目次

出雲大社「御神体」の秘密を解き明かす

完成前(7)・完成(8)・完成後(9)

ここまでは、「8」という数字が人と神とを繋げる『目に見えないもの』であると紐解くことができた。さらには「出雲大社」に描かれる「7つの雲」は完成前の「人間」、「神魂神社」に描かれる「9つの雲」は完成後である「現人神」を表していることがわかった。このことを踏まえ、さっそく今回の記事のまとめに入っていきたい。

心御柱・御神体・心の雲

心御柱は心(自我)

前編では『男造と女造を重ねたもの』が「人間の心の構造」であると述べてきた。そして「心御柱」は人間の心の中心にあるもので、「自我という心」である。「自我」とは『女性性の心(思考)』と『男性性の心(実行)』を合わせたもの。

御神体も心

大社造の中には外から見えない「御神体(大国主)」がある。中に入ったとしても「御神体」の中身を見ることはできない。だからこそ『御神体も目に見えない心』であると言える。

心の雲も心

そして、天井に描かれている雲も「心」。心=魂=精神である。中心にある雲は一番大きな「心の雲」。出雲大社の「心の雲」は『女神であり人間』であると考察したが、まだその答えは出せていない。

沢山の心

「大社造」には「心」を表現するものが多く存在している。ここまでのことを簡単にまとめた図を書いてみた。

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大社造の中の心

肉体と心

「神」と「人間」は鏡写しの関係である。「神」が目に見えない存在であるとしたら、「人間」は目に見える存在。そして、目に見える「肉体」と目に見えない「心」も鏡写しの関係になる。

雲・御神体(御祭神)・柱、それぞれが心であるならば、大社造という建造物そのものが「肉体」である。だからこそ人間と同じく、男造・女造がある。

出雲大社にある3つの心

7柱の神

ここからの話をするために、一度まとめておきたいことがある。出雲大社の御祭神の数、柱の数、雲の数、これらを一覧にしてみた。

神…7柱(大国主×1、御客座五神×5、和加布都努志命×1)
柱…9本(心御柱×1、宇豆柱×2、側柱×6)
雲…7つ(心の雲×1、その他雲×6)

実は、出雲大社本殿内部には大国主以外にも神が存在している。それが「御客座五神(天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神)」と、和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)である。

御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています。

御本殿(出雲大社)

これら神々と大国主を合わせると、やはり雲の数と同じく「7柱の神」となる。この数の一致も偶然ではなく、「完成前」であることを表している。大国主を含む神々が「完成前」とは失礼であるかもしれないけれど、神とは人間の心の中に存在するもの。

そして、柱だけが「完成後」を表す9という数である。「心御柱」を含めた9本は「完成後の心」なのである。

出雲大社は完成前と完成後が混在している

「出雲大社」の中には「7つの雲・7柱の神」という『2つの完成前の心』と「9本の柱」という『1つの完成後の心』が存在している。「完成前」と「完成後」が混在するのが「出雲大社」の特徴なのである。このことが今回の主題を紐解く鍵となる。

ちなみに、神魂神社は「9つの雲・9本の柱」と、おそらく「1柱の神(イザナミ)」である。神魂神社は「完成後」のみを表していると思われる。

中心とその他

中心にあるもの

雲も御祭神も柱も中心とその他に分けることができる。雲と柱は「心」という文字が『中心であるもの』を教えてくれているけれど「7柱の神々」の中心は誰なのだろうか。

大社造の中心に配置されているのは「和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)」なのである。少し前の引用を読んで頂けるとわかるように、心御柱の近くに祀られているから。

出雲大社の御祭神は「大国主」であるのに、出雲大社の中心である神は「和加布都努志命」であるということ。「御客座五神」という神の配置と共に、出雲大社の謎のひとつであると思う。

神の中心…和加布都努志命
柱の中心…心御柱
雲の中心…心の雲

このように、出雲大社には「中心」を表す心が3つ存在する。このことを踏まえ、続いては『中心ではないもの』も確認していきたい。

中心ではないもの

柱の中心…心御柱
柱の中心ではないもの…宇豆柱×2、側柱×6

まずは「柱」からそれを見出してみたい。宇豆柱2本と側柱6本、計8本が『中心ではないもの』になる。これまでの考察から「宇豆柱」は『男神と女神』であることがわかっていて、「心御柱」は『神の子どもである人間』であるということがわかっている。

それに当てはまらない「側柱」は「神」でもないし「神の子ども」でもない。「側柱」だけが「神」ではないということがわかる。すなわち、『中心ではない側柱』は「人間」を意味している。

中心にあるものは二重性を持つ

人間には「二重性を持つもの」と「二重性を持たないもの」が存在する。人間の心の中心には「自我」がある。「自我」とは『女性性の心(思考)』と『男性性の心(実行)』を合わせたもので「二重性」を意味している。

このような「心の構造」を理解していない人間は「二重性を持たない」。そして「心の構造」を理解している人間は「二重性を持っている」。

「心御柱」とは中心に存在するもの。出雲大社や伊勢神宮の「心御柱」は中心に存在しているからこそ重要視されている。中心に存在するものは「二重性」を持っている。

天皇は神が先祖であることを理解しているからこそ『神の子どもである人間(現人神)』。「現人神」とは神と人間の「二重性を持つ」存在。わたしたちは自分自身を『神の子どもである』と言い切れるだろうか。言い切れないのであれば「二重性を持たない」ただの「人間」である。

側柱はただの人間

ということで、「側柱」は中心に存在せず、尚且つ「人間」であるのだから、「二重性を理解しない人間」ということになる。ちなみに、同じく中心ではない「宇豆柱」は「二重性のない神」である。男神と女神は単独の存在である。

大国主もただの人間

次に、出雲大社に祀られる神々で考えてみたい。先ほども述べた通り、神の中心は「和加布都努志命」だった。

神の中心…和加布都努志命
神の中心ではないもの…大国主×1、御客座五神×5

柱と同じように、中心ではない「大国主」は『二重性を理解していない人間』なのである。つまりはただの「人間」なのだ。ちょっと衝撃的かもしれないが。ここで、もう一度出雲大社本殿の雲の配置を見て欲しい。

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出雲大社(男造)と八雲之図

御神座というところに「大国主」が祀られているのであるが、その上には雲が描かれていない。雲は心である。大国主の上には「心が無い」。これがただの「人間」であるということの証明になっている。中編で、出雲大社の「大国主」は左(西)を向いているから、天井に描かれる一つだけ左を向いている雲も「大国主」ということになる、と強引な結論を出したがその答えを出していきたい。

「心が無い」というのは少し大袈裟かもしれない。大国主の上にあるはずの「魂」は上ではない場所で、ひとつだけ他の雲とは逆方向を向いている。それは「魂(心)」というものを理解していないことを意味する。

心の構造を理解していないのだから「二重性を理解しない人間」ということになる。

御客座五神について

中心ではない「御客座五神」も『二重性を持たない神』ということである。「御客座五神」の神々は「別天津神(ことあまつかみ)」と呼ばれ、日本で最初に現れた神々である。

「別天津神」は独神(ひとりがみ)として現れ、身を隠したという。独神とは「二重性を持たない」ことを表している。

別天津神の後、神世七代の神々が生まれるが「ウヒヂニ・スヒヂニ」から「イザナギ・イザナミ」の5組は「ふたつでひとつ」の神。2柱に思えるけれど「二重性を持つひとりの神」を表している。

