“自我” の検索結果

  • 「悟り」と「解脱」はどう違うのか?実体験と複数の体験記から整理してみた

    「悟り」と「解脱」はどう違うのか?実体験と複数の体験記から整理してみた

    はじめに 「悟り」と「解脱」を区別できるか

    「悟り」と「解脱」。どちらも仏教やヨーガの文脈でよく使われる言葉だが、この二つの違いを明確に説明できる人は少ないのではないだろうか。

    わたし自身、2017年に「悟り」と呼べるような体験をしている。そこから何年も考え続けてきた中で、「悟り」と「解脱」は別のものだという感覚を持つようになった。この記事では、複数の体験記と仏教・ヨーガの概念を参照しながら、両者の違いをわたしなりに整理してみたい。

    先に結論を書いておく。

    • 「悟り」:自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつく体験。ただし、苦しみを生む現実世界の構造そのものを理解したわけではない
    • 「解脱」:自分の中の「罪悪感」を消し去ることで、繰り返す思考パターン(輪廻)から抜け出すこと

    これはわたしの中での定義であり、仏教やヨーガの伝統的な定義とは少し違う部分がある。以下、なぜこう考えるに至ったかを書いていく。

    「悟り」とはどんな体験か

    自分から抜け出して自分を観察する体験

    わたしの体験だけでは偏るので、ネット上で見つけた他の方の体験記も参照しながら考えてみたい。

    ある方は、買い物帰りに突然「自分の身体から出た」という体験をしている。

    身体は私のすぐ前に、後頭部と髪の毛が、鼻先にあたるくらいの距離感で、
    私の前にぶら下がってる感じだった。

    (中略)

    それは全部、<自動的>に起こっている。
    誰が起こしてるんでもない。
    動きも、思考も、感覚も感情も。
    やってきてる。(肉体のそばを通過していく)

    ベルのしずく2

    自分の行動も思考も「自動的に起きているだけ」だと気づく。苦しんでいる自分を外から見ている自分がいる、という二重の視点が生まれる体験だ。この方は体験後「悟りたいと思わなくなった」と書いているが、それ自体が一種の「悟り」ではないか、とわたしは思う。

    「わたしはいない」と知る体験

    禅の修行をした僧侶の方は、さらに深い体験を記録している。

    坐禅に入ろうとしたその刹那、身体が世界に溶け、全て丸ごと消え失せる。

    只驚く。世界もこの身体も何も無い。
    「無い」も無い。無の根源。意識だけが鮮明。

    (中略)

    はっと我に返ったとき、自分がいない。拍子抜けする。自分を見ていた「人」がいない。周りを見ても、どこにもカタマリがない。自分も世界も縁そのもの、ただ一つ。思いは思いのまま、意が意を扱おうとしない。坐る、立って歩く、手を動かす。それで終わっている。何も「自分」の知るところではない。全存在がすでに満ち足りている。何も求めようがない。

    ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落

    「わたしはいない」という体験は多くの悟り体験記に共通して現れる。興味深いのは、「わたしはいない」のに「意識だけが鮮明」だという点。世界も身体も消えたのに、何かが認識し続けている。

    わたし自身の体験 内側の「無」を見た

    わたしの場合は、ベッドで本を読んでいる最中に突然それは起きた。

    真っ暗い宇宙のような空間が見えた。外側の宇宙かと思ったが、それは自分の内側だった。呼吸を観察していると、息を吸った瞬間(心が止まる瞬間)に「何もない」と感じ、息を吐くと世界が現れることがわかった。

    「有る」と「無い」が交互に繰り返される。その体験を通して、「無」という存在を初めて知った。それまで「有る」だけが連続していると思っていた世界を、少し距離を置いて見られるようになった。この体験の詳細は悟りレベル よるかに書いている。

    「悟り」で何が変わるのか 2つのパターン

    複数の体験記を見ていくと、悟り体験には大まかに2つのパターンがあることに気づく。

    1. 自分と世界が分離する悟り

    自分と、苦悩を生む世界とが切り離される。「苦しみ」は自分と世界がつながっているから生まれるが、分離することでその繋がりが薄れ、悩みや心配ごとが消えていく。

    2. 自分と世界が一体化する悟り

    世界全体と自分が溶け合い、全てを肯定できる状態になる。善も悪も区別なく受け入れられる。先に引用した僧侶の方の体験がこれに近い。

    方向は正反対に見えるが、どちらも「苦しみを感じている自我(わたし)」が薄くなるという点では同じ結果に至る。分離であれ一体化であれ、世界への認識が根本的に変わることが「悟り」の核心なのだろう。

    「悟り」の先にあるもの 「解脱」への問い

    「悟り」で苦しみに終止符が打たれるかというと、わたしの場合はそうならなかった。

    「わたしはいない」という体験をしたのに、身体は消えなかった。「無」を観察したのに、「無」を感じている「わたし」がいた。悟り体験に執着してはいけないと言われるが、わたしはその矛盾に引っかかり、さらに深く考え続けた。

    その先に「解脱」という問いが現れた。

    ヨーガの「真我独存」という概念

    「解脱」を考えるうえで参考になるのが、ヨーガでいう「真我独存(しんがどくそん)」だ。

    本来、真我は、純粋な認識主体であって、思考・感情・意志・欲求などの心理的な要素は一切含まない。

    (中略)

    ところが、ヨーガの根本経典(ヨーガ・スートラ)によれば、普通の人の場合は、真我が、心を自分自身と混同・錯覚しているとする。

    (中略)

    しかし、映画の観客が、映画の主人公に熱中して、主人公と精神的に一体化すると、映画の主人公の苦しみを、そのまま自分の苦しみのように感じるのと同じように、真我は、心と同化して心の苦しみを感じているのである。

    ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    「真我」とは、心とは別の「純粋な認識する主体」。普通の人間は心を自分だと思い込んでいるが、心はあくまで認識の対象であって、映画を見ている観客(真我)が主人公(心)に感情移入しているようなものだという。

    ヨーガでは、この真我が心から独立すること(真我独存)が「解脱(モークシャ)」だとされている。これはわたしのブログでの「悟り」の定義に近い。心の止滅による苦しみの消失。

    では「解脱」はどこにあるのか。わたしはその先にあると考えている。

    わたしの考える「解脱」 罪悪感を消すこと

    ヨーガは「心と自分を引き離せば苦しみは消える」という結論を示している。それ自体は納得できる。だが、どうやって引き離すのかについて、ヨーガは「心の止滅」としか言わない。

    人間はそう簡単に心と自分を切り離せない。「悟り」は一時的にそれを体験させてくれるが、日常に戻ればまた心と自分はくっつく。同じ苦しみが戻ってくる。では何が自分を同じ場所に引き戻しているのか?わたしはそれが「罪悪感」だと考えている。

    わたしが考える「解脱」の核心は、「罪悪感を消すこと」にある。

    人間はなぜ苦しむのか。その根底には「善か悪かを判断している自分」がいる。ある事象を「悪い」と感じるとき、そこには「自分の罪」という意識がある。それが罪悪感であり、苦しみの根源だとわたしは考えている。

    「悟り」は、苦しみの根源を「心(自我)」と理解し、心をリセットすることで苦しみを一時的に消す。だが心をリセットしても、善悪の判断基準そのものは変わっていない。だから、また同じパターンで苦しみが戻ってくる可能性がある。

    「解脱」は、なぜ自分がその事象を「悪」と判断しているのかに向き合い、その判断の根っこにある罪悪感を消すこと。繰り返す思考パターン(輪廻)そのものの構造を理解して、そこから抜け出すこと。

    「悟り」が思考のリセットだとすれば、「解脱」は思考の構造変化だ。

    この定義は仏教やヨーガの伝統的な用語法とは異なる。仏教の「悟り(菩提)」は苦しみの完全な消滅を指すことが多いし、「罪悪感」という概念はどちらかといえば西洋的なものだ。それでも、わたしの体験と思考を整理した結果、この区別が最もしっくりきている。

    「真我」をどう扱うか 危険と可能性

    「解脱」を考えるなら、「真我(本当の自分)」の問題を避けて通れない。

    ヨーガでは自我(個)の奥に真我がある。真我は個を超えた「全」であり、全ての意識を包含するもの。「ワンネス」や「全ては一つ」と表現されることもある。

    だがこの概念には危険がある。上祐氏はオウム真理教の教訓として、こう指摘している。

    (※「真我」について:なお、ひかりの輪では、自分自身の中に永久不変な「真我」があるとする説を絶対視したオウムの教訓として、真我を認めるヨーガの修行では、場合によっては自我意識が肥大化し自己を神であると考える意識状態(いわゆる魔境)に入る恐れがあることを指摘し、伝統仏教にならい自己を特別視しない無我説を重視している)

    ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    「宇宙にたったひとつの意識=真我」を「わたしのもの」と感じてしまうと、自分が神であるという錯覚に陥る。オウムの麻原はその状態からサリン事件を起こした。

    わたしの悟り体験では、多くの体験記にある「わたしはいない」とは逆のことが起きた。「わたし」がとても大きく存在していた。宇宙のような空間の中心に、認識している「わたし」が確かにいた。

    真我とは純粋な認識主体だとヨーガは言う。だが、認識する主体から「わたし」という感覚を引き剥がすことは、人間である限りできないのではないかとわたしは思っている。認識があるかぎり、「認識しているのはわたしだ」という感覚がついてくる。正直に書くと、わたし自身も「宇宙の中心はわたしだ」と感じたことがある。そしてこの感覚は、上祐氏が批判している構造と本質的に同じだと自覚している。自覚があるから安全だとは言い切れない。だからこそ、「悟り体験に執着してはいけない」という教えには重みがある。

    真我が自我の集合体だとするなら、全ての人間を「自分」として受け入れなければならない。大嫌いな人も、凶悪な犯罪者も含めて。これは「全ては一つ」という美しい言葉の裏にある、非常に難しい現実だ。

    「悟り」も「解脱」も理論構成である

    最後に、ひとつ面白い体験記を紹介したい。悟り体験の最中に「言葉が視覚化した」という方の話だ。

    視覚化された言葉のうち、いくつかの文章としてまとまりを持ったものは、連なって円を描きました。

    (中略)

