投稿日:2020-11-26 | 最終更新日:2023-10-04

今回は「地獄」について考察していく。仏教・キリスト教・日本神話という3つの視点からみた「地獄」について考察しながら、「地獄」という場所がどんな意味を持っているのか答えを出していきたい。

「聖杯」について書いたこちらの記事を先に読んでほしいところ。「聖杯」を獲得するには「地獄」という試練を乗り越えねばならない。「聖杯」は「解脱」に必要なアイテムである。

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つぎに「このブログについて」を読んでもらうとこの記事への理解が深まると思います。

仏教における「地獄」

欲界に存在する地獄

死後に生まれる世界が地獄

地獄(じごく、梵: Naraka)とは、仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が、死後に生まれる世界とされる。奈落迦、那落迦、捺落迦、那羅柯などと音写される。

wikipedia

罪を犯した者が死後に生まれる場所が「地獄」だというのは、多くの人の認識であると思う。現世において罪を犯さないよう、戒めのために考えられたのが「地獄」だと思われているのかもしれない。

しかしながら、仏教には輪廻転生という思想が存在する。輪廻転生を信じるのならば、前世で死んだあと現世に生まれてきているのが私たち。つまり今生きている私たちは既に死後なのである。

罪を犯した者が死後に生まれる場所が「地獄」ということは、もしかしたら、現世そのものが「地獄」である可能性もある。

三界と地獄

仏教には三界(欲界・色界・無色界)という、この世界を三つに分ける考え方がある。以前の記事でもちょっと紹介したけれど、改めてまとめる。

欲界=私たちが住む世界。欲望に囚われている世界。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚がある。

色界=食欲と性欲が残る世界。まだ空間と物質がある世界。視覚・聴覚・意識だけがある。
(わたしはとある日に色界を体験した。美しくて気持ちよかった。空間も物質もあった。)

無色界=欲望を超越した世界。空間も物質ない世界。意識だけがある。精神世界。
(わたしは最初の悟りで無色界を体験した。あまりにも一瞬すぎたのだが何もなかったのでたぶんここ。てか、絶対ここ。)

欲界は私たちの居るところなのだが、この中にも5つの世界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界)がある。「地獄」というのはやはり人間が生きている五感のある現実世界の中に存在するということである。

六道輪廻について

6つの世界

さらに、仏教には六道輪廻という思想がある。先ほど紹介した5つの世界の中に「天界」を足した6つの世界(道)のことを言う。この6つの道をぐるぐると輪廻しているのが人間で、生きているものたちには業があるからこの六道から抜けられない。

ということで、『わたしの考える六道の意味』をここから解説していきたい。六道についてもう一度確認。

天道(てんどう)・人間道(にんげんどう)・修羅道(しゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道(じごくどう)

意識の違いで道は変わる

六道の中には「人間道」というものがあるけれど、私たち人間全てがここに居るわけではない。私たちは同じ地球という場所、同じ時代に居るけれど、本人の意識(思考)次第で六道のうちどこに居るのかが変わる。つまり六道輪廻というのは「意識状態」を表しているのである。

欲望や嫉妬ばかりの思考を持っている人は餓鬼道に居るし、人間以外の生きるもの(人間と同じ高度な思考を持たないもの)は畜生道に居る。まだ人間に成れないものたちも、いつかは「畜生道」以外の道を体験するであろう。

「地獄道」というのは六道の中でも最悪の場所。本人の意識(思考)次第で場所が変わるのだから「地獄」というのは、意識の中で最悪の状況が起きているということ。

道は時代をも表す

六道(ろくどう、りくどう、梵: ṣaḍ-gati)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界ともいう。

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wikiからの引用にあるように、業の結果として転生するのが六道のうちのどこか。人間はこの五種の世界を(人間道を除いて)どこか異世界のように感じているのかもしれないが、六道は「時代」のことも表している。つまり、業によって生まれてくる時代が変化するのである。

六道輪廻は「時代」と「意識」の両方を表現しているのである。人間の「意識状態」で「道」は変わるし、『今、生きている時代そのもの』が六つのうちのどこかの「道」であるということ。

