はじめに なぜ「かごめかごめ」は怖く感じるのか
「かごめかごめ」は、ほとんどの日本人が子どもの頃に遊んだことのある童歌だろう。目隠しをした鬼を囲んで歌い、歌い終わると「後ろの正面だあれ?」と問いかける。ただの遊び歌のはずなのに、歌詞をあらためて読むとどこか不穏な空気が漂う。
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
Wikipediaには次のような解説がある。
「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。
かごめかごめ(Wikipedia)
「籠の中の鳥」「夜明けの晩」「後ろの正面」―矛盾するような言葉が並び、意味がすんなり通らない。作詞・作曲者は不詳で、成立時期も定かではない。だからこそ多くの人がこの歌詞の「本当の意味」を読み解こうとしてきたのかもしれない。
「大人の宗教的儀礼を子供が真似た」という一文も気になる。もともとは儀礼のための歌だったとすれば、意味が多層的になっているのも自然なことかもしれない。
この記事ではわたし自身が気になった解釈を取り上げたうえで、わたしなりの考察を書いてみたい。
4つの解釈
1.陰謀説
「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。
かごめかごめ(Wikipedia)
相続争いを背景に、子を殺された母親の怨念の歌とする説。「人間の欲のために命を奪われた者の歌」という解釈。
2.囚人説—牢屋と運命の歌
かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
かごめかごめ(Wikipedia)
「籠」を物理的な牢屋と読む解釈。「閉じ込められた存在が運命に問いかける」という構造は陰謀説と共通している。
3.神示説—精神的目覚めの歌
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。
かごめかごめ(Wikipedia)
「肉体の束縛から逃れ、悟りを得る歌」という読み方。同じ歌詞が怨念・恐怖とまったく逆の「目覚め・解放」として読めるのが面白い。「後ろの正面にいる者が自分自身だった」という反転が、この説の核心。
4.ヘブライ語説—日ユ同祖論との接点
この中でわたしが一番興味を持ったのがこれ。「この歌詞自体がヘブライ語である」という説。
この説の背景には「日ユ同祖論」がある。日本人とユダヤ人(古代イスラエルの失われた十部族)には文化的・言語的なつながりがあるのではないか、という仮説で、学術的には実証されていないものの、根強い人気を持つテーマである。
日本語とヘブライ語の発音が似ている単語が多いことや、日本の神事とユダヤ教の儀礼の構造的な共通点が根拠として挙げられることが多い。
カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであることから、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていたことが記載されています。
「かごめかごめ」の意味とは Part I
「籠の中の鳥」が聖書の「契約の箱の上の2羽の金の鳥(ケルビム)」に対応するかもしれないというわけだ。
かごめかごめの歌詞を似た発音のヘブライ語に置き換えて訳すと、こういった意味になるという。
何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
「かごめかごめ」の意味とは Part I
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた
さらにもう一通りの解釈もある。
何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
「かごめかごめ」の意味とは Part I
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!
お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く!
「お守りの岩」の結末が「焼かれて見捨てられる」か「水が湧く」かで意味が二通りに割れる。同じヘブライ語の解釈でも、正反対の結末が現れる。
カバラ(ユダヤ神秘主義)には「ゲマトリア」という、言葉を数値に変換して意味を読む手法がある。日本語をヘブライ語に変換して意味を読むという発想はそれに似た感覚がある。
かごめかごめは「心」の歌ではないか
ここからは、わたし自身の解釈を書いてみたい。あくまで一個人の考察である。
いくつかの説を眺めてみて、わたしが感じたのは「共通する構造がある」ということだった。それは、囚われている何かが、境界を越える(あるいは越えられない)という構造だ。
妊婦のお腹の中にいる子ども(こちらは自ら出るのではなく、出ることを阻まれた側だが)。牢屋の中の囚人。肉体に閉じ込められた意識。契約の箱に封じられた聖なるもの。いずれも「籠の中」にあり、「出る」ことが歌のテーマになっている。
この構造を、わたしは「人間の心」に当てはめて考えてみた。
「籠の中の鳥」=現実世界に囲まれた自分
