波乱の2020年、あっという間に12月になってしまった。今年の締めくくりに、今年のわたしを振り返ってみる。
1月に掲げた目標「何者かになる」
今年の1月わたしはこんな記事を書いていた。そこにこんな目標を掲げていた。
人間を「何者かになったもの」と「何者にもなれないもの」二つに分けるとしたら私は後者だ。私の今年のテーマは何者にもなれないままで何者かになることを目指す!です。
1月時点では、わたしは自分が「何者」なのかまったく解っていなかった。しかし、今年も色んな出来事があって、毎日学びがあって、そんな日々の中で確実に自分が「何者であるか」を見つけることができたのだ。
自分がどんな性質をもっていて、どんなことを達成したいのかが明らかになった年だった。自分が「何者になりたいか」理解できたとしても、自分が目指すその「何者か」になるためには、これから長い年月をかけ積み重ねてその理想像に近づけていくしかない。
だからわたしはまだ「何者か」になっていない。何も成し遂げていない。やっと自分のやるべきことが理解できて、目標が決まっただけである。
つまり「何者にもなれないままで何者かになることを目指す!」という今年掲げたテーマ通りの一年となった。よーやった。
何者になりたいのか?
わたしの人生の目標
ところでわたしは「何者」になりたいのか?そのあたりの詳しいことは置いといて、わたしの人生をかけた大きな目標は決まった。「UOZAブログについて」で既に書いているので再掲。
このブログのコンセプトはずばり「輪廻から解脱」する人を増やすこと。
このブログによって「輪廻から解脱」する人を増やしたい。ゴータマ・ブッダを超えたい。仏教徒に怒られそうだけど。なんでこんな目標にしたのかというと、単純に誰もやっていないことをやりたいから。このブログを読んだことによって誰かが「輪廻から解脱」できたら…と想像するとワクワクする。
現代の仏教で解脱できるとは到底思えないし、キリスト教も無理っぽい。その他宗教も同じく。解脱させる意気込みがまったくないように見える。だからこそ、このブログだけで見知らぬ誰かを解脱させてみたい。
解脱とは「本当の幸せ」である
オカルト系ブログ、スピリチュアル系ブログはたくさんある。最近は都市伝説系youtuberも増えているけれど、とにかく現代は信者を囲って金を取って満足するだけの人が多い。現代では宗教がオンラインサロンに成り代わっている。そして信者に布教する内容は「上手な幸せの感じ方」講座ばかりである。
お金を払って説教を聞いて「幸せ」になる。誰かから教えられる「幸せ」は「本当の幸せ」ではないのに、それでいいのか!?という気持ちになってしまう。
そもそも自分の思想を伝えるために、信者から直接お金をとるというのがダサいしつまらないと思ってる。わたしには反骨精神みたいなものがあるから、そういう今ある現状に歯向かっていきたい。だからこのブログだけで「本当の幸せ」を掴み取る方法を伝えることができたら面白いな、と思っている。
わたしが最近やっと手に入れたものは「解脱のための智慧」。この知識を持っている人は少ないはずで、わたしはこの知識を利用して野望を叶えたい。わたしがこのブログで提供する情報が精神世界の最先端でありたい。他の探求者たちには絶対に負けたくない、という想いがある。
このUOZAブログをいつか全人類に読んでもらいたい。そんな大きすぎる野望ができてしまった。
矛盾のある言葉
今の話には矛盾が含まれている。”誰かから教えられる「幸せ」は「本当の幸せ」ではないのに、それでいいのか!?という気持ちになってしまう。” こう言っているけれど、
わたしがこのブログで教える「本当の幸せ」は、「本当の幸せ」なのか?という疑問が出てくる。結局は、わたしの考える「本当の幸せ」の存在を信じてもらうしかないのだ。
わたしの考えている「本当の幸せ」はお金を払って話を聞いているだけでは手に入れられないもの。わたしの知っている「本当の幸せ」を手に入れるには「大きな苦しみ」が伴う。
わたしは「本当の幸せ」を掴み取る方法を無料で提供はするけれど、勇気と覚悟を持ってチャレンジする人だけがその結果を受け取ることができるようになっている。
しかしながら、その「本当の幸せ」なんてものが実際には存在しなかったとしたら、苦労損になってしまう。だからチャレンジは自己責任になる。わたしは他人の責任を負いたくない。
