原始仏教が伝える「悟り」のこと
仏陀は悟りがどんなものなのか詳しく教えてくれている。原始仏教の経典には、悟りのことが詳しく記録されている。そこに記録されていることが私にも起きた。原始仏教とは、ゴータマさん(仏陀)の弟子たちがゴータマさんの言葉を聴いて経典にまとめたもの。
悟りの段階について
原始仏教の教えによると悟りには段階がある。
- 預流果(よるか)
- 一来果(いちらいか)
- 不還果(ふげんか)
- 阿羅漢果(あらかんか)
悟りはこの順番で起きる。預流果から始まり、阿羅漢が人間が到達できる最高の状態の悟りらしい。じつは、私の悟りの衝撃体験は二度起きた。自分の中で「第一の悟り」「第二の悟り」と勝手に呼んでる。こちらのサイトで悟りの段階を詳しく説明をしてくれているので引用させていただく。わたしの預流果「第一の悟り」はまさにこんな感じだった。
瞑想したり集中して仏法の話を聞いたりしている最中に、一瞬でも「私」がいない、何もない瞬間を「体験」して、「ああ、『私』がいるわけではないのだ」と納得した智慧が生まれ、有身見が消えるのです。「無常を悟る、無我を悟ることが仏教だ」と言われる、その無常、無我を一瞬だけでも「体験」して、「我がある」という邪見・煩悩が、単なる知識として分かるのではなく、本当に消えるのです。
引用元:悟りの段梯
わたしの二回の悟り体験がどういうものだったのか。「第一の悟り」内容をよるか、「第二の悟り」内容をいちらいか、と前編・後編に分けて振り返ってみたいと思います。
私の「悟り」体験記 前編
宇宙なお寺へ行く
2017年夏、家族で京都旅行へ行った。京都在住の友人に勧められ、鞍馬寺へ行くことになった。そしてこのお寺がきっかけで仏教について初めて興味を持つ事になった。私の家は無宗教だけど、母方の実家はキリスト教である。キリスト教の中高にも行っていたので、イエスさまの方がなじみ深い。神棚とか、初詣とか、神道行事にもほとんど関わりがない家だった。
鞍馬寺は宇宙を本尊としているお寺で、スピリチュアル女子に人気らしい。本尊の3人の神様も興味深い。お参りをして、本殿前にある宇宙パワーが注いでくるという六芒星のマークがあるところに立ってみた。この時は特になにも感じなかった。その後貴船神社まで抜ける山道を母と登ったのだけど普段まったく運動しない私なのに、力がみなぎり一気に登って降りることができた。あっというまだった。山登りを趣味としている母はそんな私を見て不思議がっていた。
尽きることない真理への興味
密教から原始仏教へ
その後自宅に戻り、家にたまたまあった密教の本を読んでみた。空海や最澄など密教の日本史について学ぶ。仏教の奥深さを感じネットで調べはじめると仏教のはじまりとなる「原始仏教」が気になりだす。仏教の最終目的というものは「悟り」らしい。具体的にどういうことなのか。「悟り」には、この世界の真実に近いものがあるのではないかと感じた。
今度は量子力学が気になりはじめる
量子力学について興味を持ったのもこの頃。この世界は仮想現実なのでは?と疑いはじめていた。ある時友人に「ここはコンピューターシュミレーションの中なのかもしれない。」と言ってみたことがある。友人は「その思考はやばいね」と怪訝な顔。
誰にも言えないこと
私は昔からこの世界(宇宙とか地球)がいったいなんなのか、真実をなんとなく探していた。UFOを見たことがあるし、不思議な体験もたまにある。UFOは実在するのか?不思議な体験の原因は?陰謀論も大好きで暇さえあればオカルト情報をネットで検索していて、精神がおかしいのかも、と思うこともあった。だけど目に見えないことへの好奇心は尽きなかった。親しい友人たちは私を変な奴だと思っていると思う。だけど私は33歳になっても真実を知ることの方が現実世界よりも大切な気がしていた。
悟りと神秘体験の関係
悟りと松果体の関係を調べる
