目次

今回は「解脱」するために理解すべきこと「因果と時間の関係性」について。仏教用語である、同類因と等流果、異熟因と異熟果という2種類の因果関係の解説と、それら因果が現実に現れる仕組みについて。「解脱」したい人は必読です。

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つぎに「このブログについて」を読んでもらうと
この記事への理解が深まると思います。

因果とは、原因と結果のこと

輪廻転生と因果の関係

この世界は「因果」という絶対的なものに支配されている。そして、この「因果」こそが人間を苦しめる輪廻を創り出している。輪廻転生については関連記事で少し書いているので、先に読んでおいてもいいかも。

関連記事:輪廻から解脱する方法

関連記事:輪廻転生と自己責任 前半

一切合切は因果により生じている

はじめに言っておきたいこと。今回の記事に出てくる仏教用語については、元ある意味を大切に、わたしの考え方を織り交ぜつつ解説していく。まずは「因果」について。

仏教における因果(いんが)は、因と果 による熟語。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、「無因論」「神による創造」などは否定される。

因果(wikipedia)

『一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ…』というのは、全てのものは因と縁により生じるということ。全てのものというのは、この世に存在する物質や現象全て。それらが生じているのは、因と縁の作用による。

直接的要因(因)というのは、生じていることの原因は自分自身にあるということ。間接的要因(縁)というのは、自分をとりまく世界(生活環境、人間関係など)を通して結果がもたらされる、ということである。

一切合切は必ず関係性を持っている

縁起(えんぎ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。

縁起(wikipedia)

続いて「縁起」についての説明をwikipediaから引用。先ほど間接的要因について説明したように、結果は必ず「他との関係」を伴っている。全ての現象は、必ず「自分をとりまく世界(生活環境、人間関係など)」と関係を持ちながら起きるということ。

『条件や原因が無くなると結果も自ずからなくなること』というのは、輪廻が生成されなくなるということを指す。条件というのは「自分をとりまく世界」そのもの。解脱というのは、原因が無くなり、世界も無くなること。結果(事象の全て)が消滅するのである。

原因と結果=自分と世界

ここまでの説明をまとめると、現れる結果(現象)の原因を自分自身が作っているということ。そして、結果とは自分をとりまく世界のこと。

因(原因)を滅すれば果(結果)も作られなくなるので輪廻は終わる。原因を解明し、原因となるものを作らず、結果も作らないようにすることが解脱というもの。とある原因からどのように結果が現れるのかを知ると、原因解明の手助けになる。ということで次の章からは因果の法則について。

2種類の因果関係について

同類因・等流果と異熟因・異熟果

原因と結果について説明するのに、いい仏教用語を見つけた。原因になるものとして、同類因(どうるいいん)と異熟因(いじゅくいん)という言葉。結果になるものとして、等流果(とうるか)と異熟果(いじゅくか)という言葉。

ゴータマ・ブッダさんが亡くなってから彼の教えを元に、様々な仏僧集団にまとめられた思想・論書をまとめて「阿毘達磨(あびだつま)」という。アビダルマとも呼ばれていて、一部仏教者の間で研究されている。4つの言葉はその中に出てくるもの。

「同類因(原因)等流果(結果)」と「異熟因(原因)異熟果(結果)」。因果関係についてはこの「2種類ある」と覚えておくといい。

1.同類因・等流果という因果の法則

原因その1 同類因(どうるいいん)

現在の瞬間と同類の現象が後に果として生じる時の原因のこと。因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。例えば、忍耐をしているある瞬間は、忍耐をしている次の瞬間の同類因となる。

阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

原因の性質と結果の性質とが同様・相似である場合の原因。この結果を等流果という。同類因と等流果には因果同時はありえず、必ず時間的先後関係にある。

真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

同類因についてwikipediaから引用。同類因とは、この後説明する等流果(とうるか)の原因になるものである。等流果の説明と同じになってしまうのでこちらは簡単に。

結果その1 等流果(とうるか)

六因のうち同類因・遍行因に対応する果。等流果は多くの場合自らまた同類因となって次の等流果を生ぜしめ、そこに因果の連鎖が続く。等流とは、因から「流れ出る」の意。

阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

原因と同性同質の結果。同類因または遍行因によって生じる。

真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

等流果(とうるか)は、原因になるものと同じ結果のこと。善行をしたら(原因)→善行が起き(結果)、悪行をしたら(原因)→悪行が起きる(結果)。同類因と等流果は原因と結果が同じ性質のものになるので原因がわかりやすい因果関係と言える。その結果はまた原因になってしまうので、悪行をしてしまったとしたら、負の連鎖が続くことになる。

『因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。ここで出てきた「無記」というのは、善でも悪でもないものを指す。そして「無記」とは煩悩に支配されていない行為のことでもある。無記という行為をしたら(原因)→無記という行為が起きる(結果)。

では、善行と悪行は煩悩に支配されている行為と言えるのであろうか?厳密に言うと、煩悩に支配されていない。とある行為について「善行である・悪行である」と判断する意識を「煩悩」と言うのである。だから、同類因と等流果は全て「無記」と言える。

自分のとある行為が、その後再び同じ性質の行為を引き起こす。この因果関係が存在するから、この世界そのものも継続していると言える。途切れることなく続く輪廻というものは、この因果関係によるところが大きい。