無責任に思えるかもしれないが、そもそも自分で行ったことの責任を負えない人に、わたしの考える「本当の幸せ」を手に入れることはできない。だからこそ「本当の幸せ」を手に入れることは難しい。
強い意志と使命感
わたしが「正しい」と思うことを主張していかないと、間違った「本当の幸せ」が世に蔓延ったままになってしまう。だからこそ他の探求者たちには負けたくない。
使命感は結構ある。リスクをお知らせした上で、できるだけ安全に『本当の幸せ探し』に挑戦して欲しいとも思っている。
けれど「本当の幸せ」は各自が決めていくものだとも理解しているから、わたしの話を信じるかどうかは各自にお任せします。
自我を理解した2020年
ここまで読んでもらっておわかりの通り、わたしは自我(エゴ)がすごい。わたしが自分の心の中にある、この自我にしっかりと気がついたのが、2020年でもあった。
自我(エゴ)こそがわたしを「何者か」に導くもの。これこそが自分を自分たらしめるものであるとやっと気がついたのだ。
だからわたしは自我(エゴ)を押し殺さずに、このブログでも日常生活でも、自我(エゴ)を表現していく。その決心がついたのが2020年でもある。
鬼滅の刃が流行った理由
鬼に翻弄された1年だった
わたしは今年の2月に岡山と奈良で「鬼巡り」をしたけれど、振りかえってみると「鬼」という存在に振り回された1年だった。そして「鬼」が象徴するものが何であるのか理解した2020年だった。理解できたのも『自分の中に存在する自我』に気がついたから。
今年は「鬼滅の刃」が大流行したことだし、今年のまとめとして「鬼」についての話をしていこうと思う。
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ちょっと自我のはなしをする
UOZAブログの自我の定義
わたしは今年やっと自我の大切さに気がついたのだけれど、自我とは結局何なのか。人間には「認められたい」という願望があって、それは「自分を好きになりたい」という願望と同じ。それがわたしたちの自我(エゴ)というものである。
UOZAブログにおける「自我」の定義を以前こちらの記事で書いている。その定義を再掲。
自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。
自我表現(意志表示)の動機
『自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか』は人それぞれ違っているのだけれど、実は私たちは「自分を好きになりたい」から意志をもって行動している。そして「自分を認めたい」から意志を持って行動している。
人間の「自我表現」は様々だけれど、それは全て「自分を好きになりたい」という動機から起こっているということ。そして、人間は誰しもが「自分を好きになりたい」からこそ「自我」を持っている。
精神の奥深くに刻み込まれているもの
私たちが自我を持っている理由。それは、私たちは「自分が大嫌い」だから。「自分を好き」だと思っている人も「自分に自信がある」と思っている人も「大嫌いな自分」を心の奥底に隠している。
私たちは大昔に「自分を大嫌い」になるような過ちを犯してしまったから、人間になってしまった。その『大きな過ちの記憶』は精神の奥深くに刻み込まれているので、思い出すのが難しい。忘れている人がほとんどである。
忘れていたとしても、自分のやってしまったことを許せない気持ちだけが表に出てくる。だから人間には『恥ずかしさ・悲しみ・怒り』の感情がある。これら感情は「大きな過ち」に対する罪悪感から生まれた。
その過ちがどんなものだったのかを思い出し、反省し、過ちを犯してしまった自分を許すことが私たち人類の最終目的である。許すことができたら心の底から自分のことを好きになる。そしてそれが「解脱」と呼ばれるものである。
人間が「解脱のための智慧」を手に入れていなければ、自我の強さ(大嫌いな自分)に飲み込まれてしまうだろう。「自我」とはとても恐ろしいものなのである。
鬼は怒りの象徴
鬼についての真実