     結論が下されて回転を止めた言葉の輪は、Φの記号のような形をしていました。

    視覚化された言葉の繋がりの輪と空集合のΦの話

    言葉が円を描いて回転し、結論が降りてきて輪を止める。止まった形が空集合(Φ)だった——論理構成を失敗したのだ、とこの方は悔しがっている。

    この体験記を読んで、わたしは「悟りとは結論を下すことだ」と思った。

    「悟り」も「解脱」も、ある種の理論構成だとわたしは考えている。「苦しみ」に対して自分なりのロジックを組み立て、それが完成したとき、体験として「悟り」が起きる。ロジックが不完全なら、また同じ問いが巡ってくる。それが「輪廻」の正体かもしれない。

    まとめ 「悟り」と「解脱」の違い

    整理すると、わたしの考える両者の違いはこうなる。

    悟り解脱
    何が起きるか苦しみの根源が「心(自我)」だと理解する善悪の判断の根っこにある罪悪感を消す
    結果心をリセットし、苦しみが一時的に消える繰り返す思考パターン(輪廻)から抜け出す
    持続性また同じパターンで戻る可能性がある構造そのものが変わる
    ヨーガでの対応概念真我独存(心の止滅)モークシャ(輪廻転生からの解脱)

    ※ヨーガでは真我独存とモークシャは本来同じもの、あるいは連続した過程として扱われる。ここでは「心の止滅」と「輪廻からの解脱」という側面を分けて、わたしの定義と対応させた。

    「悟り」は苦しみを一時的に終わらせるリセット。「解脱」は繰り返す構造そのものを理解して抜け出すこと。「悟り」を経て「解脱」に向かう場合もあれば、「悟り」で十分に生きていける人もいる。どちらが上ということではなく、構造が違う。

    これが唯一の正解ではない。「悟り」や「解脱」の体験は人それぞれで、ここに書いたのはあくまでわたし自身の体験と思考から導いたものである。

  • 2ch「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの解説をしてみる その1

    2ch「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの解説をしてみる その1

    2ちゃんねるのオカルト板の中でも有名な「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレ。2014年に書き込まれたものであるが「予言らしきもの」として話題になった。今もこのスレについて考えている人は多いのかもしれない。

    1: 本当にあった怖い名無し 2014/07/19(土) 23:57:26.06 ID:j9wpobb55
    信じるならば聞くべきだ。しかし確定した事項ではない、過信はするな。
    
    近いうちに未来分岐が起こる。
    今回の分岐は大きいものとなるだろう。
    このルートの人間はパラレルワールドを感じたことはあるか?
    分岐とは非常に高い頻度で起こっている。

    こんな書き出しから始まったスレであるけれど、2014年時点で「未来の大きな分岐」を予言(推測)している。この書き込みをした人は自分のことを「推測者」であると言う。

    ところで、わたしがこの記事を書こうと思ったきっかけは、わたしが知っている「パラレルワールド」と同じものを見ているのが、このスレの「推測者」さんであったから。わたしの考える「パラレルワールド論」を補強できるようなスレであるので、解説してみようかな、と思った次第。

    「推測者」さんは「パラレルワールド」がどんなものか理解した上で、2chのオカルト板であることを考慮し読者の興味をひくように「パラレルワールドの真実」を書き込んでいるようだ。このスレに注目を集めることで「推測者」さんの意図するものに目を向けさせようとしている。それは「よーさん予言スレ」でよーさんがしていることと同じように思える。

    このスレ内容は「不思議.net」さんの記事にわかりやすくまとまっている。知らない人は先に読んでおくといいかも。コメント欄も興味深いのでおすすめです。

    4つの分岐と分岐の時期について

    これから起きる大きな分岐の予言

    3: 本当にあった怖い名無し 2014/07/20(日) 00:05:05.72 ID:GtY+YQMyC
    これは大きな分岐の予兆となる。
    分岐の多くは人為的に、稀に自然により引き起こされるが、今回の分岐は確実に人為的だ。
    しかし分岐とは必ずしも決断ではないことをまず理解しておいてほしい。

    まずはスレ内容を追いながら分岐の内容について確認していきたい。この分岐については『確実に人為的』、尚且つ『分岐とは必ずしも決断ではない』と言う「推測者」さん。

    分岐点は不定期ながらに存在し、それらを回避することは実質的にできない。回避は壊滅を意味し、選択権の剥奪となるためだ。分岐点から分かれるルートの数は不確定だが、今回与えられたルートの数はおおまかに4つほどだ。
    
    1、ほぼ変化のみられない、回避に限りなく近いルート。
    
    2、世界は変化する。それはもはや人類の知る世界ではないが、滅亡へのルートからは限りなく離れられるだろう。
    
    3、世界のバランスが崩壊し、2とは違う変化を起こす。もはや概念は全て無意味となる。
    
    4、これについては少し説明が要るので、聞きたい者がいれば簡単に答えよう。しかし詳細は話せない

    このように分岐は4つあるという。一旦分かりやすいようにまとめておく。

    1のルート:ほぼ変化はみられず、回避に限りなく近い。
    2のルート:世界は変化し、滅亡から限りなく離れる。
    3のルート:世界のバランスは崩壊、概念は無意味になる。
    4のルート:後ほど説明。

    「ある者」は2つの選択肢に気が付く

    今回の分岐における鍵となるのはある者のたった一つの決断だ。しかしそれらは1の分岐とは全く関係がない。1の分岐は限りなく自然に近い人為的な分岐だからだ。ある者は2つの選択肢を与えられる。内容は、簡単にいえば「イェス」か「ノー」。イェスは2へ、ノーは3へ繋がる。
    しかし1のルートのみ例外だ。このルートは、そもそも選択肢が無かった場合のルートだ。人の関与する余地はほぼ無い。

    これら書き込みからわかること。まずは「ある者」のたった一つの決断によって、これら分岐のどれかに決定されるとのこと。

    「ある者」が2つの選択肢を与えられた場合のみ「2のルート」か「3のルート」を選べる。「1のルート」は「ある者」が選択肢があることに気がつかない場合であろう。

    4のルートについて

    4は1、2、3との関連性が皆無なルートだ。
    
    4に入る際にも選択肢は存在する。よって、本来ならば5、6とルートが増えるはずだが、しかし、イェス、ノー等のどの選択肢を選んでも、結果が変わらないため実質は1つのルートとなる。
    
    これを自然による分岐とみるか、人為的な分岐とみるかは五分五分といったところだが。
    
    このルートは人類の殆どにとって最悪のルートになるだろう。しかし回避する術はない。ルートへの要素が発生した瞬間に、このルートに入ることは確定する。つまり運が悪ければ4に入る、という認識で構わない。大災害や不治の病、に近い大規模な障害による壊滅や絶滅という結末を迎えるのがこのルートだ。

    4のルートに入るのにも選択をする必要がある。そうなると選択ごとにルートが増えそうであるけれど、そうでは無いらしい。5、6とルートが増えたとしても結果は変わらない為、このルートは一つとしてまとめられる。

    4のルートは大災害、不治の病、絶滅などが回避できない最悪のルート。このルートに入るのは「自然的」と「人為的」の五分五分らしい。

    分岐はいつ起きるのか

    >未来分岐が近いうちに起こるとのことですが、それは具体的にいつ?
    
    細かい日時などはルートによって微妙に異なるのでどうとも言えないが、東京オリンピックが開催される前に分岐は起こる。逆に、年号が変わるまで分岐は起こらない。全てのルートに共通してるのは以上の2点。
    
    付け加えると、分岐点は、短い時間のうちに多数の変化の可能性が発生したもので、原因は同じであっても分岐するタイミングにはズレが生じる。また、今回における4のルートのように、他のルートとの関連性が全くないものも珍しくはない。

    こちらは分岐がいつ起こるのか、という質問に対しての返答。なんと、年号が変わってから東京オリンピックが開催されるまでに分岐が起こると明言している。

    2019年4月30日までが平成だった。そして2021年7月23日からオリンピックが始まっている。ということは、2019年5月1日から2021年7月22日までの間に「ある者」の決断が行われたのだろうか。

    あと、みんなが質問せずに流しているけど個人的に気になったところ。
    
    >東京オリンピックが開催される前に分岐は起こる。
    >逆に、年号が変わるまで分岐は起こらない。
    
    東京オリンピックが開催されるのは2020年。それまでに平成の年号が変わる? 天皇陛下が無くなられるのか?
    2020年までに天皇が無くなって年号が変わるってかなりすごい情報じゃないか?

    こちらはスレに居た人の書き込みである。この人の言う通り、2014年時点でオリンピック前に改元されることを知っているかのような「推測者」さん。そしてこのコメントへの返答がこちら。

    >それまでに平成の年号が変わる? 天皇陛下が無くなられるのか?
    
    どうだろう。もしかしたら別の理由(法的な)かもしれない。
    ……という風に、断定するわけにはいかず、ある程度はぼかさなければいけない。私はヒントを与えた。それだけなのだ。後に誰かが答えに辿り着こうと、(冷たく、切り離したような言い方になってしまうが)知ったことではない。
    
    それで運命が変わるのなら、それは私が直接的な何かを教えなくても未来が変化した、ということになり、偶然から必然となる。もしそうなれば、また新たなパターンとしてデータは追加される。

    上皇陛下が退位の希望を国民に発表されたのが2016年であった。となると、やはり予言のように思える。さらには、新型コロナウィルス騒動は2019年12月初旬から始まっている。分岐が起きるであろう期間にこの大きな出来事が起きているのは気になるところ。

    そして現在は2023年なので、既に分岐が起きているはずだ。果たしてどの分岐に進んでいるのだろう。次の章では分岐を決める「ある者」について考えていきたい。

    1のルート:ほぼ変化はみられず、回避に限りなく近い(ある者は選択肢に気がつかない)
    2のルート:世界は変化し、滅亡から限りなく離れる(ある者は選択肢に気がつく)
    3のルート:世界のバランスは崩壊、概念は無意味になる(ある者は選択肢に気がつく)
    4のルート:大災害、不治の病など、世界の壊滅(自然的か人為的)

    分岐の鍵となる「ある者」について

    権力者や指導者

    >分岐における鍵となる「ある者」とはどのような存在?
    
    分岐に影響を及ぼすのは国の権力者や指導者などが主で、今回もそれは変わらない。ただし、その存在が日本における権力者または指導者とは限らない。が、具体的に誰とは言えない。それは私のような推測者が、決してやってはいけないタブーだ。

    「ある者」についての質問への返答である。決断をする「ある者」は国の権力者や指導者などが主であるという。

    もう1つ質問させてください。分岐のカギになるのは国の権力者・指導者の決断とのことだけど、それはどのような決断?
    
