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投稿日:2022-10-19 | 最終更新日:2023-06-08

この記事は前編の続きです。前編では、出雲大社「大社造の秘密」と「柱の秘密」を解き明かしてきた。中編は「八雲之図」の謎解きからスタート。

出雲大社「八雲之図」の秘密を解き明かす

3つの謎とその謂れ

八雲之図3つの謎と、それぞれの謎に対する謂れについて、分かり易くまとまっているブログから再び引用させていただきます。

①一雲のみ逆向きである。
②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
③八雲と言いながら七雲しかない。

①日光東照宮の逆さ柱にあるように”陽極まれば陰”を避けるため。

②最も大きな7の雲は『心の雲(シンノクモ)』と呼ばれ「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)「心入れ」する際は「天下泰平、国土安穏、朝廷宝位、仁民護幸給」などが祈られたとも伝えられる。

③ⅰ8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。ⅱ神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった 等が言われる。

思ったこと

一雲だけ逆を向いている

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出雲大社(男造)と八雲之図

雲が出雲大社の天井にどのように描かれているのかネットで調べたところ、このような感じらしい。まずは、「一雲だけ逆を向いている」謎について。これは「男造」を観察していればなんとなくわかる。前編で述べた「男神」の回り方について再掲。

男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしらを左回りすることになる。

図の中「御神座」と書いてあるところが「男神」。「男造」において「男神」は左(西)を向いている。つまり、一つだけ左を向いている雲も「男神」ということになる。

あまりにも説得力がない結論を出してしまったが、とりあえず話を続けていきたい。

一番大きな黒が使われた雲

一番大きな雲は「女神」

次に一番大きな雲について。結論から先に言ってしまうと、この雲は「女神」を表している。一つだけ左を向いている雲が「男神」、そして一番大きな雲が「女神」。ということは、これら雲は「神」だから「人間」ではないと言える。

岩根御柱(心御柱×1)…宇豆柱(男神・女神)の子ども、人間
棟持ち柱(宇豆柱×2)…男神と女神
側柱(その他の柱×6)…人間

前回のおさらいとして、出雲大社それぞれの柱が意味するものを再確認。一つだけ左を向いている雲と一番大きな雲は「宇豆柱」に対応しそうだ。

けれど、一番大きな雲は「心の雲(しんのくも)」と呼ばれている。一番太い柱である「心御柱(しんのみはしら)」との関連性を匂わせる名前である。「心御柱」は「人間」を表すから、そうだとしたら矛盾してしまうようにも思える。

雲は「たましい」

ところで。そもそも「雲」が何を表すのかというところに触れておきたい。「雲」とは「魂」なのである。「魂」という漢字について知ると「雲」と「魂」の関係がわかる。

云(うん)と鬼とを組み合わせた形。云は雲のもとの字で雲気(雲、雲状のもの)の形。鬼は死んだ人の人鬼で、霊となって霊界にあるものをいう。

魂のなりたち

「雲状のもの」と「死んだ人の霊」の組み合わせで「魂」という漢字が成り立っている。空に浮かび、ふわふわと掴み所のないイメージがある「雲」。「死んだ人の霊」も、存在するのかしないのかよく分からない曖昧なもの。不確かなものを表現するのが「雲」や「魂」ということ。

二種類のたましい

ところで「たましい」と同じ意味を持つ漢字に「魄(はく)」がある。「魂」と似ているけれど、ちょっと違う。

「魂」は陽、「魄」は陰の精気。「魂」は精神、「魄」は肉体をつかさどるもの。生きている人にはこの二つが宿るとされる。

漢字辞典オンライン(魄)

このように「魄」も「魂」と同じ意味をもつけれど、こちらは肉体を司る。「魂」は死後天上に昇るもので「陽の気」を表し、「魄」は死後地上に留まる「陰の気」を表す。合わせて「魂魄(こんぱく)」と言って中国道教の考え方であるらしい。

「心入れ」をする理由

「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)

一番大きな雲だけに「黒色」が使用され、その「黒色」を塗ることを「心入れ」と呼ぶ。「心入れ」はダルマの目入れのようなもので、国の平安を祈りながら行われるという。「心が入る」、「目が入る」というのは「生命が宿る」ということであろう。

雲=魂=心=精神、全ては「目に見えない」もので実体を掴むことが難しい。しかし「心入れ」することで「雲」は実体を伴うことになる。それは「目に見えないもの」が「目に見えるもの」に変化すること。

「たましい」には二種類の意味があった。だからこそ「心入れ」という儀式で、陽(天上)から陰(地上)へと変化させる。目に見えないものだった「雲(魂)」は、肉体を持った「人間(魄)」という目に見えるものに変化するのである。

「たましい」という2つの漢字と「心入れ」から分かること。雲の意味を持つ云(うん)が使われている「魂」は精神という「目に見えないもの」を表し、「魄」は肉体という「目に見えるもの」を表す。「たましい」には二重性がある。

