前編に引き続き、この世界の真実を図解と共に解説していく。今回の記事もこの図を見ながら読んでほしい。前回は「自己と他者という空間(赤い円、青い円)」「未来に進む時間と過去に戻る時間(赤い実線、青い破線)」「世界の中心である自我(グレーの部分)」について説明してきた。今回は白い円について。

初めてこのブログに辿り着いた方へ このブログの「読み方マニュアル」 つぎに「このブログについて」を読んでもらうと この記事への理解が深まると思います。
白い円についての概要
白い円について
2つのものが重なっている
人間は知覚できない
空間…地上と海、北と南
時間…生まれる瞬間と死ぬ瞬間
人間は生まれてから自己を持ち、いつかは必ず死が訪れ、自己と共に存在そのものが消えてしまう。そんな当たり前の人間の一生であるが、図解の中の白い円は人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間を表しているのである。それら瞬間は私たち自己を持った者たちが意識的に知覚できない。
死ぬ瞬間と生まれる瞬間は、重なっている。時間としても空間としても重なっている。「重なっている」ということがどういった意味を持つのかは、この後説明していく。
生まれる瞬間と死ぬ瞬間について
生まれた瞬間には自己や自我が芽生えておらず、世界と自分の境界線はまだ曖昧であるから、その時の詳細な記憶や感情も曖昧である。生まれた瞬間の記憶を持っている人も稀にいるようだけれど、ほとんどが大人になったら忘れてしまう。
そして死ぬ時の記憶や感情も、死んでしまうのだから表現することも思い出すこともできない。死んでしまった人から終わりの瞬間についての体験談を聞き出すことはできない。その瞬間は謎に包まれている。
このように白い円は、知覚することが難しい瞬間であり空間である。人間の生と死は実はとても不思議なもの。子供の誕生や親の死など、他者の生と死を見ることはできるけれど、自分自身の誕生時のことは覚えておけないし、死ぬ瞬間がどんな感覚なのかは、その時が訪れるまで知ることはできない。
重なっていることについて
自分だけが存在している世界
生と死は別々のものに思えるけれど、その瞬間(時間)と空間が重なっていることを説明していくのに重要なことがある。それは前回の記事でも説明したとおり、この世界において、実体をともなった存在は自分ひとりだけであるということ。
存在しているのは自分ひとりだけなのであるから、実際に死ぬのも自分ひとりだけである。もちろん生まれているのも自分ひとりだけである。自分だけが何度も生と死を繰り返しているというのがこの世界の真実。
実体と投影
ここで少し前回のおさらいをしておく。図にも書いてあるとおり、自己は実体であり他者は投影である。自分が生まれると同時に他者という存在もデータとして作り出される。
自分だけが何度も生と死を繰り返していると言ったけれど、自己が体験するイベントとして、他者にも生や死がある。
他者はデータであるけど、他者にも実体がある。前回の記事を読んでもらえば詳しく書いてあるけれど、どういうことなのか改めて引用しておく。
自己から見て、他者は人間のコピーである。例えば、このブログを書いている「わたし」は自己であるから、本体である。そして、わたしの親や旦那や友達やこのブログを読んでくれている人は全て人間のコピーである。
しかし、今このブログを読んでくれている「あなた」は自己であるから本体である。そして「あなた以外の人間」は人間のコピーである。「あなた」にとって「わたし」はデータでしかない。このように視点が変われば、本体と投影(データ)が切り替わる。それがこの世界の不思議なところ。
世界を映し出す自分
自分以外の「人・もの・こと」は全て投影されているもの。映画のように「世界」を投影する映写機が自分自身であり、目で見ているものは自分が映像として発しているのだ。
だから生まれる瞬間も死ぬ瞬間も自分自身が投影しているだけ、ということになる。何か神様のようなものが生を授けてくれたり奪ったりしているのではない。
映写機である自分だけが実体であるから、生と死は実体のないイベントである。けれど、生と死は人間にとっての一大イベント。投影であれど『生と死は実体である』と考えることができるのが「解脱」である。意味がよくわからなくても頭に入れておいてほしい。
重なっていることの意味
人間の生と死の仕組みは実はとても単純なもの。映写機から映像が投影される瞬間に人間は生まれ、映像が消える瞬間に死ぬのである。世界を(自分を)投影するのには、映写機のスイッチをオンにしなければいけない。
映写機のスイッチが切れた瞬間に死が訪れ、スイッチが入るから生まれる。そして、スイッチのオフとオンはほぼ同時である。つまり、私たちは死んだ瞬間に生まれている。生と死は同時に起きている。それが「重なっている」ということ。
