ここで一度「悟り」についてまとめてみようかなと思った。現代人が悟れない理由や、悟りを妨げているものについて詳しく解説していく。

ふたつの大切な「悟り」

「悟り」の段階について

まずは簡単に「悟り」の段階についておさらい。仏教の教えでは悟りの段階は細かく分けられるけど、今回は二つにわけてみる。この二つの「悟り」をしっかりと理解していれば輪廻からの解脱も遠くない。

初期段階「無我」

「悟り」の初期段階である「無我」。世界の存在そのものが虚構であり、自己を創り出しているから「苦」が生まれてしまうという考えのこと。この「無我」を体験している人は仏教系修行者に多いようす。

最終段階「ワンネス」

そしてその先にある「ワンネス」という「悟り」の最終段階。この世界の全ては「愛」からできている、という考えのこと。他人と自分の境界線がなくなることでもある。この「ワンネス」を体験している人はスピリチュアル界隈に多いようす。

無我とワンネスどちらも大切

「無我」を理解し教えてくれている人は多くいるが、それだけだと「人間とは何か?」というこの世界最大の疑問が解決できない。「ワンネス」について理解できなければ、いつまでたっても「輪廻」から抜け出せない。

探求しないと悟れない

「悟りの体験」と「悟りの理解」

「悟り」を体験することと理解することは全然違うものであることを知ってほしい。理解があると「悟り」が順調に進んでいく。それなのに、神秘体験のみで満足したり、日常に流されて「悟り」が何故起きたのか?何のために「悟り」が存在するのか?というところまで探求する人は少ない。

様々な悟り体験

「悟り体験」が無我→ワンネスという順番でない人もいるし、無我体験だけの人、ワンネス体験だけの人もいる。それから幻覚物質による、無我擬似体験・ワンネス擬似体験もある。だけどそれら神秘体験をしても、ほとんどの人が通常生活に戻ってしまう。

探求が進まない現代人

環境に流されて諦める人々

人間は社会の中の自分の立ち位置を気にするから探求が進まない。一番の原因はお金のことなのかと思う。稼ぐことに時間をとられたり、働いていないことに罪悪感を持ったり。「悟り体験」をしても、世間の常識通りに生き、環境にのまれて「悟りの真実」を探ることなく生を終える。

「悟り体験」をしている人は多いのに非常にもったいない。死んだら1からやり直しなので「悟り体験」をしたのなら、他人からどう思われようが探求するべきなのに。

ニートは「悟り」やすい

わたしは周りの人からお金をもらって生きているニートであるが、罪悪感と戦いながら探求を進めてきた。その結果輪廻から解脱する方法を見出した。

「ワンネス体験」の危険性について

「ワンネス体験」をした人たち

ワンネスの説明求む

「ワンネス」が悟りの最終段階ではあるのだが、その詳しい内容や到達方法を説明している人がいない。これもまた現代人が悟ることができない原因の一つであると思う。もちろん過去存在したオカルティスト達が説明してくれているのだが、現代人にとっては分かりづらいものである。

やっかいなワンネス体験

感受性が高いひとたちは「ワンネス」を知っている。スピリチュアルに傾倒している人、アーティスト、ミュージシャンなどに多い。表現活動はワンネスに直結しているので。

しかし、そんな人たちが愛と平和だけを拡散し目覚めを促す活動に終始してしまうことがやっかいな問題である。最近では陰謀論を展開し始めている人たちもいる。これもまた「輪廻からの解脱」から遠のく原因となっている。

愛と平和の啓蒙活動について

悪の原因を解決しない人々

「争いをなくそう!」とか「平和な世界を!」とかいう啓蒙活動の危険性を伝えておきたい。彼らは愛と平和を訴えるムーブメントは起こすのに「人間が何故争いを起こすのか?」という根本的なところを解決しようとしない。

自分の「悪い心」から逃げている

人間に「悪い心」が生まれる原因を見つけ出し理解すること。その作業を怠ったら、いつまでたっても争いは減らない。人間がその原因を探らない理由は自分の「悪い心」を意識したくないからである。綺麗な言葉で平和を訴え、誰かに責任をなすりつければ自分の「悪い心」を見なくて済む。

「悪い心」を見ない為の善意

善意とみせかけた偽善

例えば、知らない誰かのために募金をしたり他人の為に祈ったりするなどの善意の行為。実はそれらの行動も自分の「悪い心」を見ないようにするためのもの。本人が心からの善意としていても、無意識では「悪い心」をみないように必死なのである。

