仏教には「悟り」の段階というものがある。「悟り」にはレベルがあって、レベルを確認することで輪廻から解脱するまでの時間がわかる。今回の記事ではわたしがどの段階にいるのか確認していきたい。

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つぎに「このブログについて」を読んでもらうとこの記事への理解が深まると思います。

輪廻からの解脱方法を知った

衝撃的な二度の「悟り」体験から早2年。2年の中にも小さな「悟り」が沢山あって、どうやらわたしは悟りの最終段階「阿羅漢」に近づいた感がある。

そう自分で判断したのは輪廻の解脱方法を理解したから。解脱方法は、アニメ「ひぐらしのなく頃に」を見ていたらはっと気がついた。なんとも現代っぽくて自分のことながら面白いと思った。

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わたしの「悟り」段階について

仏教のおさらい

久しぶりに仏教のおさらい。「悟り」には段階があり、その段階をひとつひとつクリアしていき、最高レベル「阿羅漢」に到達することが人間のゴールとされている。ちなみに「阿羅漢」に到達した有名人といえば仏教の開祖ゴータマ・ブッダである。

「悟り」段階について再確認し、それから私がなぜ「阿羅漢」に近づいたと言えるのかを説明していきたいと思う。

悟りの段階一覧表

以下の表はwikipediaから拝借した「四向四果 (しこうしか)」という悟りの段階一覧。下の表が見にくかったらwikiに行って見てください。

表の一番上のことばを簡単にしてみると、左から

到達した境地が「悟りの段階」・解放された結が「消えた煩悩」・苦しみが終わるまでの輪廻が「輪廻解脱までの残り時間」

それぞれの悟り段階でどんな煩悩が消えるのか、その煩悩が消えたとき輪廻解脱までの残り時間はどれくらいなのか、ということがひと目でわかる表である。便利でありがたい。

わたしはどこにいるのかを検証する

4段階の悟り

悟りには大まかに分けて、預流(預流向・預流果)、一来(一来向・一来果)、不還(不還向・不還果)、阿羅漢(阿羅漢向・阿羅漢果)という4つの段階がある。それぞれの中にの2種類がある。「果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。(wikipedia)」

不還か阿羅漢か

表の煩悩リストを確認してみたけれど私は、預流(よる)一来(いちらい)の中の煩悩は無くなっている。ということは、不還レベルなのか阿羅漢レベルなのか。残りの煩悩についてひとつづつ確認してみる。煩悩が無くなったものはグレー、残っているものはみどりで色付けしてみた。

残りの煩悩チェック

不還レベル(貪欲・瞋恚という煩悩が無くなっているか)

貪欲(とんよく)…食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲これら五欲への執着があるかどうか。

執着とは「ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと。」ということは執着はない。よく寝るけど。この煩悩は無くなった。

瞋恚(しんに)…怒り恨みと訳され、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心、害意、敵愾心、「自分がないがしろにされた」という思いがあるかどうか。(wikipedia

私は現実を愛しているので、現実を認めない人に対して怒りを持っている。怒りはすぐ収まってしまい続かないけど。その怒りは、私が達成すべきある目的のための苛立ちであることを理解しているので、その感情を外から見ている状態。ということで、客観的に見ながらも苛立つことはまだあるのでこの煩悩は無くなっていない。

阿羅漢レベル(色貪・無色貪・慢・掉挙・無明という煩悩が無くなっているか)

色貪(しきとん)…色界を欲するかどうか。色界とは「欲望を離れた清浄な物質の世界。色界に住む天人は、食欲と淫欲を断じ、男女の区別がなく、光明を食とするという。しかし情欲と色欲はある。(wikipedia)」

色界と無色界については以前調べていた。仏教用語で「禅定」というやり方で入るところ。ここは幻覚物質でも覗き見ることができる。視覚・聴覚・意識だけが存在する世界で、まだ物質界である。この世界は私も体験済み。映像と音楽と思考だけですごく気持ちの良い体験だったので、情欲と色欲があるというのも頷ける。しかし、わたしはこの世界にずっといたいとは思わないし、興味もない。ということでこの煩悩は無し。この世界は薬物中毒者、または「気持ちの良い愛だけ」を求める人が陥りやすい世界。