独神(ひとりがみ)とは、日本神話において夫婦の組としてでなく単独で成った神のこと。これに対して、男女一対の神を「双神」(ならびかみ)ということもある。 

独神(Wikipedia)

完成前の出雲大社と不完全な大国主

出雲大社の御祭神である「大国主」であるけれど、彼は「ただの人間」だった。神ではない状態の「大国主」が出雲大社に祀られているのである。出雲大社は「神という心」と「雲という心」が「完成前」と言ったけれど、御祭神である「大国主」が『二重性を理解していない』ことが原因であると思われる。

ひとつ逆を向く雲が「大国主」の心だったように、「7柱の神々・7つの雲」はそれぞれが「神(人間)・心」で対応しているのである。

7本の柱は人間

ここで、前編の考察で『出雲大社には全部で7本の人間の柱がある』と言ったことの意味について解決しておきたい。

「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。

出雲大社「7柱の神」で考えると、以下のように人間を表している神は「2柱」ということになる。「和加布都努志命」は中心に配置され「二重性を持つ」から完成している。完成が目に見えて現われたものが「現人神」で、神でも人間でもある。

完成後の現人神(和加布都努志命×1)
完成前の人間(大国主×1)
独神(御客座五神×5)

けれども、柱で考えると人間の柱は「7本」になる。

完成後の現人神(心御柱×1)
完成前の人間(側柱×6)
独神(宇豆柱×2)

7本の「人間の柱」とは、『完成後の現人神1人分と完成前の人間6人分』を意味している。

ラッキーセブン

7にまつわるあれこれ

ここでまたおさらいをしたい。「完成前」とは、完成するまでに「生と死」を何度も経験する状態である。八岐大蛇神話では、7回もオロチの犠牲になった娘たちがいて、8回目を迎えるまでは悲しい雰囲気が漂う。

前章では五節句の秘密を紐解いたが、1月7日は「人の日」である。7日までには1〜6の「獣の日(困難)」も含まれている。つまりは、7という数字は「困難を経験してきた人間」を意味している。ということで、今度は「7」という数字にまつわるお話を集めてみたいと思う。

休息の7日目

旧約聖書では神が7日間で世界を創造している。6日目に創造を終え、7日目に神は仕事をやめ休んでいる。この出来事が1週間が7日であることの起源であるとも言われている。

7つのエネルギーポイント

インド思想にはチャクラという概念がある。人間にはチャクラと呼ばれる7つのエネルギーポイントがあるとされ、それらを順番に開いていくことで覚醒が起こると言われている。

7の審判

仏教式のお葬儀には「初七日」というものがある。

宗旨宗派によっても異なりますが、仏教の世界では、亡くなって49日間は、7日毎に計7回、極楽浄土へ行けるかどうかの判決がくだされると考えられています。その間は、魂が成仏することなく彷徨っているため、初七日には故人のために法要を行い、極楽に行けるよう成仏を願うのです。故人だけでなく故人を想う遺族にとっても、意味のある法要と言えます。

初七日法要

7日間を1セットとして、それを7回繰り返す。四十九日目に繰り返し最後の審判が行われ、次の生まれ先が決まるという。

7と人間

神は世界を創造し7日目に休んでしまったのだから、神は消えて人間とその他自然だけになった世界が8日目から始まる。

チャクラを7つ開いて覚醒する(解脱する)ためには、瞑想などの修行が必要。まだわたしたちは完璧ではないのかもしれない。

生まれ変わるためには、7回の審判を7回も繰り返すこと。生まれるまでの長く厳しい試練があることがわかる。

7にまつわるあれこれを知ると、7という数字は「人間であることの厳しさ」が感じられる。神が存在しないと感じている8日目以降の世界を生きているわたしたちは、神に成るために(覚醒するために)、繰り返し審判を受けている。

人間であることの厳しさ

7という数字は『完成前に苦労をしている人間』を表しているように思える。けれど、7という数字を縁起の良いものだと捉えることもある。日本は虹の色を7色としているが、空に七色の虹がかかることを喜ぶ。

苦労することを「悪」とするならば「7」という数字がネガティブなものになるが、その苦労を「善」とするならば「7」という数字はポジティブなものになるのかもしれない。けれど「苦労(7)」を「善」とすることは、現代のわたしたちには難しいこと。

完成が見えないこと

「苦労」を「悪」とするわたしたちの意識を深堀したことはあるだろうか?苦労を嫌がるのは「完成」が見えていないことが原因であるとわたしは断言したい。「完成」があることを知り「完成」の実態を理解することで「7」という数字は「善」となるはずだ。

大国主とイザナミの仕事

未完成と完成

大国主が「人間」なのは「心の理解が不完全」だから。それは「完成」の実態を理解していないことを意味する。けれども「9つの雲」が描かれている神魂神社は「完成後」を表しているから、イザナミは「完成」を知っているということになる。

輪廻を回すものたち

中編では「八岐大蛇神話」を紐解いたが、クシナダヒメが「櫛」になった理由をこのように述べた。

輪廻というものは川の流れのように永遠に続くもの。人の数だけ流れが存在していて、それを整えるのが「櫛」なのである。「女性性」の役割とは輪廻という運命を規則正しく流すものであることがわかる。

「女性性」には輪廻を規則正しく流す役割がある。輪廻とは人間の数だけ存在する運命の集合体である。そんな人間の個々の運命を司るものが「女性性」。

人間が考え行動することで運命は出来上がっていくが、前編で述べた通り女神は「思考の神」。女神は『流れを設計する』もの。一方で、男神は「実行の神」であるから、運命という設計図を元に『行動に移す』もの。

「女神」と「男神」それぞれが役割を果たすからこそ輪廻の輪が回る。輪廻が回ることは時間が流れること。私たちが生きる(成長する)には「女性性(思考)」と「男性性(行動)」がどちらも仕事をしなければいけない。

「人間たち」が思考し行動して、共同作業で輪廻を作っている。「八重垣」という言葉にはそんな人間たちの情景も含まれている。

女性性は完成した思考

話を少し戻して、イザナミは何故「完成」を知っているのか。イザナミは日本神話の神々の母とも言える存在である。人間の個々の運命を司るのが「女性性」であり、イザナミはそんな「女性性」を代表するような神だから、個々の運命をまとめた『大きな流れ(輪廻)を設計』する。

輪廻は二重性を持っているから「始まり」と「終わり」が重なっている。だからこそ「始まり」と「終わり」が同じになるように「流れを設計」する必要がある。

「女性性」は完璧な思考をしていて、「始まり」と「終わり」が一致するように「全ての出来事」を組み立てている。その根拠を今回は詳しく説明しないけれど、そうでなければ「二重性」も成り立たない。

国や神を産み、最後には黄泉の国の主宰神となるイザナミは「始まり(生)」も「終わり(死)」も知る存在なのである。

未完成な男性性は行動前

イザナミとは対照的な大国主は「人間」であり「未完成」である。それが何を意味するのか。結論を言うと、大国主は『思考を行動に移す前の状態』なのである。

人間は「女性性」と「男性性」が統合された『自我という心』が中心になっている生き物。「思考」と「実行」は必ずセットであり、「思考」を「行動」に移さなければ生きてはいけない。行動に移して初めて時間は流れる。時間があるから、生きとし生けるものは成長する。