人間は時代の流れと共にこの六道をぐるぐるとしているが、どの時代にも幸福な人・苦難の中にいる人が存在するわけで、それが意識次第で「道」が変わるということである。だとすると、やはりこの現実世界そのものが「地獄」であるといえる。どの時代にいても意識次第で「地獄」へと変わる可能性がある。

人間の意識と時代は密接に関係している。平和な時代に生きていれば意識だって穏やかなはずである。穏やかに人間を楽しむことができるのが「人間道」なのだろう。そこにも生きる苦しみは存在するのであるが。

三善道と三悪道

このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という。

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六道は「三善道」と「三悪道」に分けられるという。人間は六道輪廻から「解脱」することを目的としているが、「解脱」できる道こそが「三善道」なのだ。

意識が「三善道」に居ることで『解脱の可能性』が見えてくる、ということ。「三悪道」ではちょっと難しい。本能に翻弄され、欲にまみれ、苦しみから逃れられない思考を持つ者では「解脱」は遠い。

天道は解脱に近いのか?

「三善道」の中でも、「人間道」より素晴らしい世界だと思われているのが「天道」である。世間では天道が一番「解脱」に近いところとされているのだろうか。

天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。

天の中の最下級のものは三界のうち欲界に属し、中級のものは色界に属し、上級のものは無色界に属する。

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たしかに「天道」には苦しみがなく素晴らしいところであるが、wikiにも書いてあるように煩悩の中にある。「天道」の中にはさらに3つの段階がある。最上級の場所は「無色界」に属しているが、そこは物質界ではない。物質界ではないところは精神世界というところ。

この「天道」の最上級な場所は「解脱した場所」と勘違いされやすいのだが、わたしがこのブログで強く主張したいことは「解脱した世界」というのは物質界の延長線上にあるということ。

天道は夢を見る場所

人間が「天道」に入って、苦しみの無い美しい世界で遊んでばかりいるのだとしたら「解脱」はできない。気分転換としてたまに「天道」に居るのなら良いのかもしれないが。

その世界を「解脱」だと信じて盲目的にその場所に居ることを続けても、いつか寿命が尽きて死んでしまう。そしてまた六道輪廻に組み込まれ、苦しみがやってくる。

実際に「天道」に居る人は現実に存在するのか?という疑問があるかもしれないが、宗教者や、スピリチュアルに傾倒している人など、完全に自分だけの世界を創り出している人がそれである。「天道」以外に居る人々の目には見えないものを創り出して見ている。

解脱するための道は修羅の道

六道のなかには「解脱」するための場所が存在している。それが「修羅道」というところ。ここが「解脱」するための道だと気がついている人はいるのだろうか?

修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

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人間は「解脱」のための試練として「修羅道」に入る。「修羅道」は終始戦い、争う場所であるが「解脱」にはその厳しさが必要なのである。

「修羅道」がなぜ「解脱」するための場所と言えるのか?ここは阿修羅という神が支配している場所で、阿修羅の物語を知るとその意味が見えてきたりする。こちらはまた別の記事で改めて解説したいと思う。

六道は「時代」のことを表している、と先ほど言及したけれど、「修羅道」は争いの時代の中に居るとも言える。けれども「解脱」したいと思っていない人にとっては「地獄」の時代ともなってしまうのである。

関連カテゴリ:輪廻からの解脱

現代は「修羅道」という時代

六道輪廻を図解

そろそろ「地獄道」という時代がやってくる、とわたしは考えている。何度も何度も罪を犯して反省しなかった者たちが集まり、自らを罰する準備が意識的に整った時代に「地獄」はやってくるはずなのだ。ということで、六道輪廻が「時代を表す」ことについてわかりやすく図にしてみた。

六道輪廻の移り変わり

この図は外側にある矢印の流れのように、右回りに時間が流れている。これら6つの時代を作っているのは人間全体の意識である。人間全体の意識のことを集合的無意識ともいう。つまり、意識の多数決で時代の「道」が変わっていく。