    戦争や外交といった国際関係に関する決断なのか、温暖化、人口問題、資源など地球環境に関する決断なのか?それとも、異世界・異星人・真実の歴史などの隠された情報の開示に関することか?
    
    分岐に影響を与える者が科学者ではなく国家の為政者ということは、革新的な技術や理論、つまりテクノロジーによって未来に大きな変化が起こるわけではなく、その変化は政治によりもたらされる、という解釈で合っていますか?

    「ある者」の決断とはどんなものなのか?という質問に対しての返答が以下である。

    決断の多くは、1番目の「戦争や外交」に関するものが多い(全てではないが)。おおかた予想がついているとは思うが、やはり戦争の勃発などは分岐の代表例ともいえる。
    
    しかし、かといってテクノロジーの進化などが分岐に関係ないというわけでもない。確かに分岐の原因として世紀の大発明があったりはする。が、それをどう利用するかによってやはり分岐は発生する。例えばある科学者が永久機関を開発したとして、それの利用方法を決断するのはやはりその国のトップだろう。
    
    その国のみの利用で留めるか?それとも他の国にも技術を販売、または譲り渡すか?答えは「イェス」か「ノー」、そして長い時間を経てうやむやにする「タイムオーバー」。このような分岐も存在する。

    決断のきっかけの多くは「戦争や外交」に関するものが多い、とのこと。そしてテクノロジーの進化なども少なからず分岐に関係しているし、そのテクノロジーをどう利用するかによっても分岐が発生するという。

    >決断の内容は国際関係、地球環境、情報の開示のどれが一番近いですか?
    
    その中では、やはり国際関係の決断ということになるだろう。(4は例外的で間違いなく地球環境だが)

    そして決断の内容としては「国際関係」とのこと。一方で4のルートに行くための決断内容は「地球環境」に関すること。

    「ある者」とは誰なのか

    ここまでまとめてみると「ある者」は国の権力者や指導者。分岐への決断のきっかけは「戦争や外交」であり、その決断内容は「国際関係」であるとのこと。

    「推測者」さんのこのような書き込みから「ある者」について、現在の世界の状況と照らし合わせながら考察している人もいるかもしれない。

    2022年2月からロシアとウクライナの戦争が始まり、世界の状況にも動きがある。「ある者」が何かを決断したことが原因かもしれない。

    けれど、この記事では現実で起きている戦争とか政治とか国際情勢とかには一切触れない。それらは「ある者」や「パラレルワールドの真実」を知るためには本質的には関係の無いこと。「推測者」さんもそのことを理解しているはずだ。

    けれど国の権力者や指導者である「ある者」が「パラレルワールド」の選択を行なっているのは確かである。

    推測者と観察者について

    「ある者」が誰なのか、そして「パラレルワールド」の真実を知るためにも「推測者」と「観測者」の違いについて理解することが重要である。ひとまずスレの中から「推測者」と「観測者」について書かれているところを以下に抜粋してみる。

    >「推測者」って聞きなれない言葉だけど、未来を予測する人って意味かな?
    
    予測よりはある程度データが集まっている状態なので、推測という言葉を用いた。意味合いとしてはその考えでおそらく問題ない。
    
    観測者との違いは、推測者はあくまでルートの推測をするだけ。観測者は、ルートが変化したか、またはいつ変化したか、を断定する役割を持っている。(ルートが変化「した」というのは過去の出来事であるため、彼らには「断定」ができる)
    
    推測者でもそれは出来ない事も無いが、変化した、という断定と変化に至るまでの情報収集を同時にこなすのは、(趣味としては)ハードすぎる。
    まず、私に時を越える能力だったり、情報を時を越えて届けるといった物は持っていない。しかし、能力といえるのかは別として、別ルートの自分と精神を入れ替えることができる、というだけだ。「どういう状況で」「何が起こったから」そのルートになったのかという情報を、あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を基に予測をしているだけだ。
    
    例えば、経済破綻の起こったルートの自分に対して、原因、状況、何が起こったのか、と大まかなことを聞き、それはこちらのルートでも起こる「かもしれない」ということになる。この「かもしれない」が偶然集結したものを分岐点となる。
    
    余談になるが、別ルートの自分との情報交換の方法は、何か紙などに質問を書き、しばらくしたらまた入れ替わって確認、答えが書いてあれば暗記して元のルートに戻り、パターンとして書き残す、という方法を多く用いている(少々面倒ではあるが)。

    推測者は推測する

    これら書き込みからわかる「推測者」についてまとめる。「推測者」はあくまでルートの推測をするだけ。その方法は『別ルートの自分と精神を入れ替える』というやり方。

    あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を元に推測する。その情報については紙などに質問を書き、しばらくしたらまた入れ替わって答えを確認、パターンとして書き記す。その能力について、装置などは使っていないという。

    観測者は断定する

    同じく、書き込みからわかる「観測者」についてのまとめ。「観測者」はルートが変化したか、またはいつ変化したか、を断定できる。ルートが変化「した」というのは過去の出来事であるため、彼らには「断定」ができる。『観測者にとってはルート変更が過去の出来事であること』は重要ポイントである。

    パラレルワールドの真実

    パラレルワールドの基本情報

    ここからは少し「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの内容から離れて、わたしの知る「パラレルワールドの真実」についてお伝えしていきたい。

    ところで、この記事を読む皆さんは「パラレルワールド」をどのように捉えているだろうか?「パラレルワールド」は「並行世界」とも言う。わたしたちは「パラレルワールド」についてこんな考え方を持っているのではないだろうか。自分の(誰かの)選択の数だけ世界が存在する。

    例えばある一本の道を歩いていたとして、道の分岐に出くわす。ここで「右の道へ行く自分」と「左の道に行く自分」という分岐が起きる。その時点で二つの並行世界が生まれることになる。

    パラレルワールドというオカルト

    このブログは「オカルトブログ」なのであるから、今回の「パラレルワールド」のはなしはオカルトとして読んでもらってもかまわない。

    けれど本当に、選択の数だけ「パラレルワールド(並行世界)」は存在するかもしれない。それは量子力学でいう「多世界解釈」というもの。「解釈」というのだからまだ決着がついていないし、つくかもわからないようなことだけれど。

    コペンハーゲン解釈に用いられた人為的な仮定を排除し、量子力学の基礎方程式の帰結をすべて素直に受け入れる。これが多世界解釈の本質だ。しかしその結果、我々の住む唯一の宇宙のなかで、ある現象が偶然起こるのではなく、すべての可能性は異なる宇宙のどれかで必ず実現していることを認めざるを得なくなる。
     有名なシュレーディンガーの猫の例で言えば、箱を開けた瞬間に猫が生死いずれかの状態に収縮するのではなく、我々が生きた猫と死んだ猫の存在するどちらの宇宙にいるのかを知るだけだ(しばしば宇宙が分岐したと呼ばれる)。

    「量子力学の奥深くに隠されているもの」 異なる宇宙ですべてが実現する 朝日新聞書評から

    パラレルワールド図解

    8つのルートがある宇宙

    ということで、わたしが知っている「パラレルワールドの全貌」を簡単な図にしてみたのでまずはご覧下さい。

    parallel-world8

    この図は簡易的なものであり、「8つのルート」が並行に描かれている宇宙の図になっている。8本のよこ線がそれぞれのルートである。この図は「観測者」から見たパラレルワールドで、「観測者」の8つの可能性が描かれている。「観測者」について多くは語られていないが、パラレルワールドにおいては「観測者」が最重要人物なのだ。

    順を追って、この図の意味するところを簡単に解説していく。

    左右の時間軸(西から東)

    この図の左から右に時間が進んでいる。私たちが通常体験している時間の流れである。この時間軸は「現実世界の時間」で、過去と未来を西と東で表現している。時間は東へ一方向に流れていて、いつかは「死」がある。どのルートでもこの法則は適用される。

    上下の時間軸(南と北)

    この図には上下の時間の流れもある。この時間軸は「精神世界の時間」で、過去と未来を南と北で表現している。私たちは「過去」のことを思い出したり、「未来」のことを予想したりすることがあるが、これも時間軸の移動になる。

    想像は自由だから、過去と未来を往来することができるので一方向ではない。どのルートでもこの法則は適用される。

    赤い線は観測者の視点

    この図には「観測者の8つのルート」が描かれているが、『赤い点は中心視点』である。8つのルートはどれも「観測者の可能性」なのだけれど、その「可能性」の中から一つだけを選ぶ必要がある。あるひとつのルート上にいる限り、その他の可能性を同時に体験することはできないということを表している。

    赤い点は「観測者」がある一つのルートを生きている「地点・時間」ということになる。左端の赤いたて線はその「観測者が誕生した瞬間」。そこから赤いよこ線を右に進んでいくと、右端の赤いたて線である「観測者が死亡する瞬間」に終着する。

    青い線は観測者であり推測者

    この図は『観測者の8つのルート』であると述べているから、赤い線と同じように青い線も「観測者の可能性」である。赤いよこ線のルートを生きる観測者にとって、青い7本のよこ線は別の可能性となる。

    観測者の別可能性である7つのルートは「観測者視点」でなかった場合のルートで、それは「推測者」のルートである。

    パラレルワールドひとまずのまとめ

    パラレルワールドには左右の時間軸があり、上下の時間軸がある。そして、1本の赤いよこ線が「中心となる観測者ルート」。7本の青いよこ線は「推測者ルート」であり『観測者の別可能性のルート』である。「推測者」は「観測者」の別ルートとして存在している。つまりスレ主である「推測者」さん自身も『観測者の別ルートを生きている』ということになる。

    パラレルワールドの真実

    さらに「パラレルワールド」の核心に迫ってゆきたい。実は、観測者の全ての可能性は、既に目に見えるものとして現れている。『観測者の別の7つのルート』は、単なる可能性ではなく「観測者」の目の前に「現実」として現れているのである。

    現在わたしたちの世界人口は約80億人(2023年時点)であるらしいが、「観測者1人」と観測者の他の可能性である「推測者たち」を足したものが世界の総人口になる。パラレルワールドの図は簡易的なものなので、世界人口が8人で表されているということになる。

    「観測者」と、観測者の可能性である「推測者たち」が同時に存在しているのがこの世界(宇宙)。今現在わたしたちの世界を生きている人々の中に「観測者」がたった1人だけ存在していることになる。