大国主はまだ「行動」していないのだから、時間が止まっている。つまりは『死んでいる状態』なのだ。

死の二面性とは

大国主には、幽冥主宰大神(かくりよのおおかみ)という別名がある。大国主は「国譲り」の際に、死者の世界を主宰することになり、出雲大社を建ててもらった。この神話からも『死んでいる状態』であることがわかる。

そして、イザナミも死者の国の主宰神である。「黄泉の国訪問神話」において、腐乱死体の姿で登場するイザナミであるが、それは『恐ろしい死』を感じさせる。けれど「大国主」においては、そのような『死の恐ろしさ』を感じさせない神ではないだろうか。

神話の中での大国主は、意地悪な兄弟たちの試練を乗り越える中で死んで生き返ったり、スサノオの試練を乗り越える時に死にそうになったり、恐ろしさというよりも苦労をしている。

この2柱の違いには「死」の二面性を見出すことができる「神魂神社」の御祭神であるイザナミは『縁を切り離すための死』、「出雲大社」の御祭神である大国主は『縁を結ぶための死』という二面性である。何故そう言えるのかは、もう少し話を進めていきたい。

関連記事:黄泉の国訪問神話の解説

縁を結ぶ間

縁結びの由来と神在祭

「縁結び」のご利益で有名な出雲大社。その由来はどこにあるのだろうか。下に引用したように初出は「神在祭」にまつわる「間(あい)」という狂言であるらしい。

出雲大社に関して縁結びの神徳が初めて記されるのは、現在のところ、出雲大社の神在祭の由来を語る能の演目『大社(おおやしろ)』の中で行われる「間(あい)」と呼ばれる狂言の貞享2年(1685)の謡本です。

ここに「男女ふうふのゑんをも御定」と出てきます。この「間」は少なくとも江戸前期には演目として存在していることがわかりますので、出雲大社での縁結びは江戸時代初めまでさかのぼると言って良いかもしれません。とはいえ、貞享3年の井原西鶴の『好色五人女』に出雲大社での縁結びが記されていることからすれば、17世紀末には出雲大社での縁結びは一定程度広がっていたものと考えられます。

ところで出雲大社でなぜ縁結びとされるようになったのかは、よくわかりません。

島根県立古代出雲歴史博物館

出雲大社では、旧暦10月11日から7日間「神在祭」というものが行われる。ここでも「7」日間であることは注目しておきたいところ。その期間には全国から八百万の神が出雲に集合し、話し合いを行うという。

出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲以外では神がいないから10月を「神無月」と呼ぶのは有名な話。そもそも「神在月」に神様が集まり話し合いが行われるという解釈になったのは平安時代頃かららしい。

さて、変化が起きたのは中世。平安時代の書物には既に、「神無月には諸国の神様が出雲に集まる」という記載があります。神様が旅立つのは出雲へ集まるため、と限定されたのです。神様の集合地が出雲と定まったのは何故か。どうやら出雲大社の御祭神大国主命(おおくにぬしのみこと)が神話の中で、「目に見えない世界の統治」を任されたことが最大の理由のようです。

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2104/htmls/p04.html

全ての縁を結ぶ大国主

『縁を結ぶための死』とはどんな意味をもつのか紐解いていきたい。大国主は「思考を行動に移す前」の状態であり、時が止まっているから死んでいる。けれど、大国主が『思考を行動に移す』としたらどうなるだろうか。

思考を行動に移すことは輪廻が回ること。「女性性」が設計した運命を現実に表すのである。現実とは縁が結ばれたからこそ現れた場所。設計図通りに運命は流れるのだから、行動に移して『決められた縁を結ぶ仕事』をするのが大国主。

出雲に八百万の神が集まり話し合うのは「運命の設計図」を作る為。「女性性(女神)」の仕事部分を担っていることになる。神というのは「目に見えないもの」。「思考」も目に見えないものであり、実行に移して初めて「目に見えるもの」になる。

黄泉の国、幽冥(かくりよ)、常世などは「死者の国」を表す。そこは「目に見えない世界」であり、精神世界であり、つまりは人間が思考をする場所。大国主は「目に見えない世界(精神)」の主宰神であったが、「目に見える世界(現実)」へとバトンを渡す。八百万の神(思考)と大国主(実行)の共同作業である。

先ほど述べたように大国主は「人間」であり、彼の思考が「八百万の神」で表現されているのである。一人の人間が思考を始めるところから終わるまでが「神迎祭」「神在祭」「神等去出祭」に表現されていることになる。

脳磯神話

以前書いた記事で既に解説したことであるけれど、「出雲国風土記」の中に以下のような言い伝えがある。脳磯(なづきのいそ)というところにある「黄泉への入り口」のお話。島根県出雲市猪目町にある洞窟が、その場所なのではないかと言われている。

脳磯(なづきのいそ)という海辺は、村人が朝夕行き来しているが、そこから西の方に洞窟があり人が入ることができない。夢の中でこの海辺の洞窟あたりに行くと必ず死ぬ。そこは「黄泉の坂」や「黄泉の穴」と呼ばれている。

このお話は何を伝えたいのか。わたし的解釈をどうぞ。

脳磯(なづきのいそ)という海辺は、村人が朝夕行き来しているが、
→脳磯とはそのまま脳のことで、人が行き来する海辺とは、あれやこれやと考え事をすること。
そこから西の方に洞窟があり人が入ることができない。
→人が入ることができない洞窟とは、精神世界のこと。現実ではない思考の世界ということ。
夢の中でこの海辺の洞窟あたりに行くと必ず死ぬ。そこは「黄泉の坂」や「黄泉の穴」と呼ばれている。
→夢の中にいるように深い思考をすることは死を呼び寄せるから危険な行為なのである。

目に見えない世界(精神世界)とは『喧騒から離れて思考を集中』して入り込む場所であるということ。精神世界とは死者の国であり、そこは「時間が無い」場所。時間が進まないのは「死んでいる」のと同じこと。『必ず死ぬ』と言われているのはそんな理由もある。

7日間は精神世界の中

八百万の神が話し合いをする7日間の神在祭期間は、出雲地方では「お忌みさん」と呼ばれ、大きな声を出したり騒いだりしてはいけない。それは『喧騒から離れて思考を集中』するためなのである。神在祭の7日間は「静かに深く思考をする期間」だと言える。

つまり、輪廻という「大きな流れ」を設計する期間で「実行」前の大切な期間。神在祭が終わり八百万の神々が帰っていったあと、大国主は「実行」に移すことになる。「精神世界」で縁が結ばれた結果が「現実世界」に現れるのである。

運命とは忌むもの

それにしても、神が集まるのに「忌む」とはどういうことなのか。前編でも述べたように「心御柱」も「忌柱」という別名がある。何度でも言うけれど「心御柱」とは「自我」のことである。

「忌む」という言葉は「死」を連想させるもの。そして、脳磯にある洞窟に近づくと必ず死ぬ、という話。思考と行動を合わせた「自我」というものは、現実世界に「死」をもたらす、ということを示唆している。

神々は目に見えない世界で(思考の中で)「始めと終わりが同じになるような様々な縁」を設計する。それを行動に移すと現実になる。わたしたちの生きている世界には絶対に避けられない「死」が存在するが、それは「死」が組み込まれた設計図通りに行動するからなのだ。

輪廻という大きな流れは運命と呼ばれる。行動を起こすだけで「死」という縁を結んでしまうことは、辛く苦しいこと。前章で解き明かしたことは「7」という数字は『完成前に苦労をしている人間』を表すということ。神在祭の「7日間」も同じもので、「死」の恐ろしさを感じさせる「忌む期間」でもある。