輪廻転生の実際のところ
みなさんの「輪廻転生」のイメージは、死んだら魂が天へ登って、次の人物を探して地上に降りて、その肉体に魂が乗り移る、という感じであるのかもしれない。
実際は、自分の本体(魂とも言う)は移動などせず常に固定された場所にあり、1つの人生が終われば、また次の人生が投影されているだけなのである。
肉体に入り込むのではなく、目の前に映し出されるストーリーが次々と変わっていくのを見て体験しているだけ。ただ投影するものが変わっていくのが「輪廻転生」である。
固定された魂
自分という存在は常にとある場所に在る。場所という単語を使うのが正しいのかはわからないけれど、とにかく自分(魂)は絶対に移動したりしていないということが肝心。具体的にどこに在るのかというと図解の中心にあるグレーの部分である。具体的ではないかもしれないが…。
中心にあるグレーの場所に存在することについて言葉で言い表すとしたらこんな感じ。「自分が在る」ということがずっしりと重みをもちながら、世界の全てをすっきりと見渡せる感覚を持ち、「自我」を強く感じる状態。
関連記事:自我について
白い円は世界の基本となるもの
現実はリアルな夢
自分自身は常に固定されている存在なのだから、どこにも移動していない。人間である私たちは身体を持っていて、足で歩いたり手を動かしたりしているけど、そう感じているだけである。
前回の記事で既に説明しているけれど、私たち人間は水槽の中にある脳みそだけの状態のようなもの。現実の全ては夢である。けれど、あまりにもリアルだから夢だとは気がつくことができない。実際このような話は昔から人間の間で語られていることであるし、そんな世界観な物語も沢山ある。
信じること
少し話はそれるけれど「解脱」というのは『現実は夢の中である』と完全に信じることである。信じる、という言葉を使うと宗教ぽくなってしまうのであるが、信じないことには「真実」の全貌は見えてこない。
このことを「信じる」には勇気がいる。それから完全に「信じる」ことはとても難しい。信じているようで信じていないということは多々ある。
世界を投影する映写機
私たちはリアルな体験をするために、縦・横・奥行きのある空間というものを設定している。現実世界というのは、実体である自分が求めたもの・ことがそのまま投影されている場所である。
自分という映写機は、空間を映し出して、さらにその中に居る感覚をも作り出している。空間や感覚などすべてを創り出すかなり高性能な映写機と言える。
北と南、地上と海について
0と1から始まる世界
自分自身を夢の中に実体として存在させるには、まずは空間が必要である。世界を投影するための最初の仕事は、映写機のスイッチのオンとオフである。すべての始まりはオンとオフという2工程しかない。0と1である。世界の始まりはオン(1)だけと思われるけれど、同時にオフ(0)も行われている。
オンオフが同時に行われないと投影はできない。世界を映す光を生むには電力のようなものが必要であるけれど、オンとオフがほぼ同時に行われることで映写機を動かす力が生まれるのである。映写機を動かす力についてはまた別の記事で。
ともかく、スイッチをオンにしたら空間が創造される。世界が創造される第一歩として、映写機はまず空間に北と南を作りだし(そのあと西と東も)、そこに大地と海(そのあと山とか川とかも)を作り出す。さらにその他すべてのもの(生物など)が展開されていく。
まず最初に北と南が作られるのは、方向を定義付けする概念が必要だから。空間の位置を示すものとして「東西南北」という概念が存在するけれど、現実世界でそれらを実感するためにも目に見えるものが必要になる。だからそのあとに地上と海が作られる。概念が生まれれば、そのあと必ず目に見えるものとして現れる。
目に見えるものには意味がある
目に見えるものがあるから、つくられた空間であっても存在を実感できる。そして目に見えるものは、この世界が投影であることを暗に示している。暗にではなく、明にかもしれない。
目に見えるものは私たちに『この世界の真実』を語っているのだけれど、それは当たり前のようにそこに存在するものであるから、私たちはそれに疑問を持つことはない。
空間の重なり
南と北、地上と海はまったくの別物なのに、この世界に同時に存在していることは「重なっている」と言える。この世界に地や海が存在していることは当たり前のことであるが、よくよく考えると異様なのである。
オン(1)とオフ(0)から世界は創造されている。そのことを示すために、北や南、地上と海が存在する。世界(自分)が生まれる瞬間にあたるのが北であり、地上である。死ぬ瞬間にあたるのが南であり、海である。
