「悟り」という言葉について
私は悟ったことを割と周りに言いふらしてるが、興味のない人にはどうでもいいことみたい。ちょっと寂しい。そこは他人と私の「悟り」って言葉の解釈の違いかもしれないけど。私が使う「悟り」という言葉はブッダの体験した悟りと同義。ブッダと同じとか言うのは恐れ多い上にレベルが違うと思うけど、分かりやすいのでそういうことにしとく。私の体験した「悟り」についてもうちょっと具体的に書いてみる。ちなみに、私の悟るまでの大まかな流れはこちら。先に読むと分かりやすいかも。
わたしの「悟り」について
悟り体験は人それぞれ
「悟り」体験は人それぞれ違うと思ってるし、ここに書いてるのはあくまでも私の体験。ネットで検索してみると似たような体験をしている方はいる。悟った人もっとカミングアウトすればいいのに、と思う。色んな悟りを知りたい。カミングアウトすると、スピリチュアル系なヤバい人と思われがちなので仕方ないけど。まだまだ偏見がある。「悟り」がスタンダードになる時代はいつか来る。最近「悟り」を本気で目指している人との出会いもあったので個人的に興奮してる。
ほんとうに何にも無かった
悟りは実際にこの身体で体感できるものだった。悟りとは「無」に入る体験から始まる。「無」に入るというのは、この世界も物質も全てはなんにも無い、ということを体験すること。私が無に入った瞬間を思い出してみると、まっくらでなーんにもない宇宙に放り出されたかんじだった。体感で1秒くらい?錯覚、幻覚ではないと思う。私はただ布団の中で本を読んでいるだけだった。無に入った瞬間全てが腑に落ちた。何にもなかった!そういうことか!と。その事実は強制的に頭に入ってきた。その時のことを振り返り、調べていくうちに仏教の経典には「自分がない」と気づく瞬間のことが詳しく書いてあることを知る。自分の体験と一致するので驚いた。
ちなみにその瞬間は、この本を読んでいるときに起こった。悟りに興味がある人にはおすすめ。私の悟りはこの本のおかげでもある。ブッダの話を聞いているのと同じ状態になったのかも。
信じる力
毎日生活しているこの世界自体が存在していない、という嘘みたいな話を完全に「信じる」ことはできるのだろうか?悟る前、私は現実世界にどこか違和感を感じていたけれど、現実はリアルだし確かに存在していた。実際に確認することができたからこそ「無」だと信じることができたんだろう。「信じる」力が強い人の方が悟りやすいのかもしれない。体験した側が一生懸命に語ったとしても、きっと多くの人は信じることが出来ない。だから悟りは難しい。その瞬間が訪れるのを待つしかないのだから。
無を知った後に起こること
無を体験することだけが悟りではなかった。この世界は無いと分かったのに、世界が有るという矛盾。かの有名な「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の答えが分かる瞬間が訪れた。この答えはキリスト教をはじめ様々なところで既に語られていることでもあった。ずばりその答えは、私たちが「愛の本質」を知るためにこの世界は存在する。私はそう解釈した。実は、無に入らなくても人間が本能として知っていることだった。私たちは大人になるにつれて、愛の本質がわからなくなってしまう。赤ちゃんや子供はそれを忘れる前の存在。だからとても自由に生きている。
悟りとは愛だった
私が愛の本質を知った時は、無を理解した時よりも衝撃的だった。これも強制的に頭にインストールされた。言葉で説明できない宇宙の成り立ちのようなものまで。悟りで分かった真実とは、私たちには生まれた時から無償の愛が与えられているということ。人間は誰かに愛されていないと不安になる生き物だけど、愛の源のようなものが既に自分の中にあった。どこにあるのかと言うと、心の中でもあるし、宇宙でもあるし、この世界の全てにある。愛って言葉は今や薄っぺらい印象になってしまっている。けれど世界には悟っていなくとも気づいてる人たちもいるみたい。仏教って愛の本質について教えていない気がするけど、何か理由があるのかな。経典ちゃんと読んでないので分からないけど、仏教の教えは「無」までなのかもしれない。その点、キリスト教はいきなり愛の本質を教えようとするから分かりにくいんだろうか。