縁を結ぶための死

大国主はそんな『結ばれてしまった死』を想起させる神なのかもしれない。けれど「死」は縁を結ぶためにも必要なもの。始まり(生)と終わり(死)が重なる「永遠」を現実に表すためには「死」を無いことにすることは出来ない。

『出雲大社には怨霊(大国主)が封印されている』という都市伝説も、出雲大社から『結ばれてしまった死』の恐怖を感じとるから生まれる。

けれども、大国主の表現する「死」は『縁を結ぶための死』。出雲大社の構造によって『輪廻を実行に移す前の一瞬の間』を表現することで、「死」の本質をわたしたちに伝えようとしているのである。「8つの雲」で7と9を繋げることで、死が無ければ生も有り得ないことを知ることができる。

一瞬(一拍)の間

私たち人間は絶えず思考を行動に移しながら生きているが、それが時間が流れるということ。その『思考を行動に移すまでの刹那』を意識的に感じ取ることは、ほぼ不可能である。けれどそんな瞬間を出雲大社は表現している。

完成前である「7柱の神・7つの雲」と完成後である「9本の柱」という組み合わせが『縁を結ぶ前の一瞬の間』。出雲大社はその微妙な一瞬を表す為に時を止めているのだ。

完成前:出雲大社(精神)→ 完成:八百万の神の縁結び(間) → 完成後:神魂神社(現実)

こうまとめた様に、出雲大社とは精神世界への入り口で、「神在祭」期間中八百万の神と共に輪廻の設計図を完成させ、その後の現実世界が神魂神社である。わたしたちは神社で神へ祈りを捧げる時、両手を合わせて打つ動作をするが、その一拍の中には7(1)〜9の流れが存在している。

完成を3つ揃える

ここまでの簡単なまとめ。「大国主」は人間であり、心が不完全である。けれども、思考を行動に移し現実を結ぶ役割がある。現実と成った状態が「神魂神社」であり、心が完成しているイザナミ が祀られている。

出雲大社内に祀られる神々と天井の雲は「心(精神)」であり、その建物を支える構造物とするならば、柱は「肉体(現実)」とも言える。それは、現実が既に「完成」していることをも伝えている。

神…7柱(完成前/精神)
雲…7つ(完成前/精神)
柱…9本(完成後/現実)

「2つの心(7柱の神・7つの雲)」が完成前から完成へ移行すれば、完成が三つ揃い「完成後(9)」と成るはずだ。「出雲大社(大国主)」は『縁を結ぶ前の一瞬の間』を表現しているが、ここからはその時間を進めていきたいと思う。

足止めする雲

大国主の心である雲が左向きの理由は、まだ大国主が「行動」に移していない為でもある。男神(男性性)は「実行」を表す、という考察と矛盾すると思うかもしれないが、そもそも出雲大社の「大国主」は「心が未完成」なのであるから「実行」に移せていない。

スサノオの意志を継ぐもの

心の中に「死」を起こす

出雲大社を「完成」にする為に、「八岐大蛇神話」でスサノオがヤマタノオロチを倒すことができた場面を思い出してほしい。中編で述べたように、その戦いで『心の中の死』を選んだスサノオ。

スサノオはヤマタノオロチと対決した際、負けを認める「心の死」を選んだ。一度心が死ぬような経験をしなければ心の中に「女性性」が生まれることはない。

スサノオは「苦しみのある輪廻」を受け入れ、自分自身の「魂」を新しいものにした。つまり、同じことを「大国主」が行えば「完成」は達成されるのである。

流れに抗う大国主

大国主の心と言える左向きの雲以外は「心の雲」を含めみな右を向いている。それは右向きの魂の流れが「優勢」であることを表す。「大国主の心の雲」だけがその流れに抗っているように見えないだろうか。

雲(心)の流れとは輪廻である。大きな輪廻の流れは「人間たちの思考」が作り出しているもの。雲は単体でも「ひとつの思考(魂)」である。

祖先と同じことを繰り返す

スサノオは「八岐大蛇神話」の中で「死」を認めたからこそ「新たな魂」を生み、それを守るために「八重垣(輪廻)」を創った。「大国主」は、父であり祖先であるスサノオが成し遂げたことを同じ様に繰り返すことができれば、出雲大社を「完成」させることができる。

「大国主」が「死」を認めたならば、ひとつだけ左を向いていた雲は輪廻という『大きな心(雲)の流れ』に合わせ『右を向く』ことになる。そして、完成後を表す「神魂神社」の姿になる。

出雲大社の「大国主の心(雲)」が「死」を認めたら右向きに変わる。そして、それは「神魂神社」の一番大きな「心の雲」に成る。

神魂神社の心の雲は大国主

大国主の心である雲は、一つだけ左を向いていた。それは「完成」することで「中心」に移動する。完成後の姿は「神魂神社」であるから、天井に描かれる「心の雲」が大国主の心であるということ。「死」を認めることは「二重性(中心)」をも理解すること。

「神魂神社」の御祭神は「イザナギ」でありながらも、天井に描かれる「心の雲」は「大国主の心」なのである。

出雲大社の心の雲はイザナミ

一方で「出雲大社」の天井に描かれる「心の雲」はいったい誰の心なのであろうか。前編で『出雲大社天井に描かれる一番大きな雲は「女神」であり「人間」である』と結論したこともまだ答えを出せていなかった。その答えになるものとは。

ずばり「出雲大社の心の雲」は、対である「神魂神社」に祀られる「イザナミ」の心なのである。「イザナミ 」である理由がはっきりしないけれど、ここからこの記事の総まとめに入っていくので、さらに話を続けていきたい。

大社造の雲の流れ

さて、総まとめの話をするために図を書いてみた。「出雲大社(7)」が完成すれば「神魂神社(9)」に成る。それには、御祭神である「大国主の心」が完成を目指す必要がある。この図を見ながらこの後の解説を読んでほしい。

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雲の流れ(神視点)

「出雲大社」と「神魂神社」は『目に見えない8つの雲』で繋がっている。8を真ん中にした繋がりは、ループすることにもなる。おさらいになるけれど、「出雲大社」と「神魂神社」は本来重なるもので、重なったものがわたしたち「人間の心の構造」である。

出雲大社は過去に戻る場所

御祭神と雲

出雲大社の雲ひとつひとつが御祭神である神々に対応している。図の中に番号がふってあるけれど、これは御祭神の「心」の順番。まずは「出雲大社」の雲の番号の意味について解説してゆきたい。

出雲大社の雲は全部で7つ。ひとつだけ逆を向いている「大国主の雲」と、その他雲も含めた『神と雲の対応一覧表』がこちら。図の中の番号と対応している。

1の雲…天之御中主神
2の雲…高御産巣日神
3の雲…神産巣日神
4の雲…宇麻志阿斯訶備比古遅神
5の雲…天之常立神
6の雲…大国主
7の雲…伊邪那美(心の雲)

このような順番であるけれど、精神(雲)に対しての現実(御祭神)ということでもある。つまり「目に見えないもの」と「目に見えるもの」の対比である。

人間視点(御祭神の流れ)

6kami
御祭神の流れ(人間視点)

