諏訪大社について書いた記事にある日こんなコメントをいただいた。
諏訪大社の御神体が人間そのもの、というのは全ての存在が人間そのものだとは思いますが、その通りらしいですが、出雲の御神体が人間そのもの、という面を読め、と来ました。
すみません、まだ私には答えが降りてきてないですが、その意味をpancyanさんがわかると降りてきたので、コメント残させていただきます。
わたしは『諏訪大社の御神体は人間そのもの』というようなことを、その記事に書いていた。コメントをくれた方は『出雲(大社?)の御神体こそが人間そのものである』と教えてくれた。(諏訪大社について書いた記事、今読むと文章がまとまっていないと感じる。書き直したい。)
出雲大社の御神体についてとりあえず色々調べてみたところ、謎が多く気になる。コメントによるとわたしには何かがわかるらしいので、今回の記事は出雲大社の御神体について紐解いていくことにします。
出雲の神 大国主
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。
大国主(wikipedia)
出雲大社に祀られている神様(御祭神)は大国主という神様。そして今回の記事のテーマは『出雲大社の御神体について』である。ここで一つ気になったのが「御祭神(ごさいじん)」と「御神体(ごしんたい)」の違い。その違いについてあまり考えたことはなかったのでちょっと検索してみた。
御祭神について
元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。
祭神(wikipedia)
延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。
神社に祀られている神様を「御祭神」と言う。現代では『神社=御祭神』という 図式が定着しているが、元々神社は自然崇拝から始まっており、人格のある神ではなく、海や山や川などが信仰の対象になっていた。
古事記や日本書記には伊勢神宮や住吉神社の「御祭神」の存在が記述されているという。伊勢神宮の「御祭神」は天照大神という神。御祭神を祀るための神社の登場は、伊勢神宮が創られた頃なのだろうか?
御神体について
神体(しんたい)とは、神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。 宗像大社では沖ノ島、大神神社では三輪山が神体とされ、皇大神宮では三種の神器の一つの八咫鏡とされるなど様々である。
神体(wikipedia)
その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。
神が宿るもの・神が降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物を「御神体」と言う。
木に降りる場合は神籬(ひもろぎ)または御神木(ごしんぼく)
出雲大社の歩き方
岩に降りる場合は磐座(いわくら)または岩坂(いわさか)
山に降りる場合は神奈備山(かんなびやま)
引用させてもらったように、神が宿るものによって名称が変わるのは面白いですね。ところで、伊勢神宮の内宮に祀られている「御神体」は八咫鏡(やたのかがみ)である。つまり、天照大神が宿るのが八咫鏡という「御神体」。ちなみに外宮にも豊受大神が宿る「御神体」があるらしい。
目に見えるもの(御神体)と目に見えないもの(御祭神)
「御祭神」と「御神体」の関係性。元々は自然崇拝から始まった神社。海や山や川という自然から、神様という人格を持ったものを崇拝するようになったけれど、それは実際目に見えるものではないから場所や物を依り代(御神体)としている。
人間は「実在性(目に見えるもの)」を重視しているはずだ。依り代として物体を祀ること・神が人格を持つことは実在性を強く感じる為だと考えられる。『自然が神』などと言われても、どこかふんわりとしていて、それを信じるには何か強い確信のようなものが必要だ。
神社の境内の中にある樹齢何百年もある大木を見て、そこに神がいると感じることはあるかもしれない。けれど、道端のアスファルトの割れ目から生えるなんだか強そうな外来種の雑草に神を感じることはできるだろうか?