目に見えるものが私たちに教えてくれる、この世界の仕組み。それにはっきりと気がつくのが「解脱」であったりする。
生と死を繰り返している私たち
世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。
一瞬で基本(0と1)から世界(2〜無限)が展開していき、一瞬でそれら全てが消えている。けれど私たちはオンとオフが同時に起きていることを認識できない。その一瞬は目にもとまらぬ速さで繰り返されているから、この仕組みを見破るのは難しい。
一瞬が連続しているから、私たちはオンが続いていると錯覚している。人間の一生は『生まれるところから始まり死ぬところまでで終わり』だけれど、実は生まれてから死ぬまで、毎瞬生きては死んでいる。
基本が大切
世界には様々なもの・ことが存在しているのに、なぜ白い円には、北と南、地上と海しか書かれていないのか。それは基本が全てを創り出しているからである。
基本になるもの以外はすべて基本から生まれたもの。基本から生まれたものは、基本なしには生まれることがない。基本になるもの(0と1)と、それ以外のもの(2から無限)の違いは大きい。北と南、地上と海は特別なのだ。
重なる時間について
ということで、白い円についての解説はだいたいおわり。生と死の瞬間の「重なり」、北と南・地上と海という空間の「重なり」について理解できれば「解脱」にも近づけると思う。
ところで、過去に戻る時間(青い破線)の先には死を表す南と海があり、未来に進む時間(赤い実線)の先には生を表す北と地上がある。これが意味するところは前回の記事でこのように説明している。
左回りの青い破線について
精神世界
過去に戻る時間の流れ
「苦しみ」に囚われながら生きること
終わり(死)に繋がっている
右回りの赤い実線について
現実世界
未来に進む時間の流れ
「苦しみ」を受け入れながら生きること
始まり(生)に繋がっている
時間の流れには2種類あり、私たちはどちらも体験している。普段体感している時間は未来に進む時間だけれど、頭の中で過去のことを深く考える時、過去へ戻る時間を体感している。
どちらか片方の時間しか体感することはできないけど、過去に戻る時間と未来に進む時間は重なっている。そして、過去に戻る時間は死をもたらし、未来に進む時間は生をもたらす。
2種類の時間が重なっているから、生と死も重なっている。重なる時間についてはこちらの記事でも詳しく解説しているのでぜひ読んでほしい。右回りの時間と左回りの時間。そしてスイッチのオンとオフ。人間の仕組みはとてもシンプルだった。
「この世界の真実(最終解答編)後編」への 23 件のコメント
北と南、めっちゃ考えたんですけど、オカルト情報ないと僕の力では理解できなさそうだなと結論出しましたw楽しみにしてます!
何も無くても意識があれば生まれるということはつまり、自分の意識がない場所には自分ではない自我が存在するかもということですね。僕の自我は僕にしかないので、僕にはデータとしてしか見ることはできないけど、データではない真の他人は僕からは絶対見えないとこに存在はしているのですね!
次に出す記事を読んで欲しいです。しばしお待ちください。
空間とその中心である人間は全ての前提であるから、どちらが先というわけではないということですね。それでも「生まれる」という表現をしてるのは、空間の中にある人間以外の万物が生まれてから空間と人間がいると認識できるから、その時点で生まれてるようなものであるからということでしょうか?
生まれるとは「有る」という意味で捉えていいと思います。何も存在しなくても、意識があるなら、必ず生まれてしまうのです。
あー、僕ちょっと勘違いしてましたね。人間を中心に世界が発生する、真ん中から空間が広がるみたいのを想像してました。世界、空間がなければ人間は生まれないので世界、空間ができるのが先ですよね。中心があるから円があるのではなく、円があるから中心があるのですね。
勘違いしてないようです。中心があるから円があるし、円があるから中心があります。右回りの流れと左回りの流れは同時進行していて、さらに始まりと終わりが重なっているので、空間のあと人間が生まれるし、人間がいるから空間が生まれます。
こんにちは!質問失礼します。
白い円に書かれてる「地上、海」というのがいまいちよくわかりません。どうわからないのかもわからなくて、理解するために何を質問すればいいのやら…「地上、海」というのは比喩表現でしょうか?
比喩表現だとしたら、「映写機はまず空間に北と南を作りだし(そのあと西と東も)、そこに大地と海(そのあと山とか川とかも)を作り出す。さらにその他すべてのもの(生物など)が展開されていく。」というのは産まれる前に体が作られてるというのを表現してるのかなと思いました。大地は体で海は脳みたいな?