時間差について

『同類因と等流果には因果同時はありえず、必ず時間的先後関係にある。』とあるように、同類因と等流果は原因が作られ結果が現れるのに時間差がある。原因の後に結果が現れる、という当たり前といえば当たり前な時間差。

2.異熟因・異熟果という因果の法則

原因その2 異熟因(いじゅくいん)

楽あるいは苦たる結果を引き起こす原因、有漏(煩悩)に基づいた善あるいは不善の行為。無記または無漏に基づく行為は異熟因とは決してならない。善なる行為をなしたとき、それは同類の善ではなく楽なる結果を生じるが、このように原因と結果との性質が異なることを異熟という。同類因に同じく、異熟因について因果同時はありえない。

阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

異熟因(いじゅくいん)とは、原因になる善行または悪行のこと。先程の同類因と似ているけれど、こちらの善行や悪行は煩悩から起こるものに限定される。同類因の原因や結果には「無記」という「善でも悪でもないもの」も含まれていた。

しかし異熟因には「無記」に基づく行為は含まれない。異熟因は、この後説明する異熟果(いじゅくか)の原因になるものである。

結果その2 異熟果(いじゅくか)

六因のうち異熟因に対応する果。異熟果は善でも悪でもない「無記」であり、異熟果自体が自ら異熟因となって再び異熟果を生じそこに因果の連鎖をなすことはない。

阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

善・悪の行為を原因として生じる楽・苦の結果。総じて無記(善悪の差別がない)であり、有情においてのみ生じる。異熟因による。

真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

異熟果(いじゅくか)とは、楽か苦という結果のこと。原因が「異熟因」という善行や悪行である場合、結果は楽や苦であるということ。楽や苦は「無記」である。つまりそれらは善でも悪でもないのである。

こちらの因果関係は原因と結果が異なる性質になっている。原因になる善と悪とは違い、結果の楽と苦というのは感情である。喜び、楽しみ、苦しみ、悩みなど心の状態として結果に現れるということである。

楽と苦という感情について

仏教における(らく)とは、パーリ語、サンスクリット語のSukha (スカ)に由来し、幸福、喜び、容易さ、楽しみ、至福を意味する。対義語は(ドゥッカ)。

楽(wikipedia)

仏教における(く)とは、苦しみや悩み、精神や肉体を悩ませる状態を指す。対義語は

苦(wikipedia)

仏教における楽と苦の定義を引用してみる。楽や苦というのは、自分に生じる感情のことである。通常人間は楽という感情を善、苦という感情を悪と判断する。

けれど、楽や苦は「無記」であるから、善や悪として区別できないものであるということ。感情には善も悪もない。ただそういった心の状態が存在するだけなのである。

時間差について

調べたところ、異熟因と異熟果の時間差には特徴がある。原因を現世に作ったとして、結果が現世に現れることはない。結果は、輪廻転生した後に結果として現れる。結果は未来のどこかで現れるということ。原因(現世)→結果(来世)、原因(過去世)→結果(現世)のような時間差である。

この法則は人間にとって理不尽なものである。現世では原因を知る術がない。異熟果という結果の原因を見つけるのはとても難しい。等流果とは違い、異熟果自体が原因になることはなく結果のまま完結するので、そこから連鎖が続くことはない。それもこの原因を見出すことが難しいことの理由の1つになるだろう。

わかりやすい因果とわかりにくい因果

ここまで説明してきた、2種類の因果関係についてまとめてみる。

同類因(原因)と等流果(結果)
原因:善行 → 結果:善行
原因:悪行 → 結果:悪行
原因:無記 → 結果:無記
異熟因(原因)と異熟果(結果)
原因:善行 → 結果:楽という感情
原因:悪行 → 結果:苦という感情

わかりやすい因果関係

わかりやすい因果関係として「同類因と等流果」という法則がある。こちらは、原因と結果が同じ性質のものである。悪いことをしたら悪いことが続く、善いことをしたら善いことが続く、というもの。この因果関係を意識できると、同じ行為が繰り返されることを防ぐことができる。

わかりにくい因果関係

わかりにくい因果関係として「異熟因と異熟果」という法則がある。原因は煩悩から起こる悪行や善行であるが、結果として現れるものは「心の状態」である。

たとえば誰かに何かを言われて『とても傷ついた』という心の状態は「苦しみや悲しみ」である。つまり異熟果という結果になる。その結果の原因(異熟因)は、現世には存在しない。つまり「苦という心の状態」をもたらす原因は、傷つくようなことを言って来た人ではないのである。

その「苦しみの心」を作る原因は前世における自分自身の悪行にある。しかし、私たちは傷つくようなことを言ってきた人を原因にしてしまうだろう。そうすることで、原因を考えることをやめてしまうから、解脱ができないとも言える。

無記について

ここで「無記」についてもう一度説明したい。同類因と等流果では「原因が無記であれば、結果も無記である」という法則があった。仏教用語である「無記」にはいくつかの定義があるが、今回の記事で使用する「無記」は善と悪を区別しないことを意味するもの。

善でも悪でもないもの・善でも悪でもあるもの、どちらも「無記」である。原因や結果となるその行為の善悪を区別しないことが「無記」である。人間の全ての行為の本質は「無記」なのである。しかし、人間は必ず善・悪のどちらかで区別するからこそ、善行・悪行という概念がある。