ここでいちど、出雲大社内部に入ることを想像してほしい。入り口は南にあり、図だと右下から入ることになる。まずは中心にいる「和加布都努志命」に出会い、その後「天之御中主神→高御産巣日神→神産巣日神→宇麻志阿斯訶備比古遅神→天之常立神」という順番でそれぞれの神に出会い、最後に「大国主」と向き合うことになる。

日本神話の一番最初に生まれた神から時代を下って「大国主」に出会うこと。出雲大社内部に入り込んだ瞬間に、時間が巻き戻されているのである。少し前に述べたように、出雲大社の構造は『輪廻を実行に移す前の一瞬の間』で時間を止めているが、内部に入り込むと時間は逆回転する。

そんな出雲大社内部に入り「現実世界」で右回りして歩く人間。神と出会った時、わたしたちは「思考」することになる。御祭神に出会うとき、人間は目に見えない「精神世界」に存在している。つまり、日本が生まれる前まで過去に遡り、そこから「大国主」までの記憶を辿っているということになる。

最初に出会う「和加布都努志命」について触れていないけれど、この記事の最後で紐解いていくので詳細は後ほど。

神視点(雲の流れ)

一方で「大国主」の視点で回ることを想像してみる。「御神座」と書いてある所から矢印の方向に進んでいくことになる。

大国主が「現実世界(人間)」の存在だとしたら、天井に描かれる雲が「精神世界(神)」である。「大国主」は番号をふった雲の順番で神々に出会うことになる。

天之御中主神から始まる雲の流れであるのだから「大国主」も時間を巻き戻してからスタートしている。「御客座五神」は「大国主」が生まれる前の時代の神々である。

自分に向き合う大国主

人間視点の終点は「大国主」、大国主視点の終点は「イザナミ 」である。しかし、大国主視点であっても「大国主」で足止めをされることになる。何故なら「6の雲」は逆を向いているから。「大国主」は「6の雲」に辿り着いた時に「自分自身」に向き合うことになるのである。

大国主は「自分」

神(大国主)と人間(自分)は鏡写しの存在である。人間が出雲大社内部を右回りすれば大国主は左回りする。「大国主」が「自分自身」に足止めされているように、人間も最後に「大国主」に足止めされる。人間が出雲大社を参拝する時、「大国主」に出会っているようで、まぎれもなく「自分自身」に出会っているのである。

ここまでの考察で「大国主」はただの「人間」であるということを紐解いてきた。さらに、雲の流れと御祭神の並びを追うことで、「大国主」は出雲大社を訪れた「自分自身」だということがわかる。

わたしたちが出雲大社内部に入るとしたら「大国主」で足止めをされることになるが、「大国主視点」では、「自分自身(6の雲)」の先に「7の雲」がある。

つまり、足止めされた先には「心の雲」という先が存在しているのである。「大国主(自分)」は完成を目指すことができる。ここからは、大国主の心の動きである「6の雲」から「図には描かれない8の雲」までの道のりを詳しく追っていきたいと思う。

完成を目指す大国主

死を認めるまでの過程

先ほど述べた様に『完成の方法』とはスサノオが成し遂げたことを同じ様に繰り返すこと。7回続いた「死」を8回目も同じ様に起こすが、自分の心の中で起こすという方法である。先ほどのことばを再掲する。

出雲大社の「大国主の心(雲)」が「死」を認めたら右向きに変わる。そして、それは「神魂神社」の一番大きな「心の雲」に成る。

「大国主」は他の雲と流れを合わせなくてはいけない。しかし、流れを合わせるだけでは「完成」にはならない。スサノオがヤマタノオロチを倒すまでにはいくつかの試練があった。「大国主」も同じような試練を経験することになる。

6で「生きる苦しみ」に向き合う

過去に戻り「6の雲」の位置にきた時「自分自身」と向き合う。その位置でやっと「自分自身」を認識することになる。前章で述べた様に「6」とは獣で表されるような「生きる苦しみ」である。「生きる苦しみ」を感じたのならばそれが「完成」への第一歩。これが第一の試練である。

自分自身が「苦しみのある現実」を生きている、と強く強く感じること。そう感じたのならば、やっと「輪廻」という大きな流れに乗ることになるのである。つまり「現実世界」を強く感じているということ。ここで他の雲と『向きを合わせる』ことになる。

7で「人間であること」に向き合う

「6の雲」で「生きている苦しみ」に直面したならば、そこから「深い思考」をすることになる。脳磯神話にあったように、それは「死」を感じさせる行為となる。現実の時間の流れは止まり、様々なことを考え、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる。

7という数字は「多数の経験」や「人間であることの厳しさ」を表している。つまり、これまでに何度も経験した「困難」を思い出すことになる。「思考」とは過去に戻る行為。

人間世界では過去から現在において、何度も「悲しい出来事」が起きている。さらには、自分自身の身の回りに起きた「苦しみ」もあるはずだ。何度も同じ様なことが繰り返されていることにも気が付くから「輪廻」というものの恐ろしさが目に前に迫りくる。

「人間とは何なのか?」「生と死とは何なのか?」「自分は何のために生きているのか?」そんな本質に迫る様なことを考えている状態が「7の雲」で表現されている。それは「心の雲」であり、イザナミの心である。イザナミの登場する「黄泉の国訪問神話」を体験しているようなもの。

「女性性」とは「思考」である。しかも太母である「イザナミの心」なのであるから、輪廻という何度でも繰り返す「死」の恐ろしさを感じている「思考」のこと。これが第二の試練である。

8で「本当の自分」と向き合う

死に向き合う決意

第二の試練を乗り越えたならば、第三の試練が訪れる。つまり、7回(何度も)続いた「死」を8回目も同じ様に起こすという、「スサノオ」が経験した試練である。自ら「死」というものに真剣に向き合う、と決めたときだけ、この試練を体験できる。

ここからはまた「八岐大蛇退治」を思い出しながら、この試練について解説したい。

目に見えない戦いのために

第三の試練は「目に見えない心の中の戦い」になる。「輪廻(ヤマタノオロチ)」という怪物との戦いは、精神世界の中で行われる。この戦いを絶対に「現実」に持ち込んではいけない。現実で実際に「死」が起きてしまうからである。

余談ではあるが、最近日本にも多い「刃物」を使った事件について。それはこの「目に見えない戦い」を「現実」に持ち込んでしまったから起きていること。刃物を持ち出してしまうほどに「思考」はかなり深い場所にある。脳磯神話で警告されていることである。

繰り返される困難や、苦しみや、悲しみ。過去に戻り、経験したそれら全てが頭の中で思い出されていること。精神状態は極限のところにある。けれども、それを乗り越えるためにスサノオは頭を使っていた。

それは、ヤマタノオロチを『酒で酔わせて眠らせる』という方法。「ヤマタノオロチ(輪廻)」を夢の中にいる様な状態にするということとは「過去が幻想」であると自分自身に思わせることである。

輪廻は思考の中

「輪廻」とは何度も同じことが繰り返されること。輪廻を悪と捉えるのならば「繰り返される困難」に苦しめられる。けれども、その「輪廻」は「思考の中」に存在している。

過去に起きた出来事は、全てが「記憶」の中にあるもの。頭の中で思い出される様々な経験は、単なる「記憶」なのである。わたしたちはいつだって「記憶」に苦しめられる。「記憶」があるから苦しみや悲しみを思い出し、それが「現実」にも現われてしまう。

わたしたちの肉体は常に「現在」にある。けれど「思考」だけは過去を戻ることができる。過去の苦しみや悲しみを思い出すことで「現在」でもそれを同じように体験することができる。