あと北/南もよくわかりません。人間が生まれ時に方向感覚が作られるというのはわかるのですが、死が南に繋がってるというのはどういうことでしょうか?
こんにちは!
>「地上、海」というのは比喩表現でしょうか?…産まれる前に体が作られてるというのを表現してるのかなと思いました。大地は体で海は脳みたいな?
いまいちわからないですよね、わたしの説明が圧倒的に足りてないです。まず『自分の意識が現実を創っている』という前提があります。肉体も目に見える世界も意識の産物です。この記事ではそういう世界の解説をしています。
「地上と海」は比喩ではないと言えるし、「1と0」を「地上と海」で例えているので比喩とも言えます。わたしたちの意識は現実を感じる為に、現実としての地上や海を投影します。実際、森羅万象全ては一瞬で投影されるのですが、『見えるものの最初』としての「0(海)と1(地上)」ということです。森羅万象全ての根源は「0(無い/見えない)と1(有る/見える)」です。
「地上(陸)と海」はどちらも「見えるもの」で0と1を表せるのでこの言葉を使いました。例えば「光(1)と闇(0)」でもいいのですが、それはどちらも曖昧なので「見えないもの」です。
>あと北/南もよくわかりません。人間が生まれ時に方向感覚が作られるというのはわかるのですが、死が南に繋がってるというのはどういうことでしょうか?
聖書の創世記第1章には『神による7日間の天地創造』が描かれていますが、「天地創造」も『意識で現実を投影する順序』です。「光と闇(1日目)」→「上の水・大空・下の水(2日目)」→「陸と海(3日目)」という順序で創造されるのですが、わたしがこの記事で書いた「地上と海」は3日目からですね。天地創造1日目に「光と闇」は「昼と夜」と名付けられますが、これがわたしがこの記事で書いた「北と南」で、「目に見えないもの」です。天地創造4日目に「昼と夜」が「見えるもの」になった「太陽と月」が創造されます。
「昼と夜でわかる時間」や「東西南北という方位」は物事が動いたことを示すものなので同じものとみます。つまり、創世記でもこの記事でも「時間→空間」という順序になっています。時間の経過は死に繋がります。「死が南に繋がってる」という件については、今後アップする記事に書きたいと思っているのでお待ちください。
すべての物事は、「0(見えない)グループ」と「1(見える)グループ」に分けることができます。すべてを単純化してみると、世界の仕組みがなんとなく見えてくるかもしれません。
すごく単純で変な質問すみません。
「過去に進む時間の流れ」が「死」に、
「未来に進む時間の流れ」が「生」に繋がっているのはなぜですか?
僕は今までずっと【(死→)生→過去→現在→未来→死(→生)】だと考えていたので、
「過去に進む」のなら「死」の前にまず「生」に繋がるのでは?と思ってしまいます。
ここがすごく気になってしまったので、回答いただけると嬉しいです。
コメントありがとうございます!
>僕は今までずっと【(死→)生→過去→現在→未来→死(→生)】だと考えていたので、「過去に進む」のなら「死」の前にまず「生」に繋がるのでは?と思ってしまいます。
「生→過去→現在→未来→死」というループする流れについてですが、わたしの考えでは「過去(生/死)→現在(生/死)→未来(生/死)」というループする流れです。けれど、確かに、人間は生まれてから意識で「過去や現在や未来」を経験し死んでいくので、正しいとも言えます。
この記事内に書いている「過去に進む時間の流れ」と「未来に進む時間の流れ」は、それぞれを独立したものとして説明していました。「過去に進む時間の流れ」は精神世界であり、『死の性質を持っている』ということです。それを『死に繋がっている』と表現しました。これが質問の答えになります。
蟹江さんは「過去に進む時間の流れ」と「未来に進む時間の流れ」が重なりループしている前提で考えている、ということでいいのでしょうか??だとしたら「過去に進む時間」も生に繋がっています。図の中の白い円では生と死が重なり、それらを分けて考えることがなくなる瞬間です。だから本当は「過去に進むこと」「未来に進むこと」どちらも生と死に繋がっています。
こんにちは(^^)
“めちむしさんが「現実が幸せな人生」を選択した場合、めちむしさんが「精神世界(こころ)で怖さや辛さを感じる役目」を負っています。苦しいとは思いますが、その責任をがんばって果たしてください。”
この部分なのですが、現実世界も精神世界の双方が幸福な人生は存在しないという事でしょうか?
もうなるべく苦しみたくないですが、現実、精神のどちらかが幸せだとそれは無理すかね?
因みに私はめちむしさんではないです(^^)
こんにちは。はじめまして。コメントありがとうございます!