人間はある行為において「善か悪か」を明確に区別するのであるが、解脱した視点では、ある行為に「善と悪」両方適応されることを理解している。それが「無記」という判断である。解脱した視点では「善と悪」を区別しつつ、区別しないことができる。

「無記」を理解できたとき、苦や楽という感情には善も悪もない、ということが理解できるのである。

解脱するためには異熟を理解すること

苦しみは異熟にあり

解脱の最終局面の試練は「異熟因と異熟果」を理解することである。「同類因と等流果」という因果関係よりも、自分自身に起きている結果(感情が動くこと)の原因が何であるのかを見つけるのが難しい。

わかりやすい「同類因と等流果」より、わかりにくい「異熟因と異熟果」に心を振り回される人間。これが輪廻を生きる人間に与えられる、大きな苦しみである。

自分自身に様々な感情が湧き上がる原因は、自分自身の前世の行為に存在する。解脱するためには、苦や楽という感情がどうして起こるのか?を追求することが必要なのだ。

苦という感情の原因(異熟果の原因)

異熟因を知ることができれば、苦や楽という感情が起こる原因を知ることができる。異熟因というのは、自分自身が前世で行った「とある行為」である。

前世が視えるという人に全ての前世を確認してもらって「異熟因らしき行為」を探す、という方法もあるかもしれない。が、それらを検証することあまりにも困難。現実的ではない。

しかし、前世から現世までの全行為が自分の意識に記録されているからこそ、前世が視える人が存在するのである。その「たった一つのとある行為(異熟因)」も、忘れているだけで自分の意識には確実に残っている。

その記憶を引き出す方法として、六道輪廻の地獄を体験するというものがある。わたしはその方法をこのブログの「輪廻からの解脱」カテゴリで少しづつ紹介している。

けれど、私たちは「とある行為(異熟因)」を思い出すことを心から恐れているのでその記憶を固く封じ込めている。その記憶を引き出すことが難しいから、解脱も難しいのである。

ちなみに。今回は「苦という感情」に注目しているけれど、もちろん楽という感情が生まれる原因も異熟因にある。

複雑怪奇なこの世界

大元になるたった一つの原因から枝分かれしていき、複雑怪奇な因果関係が生まれている。wikiの縁起の説明にあった通り、全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているものである。自分自身が元の原因を作り出したあと、生活環境や人間関係などが複雑怪奇に入り乱れた現状が結果として現れたもの。

「因果の法則」は絶対である。この世界の事象と、自分に起きる感情には、必ず自分自身に原因がある。そして、人間の苦は「異熟果」として現れる。悲しみ、怒り、やるせなさ、これら苦しみの心に振り回され、疲弊した人間はこの世界を「意味のないもの」にしたがる。それは原因解明を諦めることである。結果には原因があるのだから「意味がある」のである。

人間はこの「因果の法則」を信じず、原因を解明できないまま死んでいく。原因解明を達成したものには輪廻からの解脱が約束されているのに諦めるのである。生きとし生けるものに平等に訪れる「死」は原因解明を遂行できない結果である。

時間が存在する理由

初期仏教のとある宗派

グーグル検索していて、たまたま佛教大学の方のこちらの論文(種子説の研究)を見つけたので、読ませて頂いた。仏僧集団ごとの「異熟」に対する考え方の違いを比較するとても面白いものだった。

こちらの論文を読ませていただいて、このブログでわたしが一番訴えたいことは、既に「説一切有部(せついっさいうぶ)」が説明しているということを知った。というか、現代まで残っているアビダルマ(阿毘達磨)のほとんどは「説一切有部」という集団がまとめたものであった。

ゴータマさんの生きている時代の弟子たちである「原始仏教の集団」から、ゴータマさん亡き後「上座部と大衆部」という2つに集団は分裂。さらに「上座部」から分裂した集団のひとつが「説一切有部(せついっさいうぶ)」。

三世実有説と時間

説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。森羅万象を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。

説一切有部(wikipedia)

説一切有部(せついっさいうぶ)の主な教義に「三世実有説」というものがある。『法(ダルマ)は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続ける』というもの。法(ダルマ)というのは、この世界を成り立たせているシステム全体のこと。

人間はシステムに忠実にこの世界を生きている。今回説明した「因果の法則」もシステムのひとつ。システムがないと、人間は人間で在ることはできない。自分(人間)という存在はシステムありき。

三世実有説というのは「システムは三世(過去・現在・未来)の間変わることがないから、自分という実体も三世にわたって変わりなく存在する」ということを説明している。けれど、私たちが認識できるのは「現在」という一瞬だけで、その過ぎ去っていく「現在」という瞬間が諸行無常であるとも説明している。

変化すること・変化しないこと

仏教用語である、諸行無常の意味するところ。それは「一切は常に移り変わり、常に変化しているから、同じものなどない」ということ。だからこそ、自分という存在も変化するものであり確かな自分など無い、という考え方を多くの仏教者が持っている。

しかし、説一切有部は「システムは変化しないまま実在しているから、自分も世界も変化することなく、確かに実在している」と説いている。

諸行無常と三世実有説は矛盾しているけれど、実はどちらも真実なのである。変化しているし・変化していない。この2つが重なっていることを理解することが解脱でもある。

今という瞬間

ところで、スピリチュアル界隈では『過去・未来・現在は同時に存在していて、今という瞬間だけがある』という言葉や『時間には過去も未来も現在も存在しない』という言葉をよくみかける。諸行無常を強く意識しているからこそ「今という瞬間」を大切にしていこう、という考え方である。