古代の自然崇拝とは『全ての生きとし生けるもの』を神とするものだった。しかし、現代はどうだろう。わたし達はいつだって分別をしていて「神っぽいもの」とそうではないものにも分別をしていると感じる。さらには、目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。
何かを信じる時「目に見えているもの・信頼があるもの・確実なもの」で安心するのならば、「目に見えないもの(神)」を信じることができなくなってしまった証拠なのだと思う。
神社の役割について
神と対話する場所
御祭神と御神体について考えてきたけれど、「神社」という場所についても考えてみたい。ついでに「神」についても。
神社とは「神」に向き合う場所である。「神」とは心の中に存在するもので、そもそも目に見えないもの全ては人間の心の中に存在している。
神社には「ご利益」を求めてお参りをする人が多いが、迷いについて答えを求めたり、願い事をする人もいる。とはいえ、実際願いを叶えるのは自分自身の力であるし、答えを決定するのも自分自身。
単刀直入で申し訳ないけれど「神」は現実に存在しないのだから、人間は「神」というイメージを創造し手助けをしてもらっているだけなのである。
(ちなみにこちらの記事では「神」の存在を力説しているわたしであるが、現実に存在しない「神」についての話なのであしからず。)
神社で『神に向き合うこと』とは『心の中に存在する「神」というイメージとの対話』である。「私と神劇場」を自作自演しているようなものなのだ。
共有されたイメージの力
日本における「神」のイメージは、古事記や日本書記に記されるような神々であるが、現代においてその神々の神格は定着している。神社には必ず御祭神がいて、その「神」のイメージは既に多くの人に共有されているということ。
目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。
先ほどわたしはこのようなことを書いたけれど、多くの人のお墨付きがあるものは人間にとって信じやすいものになる。例えば、太宰府天満宮には「学問の神(菅原道真)」がいるから合格祈願に行く人が多い。そして実際に合格したのならば「神」のご利益があったと考える人もいるだろう。
『神社に行ったらご利益があった』というストーリーがその場所に蓄積していくと、それが人間を信じさせるための大きな力となる。多くの人々に共有されたイメージは、人間が強く信じる為に必要なもの。つまり、神社は『神を信じやすい場』としてうまく機能している。
そして、既に日本人に共有された「神」のイメージと相まって『神社と神』という最強の組み合わせとなる。多くの人々が神社を訪れるのは、共有されたイメージから自分の「力」を引き出す為である。
弱さのある人間
人間は自分に力があることを信じていないとき、神の力を借りる。人間の心は弱い。弱い心では強い行動ができないから、神社という「信じやすい場」を利用して自分を騙す。
神社という場所で「神」に向き合うことで、願いを叶える為の努力を始めたり、迷いから抜け出すよう自分を仕向ける。「神」を利用することで自分の行動を肯定することもできる。
「神」の役割は弱い心を補うだけではない。「神」と対話する手法で「自分の心」を解き明かすこともできる。自分の心を解き明かすためには、心を開示する必要があるから聞き手として信頼できる「神」は重宝される。
人間にとって「神」は「自分の心の代理人」として存在している。「神」という人格に自分の心のうちを語らせることで、普段は出てこない心の奥底にあるものを知ることができる。自分の心のことがよくわからない人間こそ「神」を必要としているのだろう。
人間の本体は心(魂/精神)
人間の本体は心である。心は魂や精神と呼ばれることもある。それらは目に見えないから、つかみどころがなく人間には理解しがたいもの。人間にはよくわからないものが、人間の本体であるということは、人間最大の困難である。
宗教で人の心が変化することがあるのは「神」と真剣に対話するから。心の中から何を引き出すかによって、良い変化が起きたり、悪い変化が起きたりする。日本では悪い変化が起きた結果、悲しい事件が起きたことがあったから、宗教のイメージは最悪である。
宗教に所属せずとも「神」と会話ができてしまう人がいるようだけれど、その「神の声」が「自分自身の声」であることを理解できていないことは危険なこと。
人間は「自分自身の心」のことを理解できないように、「神」のことも理解できない。「心」のことを理解できないまま「神」を利用するのならば、細心の注意を払うべきである。ということで、説明が駆け足であったかもしれないが「神社」と「神」についてのまとめ。
神社は「神を信じやすい場」として機能しており、神は「自分の心の代理人」であるということ。
出雲大社の御神体について
大国主神の別名
さて、やっと本題に入ろう。出雲大社の「御祭神」は先ほども述べた通り「大国主」という国津神である。「大国主」には別名がたくさんある。以前、崇神天皇についての記事の中で「大物主(おおものぬし)」についても書いたけれど、「大物主」も「大国主」の別名である。
