目次

岡山旅行記は続く。今回は岡山旅行記というか、ジブリ「もののけ姫」のストーリーから「呪い」について考察していくことにした。目次をつけてみることにしたんだけど、今回の目次長すぎる。

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犬墓山とモロ一族のすみか

旅の中で古代に思いをはせる

「鬼の差上げ岩」を経由する鬼ノ城までのハイキングルート途中に、とても眺めのいいところがあった。そこは犬墓山の頂上付近にあった場所。足元に大きな岩があり、そこに立つと「鬼ノ城」が見える。さらにその下には岡山の街が見える。その美しい風景に感動し、しばしとどまる。

うちの旦那さんもその岩の上に立って風景を見渡していたのだが、突然「もののけ姫だ」と言い出した。この風景がもののけ姫に出てくる場面を連想させたらしい。モロが岩の上に寝そべっていて、サンとアシタカがその岩の下で寝ている場面があったけれど、そこは「鬼の差上げ岩」っぽくもある。(この記事のトップにある写真が差上げ岩)その後調べてみると、もののけ姫は岡山を舞台としているという説があった。旦那の感がすごい。古代岡山はタタラ製鉄が盛んな地域であったことを初めて知った。

犬墓山からの展望

岡山の帰りには奈良に寄っていくつかの古墳を観たのだけど、その一つ「ホケノ山古墳」の近くにあった説明看板を読んでいた旦那。そこでも「やっぱりもののけ姫だ」と言っていた。エボシ御前とタタラ場のイメージと古代奈良の大和朝廷が重なったらしい。古墳のあたりは大和政権発祥の地と言われている。日本という国の始まりの場所。なんとなく訪れた場所だったけど、なんだかすごい場所に行ったのかもしれないと今更。

ホケノ山古墳に登った

「もののけ姫」もまた「悟り」の物語だった

ということでさっそく帰ってきて「もののけ姫」を観ることにした。久しぶりなので新鮮な気持ちで観ることができたのだけど、この作品もまた「悟り」の物語であると気がついて記事を書くことにした。つまるところ、この世界に存在する物語は全て「悟り」物語なのだけどね…。

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今回のテーマは「呪い」について

鬼巡りをテーマとして旅した岡山と奈良。節分では豆を投げられる鬼。私はある時、人間が忌み嫌うものたちの気持ちを受け取った瞬間があった。このブログでは「こわい神様」というカテゴリで人々が忌み嫌うものについて語りはじめたばかり。今回の記事は「呪い」の本質について「もののけ姫」の物語を引用しながら解説していきたいと思う。まずは「呪い」の定義をwikipediaから抜粋。

「呪う」という言葉は「祝詞(のりと)」と語源的には同じで、「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「ふ」が接続したものであり、古代の言霊信仰に由来するものと思われる。
日本では既に死んだ人・動物や神霊がなす呪いを特に「祟り」と呼び分けることが多い。呪術(まじない)とも関係が深いが、呪術という言葉は意図および結果の善悪にかかわらず用いられるのに対し、呪いという言葉はもっぱら悪い意味で用いられる。

wikipedia

語源が「祝詞」と同じというところからわかるように「祈り」も「呪い」も実は大本は同じ。どちらも「人間が何かを願う」こと。「祈り」は多くの人に受け入れられるのに、悪い方の「呪い」を私たちはとても恐れる。それは何故なのだろうか?今回の記事を読んでもらえたら、少しは分かってもらえるかもしれない。

「呪ってやる」を「祝ってやる」って書いちゃった有名なやつ。真理。

ものがたりは「呪い」から始まる

右腕の「呪い」が表すもの

アシタカはある一族の長になるはずの男だった。しかし、タタリ神が村に現れアシタカはその神をやむなく殺す。そのせいで右腕に呪いを受けてしまう。その呪いはいずれアシタカを死に至らしめるという。村を出ることになったアシタカは自分の運命を受け入れ、呪いの謎を探るため旅立つ。