無色貪(むしきとん)…無色界を欲するかどうか。無色界とは「欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。(wikipedia)」

無色界とは天界のこと。目に見えない、精神だけの世界。もはや身体も必要としない非物質的世界。スピリチュアル界隈の人たちが好きなところ。そちらに行きたくはなく、新しい人間の世界へ行きたい。なのでこの煩悩は無い。

慢(まん)…他人と比較して思い上がることがあるかどうか。(wikipedia

この煩悩は悟りが来る前から無い。過去の私は自分に自信がなかった。何なら未だに自信がなくなるときがある。

掉挙(じょうこ)…心が昂ぶり頭に血が上った状態を指し、対義語である昏沈(心が深く沈んだ状態)とともに、平静な心を失っているため煩悩とされている。(wikipedia

詳しくしらべたところ、怒りとは違うらしい。心が浮き足立ったり、ドキドキすることみたい。この煩悩はまだまだ有る。これは対義語と共に気になる煩悩なので、後で考察する。

無明(むみょう)…無知のこと。また真理に暗いこと。形而上学的な世界の性質、とりわけ世界が無常および無我であることの教義についての無知、誤解を指す。無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。(wikipedia

無我は一来果で滅したのに、なぜこのレベルに入っているのか…。と一瞬思ったけれど「無明であることは苦の根源であり、転生の始まり」とのこと。つまり、無明とは「輪廻の解脱方法を知らないこと」だ。輪廻からの解脱については理解したのでこの煩悩は無い。「無我であることの教義についての無知、誤解を指す」とある通り、無我を理解した人が「解脱した」と勘違いすることがありそうなので、無我と無明の違いについては次回記事で詳しく。

結論、よくわからない

不還向兼阿羅漢向?

わたしには瞋恚(しんに)と掉挙(じょうこ)という煩悩が残っていた。ということで、不還レベルで滅していない煩悩がひとつ、阿羅漢レベルで滅していない煩悩がひとつ。残り2個であった。

この場合どのレベルにいるのだろう。よくわからないけどゴールまでもうちょっとであることは確か。最後の煩悩である、無明がクリアできてることがかなりうれしい。

そもそも情報が少ない

不還に到達した人、阿羅漢に到達した人の情報が少なすぎるので判断が難しい。阿羅漢になった人は、公表せず隠すという情報があったけれどなぜ隠すのか。順調に煩悩を滅していったらそうなるのかもしれない。しかしそれだと自己という幻想が何故在るのか?の答えが阿羅漢以外の人に伝わらない。

残りの煩悩がわたしそのものだった

私に残っている二つの煩悩のことを考えてみると、とても面白いことがわかった。私がこのブログでこわい神様や自我と自己の重要性について熱心に説明していることにつながってくるのである。はからずもでびっくり。次章からその二つの煩悩について考察していく。

瞋恚(しんに)という煩悩とわたし

原始の神(こわい神様たち)をないがしろにされること

怒り恨みと、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心、「自分がないがしろにされた」という思い。

「自分がないがしろにされた」という思い、とてもある。わたしは何故だか原始の神にとても共感している。原始の神をないがしろにされて怒りが湧いた結果書いた記事がある。

それから、悪い出来事を「強い者」のせいにする「弱い者」に怒りを覚える。その怒りを原動力に書いたのがこちらの記事

その他怒りの記事はこちら:こわい神様

つまり、自我に背く人に怒りがわく

私は「現実を受け入れること」「善い方の自我を使って自己表現をすること」を一番大切にしているから、これらに反する行為をしている人に「怒り」が湧く。

これこそ我(自分)に背くことがあれば必ず怒るようなこころのこと。だから、瞋恚という煩悩はわたしに残っていると言える。

私はこの「怒り」を自己表現へと変換し、ブログを書くことにしている。それはとても楽しい。この煩悩をコントロールできない人間は「怒り」を直接人に向けることだけで終わってしまうこともあるのだろう。