出雲大社の御神体は、謎
「御神体」についてネットで調べたところ、様々な噂が飛び交っている。先ほども引用させてもらったサイト(出雲大社の歩き方)から、「御神体」と思われるもの一覧を書き出してみる。
- 七宝の筥(はこ)
- 九穴の鮑
- 鏡
「御神体」と思われるもの一覧について、詳しくはリンクしたサイトをご覧ください。このような噂はあるけれど「御神体」の実際のところは分からない。しかしながら、ヒントとなるものは出雲大社の造りにあると思われるのだ。
大社造(たいしゃづくり)の特徴
出雲大社(いずもおおやしろ)に代表される大社造は、伊勢神宮に代表される神明造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされる。
大社造(wikipedia)
神様が住まう場所としての神社、御神体が納まる場所としての神社には、様々な形態がある。出雲大社は「大社造」と呼ばれる神社建築になっている。神社庁による社殿(神社)の説明によるとその形態には大きく分けて2つあるそうだ。
建物自体、細部まで見るとその違いは多岐にわたりますが、大きくみてその様式を二つに分けることができ、一つは高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」であり、もう一つは古代の住居の形から発達した「大社造」となっています。
神社本庁
出雲大社に見られる「大社造」は古代の住居から、伊勢神宮に見られる「神明造」は高床式穀物蔵から、という違いがある。住居用と食物貯蔵用の違いは大きい気がする。今回の記事を書くにあたって「大社造」の気になる特徴を一覧にしてみる。
- 男造(おづくり)・女造(めづくり)
- 心御柱(しんのみはしら)・宇豆柱(うずばしら)
- 9本の柱
- 正方形の「田の字」の形
- 「妻入り」という出入り口
- 本殿天井の「八雲之図(やくものず)」
- 本殿内の「御客座五神」と「和加布都怒志命(わかふつぬしのみこと)」
とりあえず羅列したけれど、これだけの特徴があれば、出雲大社の御神体について紐解くことができるはず。ずうずうしくも、UOZAブログ的考察で解き明かしていきたいと思う。
出雲大社「大社造」の秘密を解き明かす
御神体は西を向いている
出雲大社の謎のひとつに『御神体が正面を向いていない』というものがある。大国主の宿る「御神体」は出雲大社の本殿にある。通常は本殿を直接参拝することはできず、「八足門(やつあしもん)」から参拝することになっている。公式サイトの境内図を見ると、八足門から伸びる壁が本殿をぐるりと囲んでいる。
大国主を拝するのに八足門に向き合い参拝するのであるが、肝心の御神体は向かって左(西側)を向いているのである。参拝したとしても御神体と向き合うことにはならない。
一般的な神社本殿は南か東を向いて造られていて、同じく御神体も本殿の正面に合わせた向きで配置されている。出雲大社の本殿も同じく正面が南を向いているのであるが、中にある御神体は西を向いているのである。
ネット検索すると西を向いていることについても様々な説が飛び交っている。それら説を見比べることも面白い。
本殿の内部構造
出雲大社本殿内部の見取り図を、出雲大社公式サイトから引用させていただきます。
御本殿(出雲大社)
このように、正方形の建物の中に東を向いて「御神体(御神座)」が納められている。この構造の面白いところは、入り口の扉を開け建物に入ると正面には壁があるところ。だから、ぐるりと右回りするような形で進むと「御神体」に対面することになる。
wikipediaから引用させてもらった以下の画像を見ればわかるように、この構造は「男造」というものになる。対称的な構造として「女造」がある。例外もあるが、男神なら「男造」女神なら「女造」となっているようだ。
真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による
一般的に出雲大社や熊野大社に代表される男造の神社は主祭神が男神となっていることが多く、神魂神社や揖屋神社に代表される女造の神社は主祭神が女神となっていることが多いとされる。
大社造(wikipedia)
この二つの構造を初めて知った時、人間の心(精神)の造りとまったく同じであるということに、わたしは気がついた。「男造・女造」を重ね合わせると「心の構造」になっているのだ。
心の構造と大社造
「男造・女造」を重ね合わせたものと「心の構造」が同じであることについて解説していきたいが、「心の構造」がどうなっているか、人間はあまり知らない。
けれど、わたしはこのUOZAブログで「心の構造」について既に説明してきている。「この世界の真実」という記事では、わたし達の生きているこの世界の仕組みについて解説したのであるが、その記事の中で使用した以下の図を見てほしい。
この図の中には、赤い実線の矢印で表される『未来に進む時間(現実世界)』と、青い破線の矢印で表される『過去に戻る時間(精神世界)』がある。大社造の「男造・女造」それぞれの構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。