「心入れ」の時間

午の刻に「心入れ」が行われることも、「雲」という「たましい」が二重性を持つことを表現している。下の表は、以前この記事に使用した二十四方一覧表(方角と時刻)である。

午の刻は十二時辰で11時〜13時に当たる。「心入れ」は正午(12時)に行われる。この表は十二時辰をさらに細かくしたものなので、11時〜12時のところを見てほしい。

見てもらえると分かるように、正午の時間帯は八卦で表すと「離(り)」になる。八卦とは易占いに使われるものであるが、「離」の意味合いを知るとこの時間に「心入れ」が行われることにも納得できるはずだ。こちらのサイトを参考にさせていただきました。

ついたり離れたり移動するもの、陰陽の分岐点、陰陽の両作用の分かれ目

離(り)には様々な解釈があるけれど、このようなキーワードを見つけることができる。午の刻(正午)は変化の瞬間を表す時間帯になっている。

最初に『一番大きな雲は「女神」である』と結論を述べたのだけど、一番大きな雲は「人間」という矛盾。けれど、これが一番大きな雲の正体。「心入れ」で目に見えない「女神」が、実体のある「人間」に変化することを表現しているのが「心の雲」なのである。

女神と神魂神社

八雲之図に描かれる「雲」は「二重性を持つたましい」であることは簡単に説明できたと思う。けれど「心の雲」が「女神」であることの説明が全く足りていない。それを証明していく為にも「女造」に目を向ける必要がある。

日本最古の大社造である「神魂(かもす)神社」は「女造」である。なんと、ここにも「雲」が描かれているのだ。

八雲之図なのに七雲しかない

出雲大社「男造」の天井には全部で「7つの雲」が描かれている。「八雲之図」という名前がついているにもかかわらず。そのことについては2つの謂れがある。先ほどの引用から抜粋。

8つ目を描いてしまうとそこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった等が言われる。

これら謂われからわかることは、出雲大社の雲は元々「8つの雲」であったのだろう。そして、一つの雲が飛んできた「神魂神社」には「9つの雲」が描かれている。ということは「神魂神社」も元々は「8つの雲」であったのかもしれない。

「神魂神社」の雲が天井にどのように描かれているのか、詳細はわからない。その天井の様子が少しだけわかる写真が絵葉書として神社で販売されているようだ。その写真を参考に、わたしの想像した神魂神社の雲を描いてみた。

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神魂神社(女造)と瑞雲之図の想像図

絵葉書の写真を見ると仕切りが見えるので、御神体の真上を撮影したように思える。ということは「神魂神社」の天井には、このように雲が描かれているのではないか。たぶん。写真を見ると、一番大きな雲にはやはり「黒色」が使用されているようだ。

先ほども述べたことであるけれど、八雲之図の謂れから考えられることは、出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったのではないかということ。雲が「8つ」であったのならば、それは何故移動したのか。8という数字を紐解けば、「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりが見えてくるはずなのだ。

八という数字の秘密を解き明かす

出雲と8

出雲は8という数字と縁が深い。日本神話には出雲を舞台とした「スサノオのヤマタノオロチ退治」という有名なお話がある。このお話の流れを追いながら8を探していく。

スサノオ について

伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)二神の子として(日本書紀)、また伊弉諾尊の禊(みそぎ)のとき(古事記)などに日月神とともに出現した、記紀神話の重要な神。出雲(いずも)系神話の始祖でもある。父から定められた支配地を治めず、母の国の根国(ねのくに)を慕って泣いたため、災いを起こして父に追放される。

素戔嗚尊とは(コトバンク)

日本書紀ではイザナギとイザナミの子どもとして、古事記ではイザナギが禊をした時に洗った鼻から生まれたことになっているスサノオ。そして天照大神の弟でもある。スサノオはちょっとした厄介者。

使命を果たさず,鬚が長く生えても泣きわめき続けて,草木を枯らせ,河と海を干上がらせ,怒った父に根の国へ追放された。アマテラスに暇乞いに天に上り,武装した姉に出迎えられ,厳しく詰問されたが,誓約による子生みをして,邪心のないことを証明した。この勝利に有頂天になり,高天原で田を荒らし,新嘗の宮を汚すなどした末に,アマテラスが咎めずに庇うと,いっそうつけあがって,機織殿に皮を剥いだ馬を投げこみ,驚いた織女を死なせ,ついに怒った大神が岩屋に隠れ,天地が暗黒になる事件を起こし,鬚と爪を抜かれ,天から放逐された。

素戔嗚尊とは(コトバンク)

このように、泣きわめいたり有頂天になって暴れたりしている。その結果、天照大神は岩戸に隠れて世界は暗黒となってしまった。スサノオは悪や罪の象徴のような人物である。

この罪により尊は神々に追放され、根国に赴くが、途中の出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、根国の支配者となる。

