永遠』を象徴する。雲や煙というものは、実体が有りそうで無いもの、手で掴むことができないものを表す。
玉櫛箱について
玉櫛笥は永遠を失わないための箱である。箱というのは「現実に居る自分」と「常世の国」を分け隔てるものを表す。「箱を開けるな」という約束は、現実と常世の国とを分けて考えることが重要であることを教えてくれる。
その約束を破り箱を開けてしまったので、白い雲(永遠)は常世の国へ戻ってしまった。
目には見えないが、確かに有るもの
時間の経過により家が無くなり、島子は心細くなってしまったことだろう。しかし、それが人間の心の弱さであり、いつもその弱さによって常世(永遠)を逃してきた。
常世(永遠)は確かに箱の中(現実世界)にあるのに、現実で辛いことがあると、常世(永遠)を確認したくなって箱を開けてしまうのである。
現実は誘惑が多い場所である。現実で起きる出来事に惑わされ苦しみを感じる。だからこそ、常世(永遠や幸せ)を確認したがる人間。目に見える「幸せ」ばかりを求めるのならば、本当の幸せを掴み取ることはできない。
死んでしまう人間
びっくりして飛び上がり、叫び、袖を振り、転げ回り、地団駄を踏んでいるうち、突然気を失ってしまった。若かった肌も皺が寄ってしまっていた。黒かった髪も白くなってしまっていた。後々は息さえ絶え絶えになり、挙句の果て死んでしまったという――
結局人間は死ぬ?
この場面はそのまま読んだ通り、人間が歳をとって死んでしまうことを表現している。人間は必ず「死」を迎えるということを表しながら、常世の国に戻れない結果の「死」をも表している。
この場面のことを考えると『結局人間は現実を生きているし、死から逃れられないのではないか?』という感想もあるかもしれない。
けれどもよくよく考えてほしいことは、箱を開けなければ「常世の国に戻れる」ということ。
この物語は人間の失敗物語で、失敗例である。もしも海の女神からもらった箱を開けなければ、どうなっていたのだろう。
箱を開けた場合
「常世の国」に居る状態はとても幸せで、満たされている状態。約束さえ破らなければその状態が「永遠」に保たれるのである。約束を守ることは『箱を開けないこと』である。
箱の中に入っているから目には見えないけれど、そこにはちゃんと「永遠」が入っている。つまりは、箱の中に常世(現実世界に永遠)があると信じていれば幸せになれるということ。
そのことを信じなかった島子は、箱を開けてしまった結果『びっくりして飛び上がり、叫び、袖を振り、転げ回り、地団駄を踏んでいるうち、突然気を失ってしまった。』
このように「永遠」を信じていない人間は「死」に大きな恐怖を感じることになる。
箱を開けなかった場合
現実で死ぬことは変わらないが、箱の中(現実世界)に常世(永遠)があることを信じている人間は「死」の受け取り方が変わる。
もしも、箱を開けない選択をしたのなら「死」の恐怖を乗り越えることができる。だから、箱を開けない強さを持つことが人間の課題なのである。
箱を開けない強さとは『常世の国に居ることに罪悪感を感じない強さ』、『辛いことがあったときに常世の国に逃げない強さ』。この2つの強さは、自分を信じていないと手に入れることはできない。
まとめ
物語のまとめ
長々と解説してきたけれど、黄泉の国とはつまりどういうものだったのか。まずは「浦島太郎物語」を簡潔にまとめてみる。
現実世界(なま)で集中し精神世界(よみ)へ入る
→女神と出会い結婚→常世の国へ至る→永遠を体験する→箱を貰う
精神世界(よみ)から現実世界(なま)へ帰る
→女神から貰った箱を開いてしまう→永遠を逃す→死の恐怖を体験し死ぬ
「死」と向き合う前に行く場所
黄泉の国とは「精神世界(心の中)のことであり・常世の国を覗くことができる場所であり・箱をもらう(試練を受ける)場所」である。
こちらが、この物語を通して見えてきた「黄泉の国」についてのまとめ。
精神世界の中で女神と出会い箱をもらうことは、実はとても恐ろしい試練。島子は試練を乗り越えられなかった結果「死」の恐怖を味わい死ぬことになった。黄泉が「死者の国」と言われる理由である。
この物語の中では女神の恐ろしさがあまり表現されていないが、精神世界の中で女神に出会うことは「死」に向き合う準備段階とも言える。
玉手箱と究極の選択
あの箱をもらうことは『永遠を信じるか?信じないか?』という最終質問で、言い換えれば『生きるか?死ぬか?』の選択肢を突きつけられていることにもなる。
精神世界はその究極の質問をぶつけられる場所である。現実世界でその質問を受けたとしても、きっとピンと来ないだろう。精神世界で箱(質問)をもらい現実世界に持ち帰り、試されることになる。
「永遠」を手に入れるための試練
選択を間違えた島子
島子はふとしたことで精神世界に入り込んでしまったから、心の準備がなかったのだろうか。
究極の選択を迫られたのにもかかわらず、現実世界で簡単に箱を開けてしまった。その結果「死」の恐怖が襲いかかってきた。
『脳磯(なづきのいそ)を夢に見ると死ぬ』という言い伝えも、精神世界(黄泉の国)は試練を受ける場所であり、選択を失敗すると死んでしまうよ、という戒めなのである。
選択を間違え続ける人間
残念ながら人類は選択の失敗を繰り返しており、現実にいながら「永遠」を手に入れた者は少ない。「永遠」を手に入れることが「輪廻からの解脱」でもある。解脱を目指すのならばいつかこの選択をする時が来る。
「永遠」というのは白い雲のように掴みどころのないものであるから、手に入れることはとても難しい。目に見えるものしか信じない人間には手に入れることができないものでもある。
常世の国で見たものについて補足
海底の宮殿は幻想
人間は誰でも常世の国を覗く力を持っている。常世の国を覗くことを、世間では「悟り・一瞥体験・ワンネス体験・禅定」と言ったりする。
人間の脳に「常世の国」を体験する機能が備わっている理由。常世(永遠)というものを経験しなければ、常世(永遠)が実際に存在することを信じないからである。
信じるために「黄泉の国」に足を踏み入れることになるが、そこで女神と結婚すれば「常世の国」を覗かせてくれる。
さらに、女神は試練を与えてくるのであるが、その試練に打ち勝つことができれば現実世界で「常世」に到達するのである。つまり精神世界(黄泉の国)で覗いた常世の国は本物ではないということ。
現実世界がいちばん大切
海の底にある美しい宮殿は幻想である。現代には『海にある常世の国』を覗いたまま戻ってこない人も見受けられる。そこを「永遠」と勘違いして留まる人は「死者の国」にいるままなのである。
現実世界に戻り、試練を完了させなければ「永遠」が手に入ることはない。
後編へつづく
甲斐の国と永遠
高橋虫麻呂の作品から「黄泉の国」が「永遠」を手に入れるための試練の場所であること、を解説できたと思う。
後編では今回の話を基に、甲斐の国(山梨県)が『現実世界と精神世界が交差する国』である理由を紐解いていく。
黄泉比良坂(よもつひらさか)の謎
出雲の言い伝えでは、黄泉の国への入り口が「脳磯(なづきのいそ)」という名称であった。古事記では黄泉の国の出入り口を「黄泉比良坂(よもつひらさか)」という。
同じような入り口なのかというと、ちょっと行き先が違うのである。海に行ったら、山にも行きたくありませんか?そのあたりも解説できればなーと思う。
「「なまよみの甲斐の国」現実世界と精神世界が交差する国-前編」へのコメント
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