>この部分なのですが、現実世界も精神世界の双方が幸福な人生は存在しないという事でしょうか?
一時的に双方が幸福な人は存在すると思います。人生(現実)では幸福な時期、不幸な時期が交互に訪れるものだと思います。気分(精神)も上がったり下がったりするものです。だから、双方が長い期間幸福であることはないと思います。
めちむしさんへの返信は、めちむしさんに理解してほしいと思ったことを強調して書きましたが、『精神世界で苦しむこと』は誰にとっても大切なことだと思います。不幸があるから幸福が存在します。今、戦争が起きていますが、戦争について深く悲しみながら、自分が幸福であることを実感することが大切です。不謹慎なことに思えますが、不幸を経験していないと幸せであることに感謝できません。
>もうなるべく苦しみたくないですが、現実、精神のどちらかが幸せだとそれは無理すかね?
わたしももう苦しみたくないです。けれど現実、精神、どちらかが幸せであればいいのではないでしょうか。苦しみは消さないでください。苦しみ、喜び、どちらも存在するから感情があります。
幸福だけが存在する世界を想像してみてください。幸福が長い間ずーっと続いたら、それが幸福なのかどうか、いずれ理解できなくなります。対比するものが存在しなければ、物事の判断が出来なくなります。そんな人間は退化していくことになるでしょう。退化を「幸福」と捉える人も存在するかもしれませんが。
よーさんの記事から他も色々と見させてもらいました。理解が深まり勉強になりました。
こんな貴重な記事をありがとうございます。これからも楽しみにしています。
コメントありがとうございます!!
よーさん記事から他の記事も読んでもらえて嬉しいです。
今後も色々と書いていくので、どうぞ宜しくお願いします。
あなたの中ではそういう事ってだけじゃなくて?
バランス取ることが当たり前じゃない人がいても不思議じゃないと思うけど
今は心のバランスを取れてない人が圧倒的に多いと思います。むしろ、今はそれが自然です。
けれど、バランスが取れていない自分(辛さや悲しみに支配されている自分)に不安を感じてしまう人が多いのでしょう。だから、めちむしさんはわたしに質問してきたのだと思います。
不安な人が、わたしのブログに訪れることは多いかもしれません。不安を取り除く方法として「解脱する方法」というテーマで記事を書いているので。
不安な人は、みんな「自分の心が何故不安を感じるのか?」を理解したいのだと思います。
めちむしさんへの返信にも書きましたが、むしろ、バランスを取っているから不安を感じているのです。ややこしいですね。心のバランスを完璧に均等にする経験を再体験(それが解脱です)すれば、そのことが解ります。
わたしは「バランスを取ること」を強制したいわけではないです。というかそもそも「バランスを取ることの再体験」はとても危険なので、おすすめしてません。そのことは記事でも何度か書いています。
匿名さんが何度もコメントをくれるのも、「バランスが取れていない(と感じる)自分」に対する不安からなのかな?と感じました。
バランスを取らなくても全く問題ありませんし、バランスを取らないこと(バランスを崩すこと)で新しく生まれるものもあります。それがすごく自然な流れです。
だから、バランスを取らなくて、そのままで全然いいと思いますよ!!
このブログは「バランスを取る再体験」をしたい人の為に書いているので、求める人に伝わればいいな、と思っています。そんな感じで、よろしくおねがいします。
何でバランス取らないといけないの?
ここの部分までちゃんと説明してあげないと分からないでしょ
「バランスを取ること」の説明は、「バランスを取ること」があまりにも当たり前のことなので説明するのもとても難しいです。
当たり前のことって説明するのが一番難しいのです。それを簡潔に説明できるようになったら、成長したなーと、自分自身感じることと思います。
何故バランスを取らなくてはいけないのか?ということの答えが直感的感覚的に解らなくなってしまったのが現代人なのかもしれません。
「理論的に説明してもらわないと、納得できない」という感情は人間がさらなる知恵を求めた結果でしょう。けれどそれは私達の生活を豊かにしていますね。良いことも悪いこともあります。
コメントありがとうございました!