それから、真ん中の円には「自己」とあるが、これが輪廻の中心にいる自分自身。どの時代に居たとしても「意識状態」で「道」が変化することを表している。

関連記事:集合的無意識ついて

現代と最後の審判について

今現在は「修羅道」という時代であり『解脱が可能である』と気がつくことができる、唯一無二の時代でもある。これから先は「地獄道の時代」に突入していくのであるから、いま「解脱」を目指しておくことが「地獄」の苦しみを逃れる唯一の方法でもある。

「地獄道」という時代は世界全体が辛く苦しい状況になる。そこは「最後の審判」の時代でもある。なんと、輪廻には区切りが存在する。ここで一旦の終わりを迎えることが決定していて、ここで「解脱」できるか・できないかの判断が下されるのである。

「解脱」の可能性がある人間は、必ずこの「地獄道」という時代を経験する必要がある。準備が整ったものだけがこの時代に挑戦することができる。「解脱」できなければ、またいずれかの時代に組み込まれていく。

時代と意識を合わせること

流れに乗って苦しむのか、苦しみから逃げるのか

自分自身の意識によって六道の場所が変わるということは、苦しみから逃れるために「天道」という道を選び取ることも可能である。意識の変化で自分を救うこともできる。

しかしながら『自分の意識の道』と『時代の道』が合わないことは、輪廻に逆らうことになる。車輪はスムーズに回るほうが絶対に良い。流れに乗ることは大切なのだ。

「地獄道」という時代がやってきたら、現実そのものが「地獄」のような状態になる。人間全体の意識の状態が現実にそのまま現れるのである。「修羅道(現代)」や「餓鬼道・地獄道(これから来る時代)」において、意識が「天道」にあるのならば時代の流れに合っていないことになる。

意識の状態で「天道」に完全に入り込むことができていれば、「地獄」のような現実を気にせず自分が創り出した世界に閉じこもることができる。けれど中途半端に「天道」に足を踏み入れているとしたら、現実の厳しさに耐えることはできない。だからこそ、流れ(輪廻)に逆らうことは危険なのだ。

「天道」は難しい道

意識だけを「天道」にすることは才能であり、誰でも「天道」に行けるわけではない。宗教者だったら教祖になるくらいの人物であるだろうし、スピリチュアル界隈だったら多くの信者を集められるような人物であるだろう。

そこまでのレベルに到達することができないのならば、やはり中途半端なのである。他人の言葉を信じているレベルでは「天道」という道に行くことはできない。

キリスト教における「地獄」

苦悩する霊魂(意識)

続いてはキリスト教における「地獄」について考察していきたい。さっそくwikipediaからの引用。

キリスト教での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態、霊魂が神の怒りに服する場所とされる。他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が正教会にある。この見解はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場するゾシマ長老の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている。

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『愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が正教会にある。』という解説からも分かるとおり、やはりキリスト教の中でも「地獄」は『苦悩している霊魂の状態を指す』という見方がある。

これは「意識の状態」が六道の場所を決める、ということと同じ。キリスト教では人間の「意識」のことを「霊魂」と表現している。霊魂(意識)とは肉体の中に存在する「目に見えないもの」であり、それが人間をコントロールしている。

ダンテ「神曲」から学ぶ地獄のこと

イタリア生まれの有名人ダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」という叙事詩。この「神曲」三部作は地獄篇(Inferno)から始まる。「神曲」で描かれる「地獄」はキリスト教のカトリックな世界観である。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史上でも極めて重きをなしている。

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「神曲」はダンテ自身が主人公であり、地獄→煉獄→天国と旅していくお話。始まりが「地獄」であるということは、やはりこの地球という現実世界が人間にとっての「地獄」であるということを物語っている。

サンドロ・ボッティチェリがこの「神曲」の挿絵として「地獄の見取り図」を描いている。以下に引用するが、「地獄」は漏斗のような逆三角形のような様相。ダンテがその最深部(最下層)を目指し、順番に降りていくのが「地獄篇」である。

引用元:wikimediacommons

映画「インフェルノ」と地獄の見取り図

ダン・ブラウン原作の「インフェルノ」という物語。映画にもなっている作品である。「インフェルノ」の物語から地獄の意味するところを学ぶことができる。

映画のあらすじをかいつまんで説明すると、主人公がウイルス兵器による世界滅亡を防ぐために、ボッティチェリ「地獄の見取り図」に隠された謎を説いていく。ウイルス兵器の場所は「地獄の見取り図」の中に隠されていた。

