UOZAブログのルール

2018年から始めたこのブログ。自分なりの書き方ルールが定まってきた。「解脱したい人」の為のブログであるから、わたしは「解脱」を目指す人のために全力を尽くしたい。(ブログの中だけで疲れない程度に…。)

(2022/01/12追記:「解脱」を目指す人の為にブログ書くのやめた。詳しくはこちら。)

「解脱」への道は誰にでも開かれていて、特別なものではない。目指していれば必ず解脱できる。だからこそ、このブログは誰にでも読みやすいものにしたいと思っている。

難しい言葉を使わないようにしたり、日本語を大事にしたり。それから、わたしなりの「言葉の定義」は一番大事。「言葉」の意味の捉え方は人間によって様々だから。

ルールを理解してもらった上で読んでもらえれば「解脱」への理解が深まるはず。ぜひ目を通してください。

文章の中のルール

太字の文章

これはそのまま。大事な文章だと思うところはこのシンプルな強調を使っている。本当は全部の文章を強調したい…。

青い背景の文章

この青い背景を使用した文章は、その記事の中で一番言いたいこと。その記事の結論などは、この青い背景を使用しています。

黄色の背景の文章

同じ記事内、別の記事内で「青い背景を使用した文章」だったものを引用した時に、この黄色の背景を使用しています。再利用している、ということ。

緑の背景の文章

ピンクの背景の文章

この背景を使用した文章は、青い背景にするほどではないが、その記事の中で大切なこと。

UOZAブログにおける言葉の定義

はじめに

このブログの中で何度も使う「言葉」にはわたしが決めた定義がある。まずは、このブログで一番使う言葉、「悟り」と「解脱」の違いをはっきりとさせておきたい。「悟り」と「解脱」を分けて考えることで「解脱」しやすくなる。

現代では「悟り」を体験する人は多く存在している。しかし、多くの人が「悟り体験」に捉われ「解脱」できていないことが問題である。あいまいな「言葉」の中身をはっきりとさせておけば、自分がどこにいるのかを確かめることができる。

解脱の定義について

人間の最終目的

まずは世間一般の「解脱」のイメージについてwikipediaからまとめてみる。

もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。

wikipedia

『解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。』

ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である。これら4つの目標はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。

wikipedia

『ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である』

仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること。

wikipedia

『煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。』

ヒンドゥー教や仏教で『最終目標・人生の目的・自由の境地』と説明されるように「解脱」とは人間という存在の「最終目的」であることがわかる。

生きること

では人間の「最終目的」とは何か?『人間の存在意義を完全に知ること』である。さらには「人間の存在意義」とは何か?人間は『生きるため』に存在しているのである。

「生きること」について本質的に理解している人は殆どいない。「生きること」がどういうことか簡単に説明すると、この厳しい現実世界の中で自分を救い出すこと。この『生きることの真意』については「解脱」することができないと、身をもって実感できないと思う。『解脱する瞬間』が『自分を救う瞬間』になるのだから。

罪悪感と現実世界

「解脱」するためには、人間の中に必ず存在している「罪悪感」を消すことが必要になる。人間は意識的にでも無意識的にでも「罪」を犯していることに対して「罪悪感」を持っている。だからこそ「恥ずかしさ」や「怒り」や「苦しみ」を感じる。

「生きること」が苦しいのは現実世界が存在しているからでもある。「罪悪感」を持っているからこそ「苦しみ」をもたらす現実世界が創造され「輪廻」も発生している。つまり「罪悪感」を消し去れば「輪廻」から抜け出すことができる。

解脱の定義

自分の中の「罪悪感」を完全に消し去ることで「輪廻」から抜け出すこと。そのうえで「生きること」の真意を知ること。

「罪悪感」を消す方法を理解して「生きること」の真意をはっきりと言葉で説明できて、「死」を迎えるまで「正しい生き方」をまっとうすること。これができれば「解脱」している。

結果として現れる解脱

ここまで「解脱」の定義を説明してきたけれど、実際に「解脱しているかどうか」は「死」の後に結果として分かること。生きている間はあくまでも「解脱することが約束されている」だけ。

このブログを書いているわたしは、たまに記事内で『わたしは解脱した』と書いているが、実際には「解脱することが約束されている」ということになる。毎回このことを説明していると文章の量が多くなってしまうので、こちらの記事ではっきりとさせておく。

解脱したかどうかを判断するのは自分

『わたしは解脱した』という言葉に対して、顔をしかめる人もいるかもしれない。けれど「解脱しているかどうか」は他人が判断して決めることができないものである。「解脱したかどうか」を判断するのは自分自身。本質的には世界には自分一人しか居ないのだから。

