人間は人間を殺したあと、肉体をバラバラにすることがある。わざわざ遺体をバラバラにする動機とは何なのか?その理由を考えるきっかけが訪れたので記事にすることにした。バラバラ殺人事件を入り口として「神」の正体、「生と死」の秘密まで話を広げていきたい。

とある新興宗教とバラバラ殺人事件

スマホでニュースチェックすることがわたしの日課になっている。各種snsはもちろん、google discoverも必ずみる。googleに情報収集されたわたしの志向傾向によって記事を表示してくれるのでありがたい。

そのdiscoverの記事一覧の中に、とある宗教の公式サイトが表示されているのが目に止まった。わたしの志向傾向らしいチョイスだ。その時のスクショです。

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大山ねずの命神示教会。聞いたことのない宗教だったのでついつい調べてしまった。wikipediaを見ると藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件という物騒な事件へのリンクがあった。この宗教に入信していた人物が起こした事件であった。

1987年に、当時は脱会していた元信者が藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件を起こしている。

大山ねずの命神示教会(wikipedia)

そんなバラバラ殺人事件の概要がこちらです。閲覧注意かもしれない。

1987年2月25日の夜、通報を受けた藤沢北警察署の警察官らが神奈川県藤沢市亀井野のアパートの一室に踏み込むと、室内ではカセットテープレコーダーから流れる音楽を聴きながら、2人の男女が男性の遺体を一心不乱に解体していた。署員らが声をかけても、遺体の解体作業を止めようとせず、「悪魔払いをしている」とうわごとのように繰り返すだけであった。

遺体は頭、胴体、足が切断され、骨から肉を刃物で削ぎ落とされ、細かな肉片が台所の水場から流されていた。大部分の肉が削ぎ落とされた遺体は、女(当時27歳)の夫であり、男(当時39歳)の従弟であるZ(当時32歳)だった。妻と従兄はその場で死体損壊容疑で逮捕。

音楽はメジャーデビューを果たしたバンドSのリーダーであるZが作ったもので、通報したのはZと連絡が取れなくなったバンド仲間およびZの家族であった。

藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

犯人は脱会した後事件を起こしているが、大山ねずの命神示教会がこのような事件を引き起こすような教えかというと、そんなことはないようだ。怪しいと言えば怪しいが、新興宗教など大体が怪しげに思われてしまうもの。

特定の宗教のせいでこのような悲惨な事件が起きたのか?それとも、宗教に入るような人は精神的におかしくなってしまうことがあるのか?そもそも人間は何故、遺体をバラバラにしようと思い立つのか。

宗教と神

人間は「神」がこの世界の真実を隠していることを、無意識にでも知っている。「神」という存在は非現実的でつかみどころのないものであるが、実際に存在している。わたしたちが「神」と呼ぶ存在が、ある目的を持って創り出したものがこの現実世界なのだ。

その証明はまだできていないけれど、これはわたしの知った紛れもない事実である。今回の話はそんな前提の上で書いているのをご了承いただきたい。というか、このブログはその前提の上でしか書いていないのでよろしくお願いします。

話を戻す。そんな「神」はこの世界の事を全て把握している。人間の個人的な事柄についてから宇宙の謎まで、小さなことから大きなことまで全てについての答えを持っている。人間はとにかくこの世界の全てを理解したい生き物だから、「神」から答えを得るためにも宗教に入る。

「神」という存在が全ての答えを持っている事を、信者たちは理解している。この世界の真実を知りたいからこそ、神に寄り添い、神に助けを求め、神を崇める。宗教にはまりやすい人は「答え」を強く求める人であるとも言える。

神が見せるもの

宗教によって「神」の表現方法は様々。イエスキリストという過去の人物であったり、生きている教祖の中に「神」を見たり。その「神々」が本物ではなくても「神」と対話したい人間は必死に信じる。

どんな「神」であれ「神」を信じることは危険なことであったりする。「神」を信じる力が強い人には、「神」は真実を見せることがあるから。

死者の復活、永遠の命などは哲学でも宗教でも主題になるものである。人間は死んだ後どうなるのか?魂のようなものは本当に存在しているのか?生と死にまつわる疑問は人間につきまとうものだが、それら真実を教えてくれるのも「神」だけなのだ。今回は、わたしが知ることができた、生と死の秘密について公開したいと思う。