「悟り」を調べるうちに、松果体に秘密がありそうだと感じた。松果体は人間にある不思議な器官。南米アマゾンのシャーマンが儀式に使用する「アヤワスカ」という飲み物があるのだが、これは強力な幻覚を引き起こすDMT(ジメチルトリプタミン)が主な成分。なんと人間の松果体からは少量のDMTが作られている。なぜこんなものが体内で作られているのか。それは脳のリミットを外すためにあるのではないかという仮説を見つけた。
ネットフリックスにあったDMTのドキュメンタリーを見た。DMTを接種した人たちの多くは高次の存在に出会うらしい。神様のようなものなのか。仏教で悟るためにする修行はひたすら自分の感情を観察する作業。最近流行のマインドフルネスとか、ヴィパッサナー瞑想とかいうやつ。これを極めるとなにかすごいことが起きるらしい。苦行もリミットを外す方法として同じことなのかもしれない。DMT接種で体験することと、仏教の「悟り」って行き着く先は一緒なんじゃないかと考えた。
DMTを体験する
これまた偶然にたどりついたサイトでなんとDMTを合法的に摂取できる方法をみつけてしまった。さっそく試してみた。結果は、、、ものすごくキマった。目の前に今まで体験したことのないカラフルすぎる色彩が現れた。何かにひたすら納得していたのをかすかに覚えている。これはこれですごい体験だったのだけど「悟り」にはたどり着けず。それ以来DMT体験はしていない。瞑想を始めてみたり、幽体離脱できるCDを聞いたり、水晶をおでこに当てたりしてみた。でもどれも続かなかった。不思議な体験は少しあった。
三度目のぎっくり腰と奇跡
寝たきり状態で「悟り」についての本を読む
何年かぶり人生3度目のぎっくり腰をした。すごく痛いしトイレにも一人で行けない。再発した情けなさと体への不安を感じながらも、とにかく安静第一なのでベッドで読書をすることにした。kindleで何冊か買ってあった仏教の本のうちの一冊。魚川 祐司さんの 「仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―」 を読むことにした。
ついにやってきたその瞬間
仏陀が当時何を伝えていたのか。この本は本当の仏教に触れているような気がした。のめり込みながらもくもくと読む。そして、ついにその瞬間は訪れた。あっさりと静かに布団の中で。その時ひらめきが起きた。「この世界はただ生じては滅するの繰り返しなんだ!!!」という確信。頭に何かが直接入ってきたような感じ。説明しがたい感覚。驚きでしばらく視界はぼやけていた。
なんだか分からないけど、世界のことが突然分かった。この日はもう本を読むことをやめ、あたまのなかで宇宙のことをぐるぐると考え続けていた。同僚でオーラが見えるKさんが腰を痛めるときは人生の転換期だよって教えてくれたことを思い出した。まさにそうなった。
過去最高の幸福感を手に入れる
次の日、通勤中に本の続きを読みながら生まれて初めての幸福感につつまれていた。ぎっくり腰は治った。大嫌いな通勤電車の中が輝いている。苦しみのないこの世界。すごいことが起きてしまったと思った。これが「悟り」だと感覚的に分かった。人生が突然開けた。この時は1週間くらい最大級の幸せが続いた。
この世は色即是空、空即是色
突然の「悟り」からこの世界の仕組みが分かった。私たちが現実だと思っている全てのものは本当は無い。この時の私は「無いのだからこの世で起きている全てのことは意味が無いんだ」と考えていた。将来のこと、お金のこと、そういったことに悩まなくていい。本当は、人間は生まれたときから死ぬまでずっと幸せで、何も心配する事などなかったのだ。それに気づくのが悟りだった。
私は自由を手に入れたし、人間として残りの人生をどう生きていこうかと考える。この世界で生きていくにはめんどくさいことが沢山ある。だけど今まで感じていた、漠然とした不安、虚しさ、そして欲もなくなった。これだけで今までの人生とは全く違う。ゆったりと楽しいことだけをして生きていこうと思った。
この世界のかなしみ