けれど、そもそも時間とは「過去→現在→未来という流れ」のこと。だから三世を同時に感じたり、三世が存在しないと考えてしまうことは、時間という概念を無くしてしまうことにもなる。『今を生きる』という言葉を安易に使用しているのだとしたら、時間が存在する意味から目を背けていることになる。

「今」は儚い。認識したとたんに過ぎ去っていくもの。実際「今」という概念を理解するのはかなり難しい。

解脱で時間の謎を解く

時間の概念を作り出したのは人間であるけれど、太陽が昇り沈むというサイクルが存在するからこそ時間も必然的に生まれた。因果の法則と同じく、時間の流れも絶対的なものなのだ。「今」という瞬間は儚いものであるが、時間の流れ(法則、システム)は変化することがない存在なのだ。

変化することがないシステム(時間の法則、因果の法則)を完璧に理解することが、解脱というもの。「今」を生きるだけでは解脱などできない。因果と時間の関係性を解き明かすことで、この世界の基盤をなす大きなシステムを知ることが今回の記事の主題である。

時間の捉え方の違い

先程リンクさせてもらった論文を読み、「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」という集団を知ることができた。仏僧集団ごとに、因果と時間に対する考え方の違いが表れているのは興味深かった。

今回わたしが説明してきた、2種類の因果の法則において、因(過去)→果(未来)という時間差について教えてくれているのが「説一切有部」という宗派である。因果と時間の関係に注目している。

しかし「瑜伽行唯識学派」という集団は、因と果は同時に起きていると説く。つまり『過去・未来・現在は同時に存在している』ということを言っている。「時間は無い」ということに注目している。スピリチュアル界隈は、現代の瑜伽行唯識学派みたいなものかも。

このように、因果と時間の関係性について宗派で言い分が違うのである。この世界には様々な主張の違いはあるけれど、結局全ては正しい。つまり、時間は有るし・時間は無いということ。人間は0か1かのように、どちらかを選択することで生命活動を保っているから、主張が違ってしまう。

「有ること」を知ることについて

「説一切有部」は名前からも分かる通り、有ることの方を重要視している。わたしのブログでは「有ること」が持つ意味を解説していることが多い。

すべてのものは有ると無いが重なっている。しかし、無いことを理解するよりも、有ることを理解する方が困難なのである。「有ること」を知ることは、システムを理解すること。この世界の真実を知ってしまうことになる。

システムを理解したとき正常な思考を保つことは難しい。真実を知ることは、絶対的なシステムの上にしか人間が存在できないことを知ることである。そうなると、システムの一部でしかない自分の存在に意味を見出すことが難しくなる。

だから、人間は本能的に「有ること」を理解するのを避ける。「無いこと」に注目することは、本能的に安全な方を選んでいるのだ。話が少し脱線してしまったけれど、ここからは因果と時間の関係性について考えていきたいと思う。

因果と時間の関係性について詳しく解説

精神世界・現実世界それぞれのピラミッド

「瑜伽行唯識学派」という集団は、因果関係を階層にして考えている。だから因果が同時に起きていると説く。しかし、「説一切有部」は時間の流れと因果を関連付けている。因果に対する時間の捉え方の違いが何故起きるのか、図解と共に説明できたらと思う。

まずはこの図を見て欲しい。因果関係・意識の階層・時間の流れなどを、「現実世界」と「精神世界」に分けてそれぞれピラミッド型で表現してみた。

realworld_hierarchy
spiritualworld_hierarchy

現実世界と精神世界の繋がりについて

現実世界と精神世界それぞれ図があるのは、意識の世界(精神世界)と目に見えている私たちの世界(現実世界)は切っても切り離せない関係で、どちらも理解していないと因果の仕組みについてもわからないようになっているから。

現実世界とは、私たちが生きている世界のこと。精神世界とは一人の人間の意識のこと。現実世界には必ず階層がある。人間は物事を分別する意識を持っているから現実もそうなる。

人間の意識も現実世界と同じく階層になっている。現実世界とは真逆のピラミッドになっていて、現実世界のピラミッドに重なっているのである。

上の2つの図をそのまま重ねたものがこの世界の本当の姿であるけれど、私たちは現実世界のピラミッドばかりを感じている。意識の階層については、あまり理解していないのではないだろうか。

意識の階層について「瑜伽行唯識学派」では、階層ごとに名前をつけて考えている。そして、こんな思想を持っている。

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。

唯識(wikipedia)

外界の存在を「現実世界」、心のもつイメージを「精神世界」と置き換えて読むことができる。『現実世界は実在しておらず、この世は心のもつイメージだけの世界である』と言うのである。精神世界だけに注目し、現実世界は実在していないという主張なのだ。

けれども、精神世界と現実世界どちらにも注目し考えることが重要なのである。それぞれを見比べ、関連の仕方や、心のイメージがどのように現実に現れるのかを知ることが「有ること」を知ること。

ピラミッドというかたち

この図は何故ピラミッドのかたちになっているのか。今回の図は、階層を表すものであるけれど、階級を表すこともできる。階級についても言及したいけれど、ややこしくなるので今回の図には書き込んでいない。現実世界の一番上の階層、精神世界の一番下の階層を理解する人はほんの少数である。