素戔嗚尊とは(コトバンク)

その後スサノオは追放され根の国へ向かうのであるが、その途中でヤマタノオロチ退治をする。ところで根の国は出雲と深い関わりがある場所。

根の国のあった場所は言うまでもなく地下であるという主張もあるが、一方で古くから神話を現実的に解釈し、地上のどこかに当てる説が行われた。その場合、イザナミやスサノオと縁の深い出雲国に入口があるとする説がある。

根の国(wikipedia)

出雲には黄泉の国の入り口だとされている場所が実際に存在していて、黄泉の国と根の国の関係性について様々な議論があったりする。根の国については既に別の記事で書いているから、ぜひそちらも読んで欲しい。

関連記事:「なまよみの甲斐の国」番外編-山が神である理由-

ともかく、スサノオは出雲でヤマタノオロチ退治をすることになる。出雲大社に祀られる大国主はそんなスサノオの子孫である。

八岐大蛇神話のはじまり

スサノオは出雲でアシナズチとテナズチという夫婦に出会い、二人の娘クシナダヒメをヤマタノオロチから救うことになる。古事記を現代文に訳したものを引用しながら、詳しくみていきたい。

夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

夫婦の間には「8人の娘」がいた。8人目の末娘がクシナダヒメ。そして、8を象徴するような怪物「ヤマタノオロチ」が登場。

須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

スサノオはヤマタノオロチと闘う準備をした。八塩折之酒(やしおりのさけ)を醸し、垣根に8つの門を作り、その門ごとに8つの桟敷を作り、それぞれに酒の桶を置く。

ちょっと気になること

ところで、このwikiのページには『7回絞った強い酒(八塩折之酒)』と書いてある。ネットで古事記の原文と現代文に訳したものをいくつか読んだが、7という数字が出てこない。この『7回絞った酒』の出どころを知っている方がいたら教えて下さい。

八雲立つ出雲国

八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛になった櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」と詠んだ。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

ヤマタノオロチに見事打ち勝ったスサノオは、 クシナダヒメと暮らすことにした須賀の地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠った。この歌の意味を以下に引用させていただく。

雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう。

最古の和歌とスサノオの物語(こども教室もんじゅ)

「八雲」とは幾重にも重なった雲のことで、出雲国の枕詞にもなっている。このように、しつこいくらい何度も8という数字が出てくる「スサノオとヤマタノオロチ退治」のお話である。

八岐大蛇神話の新解釈

8は魂

8と縁が深い出雲なのだから、やはり出雲大社・神魂神社は元々「8つの雲」だったはず。前の章で「雲」とは「二重性のある魂」であると述べた。ヤマタノオロチ退治に登場する「8」という数字を「魂」と考えて物語を読んでみたい。

夫婦の8人の娘たちは「8つの女の魂」と仮定してみる。年に一度、ひとつの魂(一人の娘)をヤマタノオロチに食べられてしまう。

ヤマタノオロチは8つの頭と尾を持っている。8匹分のオロチなのだから「8つの魂」を持っているということになる。さらに、オロチの頭と尾を「魂の最初(頭)」と「魂の最後(尾)」だと考えたい。

「蛇(オロチ)」は生と死や、繰り返すものを象徴するものであったりする。魂の最初は「生まれること」、魂の最後は「死ぬこと」。その両方の要素を持つヤマタノオロチはやはり「輪廻」を表しているのだろう。物語の中で8の繰り返しが多いことも「輪廻」を意識していると考えられる。

女の魂を取り込むオロチ

ヤマタノオロチをオスと仮定すると「8つの男の魂」を持っているオロチということになる。ヤマタノオロチは既に7人の娘を食べてしまったから、ヤマタノオロチの中には「7つの女の魂」も存在している。そして最後のひとつの魂をも取り込もうとしている。

ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

完成(8)させないこと

8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。

出雲大社の八雲之図は、8つ目を描いてしまうと完成してしまうので描かれていない、という謂れがある。ヤマタノオロチ退治のお話でも、スサノオが8人目の娘を救うことで、男女の組み合わせを完成させないようにしているのではないだろうか。

だとしたら、8になること(完成させること)を避けるのは何故なのだろう。完成すると「永続性」が崩れてしまうようだ。永続性とは「永遠」に続くこと。何故「永遠」を保っておきたいのだろうか。

魂は永遠

常に絶対に有るもの

ここでまた「たましい」は二重性を持つものであるということを思い出してほしい。午の刻に「心入れ」が行われるのは「目に見えない魂」から「目に見える魄」に変化させるためであった。

「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということであるだから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

目に見えない=無い?