怒りを怒りのまま自己表現に使うことは辛い。「怒り」を楽しく利用することができることは、なかなか世間には知られていない。

関連記事:善い方の自我のはなし

瞋恚は自己の存在理由を明らかにする

人間は動物にはない智慧で怒りを昇華することができる。怒りを昇華した末の自己表現は自己の存在理由を明らかにするものである。普通の自己表現じゃ自己の存在理由は明らかにならないのだ。

何故人間には自我が在り、自己を作り上げているのか?という謎を解き明かすためにも瞋恚は重要な煩悩と言える。瞋恚という「自我(自己)を否定されることに対しての怒り」は人間の起源に深い関連があるのだが、それは追い追い語っていこうと思う。

掉挙(じょうこ)という煩悩とわたし

平静な心を失うこと

心が昂ぶり頭に血が上った状態を指し、対義語である昏沈(心が深く沈んだ状態)とともに、平静な心を失っているため煩悩とされている。

人が悪いことをするときは、正しく物事を把握できずに混乱しています。焦ったり、緊張したりするのもこのウッダッチャのはたらきです。落ち着きがないと、どのようなこともうまくいきません。上手な人でもへたな人になります。

パーリ語日常読誦経典

上に、掉挙のわかりやすい解説を引用させてもらった。わたしは焦ったり緊張したりはまだまだあって、特に突然のトラブルに心乱れることがある。

落ち着きを取り戻す方法は手に入れたのでトラブルへの対処は上手にできるようになった感がある。しかし、まだこの感情(煩悩)は好きになれない。

私はとにかく小心者である。周りの人にはそれをあまり見せないようにしているけれど、とても怖がり。私の最大のコンプレックスでもある。

この煩悩が私に残っている意味をここ最近考えていたのだが、おそらく、こころの中の恐怖を忘れないようにする為なのではないかと。

もしこの煩悩が残っていなければ、冷静沈着で何事にも動じない人間になれる。しかし、この煩悩を無くしてしまうことは「死を恐れない人間」になってしまう危険性がある気がするのだ。

掉挙の対義語は昏沈(こんじん)

掉挙という煩悩には対義語があり昏沈という。心が沈み、無気力で何もしたくない感情とのこと。鬱症状と一緒である。掉挙は躁状態であるとも言えるのかも。

私には掉挙という煩悩が残っているから、トラブルが起きた時はこんな感じの流れである。

焦り、緊張と共にいつもできることができなくなる→自信がなくなってくる→昏沈の働きで、鬱だった頃の自分を思い出す→でも冷静に対処しようと試み、深く落ち込まない→昔とは違う自分に気がついて逆に嬉しくなる

「悟り」によってこの一連の流れを客観的に観察できるようになっているので、自分の成長と心の動きを冷静に掴めていることが素直に嬉しい。過去の私であればただ落ち込み自信がなくなるだけ。

この煩悩を体験しているとき、やはり自分は人間だなぁと思う。何だか初心に戻った気がしてくる。「悟り」で神と合一したとしても、人間の心を忘れないことはとても大切だ。

掉挙という煩悩が残っていることで自分が人間であるということを忘れない。この煩悩を残さず神との合一を果たしてしまったら「私は神である」とか言いかねない。

あとはこの煩悩のおかげで、現実世界にて真理を見つけたときものすごくドキドキわくわくするので楽しい。その心の高ぶりがこのブログを書く原動力ともなっている。

二つの煩悩のおかげで今のわたしがある

私に残っている二つの煩悩を詳しく調べてみて分かったことをまとめてみる。この二つの煩悩が残っているからこそ、このブログ記事が書けている。そして二つの煩悩によって、人間である自分の生活をしみじみと楽しみ、オカルトにドキドキわくわくできる。

というわけで、ひとまず自分はいい感じに「悟り」を得られたことがわかった。ラッキーすぎる。「阿羅漢」になるのはいつかわからないけど、それも楽しみにしておく。

この記事に引き続き、次回は「輪廻からの解脱方法」について語っていく。まだまだ謎が多い輪廻の仕組みだけれど、分かり易く説明していきたい。