「もののけ姫」のはじまりはタタリ神の呪いからはじまる。アシタカの右腕のアザは目に見えない「呪い」を可視化したものと言える。この呪いの意味を紐解くことは人間の謎を解くことにもなる。

「呪い」のコントロール

呪いに戸惑い制御できていないアシタカ

村から旅立ったアシタカはジコ坊という唐傘をもった男と出会う。彼から「古代の神が住む森」の存在を聞き、西の方角へ向かう。ジコ坊に出会う直前とある村で戦を目撃する。侍に襲われる村人を助けようとするアシタカの右腕は呪いによって暴れ出す。

アシタカの右腕は呪いの力で人間とは思えない力を発揮する。呪いの右腕から放たれた矢は、人を超えた力で侍を殺めた。この時アシタカは呪われた右腕の力に動揺し、押さえつけようとしていた。

アシタカは西に向かう途中山犬の娘サンを目撃、その後タタラ場に辿り着く。エボシ御前やその村の人々と出会う。タタリ神になったイノシシを撃ったのはエボシだと知る。エボシが山を破壊し憎しみを広げていると感じたアシタカ。右腕は刀を取りエボシを切ろうとするが、それをなんとか抑えようとする。

ここでもアシタカは右腕の力が制御できていない状態である。「その右腕は私を殺そうとしているのか?」とエボシが言うが、それに対して「呪いが消えるものなら、私もそうしよう。だがこの右腕はそれだけでは止まらぬ。」とアシタカ。呪いの強さを感じている様子。

何かを悟ったアシタカ

山犬の森を破壊しもののけたちを殺そうとするエボシを憎むサン。サンはある夜、タタラ場に侵入しエボシに襲いかかる。サンとエボシとの一騎打ちとなる。

この場面で、サン(森の神々の味方)とエボシ(人間の味方)が憎しみあっているのを見てアシタカは何かを悟った。蛇のようなものが巻き付いた呪いの右腕。ここでは人間の力を超越しながらもアシタカはその力をコントロールし、サンとエボシの争いを止めた。

「呪い」は全ての人間に存在するもの

呪いの性質について理解したアシタカ

アシタカは争いを止める時エボシにこう言った。「そなたの中には夜叉がいる。この娘(サン)の中にもだ。」

人間であれば誰しも心の中に夜叉がいる。憎しみをむき出しにして戦うサンとエボシを見て、アシタカは呪いの発生源を理解したのだ。アシタカはこの場面で、右腕のアザと同じ「呪い」が全ての人間の内側に存在することを悟った。呪いの力を制御できていなかった時、その右腕はアシタカ自身の憎しみに反応していた。アシタカが右腕の力を制御できるようになった理由は、自分の心に反応していると気がついたから。自分が原因とわかれば制御もできるようになる。

死を呼び寄せているのは自分だった

サンとエボシの争いを止めたときのアシタカのことば。「みんな見ろ!これが身のうちに巣くう憎しみと怨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ。これ以上、憎しみに身を委ねるな!」

人間が憎しみ合う様子を見たアシタカは、人間の心から発生する憎しみが呪いであることを見抜いた。タタリ神から貰わなくとも、全ての人間に存在するものだと気がついたのだ。死を呼び寄せているのは自らであったと気がついたアシタカがみんなに右腕を見せたのも、それを伝えたかったから。憎しみに身を委ねる人間は死を招く。

人間と「呪い」の秘密について

消えなかった右腕の「呪い」

サンとエボシの争いを止めたアシタカ。二人を気絶させサンを背負いタタラ場を出ようとするとき、火縄銃で撃たれてしまう。瀕死の状態にもかかわらず、重い扉を片手で開き出て行くアシタカ。しかし、力尽きたアシタカはサンによってシシ神の森に運ばれる。

この場面のあと、シシ神が現れアシタカは生かされた。鉛玉が当たったときの傷は消えたのに右腕のアザは消えなかった。つまり「呪い」は残ったままだった。生と死を司るシシ神でさえも「呪い」を消すことはできなかった。このことが意味することとは?