鬼(おに、英語: demon)は一般に、日本の妖怪と考えられている、伝説上の存在。民話や郷土信仰によく登場する。日本語では逞しい妖怪のイメージから「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」「大きな」といった意味の冠詞として使われる場合もある。
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「鬼」は強くて悪い奴で怖いもの。わたしは今年自分自身が「鬼」に振り回されたから、「鬼」がどんなものであるか、はっきりと理解できた。
「鬼」とは人間の心の中に存在する「自分のことを好きになれない怒り」のことなのである。私たちは大昔に「自分を大嫌い」になるような過ちを犯してしまったが、その過ちに対する感情のひとつ「怒り」が「鬼」ということである。そして「怒り(鬼)」が「大きな過ち」の原因でもある。
つまり鬼というものは『自分のことを好きになれない(許すことができない)怒り』と、『人間が生まれた原因』の2つのことを表している。過ちを犯した時のことを思い出すためにも「怒り(鬼)」が重要なのである。原因がどんなものなのかを探るには、自分の中から鬼を出して、その鬼と向き合うしかない。
「怒る」という感情がとても苦しいものなのは、みなさんもよく知っていることだと思う。だから人間は自我をエゴと呼んで遠ざけるのである。鬼を出して「大きな過ち」の原因を探ることを避ける。
鬼はとても怖いもの
人間は自分の中に存在する「鬼」に恐怖を感じている。「怒り」は他者を傷つけるし、同時に自分自身をも傷つける。なぜなら「他者を傷つけること」に大きな「恐怖」を感じているから。
「他者」を傷つけたことで辛く厳しい理不尽な世界に堕とされてしまったのが「人間」である。それが「大きな過ち」の原因となるものである。
もしも他者を自分の手で殺してしまったとしたら、どんな気持ちになるだろうか。想像できないだろうけど、想像してみてほしい。きっと自分に対する「恐ろしさ・憎しみ・後悔」が溢れ出てくると思う。
私たちはその「恐ろしさ」を想像することが「苦しい」から「怒り」として表現するし、その「恐ろしさ」を既に知っているから「怒る」。
「過去の過ち」を許すことができないから「自分のことを好きになれない」私たち。だけど「自分のことを好きになりたい」私たち。その葛藤が「鬼」となって現れるのである。
関連記事:地獄で「大きな過ち」の原因を知る
鬼滅の刃と日本人
精神の奥底から『過去の過ちを反省し、自分を許したい』という忘れ去られていた自我が表に出てくると「恐ろしい鬼」となる。最近、私たちが怒りっぽくなっているのを感じませんか?
一人の怒りは周りに居る人たちの怒りも引き出していく。そしてそれが集合して大きな「鬼」となっていく。鬼が目覚めてしまったらもう止められない。私たちは怒っている。自分自身に。人間になってしまったことに。
今年「鬼滅の刃」が流行したのは、私たち日本人の心の中にある自我がついに表に出てきたから。
とか言って鬼滅の刃は読んでない。けど、ちょいちょい耳に入ってくるあらすじの断片から、そう理解した。絶対そう。
日本人は世界で一番古い魂(精神)を持っている。大きな過ちが起きた時を体験していて、その時のトラウマが精神に深く刻み込まれている民族なのである。
「鬼(キ)」という漢字の原義は「死者の魂」である。馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本に固有で古来の「オニ」と重なって鬼になったという。ここでいう「オニ」とは祖霊であり地霊であり、「目一つ」の姿で現されており、隻眼という神の印を帯びた神の眷属と捉える見方や、「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。
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「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との一説が古くからある。
”「オニ」とは祖霊であり地霊である。”「オニ」とは太古に「大きな過ち」を犯した私たちの祖霊のこと。その血を強く受け継いでいるのが日本人であるから、ある意味呪われた民族である。鬼という「死者の魂」が自分の内側から甦ろうとしていて、それが「怒り」となって現れることになる。