けれども人間は目に見えなくなってしまうと、その存在が消滅したと考えるもの。「魂」が「永遠」であることを知らない人間は、8という完成を迎えてしまったら「魂」が消滅すると考えてしまうのだろう。だからこそ、完成させないことで「永遠」を保とうとするのではないだろうか。

死んでしまった人の「魂」は天国にあり、わたし達をいつも見守ってくれている。というような考え方を持っている人もいる。けれど現代において「魂」が「永遠」であることを絶対的に信じることは、盲目的になってしまった宗教の信者のように見なされてしまうのかもしれない。

消滅する瞬間を恐れること

完成と終末思想

前述のとおり、人間は「完成」を「魂の消滅」だと感じている節がある。『完成してしまったら魂が消滅する』という思想は、昔から人間が持ち続けてきたもの。『時が満ちると世界の終わりがやってくる』という「終末思想」と同じものである。

新約聖書ヨハネの黙示録に描かれる「最後の審判の日」のように、キリスト教をはじめ様々な宗教に終末思想がある。わたしたちは「終末」が何時やってくるのかを、とても気にしている。

「終末の日」が何年何月何日なのかは、人間にとって有益な情報になる。「完成(時が満ちた瞬間)」に「魂の消滅」が起きると思っているから、どうにかしてそれを避けたいのである。「魂の消滅」とは自分自身の「死」を意味する。

「ノストラダムスの大予言」では1999年7の月に人類が滅亡する、という解釈が持ち出された。また、2012年12月の「マヤ暦の予言」による滅亡説もあった。日付を具体的に指定されたから、大流行したと言えるだろう。

現在「私が見た未来 完全版」という本が流行している模様。この本の中でも2025年7月が終末らしき日付として言及されている。

予言が当たらないことを怒る人たちが存在するけれど、彼らは死ぬのがとても怖いのである。前もって「死」の時期を知ることで、少しでもその可能性を排除したいと思っている。

関連記事:予言はなぜ当たらないのか

出雲大社を恐れる人々

出雲大社から、魂の消滅、死への恐れを無意識に連想してしまう人々がいる。『出雲大社には怨霊(大国主)が封印されている』という都市伝説には人間のそんな無意識が現れている。

その都市伝説は、しめ縄が普通とは逆に巻かれていることや御神体が正面を向いていないことで結界を張り、その怨霊を閉じ込めている。という話なのだけれど、そう感じてしまう人間たちは「魂の消滅」を恐れているはずなのだ。

出雲大社から何かを感じ取る人々。感じ取り方は様々だけれど、人々が出雲大社に惹かれる理由は「魂の消滅」という「死」の側面だけではないはずだ。

時が満ちる瞬間の二重性

もうひとつの側面

「完成(8になること)」とは「時が満ちる瞬間」であると言える。わたしたちはそれを「消滅(死)の瞬間」だと捉えている。

八岐大蛇神話において、死を連想させる「時が満ちる瞬間」は、オロチが女を食べる瞬間である。

けれど、年に一度「女の魂」を取り込んでいるオロチの中には既に「7組の男と女」が揃っている。「男と女」とは「陽と陰・生と死」とも表現できる。オロチは「輪廻」を表していると言ったように、「生と死」の両側面を持っているのだ。

8から剣へ

ここまでの話をまとめると8とは、魂(雲)であり、時が満ちる瞬間であり、それは生と死を含んでいるはずだ。8という数字について紐解いてきたけれど、ここで一旦剣の話をさせてほしい。

剣の秘密を解き明かす

剣と生

出雲大社の雲について『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから、雲は7つ』という考え方が、「死」の側面だけに目を向けたものであるならば、もうひとつの側面をも見出す必要がある。完成(8)が「生」でもあることを、八岐大蛇神話クライマックスシーンから見つけていきたい。

準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

ここからは「剣」の役割に注目していきたい。まずはヤマタノオロチを倒した「十拳剣(とつかのつるぎ)」について深掘りしていく。

十拳剣(とつかのつるぎ)が意味するところ

固有名詞を持たない剣

「十拳剣」は、拳10個分の長さの剣のこと。名前が様々に変わるなど、固有名詞を持たない剣の総称であるとのこと。日本神話の中に度々登場している剣である。様々な場面に登場する「十拳剣」の様子がまとまっていて分かり易いサイトがありましたので、そちらから引用させていただきます。

怒り

伊邪那岐命(イザナギノミコト)は腰に挿していた十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、迦具土神(カグツチノカミ)の首を切りました。

日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

イザナミがカグツチという神を産んだ時、陰部が焼けて死んでしまったことに怒ったイザナギは「十拳剣」でカグツチを殺してしまった。また、別のお話ではアジスキタカヒコネという神が、死人と間違われたことに怒って「十拳剣」でその場をめちゃくちゃにした。怒りと共にある剣であることがうかがえる。

分かれ増える

天照大御神(アマテラスオオミカミ)がまず建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が持っていた「十拳の剣(トツカノツルギ)」を受け取って、三つに折り、天真名井(アメノマナイ)の水ですすいでから噛み砕き、吹き捨てました。