奇しくも現在、新型コロナウイルスが猛威を振るっている世界。人類に恐怖を与えるもの(ウイルス)が存在する「地獄」のような時代である。

悪役は真実を語る

「インフェルノ」の物語の中で、人類を減らすために殺人ウイルスを巻き散らそうとした人物がゾブリストである。ゾブリストはウイルス兵器の場所を「地獄の見取り図」に隠しており、その謎を解いていくのが主人公のラングドン教授。「地獄の見取り図」にはゾブリストによってとある文章が書き込まれていた。

絵には原画にない文字が加筆されており、「R、E、C、V、R、A…」と判読して並べ替えると、イタリア語で「CHERCA TROVA(チェルカ・トローヴァ)=尋ねて見出せ」となりました。そして「地獄の見取り図」の下のほうにはThe truth can be glimpsed only through the eyes.(真実は死者の目を通してのみ見える)という英文も書き添えられています。

【ネタバレ考察】映画「インフェルノ」意味わからんすぎ!?暗号の謎を解読!

CHERCA TROVA(チェルカ・トローヴァ)=尋ねて見出せ』とは。「地獄」へと足を踏み入れていくことは「自分自身に尋ねて見出す」こと。「地獄」に行くことは、自分自身が過去に犯した罪を確認し、認めていく作業である。それから『真実は死者の目を通してのみ見える』という言葉は『一度死んだものしか真実を知ることはできない』ということを意味している。

この作品の中で最大の悪役とも言えるゾブリストは真実を語っている。人間は『生きながら死ぬこと』が可能であり、それが「解脱」というものなのだ。自分の過去の行いについて自問自答しながら「地獄」へと足を踏み入れ、最深部に辿り着いた時、人間の真実を知ることが『生きながら死ぬこと』である。

ボッティチェリの「地獄の見取り図」が逆三角形になっているのは、下の階層に進むほど、狭く暗くなることを表している。最深部に近づくほど苦しみが増えるのだ。最深部はとても孤独な場所であるが、そこに真実が隠されている。

私たちは殺人者だった

「地獄」を生きて抜け出すことは可能なのであるが、それを知らない人間は「地獄」に囚われたままになる。「地獄」を抜けることができない人間は最終的に「他殺」か「自殺」を実行することが決まっている。人間の思考は最終的にその二つのどちらかを選ぶのである。だから「地獄」を抜けられない者たちは、また「地獄」であるこの世界に堕ちてくる。これが輪廻である。

つまり、いま現在この地球上に生きている人間は前世で「他殺」か「自殺」を行っているということ。もちろん、この記事を書いているわたしも、その罪を犯しているからこの世界に居る。

残念ながら、私たちはみんながみんな凶悪な「殺人者」であり「悪魔」なのだ。それが人間の「真実」である。「自殺」も自分を「殺人」することに変わりない。「病死」も「自然死」も全て「自殺」である。信じられないだろうが。

地獄の次は煉獄山へ

ダンテの「神曲」では「地獄」を抜け出すと「煉獄篇」へと移動することになる。煉獄篇で、ダンテは「煉獄山」を登って行く。以下に引用した絵画は、画家ドメニコ・ディ・ミケリーノの描いたダンテ本人と「神曲」の世界観。

この絵の中、ダンテの後ろにあるのが「煉獄山」である。それは逆三角形であった「地獄の見取り図」を裏返したような山となっている。「地獄の見取り図」と「煉獄山」の形からわかることがある。「地獄」と「煉獄山」は「裏」と「表」を表しているということ。

引用元:wikimediacommons

生きながら死ぬことについて

ところで、『六道輪廻では意識の違いで居る場所が変わる』と言ったけれど、「修羅道」に入るのにも意識の上で「地獄」を徹底的に体験することが必要になる。それが「地獄」の最深部まで潜ること。そこで『生きながら死んだ』のならば「修羅道」へと進むことになる。