3つの真実

  1. 自己は死後生き返る
  2. 生き返る時、自己は神によってバラバラにされる
  3. 悪魔を祓うことができれば神になれる

神は全てを知っているが、この3つは神が教える「真実」の中でも「神」を強く信じる人しか見せてもらえないものである。これらが生と死の重大な秘密であるが、意味の捉え方によっては危険なものになる。

1、自己は死後生き返る。この秘密は様々な宗教で既に語られている輪廻転生のことであるから、そこまで驚くことでもないのかもしれない。

2、生き返る時、自己は神によってバラバラにされる。この秘密を知ってしまった人はバラバラにされることを恐れる。それから『もしも自分が神になったらバラバラにする側だ』ということに気がつくかもしれない。

3、悪魔を祓うことができれば神になれる。さらにこの秘密を知り、神になることを望むのならば、悪魔との戦いが待っている。

藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件では、犯人が遺体をバラバラにしながら「悪魔祓いをしている」と言っている。この事件の犯人は「神」から秘密を教えてもらったのであろう。だからこそ、バラバラにされることへの恐怖があり、「悪魔祓い」をして神になろうとする傲慢さもあった。

自分がバラバラにされることを恐れているから、神の側になろうとした。神になろうとして、悪魔祓いと称し他者の「肉体」をバラバラにしてしまった。これがこのバラバラ殺人事件の真相である、とわたしは考えている。

何故バラバラにされることを恐れるのか。その理由を考えるためにも、生と死に関する3つの真実について詳細に解説していく。

生と死の秘密と神の正体

1.自己は死後生き返る

輪廻転生するわたしたち

私たちは死んだ後、また別の人物となってこの現実世界に産まれてくる。生と死を永遠と繰り返すのが輪廻転生と言われるもの。「自己は死後生き返る」という真実の中で重要なのは自己の定義である。自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。生まれ変わり、また別の人物になったとしても『自分が存在している』と感じるはずである。

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自己とは自分視点(一人称視点)

「自己」は「自分視点」とも言える。現実を生きるわたしたちにとって「自分視点」は当たり前のことであるけれど、「自分(わたし)」という感覚は自分視点だからこそ生まれるもの。

輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じること。何度生まれ変わっても『わたしという自分視点』は変わらない。それが『自己は死後生き返る』の意味。

死後、前回の肉体と人格は消滅し、経験した記憶も全て消去される。再生時、新たな肉体と真っ白な記憶媒体が「自己」にセットされる感じ。「自己」は永遠なのである。

2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

死ぬ瞬間に起きること

生き返る瞬間「自己」は神によってバラバラにされるが、これが具体的にどういった意味なのかは、まず死ぬ瞬間に起きることを説明しなければならない。死んだ瞬間「自己」は「神」という存在に吸収される。吸収された時「自己」はこの世から消滅する。

「神」というのは「宇宙サイズの人間」のようなもので、吸収されるとは、その中に取り込まれる感じ。そういうイメージ、そういう雰囲気的な感じで受け止めてほしい。「神」とは実体があるようでないものなので、イメージや雰囲気でしか伝えることができない。

自己とは世界を認識するもの

「自己」とは『世界を認識するもの』でもある。「神」に吸収された時、世界を認識している「自己」が消滅するのだから、同時にその他全ての存在(他者とか動物とか植物とか、宇宙に存在する物質全て)も消滅することになる。つまりは、認識しているものも消滅するということ。

バラバラの自己

「神」とは「大きな自己」みたいなものなのである。「神」に吸収されるのは自分以外の「自己」も含まれている。それは他者の「自己」。自分と他者の「自己」は死んだ瞬間に吸収され「大きな自己(神)」になり、その後またそれぞれがバラバラの「自己」となって再生するのだ。