この図は「心の構造」の見取り図であるけれど、わたしが考えたものであるし、この図が正しいことを証明するのは難しいかもしれない。けれど、今回出雲大社の御神体について紐解いていくことで、この図が人間にとって普遍的なものであることを逆に証明していきたい。
ということで、とりあえず話を続けてゆく。
未来に進む時間・過去に戻る時間について
頭の中で起きていること
まずは時間についての話をしておきたい。人間は現実世界を生きていて、時間が流れるから歳をとる。そんな当たり前過ぎることが『未来に進む時間』。図の中の、赤い実線で表される右回りの流れである。
次に『過去に戻る時間』について。現実の時間が過去に戻ることはないけれど、人間の頭の中では時間が逆行している。このことにはっきりと気がついている人はあまりいないけれど、図の中の青い破線で表される左回りの流れがそれを表わしている。
2つの時間の流れ
わたし達人間は、毎日判断をしながら生きている。生きているときの全ての行動は判断の結果であり、そこには自由意志がある。
例えば学生や社会人は、朝目覚めたら学校や会社に出かけるための行動を始める。それら行動は義務のようなものであるけれど、各個人の判断の結果でもある。時には自己判断で学校や会社を休むこともできるし、辞めることだってできる。
次にどんな行動をするのか常に頭の中で考え、決断し、行動に移しているのがわたし達人間。意識していないかもしれないが『過去の参照→分析→実行』という一連の流れが、人間の頭の中で起きている。
わたし達人間は過去に起きたことを記憶している。過去の出来事を参照し、分析し、自分にとっての最適解を出しながら行動している。この繰り返しをしているのが人間なのであるから、人間の行動を決定付けるものは記憶という過去の出来事なのである。
流れの中の「過去の参照→分析」部分が『過去に戻る時間(左回り)』のこと、「実行」部分が『未来に進む時間(右回り)』のこと。この2つの時間の流れは「心の構造」の中で重要なものである。
心とは何か
心の働きは流すこと
頭の中で起きていることが「心の構造」と言うのには違和感があるかもしれないが、「過去の参照→分析」という計算が頭の中(脳)で行われているだけで、実際に一連の流れを起こしているのは心(心臓)部分なのである。
人間は心臓が止まると死んでしまうが、動いているときは「生きて」いる。人間が「生きて」いるには血液が「流れる」ことが必要であるし、2つの時間が進むにも「流れる」ことが必要。
頭(脳)の働きは計算すること・心(心臓の)働きは流すこと、という違いがあるけれど、流れが止まっていたら計算もできない。だからこそ心(心臓)の働きが重要。
右回りと左回りの重なり合い
右回り(未来に進む時間/実行)と左回り(過去に戻る時間/参照と分析)が休まず同時に行われているのが人間の心。心とは、右回りと左回りが重なり合うもの。わたし達は誰もがこの重なり合いを体験しているのであるが、それについて意識している人は少ない。
UOZAブログでは、いくつかの記事で心の重なり合いを解説してきたのであるが、「大社造」には既にこの「心の構造」が表現されているのだ。
大社造と国産み神話の共通点
天の御柱を回る神々
同じく島根県にある「神魂神社」は日本最古の大社造建造物であり「女造」である。御祭神は伊奘冉(イザナミ)という女神。ところで、日本神話には「国産み神話」というお話がある。その中でイザナギ(男神)は天の御柱(あまのみはしら)を左回りに、イザナミ(女神)は天の御柱を右回りし、出会ったところで交わり国を産む。
真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による
ここでもう一度「男造・女造」の図を見てほしい。男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしら)を左回りすることになる。そして、女神は右を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば、心御柱(しんのみはしら)を右回りすることになる。
「大社造」は、そのまま「国産み神話」と同じ構造になっている。「国産み」とは人間世界の始まり・宇宙の始まりのこと。世界の始まりには、右回りと左回りしている「心の構造」が大きく関わっているということを、「大社造」と「国産み神話」は伝えているはずなのだ。
「国生み」について詳しくは他の記事をどうぞ
心の状態が生まれる瞬間
右回りと左回りが同時に行われることで「国を産む(世界が始まる)」ということについて今回の記事では深堀りしないけれど、以下で紹介する2つの記事に書いているのでそちらを読んでほしい。
関連記事:2つの時間の重なりが因果を生む
「2つの時間の重なりが因果を生む」という記事の中では、仏教用語である「異熟果」の解説をしている。「異熟果」をわかり易く言うと「心の状態」である。「心の状態」は、右回りと左回りが交差する瞬間に現れるものである。