もう宗教じゃん
あなたの分かった事はあなたの中ではな、ってレベル
そういう解釈をしていますって注釈つけとけよ
宗教って、開祖本人、またその集団が考える「わたしが解った真実、わたしが信じている真実」を元にできてるので、そういった意味ではこのブログも宗教ぽいのでしょうね。
現代は宗教ぽさを出すと拒絶反応を示す人が多いみたいなので、個人的にはかなり気をつけてこのブログ作っていますよ。
「わたしが考えた真実、わたしが解った真実」は揺るぎないものなので、それを表明するには「言葉の強さ」が出てしまうものです。どの宗教にも言えることだと思います。というか、それが無いと宗教そのものが生まれていませんが。
なので、わたしのブログも、気をつけていたとしても宗教ぽさは出てしまいますね。わたしには、揺るぎない信念みたいなものがありまして、それがブログを書く原動力になってます。頂いたコメントに返信する際もその信念に基づいて書いているので、はっきり強めな主張の仕方です。
毎回、頂いたコメントには、熟考し、強い自信を持って返信しております。いつもコメントありがとうございます。
ところで「このブログ記事や返信コメントは、全てpancyanの解釈です」というような注釈をどこかにつけてほしいということですか?それは何故ですか?
pancyanさん
こんにちは。
めちむしと申します。
「よーさんの妄想書いてくよー」という記事から最近pancyanさんのブログに辿り着きました。
今回の記事にも関連する内容だと思いますが、2019.11.14の『私たちは在りて在りし者』という記事について、どうしてもお聞きしたいことがあります。
上記の記事の中で、
『個人の救済から世界の救済へ』
という章がありますが、その中で、
>>神の目的はバランスを保つこと
>>「集合的無意識(神)」は世界のバランスを保つことを目的としている。完璧なバランスとは正反対のものが同じバランスになること。バランスが完璧になったときに世界の救済が起こる。仏教の世界ではそこを涅槃と呼ぶし、キリスト教の世界では天国と呼ぶ。
と書いてあります。
これは、「正反対のものが同じバランスになること」ということは、幸せな人と不幸な人は同じバランスにならなくてはいけないということなのでしょうか?
例えば、世界のどこかが平和だからこそ正反対の戦争をしている国があるのだとしたら、
また例えば、美しい存在や優しい存在があるからこそ、正反対のおぞましい出来事や惨たらしいモノ・目を背けたくなるような悲惨な現象があるのだとしたら、
バランスを保つためには、常に誰かが辛くて苦しい側にいないといけないのでしょうか?
全員が幸せで心地よい世界はなどは有り得ないのでしょうか?
よく引き寄せの法則などでも全ての事象は自分が選んで体験しているのだと聞きます。それでは、自分で好きに選べるのなら幸せな世界にいようと思って選んだ場合、バランスを保つために代わりにどこかで誰かが不幸になるのでしょうか?
また次の「バランスの悪い時代に生きるわたしの自我」という章では、
>>今はバランスがとても悪い。皆が同じような労働をして、人間が決めた狭い価値観の中で「モブキャラ」のように一生を過ごす人が多い。世界を変えようとする意志をもつ人が圧倒的に足りない。だから自我の重要性に気がついて、行動を起こすことが求められている。
私はバランスを戻す為に自我を活用してこのブログを始めた。『世界が完成する瞬間をこの目で見たい』という強い意志がある。そのために「悟り」をお勧めし、啓蒙するのだ。
と書いてありますが、
全員がモブキャラではなく主人公になることができてしまったら、それこそ全員が幸せを求めてバランスが崩れるのではないでしょうか?
それともバランスを保つための不幸すらも、集合的無意識で同意しているから主人公として受け入れ・自ら選択する人たちがいるのでしょうか?
よくこの世界は愛で溢れているなどと聞きますが、もし上記のことが真実だとしたら、なんて残酷な世界なんだろうと思います。
たしかに、光が存在するためには闇という概念がないと存在できません。
健康で嬉しいと感じるためには、この世界にそもそも病気や怪我という現象がないと健康の嬉しさを感じられません。
このように、どこかの誰かを犠牲にして不幸が存在しているおかげで幸せが存在するのだと思うと、とても怖くて辛いです。
そしていま私が怖くて辛いと感じるていることすらも、パズルのピースのように必要な現象なのだとしたら、私は怖くて辛いままでいないといけないのでしょうか?
私が幸せのみの世界を選んだ場合、他の誰かが怖さや辛さを感じる役目を負うのですか?
もしそうだとしたら、まるで幸せや楽しさや嬉しさを味わえる役は席数が決まっていて、人間は皆壮大な椅子取りゲームでもしているみたいです。
長々と質問ばかりしてしまってすみません。
どうしても聞いてみたくて書き込みをしてしまいました。
お返事を頂けると嬉しいです。
最後に、いつもブログの更新をありがとうございます。
寒くなってきたのでお体気をつけて。
コメントありがとうございます!すごく長くなりそうですが、ひとつひとつ回答させてください。
>>これは、「正反対のものが同じバランスになること」ということは、幸せな人と不幸な人は同じバランスにならなくてはいけないということなのでしょうか?