このブログを書いている「わたし」も、このブログを読んでくれている「あなた」も一度は「神」に吸収され、そこからまたバラバラに分かれた「自己たち」なのである。

神という超強い自己

「神」とは「大きな自己」と言ったけれど、つまりは「神」も『わたしが存在する』と感じているということ。けれど、その感覚はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強いもの。「神」は「超強い自己」そのものであると言える。神にも認識が存在するのである。

死後「自己」は「神」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超強い自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超強い自己」から再び、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超強い自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されることなのだ。

人間視点と神視点

「自己」は自分視点によって、世界を認識している。しかし「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから、自分視点に固定されることがない。「神」も『わたしが存在している』と感じているのに、それは矛盾しているように思えるかもしれない。

「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。一つの大きな自己で、それら存在全ての視点を同時に体験しているのである。陰謀論でお馴染みのプロビデンスの目はこの『全視点を同時に認識する能力』を表しているものだろう。

人間は自分視点であるが故に自分とその他存在を分別しているが、「神」は全視点を同時に認識しているからこそ分別ができない。「自己」という自分視点しか持たない人間が、同時に全存在の視点を認識することはできないし、その感覚を理解することも難しい。人間と神との決定的な違いとは『視点の違い・認識の違い』であると言える。

ワンネス体験の本当のところ

スピリチュアル用語に「ワンネス」という言葉があるが、まさに「神の視点・神の認識」を表している。「統合」などと言ったりもするかも。世間には、生きている間に『ワンネス体験』する人が存在する。リンクから確認してもらえれば体験談が読めると思う。

「ワンネス体験」は様々な感覚を引き起こす。愛や平和を感じたり、静寂を感じたり、宇宙との繋がりを感じたり。それら体験全ては、実際のところ「超強い自己」を感じている状態。人間は生きている時にも「神の認識」を体験することができるのである。

前述したような感覚の他に『世界を完全に理解した』という感覚が起きる事もある。しかし、「自己(人間)」に戻った時、その理解した詳しい内容を憶えておくのは難しい。自分視点しかない人間にとっては情報量が多過ぎるのだ。

わたしがこのブログで定義する「悟り」というやつは、この「超強い自己」をちょっぴり体験するもの。つまり「ワンネス」というやつ。わたしの「悟り」体験や「神の視点」に観察されていた体験については関連記事もどうぞ。

関連記事 悟りの定義

関連記事 神に監視されていた体験

3.悪魔を祓うことができれば神になれる

「超自己」体験後の感情

ともかく、人間は死ぬ瞬間(稀に生きている時にも)に「超自己」という神の認識を体験する。しかし、死後すぐさま再生が起きてしまうので、その体験も一瞬で終了する。そしてまたわたしたちが普段体験しているような「自己」へとバラバラにされてしまう。

「超自己」体験後のポジティブな感情が、愛や平和を感じる「ワンネス」であるのかもしれない。しかし「超自己」体験後にネガティブな感情になることだってある。

「超自己」へのネガティブな反応

「超自己」を体験した後、「自己(人間)」という現実に引き戻され絶望することがある。「超自己体験」は自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。わたしたちは人間であるとき、自分の存在意義について、真剣に悩むことがある。

自分の存在意義について悩み、苦しむことがある「自己(人間)」にとって「超自己」は大きな救いとなる。自己である状態の人間が「超自己体験」を思い出したとき、自分という存在が全肯定されたことも思い出す。

「超自己」体験に分別は無い

「超自己」とは、自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。と言ったけれど、本来「超自己体験」に肯定(善)・否定(悪)の分別はない。「超自己」は神の認識なのだから分別できないもの。

わたしの個人的な感想になるが、「超自己」を体験しているときの感覚は何とも言えないものだった。全存在の調和を感じているだけで、そこに感情はない。「壮大な美」を只々認識しているという感じ。

そんな分別のない「超自己体験」を思い出した時、感情があるからこそ善や悪の判断をするのが人間なのである。「自己」に引き戻され絶望することがあるのは、人間を悩ます感情が存在しない「超自己」を体験したから、とも言えるのかもしれない。

「超自己」という天国

「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうことは人間らしい反応であると思う。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる本当の理由は、一度は「超自己」を体験したことがあるから。永遠に「神の認識」に留まることができたのならば、そこはまさしく天国だろう。