日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

こちらは「アマテラスとスサノオの誓約神話」の一場面。詳しいあらすじはリンクから確認していただきたい。誓約(うけい)の為に、スサノオの「十拳剣」が折られ噛み砕かれ、そこから三柱の女神(宗像三女神)が産まれている。そして、このようなお話もある。

イザナギは十握剣(トツカノツルギ)でカグツチを三段に切りました。それらの部位がそれぞれ神となりました。

日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

こちらは、日本書紀の中のお話。カグツチは三つに切られ、それぞれ、雷の神・山の神(オオヤマヅミ)・水の神(タカオカミ)という三神に成った。

古事記でのカグツチを殺すお話では、三神どころではない多くの神が生まれている。十握剣(トツカノツルギ)刃の先端から落ちた血から三柱、刃の根元から落ちた血から三柱、柄の部分から手を伝い落ちた血から二柱。

カグツチを切った剣から滴る血から合計8柱の神が生まれている。その後、カグツチの死体からも8柱の神が生まれている。8という数字が気になるところであるが、ひとつの剣から多くの神が生まれていることに注目したい。

強さを示す

天鳥船神(アメノトリフネ神)と建御雷神(タケミカヅチ神)の二柱は、出雲の伊那佐(イザサ)の浜に降り立ちました。そして十拳剣(トツカノツルギ)を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神(オオクニヌシ神)に問いました。

日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

これは「出雲の国譲り」の中のお話。天照大神は下界を平定するため、大国主の元にアメノトリフネとタケミカヅチをよこした。その際、タケミカヅチは十拳剣の刃の上にあぐらをかきながら大国主に直談判をした。この出来事が象徴することは何か。

タケミカヅチは自分の強さを主張するために、わざわざ刃の上にあぐらをかいたのである。刃の上に座るには我慢強さが必要だ。国を譲り受ける為にも、大国主に強さを見せないといけないと思ったのだろう。

変化する、増える、自己証明

怒り・分かれ増える・強さを示す、というキーワードから見出せるものとは。「十拳剣」を持ち怒りを表現すること。怒りという感情は人を豹変させ、争いの元になるものである。怒りとは動物的本能でもある。

「十拳剣」は三つに分かれて神と成る。そして「十拳剣」によって切られた者の血から多くの神が生まれる。一つの剣をきっかけに多数の生命が生まれること。これもまた変化であり、増える作用がある。

「十拳剣」は自己を示すものでもある。交渉の為に危険な行為で自らの強さを表現したタケミカヅチ。そして誓約(うけい)に使用されたのは、自らの潔白証明のため。自分自身を示すものとして利用されている。

変化するものであり、増えるものであり、自己を示すもの。これは「生きとし生けるもの」の表現であるといえる。「十拳剣」からは「生」を見出すことができるが、不安定さも持ち合わせている。

不安定で未確定な「生」

怒りをコントロールできず起きる死や混乱。血によって生命が続くこと。自己が曖昧であるが故に、わざわざ自己を示すこと。変化すること、続くことは未確定であり不安をもたらすものである。

「十拳剣」は、不安定で未確定な「生」を表現している。名前が様々に変わる十拳剣名前は確定していないけれど、それは一つの剣(生)である。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)が意味するところ

「十拳剣」と対比する

準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

スサノオがヤマタノオロチを倒した時に現れた「草薙剣」は言わずもがな三種の神器のうちのひとつで、日本人にとって大切な剣。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも呼ばれる。「十拳剣」と対比することで「草薙剣」の性質が見えてくる。

犠牲の上に成り立つ「生」

またまた八岐大蛇神話を振り返ってみる。ヤマタノオロチが「女の娘」を食べると男女の魂が揃う。その瞬間は「生と死の瞬間」である。オロチは女を喰らう(殺す)ことで『生きながらえている』。

わたしたちが「死」を恐れるのは、様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立っていることを無意識で理解しているから。それは罪悪感となって「死」への恐怖を引き出している。

物語の中では「死」という犠牲の上に成り立つ「生」が7回起きている。しかし8回目で、女は犠牲とならなかった。スサノオはオロチを切り刻み「女の魂(クシナダヒメ)」を救ったのである。その結果、スサノオは「草薙剣」を手に入れた。

オロチの尾から現れたこと

オロチの尾から「草薙剣」が現れたことについて考えてみる。ヤマタノオロチが「人間の輪廻」を表すということは既に述べた。

オロチの尾とは、輪廻の終わり、魂の最後、つまり「死」を表している。尾から現れた「草薙剣」は「死」から現れた剣であると言えるのではないだろうか。

クシナダヒメを救ったことで「死」という犠牲が起きなかったのに、「死」から現れた「草薙剣」。犠牲は起きていないはずなのに「死」を表す剣だということ。

物語の中の二重性

『7回続いた死』では「女の魂」が犠牲になっていたが、それがオロチを生かしていた。『8回目の死』はオロチの犠牲であり「女の魂」は生かされた。8回目では女(クシナダヒメ)の代わりに男(オロチ)が犠牲になっている。