「解脱したかどうか」を「解脱していない人」が判断するのは難しいことだから、このブログで解説していく予定の「解脱する為の情報」は信じてもらうしかない。

間違った解脱の定義

世間の「解脱」の定義として間違っているものが二つある。「悟り」の定義の説明に進む前に、確認しておきたいこと。

『無我を知ること』…この世界は幻想であるとか、この世界はそもそも存在していない、とかいう考え方のこと。それを知るだけでは「解脱」にはならない。これらは次に説明する「悟り」の段階で知ることである。

『愛によって全てが存在していること』…これは、本来「解脱」してからわかること。理解する前に「愛」の大切さを知ることはとても簡単なこと。「解脱」しなくても誰でも知っているものだから、「解脱」できているとしたら安易に「愛」の大切さを説くことはしないはずである。「愛」とは実はすごく怖いもの。

悟りの定義について

神秘体験のようなもの

「悟り」とは「解脱」の前段階である。「悟り」のことを、一瞥体験・覚醒・ノンデュアリティ・ワンネスなどと呼んだりもする。

突然にやってくる「悟り体験」は「宇宙」と一体化したりだとか、「無我」を感じたりだとか、「愛」というものを体験する感動的なものだったりとか、とてつもない「幸福感」を感じるもの。この世界のことがなんとなくわかってしまうような体験でもある。しかし「一瞥」という言葉の意味からもわかるように、「悟り」とは「解脱」という状態を少しだけ覗き見ること。

苦しみの原因を知ること

「悟り」が起きるとその感動的な体験によって「苦しみ」が無い世界を知る。「苦しみ」が起きる原因が「現実世界」に惑わされている「自分自身」であると、初めて知る瞬間なのである。

「解脱」した状態は輪廻から抜け出すこと。つまり人間に「苦しみ」を与える「生きることそのもの」から抜け出すこと。しかし「悟り」状態では「罪悪感」が現実世界を発生させる『苦しみの大元』であることには気がついていない。「現実世界」は自分を惑わせる幻想である、と考えることによって「苦しみ」は消える、ということに気がつくだけである。

悟りの定義

自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつくこと。しかし「苦しみ」をもたらす「現実世界」が創造される原理を理解していない。

「悟り体験」してみればわかるけれど、その後も自分自身に「苦しみ」は続くし、目に見える世界にも「苦しみ」が存在する。自分に未だ「苦しみ」をもたらす現象の意味や、世界そのものに「苦しみ」が無くなっていないことについて説明できない。

全人類の「苦しみ」が無くなる方法を理解できることが「解脱」なのである。「解脱体験」では輪廻から抜け出たことに対する無限の「幸福感」を体験できる。「一瞥」と「無限」は全くの別物。

悟りを解脱と取り違えている人

「悟り」が起きたことで『最終目的を達成した』と勘違いしている人も多い。世界に起きている困難や苦しみを「無視」して自分だけの幻想的な世界を創り出している人がそれである。

「悟り」が起きてしまうと自分に生まれる「苦しみ」を上手に避けることができるようになる。だから「幸せ」を感じやすくなる。それは良いことでもあるけれど「解脱」からは遠ざかる行為。

例えば今は世界中で「新型コロナウイルス」が猛威を振るっており、経済が大打撃を受けたり暴動が起きたりもしているが、そういった問題を『自分とは関係ないもの』として見てしまう。

自分だけは幸せを感じて、世界に存在する「苦しみ」から目を背けているのが『悟ってはいるが、解脱できていない』人々。世界に存在する「苦しみ」を見ないように、感じないようにすることが人間の心の弱さである。その方法は一時的には自分を救うけれど、現実世界そのものにどうしようもない困難が訪れた時には心が崩壊してしまう。

神秘体験ではない悟りや悟りっぽいもの

ちなみに、神秘体験のような「悟り」が突然やってこなくても、人生の中で学びを得て「苦しみ」を上手に避ける方法を会得する人もいる。そして、「悟り」という一瞥体験をしても「苦しみ」を避ける方法を見出せない人もいる。

「苦しみ」を避ける方法を見出せない人の「神秘体験」はそこまで大きなものではなかったのかも。もしくは体験そのものへの理解が追いついていないか。

つまり、悟りっぽいものを体験したとしても普通の日常を送る人も多く存在する。逆に宗教やスピリチュアルの道に進む人は「悟り体験」に大きな興味を持ち、さらに探究したい人。