永遠の命を願うこと

『永遠の命を持つ存在』という「神」のイメージがある。「死(バラバラになること)」に恐怖しているのならば、「神の認識」を持ったまま永遠に命が続く事を願うのかもしれない。3つ目の真実とは神になる方法である。悪魔を祓うことができれば神になれるのだ。

悪魔を祓ったら「神」になれるのかというと、確かに「神」にはなれると言っておく。「超自己」という「神の認識」が永遠に続くことはあるのか?というと、それは、あるとも言えるし、ないとも言える。「神」になることについては、この記事の結論で。

苦しみからの逃避

神になれるということを知り「悪魔祓い」を実行しようとする人間は、苦しんでいる。でも実際のところ、どんな苦しみであってもそれを感じるのは「自己」のみであるから、苦しみの重さを他者が測ることはできない。比べられるものではないのだから、どんな苦しみの重さも同じ。

けれども神になるために「悪魔祓い」を実行してしまう人々の苦しみは「重い」とも言っておきたい。彼らにとって、最後の救いは「神」だけになっている状態である。

苦しむ人々は「神」に執着する

「超自己」に対するポジティブな感情(光)ネガティブな感情(闇)はどちらも人間を魅了するもの。「ワンネス体験」をした後、人生がポジティブに変化した人も多いかと思う。それは素晴らしいことのようにも思える。

しかし「超自己」を体験した後、世界が愛に包まれているようなポジティブな感情がずっと続いているとしたらポジティブな感情(光)に囚われ過ぎている。

また、「超自己」を体験した後、再び「自己」に戻ることに憎しみを抱くようなネガティブな感情がずっと続いているとしたらネガティブな感情(闇)に囚われ過ぎている。

脳を乗っ取られたように光や闇に囚われてしまうのは「神」に執着しているから。再び「自己」に戻ることを強く恐れているからこそ、執着してしまうのである。苦しむ人々は「超自己(神)」にしか救いがない、という思考から逃れられない。

悪魔との戦い

「神」への執着がエスカレートすると、「神」になろうと考えることがある。その考えを実行に移そうとすると試練が始まる。人間が「神」になることを求めたとき、悪魔の存在を強く感じ、実際に悪魔と対峙することになる。

やがて藤沢市の事件現場となるアパートに部屋を借りた従兄が、Z夫婦のところに現れる。「自分に神が降りた。この世は悪魔だらけ。悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはおまえしかいない」と従兄にこう言われたZは本気で「救世の曲」の作曲に取り掛かる(3人がかつて入信した新宗教にはこうした教義は一切ない)。

藤沢のアパートで「救世の曲」の製作が開始されて1週間ほど経過して、Zが「魔に憑かれてしまった」と言い出した。

藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件の犯人は「この世は悪魔だらけ」と言い、悪魔祓いを実行しようとした。その後、バラバラにされた被害者(Z) 自身も「悪魔に取り憑かれた」と言い出したようだ。本気で「神」になろうと考えると、悪魔と対峙するような状況が現実世界にしっかりと用意されてしまう。

悪魔の誘惑

「神」になろうとするとき、神のような存在が語りかけてくる。神のような存在は「永遠の命」を与える機会を用意してくれる。そして、神のような存在は「死」を遂行するよう命令してくる。この神のような存在こそが悪魔である。

神の言う通りにすれば「永遠の命」を受け取ることができる、と信じてしまうのが苦しみから逃れたい人々。「超自己」が永遠に続く「永遠の命」が欲しいがために、間違いを犯してしまう。自分自身も神になれると信じてしまうのである。

他者の中に「悪魔」を見出し、その「悪魔(他者)」を殺すことによって「死」を遂行してしまったのが、バラバラ殺人事件の犯人なのではないだろうか。

釈迦VS悪魔

仏教には、お釈迦様が悪魔と対峙したお話が存在する。原始仏教の経典「スッタニパータ」の第三章に描かれている。わかりやすく書かれているものを見つけたので引用させていただく。