この物語の主人公はスサノオという「男」で、女を救う者として存在している。「犠牲になった男(オロチ)」と「女を救う男(スサノオ)」。物語の中では、オロチとスサノオどちらも「男性性」を表しているのであるが、大きな違いがある。

オロチは恐ろしい化け物で空想上の生き物。一方スサノオは神ではあるが人間の姿形をしている。同じ男性性ではあるが「精神(オロチ)」と「現実(スサノオ )」の対比になっているのである。そして「敗者(オロチ)」と「勝者(スサノオ )」という対比にもなっている。

物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

このお話の中では、オロチにも二重の意味がかかっている。ひとつは「スサノオの心の中の男性性」。もうひとつは「輪廻」である。これらをふまえてさらに考察を進める。

オロチで表される精神世界

酒で眠らされてしまったオロチ。つまり、スサノオの「男性性」は眠らされている。オロチの死とは『夢の中の出来事』であるということ。オロチは「精神」を表しているのだから、その死は「現実」ではなくスサノオの心の中で起きている。

スサノオは「十拳剣」を利用してオロチを切り刻んだが、その刃は尾の中にあった「草薙剣」によって欠けてしまった。「十拳剣」は「草薙剣」に負けた。負けとは「死」である。

「十拳剣」は怒りや自己証明を意味することは既に述べた。生き残ることに必死になると「精神」は荒ぶる。それが動物的本能。これまでは「精神」が荒ぶった結果「現実世界」で暴れまわっていたスサノオ。

「十拳剣」によって怒りや強さを表現してきた神々であるけれど、八岐大蛇神話では「十拳剣」を持ちながらも、怒りや強さを「現実」で表現するのを封じているということに他ならない。

ヤシオリ作戦

「精神」と「現実」は直結していて、精神状態はそのまま現実世界に反映されてしまうことがある。けれども、わたしたち人間は「現実」へ移行するまえに、深く思考することができる。

スサノオが思考の末行き着いたのは、オロチと正面切って戦うのではなく「八塩折之酒(やしおりのさけ)」を利用する方法だった。それが「心の中で死ぬ」という方法。

オロチ(輪廻)とは生と死を「繰り返す」もの。そして「ヤシオリ」も「何度も繰り返すこと」を意味する言葉である。「繰り返すもの」を「繰り返すもの」で制す。

7回繰り返された死を、8回目も同じように起こす。けれどそれを「心の中」に留めておいたのである。思考した結果「現実世界」で戦わず、「精神世界」で戦う選択をしたスサノオ。その結果の「心の死」とは、ある意味負けを認めること。スサノオは「輪廻(オロチ)」という「繰り返す死」を認めたのである。

死んでしまった母に会いたくて泣き叫んでいたスサノオ。「死」を認められなかった子供から「死」を認めることができるようになった大人へ。

十拳剣と草薙剣の違い

「十拳剣」は現実で誰かを切ることなく女を救った。「十拳剣」は欠けてしまったが、代わりに「草薙剣」を手に入れたスサノオ。

「草薙剣」とは「固く強い心」の象徴である。智恵によって怒りを沈めることができ、血によって続く「生と死」を認め、自己が確立された存在であることを信じる心のこと。「十拳剣」を持つ者は『不安定で未確定な生(子供)』であったけれど、「草薙剣」を持つ者とは『不動で確定した生(大人)』であるといえる。

「草薙剣」はすぐさま天照大神に捧げられた。「草薙剣」は「固く強い心」という「目に見えないもの」であるから、実際に使用されることなく神に捧げられるのである。

「草薙剣」は「現実」に姿を表してはいけないもので「精神」の中にあるもの。だからこそ現代でも「草薙剣」を見ることは許されていない。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名について

八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。

天叢雲剣とは(コトバンク)

「草薙剣」の別名「天叢雲剣」について考えてみると、やはり、オロチとは「輪廻」であり「精神(心)」であることがわかる。

雲とは曖昧で不確定なものを意味する。オロチの上に常にかかる雲とは、終わりのない輪廻の不確定さ、コロコロと気分が変わる掴み所のない心を表している。

不確定さはわたしたち人間を不安にするもの。さらには、確定後の負の作用を恐れている。「生と死」が繰り返される輪廻と、その「死」の側面を恐れているわたしたちは、オロチを恐ろしい怪物とみなすのである。

死を受け入れるための剣

自己(十拳剣)と自我(草薙剣)