人間であるかぎり「呪い」は消えない

「呪い」のことを理解しただけでは人間から「呪い」が消えることはないということ。人間であるかぎり呪いは消えない。実は、それがこの世界の決まりごとでもある。神の力をもってしても「呪い」を消すことはできないということでもある。

ものがたりは「呪いからの解放」で終わる

生きるために神を殺す人間

ジコ坊率いるシシ神殺しを企む集団がエボシを誘い、シシ神が現れる森へと向かう。シシ神の首には永遠の命をもたらす力があるらしい。一方、侍に襲われているタタラ場に遭遇したアシタカは、このことを知らせるためにエボシの元へ向かう。

「神殺し」とは人間が神を信じなくなることと同じである。シシ神は生と死を司る「原始の神」。人間が原始の神を殺し、存在を忘れることは争いの始まりとも言える。森と共に生きているサンにとっては辛い事ではあるが、人間社会が発展するためには「神殺し」が必要なこともまた真実である。

森を伐採し山を崩すことによって成り立つタタラ場。人間が豊かに生きるためにエボシ御前はタタラの村を作っている。エボシ村の人々はエボシ御前を慕い、生き生きと生活していた。人間のために生きていたエボシ御前。そんな様子を実際に見たアシタカは、人間と自然(神)両方の立場を理解し、共存方法を模索していた。

原始の神が司る「生と死」

乙事主一族は人間に復讐するため、森に集まった。人間に攻撃をしながら乙事主は憎しみからタタリ神へと変わり、サンを吞み込む。モロとアシタカはサンを助け出す。そんな中エボシ御前はシシ神の首を火縄銃で撃ち落す。首を失ったシシ神はドロドロとした黒い液体へと変わり、辺り一面を覆っていく。

首を失ったシシ神は黒いドロドロとしたものになった。このドロドロしたものに触れると人間も植物も一瞬で死に至る。この場面は原始の神がとても恐ろしいものであることの表現である。神を殺すことは、死が世界に広がるということであり、神を忘れる事が死に繋がるということの警告でもある。そして「呪い」の大本はこのシシ神なのである。「呪い」を受けたものが死に至るというのも、原始の神が「死」を司る存在だから。

この場面のあと「もののけ姫」はエンディングへと向かう。最後に起こることは死からの再生。シシ神はもう一つの側面を持っていて、それが「命を与える力」である。原始の神から生まれたものは、必ずこの「生と死」の側面を持っていることに気がつくことがとても重要。人間も神の子供であることを忘れてはならない。

関連記事:原始の神を忘れる人間のこと

男と女によって成し遂げられること

サンとアシタカの共同作業で呪いを解く

シシ神の首を持ってドロドロから逃げるジコ坊たち。エボシは首だけになったモロに片腕を食いちぎられた。アシタカはエボシにタタラ場に戻るよう指示するが、サンはシシ神を殺したエボシへの憎しみを露わにする。そんなサンに「エボシはもう罰を受けた」と、怒りを落ち着かせるアシタカ。落ち着いたサンとアシタカは「人の手で返したい」との思いで、2人でシシ神に首を返す。首が戻ったシシ神の力によって、ドロドロに覆われた死の山々はまた命を吹き返し、緑が戻ってくる。そして、2人の体を覆っていた呪いも消える。サンは森で生きアシタカはタタラ場で生きる、という別々の道を行くが、共存しながら生きていく事を誓う。

人間である限り呪いは解けないと先ほど解説したけれど、ここで何故か呪いが解けた。人間であるサンとアシタカ2人でシシ神に首を返したことにその理由が隠されている。神の力では解けなかった「呪い」は、人間の男と女によって成し遂げられるもの。