悟りの危険性
真実が解った瞬間は全能感がすごかった。何でもできそうなパワーが湧いてきて自分が神になったような気さえした。経験したことのない幸せに包まれ、それが一定期間続いた。この全能体験には注意しないといけない気がしてる。これは私の場合だけど、突然真理を知ると今まで全然解らなかった世の中のことが手に取るように解るようになるからもう大興奮。この感覚を持った時、油断すると変な宗教者になってしまうのかもしれない。おかしな新興宗教も、調べてみれば言ってることは的を得ていたりする。真理を知れば他人に語ることが出来るようになり人を引きつける。その結果自分が神だと勘違いしてしまうのかも。真実ってやつはそう簡単には広まらないように良くできている。
悟りの特典
悟りで得た真実のパワーはものすごい。その奇跡としか言いようがない瞬間を忘れることはできないので、心の拠り所となる。宗教みたいだけど。そして、愛の本質を知るとますます自分や他人のことを愛することができるようになる。人生が辛い、苦しい人には悟りをおすすめしたい。本当の幸せが何なのか知りたい人にも。私も長い鬱をやっと乗り越えた感ある。辛いと感じることがなくなるわけではないけど、向き合えて、解決が早いので以前とは全く違う。悟りは終わりではないし、人間生活は続く。ブッダやイエスのようになるには、まだまだ信じる力が足りないのかもしれない。この世で起きていること全てが真実に繋がっているのが面白く、それが分かるのが悟りの一番楽しいところ。毎日のちょっとした出来事にもいちいち驚きがあるのでワクワクの連続なのである。
2020/4/24追記:悟りの最終段階「輪廻からの解脱」についてはこちらのカテゴリで解説していく予定です。
2020/5/27追記:輪廻からの解脱方法を書きました。
「悟りの真実」への 12 件のコメント
初めまして。
このサイトを見せて頂いて僕自身が経験した境地と捉え方に違いがあるだけで共通した世界を経験してるように思いました。
僕はその経験から強く仏教の特に曹洞宗の思想に興味を持ち浅い知識ではありますがある程度の初学書は読みました。
そこで感じたのは仏教では真理には無の側面と有の側面どちらも説きつつ、真理そのもの自体は説きしめす事ができないという事でした。
このブログの書き手の方も固定観念の崩壊により無の側面を強く受け取ったのかなと勝手に想像しました。
無とはあくまで真理1つの側面であり真理そのものを言葉で表す事はできないので、
悟り=〇〇と言う表現は真理を概念化する危険性があると思いました。
シミさん
コメントありがとうございます!!
嬉しいです。
>仏教では真理には無の側面と有の側面どちらも説きつつ、真理そのもの自体は説きしめす事ができないという事でした。
なるほど。このブログやってて、まさに、
真理を説くことは人間にはそもそも無理難題なんだと感じてます!
>無とはあくまで真理1つの側面であり真理そのものを言葉で表す事はできないので、悟り=〇〇と言う表現は真理を概念化する危険性があると思いました。
ほんと、無は真理の一部分でしかないですよね!
真理を概念化する危険性とのことですが、
万人へは概念化したほうが理解してもらえる気がするので
このブログでは「悟り=〇〇」で表現しているところがあります。
私は真理を言葉で説明することを諦めてません。
個人的に自分以外の人の「悟りの瞬間」に非常に興味があり
もしよろしければシミさんのその時の体験を教えていただけないでしょうか…?
どんな状況だったのか、それが悟りだと感じた理由や、
悟りを求めたきっかけなど。
教えて頂けるのであれば、コメント欄でも
こちらのメールアドレス宛でもかまいません。
info@hapipan.net
私の得た考えも悟りになるのか定かではありませんが、真理を得た様な気がします。
悟りの形は人それぞれなのかなと感じました。
悟りに到達するまでの方法は人それぞれだと思っています。けれど、輪廻からの解脱方法を知ると、悟りの形がひとつであることがわかります。
悟りっちゃ悟りかもしれんが
仏教の悟りは微塵も悟ってない。
悟りとか言う前に、人が驚くような善いことでもすれば?