わたしたちは、社会や他者という「籠」の中で生きている。国、家族、仕事、人間関係―こうした環境に守られながら、同時にそこから出られない存在でもある。
かごめかごめの遊び方を思い出してほしい。中心に目隠しをした鬼がいて、周囲を他の子どもたちが囲む。この鬼が「籠の中の鳥」であり、囲んでいる子どもたちが「籠」そのものだとすると、わたしたちが現実世界の中にいる姿と重なるように思える。
「いついつ出やる」=いつか現実に疑問を持つ
長く籠の中にいると、その環境が当たり前になる。しかしある時、ふと「ここは本当に自分がいるべき場所なのか」と疑問を持つことがある。「いついつ出やる」という問いかけには、そうした予感のようなものが含まれているように感じる。
「夜明けの晩」=境界線の曖昧さ
「夜明け」なのに「晩」。この矛盾した表現について、Wikipediaでは「存在しない時間」「対称的な物事の象徴」といった解釈が紹介されている。
わたしは、これを「現実世界と精神世界の境界線にいる状態」だと考えてみた。朝でも夜でもないあいまいな時間帯のように、現実なのか空想なのか区別がつかなくなる瞬間がある。深く悩んだり、強い感情に飲み込まれたりすると、現実の輪郭がぼやけてくる。その状態を「夜明けの晩」と呼んでいるのではないか。
「鶴と亀と滑った」=深い絶望、あるいは気づき
「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるように、鶴と亀は長寿の象徴だ。この鶴と亀が「滑る」とは、縁起のよいものが崩れること―つまり、それまで信じていたものが揺らぐ体験を指しているのかもしれない。
わたしの考えでは、「鶴」は人間的な希望(幸せに生き、寿命をまっとうしたいという願い)、「亀」はもっと大きなもの(永遠、あるいは神的な存在)を象徴している。
日本の神話や伝承を見ると、亀は四神の玄武として天に属し、浦島太郎では人間を神の世界へ導く存在として描かれている。一方、鶴は「鶴の恩返し」で人間に姿を変え、千羽鶴として人間の願いに寄り添う。「鶴は千年」の有限な時間と「亀は万年」の永遠。この対比を踏まえると、鶴を人間側、亀を神側と読むことには一定の根拠があるように思う。
その両方が「滑る」のだから、それは人間の願いも、超越的なものへの信頼も、一度は崩れてしまうような深い絶望の瞬間ではないか。
一方で、「滑った」を「統べった(統合した)」と読む解釈もある。対極にあるもの(人間と神、生と死、陰と陽)がひとつになる瞬間とも読める。絶望と気づきは、紙一重なのかもしれない。
「後ろの正面だあれ?」=問いかけの核心
「後ろ」と「正面」、これもまた矛盾する言葉の組み合わせだ。
わたしは、この問いかけを次のように受け取った。ある出来事をポジティブに感じるか、ネガティブに感じるか。その判断をしているのは、結局のところ「自分自身の心」ではないか。後ろ(ネガティブ)も正面(ポジティブ)も、どちらも自分の心が生み出している。
「後ろの正面だあれ?」という問いへの答えは、やはり「自分」なのだ。少なくとも、わたしはそう考えている。
世界に善悪をつけているのは外側の何かではなく、自分の内側にある心。この気づきが、かごめかごめという歌の核心にあるのではないだろうか。
歌詞に隠された「3つの対極」
ここまで歌詞を一節ずつ追ってきたが、全体を見渡すと、この歌には「対極にあるもの」が繰り返し登場していることに気づく。
- 夜明けと晩 ……朝と夜
- 鶴と亀 ……人間と神、有限と永遠
- 後ろと正面 ……ネガティブとポジティブ
日常の中にある「違い」は、すべて心が判断して生み出しているもの。そういう見方をすると、この3組の対極は同じことを別の角度から歌っているように見えてくる。もちろん、これもひとつの解釈にすぎないが。
各解釈を振り返って どの説も「間違い」ではない
最初に紹介した陰謀説・囚人説・神示説・ヘブライ語説、そしてわたし自身の考察。これらはまったく異なる方向を向いているようで、共通する構造を持っていた。
- 何かが籠(制約・環境・肉体)の中にいる
- そこから出ることが問われている
- 出た先には、恐ろしいものか、聖なるものか、あるいはその両方がある
わたしが興味深く思うのは、どの解釈を採っても歌詞の不穏さが消えないことだ。意味がわかっても怖い。むしろ、意味を掘り下げるほど、人間の心の奥にある「見たくないもの」に近づいていくような感覚がある。
それが「かごめかごめ」の魅力であり、何百年も歌い継がれてきた理由なのかもしれない。
おわりに
「かごめかごめ」の歌詞の意味は、いまだに確定していない。そして、おそらく今後も確定することはないだろう。作者不詳の童歌に「正解」はなく、あるのは読む人それぞれの解釈だけだ。
ただ、この歌が人の心に引っかかり続けるのは、歌詞の中に「心の構造」のようなものが埋め込まれているからではないか。籠の中にいること、そこから出ようとすること、出た先で自分自身と向き合うこと。それは特別な体験ではなく、誰もが人生のどこかで経験する心の動き。
怖い歌だと感じる人も、不思議な歌だと感じる人も、その感じ方自体が「後ろの正面だあれ?」という問いへの答えになっているのかもしれない。

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