世界がバランスを保っているから幸せな人と不幸な人がいます。昔からもこれからも、未来永劫ずっとこのバランスは保たれます。この世界の法則なので、絶対に変えることができない事実です。
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>>バランスを保つためには、常に誰かが辛くて苦しい側にいないといけないのでしょうか?全員が幸せで心地よい世界はなどは有り得ないのでしょうか?
残念ながら、全員が幸せで心地よい世界は絶対にありえません。そう言い切ることができます。それがこの世界の道理だからです。
けれど全員が幸せな世界が生まれる可能性が無いとも断言できません。ものすごい低い確立だと思うのですが、そんな世界を目指してこのブログをやっています。意識の中で望むことだけは自由なので。
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>>よく引き寄せの法則などでも全ての事象は自分が選んで体験しているのだと聞きます。それでは、自分で好きに選べるのなら幸せな世界にいようと思って選んだ場合、バランスを保つために代わりにどこかで誰かが不幸になるのでしょうか?
はい、全ての事象は自分が選んで体験しているのですが、不幸になる人もまた自分で選んでいます。人間は、生まれ変わりながら、幸せな人生と不幸な人生を交互に体験しています。
現代日本に生まれたのなら、かなり幸せな人生と言っていいと思います。ただし、現実世界が幸せだと精神世界(こころ)が不幸になります。だから、めちむしさんは今苦しんでいるのだと思われます。
逆に現実世界が不幸な時は、精神世界(こころ)は希望や幸せを感じやすいようにできています。一人の人間が体験している現実世界と精神世界も、またバランスを保っているのです。
不幸な現実でも精神世界が存在しているから生きていけます。人間は苦しい世界の中でも生きていけるような機能を備えているので、あまり心配しすぎないでください。
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>>全員がモブキャラではなく主人公になることができてしまったら、それこそ全員が幸せを求めてバランスが崩れるのではないでしょうか?
なんだか、すごいことに気がついていますね。そうなんです、全員が主人公を目指して、幸福を求めたら実際バランスが崩れてしまいます。幸せな人と不幸な人は同じだけ存在しなければなりませんから。
バランスが崩れないように、全員が主人公になる方法はあります。「心の中でひっそりと主人公になる」という方法です。現実世界で大活躍して幸福になる、ということではありません。
『私たちは在りて在りし者』という記事を書いたときのわたしは、まだ世界の理解が深まっていない状態です。その記事には「主人公になれば世界が救われる」と書いてますが、現実世界の話であると勘違いしている状態です。
「心の中で主人公になる」というのが正しい答えです。自分の心の中の話なのです。わたしの心の中の話でもあるし、めちむしさんの心の中の話でもあります。
「心の中で主人公になる」というのは、仕事とか趣味とかを、強い使命感を持ちながら、無理せず自分に本当に向いていることをやるってことです。これがなかなかできないんですよね。
子供の頃、一人遊びを楽しんだ記憶ありませんか?大人になってそれをやる感じです。これはよーさんも言っていたはずです。現実世界に不幸な人がいようと、自分だけが主人公になるような空間を心に作って楽しむ感じです。
この一人遊びを現実に持ち込まないようにします。あくまでも心の中のひとり遊びです。現実世界と精神世界をきっちりと分けて考える意識が必要になります。
現代日本に生きる私たちならば、現実世界で普通の人間を演じながら、精神世界(こころ)で苦しみを感じつつ、主人公になるようにするのです。ひっそりと主人公を演じることで幸福を感じます。
それは精神(こころ)に苦と楽が同じだけ同居している状況で、心の中に平安があります。でも現実世界の自分は普通です。喜んだり怒ったり喜怒哀楽をちゃんとに表現できる状態です。
これができれば、全員が幸せを求めてもバランスが崩れることはありません。でも、大抵は「苦しみを感じている自分」か「幸せを感じている自分」どちらかに偏りたくなるものなのです。
しかし、わたしは「解脱」という体験後に、その苦と楽のバランスを上手に保ちながらひとり遊びできるようになりました。わたしが記事の中で言う「正反対のものが同じバランスになること」というのは「精神世界(こころ)の中でバランスをとること」です。
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>>それともバランスを保つための不幸すらも、集合的無意識で同意しているから主人公として受け入れ・自ら選択する人たちがいるのでしょうか?よくこの世界は愛で溢れているなどと聞きますが、もし上記のことが真実だとしたら、なんて残酷な世界なんだろうと思います。
この世界は残酷です。現実が不幸な人生を選んで生まれてきたとしても、それを「自分で選んでいる」などと感じることはできないので。
けれど、先ほど書いたとおり、現実世界と反対に作用する精神世界があることで、人間は残酷な世界の中でも生きていけます。人間は結構強いのです。だから人類は地球で生き残ってます。
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>>このように、どこかの誰かを犠牲にして不幸が存在しているおかげで幸せが存在するのだと思うと、とても怖くて辛いです。そしていま私が怖くて辛いと感じるていることすらも、パズルのピースのように必要な現象なのだとしたら、私は怖くて辛いままでいないといけないのでしょうか?