    ある者=観測者

    今生きている人の殆どが「観測者」が生まれた時に現れ、「観測者」が死ぬ時に消えてしまう存在であると言える。つまりこの宇宙(地球)は、赤いよこ線で表される「観測者」の人生の中のようなもの。

    そして、この世界にたった1人だけ存在する「観測者」は、スレ主さんが言う「ある者」のことを指す。「観測者」は普通の人間として、どこかで生きている。

    あらゆるルートの「自分」

    ところで、スレ主である「推測者さん」はルートの推測をするために、別ルートの自分と精神を入れ替えデータを収集していた。『あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を基に予測をしているだけだ。』と言うように、スレ主さんは様々な「別の可能性」とコンタクトをとっている。

    スレ主さんの言う「あらゆるルートの自分」は「観測者の別の可能性」のことである。先ほど述べたように、私たちのほとんどが「観測者の別の可能性」を生きている。そして、スレ主さんは「別の可能性」を「自分」だと思っている。

    ということは「観測者の可能性」である全てのルートは「自分」なのである。もちろん「観測者」も可能性のひとつであるのだから「自分」である。この世界に存在する人間全てが「自分」ということになる。

    「自分」について考える

    自分という視点

    この世界に存在する人間全てが「自分」であるということを理解する為に、「自分という視点」について考えてみたい。話が次々と飛ぶようであるけれど、これは「パラレルワールド」を理解するのに一番大事なこと。

    人間が「わたし」や「ぼく」という「自分の視点」を持っていることは、当たり前のようですごいこと。決して「他者」の目線から世界を見ることはできない。

    人間であれば誰もが持っている「自分という視点」。みんながみんな「自分」である。「自分という視点」が沢山存在しているのがこの世界。けれど人間には「自我」があるから、「自分」と「他者」という区別をする。

    「他者」もまた「自分という視点」を持つものなのに、「自分という視点」から見ると「他者」に見える。おかしなことを言っているようだが。

    自分と他者

    これは、とてもややこしい話である。分かり易くする為に、自分(わたし)を「Aさん」・他者(あなた)を「Bさん」としておく。「自分(Aさん)」から見ると自分では無い者は「他者(Bさん)」である。けれど「他者(Bさん)」は自分自身のことを「自分(Aさん)」と言う。

    Cさんでも、Dさんでも、Eさんであっても、彼らは自分自身のことを「自分(Aさん)」と言うだろう。人間が「自分(Aさん)」という視点から外れることは無いということ。当たり前の事を言っているようだけれど。

    世間には、幽体離脱・体外離脱と呼ばれる不思議な体験をする人がいる。自分の肉体から抜け出してしまうのだから「自分」から外れてしまうような体験に思われるが、結局は「自分視点」で動き回ることになる。やはり「自分という視点」からは抜け出せないということ。

    神の正体について

    唐突ではあるが、ちょっと「神」について考えたい。人間は『神とは何か?』という問いに向き合い、考え続けてきたが、その答えは多様である。

    神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。

    Wikipedia(神)

    以下はWikipediaから引用した、人間が考えてきた「神という存在」についての結論一覧。第一原因、様々な物事に宿るもの、恩恵を与えるもの…などなど。

    • 創造主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
    • アニミズム(汎霊説)における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
    • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は信仰、犠牲、祈りなどに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
    • 人格神。神が人と同じような人格(や姿)を持つとする考え方。
    • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばスピノザはこのような考え方を採った[要出典]ことで知られている。汎神論。
    Wikipedia(神)

    このように「神」については多様な意見があるけれど、わたしが辿り着いた「神」という存在の答えがある。「神」とは単に「自分という視点」であるということ。「自分という視点」は第一原因であるし、様々な物事に宿るものであるし、恩恵を与えるものでもある。

    『神は全知全能』と言われることがあるが、この世界に存在する『自分という視点の全て』こそが「神」だから、そのように言われる。「自分という視点」を「ひとつ」にまとめるならば、「自分という視点を持つ者」全ての能力を持つことになる。

    あらゆる自分が集合するパラレルワールド

    「自分という視点」について少しは伝わっただろうか。当たり前のことすぎて「自分という視点」について考えることはあまりないのかもしれない。さて、ここまでの考察からわかる「パラレルワールド」とは?

    パラレルワールド論で語られる『別の世界線』や『別の可能性』というのは、単に「他者の人生」ということになるし、それは「自分」である。親、子供、友人、先生、同僚…。自分が認識できる全ての人間が「別ルートの自分」であり、「自分が選ばなかった可能性」を生きているのが「他者」なのである。

    ひとつの宇宙にひとりの人間

    『別ルートの自分』『別の世界線』という言葉を使うと、あたかも遠い遠い別宇宙の話のように思えるが、実はそれも間違いでは無い。「他者」はまったくの別宇宙に存在している。同じ空間に居るようで、実際は同じ空間には居ないのである。

    「ひとつの自分視点(ひとりの人間)」は、ひとつの宇宙の主(あるじ)である。ひとつの宇宙には1人しか存在できない。わかり易く言えば、たった1人で宇宙に存在しながら、VRゴーグルをつけて地球を体験するゲームをプレイしている、という感じ。同じ空間(地球)に沢山の人間が居るように見えているだけ。

    つまり現実ですぐ隣に誰かが居たとしても、その人はまた別の宇宙にいる。これは比喩や例え話では無い。「自分」がそれぞれ別宇宙に存在しながらも「あらゆる自分視点」がひとつの宇宙に集まっているのを感じているのが私たち人間なのだ。

    地球にしか無い自分視点

    根拠は示さないのだけれど「自分視点を持つ者」が住めるのは「地球」だけである。この前提は絶対であるから「違う宇宙」に生まれても「地球」に存在することになる。宇宙の数だけ「地球」が存在している。

    どの宇宙に生まれても「地球」という場所で「他者」を感じる。けれどその「他者」は別宇宙の「地球」に居る。

    唯一無二の存在

    「ひとつの自分視点(ひとりの人間)」が生まれると姿形・性格もひとつに決まる。その情報は遺伝子に書き込まれている。「ひとつの自分視点」においては、遺伝子と同じように人生がどうなるかも決まっている。

    同じ遺伝子を持った人間が別世界で全く別の人生を歩む、ということは無いのである。言い換えれば、別の人生を歩む時、遺伝子(姿形や性格)は変化してしまうということ。ひとりの人間(ひとつの自分視点)は唯一無二の存在である。

    一卵性双生児は遺伝情報が100%同じと言われているが、最近の研究では100%同じとまでも言えないような結果が出てきているようだ。

    しかしながら、近年、一卵性双生児の間で異なる遺伝情報があることが明らかになってきた。
    米アラバマ大学の研究チームは、2008年2月に発表した研究論文で、「一卵性双生児のゲノムは同一ではない」ことを示した。
    アイスランドのバイオ医薬品会社デコード・ジェネティックスの研究チームが一卵性双生児381組とその親、配偶者、子を対象に遺伝情報を解析した研究でも、これを裏付ける結果が出ている。
    研究チームは、2021年1月7日、遺伝学専門学術雑誌「ネイチャージェネティックス」で「初期発生段階で発現した平均5.2個の突然変異により、一卵性双生児は異なる遺伝情報を持つ」との研究論文を発表した。

    Newsweek 「一卵性双生児の遺伝情報は同一ではない」ことが明らかになってきた

    輪廻転生とパラレルワールドの関係

    自分視点で考える輪廻転生

    自分視点=認識

    パラレルワールドについて、さらに理解を深める為に「輪廻転生」という概念についても説明してゆきたい。『何度も生まれ変わる』のが「輪廻転生」であるが、wikipediaに載っていた輪廻転生についての説明を読んでみる。

    仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。

    Wikipedia 輪廻

    仏教における「輪廻」は『認識というはたらきの移転』であるという。「認識」は「自分」があるから行われるもの。「自分」という主体があるからこそ世界を認識できる。「認識=自分という視点」として良い。

    『輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。』とも書かれているように「自分視点(認識)」は常に移り変わるエネルギーのようなものであるから、それを主体(霊魂)とは呼ばないのが仏教の教えである。

    固定された自分視点

    生まれ変わりというと、魂が肉体に乗り移るというイメージがあるが、「自分視点(認識)」はずっと固定されていて『見えているもの』が変わる(移転する)というのがわたしの理解する輪廻転生である。このブログでは「自分視点(認識)」は『固定された主体』であり、その主体が輪廻を作り出していると解説している。

    仏教で『主体(霊魂)が無い』と教えるのは、輪廻から解脱することを目的としているから。主体があるからこそ輪廻が作り出されてしまうので、それを否定する。

    関連記事:この世界の真実(最終解答編)後編

    認識という個性

    「認識(視点)」とは「世界の見方」である。目の前にあるものを、どう感じるかは個々の「認識(視点)」が決める。同じものを見ていたとしても、それをどのように感じるかは人によって違うことがある。

    輪廻転生を体験している「自分視点」を固定すると「見ているもの(自分以外のもの)」の方が移転し続ける。だから「生まれ変わる」という表現よりかは『視点(認識)の移転』の方が正しいと言える。

    輪廻転生によって様々な「認識」を体験することができる。人間が五感で感じる「世界」は「自分という視点(認識)」が第一原因である。「自分視点」とは、移り変わるエネルギーであり、唯一無二の遺伝子であり、魂であり、神である。

    生まれ変わりには順番がある

    輪廻転生を信じるならば、前世や来世が存在する。生まれ変わることで、今現在の人生とは違う「自分視点」で世界を見ることになる。輪廻転生の話をしたけれど、パラレルワールドとはどんな関係があるのか。こちらの図を見て欲しい。

    rinne-number

    赤い線は「観測者」が生まれてから死ぬまで、青い線は「推測者」。左から右に時間が経過している。真ん中にある、たての青い破線は2023年を示してみた。この図はひとつの例である。

    全部で8本のよこ線にはそれぞれに数字がふってあるけれど、これは生まれ変わる順番を示している。人間は生まれ変わることで「自分視点(認識)」が移転すると述べたけれど、その移転には決まった順番があるということ。

    この世界を生きる人間全てにこの「生まれ変わり番号」が振られている。私たちは輪廻転生を繰り返しながら、順番通りに「視点」を移転させている。その順番については人間に理解できるものではないが、一つだけ分かっていることがある。