「地獄」の最深部において『生きながら死ぬ』ことは意識の大きな変化なのである。六道輪廻では「地獄道」が「修羅道」へと変化すること、キリスト教世界では「地獄」が「煉獄山」へと変化することである。無事に生きて「地獄」を抜け出したのならば「天国」への道が開かれる。

「地獄」で大きな意識の変化が起きれば「煉獄山」を登っていくことができる。その先には「天国」がある。次の章では「地獄」と「煉獄山」が「裏」と「表」であることの意味を日本神話から学んでいきたいと思う。

日本神話における「地獄」

精神世界(裏)と現実世界(表)

日本神話の話に入る前に、まずは裏と表が何を表すのか。裏が「精神世界」のことで、表が「現実世界」のことを表す。「現実世界」というのは私たちが毎日生活していると思い込んでいる場所。けれども『過去の自分について深く思考』しているとき、私たちは「精神世界」に存在している。

「精神世界」というのは「意識(霊魂)」のことである。「心の中」と言ってもいい。人間が「精神世界」に存在している時は、意識状態をコントロールすることができる。とは言っても、意識状態を自らコントロールすることはなかなか難しい。だからこそ、現実世界に起きる様々な出来事に翻弄されて「意識」の中で様々な「六道」を体験することになる。

それぞれの裏と表

仏教の精神世界(裏)と現実世界(表)

六道輪廻では、意識状態の変化で「地獄道」を「修羅道」へと変えることができる。

地獄道(裏) → 修羅道(表)

キリスト教の精神世界(裏)と現実世界(表)

「地獄」の最深部に降り「悪魔」に出会った後、最深部を抜け出すことができれば「煉獄山」の麓へ。

地獄(裏) → 煉獄山(表)

日本神話の精神世界(裏)と現実世界(表)

黄泉の国(裏) ⇄ 根の国(表)
根の国(裏) → 葦原の中つ国(表)

日本神話で「地獄」だと思われている場所は「黄泉の国」である。そこは死者の国であるから。しかし、日本神話における「地獄」の場所は「黄泉の国」であり「根の国」である。そして「煉獄山」にあたるのが「根の国」であり「葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)」である。

一方通行と双方向

一方通行の意味

仏教とキリスト教では「精神世界」という裏世界を抜け出すと「現実世界」である表世界に行ける、ということを一方通行の矢印で示してある。「精神世界」から「現実世界」に行くことが何を表しているのだろうか。

現実世界で「地獄」という最悪の状況を体験する前に、精神世界で「地獄」を経験しておく、ということである。「地獄道」の時代はあまりにも辛く苦しいものなので、意識の中で「予行練習」しておく、というかんじ。「解脱」するにはこの「予行練習」をクリアすることが必須条件なのである。

「地獄」のような意識状態を経験したあと「修羅道や煉獄山」という解脱するための(天国に行くための)道が開かれる。

双方向の意味

黄泉の国(裏) ⇄ 根の国(表)
根の国(裏) → 葦原の中つ国(表)

ところで日本神話では、「黄泉の国」と「根の国」を結ぶ矢印が双方向になっている。これは普段から私たち人間が、精神世界(裏)と現実世界(表)を行き来していることを表している。

「予行練習」をクリアするためにも、精神世界(裏)と現実世界(表)を行き来している、ということを強く意識しておくべきなのである。なぜなら「予行練習」であるのに「精神世界」と「現実世界」がごっちゃになってしまうと、人間は「現実世界」で「殺人」を犯したり「自殺」したりしてしまうのである。

再犯しないためにも

「現実世界」で罪を犯してしまえば、死んだあとその罪によって再び六道輪廻に組み込まれてしまう。「精神世界」と「現実世界」をしっかりと分けることを学ばないと、罪を繰り返してしまうのだ。

特に現代は「解脱」を目指すことのできる「修羅道」の時代なのだから、今回罪を犯してしまうのはなおさらもったいない。長い時間をかけてやっとこの時代に生まれてきたのに、大罪を犯してしまったとしたら苦労が水の泡である。

精神世界(裏)と現実世界(表)が行き来できることを知っている人間はほとんどいない。けれども、それを意識できるようになった人間だけが「地獄」の試練を乗り越え、片道通行となっている「葦原の中つ国」に行くことができるようになっているのである。