朝、目がさめると、また今日が始まる、、、と不思議な気持ちになる。悟ったけれど世界はなぜか続いている。そして世界にはまだまだ苦しみがある。全世界の人たちが悟りを体験したらどんな世界になるのだろう。争いもなくなるはずだ。今生きているこの世界が変わることがないことに、かなしみを感じていた。
悟りレベル いちらいかへつづく。
「私の悟り:悟りレベル よるか」への 6 件のコメント
点と点が繋がって線になって、全てわかっちゃった!って感覚はよく湧き上がるのですが、「自分、世界は存在しない」っていうぱんちゃんさんと同じ結論は出ないんですよね。
理屈としてはわかるけど感覚的に同じじゃないというか、共感できないわけではないけど共感してるわけではないというか。
でも確実に世界の見え方が変わったような自分の感覚が自分のまま別人になったような意識の切り替わり的なのは体験?しました。
果たして僕は悟りに近づいてるのか遠がってるのか、既に悟ってるのか。
この答えを他人に求めてる時点で世間への依存が残ってるのは明らかですが、これを吐き出すことで思考が進むかなとコメントしてみました。自分の恥と向き合いやすくする的な?
コメントありがとうございます!なるほど「自分と世界は存在しない」という結論が出ないのですね。わたしが得たのは「自分が存在する」という結論なので、ある意味正しいです。
この記事(私の悟り:悟りレベル よるか)の中に書いたように、わたしは不思議な体験から「この世界はただ生じては滅するの繰り返しだ」という確信を得ました。それは、滅する(無い)と生じる(有る)を感じる体験でした。「無いのだからこの世で起きている全てのことは意味が無い」と考えていたように、まずは『無いこと』に注目し、それを信じました。けれど、次の悟り(私の悟り:悟りレベル いちらいか)では『有ること』に注目し、それを信じました。
わたしの定義する「解脱」というものは、「無いこと」と「有ること」を矛盾なく自分の中で理解できることです。そして、わたしの定義する「悟り」とは、どちらかを感覚として体験すること・もしくは両方を感覚として体験することでもありますが、「無いこと」と「有ること」が両立する矛盾が解消できていない状態です。こちらの記事でも「悟り」と「解脱」の定義を解説しています。
「点と点が繋がって線になって、全てわかっちゃった!」という感覚があるということは、『有ること』を信じているということです。「自分、世界は存在しない」という結論が出ないのは、まだ『無いこと』を信じていないということです。つまりカベガミミッミさんは「悟り」には到達しています。
もし「解脱」を目指すなら『無いこと』の理解が必要になります。また『有ること』との矛盾も解消しなくてはなりません。『無いこと』を知るのは怖いことなので、なかなか「解脱」まで到達する人がいません。ちなみに『無いこと』とは「無の中に自分一人だけが存在していること」です。それは空間も世界も存在していない状態です。すなわち『自分は無い』という状態は有り得ないということです。だから「自分は存在しない」という結論が出ないのは、正しいことなのです。
>この答えを他人に求めてる時点で世間への依存が残ってるのは明らかですが、これを吐き出すことで思考が進むかなとコメントしてみました。自分の恥と向き合いやすくする的な?
依存は必要です!依存しすぎなければ良いとおもいます。またまた有意義な質問をありがとうございました。「悟り」と「解脱」の定義についてのページに、この返信内容を追記しようかと思います。
アメブロのほうのエヴァの感想が、やけに含蓄深かったので、なにかあるかなと思ったんですが、こちらをのぞかせていただいて納得しました。
とてもおもしろいです。
こちらにもコメントありがとうございます〜
エヴァの物語は、悟りの物語だったので熱く語ってしまいました。
湯川さんのブログもおもしろく、覗かせていただいてます!
さすが目の付け所が違う。関係あるとおもう!!人間は無意識に名前をつけるかもしれないけど、そこに実は意味がある。
悟りの名前が果なのと松果体が松の果なのは関係あるのかな。
知恵の実も果実だしね。