    最初の視点と最後の視点

    この世界に存在する人間の中で「一番最初の自分視点」を持つ者が「観測者」であるということ。そして「一番最後の自分視点」も「観測者」である。図には書いていないけれど生まれ変わり最後の番号は9番になる。

    この図の世界に生きるのは全部で8人であるが、「一番最初の自分視点」と「一番最後の自分視点」両方を持つ者が「観測者」。1人の人間が生まれ変わりの最初と最後を担っているのである。

    図を見ながら説明すると、「観測者(1番)」が死亡したら「推測者(2番)」に生まれ変わる。そして「推測者(2番)」が死亡したら次の「推測者(3番)」に生まれ変わる、という感じ。そうしていって「推測者(8番)」が死亡したら「観測者(9番)」に生まれ変わる。

    「観測者」は最後の視点(9番)でもあるのに、最初の視点(1番)でもある。最初と最後は1人の「観測者」が掛け持ちしているので「観測者(9番)」が死亡したら「観測者(1番)」に生まれ変わる、ということはない。

    重なる自分

    図の中の、たての青い破線上にある、1(9)・2・4・6・8番という「5つの自分視点」を見てほしい。2023年のとある時間に、『生まれ変わる前の自分』と『生まれ変わった後の自分』が同時に生きている。

    例えば「推測者(6番)」にとって、来世である「推測者(8番)」と同時に生きていることになる。「推測者(8番)」にとっては「推測者(6番)」は前世である。この世界では、来世や前世の自分と触れ合い、会話をすることだってできる。

    過去の自分や未来の自分が目の前に存在しているのが「パラレルワールド」の不思議。「自分」から見た「他者」という存在は、必ず、自分自身の前世または来世であるということになる。

    観測者が生み出したパラレルワールド

    生まれ変わりに順番があるのならば、私たちが良く知っている過去の歴史上の人物なども順番の中に含まれていると考えるかもしれない。けれど「パラレルワールド」は「観測者」が生まれてから死ぬまでの間だけ存在している宇宙である。

    「観測者」の宇宙とも言えるこの世界は、「観測者」が最初の視点を持ったと同時に生まれている。そして同時に多くの「推測者たち」も生まれる。「観測者」が最後の視点を持った時に、この宇宙は終焉する。

    だからこそ「観測者」が生まれる前に存在したとされる「人間」に番号が振られることは無い。「情報」として存在するだけとなる。あくまでも「観測者」が生きている期間(時代)に存在する人間だけがパラレルワールドを構成していて、それが「現実」になる。

    輪廻転生は永遠に続く

    「最後の視点」があるということは、輪廻転生には終わりがあるということになる。「推測者」はいつかは「観測者(9番)」の視点へと変わる。しかしながら、「最後の視点(9番)」は「最初の視点(1番)」でもあるから輪廻転生は既に始まっている。「パラレルワールド」とは輪廻転生が永遠に続いてしまう世界である。

    過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)という現実

    私たちは「自分視点」に立った時「現在」を感じているはずだ。ここまでの解説通り、「自分視点」から見た「他者」は前世の自分であったり来世の自分であったりする。つまり『自分が現在』であり『他者が過去と未来』なのが、パラレルワールド。

    『過去・現在・未来は同時に存在している』という言葉を聞いたことがあるかもしれない。その言葉が正しいか(信じる)・正しくないか(信じない)、などと議論をするまでもなく、目の前に「過去と未来」が存在している世界を生きているのが私たちである。

    タイムリープする「観測者」

    「観測者(1番)」の次の視点は「推測者(2番)」であり、その後「推測者(8番)」という経験を終えたら「観測者(9番)」になる。このように「観測者」も生まれ変わり順に含まれてはいるけれど、「推測者」と決定的に違うのは、最初と最後を掛け持ちしていること。

    「最後の視点」を持つ者なのだから「推測者(2番)〜推測者(8番)」の人生を既に経験しているはず。けれども「最初の視点」を持つ者でもあるのだから、「推測者(2番)〜推測者(8番)」の人生をまだ経験していない。

    「観測者」は自分自身の全ての可能性を知りつつも、その可能性を知らない。こんな矛盾を持つ「観測者」だからこそ使える魔法がある。その魔法は、世間では「タイムリープ」と呼ばれている。

    タイムリープ(和製英語:time leap)は、日本語に直訳すると「時間跳躍」となる。和製英語で『時をかける少女』で登場した造語。

    「タイムリープ」は一般的に「自分自身の意識だけが時空を移動し、過去や未来の自分の身体にその意識が乗り移る」という意味で使われており、自分自身が意識・身体とも時空を移動することを意味する「タイムトラベル」と使い分けられていることが多い。

    タイムリープ(Wikipedia)

    「観測者」は時空を移動して様々な視点(認識)を経験することができる。パラレルワールドでは、一人が一つの宇宙に住んでいるが、「観測者」はそれら宇宙を次から次へと乗り移ることができる。「タイムリープ」については、次回の記事で詳しく書く予定です。

    輪廻転生する「推測者」

    一方「推測者」は輪廻転生という仕組みで、順番通り『生まれては死ぬ』を繰り返している。「タイムリープ」することが出来ないから、地道に輪廻転生を繰り返すのみとなる。

    可能性の移転を繰り返すパラレルワールド

    「自分視点」を順番通りに移転する私たち。全ての可能性を経験する「観測者」と「推測者」である。「観測者」が生まれ、「推測者」として経験を積み、「観測者」として死ぬのがパラレルワールド(輪廻転生)の真実。

    残念ながら、輪廻転生から抜け出す方法など存在しない。この宇宙は「観測者」によって生まれているが、輪廻転生を抜け出したいと思っている「推測者」は、いつか輪廻転生を創り出す「観測者」になってしまうのだから。

    終わったと思ったら始まるのだから、人間はずっと渦の中に閉じ込められたまま。「解脱」とは輪廻から抜け出すことだと考えるかもしれないが、「解脱」とはこのシステムを理解すること。だからわたしは「解脱」をおすすめしない、と何度かこのブログで書いている。抜け出すことができないことを知ってしまうのだから。

    前編のまとめ

    今回の記事はここまでにしておく。最後に、今回明らかにした「パラレルワールド」の秘密についておさらいしておきたい。

    8つの可能性

    この地球に8人の人間が住んでいるとしたら、「観測者1人」と「推測者7人」という割合になる。観測者という1つの可能性と推測者という7つの可能性、合わせて8つのルート(8つの可能性)が存在しているのがパラレルワールド。

    しかし、パラレルワールドは「観測者」という中心人物が創り出している「観測者」の視点から見た世界であるから、その他「推測者」も存在している。「推測者」は「観測者」の別の可能性を生きている。

    ひとりひとつの宇宙

    地球には多くの人間が住んでいるように思えるが、地球に実在しているのはたった1人。目に見えている「他者」は別宇宙の地球に存在している。

    自分が集合した宇宙

    この地球に存在する8人(観測者1人と推測者7人)は皆「自分」という視点を持っている。けれども自我によって「自分以外」の人間を「他者」と感じてしまう。

    パラレルワールド論で語られる『別のルート(世界線)』や『別の可能性』というのは、単に「他者」のことである。みんながみんな自分を自分と思っているのだから。私たちは自分の様々な可能性がすぐ目の前に存在する世界を生きている。

    輪廻転生番号

    この地球に存在する8人(観測者1人と推測者7人)には生まれ変わる順で番号が振られている。パラレルワールドを生み出した「観測者」は、最初(1番)と最後(9番)の番号を掛け持ちしている。

    推測者(2〜8番)は、いづれ最後の輪廻転生者である「観測者(9番)」に生まれ変わるが、一番最初の転生者でもあるので、輪廻はまた始まっている。最初と最後が同じ人間(観測者)なので、輪廻を永遠に繰り返してしまうのがパラレルワールドである。

    推測者と観測者の違い

    「推測者」はルートを推測し、輪廻転生を順番通りに進んでいる。「観測者」はルートを断定し、タイムリープで時空(未来と過去)を移動している。

    次回に続く

    簡単にまとめてみたけれど「パラレルワールド」のだいたいのところは説明できたはず。まだまだ全ての秘密を明らかにできていないので次回へと続く。

    今回「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレからあまり考察ができていないけど、次回から踏み込んでいこうと思います。

    「上下の時間軸」について、観測者が使う「タイムリープ」の詳細について、スレ主さんが言う「4つの分岐」の意味について、そして「ある者(観測者)」とは誰なのか?ご期待ください。

  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 後編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 後編

    出雲大社の「御神体」について解き明かしていく記事を前編中編と書いてきた。それなのに「御神体」についてまったく解き明かせていない。

    前編では「大社造」と「大社造の柱」について紐解き、中編では「八雲之図」などについて紐解いてきた。これら考察をまとめ、今回はやっと「御神体」について書いていけると思う。まずは、これまでの考察を復習してから本題に入っていきたい。

    前編・中編まとめ

    出雲大社「大社造(たいしゃづくり)」について

    男造と女造を重ね合わせたものは「人間の心」

    出雲大社本殿の建築様式は「大社造」。前編では「大社造の構造」が『人間の心の構造』と全く同じであることを解き明かした。

    大社造には「男造」と「女造」があって、出雲大社本殿は「男造」である。わたしの考察は「男造」と「女造」という二つの構造を重ね合わせたものが『人間の心』である、というもの。

    ちなみに。「人間の心」とは『未来に進む時間と過去に戻る時間が重なったものである』、ということは別の記事で結論づけている。それを踏まえて以下のような結論を出した。

    大社造の「男造・女造」それぞれの構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられる。

    未来に進む時間(男造/実行/現実)

    わたしたちが出雲大社本殿に入ることはほとんど無いけれど、もし入るのだとしたら、わたしたち人間は「男造」を「右回り」することになる。そして、本殿西向きに配置されている「大国主(男神)」に向き合うことになる。

    男神は人間の心の構造の「実行」を表している。「実行」とは「確定すること」。思考していたこと・想像していたことを現実にすること。この行動が「未来」を創る。これが「未来に進む時間」ということ。

    過去に戻る時間(女造/思考/精神)

    わたしたちが『女造である神魂神社本殿』に入ることはほとんど無いけれど、もし入るのだとしたら、わたしたち人間は「女造」を「左回り」することになる。そして、本殿東向きに配置されている「イザナミ(女神)」に向き合うことになる。