マザーテレサも気がついていた

人間はすっかり心の中の悪魔に騙されている。以前の記事でマザーテレサのことに触れたが、彼女も晩年には善意が偽物だと気がついていた。

罪を背負うものたち

善意は自分を満たすため

他人は自分の鏡

そんなわけで、地球を平和にしたいと思っているのならば安易な慈善活動はやめよう。平和が遠のくだけである。他人を憐れむことは自分を憐れんでいるのと同じこと。他人に思うことは、全て自分に向けた気持ちである。「他人は自分を映す鏡」という言葉はこの世界の仕組みそのもの。

「かわいそう」の罠

何かに「かわいそう」という気持ちが湧いてきたら注意が必要である。「かわいそうなものたち」を助ける行為で「かわいそうな自分」の心が一瞬満たされる。それを繰り返しても、かわいそうなものたちはいなくならないし、かわいそうな自分からは抜け出せない。

十字架を背負い、満たされない人間

「かわいそうな自分」を「満たされた自分」にすることがこの世界のゴールである。キリスト教では、自らを「かわいそうな人間」と思いこんでいる人たちを「罪を背負ったもの」と表現している。

罪を背負ったものたちは自分を無意識に卑下し、それを他人の中にも見出す。つまり、罪を背負っていなければ他人を「かわいそうなものたち」などとは思わない。

満たされた人に罪はない

「満たされた完璧な自分」になるためには罪を完全に消し去ればいいのだ。その方法は「輪廻からの解脱」のみである。

罪を背負ったものたちは一時的な罪滅ぼしとして善いことをしたがる。善いことをすると一瞬だけ罪が消え、満たされたような気持ちになる。罪滅ぼしを完了するのであれば、自分を完全に満たされたものにするしかない。

罪を消すことが「ワンネス」である

「罪」がもたらすもの

「罪」を裁く人間

罪を背負ったものたちは「罪を背負っていること」に嫌悪感を持っている。そして、罪が「死」をもたらすことも知っているので罪を遠ざけている。

人間が法律を作り、裁判所で判決を下し、死刑を執行することは罪の性質を理解しているから。罪を裁いた後に起こることは肉体の「死」と精神の「死」である。

「死」を逃れる人間

人間は肉体の「死」を遠ざける為に様々な対策をとっている。それと同じく、精神の「死」への対策も完璧である。様々な悪魔を創り出し、その悪魔に「罪」を押し付けることで精神の「死」から逃れている。それが回り回って肉体の「死」を近づけていることにも気が付かずに。

「死」から逃れたい人間は「罪」からも逃れる。「罪」のなすりつけあいが延々と続いている。この世界で未だに争いが終わっていないことが動かぬ証拠である。人間がずるくて卑しい生き物であることがお判りいただけると思う。

人間は悪魔である

人間は誰しもが「悪い心」を持つ悪魔である。この世界に「悪い心」を持たない聖人など存在しない。人間は自分の「悪魔性」を見たくないから善意でごまかす。しかし、「ワンネス」を真に理解している人は自分の中に悪魔を認めることができているし、悪魔を消し去ろうとはしない。

「悪い心」は自分のもの

「悪い心」は他人から見つけるのではなく、自分の心の中にあるものを見つけよう。心の中の悪魔を探し、見つけようとする人だけが「輪廻からの解脱」を手に入れる。

「ワンネス」を理解した人たちから学ぶこと

「無我」を理解したゴータマブッダ

「無我」を理解し、説明してくれたのがゴータマ・ブッダである。最終段階までに無くすべき煩悩の種類などを教えてくれている。イエスが生まれる前なので「ワンネス」がどんなものかブッダは詳しく説明していない。と私は思っているのだがどうだろう。

もしかして説明しているのかもしれないが、私は仏教の経典を網羅しているわけではないのでそこらへんが分からない。「ワンネス」の説明をしている経典を知っていたら教えてください。(悪魔がどうやって生まれて、それがどう人間に入り込んだかあたり。)

「ワンネス」を理解したイエスキリスト

後にイエス・キリストが生まれた。イエスがしたことは「ワンネス」そのものであるが、現代に気がついている人がほとんどいない。ちょっとわかりにくいし、聖書の内容もある意味難しい。つまり「イエスが磔になり、血を流し、復活したこと」の真意が未だに広まっていない。

しかし、全世界にキリスト教が広まり誰しもがイエスの偉業を知っている。準備は整っている。そんなわけで、私はこのブログで正しい「ワンネス」への到達方法を説明をしていく。

血を流して真実を手に入れる

こちらの記事でイエスが磔になったことの意味を解説しているのでぜひ読んでほしい。「ワンネス」は「愛」と一言で表すには安易すぎるし、もっともっと深いもの。この世界の真実はそう簡単にわかるものではない。

イエスと同じくらい苦しんで、真実を手に入れよう。強く忠告しておくが、肉体の「死」を選んでも真実は手に入らない。

精神の死を目指す:輪廻からの解脱方法