先ほども書きましたが、誰かを犠牲にして不幸が存在しているのではなく、幸せと不幸を順番に体験しているだけです。輪廻転生は苦と楽を同じだけ体験できる仕組みになってます。誰かが多く苦を体験してるとかはありません。
めちむしさんも過去の人生では「現実世界が不幸な人生」を必ず経験してます。今回は「現実世界が幸せな回」というだけです。「幸せな現実世界」に生きていると、どうしても「不幸な現実世界を生きている人」を心配してしまうのですが、それは「幸せな現実を生きている人」の特徴的な行動です。
その状態についてよーさんは「心配するふりうまくなっちゃだめ」と言っています。「誰かを犠牲にして自分が存在している」と考えてしまうのは、実際は「犠牲になっている人を想像して心配するふり」をしているだけなのです。
でも、きっとめちむしさんにそんなつもりはないと思います。誰かが犠牲になっていることを本気で心配しているだろうし、本気で悲しんでいるのだと思います。精神(こころ)の正しい状態です。反作用が起きています。
「心配しているふり」というと、偽善的な感じがしますが、それは人間の機能なので恥ずかしがったり罪悪感を感じる必要はありません。
そもそも不幸な人(犠牲者)を心配する行為は「幸せな人間」しかできないのです。実際「不幸な現実を体験している人」の苦しみはとても大きくて、そんな苦しみを抱えている人は他者(他の犠牲者)の心配をしている暇がありません。生きるのに必死です。
———-
>>私が幸せのみの世界を選んだ場合、他の誰かが怖さや辛さを感じる役目を負うのですか?
めちむしさんが「現実が幸せな人生」を選択した場合、めちむしさんが「精神世界(こころ)で怖さや辛さを感じる役目」を負っています。苦しいとは思いますが、その責任をがんばって果たしてください。
現実世界が不幸な人は現実の中で、現実世界が幸せな人は精神の中で、同じくらい苦しむことになります。ここでもバランスが保たれています。苦しみは人類みな同じです。世界はしっかりと平等なのです。
その役目を負いたくないから、自分ではない「不幸な現実を生きている人」の心配をしてしまうのです。それは、苦しみを背負う役割を放棄できるようになる世界を作り出す行為なのです。
現実世界が幸せな人が精神世界で苦しまなくなると、バランスが崩れますよね。今や現実世界が苦しい人も精神世界で幸せを感じるのが難しい世界になってきているようです。
役目を背負う覚悟ができたとき、「苦しみ」を感じる原因を解明できるようになったりします。それが「解脱」です。解脱に行き着くまでに精神の中で地獄のような苦しみを味わうのですが、その試練を乗り越えた人だけ人間の仕組みが理解できるようになります。
人間の仕組みがわかるようになれば、世界の現状についても腹の底から納得できるようになります。仕組みが理解できれば「怖さや辛さ」を体験しつつ、それを乗り越えていく力がつきます。
めちむしさんは今、とても苦しんでいらっしゃると思いますが、このように抜け道がちゃんと用意されているので、頑張ってほしいです。
豊かな国に生まれた私たちの役目は、精神世界でちゃんとに苦しむことです。現実世界を無理矢理変えようとしないことが大切です。
苦しみばかりに注目すると疲れてしまうので、たまには「面白い」という感情に注目して休憩してみてください。人間の仕組みを解明することを面白がると、休憩がてら解脱も可能かもしれません。
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この回答で理解できましたでしょうか?わからないことがあれば、いつでも聞いてください。誰もが悩んでいることを分かりやすいことばで、質問として投げかけていただき、ありがとうございます。回答していく中でわたしの頭の整理にもなりました。
もし可能であれば、今後記事にする予定の「よーさん予言解説記事」の中でめちむしさんの質問を使用したいのですが、どうでしょうか?