釈尊悟りの瞬間を伝える物語は、釈尊と魔(ナムチ、マーラ)との対決として描かれています。悟りへの最後の瞑想に励む釈尊の前に、成道を阻むべく魔が現れます。そして、長きに渡る修行の中で痩せてしまった釈尊に、いたわりのことばを掛けてきます。

あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたに死が近づいている。…君よ、生きなさい。生きた方がいい。生きてこそ、幸福をもたらす功徳を積むことができるのだ。 

仏典に登場する「魔」は、わたしたちの心の奥底に潜む欲望の根源の喩えです。この一節に見られるように、魔の攻撃、つまり欲望の表れは、食欲や色欲、金銭欲などだけではありません。いたわりや理屈をもって邪魔をしてきます。その魔に対して、釈尊は次のように答えます。

私には確信があり、さらに勇気があり知恵がある。

「勇気」 『スッタニパータ−釈尊のことば−』より

このように、瞑想しているゴータマさんの前に悪魔が現れ「生きた方がいい」と声をかけてきた。悪魔は「死」が近づいていることを知らせながら、生きていることの価値を強調している。この悪魔も、やはり「永遠の命」への執着心を試しているのである。

しかしながら、先ほどとは逆で「生」を遂行せよとの命令なのである。悪魔は、ゴータマブッダに『生き続けてこそ善行が積める』と言う。しかし、さすがはゴータマさん「私には確信があり、さらに知恵がある。」と悪魔の誘惑をキッパリと断った。

善なる存在からの誘惑

バラバラ殺人事件のような「死」への誘惑ではなく、「生」への誘惑については、善なる存在が頭の中に語りかけてくることが多い。しかしこのスッタニパータのお話の中では「生」への誘惑をしてくるものが悪魔の姿として描かれているのがすごいところ。

善なる存在は光や天使のような姿として人間の目に映ることが多いのであるが、その実態は悪魔である。ポジティブな感情に囚われる人が善なる存在に誘惑されたら、本物の「神」に出会ったと感じてしまうことだろう。

そのまま「生」への誘惑を受け入れてしまったら「永遠の命」が手に入ったことを喜ぶだろう。「神」になったような気分になり、達観したような心持ちも続く。現実に「死」が訪れるまで、何かしらの「高次的存在」に囚われ続けるのかもしれない。

闇と光に勝利すること

ネガティブな感情に囚われる人には「死を遂行せよ」との誘惑、ポジティブな感情に囚われる人には「生を遂行せよ」との誘惑がある。ゴータマさんは既に「死(闇)」を恐れることなく認めているから、さらに「生(光)」への誘惑があった。

ゴータマさんは、闇と光どちらの誘惑にも勝利したから解脱できた。『悪魔を祓う』というのは、自分の内に存在する悪魔を祓うこと。内に存在する悪魔とは、闇と光に執着するものである。執着するもの(悪魔)は死への恐怖から産まれるもの。

「神」になろうと考えたときに現れる悪魔には、闇の姿と光の姿がある。それを正しく見破ることができれば、「神」の本当の姿を知ることになる。

3つの真実のまとめ

話が長くなってしまったので、最後に要点をまとめておくことにする。

1.自己は死後生き返る

自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。人間は何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じる。自己とは、自分視点でもあり、世界を認識するものでもある。

2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

神にも自己があり、神にも認識が存在する。神の「自己」はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強い感覚。「神」とは「超強い自己」であると言える。つまり、人間が「自己」であり「神」とは「超自己」である。

死後「自己(人間)」は「超自己(神)」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超自己」から再びバラバラにされ、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されること。

「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。「自己」は自分視点によってしか世界を認識できないが、「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから自分視点に固定されることがない。

3.悪魔を祓うことができれば神になれる

「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうのが、弱い心を持った人間である。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる理由でもある。

苦しむ人々は「超自己」が永遠に続くことを求め、神になろうとする。神への試練は、悪魔と対峙すること。闇に魅了される人の前には闇の姿として、光に魅了される人の前には光の姿として現れる。