現実世界の時間の流れは過去から未来へ。精神世界の時間の流れは未来から過去へ。その時間の流れが交差する瞬間が「今という瞬間(異熟果)」である。そして、この世に現れる森羅万象を創造している(入力と出力を同時に行う)のが、現在の「自分(自我)」である。
『この世に現れる森羅万象を創造すること』とは『国を産むこと』。2つの時間が流れていることで、交わり、現実が産まれている。詳しくは記事でどうぞ。
世界の投影が行われる瞬間
関連記事:この世界の真実(最終解答編)後編
「この世界の真実(最終解答編)」という記事の中では、今回の記事にも引用した図について解説しながら「この世界の仕組み」を解き明かしている。以下に引用したものは、2つの時間の流れと交わりについての文章である。詳しくは記事でどうぞ。
世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。
右回りと左回りは鏡写し
2つの時間は男と女
話を戻そう。「大社造」と「心の構造」についてこう述べたことについて、もう少し詳しく考えていきたい。
大社造の「男造・女造」構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。
再び図を見ながら「心の構造」をおさらいすると、「右回り」が『未来に進む時間/実行』・「左回り」が『過去に戻る時間/参照と分析』である。
この図では「男性性」を赤色・「女性性」を青色で表現していて、時間の流れの線だけでなく、その他ゾーンも色分けがされている。「右回り(未来に進む時間/実行)」は「男性性」、「左回り(過去に戻る時間/参照と分析)」は「女性性」になっている。
「大社造」に置き換えてみると、男の神が祀られている「男造」は「未来に進む時間/実行(右回り)」・女の神が祀られている「女造」は「過去に戻る時間/参照と分析(左回り)」だと言える。
人間視点と神視点
人間が「男造」に入り神に向き合うとするならば右回りをして「男神」に出会うことになる。また、「女造」に入り神に向き合うとするならば左回りをして「女神」に出会うことになる。「女造」は右下が入り口となっているので、左に曲がるだけであるが。
「大社造」で人間が神に出会うことは、当たり前ではあるが、人間からの視点ということになる。そして、図にある時間の流れも人間の視点である。
けれども、『大社造と国生み神話の共通点』で述べたことを思い出すと「男神」は「左回り」・「女神」は「右回り」をしている。これらは神の視点であると言えるから、神々が回る方向が逆になっている。
肉体と精神・人間と神
ここで「男性性(赤色)」と「女性性(青色)」について簡単に解説しておきたい。過去記事からの引用である。
人間には「男」と「女」という性別が存在しているが、実際には心(精神)にも性別が存在している。私たちが頭の中で思考し判断を下すときに、「男性性」という心の性質と「女性性」という心の性質がそれぞれ考え最終的にひとつの答えを出すようになっている。
つまり心の中には2つの性質が存在していて、それぞれの性質のバランスによって、判断も変わってくる。基本的には性別が男性であれば、心の中は「女性性」が主体となり決定権を握っている。性別が女性であれば、心の中の「男性性」が主体となり決定権を握っている。
このように、肉体が「男性」であれば心の主体になるものは「女性性」・肉体が「女性」であれば心の主体になるものは「男性性」になっているのが人間の仕組み。人間とは、肉体の性別と精神(心)の性別が逆になっている存在。
肉体と精神の性別が逆であることと同じく、神と人間の回り方が逆の動きになるのは、人間と神が「鏡写し」の関係性を持っているから。目に見えるもの(人間/肉体)と目に見えないもの(神/精神)は「鏡写し」になっているのである。
目に見えるもの ↔︎ 目に見えないもの
肉体 ↔︎ 精神
人間 ↔︎ 神
この記事の始めに『神は「自分の心の代理人」である』と言ったけれど、神とは『人間の心の中に存在するもの』であることが、お分かりいただけたのではないだろうか。
男神と女神の性質
男の神は現実世界で実行する
「大社造」で出会う神々はその性別によって性質や役割が違う。ここまで説明してきたことをまとめてみると、そのことが見えてくる。
人間は「右回り」すると「男神」に出会う。『未来に進む時間』の先に存在する「男神」とは「実行の神」と言える。「男造」に祀られる「大国主」は「実行の神」ということになる。
大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。
その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。
出雲大社と大国主大神(出雲大社)
「大国主」はこの日本という国を造った、国づくりの神である。人間は行動することで、想像したものを目に見えるものにしていく。行動(実行)しなければ、国も完成しない。当たり前のことであるが、それを表現するのが「男神」だということ。現実世界を生きることは実行の連続である。
女の神は精神世界で思考する