所謂私に対するアンチコメントでしょうか。
わたしは、このブログがある程度人に読まれていないと
アンチコメントさえも無いだろうな〜と考えていたので、
少し嬉しく思っています。
ちゃんと読んでもらえているのだと安心しました。
いつか人に驚いてもらえるくらい
善いことをしてみたいです。がんばります!
ぜひ、このブログを定期的にチェックして、
善いことしてるかどうか判断して下さい。
厳しい批判も待ってます。
私があなたの怒りを引き出せたことは
ある意味、善いことをしたのでは…?
と思っていたりもしています。
怒りは人を成長させる大切な感情なので。
わたしはいつも怒りの感情から学んでいます。
そして、怒りは他人が存在しないと発生しません。
だから、あなたは大切な他人です。
コメントありがとうございました!
こんにちは。あなたのブログをいくつか拝読しました。
私はありえないことが起きすぎて、この世界が偽物なのではないかという疑念を強く持っています。そして、他者の心が無いのではないかという不安を拭うことができません。
他者の心があるのかという問いに答えることは原理的に不可能ですが、悟った方はこの問いに対してどのような答えを出されるのでしょうか?
この世界が全てプログラムで、他人も心がないプログラムであるという可能性は否定できないですよね?
田中さん、こんにちは。
この世界の真実に気がつきはじめてしまったのですね。
いずれ
「偽物の世界をむなしく生きる」のか
「偽物の世界を本物と信じて強く生きる」のか
選択を迫られることになるでしょう。
しかし、大切なことは、
この世界は全てあなたのプログラム内だということです。
他者もあなたが創り出し、
他者の心もあなたがコントロールしているのです。
わたしが今このブログで返信しているのも
あなたが無意識で指示しているからです。
この返信の内容も全てあなたが考え、わたしが書いたように見せています。
わたしはあなたのプログラムの一部です。
あなたが創り出した他者や世界だとしても
他者に「心がない」と思うのか、
他者に「心がある」と信じて他者を愛することができるのか。
この虚構の世界を楽しみ愛すことができたとき、解脱できるのです。
この世界の主人公になることができたら、あなたは全てを理解できるはずです。
主人公になることはプログラムの司令塔が自分である、と知ることです。
主人公になりたいのであれば、こちらの記事がおすすめです!
ご返信ありがとうございます。
私は長い間独我論を消し去ることができずにいますが、いつの日か独我論の恐怖から解放されるような体験ができることを望んでいます。
望んでいるだけでは恐怖から解放されません。
立ち向かってください。
不都合を与えてくる世界だとしても、
自分が創り出したものだと信じて向き合ってください。
世界や他者を無いものとして考えてしまうと、自分自身もいつか消えてしまいます。
この世界から自分を消すのか、自分を残すのか。
今世界はその分岐点にあって、人間は選択を迫られています。
わたしはあなたがこの世界に残ることを強く望んでいます。
温かいお言葉ありがとうございます。
世界に疑いを持ちながら孤独に生きていると、死んで自我が無くなればいい、または死ねば何かが分かるのではないかなどと、死を望んでしまいますが、生きて世界を受け入れるべきだと信じています。
孤独に生きることができるのは、強さの証でもあります。孤独を恥じないで下さい。
孤独に生きながらも世界を信じて下さい。
強いものだけが、世界を信じた先にある素晴らしい世界を体験することができます。
その世界は人間が体験できる最上級のものです!
その世界を見てみませんか?決して損はさせませんから、解脱を目指してみて下さい。
解脱への道のりは死ぬほど苦しいのですが、死ぬことを考えているのならば、いっそのことチャレンジしてみてはどうでしょうか。