神秘体験の意味を積極的に探ろうとする「解脱」を急ぎたい人と日常生活の中でゆっくりと「解脱」を学びたい人。人間はそれぞれ違った個性をもっているから、真理探究のスピードも様々である。急ぎすぎることのデメリット、ゆっくりすぎることのデメリットは存在するから、実は真ん中がちょうどいい。

悟りが起きない人

「悟り」が訪れていない人間は「最終目的」が存在することさえ気がついていない。人生が1度きりであると思っていたり「死」を迎えたら無になると思っていたりする。「死」を迎えたらまた新しい「人間」として「生」が始まる。繰り返す「生」は人間の「最終目的」を知るまで終わらない。これが輪廻である。

しかし「解脱」するために必ずしも「悟り体験」をしておく必要はない。むしろ、しないほうがいいのかもしれない。先ほど説明したように「悟り体験」に大きな感動を覚えると、宗教やスピリュアルに陥ってしまい考え方が凝り固まってしまうこともある。

「悟り体験」は「苦しみ」を持つ自分自身を一旦救うものである。現実世界で「苦しみ」に対処できる高い能力を持つ者は「悟り体験」が起きないこともある。日本人はその高い能力を持つ民族であると思っている。

まとめ

この記事以前の過去記事の中で使用している「悟り」や「解脱」という言葉について。定義が定まっていないまま「悟り」と「解脱」を使用している記事もある。これから記事の修正をしていく予定だけれど、修正しないものもあるかも。

それから、過去記事はたまに読み返して、気がついたことを追記したり書き直したりしていることがある。一回読んだとしても、読み返してみるのもいいかも。たぶん、わたしのブログは「解脱」への理解が深まるごとに、内容の意味がわかってくるようになっているはず。


UOZAブログにおける言葉の定義(2023/04/03追記)

読者さんから「悟り」についての質問コメントをいただいたことをきっかけに、こちらのページを更新しようと思います。追記前に書いた定義を補強するものなので、追記前のもの・追記後のもの、両方読んでいただき、このブログで使う「悟り」と「解脱」という言葉の定義を知っていただけると幸いです。

ちなみに、原始仏教で言う「悟り」や「解脱」という言葉の定義とは違うかもしれません。あくまで、UOZAブログで使う「悟り」「解脱」という言葉の定義になります。

悟りの定義について

わかっちゃった感覚

追記前、「悟り」の定義について『自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつくこと』と書いた。けれども、これだけではまだまだ言葉足らずだったので、もう少しわかりやすく説明していきたい。

わたしが「悟り」という不思議な体験をした日のことを書いた記事がある。その体験はこのようなものである。

その時ひらめきが起きた。「この世界はただ生じては滅するの繰り返しなんだ!!!」という確信。頭に何かが直接入ってきたような感じ。説明しがたい感覚。驚きでしばらく視界はぼやけていた。なんだか分からないけど、世界のことが突然分かった。

なんだか分からないけど世界のことが突然わかっちゃった感覚。もしかしたら、このブログを訪れる人の中にもこの体験をしている人は結構いるのかもしれない。

理屈はわからないが全てが理解できた、という『曖昧な感覚』。曖昧なところが重要で、何が分かったかは論理的に説明できないけれど『なんかわかっちゃった』感覚。これが「悟り」です。

この「悟り」から、この世の全てをきちんと理解できるように「悟り」を深め、「解脱」を目指すこともできる。

生じては滅する世界への気づき

わたしが悟った時に起きたひらめきは「この世界はただ生じては滅するの繰り返しなんだ!!!」というもの。「悟り」時に、このひらめきが起きる人がどれだけ居るのかは分からないが。

ひらめきと言えど『生じては滅する世界』をわたしは真っ暗な空間の中で実際に確かめたのである。「世界が有ること(生じる)」と「世界が無いこと(滅する)」を認識したのだ。この時、同時に世界のことが分かった感覚も生じた。

ともかく、わたしは「世界が有ること・世界が無いこと」を同時に確認したけれど、「世界が無いこと」の方だけに注目した。すると、大きな「幸福感」が生まれた。世界とは自分にとって煩わしいもの。世界(社会)があるから様々な悩みが発生する。「世界が無いこと」を心から信じたので「苦しみ」が消えてしまった。

ふたつの「悟り」

この追記前は『自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつくこと』を「悟り」と定義していた。つまり『無いことを信じること』が「悟り」ということ。しかし、とあるコメントをいただいて『有ることを信じる悟り』についてしっかりと考えていなかったことに気が付いた。