ヤマタノオロチの正体

けれど記憶の中だけではなく、実際に「現実」で苦しみを味わうこともある。誰かに心が傷つくような行為をされることは「現実」を生きていれば避けられないこと。

現実で「苦しみ」を感じたとき、心が弱い人ほど「思考」の働きで「過去の苦しみ」も思い出されてしまう。そうなると現実の「苦しみ」がさらに増大してしまうのである。

「脳内(精神)」と「現実」の境界線は曖昧である。「現実の苦しみ」と「精神の苦しみ」が相まって、ヤマタノオロチのような恐ろしい怪物になってしまうのだ。

関連記事:精神世界と現実世界の境界線について

ヤマタノオロチは過去と現在

ヤマタノオロチと戦うことは「現実の苦しみ」と「精神の苦しみ」に向き合うこと。八岐のうちの1〜7の身体は「過去(精神)の苦しみ」を表す。そして8つ目の身体は「現実(現在)の苦しみ」を表す。

「過去の苦しみ」は「記憶」なのだから、酒の力によって酔わせ(幻想だと思って)断ち切ることができる。心を過去に引きずられないようにした上で「現在の苦しみ」と戦う。頭1つならば、ヤマタノオロチを倒すのは容易になる。つまり「苦しみ」を受け入れることができるようになるのだ。

過去(1〜7)に心が深く傷ついたこと

7回繰り返された死とは『過去何度も苦しみに負け、心が深く傷ついたこと』ことを表す。ヤマタノオロチとの戦いでは、同じ様な状況が「現在(8)」も繰り返されることになる。その時、過去(1〜7)と同じ様に「心の中で深く傷つく経験」を繰り返すのである。

何度も言うように「過去とは記憶」である。それを理解しているのならば、「過去」ばかり思い出すことで「苦しみ」を大きくしていることも理解している。だから再び「心が深く傷ついた」としても立ち直ることができる。

現在(8)でもう一度傷ついて、思考する

「心が深く傷ついた」とき「心」は拒否反応を起こす。スサノオにまつわる神話には、スサノオの荒ぶる側面が見られるが、それは『未完成である魂(男性性)』の表現である。まだ「女性性」と出会っていないスサノオには「受け入れる心」が足りない。つまりはまだ「弱い心」のままである。

「弱い心」のまま「心が深く傷つく」と「現実」にも影響がある。悲しみから起きる「怒り」を周りにいる人にぶつけたりすることもある。けれど、神話の中でスサノオは成長していく。そんなスサノオのヤマタノオロチ必勝法を再掲。

7回繰り返された死を、8回目も同じように起こす。けれどそれを「心の中」に留めておいたのである。思考した結果「現実世界」で戦わず、「精神世界」で戦う選択をしたスサノオ。その結果の「心の死」とは、ある意味負けを認めること。スサノオは「輪廻(オロチ)」という「繰り返す死」を認めたのである。

このように最後には、ヤマタノオロチと戦い「受け入れる心(クシナダヒメ)」を手に入れる。「現実」で怒りを広げず「心の中」に留めておくことを学んだのである。

「死」と向き合う、と決めたならば現実で心が深く傷ついてもそれを認めることができる。どんなに相手が悪くても『自分の心がそう反応している』から傷ついているということが理解できる。だからこそ、相手を悪く思わないし、相手の悪い行為も認めることができる。それが「負け」を認めること。

「負け」を認めることは「死」を認めること。輪廻とは「何度でも繰り返す死」が起きることで、その悲しみや苦しみに負けてきたから「死」を認められなかったスサノオ。「死」とは『悪いことが起きること』でもある。けれどそれは「輪廻」に最初から組み込まれたもの。

「死」とは当たり前に存在するもので、生と共にあるもの。死と生が重なっているからこそ「永遠」が存在する。そのことに気がついたのならば「死」を受け入れることができる。そして「死」が存在する「輪廻」をも認めることになる。

第三の試練については、文章で語ったとしても理解できるようなものではないかもしれない。この試練については他の記事にも書いていて、今後も別記事で書いていく予定。関連記事もぜひお読み下さい。

関連記事:輪廻から解脱する方法

関連記事:バルトロマイが世界を救う

大国主は三度死んだ

「大国主」もスサノオと同じように試練を乗り越えている。つまりは「3つの試練」を完遂している。そう言えるのも「神魂神社」に「9つの雲」が描かれているから。

そして、この試練を乗り越える者は必ず「三度死ぬ」。この「3つの試練」の内容は大国主にまつわる神話にしっかりと描かれている。

「八十神の迫害神話」では、兄である八十神に殺され、生き返った。その後また殺されたが、再び生き返ることになる。ここでは二度死んで二度とも生き返っている。

「根の国訪問神話」では、スサノオの娘である「スセリビメ」と出会い、その父スサノオからの試練を受けた。このお話で「大国主」は死んでいないが、実は「心の死」が起きている。

スサノオの試練によって、スセリビメは大国主が『死んだと思った』。これは「死の偽装」であり、「心の死」を表している。現実には死んでいないけど、心の中で死んでいる。「八岐大蛇神話」でスサノオに「心の死」が起きているのと同じことなのである。

1回目と2回目は「現実の死」、3回目は「精神の死」。「大国主」にはこうして3回の死が起きている。「死」と「輪廻」を受け入れる為に、人間には「精神の死」が起きる。

父と子は同じ経験をする

スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原色許男神を追ったが、そこで止まって逃げる葦原色許男神に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」といった。

大国主の神話(Wikipedia)

こちらの引用にあるように、葦原色許男神(大国主)は試練を乗り越えスサノオに認めてもらった。『スセリビメを妻とし立派な宮殿を建てて住む』ことは、スサノオが『クシナダヒメを妻とし住まいを八重垣で囲む』ことと同じ。「大国主」も輪廻を認め、新しい魂を手に入れている。

また、「大国主」の代ではスサノオがヤマタノオロチの役割をしている。スサノオからは厳しくも優しい父性を感じることができる。

過去を見ている「大国主」

弱い心と強い心

試練の話が長くなってしまったが、ここでまた「出雲大社の雲」の話に戻りたい。大国主の心である「6の雲」が逆を向いているのは、輪廻の流れに合わせることができないことを表しているが、それは「大国主」が『過去を見ている』からでもある。

『過去を見ること』は悪いことではないけれど、過ぎ去った出来事に思いを馳せすぎるのは「弱い心」がさせること。「強い心」で未来を見る必要がある。

それぞれの雲の意味まとめ

「6の雲」は「獣の心」。苦しみに囚われているから前を向くことができない。けれどそれを乗り越えたら「7の雲」である「人間の心」になる。「苦しみ」は「心の中心」で創り出されている、という知恵のある人間らしい気付きである。

そして、「8の雲」で「神の心」になる。「固く強い心」によって『目に見えないもの・目に見えるもの』の繋がりを知り、この世界の全てを理解するのである。

最後に、「1〜5の雲」について。これらはまとめて「過去の心」である。過去は思考の中にあるもので、現実には存在しないもの。5柱の神々がすぐに身を隠したのは、現実に現れていないから。出雲大社の「大国主」は「過去」を見ているから「御客座五神」の方を向いている。

大国主に出会う瞬間

「大国主の心」は雲を順番通りに体験し「6の雲」で自分自身に出会う。出雲大社を参拝するわたしたちも、7柱の御祭神の並び方を追うことによって、神と同じ体験をすることができる。そして「御神体」に向き合ったとき、自分自身に出会う。