人間は「左回り」すると「女神」に出会う。『過去に戻る時間』の先に存在する「女神」とは「過去を振り返り思考する神」と言える。わたし達の頭の中では『過去の参照→分析→実行』という作業が常に行われているが「過去の参照と分析」は、実行前のとても重要なプロセス。
「思考」するからこそ感情が生まれ、喜怒哀楽を表現する。「思考」するからこそ、様々な予測をする。そして「思考」は人間を惑わすものでもある。
人間が精神世界(心/頭)という目に見えない場所で「思考」することを表現するのが「女神」なのである。ちなみに「思考」でどんな行動をするか決定するのであるから、「実行作業」に「思考」はない。
変わることのない性質
心の構造である『未来に進む時間・過去に戻る時間』は「男神」と「女神」に置き換えることができる。時間という概念を人間にとってわかり易くするためには、人間と同じ姿形をしている「神」に置き換えることが必要だ。
ちなみに。「国生み神話」においては神々の回り方が逆であるから、違和感を感じる人もいるかもしれない。神話の通りであれば、「男神」は「過去に戻る時間」・「女神」は「未来に進む時間」になるから。
けれどもここまで説明してきた通り、神と人間は「鏡写し」の関係性を持っている。私たちが鏡を覗き込むと左右は反転する(流れが逆になる)ように見える。けれど鏡の中の自分は自分のまま。つまり、男と女の性質は変化することがないものなのだ。
「神」とは、わたしたち人間に目に見えない世界を教えてくれる存在。そう考えると「大社造」は「男造・女造」という構造の中で、一歩踏み込んだところを教えてくれている。
出雲大社「柱」の秘密を解き明かす
出雲大社9本の柱
心御柱と宇豆柱とその他柱
ここからは「大社造」のそれぞれの柱について考えていきたい。出雲大社本殿を造るのは、全部で9本ある柱。その中心の柱は「心御柱」。「心御柱」は出雲大社だけでなく、伊勢神宮の正殿の中央床下にも埋められている。柱とは神が宿るものである。
心御柱(しんのみはしら)とは、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てられる柱をいう。日本の神は、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)とした。
心御柱(wikipedia)
本殿の内部では「心御柱」がどんな様子なのか調べてみた。実際建築を支えるのに重要なのは「宇豆柱」であるらしい。
中央にある最も太い柱の心御柱はほかの柱より太く堂々としたものだが、実際には梁を支えるためのもので、構造上、重要となる棟木は二本の宇図柱が支えている。
出雲大社の象徴的存在、御本殿に迫る(Discover Japan)
古代出雲大社
古代出雲大社は、現在のものよりも高さがあったらしい。その高さについては現実味のない話と捉えられていたが、2000年に出雲大社境内から過去の柱が発見され巨大神殿の存在が現実味を帯びてきた。サクッと説明していきたいので、引用が多くて申し訳ない。
出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっている。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っている。
日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった?(LIFULL HOME’S PRESS)
出雲大社宮司「千家」家には、古い時代に書かれたと思われる出雲大社本殿の平面設計図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」が残されており、巨木3本を1つの柱として組み、全9本の巨大柱が本殿を支えた構造が記されている。
1980年代に大林組が古代出雲大社復元プロジェクトを立ち上げ、実際に建造できるのかどうかを検証していた。復元するための資料として「金輪御造営差図」を参考にし、検証の結果48メートルの出雲大社は造れる!という結果になった。その後、実際に直径3メートルの柱が出土したのだからすごい。
詳しくは、上記にリンクした記事の中のPDFを読むと面白い。そのPDF中に『古代出雲大社(想定)』9本の柱の詳細が記してあったので、簡単にまとめてみる。
柱の長さと直径
岩根御柱(心御柱×1)…直径3.6メートル、長さ36メートル
棟持ち柱(宇豆柱×2)…直径3メートル、長さ42メートル
側柱(その他の柱×6)…直径3メートル、長さ36メートル
それぞれの柱の直径と長さを比べてほしい。この情報はここからの考察に重要なものになってくる。
気になる点
わたしが注目したいのは、「宇豆柱」2本が一番長く「大社造」を支える重要な柱であること、「心御柱」が中心にあること、それぞれの柱は3本を1つの柱として組まれていること、「心御柱」と同じ高さの「側柱」。この4点である。
- 重要な「宇豆柱」2本
- 中心にある「心御柱」
- 3本の木を束ねること
- 「心御柱」と同じ高さの「側柱」
ここまで『大社造と心の構造』について述べてきたことを前提として、これら4点について考察しながら「柱」の秘密を紐解いていく。ここからの話を読むための建築用語メモを置いておきます。一応。