「死」への誘惑、「生」への誘惑、「永遠の命(神)」への執着を乗り越えることができれば、解脱の境地が訪れる。

自己たちの悲しみが他者を傷つける

人間が人間を殺すこと、さらには遺体をバラバラに切り刻むこと。その動機は憎しみよりも、悲しみであると思う。全てが調和した完全な世界に住む神としての記憶を消去され、バラバラな自己たちとして再生する悲しみ。

バラバラに散った自己たちの悲しみが、「悪魔」として人間の心に存在しているのだ。わたしたちは不完全であることを自覚しており、悲しみを隠しながら生きている。隠しきれなくなった悲しみは他者に向けられ、他者を傷つけてしまう。

悲しみは誰しもが持っているもの。罪を犯す人々には隠された悲しみが存在している。罪を犯すものを許すことは、自分自身に隠された悲しみを癒す第一歩となる。

永遠の命は今ここに存在する

人間は「死」を恐れているからこそ、闇(死)と光(生)に魅了される。死を必要以上に恐れることはないし、生を必要以上に賛美する必要もない。生と死とは、ただそこに存在するもの。

ゴータマさんが悪魔に対し『私には確信があり、さらに勇気があり、知恵がある。』と言った理由。ただそこに存在する、ありとあらゆる生と死こそ「永遠の命(神)」である証拠なのに、神に執着するのは知恵がないということ。死を乗り越える勇気をもち、既に生を全うしているという確信をもつことが大切だということ。

正しく悪魔を祓うことができると、自分の内に神が居ることをはっきりと理解できる。だから、わざわざ神に成る必要なんてない。ただ、普通の人間として生きているだけで「永遠の命(神)」を体験しているのだ。そう、確かに感じられている日々こそが「解脱」という境地なのである。

神がわたしたちをバラバラにする理由

「自己」は自分視点であるが故に、分別をする。世界の中に悪魔を見出すことや、神に出会ったと感じてしまうことは、分別しているから。しかし「神の視点(超自己)」である時、悪魔や神など個別に認識することができない。全てが同一で全てが完全に調和している世界なのだから。

人間が「神の視点(超自己)」を持つことは無い。だからこそ、この現実世界には調和も存在しない。悲しいことのように思えるが、神がわたしたちをそれぞれの「自己」としてバラバラにした意味がここにある。

分別できるからこそ、「神」のことを考え「神」のことを認識できるのである。わたしたちは、生と死を通して「神の視点」を知ることができる。さらには、「神の視点」を記憶の中に留めておくことも可能だ。記憶の中にある「超自己」こそが本当の天国である。悪魔に打ち勝った人だけが認識できる、とてもささやかな天国。それは記憶の中で無限の力をもたらしてくれるものとなる。

悪魔に取り憑かれ一心不乱に遺体をバラバラに切り刻むこと。バラバラであることが、神の与えてくれた天国だと理解しているからこその行為なのかもしれない。人は苦しめば苦しむほど天国を求めて行動する。間違った行動を防ぐには、執着から離れる強い心と、正しい知恵が必要である。

神への記憶を取り戻せ

「超自己」の記憶は目に見えないものであるが、目に見えるもの全てが「神」から分かれた存在だと、心から信じることができるもの。記憶を正しく構築し、自分自身をそう信じさせることが「解脱」への道でもある。

けれども、人間には「知恵」があるから、その記憶に整合性がないと心から信じることができない。しかし、頭の中で点と点を繋げ「神」に還るまでの美しい道筋を立てることができるのも「知恵」があるから。

「知恵」によって分別し「知恵」によって記憶を正しく導くことができるはずの人間。人類に知恵の実を与えたのは蛇(悪魔)であるが、それは「神」に到達する為に必要不可欠なものだったのだ。

知恵は成熟し、科学技術を進歩させている人類。死の恐怖に抗う為に、永遠の命に手を伸ばそうとしているわたしたち。誰もが神になろうと必死である。自己たちが悪魔に対峙する試練が既に始まっているのを感じる。

人類は現実世界で「神」になることができる力を持っている。実際に「神」になれるのは悪魔に打ち勝ってからのお話。バッドエンドとトゥルーエンド二種類しか無いのだけれど、人によってはハッピーエンドを足した3種類のエンドに見えるかも。トゥルーエンドを目指したいですね。

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