出雲大社に足を踏み入れたならば、わたしたちは過去に戻される。時間を進めていき「大国主という自分」に出会った瞬間が「現在」である。「過去の大国主」と「現在の自分自身」が重なる瞬間である。

下り坂と上り坂

出雲大社本殿までの参道は下り坂になっている。『下り坂は左回り』を表す。つまり、参道から本殿までもが過去へ戻る道になっている。

本殿内部は、奥半分(御客座五神と大国主がいる方)が「上段」になっていて、手前半分より一段高くなっている。人間は内部を右回りするのだから下から上へいくことになる。出雲大社内部は『上り坂という現実世界』なのである。

勢溜の鳥居から出雲大社本殿までは、上から下へ(精神世界)→出雲大社内部では下から上へ(現実世界)。最初の鳥居をくぐったら、わたしたちは心静かに「思考」に入る。大国主に向き合ったら大国主の「現実(実行)」を再体験する。

神魂神社は一で全

神魂神社の雲の意味

さて、「大国主」が6・7・8という試練を乗り越え「目に見えない永遠」を理解したのなら、「神魂神社」に移動する。ここからは「神魂神社」の雲の番号について解説する。もう一度図をどうぞ。

1or8

「神魂神社」の「1〜8の雲」は『スサノオや大国主が体験してきた全てのこと』を表している。困難を乗り越え、「固く強い心」を獲得し、「新しい自分自身」を認識するまでの経験である。そして「9の雲」は「大国主の心」。

「出雲大社」では御神体の位置にいた「大国主」であるが、雲を辿るごとに「心」を強くしていった。前の章では、9という数字についてこのように紐解いた。

「9」という数字は「二重性・永遠・神」という目に見えない完成(8)が目に見えるものに変化した状態である、と結論づけたい。「神魂神社」に描かれる「9つの雲」は『目に見える新しい魂』ということになる。

「神魂神社」の「9の雲」は二重性を理解する『現人神に成った大国主の心』である。「出雲大社」では心もとない状態であったが、「神魂神社」の「9の雲」の位置では『自分自身が確かに存在すること』を認識している。目に見えなかった自分が『目に見えるようになった』。

1=8

「1〜8の雲」である『体験してきた全てのこと』を目に見える状態にしたものが「9の雲」になる。つまり、「1〜8の雲=9の雲」ということになる。「9の雲」は「1〜8の雲」を内包している。逆も然り。一は全、全は一である。出雲に集まる八百万の神とは「1〜8の雲」。

「輪廻」という大きな流れを理解したならば、全ての存在が自分の内にあることを知る。心の中にこの世界が在ることをはっきりと「悟る」のである。

「現人神」は自分自身が「世界の中心」であることを知っている。「9の雲」は「自分」であり、「1〜8の雲」は「自分の分霊(わけみたま)」と言える。自分という現実(9の雲)と世界という精神(1〜8)である。

最初に戻る

スサノオが「現人神」になった時、「新しい魂」を守る為に「八重垣(輪廻)」を創り出した。輪廻(ヤマタノオロチ)に苦しみを感じていたが、それが心の内にあるものだと理解し、自らの手でまた「輪廻のある世界」を創り、そこにすまうのである。

「輪廻のある世界」とは『時間が経過する世界』でもある。永遠ではあるけれども、変化する世界。現人神であれど「スサノオ」もいずれ歳をとり死にゆく存在。けれど、スサノオが手にした「永遠という智慧」は子孫の「大国主」に引き継がれる。

「新たな魂」が生まれ、引き継がれたら、また最初に戻る。「神魂神社の9の雲」はすぐさま「出雲大社の1の雲」に戻り、同じことを繰り替えしていく。けれど、その世界を生きる「主人公」だけは変化していく。

過去・現在・未来

スサノオ・大国主・和加布都努志命

スサノオにとっての「ヤマタノオロチ」が、大国主にとっての「スサノオ」であったように、祖先である「スサノオ」に起きたことが、子孫である「大国主」にも同じ様に起きる。試練までもが父から子へ受け継がれている。

大国主視点では、過去がスサノオ・現在が大国主・未来が和加布都努志命、になる。「和加布都努志命」は「出雲国風土記」では『大国主の子』であるとの記述がある。「大国主」の意志を継ぐものは、血を受け継いだ子である。「和加布都努志命」が出雲大社の中心に配置されている本当の意味とは。

中心に存在する和加布都努志命

ここでまた視点をわたしたちへ戻してみる。現代を生きるわたしたちにとって「大国主」は「過去の人」である。出雲大社を参拝する時、わたしたちの時間は過去へ戻る。けれどその時、わたしたちは意識内で「大国主」と「自分」を重ねている。

少し前に述べたように「大国主」とは「人間」であり、「自分自身」なのである。「大国主」に起きたことは、必ず「わたしたち」にも起きる。けれど、辛く厳しい試練を乗り越える「智慧」は「大国主」から受け継がれている。それが、中心に配置される「和加布都努志命」である。

わたしたちが出雲大社内部に入るとしたら、一番最初に目にするのが「和加布都努志命」。それは初めから「中心」に配置されている。

下段、扉に近い部分に、半畳ほどの大きさの台のようなものがしつらえてありました。これは何ですか、と訊ねたところ、普段は牛飼神(和加布都努志命・わかふつぬしのみこと)が鎮座されている場所であるということでした。

台の上には普段は牛飼神様がおられるわけですが(これは神像の形をされて具象化神であるそうです)、この神も今は遷座されて台だけが残っているということです。牛飼いの神とは、農耕の神としてのダイコク様らしいところですが、何故台があるのかということについて、「供物を捧げますと小さな牛飼神よりも高くなってしまう場合があり不敬なので台が設けられている」とのお話でした。

大社本殿内部のこと

とある方のブログ内容を引用させていただいた。本殿内部拝観時の貴重なレポートである。「和加布都努志命」は「牛飼神」として祀られている。

「牛飼神」は農耕の神でもある。生きるための仕事として「牛飼い」がある。「獣たち」のおかげで生きているわたしたち。「獣(6)」と「人間(7)」との結びつきを象徴するような「牛飼神」である。

ここまでの考察から分かる通り、牛飼いである「和加布都努志命」は「中心」に配置されているのだから、既に「完成(8)」を迎えているということになる。

「和加布都努志命」は二重性を持つ「現人神」であるから、時間の流れを創り出す存在。輪廻という大きな流れの「創造神」として、中心に配置されている。

大国主・自分自身・和加布都努志命

わたしたちが出雲大社内部に入るとしたら、一番最初に出会うのは「和加布都努志命」である。つまり、わたしたちは「完成後」の姿を目にしてから、過去の時代の流れを辿ることになる。「大国主」に出会う前から、わたしたちは「完成」を体験しているということ。

「神魂神社」を訪れなくとも、「獣(6)」「人間(7)」を経て、「神(8)」と成った存在が「和加布都努志命(牛飼神)」として祀られている。

大国主の未来(子ども)である「和加布都努志命」に最初に出会うわたしたちは、「大国主」から血を受け継ぎ、中心に存在するもの。困難を乗り越え、ヤマタノオロチを倒す智慧を持っている。「和加布都努志命」はわたしたちの未来でもある。