    女神は人間の心の構造の「思考」を表している。「思考」とは実行前の大切なプロセス。「思考」はわたしたち人間を惑わすこともあるけれど、過去に起きたことを思い出し、分析するために必要なこと。これが「過去に戻る時間」ということ。

    大国主が西を向いている本当の理由

    大国主が本殿正面を向かずに西を向いていることについて世間では様々な考察があるが、「大国主」が未来を創り出す「実行の神」である、ということを認識させる為。そう言える根拠は今回の記事で述べていく。

    わたしたち人間は神によって大社造を「右回り・左回り」させられている。出雲大社を参拝する人間が「大国主」に向き合うには、右回りをする必要がある。

    神と人間は鏡写し

    この考察を導くには、神と人間が「鏡写し」の関係にあることを理解している必要がある。『人間は現実・神は精神』という鏡写しだけでなく、『男神は現実・女神は精神』という鏡写しもある。

    人間が右回りするから男神は左回りする。左回りするために、大国主は西を向いている。人間が左回りをするから女神は右回りする。右回りするために、イザナミは東を向いている。このあたりについては前編で詳しく述べたことなので省略します。

    出雲大社の参拝方法

    ちなみに。出雲大社は本殿を拝した後、本殿の周りを左回りするのが正式な参拝法らしい。この参拝法は「実行(右回り)」する前には必ず「思考(左回り)」が必要であることを伝えているはずだ。

    思考してからやっと「大国主」の真意を知ることができる。その後、わたしたちは右回りして「実行」に移し、「大国主」の偉大さを知るのである。

    出雲大社「9の柱」について

    9の柱の意味

    出雲大社本殿を造るのに重要なのは、全部で9本ある柱。日本では神様の数をかぞえるのに「柱」という単位を使う。「柱」も『神という精神』を表す。前編でこれら「柱」について結論付けたことが以下。9本の柱それぞれが意味するところ。

    宇豆柱×2…男神・女神という親
    心御柱×1…男神・女神の子どもとしての人間
    側柱×6…人間

    宇豆柱である2柱は「男神(実行の神)」と「女神(思考の神)」を表している。そして「心御柱」はその2柱の神々の子どもである「人間」。側柱が「人間」を表すことについて、詳しいところは今回の記事の中で。

    「心御柱」は自我

    「実行の神(男神)」と「思考の神(女神)」の子どもである「心御柱」は、思考と実行を行う「人間」である。その「心御柱」が「自我」であることについて、詳しくは前編をお読みください。

    お詫び

    ここまで書いてきて大変なことに気がついた。前編の終わりに、”9本の柱が『2柱の神(宇豆柱)』と『7柱の人間(心御柱・側柱)』であるということを証明していきたいと思う。”

    とか言っておいて、中編でこの件ついて証明することを忘れている!中編書いているときは「雲」について考えることに必死で「柱」のことなど忘れていた。適当ですいません。

    2柱の神と7柱の人間

    「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。

    「八雲之図(やくものず)」については中編で紐解いたので、「2柱の神・7柱の人間」については今回しっかりと解説してゆきたい。

    出雲大社「八雲之図(やくものず)」について

    yakumonozu-otoko
    出雲大社(男造)と八雲之図

    一つだけ逆を向いている雲は「大国主」

    こちらは出雲大社本殿の天井に描かれている「八雲之図」雲の配置。「御神座」と書いてあるところは「大国主」が祀られているところ。

    「大社造(男造)」において「男神(大国主)」は左を向いている。一つだけ左を向いている雲も「男神(大国主)」ということになる。強引な考察だけれど、今回の記事の中でその意味をはっきりとさせていく。

    一番大きな雲は「女神」

    一番大きく、唯一黒色が使用されている雲。「大社造」と照らし合わせてみると、中心にあるから「心御柱」に対応している。この大きな雲は「心の雲」と呼ばれていることからもそれがわかる。

    そして、この雲は「女神」である。何故「女神」なのか、「男神」では無いのか。こちらも今回の記事で詳しく述べていきたい。

    一番大きな雲は「人間」でもある

    一番大きな雲は「人間」でもある。それは前編で『心御柱とは人間である』と考察したことにつながっている。「女神」であり「人間」であるという考察には矛盾があるように思えるけれど、魂の性質と同じであることを表す。

    魂は二重性を持つもの

    「八雲之図」に描かれる「雲」とは「魂」を表している。そして「魂」には二重性がある。目に見える魂・目に見えない魂、という二重性である。

    一番大きな雲に黒色を入れる作業を「心入れ」と言う。遷宮の直前にこの作業は行われるのであるが、その時間帯に注目すると「雲」が「目に見えない魂」から「目に見える魂」に変化することがわかる。詳しくは中編をお読みください。

    「心の雲」も二重性を持つもの

    一番大きな雲は「女神」であり「人間」である、という矛盾。けれど、これが一番大きな雲の正体。「心入れ」で目に見えない「女神」が、実体のある「人間」に変化することを表現しているのが「心の雲」なのである。

    「8」という数字について

    7つの雲と9つの雲の謎

    出雲大社の「八雲之図」には「7つの雲」が描かれている。そして「神魂神社」本殿の天井には「9つの雲」が描かれている。

    出雲大社の雲が一つ神魂神社へ飛んで行った、などという言い伝えがある。出雲大社と神魂神社はそれぞれ「男造」と「女造」であり、対になるものとして繋がりを感じさせる。

    出雲と8という数字

    出雲大社の雲は「八雲之図」と言うのだから、初めは「8つ」存在していたと仮定し、そのうちの一つが神魂神社へ飛んでいった。そうしたら出雲大社の雲は「7つ」になる。神魂神社も初めは「8つ」の雲が存在していたと仮定するなら、一つ増えて「9つ」の雲になる。

    「8」という数字は出雲に縁が深い。「八雲立つ」という枕詞を持つ出雲国なのだから「8」という数字には秘密が隠されている。

    スサノオの八岐大蛇退治

    中編ではスサノオの八岐大蛇退治の神話から「8」が意味するところを紐解いた。詳しいことはそちらを読んでいただきたいのであるが、簡単にまとめるとヤマタノオロチは「8回」生と死が繰り返される「輪廻」を表している。

    「8」という数字には「生と死」が含まれている。「魂」と同じく二重性を持つものなのである。

    8は「永遠」を意味する

    8とは、魂(雲)であり、生と死の両側面を表す。それは「永遠」を意味する。「魂」と同じく『目に見えないもの(死)』は『目に見えるもの(生)』に変化する。生と死が繰り返される輪廻は、変化が繰り返されること。変化することは消滅ではない。変化することが「永遠」なのである。

    「十拳剣」と「草薙剣」について

    怒り・分かれ増える・強さを示す「十拳剣」

    名前が様々に変化する「十拳剣」。この剣にまつわる物語は「生きる」ことの不安定さを感じさせるものである。「生きる」為に行動することで起きる「死」がある。わたしたちは様々な「死」の上に成り立つ「自分自身の生」に罪悪感を感じている。

    死を受け入れる為の「草薙剣」

    「草薙剣」はヤマタノオロチの尾から現れた剣。それはスサノオが『生と死が繰り返される輪廻』を認めたからこそ現れたもの。これまでに起きた「死」を認め、「新たな生」を自分自身の中に見つけたということ。「新たな生」とは、罪悪感を乗り越えた後に感じる「生」のことである。

    生と死が存在するこの世界に、確かに「生きている」と認識することは、『生と死が繰り返される輪廻』が存在しているからこそ自分も存在していることを理解すること。

    自己(十拳剣)と自我(草薙剣)

    「自己」とはまだ曖昧な自分のこと。「自我」とは意志の存在する自分のこと。

    八岐大蛇神話は、曖昧な自己を確定し自我という強い意志を見つける自分自身のストーリー。曖昧な自己は名前が様々に変わる「十拳剣」で表され、目に見えない固く強い自我は「草薙剣」で表されている。

    スサノオは最初荒ぶる厄介者であったが、後にヤマタノオロチを倒し英雄となった。それは、曖昧であった自己から、固く強い意志(自我)を持つ者に変わったことを意味している。

    「八雲立つ出雲八重垣」について

    クシナダヒメを守るもの

    クシナダヒメと暮らす為に見つけた「淸地(すが)」という地。そこに「八重垣」を作ったスサノオであるが、心の中に存在する「女性性(クシナダヒメ)」を守る為に作ったものである。

    「八雲立つ」というのは多くの新しい魂が生まれること。そして「八重垣」はそれら『男性性と女性性が合わさりひとつになった新しい魂(生)』を大切に囲むように幾重にも作られている。

    草薙剣で表される「男性性」と、櫛になったクシナダヒメで表される「女性性」。スサノオとクシナダヒメの結婚は、固く強い意志で「死」を受け入れたことを表している。その『固く強い意志のある生』は「新しい魂(生)」である。その魂は「八重垣」に囲まれることになった。

    八重垣とは輪廻を表す

    「八重垣」とは「輪廻」を表している。「輪廻」を受け入れたスサノオは「新しい魂」を守る為にまた「輪廻」を創った。「八雲立つ」という、幾重にも重なるものは「多くの新しい魂」の流れである。そして中心には『自分という新しい魂』も存在する。

    「生」を再認識したことで「新しい世界」が始まった。それは自分を中心として、その他生命も存在する世界である。

    繰り返された末に完成、また始まること

    スサノオの八岐大蛇退治神話からわかることは『繰り返されること』はいつか「完成」を迎えるということ。その魂の完成こそが『繰り返す輪廻』を創り出しているということ。「輪廻」が創り出される原因は「クシナダヒメ」で表される「女性性」であるということ。

    ということで簡単な復習はここまでにして、さっそく今回の記事の本題である「出雲大社御神体」の秘密を解き明かしていこうと思う。

    男造と女造を8で繋げる

    8は永遠の魂

    まずは、中編で紐解くことができなかったこと。雲が「出雲大社」と「神魂神社」を移動する理由について考えていきたい。

    「出雲大社」の雲が7つなのは「神魂神社」に飛んでいったから、という言い伝えは正しいと思っている。どちらも元々は「8つの雲」であったはずだから。

    「8」と言う数字は「永遠」を表す神聖な数字である。そして「永遠の魂」をも表すからこそ、雲(魂)の数は「8」でなければいけないのだ。

    永遠とは何か?