現実世界のピラミッドについて

まずは「現実世界」のピラミッドについて。目に見えている因果と時間の関係性を解説してゆく。ややこしいかと思うけれど、ついてきてください。

realworld_hierarchy

現実世界の時間について

「現在」に存在する自分

今回の記事で説明してきた因果の法則は、私たちが生きている「目に見える世界」にしっかりと現れている。目に見えている世界が因果そのもので、時間とも関係している。現実世界の時間は過去から未来へ流れている。

人間なら誰しもが「現在」という時間を認識して生きている。ピラミッドは3層に分かれているが、常に「現在」という真ん中の場所に居るのが自分である。人間は「未来」に生きたり、「過去」に生きたりすることは決してできない。それが現実世界。

システムを理解し、現在に固定する

2種類の因果関係の章で説明してきた、2種類の因果に関する「時間差」についての説明は、過去から未来に流れる時間だけを感じているもの。当たり前だけれど、一方向の時間の流れの中で起こる因果の時間差を説明しているのである。

これから説明していく因果と時間の関係は、自分という存在を「現在」に固定したまま、この世界のシステムを理解した上で、説明するもの自分を「現在」に固定することが重要であるから、ここからの記事はそのことを意識しながら読んでほしい。

現実世界の階層について

現実世界のピラミッドに書かれている、3つの階層を文章にしてみた。この世界のシステムを理解しつつ、自分という存在を「現在」に置いたとき、未来に「異熟因」現在に「異熟果」過去に「同類因・等流果」という因果が現れている。

未来 異熟因(因果を生む場所)
現在 異熟果(苦や楽が現れる場所)
過去 同類因・等流果(善行や悪行が永遠に続く場所)

過去「同類因・等流果」

わかりやすい因果として説明してきた「同類因・等流果」という因果関係。こちらはピラミッドの最下層に存在している。この因果は「過去」に作られたものなのである。「過去」に起きたことは「現在」の私たちが認識できること。

「現在」という瞬間はすぐさま「過去」になる。だから「同類因・等流果」という原因と結果は「過去」に蓄積していき、それがこの目に見える世界のベースとなるものを作っている。そして私たちは「現在」という視点からその蓄積した世界を見ている。

「過去」から「現在」まで途切れることなく続いている世界は「同類因・等流果」という法則で成り立っている。その法則は「現在」まで含まれるから、自分のとある行為も過去にどんどん積み重なることになるのである。

自分自身の行いと結果が「同類因・等流果」として過去に蓄積され、それを「現在」から見ているのが私たち人間なのである。

現在「異熟果」

「現在」という瞬間に「異熟果」という結果が起きている。過去や未来とは違って「現在」は一瞬で過ぎてしまうもの。その瞬間だけに現れるのが「異熟果」なのである。私たちが感じる心の状態は瞬間のものであるということ。例えば「苦しみ」という心の状態が続くときは、「苦しみ」が連続しているだけ。

重要なことは「苦しみ」は感情であるから過去に蓄積することはない、ということ。過去には「同類因・等流果」だけが蓄積している。「心の状態」は現在に存在する自分自身だけが感じているもの。

現在とは「心の状態」を表すものであると言える。過去と未来には、生きている人間が存在しないのだから「心の状態」もまた存在しない。

未来「異熟因」

そして「未来」に異熟果の原因となる「異熟因」がある。「現在」に起きる心の状態は「未来」に原因があるのだ。しかし、2種類の因果関係の章では『異熟因は前世(過去)にある』とお伝えしているので、混乱するかと思う。

解脱して、この世界のシステムを理解するとわかることがある。時間の流れはループしながら、逆行もしていることを知る。それが今回の2つのピラミッドの図で表されている。

「現在→未来(過去)→現在→未来(過去)…」とループしているのがこの世界のシステムである。ピラミッドの図片方だけを見ると、未来と過去が繋がることはないのであるが。

時間がループしていることを理解すると、未来は過去そのもの。だから、異熟因(過去・未来)→異熟果(現在)という言い方もできる。私たちの心の状態を創り出す原因となるもの(異熟因)は未来にもあるし、過去にもあるということ。

私たちの未来にどんな原因があるのか。未来に訪れる「とある出来事」がわたしたちの心の状態である「苦や楽」を感じてしまうきっかけになるのだ。今回は現実世界の未来に「異熟因」が存在するということを覚えておいてほしい。

精神世界のピラミッドについて

続いては、精神世界のピラミッドについて。こちらは意識の世界である。目には見えないのであるが、人間ひとりひとりがこの意識の世界の中を生きている。

spiritualworld_hierarchy

精神世界の時間について

逆行している時間

精神世界は意識だけの世界。実際、人間はこの世界にも生きているのであるが、現実世界とは勝手が違う。実体が無い世界であり、現実世界の法則が適応されない。

現実世界とは違い、精神世界の時間は未来から過去に流れている。しかしながら精神世界は目に見えないので、私たちがそれをリアルに感じ取るのは難しい。

「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」は、因と果は同時に起きていると説いていた。それは精神世界視点からの考え方だから。意識というものは、時間の流れの中を自由に移動することができる。だから過去・現在・未来が同時に存在している感覚がある。

意識の世界は、重い肉体が存在しない世界。重力が無い世界であるから、自分の意識はとても自由なのだ。とは言っても意識の中を自由に行き来するのはとても難しい。瞑想が得意な人はできるかも。