過去と未来を繋ぐ肉体

出雲大社の「1〜5の雲」は「記憶」なのだから、今この時代に生まれたのならば「1〜5の雲」を飛ばして「6の雲」からのスタートになる。

大社造の側柱6本は「人間」と考察してきたように、1〜6の「6つの雲」もやはり「人間」である。「人間」は記憶という「過去」と、肉体という「現実」で出来ている。そして「未来」は心の中にある。

出雲大社「御神体」の正体

御神体に宿るもの

ここまでで「出雲大社」と「神魂神社」の謎は大方紐解くことができた。ついに「御神体」の正体に迫っていくことにするが、ここまでの考察で既に答えは出ているのでまとめに入っていきたい。

出雲大社の「御神体」は誰も見ることができないという。出雲大社の宮司さんでさえ。そんな「御神体」には主祭神である「大国主の心」が宿っているはず。

出雲大社に祀られている「大国主」は神に成る前の「人間」である。ならば「御神体」は「人間」を表すようなものであるはず。「御神体」ではないか?と、巷で言われているもの一覧を前編から再掲してみる。

  • 七宝の筥(はこ)
  • 九穴の鮑

なんとこれら全ては、みごとに「人間」を表しているからそれぞれ説明していきたい。

七宝の筥(はこ)説

まずは、七宝の筥(はこ)について。こちらのサイトによれば、源経頼の日記「左経記」の中に「御神体」についての記述があるそう。「御神体」は『七宝で作った宝殿に七宝の筥(はこ)』らしい。

今回の考察では「7」という数字の意味について紐解いたが、7とは「多数の経験を経た人間」である。七種類の宝とは、それら経験が宝のように大切であるということ。

『七種類の宝で作った建物の中に七種類の宝の箱がある』というのだから、「多数の経験を経た肉体」の中に「多数の経験を経た魂」が存在する「人間」のこと。

多数の経験を『宝とすることができた心』を持つ人だけが、新たな輪廻を作り出す「現人神」である。永遠に輪廻を繰り返す「肉体と魂」の入れ子構造を「七宝の宝殿と七宝の箱」で表現しているのであろう。

九穴の鮑

これまた面白い説なのであるが、松平直政という人が本殿に押し入って見たものが「九つの穴のあるアワビ」だったそう。そのアワビは大蛇に変化したという。

雲陽秘事記とは江戸時代に書かれた書物で、松江城主の松平直政から第6代宗衍(むねのぶ)までの130年を描いています。

この書物で見る所によると、出雲大社の御神体に興味を持った直政公が宮司の静止を振り切って本殿に入ったところ、化け物に遭遇したとする説です。

出雲大社の歩き方

この説もまた正しい。「九穴の鮑」とは人間そのものである。これは「出雲大社」を上から見たものを表現している。

出雲大社に柱は9本あるが、それが「九つの穴」。「穴」なのだから『柱がない出雲大社』ということ。完成という数を持つ柱が無いから「未完成の肉体」を表している。

今回の考察で出雲大社の心の雲は「イザナミの心 (女性性)」だと紐解いた。「アワビ」とは「女性性」を表す「心」である。ちなみに「八十神の迫害神話」において大国主を生き返らせたのは2柱の「貝の女神」である。

「九穴の鮑」とは、女性性を持つ「未完成な人間」である。「女性性」とは生と死どちらも併せ持つ存在。出雲大社の心の雲である「イザナミ」は死の側面が大きいから、大蛇という恐ろしい姿に変身したのであろう。

鏡説

またまた引用させてもらったが、こんなお話があるらしい。

日本書紀によると第10代 崇神天皇の時代、出雲大社にお祀りされている神宝が見たいと仰って、出雲へ使者を派遣なさいます。

当時の出雲大社の祭祀を行っていたのは、出雲大社宮司さんの祖先、出雲振根(いずものふるね)と弟の飯入根(いいいりね)。弟の飯入根が天皇の使者に対して、独断で出雲の宝物を献上した事がきっかけで、この弟は兄に殺され、兄は死刑になってしまいます。

その後、丹波の国で異変が起こります。丹波の国に住んでいる幼子が奇妙な歌を歌っているというのです。その内容はとても子供の言葉とは思えない、神がかったものでした。

この時に子供が歌っていた内容には、「出雲の人が祀っていた鏡~」という言葉が含まれており、この噂を聞きつけた天皇は鏡をお祀りするようになったのだされています。

出雲大社の歩き方

鏡が「御神体」の神社は多々ある。その理由は既に様々なところで言われていることであるが、鏡は「自分自身」を映すもの。神とは輪廻を創り出す「自分自身」である。

わたしたちが「鏡」を覗いたら「人間」が映る。やはりそれが「御神体」の答えである。七宝の箱を見た源経頼も、九穴の鮑を見た松平直政も『心の中にある自分の実態』を見たということになる。「鏡」とは真実を映し出すもの。

人間の真実の姿

ということで、出雲大社の「御神体」の正体は『心の中にある自分の本当の姿』。「人間の真実の姿」とも言えるだろう。それは人によって解釈が違うもので、自分自身で見出すもの。その人だけが知る「真実」なのだから誰も見ることができない。

けれど「真実」とは「ひとつ」でもある。「御神体」とはあなたの「女性性」である。生と死が繰り返される輪廻を創り出す本体になるもの。

伊勢神宮の御神体は三種の神器のひとつ「八咫鏡」であるが、天照大御神という「女性性」はやっかいなもの。生と死という二重性を理解する為に、八咫(やあた)なものと対峙する必要がある。その時「女性性という思考」の恐ろしさを知ることになるかと思う。恐ろしいから誰も見ることができない、というのも「御神体」の真実である。

「鏡」は、私たちになじみのもので、だれでも、一日に何回か、見ているはずです。ラテン語にさかのぼっていえば、それは「スペクルム」(speculum)と呼ばれていました。もともと「見る」「考える」を意味する「スペクターレ」という動詞から生まれた言葉です。

大きく時代を下りますが、19世紀に、ドイツの哲学者、ニーチェは、キケロのいう「鏡」を「自分の真実」を映しだすものと、とらえなおしました。彼の書いた『ツァラトゥストラはこう言った』という本のなかで、主人公のツァラトゥストラは、鏡をもった幼い子どもから、「この鏡で自分を見て」と言われる夢を見ます。そして、鏡を見ると、そこには「悪魔的に歪んだ嘲りの顔」が映っていて、ツァラトゥストラは愕然とします。

山梨学院小学校

さいごに

あとがき

前編の最初に書いたけれど、このブログにコメントをくれた人の気づきでこの記事を書くことができた。ありがとうございます。いろいろと調べてみれば、ほんとうに「御神体」は「人間そのもの」でした。

諏訪大社の御神体が人間そのもの、というのは全ての存在が人間そのものだとは思いますが、その通りらしいですが、出雲の御神体が人間そのもの、という面を読め、と来ました。

「出雲」にまつわる話はこの3連記事だけでは書ききれない。国譲りについても解説したかったが、またの機会に。「熊野大社」の「亀太夫神事」なども面白いのでいつか解説したい。

八雲のおまもり

この記事のサムネイル画像は「八雲のお守り」である。我が家の近所にある神社で売っているもので、今年も初詣の際購入した。その神社の御祭神は「スサノオ」である。

というか、この後編記事を書いている時、旦那さんの部屋にあった去年購入したものが目に入り「八雲」だと気がついたのでちょっと驚いた。「永遠(8)」とは、意外に身近にあるものなのかも。