建築用語メモ
棟木(むなぎ)…屋根の一番高い位置に取り付けられる部材。
梁(はり)…柱の上に棟木と直行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
桁(けた)…柱の上に棟木と平行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
妻(つま)…棟木と直行する両側面。
「宇豆柱」の意味するところ
「大社造」を「心の構造」ととらえると「宇豆柱」とは何を表すのか。これはあまりにもわかり易い。2本のうずの柱ということは、右回りの渦(うず)と左回りの渦(うず)という、2つの渦ということ。
強引であるかもしれないが、「宇豆柱」は「男造(男神)・女造(女神)」を表わしているということ。柱は神なのだから、すでに2柱の神が「大社造」を造る部材として存在しているということになる。
この2本は一番長く、棟木を支える大切な柱。2柱の大黒柱とも言える男神と女神が「大社造」全体を雨や風から守っている。けれども、男神と女神が本来守っているものは「大社造」の中心に存在する「心御柱」なのである。そう言い切れる理由については後述。
「心御柱」の意味するところ
「心御柱」は「自我」を表す
「大社造」を「心の構造」ととらえると「心御柱」とは何を表すのか。出雲大社や伊勢神宮の本殿にとって一番大切なものは中心にある「心御柱」。再びこの図を見て欲しいのであるが、中心にあるのは「自我」。つまり「心の構造」の中で一番大切なものも「自我」ということになる。
「自我」とは忌むもの
別に社殿の実用的な支柱でなく,しかも神宮祭祀上きわめて清浄神秘を重んじられる柱として特に忌柱(いむはしら)とも称される。
心御柱(コトバンク)
こちらは、伊勢神宮「心御柱」についての引用。「心御柱」は「忌柱(いむはしら)」とも呼ばれる。清浄なものであるのに、忌むもの。忌むものといえば「自我」なのである。
主張することが苦手な日本人は「自我」を嫌がることが多いはずだ。「自我」はエゴとも呼ばれ、利己主義的な考えや行動をもたらすものとして遠ざけられることがある。もちろん、「自我」を良いものとして捉えている人もいるけれど。
「自我」とは何か
そもそも「自我」という言葉の定義は人によって違うのかもしれない。UOZAブログでは、このように「自我」を定義している。
自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。
「自我」とは思考と行動をまとめたもの。ここまでに説明してきた、男神(右回り/実行)と女神(左回り/思考)を合わせたものが「自我」ということになる。
関連記事:自我と自己について
思考と行動の子ども
『男神と女神を合わせたもの』は『実行と思考という性質を受け継ぐ子ども』、だと言うことができる。そして、『思考と実行』を常に行っているものといえば「人間」。つまり、「宇豆柱」に守られる「心御柱」は、神の子どもである「人間」を表している。
一旦、ここまでの情報をまとめる。
「心御柱(自我)」とは『男神(実行)と女神(思考)の子ども』。つまり「心御柱」とは「自我」を持つ「人間」のことなのである。「自我」とは人間を人間たらしめるもの。当たり前のことなのに、わたし達が気がついていないことでもある。
伊勢神宮の中心
出雲大社の「心御柱」は梁を支えているのであるが、伊勢神宮の「心御柱」は梁にも届かず、床下に存在している。建造物としては機能していないのであるが、引用を読むと重要さは伺える。
心御柱(しんのみはしら)として神聖視されるが,これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で,構造部材としての柱ではなく,神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる。
心御柱(コトバンク)
このことが何を表すのか。建物を支える機能を成さないということは、その「心御柱」は成長途中の「人間」であることを表すのである。つまり「自我」に気がついていない状態。
この件については「国譲り神話」を紐解いていけば理解できることなのだけど、この記事の後編か別記事に書きたい。長くなりそうなので。
建物の「中心」であることが大事
伊勢神宮では20年ごとの式年遷宮で建物の位置が隣の敷地に移動し、建て替えられることは有名である。気になるのは、建て替え後まっさらになった跡地の「心御柱」があった場所に小さな小屋が建てられること。
その中には建て替え前の「心御柱」があるとかないとか。次にそこに建て替えた時に「心御柱」の位置がずれないよう、その小屋が建てられている、というのが有力な説らしい。
「自我」という中心がずれないことは「人間」にとって大切なことなのである。「自我」が自分自身(人間)を動かしていることを自覚することが、「自我」を中心に固定しておくこと。中心に固定しておくことの重要性は、過去の記事にも書いていることなので、ここでは省略させていただきます。
3本の木を束ねて1つにすること