つかみどころの無い曖昧な世界

とか、聖霊とかいう言葉は精神世界に存在する自分自身を表している。重力のない世界であるから、誰もがこの世界の中を、魂や聖霊というかたちでフラフラとしている。(「かたち」というのは現実世界の概念であるから言葉としてはふさわしくないが…。)

精神世界はふわふわとしたイメージ。実体が無いから曖昧な世界である。例えば人間が見る夢は、精神世界を現実世界に存在するもので表したもの。夢のようにふわふわとした世界はつかみどころが無いから、理解するのが難しい。だけれど、解脱したら理解できるようになるのである。

解脱によってフラフラとしていた自分の位置を「現在」に固定するこで、精神世界をはっきりと見渡すことができるようになる。だから、未来から過去に流れる時間についても理解できる。

精神世界の階層について

精神世界にもやはり3つの階層があり、図を文章にしたものが以下である。瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)が考えた「六識・末那識・阿頼耶識」という言葉を使用して、階層を表現している。

未来 六識(弱い力の意識)
現在 末那識(強い力の意識)
過去 阿頼耶識(意識を生むもの)

未来「六識(ろくしき)」

認識(入力)器官

精神世界のピラミッドの一番上に存在するものは「六識」である。目・耳・鼻・舌・体という器官で現実世界から取り入れる情報から感じること。一瞬間前の意識から感じること。これらを合わせて六識という。自分が認識したものの総称が「六識」である。

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6種の認識をいう。色形と目とによって視覚(眼識)が生じるように、色(いろかたち)、声、香、味、触(可触物)、法(考えられるもの)という六境(6種の対象)と、目、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(一瞬間前の識)という六根(6種の認識器官)とによって視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚、思惟(しゆい)が生じる。この6種の認識を六識という。

六識(コトバンク)

「六識」は受動的なものである。情報をそのまま受け取るイメージ。「六識」には個人差があり、同じものを見たり聞いたり嗅いだり食べたりしても、他者と感じ方が違ったりする。

現実世界とのつながりについて

これらは現実世界の話に思えるけれど「六識」というのは精神世界においての認識器官である。現実世界では目に見えるものとして表現されているだけ。現実世界では、実体としての入力器官であるが。そこから入力されたものが精神世界で「認識」されるという仕組み。

つまり、精神世界の「六識」によって情報の認識が行われていて、現実世界にそれが出力される、というイメージである。現実世界の情報を参照し、精神世界で認識が行われ、それが現実世界に出力され、その情報をまた参照し精神世界で認識…という感じでループしているのである。

この仕組みが現実世界と精神世界のピラミッドが重なっているということ。自分というのは入力と出力が同時に行われている存在。

「六識」が精神世界の未来に存在する意味

なぜ「六識」は未来に位置するのか。精神世界に存在する自分の意識は、現実世界では知ることのない「未来」を理解している。精神世界では未来から過去へ時間が流れているから、未来の情報が先に降りてくるのである。つまり、既に「未来」は決まっていて、それを過去に戻るのが精神世界の法則。

現実世界に現れる「同類因・等流果」という因果は、「精神世界の未来」で創り出されている。「現実世界の現在」から見た「現実世界の過去」は自分自身の行いが蓄積された場所であるが、既に決まっている「精神世界の未来」を参照しながら蓄積しているということ。

「六識」は決まった「未来」を創り出すために存在しているから、機械のように同じ事を繰り返すのである。「六識」というのは受動的で、力がない。力というのは意識の持つ力である。力が弱い意識はただ同じ事を繰り返すために存在している。

5つの器官を使って現実世界から情報を受け取り認識すること、一瞬前の意識から何かを認識すること、それらはとても機械的なはたらきである。「六識」は生きている限り働き続けるし、自らの意思で止める事はできない。そうやって精神世界で感じたことから、現実世界で行動に移す私たち。行動に移した結果、現実世界の過去に蓄積されていく。

現在「末那識(まなしき)」

末那識(まなしき)とは、阿頼耶識を所縁(=対象)とする識である。また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。

末那識(wikipedia)

精神世界の現在に存在するものは「末那識」である。末那識は「六識」の背後で働いている、自我意識のことであるということ。自我とは何か?簡単に言えば「自分自身がこの世界に存在するもの一切合切を創り出している」という意識である。

精神世界の「六識」は現実世界の「同類因・等流果」に対応していることは先ほど説明した通り。精神世界の「末那識」はというと、現実世界の「異熟果」に対応している。階層の中心は現実世界でも精神世界でも中心なのである。

精神世界に存在する「末那識」は現実世界に存在する「異熟果」という感情を創り出している。そして、現実世界の「異熟果」という感情そのものが「末那識」を存在させている。感情が存在しなければ、自分も存在しない。

「六識」は受動的で弱い意識であったが、こちらは強い力を持った意識である。機械的な意識である「六識」とは対照的な能動的意識が「末那識」。「末那識」は感情に強く入り込むことができるということ。そしてその行動がまた感情を創り出しているということ。「末那識」と「異熟果」もまたループしている。

『末那識は阿頼耶識を対象とする意識である』の意味については次の阿頼耶識の説明にて。

過去「阿頼耶識(あらやしき)」

最後に、精神世界の過去に存在する「阿頼耶識」という意識について。「六識」と「末那識」はそれぞれ弱い意識と強い意識であった。「阿頼耶識」はそれら意識を生むものである。意識の始まりが、精神世界の過去に存在するのだ。