点と点が繋がって線になって、全てわかっちゃった!って感覚はよく湧き上がるのですが、「自分、世界は存在しない」っていうぱんちゃんさんと同じ結論は出ないんですよね。

こんなコメントをいただいたのである。この方は「全てがわかっちゃった」体験をしていた。点と点が繋がることは「有ること」を前提としているので、「有ること」に注目してそれを信じている。

つまり、何が言いたいのかというと「わかっちゃった感覚」には二種類ある。「悟り」体験とは、「世界が有ること」または「世界が無いこと」を体験すること。わたしは最初「無いこと」だけに注目したが、「有ること」だけに注目する人もいるのだ。

わたしの場合「全てが繋がってわかっちゃった」体験が起きたのは、次の悟り段階であった。

次の悟りへ進む

わたしは次に「世界が有ること」に注目した。先ほども述べたように、自分以外の世界を「無いこと」にすれば、幸福になれる。煩わしいものを「無いもの」にする技である。逆を言えば「世界が有ること」に注目すると、煩わしいものが目の前に現れ、その幸福は破壊されてしまう。

実際「世界」には争いがあり、悲しみがあり、死が存在する。「世界が有ること」に注目することは、そんな当たり前の現実にも注目することである。「無いこと」にはできない悲しい現実がある。もちろん「世界」には幸福もあるけれど。

ここでまた、わたしの悟り体験記を引用する。これは先ほどの「無いことを信じる悟り」の次に起きたことである。

そんなことを考えているうちに、ふと、愛するという感情はいったいどこからきているのだろうと疑問に思った。嬉しい、楽しいという感情。心から湧き出るワクワクする感情。これも社会の中で作られた感情なのだろうか。

この疑問が頭に浮かんだ瞬間から面白いことが起きはじめた。休眠状態だった脳が急に動き始めた感覚になる。何をしていても思考が止まらない。ものすごいスピードで思考が続く。

ひらめきの連続だった。点と点がつながり、線になり、面になる。そしてこの時ほんとうに、人間が存在する意味、私たちや宇宙を作るひとつの大きなもの、神と呼ばれているものが何なのかを知ることになった。最初の悟りではわからなかったこと。

このようにまたひらめきが起こり、全てがほんとうに分かった感覚があった。コメントをくれた方のように点と点が繋がった様に思え、世界が有ることを全肯定する体験だった。

宇宙における全ての事象が関係し合っていて、その中には自分という存在も含まれている。個は全であり、全が個であること。自分を含めた大きな世界が有った。

「世界が無いこと」を信じると、自分にとって受け入れたく無いことも消え去 り、だからこそ大きな幸福感が生まれた。けれど「世界が有ること」を信じることは、「受け入れたくないこと」もわたし自身と繋がり、ひとつの大きな世界を形作っていることを信じることである。

「悟り」の定義 追記版

最初の「悟り」では「世界が無いこと」を信じ、その後の「悟り」では「世界が有ること」を信じた。わたしは、交互にそれぞれを「信じた」。ということで「悟り」の定義を更新というか、追記していきたい。

「世界が有ること」または「世界が無いこと」どちらかを体験し、全てが理解できた感覚を持つこと。そして「有ること」または「無いこと」のどちらかを信じること。

「世界が有ること」を「悟る」こと…世界が有ることを信じ「全てが繋がる」感覚が起きる

「世界が無いこと」を「悟る」こと…世界が無いことを信じ「苦しみ」から解放される

追記前の定義では「無いこと(苦しみから解放されること)」ばかり注目していたので、「有ることの悟り」を追加し、違いをはっきりさせてみました。どちらかを経験していれば「悟り」になります。わたしの決めた定義ですが。

意識が認識する世界のこと

「悟った人」についてネットで調べたところこんな記事があった。その記事では「悟り」を「自我の拡張」と「自我の消滅」と表現していて、これは「世界が有ること(拡張)」と「世界が無いこと(消滅)」と同じ。自身の意識によって「有ること」や「無いこと」が認識された結果(感情)が「悟り」である。

意識(世界)を奥深くまで辿っていくと、根源には「有ること(1)」と「無いこと(0)」しかない。意識(世界)はただ拡張(1)と消滅(0)を繰り返している。けれど、普段わたしたちはそんなことも知らずに生きている。「悟り」という特別な体験によって、根源の秘密に触れることができる。

解脱の定義について

「解脱」の定義 追記版

悟ってみるとわかるものだが、全てが繋がる感覚や苦しみからの解放などの「悟り」現象は長くは続かない。続けるには努力が必要である。その状態を継続させる為に環境を整えている人もいるし、普通の生活に戻る人もいるのだと思う。