男性性と女性性のバランスを完璧にすること

以前の記事で「悟りとは男性性と女性性を天秤が釣り合ったように均等にする智慧のこと」と説明したけれど、サンとアシタカの共同作業はまさにこのことを表現している。人間の心の中には男性性と女性性が存在する。その心のバランスがとれ、中道になると「呪い」が解けるのだ。私は呪いの解き方を最近発見したばかりなのでまだまだ説明不足だとは思うけれど、とりあえず、「悟りで呪いは解ける」と理解しておいてほしい。

ものがたりの中にみつかる男性性と女性性

女性性とは受け入れる心をもつこと

おそらくこの場面でサンはエボシへの憎しみを解消している。エボシも心を改め「わたしが山犬の背で運ばれ生き残ってしまった。礼を言おう、誰かアシタカを迎えに行っておくれ。みんなはじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう。」と言っている。女たちが受け入れる心を持ったことがとても重要なのである。

男性性とは強い意志をもった心のこと

アシタカはもともと心のバランスが取れている人物である。なので、アシタカの男性性を描写する特徴的な場面があまりない。けれど、例えば最初の「呪い」と生きる運命をすぐさま受け入れたことや、数々の躊躇ない行動からそれが見て取れる。

アシタカがエミシの村を旅立つとき村の娘からもらった小刀をサンにあげてしまう場面で、世間では女の気持ちがわかってない!とかいう意見が見受けられる。しかし、この行動も男性性のわかりやすい特徴である。その時自分が一番いいと思った行動を取るのが男性性。「誰かを傷つけるかもしれない」という不安を持っているようでは強くなれない。村の娘が祈りを込めた小刀。これをサンに渡すことは祈りを繋ぐ意味もある。憎しみと悲しみを抱えていたサンに祈りが込められた小刀を渡すことは、勇気や安心を与えることになるはずだ。それから刀というものは男性性の象徴であることも重要である。

受け入れる心を獲得するのに必要なもの

実はサンとエボシはとても男性性が強い女性たち。バランスが偏りすぎていたので「憎しみ」や「主張」が強かった。最後には受け入れる心を無事手に入れ平和が戻ったのだ。女が強い事は悪い事ではないけれど、バランスが偏ってしまうと争いが大きくなるので気をつけよう。けれど、受け入れる心を獲得するには強い男性性が必要でもある。サンとエボシが強さを出し切った先に待っていたものが真の女性性だったのだ。

人間の内側に起こること

この物語の中では男性性と女性性の象徴がアシタカとサンという人物に置き換えられているし、それぞれの登場人物の中にも男性性・女性性が描かれている。死んだ神は首を取り戻し山々に命を吹き込んだ。この場面は死の後には必ず再生があるという希望を表現している。男性性と女性性の統合により人間の精神の中にも死と再生が起こる。このできごとを「悟り」と言うのである。

精神の死と再生を経験したものは心の中に「神」の精神が宿る。私は実際に体験したのであるから、これは嘘でもなんでもない。肉体は人間であるけれど「神」の視点でものごとを見ることができるようになる。自分で言うとなんだか胡散臭いのだが、信じてほしいと思ってこのブログ一生懸命書いてるから許してほしい。アシタカの「呪い」が消えたのも、人間のまま「神」になることができたから。というかそもそも人間はみんな「神」なので戻ったということ。

「悟り」の過程についてのまとめ

「もののけ姫」はアシタカ成長ものがたり

「アシタカの成長」と「悟りの過程」を比較

「もののけ姫」は、アシタカが自ら受けた「呪い」と向き合い成長していく物語。それはそのまま「悟り」の過程としても描かれている。悟りの過程とは精神の成長段階のこと。錬金術における賢者の石を作る過程でもあるし、ニーチェの言う霊の三つの変化でもある。アシタカ成長ものがたりを精神の成長段階と比較して下にまとめる。