    輪廻と魂は切っても切れない関係

    「永遠の魂」とは『輪廻の中に存在する魂』を意味する。中編で八岐大蛇神話を解説してきたように、スサノオは魂を守る八重垣(輪廻)を造った。

    輪廻とは魂を守るもの。輪廻が生まれれば、必ずその中に魂も生まれる。魂が生まれれば、そのまわりに輪廻が生まれる。

    常に絶対に有るもの

    輪廻の中に存在する魂は、同じことが繰り返される輪廻に囲まれているからこそ「永遠」という性質を持つ。中編では「永遠」についてこう述べた。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということである。だから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    常に絶対に有るものが「永遠」である。ところで「永遠」についてちょっと検索してみた。

    宗教、哲学の用語。つねに在るものの在り方をいう。時間に対比して用いられる。時間が、移り変わり過ぎゆくものにかかわり、過ぎゆくものの在り方をいうのに対して、永遠は不変なものの在り方をいう。

    永遠とは(コトバンク)

    「永遠」とは『時間に対比されるもの』であり『不変なものの在り方』であるということ。

    永遠と時間の対比

    「永遠」はいつも「時間」と対比される。時間の経過は新しいものを古いものにさせ、「不変」とは言えない。栄枯盛衰という言葉があるように、形あるものは時間の中でいつか滅びる。

    時間=変化であるから、永遠(不変)と時間(変化)は対極にあるもの。けれども、前章の『8という数字についてのまとめで述べたように、『変化の繰り返し(輪廻)』こそが「永遠(不変)」なのである。

    状態変化は存在が無くなることではないから、存在そのものは常に絶対に有る。時間(変化)が存在することは「永遠(不変)」を証明しているようなものなのである。

    生きとし生けるものは「生」から始まり「死」で終わる。「永遠」を信じていない人間は「死」んだら「無」になると感じているのかもしれない。けれど『生から死へ変化』することは、既に「永遠の魂を持っていることの証なのだ。

    二重性が見えてくると「永遠」が理解できる

    『生と死・始まりと終わり・陰と陽・男と女』これら対極にあるものは、人間の認識では別々のものに見える。けれど、これら対極にあるものが重なっていることを理解することで「永遠」という認識に変わる。重なっていること(二重性・二面性)は『変化しても不変であること』を意味するのである。

    そう認識することは難しいことであるかもしれない。けれど「死」という経験の中から得る「生」が積み重なることで、重なりが見えてくるはずだ。無論、それには何度も「死」を経験する必要があるが…。

    完成とは更新されること

    中編では「8」という数字が「永遠の魂」を意味すると同時に、時が満ちる瞬間(完成)であるとも述べた。重なりを理解する瞬間が「完成」である。

    「完成」とは物事が「終わり」を迎える言葉であるけれど「始まり」も意味している。その「始まり」は前の「始まり」とは少し違うもので、更新されている。

    八岐大蛇神話においての現実的存在は「スサノオ」だけ。ということは、クシナダヒメは現実の存在ではない。物になっているのだから、それは人間ではないのである。櫛であることは、スサノオの心の中にあるものを意味している。ヤマタノオロチが「スサノオの男性性」だったように、クシナダヒメは「スサノオの女性性」を表す。

    これは中編で述べたことであるが、クシナダヒメに表される「女性性(受け入れる心)」は元々スサノオの中にあったもので、それは更新され新たなものになった。

    生贄になるはずだった8人目の娘(クシナダヒメ)は、スサノオに守られることになったのであるが、既に生贄になった7人の娘達とは違う魂である。それは「新しい魂の一側面(女性性)」を表現している。そして、スサノオも「新しい魂の一側面(男性性)」として更新された。

    ふたつでひとつ

    「死」を何度も経験したあと男性性と女性性が更新されたならば、二重性(男性性・女性性)こそが「ひとつ(魂)」であることを悟るのである。「ふたつ」だとしても「ひとつ」であることは『変化しても不変』であるのと同じこと。

    スサノオ(男性性)とクシナダヒメ(女性性)という『ひとつの新しい魂』を完成させた「八岐大蛇神話」はスサノオの新たな出発点である。完成(8)とは、目には見えない「ふたつの心」が更新され、新たな「ひとつの心」が始まること。

    9が表すもの

    古いものと新しいもの

    「ひとつの魂」は二重性(二面性)を持つが、現実に現れるのは一側面であるから繰り返しが必要になる。両側面を現す為に、輪廻という繰り返しの中で「古いもの」が「新しいもの」に更新される。時間の流れがあるから両側面を認識することができる。

    更新は、目に見えない心で起きること。「古いもの(終わり)」と「新しいもの(始まり)」は重なってもいるから、「8(終わり)」を迎えたら最初の「1(始まり)」に戻る。目に見えない心が更新されても、目に見えるものは変わらないから「1」であると言える。

    9は同じだけど新しいもの

    「同じ魂」だけれど「新しい魂」に変わること。目に見えるものは変わらないけれど、それを見ている自分自身の心が更新されるから、世界の見え方が変わる。それを「1」ではなく「8」の続きとして「9」という数字で表すこともできる。

    「8」という完成で終わりを迎え消滅するのではなく、引き継いで続くことで「同じ魂」であることを表す。「同じ魂(1)」であっても新しく見えるから数を増やして「9」になる。

    「神魂神社」の天井に描かれている雲は「9つの雲」である。何度も言うけれど「出雲大社」から飛んできた一つの雲が加わり「9つの雲」になったはず。

    9の柱と9の雲

    以下の図は「神魂神社」の雲の見取り図。これはわたしの想像図である。「9つの雲」は『同じ魂であり、新しい魂であること』を表しているのではないか。「大社造」の柱も全部で「9本」であることも気になるところ。ここからは「9」にまつわるお話をしていきたい。

    yakumonozu-onna
    神魂神社(女造)と瑞雲之図の想像図

    陽数は喜び

    日本には五節句というものがある。これらは中国から伝わったものであるが、日本の大切な伝統として現代まで残っている。

    1月7日は人日の節句(じんじつのせっく)
    3月3日は上巳の節句(じょうみのせっく)
    5月5日は端午の節句(たんごのせっく)
    7月7日は七夕の節句(しちせきのせっく)
    9月9日は重陽の節句(ちょうようのせっく)

    中国思想では奇数である『1、3、5、7、9』を「陽数」と呼び縁起の良い数字としている。だからこそ五節句も陽数が重なる日付になっている。

    人の日と獣の日

    ところで、1月7日だけ同じ陽数ではなく、違う陽数が重なっている。1月7日は七草粥を食べる日であるけれど、「人日の節句」というと馴染みがないかもしれない。「人日」という言葉の由来を引用させていただきたい。

    人日とは文字通り〝人の日〟という意味ですが、この由来は古代の中国において、正月の1日を鶏、2日を狗(犬)、3日を猪(豚)、4日を羊、5日を牛、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにし獣畜の占いをたてていました。そして、7日は人の日として犯罪者に対する刑罰も行なわない慣わしであり、翌8日は穀を占っていたようです。

    校長通信

    1日から6日は「獣の日」であり、1月7日は「人の日」だと言う。ここで再び、八岐大蛇神話で紐解いたことをおさらいしたい。

    1〜7という多数の経験の終わりには、8という理解を迎え、魂が完成する。この1〜8の流れがあるからこそ新しい魂が生まれるのだ。

    八岐大蛇神話が教えてくれることは、8という完成に至るまでには、1から7という経験が必要になる。7という数字が「繰り返す経験」を表すということは既に中編で述べたこと。「八岐大蛇神話」での経験とは、娘が何度も(7回も)ヤマタノオロチの生贄にされるようなこと。

    そして6日間の「獣の日」。厳しい自然の中で生きる「獣」、家畜として生きる「獣」、それは「困難」を表しているように思える。困難を繰り返した後の7日目に「人の日」がやってくる。

    「人日の節句」の由来から分かることは、獣から人になるという流れがあるということ。1日から6日という経験の最中は「獣」であり、7日目でやっと「人間」になる。

    苦しみの6

    仏教には六道輪廻という概念が存在し、苦しみのある動物に生まれ変わる畜生道と言う地獄がある。また、キリスト教では、666という6が3回重なった数字は獣の数字と呼ばれる。「6」という数字には獣であることの苦しみが現れているように思える。

    関連記事:六道輪廻 

    関連記事:666

    8日目は神

    7日目で「人間」になったら、次の日は「8」日目。ここまでの考察の通り、8とは「永遠」であり「二重性をもつもの」であることを考えてみると、人間の次は「神」になる。

    『わたしはアルファにしてオメガである。』新約聖書ヨハネの黙示録にはこんな記述がある。これは神の言葉であり、自分自身を『始まりにして終わりである存在』だと宣言する言葉。

    始まりであり終わりであること。つまりキリスト教の「神」も同じく二重性を持ち、「永遠」であることを表している。「神」の本質とは二重性なのである。

    獣から人間を経て神へ

    スサノオが荒ぶる神からヤマタノオロチを倒す英雄になったように、わたしたちが「永遠という神」に成るためにも、多数の経験(困難)が必要になる。

    1から7という経験(獣から人間へ) → 8という永遠の完成(神に成る)

    1日から6日は「獣」であり、7日で「人間」になり、それを過ぎたら「神」になる。8日目が「神」を表すならば、9日目は何になるのだろうか。

    8は目に見えない

    スサノオがヤマタノオロチ退治を成功させた時、心の中に目に見えない大切なものを見つけた。中編で述べたことを再掲する。

    「完成」は輪廻というオロチの中ではなく、スサノオの心の中で起きたこと。8回目の「完成」は目に見えないものだから、わたしたちは信じるしかない。完成とは『男性性と女性性の心の中の結婚』である。

    「8」という数字は「二重性・永遠・神」を表すが、8は「目に見えないもの」をも表している。「新しい魂」が生まれ、完成を迎えたとしても、それは心の中に起きるもの。神も永遠も目には見えない。

    五節句の7月7日(七夕の節句)の次は8を飛ばして9月9日である。「8」は偶数(陰数)であるから節句も存在していない。陽は目に見えるもので、陰は目に見えないものであるから。

    重陽の節句

    9は陽数(奇数)の最大数であるから、特に縁起が良いとされている。9という陽が重なる9月9日は「重陽の節句」として祝事が行われる。

    9月9日の「重陽の節句」は不老長寿を願う節句である。先ほど述べたように、9とは『同じ魂であり、新しい魂』であること。9が重なる「重陽の節句」は同じ魂(人間/長寿)であるけれど、新しい魂(神/不老)に成ったことのお祝いにふさわしい。