日本神話は三つ巴の世界

日本神話のすごいところ

黄泉の国(裏) ⇄ 根の国(表)
根の国(裏) → 葦原の中つ国(表)

日本神話では「黄泉の国・根の国・葦原の中つ国」という三つ巴の世界で表現することによって、精神世界(裏)と現実世界(表)が行き来できることを表現している。「根の国」の存在によって、それが可能になる。

仏教とキリスト教では「地獄」が精神世界と現実世界を合わせたものになっているから、それが表現できないのである。だから日本神話ってすごい。つまりは「黄泉の国」が『精神世界の地獄』であり、「根の国」が『現実世界の地獄』なのである。

そして「根の国」は現実世界であり、精神世界でもある。私たちが生きていると思っている「現実世界」は鏡合わせになっており、いつでも精神世界(意識)の中で「地獄」を体験できる、ということ。

解脱することが約束された地

精神世界という裏世界で、過去の自分の罪について深く思考し、地獄の最深部で「真実」を目にしたものは「煉獄山・修羅道・葦原の中つ国」に足を踏み入れることになるのである。この3つの場所は同じところで、解脱することが約束された地。

「煉獄山・修羅道・葦原の中つ国」というのは私たちが普段生活している現実世界のことである。現実世界だとしても、精神世界という「地獄」に囚われることのない強い心を持った者たちだけがそこに居る。心の中は目に見えないものだから『解脱することが約束された地』に足を踏み入れた人間は、外見から判断することはできないであろう。

まとめ

「煉獄山・修羅道・葦原の中つ国」というのは、現実世界において「地獄」のような辛く苦しい局面がやってきたとしても、それを乗り越えていける精神力を持ったものだけが存在している場所のことなのである。繰り返しになるが、その精神力を手に入れる為には、精神世界の中で「地獄」の最深部まで到達することが必要になる。そこで心をえぐられるような「人間の真実」を突きつけられ、それを認めた者だけが「解脱」への道に入る。

日本神話が三つ巴の世界であること、精神世界・現実世界を行き来することの意味については既に別の記事で書いている。裏表のある「地獄」をもっと知る為にも、関連記事をぜひご覧ください。

関連カテゴリ:日本神話を紐解く

地獄を知るべき時代

地獄の攻略方法は地獄を知ること

とにもかくにも、地獄を理解し、攻略方法を知ることができれば「天国」への道が開けるのである。私たちが「地獄」を攻略できず、何度も輪廻の中に組込まれてしまうのは「地獄」というものが精神世界と現実世界の二重構造であることを知らないから。

そして、地獄の最深部に存在する「人間の真実」を知ることを無意識で恐れているからでもある。だからこそ最深部に辿り着くことができない。

人間の真実の姿

「地獄」の最深部で出会うことになるのは、大罪を犯した「悪魔」のような姿をした自分自身である。私たちは常に罪を犯しているのに、そのことに気が付かず生活している。その積み重ねが私たちに輪廻という「死」をもたらす。

罪を犯していることに気がつき、真摯に反省していくのならば、いつか最深部に辿り着きその真実を知るであろう。その真実が「解脱の智慧」であり、智慧を持つものだけが「聖杯」を獲得できる。

ダン・ブラウンの「インフェルノ」では、悪役のゾブリストが真実へのヒントを与えてくれていた。地上という地獄に存在する「悪」は私たちに「死」を与えようとするが、そこには真実が隠されているということである。

私たちに恐怖を与えるもの(悪人やウィルス)は、私たちに何かを訴えかけているのだ。智慧のある者だけがそれに気がつく。そして、智慧のあるものは自分の心の中に存在する「悪」との戦いを恐れない。

修羅の意識を身につけよう

地獄の最深部で本当の「悪」の意味を知ったとき、初めて本当の「天国」を知る。本物の天国を目指すためにも、地獄(地球)が存在する意味を考える時代が訪れている。

「地獄道」の時代というのは、人間が輪廻に組み込まれてしまった意味を強制的に考えさせられる時代でもある。しかし「修羅道」という意識を身につけておけば、乗り越えていける。乗り越えていくためにも、ぜひこのブログをお読み下さい!!よろしくお願いいたします。