ここまで「宇豆柱」と「心御柱」の意味するところを説明できたかと思う。それを踏まえて、出雲大社の9本の柱が3本1組である意味について考えていきたい。けれどこれも、単純な理由である。
前述した通り「心御柱」は「宇豆柱2本」の子どもである。ということは「男神(1本)」と「女神(1本)」の性質を併せ持った「心御柱(子ども)」は「3本」で表すことができる。
「男神(1本)」と「女神(1本)」を足したら「2本」になりそうなところだけれど、「男神」でも「女神」でもない新しい柱であるから、『合わせた2本』ではなく、『合わせた2本に新しい1本を含めた3本』ということ。
3本を束ねた柱は「人間」であるということを強調し、新たに独立したものを表わしている。つまり「心御柱」だけでなく、9本の柱全てが「人間」なのである。
「神」は『人間の心の中』に存在し、「人間」と「神」は「鏡写し」の存在であることは既に説明してきた。柱とは「神」でもあるし「人間」でもあるということを教えてくれているのが、3本1組の柱。
「心御柱(人間)」とは、神の子どもである。神に似ているが神ではない、新しい存在が「人間(3本)」。「男神(男性性)」と「女神(女性性)」の性質を持つ『人間(3本)』については、他の記事でもしつこく書いていることなので、ぜひともお読みください。
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「心御柱」と「側柱(がわばしら)」が同じ高さである理由
出雲大社の骨組み
最後に、わたしが注目したいのは「側柱」である。「宇豆柱」と「心御柱」以外の6本の柱のこと。建築における「側柱」の機能についてはこちらの記事がわかり易かったので、気になる方はどうぞ。中柱(心御柱)と側柱の作用力の違いは「心の構造」を読み解くのに、必見かもしれない。
こちらの論文(出雲大社本殿の心の御柱について)の中にある、出雲大社の骨組みシステム図(4ページ目、図-5)が、それぞれの柱同士の関係性を見るのにわかり易かった。説明用にわたしも骨組み図を書いてみた。
小屋梁中心を支える心御柱
図を見ると、宇豆柱2本は長く伸び棟木を支えている。そして、田の字の中心、交差している所を下から支えているのが「心御柱」となる。この図には屋根の骨組みが描かれていないけれど、その骨組みを支える「小屋梁(こやばり)」中心を下から支えるのが「心御柱」となっている。
棟木には届かないけれど、屋根全体の重みを受け止めるのに重要なのが「心御柱」であるらしい。先ほどの論文から、その重要さがわかる文章を引用させていただきます。
この高大な本殿を単純な骨組システムで維持するには骨組を丈夫にすることが基本であった。そのとき縦横に架けられた小屋梁が重要な部材となる。またこの小屋梁には多大な荷重が加わり,心御柱はこの梁を有効に働かせるためにしっかりと中心で支えている。このことが構造上重要である。したがって出雲大社は心御柱を構造材として設計されており,心御柱は高大な本殿を構築していく上で不可欠な部材となる。
出雲大社本殿の心の御柱について
「宇豆柱」も棟木を支える重要な柱だけれど、「心御柱」こそ屋根全体を支える重要な柱であることがこの図からはわかる。
側柱も「人間」
またまた「心御柱」の話になってしまったが、わたしが注目したいのは「心御柱」が「側柱」と同じ高さになっていること。ここにもまた「心の構造」が表れている。
柱は全部で9本ある。ここまでの話をまとめると、「宇豆柱(2本)」は「男神・女神」という親の役割をしている。そして、「心御柱(1本)」は中心に存在する子ども(人間)ということになる。そして残り6本の柱が何を表すのかというと、これもまた「人間」なのである。
「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。
八雲之図、3つの謎
八雲之図は出雲大社の謎のひとつでもある。八雲之図の謎についてわかり易くまとまっているブログがあったので、引用させていただきます。
①一雲のみ逆向きである。
思ったこと
②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
③八雲と言いながら七雲しかない。
これら謎を紐解きながら、9本の柱が『2柱の神(宇豆柱)』と『7柱の人間(心御柱・側柱)』であるということを証明していきたいと思う。
2022/07/18 追記
最後にかっこつけて『7柱の「人間」の柱がある』とか言ってるけど、ちょっと前で『9本の柱全てが「人間」なのである』とか言ってますね。意味がわからないですね。ごめんなさい。文章の最終チェックが足りなかったです。後編で詳細を書いていきます。
長くなってしまったので、今回はここまで。中編につづく。今回の考察を理解してもらえれば、「雲」の謎は解けるはずなので、ぜひ挑戦してみてください!考察コメントお待ちしております!中編を書き上げるのも、すごく時間かかりそうなので…。出雲大社の情報量やばい。
「出雲大社御神体の謎を解き明かす 前編」へのコメント
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