阿頼耶識(あらやしき)は、大乗仏教の瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこと。

阿頼耶識(wikipedia)

現実世界の「異熟因」が目に見える世界全体(同類因・等流果、異熟果)を創り出していて、精神世界の「阿頼耶識」が意識全体(六識、末那識)を創り出している。精神世界の「阿頼耶識」は現実世界の「異熟因」に対応している。

この関係性もまたループしている。つまり、現実世界の未来に起こる出来事(異熟因)によって「阿頼耶識」という意識が作られていて、「阿頼耶識」が現実世界の未来(異熟因)を創り出している。

阿頼耶識は意識の奥底にあるもので、精神世界を生きている私たちが足を踏み入れることは難しい場所である。それと同じく、現実世界に生きている私たちが正確に未来を予測するのも難しいことである。

ピラミッドの頂点、ピラミッドの最下層には人間誕生と意識誕生の大きな秘密が隠されていて、その秘密を知ったとき、精神世界と現実世界の中心である「現在」に意識が固定される。その時初めて、この世界の基盤をなすシステムのことが理解できるようになる。

『末那識は阿頼耶識を対象とする意識である』この言葉の意味としては、阿頼耶識が意識の大元であるのだから、阿頼耶識なくては末那識も存在しないということ。阿頼耶識が創り出したものが自我(末那識)である。阿頼耶識が過去にあるから、現在の末那識が存在している。もちろん六識も阿頼耶識なくては存在しないのである。

2つの時間の重なり

現実世界と精神世界は表裏一体

現実世界という上向きのピラミッド、精神世界という下向きのピラミッドについて説明してきた。2つの世界は常に情報交換をしているようなもの。簡単におさらい。

六識(未来) ⇆ 同類因・等流果(過去)
末那識(現在) ⇆ 異熟果(現在)
阿頼耶識(過去) ⇆ 異熟因(未来)

時間が有るから自分が在る

瑜伽行唯識学派の『因と果は同時に起きている』という説に関して、再び触れたい。『因と果は同時に起きている』というのは「時間は存在しない」という解釈でもある。それは精神世界視点の考え方である、と先ほど説明したけれど、解脱した視点からの考え方とも言えるのだ。

解脱すると、意識は「現実世界の現在」と「精神世界の現在」をまたいだ場所に固定される。2つの世界の中心に自分が存在すること、そして2つの時間の流れの中心に自分が存在することを知る。同時に「時間は存在しない」という概念の本当の意味を理解することになる。

本当の意味とは「過去も現在も未来も自分の中に含まれている」ということ。有るも無いも「自分」に含まれている。時間をコントロールしているのが「自分」であり、時間を止めたり時間を進めたりしているのが「自分」。

時間が止まり時間が進むのを繰り返しているから、森羅万象も滅しては生じるの繰り返しをしている。無いと有るを繰り返すから「自分」が生きていると感じるのである。

精神世界と現実世界の時間差

わたしは2017年、一度目の「悟り」が来て「全ては生じては滅しての繰り返しだ!」と精神世界の中で気がついたのだけど、その時点ではそれが具体的にどういったことなのか理解できていなかった。

5年たってようやく、今回の記事のように現実世界で理解できるようになっている。精神世界と現実世界の理解の「時間差」についてはいずれ別の記事にしたいと思う。

全ての因は過去と未来にある

この世界の因果、このシステムを創り出す大元になるものは、阿頼耶識(過去)と異熟因(未来)である。先ほど触れたこちらの論文の中で「婆沙論」に書かれている異熟の定義がこのように紹介されていた。『異熟因が過去・現在・未来の三世に通じて異熟果を有する』

これは、説一切有部の「三世実有説」のことであるが、つまり異熟因(阿頼耶識)は過去・現在・未来全ての時間に関係しているということである。

今回、前半で「同類因・等流果」と「異熟因・異熟果」を別々の因果として紹介した。けれども、全ての果(等流果、異熟果)の因は異熟因なのである。それが『異熟因が過去・現在・未来の三世に通じて異熟果を有する』ということ。

「同類因・等流果」と「異熟因・異熟果」を別々に観ることも大事だし「全ての果が異熟果」であることを理解することも大事なのである。精神世界と現実世界を別々に観察すること、2つの世界をまとめて観察することが大事。

今回の記事についての余談

鶏が先か、卵が先か の答え

鶏が先か、卵が先か』という哲学的な問題があるけれど、この答えになるものを今回の記事でお伝えできたかと思う。鶏も卵どちらも同時に存在しているから、先も後もないのである。現実世界の法則だけで考えてしまうと『鶏が先か、卵が先か』の答えは出ない。

絶望とサプライズ

ここまで読んでいただき、もしかしたら薄々お気づきの方もいるかもしれないが、今回説明してきたシステムには人間にとって「不都合な真実」が含まれている。

それは、過去も未来も既に決まっているということである。この世界のありとあらゆる現象は全て詳細に決まっていて、計画書通りに事が運んでいる。既に決定しているありとあらゆる現象が、再生と逆再生で流れているのがこの世界。だからこそ、入力と出力が同時に行える。双方向の時間が交差した瞬間を、私たちは「現在」として認識しているだけなのである。

「運命」は既に決まっている。人間には自由意志など存在しないのである。この真実を知った時、人間は絶望するかもしれない。自分自身の存在に意味を見出せなくなるかもしれない。だから「有ること(この世界のシステム)」を中途半端に理解してしまうことは危険なことなのである。