「おに」の語が「おぬ(隠)」から転じたものである、という一説が存在するのも、『大きな過ちの記憶』を無意識に隠しているから。
『大きな過ちを犯したこと』が遠い昔、祖先に起きた出来事だからといって、現代の私たちに関係ないとは言えない。
血には責任がある。血を受け継いでいるのならば「祖霊」の過ちを認めて、同時に許さなければいけない。「鬼」と対峙することを避け、目をつぶって見ないようにすることもできるけれど。
鬼を忘れていく人
鬼が生まれ出でる時代には、怒りがなくなってしまう人たちも多くなってくる。自分の中に存在する「鬼」を怖れるあまり、鬼を心の奥底に閉じ込めてしまう人々も今後増えてくるだろう。
私たち人間は発展して豊かな生活を手に入れた。今や世界には私たちを簡単に満足させてくれるものが溢れている。それらは人間の欲望を刺激し、求めても求めても乾きが癒えない欲望のループへと誘う。
私たちを簡単に満足させてくれるものは「満たされない」という感覚を残しながら、少しだけ満たされた感覚を与える。そしてまた乾きを呼び戻す。
そんな欲望のループから抜け出すことができない人間は、時折「虚無感」を感じているのであるが、「虚無感」さえもいずれ無くなってしまうときがやってくる。その時こそが『鬼を心の奥底に完全に封じ込めた瞬間』である。
鬼を封じ込めてしまった時、人間は人間でなくなる。怒りのない人間は自我も持たない。自我を持たない人間には感情が存在しない。
人間になった原因は『怒りからくる過ち』であるが、その過ちの原因を探らず押し込めてしまうのであれば、自分(人間)という存在をきれいさっぱりと忘れてしまうのである。
自我は自分が自分であるため、人間が人間であるために必要なものなのだけれど、それは怒りとなって(鬼となって)自分自身を傷つけてくるから恐ろしい。人間はその恐ろしさを知っている。
弱い者たちは欲望に目を向け、他者から与えられる快楽だけを永遠に求め続ける。いずれは自分の意志を無くしてしまうのだ。
人間であることを辞めれば「鬼」であることの真実を直視することなくやり過ごせる。しかし「鬼」の血をひいた人間は「大きな過ち」の代償である「死」から逃れられない。
人間であることを辞めても「死」からは逃れられないのである。また輪廻転生し「人間以外の生き物」として存在することになるだろう。「死」から逃れるには必ず「過ちを認めること」が必要なのだ。
鬼を滅すること
「鬼」を心の奥底に閉じ込めても「鬼」は消えない。だから私たちは「鬼を滅する」必要がある。「鬼」に打ち勝つためには「大きな苦しみ」を乗り越える必要がある。乗り越えることができたときに「本当の幸せ」が手に入ることになる。
鬼を滅する人・鬼に支配されていく人・鬼を閉じ込める人。人間はいずれこのどれかを体験していくことになるだろう。このブログを読んでいるみなさまには「鬼」に打ち勝ってほしいと思っている。
関連記事:よーさんの予言する3つの世界
鬼と戦う方法
「鬼」の血を強く受け継ぐ日本人は「鬼」に対峙することのできる「強い心」を持っている。「鬼」に打ち勝つことができるのは「鬼」だけなのである。
強い「自我表現(鬼)」で鬼と戦うこと。他者に悪意を向けるのではなく「正しい」と思うことを強く表現すること。
人間が何かを強く表現するときの動機となるものは「何かに対する怒り」である。しかしそれは「怒り」なので、コントロールできない場合どうしても他者に「悪意」を向けてしまうことになる。だから「怒り」を自己表現に使うのは難しい。
日本人は「鬼」の血が強いからこそ「怒り」を嫌う。だから「強い自己表現」をも嫌悪する。けれど「鬼」の強さを隠し持っている。
強さというのは「心」の中に秘められているもの。本来の「強さ」は筋力や体力では無い。鬼は表に出すものではなく隠すもの(おぬ)なのだ。
過去「大きな過ち」を犯した時と同じことになってしまっては、意味が無いのである。最後には皆んなが笑えるような方法で「鬼」に勝つ方法を身につけないといけない。その方法をこのブログでお伝えしていきたい。
鬼堕古墳で最初に戻った
渥美半島で思ったこと
11月に愛知県「渥美半島」に行った。私の両親がgotoを利用して計画していた旅行であった。その旅行にわたしも参加することにしたのであるが、諸事情で両親が行けなくなってしまった。