けれど「解脱」を目指すのならば『全てわかっちゃった体験』が起きた意味を事細かに紐解いていく必要がある。ここでまず最初に「解脱」の定義を確認していきたい。

「世界が有ること」と「世界が無いこと」を体験し、尚且つどちらも信じること。「有ること」と「無いこと」の矛盾を解消すること。

両方信じること

つまり「解脱」には2回の「悟り」が必要で、それら体験をどちらも信じなければいけない。そして、ただ無闇に「信じる」のではなく、それら体験の意味を理論立てて自分の中で納得できること。そうでないと「信じているもの」がブレてしまう。

わたしは最初の「悟り」で「無いこと・有ること」を同時に認識したけれど、「無いこと」と「有ること」は両立しない。けれどそれらが矛盾していないことを「信じる」ことが「解脱」の条件である。

「永遠の世界」にある喜びと悲しみ

2回の「悟り」体験後、わたしは「世界が有ること」の方が重要だと感じた。わたしたちは現実に世界を感じ、他者との関わりを持って生きているのだから「有ること」の意味を解き明かさなければ「解脱」はできない。

「有ること」だけを信じるならば「無いこと」は有り得ないということになる。ややこしいが。つまり「有ること」がずっと続く。

「有ること」の方を信じた時「永遠の命」を得たように思い「幸福」を感じる人々もいる。けれど「無」になりたくてもなることができないから、「有ること」は、ある人々にとっては「苦しみ」をもたらすものとなる。

「世界が有ること」についてだけ考えたとしても、わたしたち人間は矛盾した感情を持つことができる。「有ること」の詳細については、このブログの「輪廻からの解脱」カテゴリー記事で書き続けているので、そちらの記事をどうぞ。

「孤独の世界」にある喜びと悲しみ

「解脱」するには「世界が有ること」について考えながらも、「世界が無いこと」についても解き明かす必要がある。

最初わたしが「世界が無いこと」を理解したとき、様々な悩みが消え去り「苦しみ」も消え、幸福感だけが残った。しかし、冷静に考えてみれば『この世界にはわたし一人しか存在していない』ということになる。

わたしが「世界が無いこと」の本当の意味を知ったのは「解脱」を目指しはじめてから。有ると思っていた現実の全ては幻で、真っ暗な空間の中にひとりぼっちであることの恐ろしさ。それを実感したのは最初の悟りから何年かたった後だった。実際に『世界など存在しない』。

最初は「世界が無いこと」に「喜び」を感じていたが、「孤独な世界」を生きていることを知り「虚しさや悲しみ」の感情が起きた。このように「世界が無いこと」についてだけ考えたとしても、矛盾した感情が生まれる。

「世界が無いこと」に関して、信じることができない人もいるかもしれない。そのあたりも「輪廻からの解脱」カテゴリーで書き続けている。以下の関連記事では「世界が無いこと」についてわかりやすく説明しているつもりです。

関連記事:この世界の真実(最終解答編)前編後編

矛盾を解消すること

ここまで説明してきた通り「世界が有ること」に対して生まれる陽と陰の感情、「世界が無いこと」に対して生まれる陽と陰の感情の矛盾。ひとつの現実に対して、何故2つの相反する感情が生まれるのか。その矛盾が解消できれば、世界が「有ること・無いこと」、どちらも正しいことが理解できるようになる。

そもそも、世界が「有ること・無いこと」が重なっている状態であることが理解できていないと、この矛盾問題にもたどり着かないのであるが…。

「有ること・無いこと」をどちらも体験し、それぞれに対して生まれる2つの感情を見出し、その矛盾した感情が同時に自分の中に存在する意味を理解できるようになることが「解脱」なのである。

罪悪感について

さて、この追記前に書いた「解脱」の定義はこうだった。

自分の中の「罪悪感」を完全に消し去ることで「輪廻」から抜け出すこと。そのうえで「生きること」の真意を知ること。

追記後の定義と全然違うが「有ること・無いこと」を突き詰めていけば、わかることになるかと思う。人間に「罪の意識」が生まれるのは「有ること・無いこと」という2つの現実を意識が認識し、その2つに差をつけてしまうから。わたしは「有ること」の方が大切だと思っている。

0と1が全て

「無いこと・有ること(0・1)」について考え、極めていけば、この世界の全てを知ることができる。「解脱」は知りたい人の為のもの。

けれど多くの人は真実を追う途中で挫け、追求を諦める。「解脱」する為の探求には時間がかかるし、わかり易く答えが出るものでもないから。とにかく我慢が続く。

簡単に実現するものなど「解脱」ではなく、むしろいつまでたっても実現しないものが「解脱」であったりする。「解脱」を目指すのならば死なない程度にがんばりましょう。