過去このブログで「自己と自我」について書いた。そこで、このブログに於いての「自己と自我」を定義している。他の記事でも度々自己と自我については書いているが、簡単に言えば『自己とはまだ曖昧な自分のこと』『自我とは意志の存在する自分のこと』である。

八岐大蛇神話は、曖昧な自己を確定し自我という強い意志を見つける自分自身のストーリー。曖昧な自己は名前が様々に変わる「十拳剣」で表され、目に見えない固く強い自我は「草薙剣」で表されている。

輪廻=不確定と確定

ヤマタノオロチとは相反するものを両方持ち合わせている存在であった。両方持ち合わせているからこそ曖昧であるけれど、それは変化し、どちらかの状態に確定するもの。ここで「魂(たましい)」についての解説を再掲。

「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということである。だから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

スサノオのようにオロチの尾(死)から「草薙剣」という「固く強い心」を見つけることができると、不確定で曖昧な存在であった輪廻(オロチ)が「有る」ことをはっきりと認識する。そして、輪廻が存在しているからこそ自分も存在していることを理解する。

生と死が存在する、苦しくも喜びがあるこの世界に確かに「生きている」と認識することが「自我」を見つける瞬間である。「自我」があるから、不確定で確定な二重性のある「輪廻」をも認めることができるようになる。

「輪廻の死の側面」を受け入れることは『悪である自分の存在』を受け入れることでもある。はじめ悪者として語られるが、その後ヒーローとしても語られるスサノオ。そんな二面性を持つスサノオは、二重性を持つ「永遠の魂」を見つける者。

固く強い心で曖昧なものを確定すること

ということで、「強い心」で自己を確定するまでの過程を表しているのが「剣」というアイテムなのであった。「十拳剣」で何度も現実の死を体験し、8回目ではその剣を現実で使用しないことで「草薙剣」が生まれる。

現実世界(十拳剣)でも、精神世界(草薙剣)でも、「戦うこと」は「強い心」の現れである。けれど、本当の窮地に陥った瞬間、それを現実世界で表すのか、精神世界で表すのか、冷静で的確な判断をするのは結構難しい。

七転び八起きと七転八倒

「七転び八起き」という言葉がある。これは何度失敗しても立ち上がること。八で起き上がることは「死=犠牲」という考えの輪廻を断ち切ることである。

「七転八倒」という言葉がある。これは苦しみのたうちまわることを表す。八で倒れることは「輪廻=生と死」であることを心の中で認めること。それはとても苦しいこと。

「七転び八起き」という言葉は「生」を表しているし「七転八倒」という言葉には「死」が表れている。7という数字は何度も何度も繰り返し学んでいる状態であり、8という数字で全てを理解し自己の完成が訪れる。

剣という男性性

わたしたちは誰もが「剣」という「男性性」を持っている。日本神話に登場する「剣」は「不安定な生」と「不動の生」二つの側面を教えてくれるもの。どちらも学び終えたのならば「死」を受け入れ、新たな「生」を見つける。その新たな「生」が「自我」なのである。

様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立つことに、大きな罪の意識を感じるわたしたち。そんな罪悪感から抜け出すには、自分という存在が、今現在、力強く「生きている」のを実感することが必要だ。

八重垣で魂を囲む

クシナダヒメと暮らす場所探し

最後に、スサノオが詠んだこの歌についても解説しておきたいと思う。

そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

ヤマタノオロチ(wikipedia)

ヤマタノオロチ退治を終えたスサノオは、クシナダヒメと暮らす場所を探した。そして淸地(すが)という地に決めて、そこに宮殿を建てた。

すがすがしい瞬間

『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。

須我神社(wikipedia)

ヤマタノオロチ退治を終え「草薙剣」を手にした瞬間「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れることができる。個人的な話になるけれど、その瞬間とてもすがすがしい気分になることは、わたしも経験している。とにかく頭がスッキリするのである。

わたしの個人的なすがすがしい体験はこちらに書いてあるので、気になる方はどうぞ。ちなみにその体験時には、頭の中で『草薙剣を手にした瞬間(死を受け入れた瞬間)』の感覚というか感情だけを先取りしているようなもの。

つまり、今現在のわたしが完全に「死」を受け入れているわけではない。人間はこの先体験するであろう意識を先取りすることができる不思議な力を持っているのだけど、その件については今回の記事には関係ないことなので割愛。

土地とは世界

話を戻して、スサノオがヤマタノオロチ退治を終えた後、住む土地を探して名前をつけた理由について。スサノオが立つ須賀という土地とは、スサノオが見ている世界を表していると考えることができる。

「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れた瞬間に、世界の見方はガラッと変わることになる。「死生観」が変化すると生き方そのものが変化し、世界も変わる。

『確かに存在する自己』を認識すると「見ている世界」が再構築される。それを意味するのが、土地を探し、名をつけ、そこに宮殿を建てること。世界が自分中心になるから、自分の見つけた土地(世界)として名をつけるのである。