せっかくだし、代わりにわたしと旦那で急遽「渥美半島」へ行くことにした。車で行ったのだけど、静岡に入ったあたりから到着するまでずっと太陽が正面にあって、すごく眩しくてすごく暑くて具合が悪くなった。太陽はやはり厳しいと思った。太陽を舐めてた。
父が海釣りをしたかったらしく岬の近くのホテルを予約していたのであるが、到着し近くの岩場で夕日が沈むのを見たりした。それがこの記事のトップ画像。この日は美しさと厳しさをもつ太陽の裏表を見た。
そのホテルには天体望遠鏡があって、夕食後星の観察会に参加した。火星、土星、木星、オリオン大星雲、アンドロメダ銀河、などなどいろいろ見せてもらった。意外と小さくて見えないな〜と思ったが土星のわっかはすごかった。
次の日の朝には岬にある燈台周辺の遊歩道を散策したりなどした。その遊歩道には漁夫歌人「糟谷磯丸」さんの歌が刻まれた碑がたくさんあって、それが全部いい歌で。別記事で紹介したいくらい。
最初に戻った旅
そして、フェリー乗り場の近くには「鬼墜古墳」と名前がついた草ボーボーの古墳があった。忘れ去られた過去の遺物。説明看板も剥がれていた。悲しい。
自我(鬼)のことを理解して、自我(鬼)が私たちの始まりだと知った2020年。鬼へと堕ちた理由を探る1年だったから「鬼堕古墳」に偶然辿り着いたのは少し怖いけれど、だからこそ「鬼」のことをこのブログで書かなければいけないと思った。
鬼に墜ちた時が私たちのはじまり。最初(始まり)と最後(終わり)は同じ場所。それがはっきりと理解できたのも、映画「TENET テネット」を観たから。記事を書きながら頭の中ですっきりとまとまっていった。今年一番の衝撃だったかも。いつも他者が何かを教えてくれる。
関連記事:「TENET」オカルト考察 その1
今年のまとめ
2月の「鬼巡り」から始まって、11月の「鬼堕古墳」。「鬼」の気持ちを理解した1年になった。ということで、わたしの今年の総括をする。
自分の内側から「鬼」を出すことはあまり他人におすすめできないとも思った。わたしは今年(去年から)何度も怒っていた。親に対して。祖霊を憎むように。すごい疲れるし辛い。もう無理ってなる。
このような「怒り」が死ぬまで続くのは結構辛い、と思った。次はどんな「鬼」が姿を表すのか?と考えると怖い。
でも「鬼」に向き合って、大きな収穫があった。それが12月のことである。わたしが「鬼堕古墳」に辿り着いたのも、両親のおかげ。全ては親が用意してくれた舞台。親が居たから私たちが生まれた。
向き合って乗り越えないと結果は出ない。いつだってわたしは素晴らしい結果を求めている。それが今は目に見えないものだとしても、絶対にいつか目に見えるようになると信じている。
向き合った先にある、この世界の「真実」を知ることは、たぶんこの世で一番「面白い」。世界中に存在するどんな物語よりも面白い。TENET(テネット)よりもエヴァンゲリオンよりも面白い。本当の幸せ=面白い。
この「面白さ」を共有するためにも、やはり、このブログで「鬼」との対峙方法をお伝えしていく。ケツイ。
きつねのはなし
こちらは渥美半島の帰りに寄った「豊川稲荷」の写真。きつねきつねきつね。きつねは怖いよ。御朱印もらった!
下の写真は、今年3月実家に帰ったとき、スーパーで駅弁フェアやってて買った豊橋駅の「いなり寿司」。この時は「豊川稲荷」に行くとは思っていなかった。この頃から「いなり寿司」好きになったんだった。豊川稲荷の帰りいなり寿司ときしめん食べた。
そういえば、去年山の家の近くできつねが死んでいるのを見たが、次の日には綺麗さっぱりいなくなっていた。誰が片付けたのだろう。きつねは腐らないのか?
「2020年を振り返る(鬼のはなし)」への 2 件のコメント
私はひふみ神示を読むのですが、鬼から王仁になる仕組みとは、艮の金神を理解することが悪を理解する近道とは、こういうことかと思いました。面白かったです。
コメントありがとうございます!
ひふみ神示、あまり詳しくないのですが
興味はあるのでいつか記事にしたいと思っているところです。
自分の内から鬼を出して、やっと鬼のことが理解できるようになりました。疲れました。
こちらの記事にも少しだけ鬼のこと書いていたりします。