関連記事:賢者の石を作る過程について
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タタリ神と出会い「呪い」をもらうアシタカ (人間が世界に存在する「呪い・憎しみ」に気がつく。)

サンとエボシの争いを見て「呪い」の正体を見破るアシタカ (世界の「呪い・憎しみ」が自分から発生していることに気がつく。)

瀕死の状態となり生き返るアシタカ (人間である限り「呪い・憎しみ」が消えない事を知る。)

数々の困難を乗り越え、自然と人間が共に生きる道を模索するアシタカ (強いこころと受け入れるこころをどちらも大切にし、「呪い・憎しみ」を乗り越える努力をする。)

シシ神の首が撃ち落とされ死が広がり、サンと共にシシ神に首を返すアシタカ (強いこころと受け入れるこころが完璧なバランスとなり「呪い・憎しみ」から解放される。輪廻からの解脱。)


輪廻からの離脱

最後のところ、「呪い・憎しみ」からの解放について「輪廻からの解脱」と書いたことに疑問を持つ人がいるかと思う。「悟り」の最終段階は輪廻からの解脱である。輪廻というのは原因と結果があること。「呪い」とは原因のことであり、「呪い」が解けると原因がなくなるから結果もなくなる。このことに気がつくと輪廻がおわる。こうやって書いてみるとなんだか簡単なことのように思えるが…。

わたしは今自分の輪廻が終わっているかどうか、自分の身体をもって毎日調査しているけど正直よくわからない。やはり肉体が死を迎えるまでは、はっきりとわからないのかも?だからこのことについてはまだ完全に確信を持てていないけど、ほぼ正解にたどり着いたとは感じている。引き続きこのブログで説明してゆきたいと思う。

関連記事:輪廻からの解脱、入力も出力もしないこと

「呪い」についてのまとめ

「祈り」と「呪い」

人間は「祈ること」が好きだ。3.11の震災が起きた時「Pray for Japan」というフレーズで世界中が日本を応援してくれたことは記憶に新しいし、私たちは「希望」をもらった。しかし人々は大本は同じものであるのに「呪い」を忌み嫌う。まさに今、新型コロナウィルスによって「呪い」が溢れていると感じる。「憎しみ」を表現することばや、「憎しみ」の気持ちを持つことは「呪い」である。原始の神から「呪い」を突きつけられているわたしたちはそこから何を学ぶのだろうか。

善いことばかりを求める人間

人間は原始の神から生まれ「生と死」どちらの性質も持っている。「希望」を持つこともあれば「絶望」もある。「呪い」が存在する理由を今こそじっくりと考えてみてほしいと思う。「呪い」を避けることや見ないように遠ざけることが、実はこの世界の仕組みに反している。終末が訪れる時というのは、善いことばかりを見るようになってしまいバランスが崩れている状態である。この世界の基本システムは二元性で、その二つは常にバランスを保とうとしている。エヴァンゲリオンのシンジくんが「逃げちゃダメだ」って何度も呟いているけれど、逃げたらダメだと分かっているのに、私たちはいつも最後の最後に逃げてしまう。逃げることをやめて「悪いこと」の必然性を知った時、人間は初めて「悪いこと」から解放されるのだ。

呪い・罪悪感・こわい神様

まだまだ書き足りないけれど、長くなってしまったので今回はここまでにする。「呪い」とは「罪悪感」のことで、「罪悪感」がなくなると「呪い」から解放される。悟りが起きなくても呪いの正体を知ることは心の平穏を保つ。呪い・罪悪感・こわい神様、全てが繋がっていてこれらが人間の大本。関連記事もよかったらどうぞ。

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後編に続く…はず

「もののけ姫」引用しがいがありすぎて、後編へと続きます。たぶん、気分が変わらなければ。登場人物たちの秘密を探っていきたい。岡山が「もののけ姫」へと繋がってさらに色々見えてきたのは鬼の導きなのか。 

後編書きました:「もののけ姫」登場人物たちの秘密