「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れていない時、わたしたちはどこか流されるように生きているもの。『世界は既にあるもので、その中に生きている多数の人間のうちの一人が自分』というような感覚をもっているはずだ。

けれど「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れたのならば、新しい世界が生まれる。世界の中心が自分となることは「独裁者」のような世界の見方では無い。その時の自分と世界の状況を難なく受け入れながら、新しい世界を作ろうとしている状態である。

櫛になったクシナダヒメ

スサノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によってその身を変形させられ、小さな櫛に変えられた。櫛になったクシナダヒメはそのままスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。

クシナダヒメ(wikipedia)

実はクシナダヒメはヤマタノオロチと戦う前から櫛(くし)に変形している。このことが意味することについて。すこし前に、こんなことを書いた。

物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

八岐大蛇神話においての現実的存在は「スサノオ」だけ。ということは、クシナダヒメは現実の存在ではない。物になっているのだから、それは人間ではないのである。

櫛であることは、スサノオの心の中にあるものを意味している。ヤマタノオロチが「スサノオの男性性」だったように、クシナダヒメは「スサノオの女性性」を表す。

何故「櫛」なのかは、用途を考えれば分かること。髪をとかすものとしての道具である櫛は「永遠」を整えるものとしての役割である。人体の中で、伸び続けるものは髪や爪である。これらは永く続くものだから「永遠」を表す。

輪廻というものは川の流れのように永遠に続くもの。人の数だけ流れが存在していて、それを整えるのが「櫛」なのである。「女性性」の役割とは輪廻という運命を規則正しく流すものであることがわかる。

流れを堰き止めないこと

繰り返された死(7回の女の死)を体験し、やっと8回目で女(死)を心の中に受け入れることができたのが、オロチを倒したスサノオ。

7回続いた女の死の間は「死=犠牲」という考えであったから輪廻が受け入れられず、その流れは滞っていた。しかし、8回目では「死」の対極に「生」があることを理解し、輪廻が滞りなく流れることになった。そうして輪廻がやっと回るのである。

女性性とは「受け入れる心」のこと。スサノオはヤマタノオロチと対決した際、負けを認める「心の死」を選んだ。一度心が死ぬような経験をしなければ心の中に「女性性」が生まれることはない。

大切なものを守る決意

八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

さて、肝心なこの歌の意味について。8という数字が何度も登場するということは、魂のことを唄ったものであることがわかる。

スサノオが心の中に手に入れた「魂の女性性の側面」は、妻のクシナダヒメとして表現されている。苦労して手に入れた「女性性」であるのだから、それはいつまでも続くように守らなければいけない。この歌は、新しい世界の中心に「女性性」を心に携えた自分(スサノオ)が居て、何層にも周りを囲ってその状態を守っているという情景。

「八雲立つ」というのは多くの新しい魂が生まれること。そして「八重垣」はそれら『男性性と女性性が合わさりひとつになった新しい魂(生)』を大切に囲むように幾重にも作られている。

魂を守る輪廻

実は、「八重垣」は輪廻を表している。魂を守る為に、輪廻を作り出すのが「女性性(クシナダヒメ)」を手に入れた「男性性(スサノオ)」なのである。

スサノオの髪に刺された櫛(クシナダヒメ)は輪廻の流れを整えている。滞りなく流れている状態を永遠に保つために、八重垣という輪廻を作る。輪廻とは何度も同じようなことが起きること。何度も同じことを経験するからこそ、わたしたちは絶対に手放してはいけない「女性性」があることを知る。

1〜7という多数の経験の終わりには、8という理解を迎え、魂が完成する。この1〜8の流れがあるからこそ新しい魂が生まれるのだ。魂とは永遠であり輪廻というループの中にある。そのループは、8という完成を迎えたら最初の1に戻る。

終わり(8・死)と始まり(1・生)は重なっているから、魂の完成こそが魂の始まりとなる。それを教えてくれるのが、八岐大蛇神話なのである。

完成(8)を恐れない

出雲大社の雲が7つであることについて『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから』という謂れがあった。そしてヤマタノオロチ退治でも、スサノオの活躍によって8人目の娘は犠牲にならずに済んだ。

ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘(8つ目の魂)が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

ヤマタノオロチ退治についてこう書いたけれど「8組の男女の魂」は揃っている。「完成」は輪廻というオロチの中ではなく、スサノオの心の中で起きたこと。8回目の「完成」は目に見えないものだから、わたしたちは信じるしかない。完成とは『男性性と女性性の心の中の結婚』である。

後編に続く

長くなってしまったので今回はここまで。たくさんの話をしたけれど、まだまだ続く出雲大社の謎解き。出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったこと、その雲は何故神社間を移動するのか?

今回の記事で8という数字について解説することができたから「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりをばっちりと紐解けるはず。果たして上手くまとめられるのか。

後編はこちら