しかし、このシステムを完璧に理解することができるのが「解脱した瞬間」である。その瞬間は「精神世界」において、現実世界より先に意識の中で体験するもの。わたしはこのブログで「解脱した」と宣言しているけれど、それは意識の中の話なので現実世界ではまだ解脱していないのである。その件についてはこちらでも書いていること。

精神世界で(意識の中で)解脱した瞬間というのは、このシステムの抜け穴を知る瞬間でもある。「変えることのできない運命」から抜け出す瞬間を体験するのである。それは解脱した人だけが受け取ることができるサプライズなのかもしれない。

創作物は未来からの情報

わたしが「時間が逆に流れている」ということにはっきりと気がついたのが、映画「TENET」を観たとき。「TENET」考察を書きながら、全てが繋がった感覚がある。ふんわりと理解していたものが、頭の中で理路整然とまとまったのである。

「TENET」のストーリーは、まさに今回説明してきたことをそのまま映像化しているから、ぜひ見て欲しい創作物。私たちは「未来から過去に時間が流れている世界(精神世界)」をも生きているのだから、現実世界に存在する創作物には、未来の情報がふんだんに詰め込まれているのである。

過去に蓄積されていく「創作物」は精神世界の未来を参照している。人間が創りだすものには、未来へのヒントが詰め込まれている。そして人間は、設計図通りの未来を創り上げていく。それがこの世界の真実です。

始まりと終わり・右回りと左回り

自分から始まり、自分で終わる世界

さてさて、ここまで因果と時間に関する様々な説明をしてきた。しつこいようだが、最後に改めてまとめる。

現実世界の時間の流れは過去から未来へ。精神世界の時間の流れは未来から過去へ。その時間の流れが交差する瞬間が「今という瞬間(異熟果)」である。そして、この世に現れる森羅万象を創造している(入力と出力を同時に行う)のが、現在の「自分(自我)」である。

自分自身が原因となるものを作り、自分をとりまく世界を通して自分自身に結果が現れる。今回紹介した2つのピラミッドが相互に作用して因果が現れている。右回り・左回りの時間の流れの中心人物が「自分」という存在で、入力と出力を同時に行うからこそ、因果(この世界)が創られている。

目に見えている世界は自分だけで完結している。この世界には本質的には自分一人しか存在していない。自分という存在は永遠に続く「永久機関」なのである。自分一人しか存在していないことについては、関連記事もどうぞ。

関連記事:この世界の真実(最終解答編)

因果からは逃げられない

今回の記事の内容を理解してもらえたとしても、理解してもらえなかったとしても、伝えたいこと。自分に起きる結果が『自分が原因ではない』と思えるようなことであっても、原因は必ず自分自身にあるということ。この世界のシステムを理解しておけば、自分に現れる「苦という感情」についても向き合える、はず。

「苦という感情」が生まれるシステム自体を、自分が生み出したのであるから、逃げることはできないのである。その謎を自力で解くために「自分」という存在がある。謎を解くまで永遠に「自分」を体験する輪廻というシステムの中に閉じ込められる。

シンギュラポイント

ちょうど今「ゴジラS.P(シンギュラポイント)」というアニメを見終えたところ。このアニメに登場する「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」というちょっと厨二病な言葉。この「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」は人類の破局を防ぐシステムとして作中に存在する。

空間と時間に干渉する高次元的な物質「アーキタイプ」の13番目のフェーズで、アーキタイプ研究の第一人者である葦原道幸が過去に存在を提唱していた。名称を和訳すると「直行対角化」となる。
怪獣の生存に必要な他のフェーズのアーキタイプを変質させる効果、すなわち怪獣を倒す力があるとされる。

オーソゴナル・ダイアゴナライザー(ピクシブ百科事典

人間は13番目のフェーズで苦しみの輪廻から「自分」を救済することが決定している。システムの謎を解き、輪廻から脱出する瞬間である。先ほど言及した「解脱した人だけが知ることができるサプライズ」がこれ。「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」である。

シンギュラポイントとは、今回の記事では「異熟因」であるし「阿頼耶識」である。全てはそこから始まっているのであるし、全てはそこで終わる。「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」はシンギュラポイントにある。

13番目のフェーズとは何なのか?そもそも1から12とは?そのあたりは以下の関連記事を読んでもらえるとわかるかもしれない。13日の金曜日を私たちが恐れるのは、終わりの前だから。でも金曜日が終わると、楽しい楽しい土日が待っているのだ。

「蛇とメビウスの輪」がこの世界そのもの(ゴジラSP13話参照)。ピラミッドの頂点とピラミッドの最下層に存在する蛇の正体(ゴジラ)を知るのが怖い私たちであるけれど、ひとまず今回の記事で、メビウスの輪であるこの世界のシステムを理解してもらえたらいいな。

人間の6(12)形態:地獄とは何か

1から12について:ひとりかくれんぼ

北欧神話では12人の神が祝宴を催していた時に、13人目となる招かれざる客ロキが乱入して人気者のバルドルを殺してしまったとされ、キリスト教以前から13を不吉な数としており、13日の金曜日についても伝説を持つ。

13日の金曜日(wikipedia)

そういえば、ディズニープラスで現在配信中のマーベルドラマ「ロキ」も時間のお話。毎週楽しく観ている。