    8という数字は「二重性・永遠・神」を表すけれど、目に見えない。目に見えないからこそ「9」という数字が「目に見えるものとしての二重性・永遠・神」を表しているのではないだろうか。

    九重で守るもの

    ところで、天皇がすまう皇居のことを「九重」と言ったりする。「九重」も「八重」と同じく幾重にも重なることを表す。

    「八重垣」とは『魂を守る輪廻』のこと。皇居が「九重」と呼ばれるのも、天皇を守るものとして何重にも囲われているイメージがある。

    天皇は天照大神が祖先の「現人神」である。すまう場所が「九重」と呼ばれることがあるのは、神の子どもとして生まれた『新しい魂(天皇)』を大切に守る場所だから。

    天皇は『神であり人であること』を象徴するもので『二重性を目に見えるものとして擬人化した存在』である。

    天皇家の紋章の意味

    天皇家の紋章は「十六弁八重表菊紋」というもので、十六の菊の花弁、裏(後)にも十六の花弁があるようなデザインである。

    八重という言葉が入っていることから、8が何度も重なるデザインであることがわかる。表に8が二重の十六の花弁、裏にも8が二重の十六の花弁。『8という完成(永遠)』が重なっている。

    十六弁八重(目に見えないものの重なり)が菊(目に見えるもの)を形作っている。9月9日の重陽の節句は「菊の節句」でもある。

    五節句のひみつ

    現代日本に残る節句は五つであるが、昔は多くの節句があったらしい。現代まで残っているものは、見事に、人間が神に成るまでの流れを表現している。

    1月7日は人日の節句…人になるまで(無病息災を願う)
    3月3日は上巳の節句…女性が生まれる(女の子のお祝い)
    5月5日は端午の節句…男性が生まれる(男の子のお祝い)
    7月7日は七夕の節句…男女が交わる(織姫と彦星の出会い)
    9月9日は重陽の節句…神になる(不老長寿を願う)

    9は8が現われたもの

    「9」という数字は「二重性・永遠・神」という目に見えない完成(8)が目に見えるものに変化した状態である、と結論づけたい。「神魂神社」に描かれる「9つの雲」は『目に見える新しい魂』ということになる。

    そして出雲大社に「8つの雲」が描かれていないのは、完成とは『目に見えないもの』だから。それは「心の中」で起きること。

    ふたつを繋げるもの

    完成前・完成・完成後

    8が「完成」であるのなら、「神魂神社」に描かれる雲は「完成後」であると言える。とすると「出雲大社」に描かれる雲は7つだから「完成前」になる。

    完成前:7つの雲(出雲大社)→ 完成:描かれることのない8つの雲 → 完成後:9つの雲(神魂神社)

    「完成」することとは『永遠である神』になること。人間が神に成る過程が雲で表現されているのである。完成後の「現人神」とは二重性を持つ存在が目に見える状態になったもの。

    完成前:7つの雲(人間)→ 完成:描かれることのない8つの雲(神) → 完成後:9つの雲(現人神)

    人と神とを繋げるもの

    「大社造」に描かれた雲で表される「心・魂・精神」とは『人間と神とを繋ぐもの』なのである。雲の数によって、男造と女造は繋がることができる。

    「8」という数字が真ん中でふたつのものを繋げている。けれどそれは目に見えないからこそ、わたしたちは理解するのが難しい。大社造の「男造」と「女造」は「8」という雲で繋がっているから「7つの雲」と「9つの雲」が天井に描かれているのである。

    わたしたちは真実を知っている

    「八雲之図」という名や、それにまつわる言い伝えでは「8つの雲」の存在が強調されている。わたしたちは、本当は、魂が永遠であることを知っている。

    未完成であるものはいずれ完成し、その後「神魂神社」へと向かうことを知っているから、出雲大社の雲が「神魂神社」へ移動したと感じるのだ。

    現実とは完成後の世界

    スサノオとクシナダヒメがすまう場所は「八重」で囲まれていて、現代の天皇がすまう場所が「九重」で囲まれている、という違いについても述べておきたい。

    神話は精神世界(物語)という『目に見えないできごと』であるが、皇居は現実世界の『目に見える場所』に存在する。精神世界は完成していて(八重)、現実世界は完成後(九重)ということである。わたしたちは完成後の世界を生きている。

    次のページへ続く。

    ページ: 1 2

  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 中編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 中編

    この記事は前編の続きです。前編では、出雲大社「大社造の秘密」と「柱の秘密」を解き明かしてきた。中編は「八雲之図」の謎解きからスタート。

    出雲大社「八雲之図」の秘密を解き明かす

    3つの謎とその謂れ

    八雲之図3つの謎と、それぞれの謎に対する謂れについて、分かり易くまとまっているブログから再び引用させていただきます。

    ①一雲のみ逆向きである。
    ②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
    ③八雲と言いながら七雲しかない。

    ①日光東照宮の逆さ柱にあるように”陽極まれば陰”を避けるため。

    ②最も大きな7の雲は『心の雲(シンノクモ)』と呼ばれ「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)「心入れ」する際は「天下泰平、国土安穏、朝廷宝位、仁民護幸給」などが祈られたとも伝えられる。

    ③ⅰ8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。ⅱ神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった 等が言われる。

    思ったこと

    一雲だけ逆を向いている

    yakumonozu-otoko
    出雲大社(男造)と八雲之図

    雲が出雲大社の天井にどのように描かれているのかネットで調べたところ、このような感じらしい。まずは、「一雲だけ逆を向いている」謎について。これは「男造」を観察していればなんとなくわかる。前編で述べた「男神」の回り方について再掲。

    男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしらを左回りすることになる。

    図の中「御神座」と書いてあるところが「男神」。「男造」において「男神」は左(西)を向いている。つまり、一つだけ左を向いている雲も「男神」ということになる。

    あまりにも説得力がない結論を出してしまったが、とりあえず話を続けていきたい。

    一番大きな黒が使われた雲

    一番大きな雲は「女神」

    次に一番大きな雲について。結論から先に言ってしまうと、この雲は「女神」を表している。一つだけ左を向いている雲が「男神」、そして一番大きな雲が「女神」。ということは、これら雲は「神」だから「人間」ではないと言える。

    岩根御柱(心御柱×1)…宇豆柱(男神・女神)の子ども、人間
    棟持ち柱(宇豆柱×2)…男神と女神
    側柱(その他の柱×6)…人間

    前回のおさらいとして、出雲大社それぞれの柱が意味するものを再確認。一つだけ左を向いている雲と一番大きな雲は「宇豆柱」に対応しそうだ。

    けれど、一番大きな雲は「心の雲(しんのくも)」と呼ばれている。一番太い柱である「心御柱(しんのみはしら)」との関連性を匂わせる名前である。「心御柱」は「人間」を表すから、そうだとしたら矛盾してしまうようにも思える。

    雲は「たましい」

    ところで。そもそも「雲」が何を表すのかというところに触れておきたい。「雲」とは「魂」なのである。「魂」という漢字について知ると「雲」と「魂」の関係がわかる。

    云(うん)と鬼とを組み合わせた形。云は雲のもとの字で雲気(雲、雲状のもの)の形。鬼は死んだ人の人鬼で、霊となって霊界にあるものをいう。

    魂のなりたち

    「雲状のもの」と「死んだ人の霊」の組み合わせで「魂」という漢字が成り立っている。空に浮かび、ふわふわと掴み所のないイメージがある「雲」。「死んだ人の霊」も、存在するのかしないのかよく分からない曖昧なもの。不確かなものを表現するのが「雲」や「魂」ということ。

    二種類のたましい

    ところで「たましい」と同じ意味を持つ漢字に「魄(はく)」がある。「魂」と似ているけれど、ちょっと違う。

    「魂」は陽、「魄」は陰の精気。「魂」は精神、「魄」は肉体をつかさどるもの。生きている人にはこの二つが宿るとされる。

    漢字辞典オンライン(魄)

    このように「魄」も「魂」と同じ意味をもつけれど、こちらは肉体を司る。「魂」は死後天上に昇るもので「陽の気」を表し、「魄」は死後地上に留まる「陰の気」を表す。合わせて「魂魄(こんぱく)」と言って中国道教の考え方であるらしい。

    「心入れ」をする理由

    「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)

    一番大きな雲だけに「黒色」が使用され、その「黒色」を塗ることを「心入れ」と呼ぶ。「心入れ」はダルマの目入れのようなもので、国の平安を祈りながら行われるという。「心が入る」、「目が入る」というのは「生命が宿る」ということであろう。

    雲=魂=心=精神、全ては「目に見えない」もので実体を掴むことが難しい。しかし「心入れ」することで「雲」は実体を伴うことになる。それは「目に見えないもの」が「目に見えるもの」に変化すること。

    「たましい」には二種類の意味があった。だからこそ「心入れ」という儀式で、陽(天上)から陰(地上)へと変化させる。目に見えないものだった「雲(魂)」は、肉体を持った「人間(魄)」という目に見えるものに変化するのである。

    「たましい」という2つの漢字と「心入れ」から分かること。雲の意味を持つ云(うん)が使われている「魂」は精神という「目に見えないもの」を表し、「魄」は肉体という「目に見えるもの」を表す。「たましい」には二重性がある。

    「心入れ」の時間

    午の刻に「心入れ」が行われることも、「雲」という「たましい」が二重性を持つことを表現している。下の表は、以前この記事に使用した二十四方一覧表(方角と時刻)である。

    午の刻は十二時辰で11時〜13時に当たる。「心入れ」は正午(12時)に行われる。この表は十二時辰をさらに細かくしたものなので、11時〜12時のところを見てほしい。

    見てもらえると分かるように、正午の時間帯は八卦で表すと「離(り)」になる。八卦とは易占いに使われるものであるが、「離」の意味合いを知るとこの時間に「心入れ」が行われることにも納得できるはずだ。こちらのサイトを参考にさせていただきました。

    ついたり離れたり移動するもの、陰陽の分岐点、陰陽の両作用の分かれ目

    離(り)には様々な解釈があるけれど、このようなキーワードを見つけることができる。午の刻(正午)は変化の瞬間を表す時間帯になっている。

    最初に『一番大きな雲は「女神」である』と結論を述べたのだけど、一番大きな雲は「人間」という矛盾。けれど、これが一番大きな雲の正体。「心入れ」で目に見えない「女神」が、実体のある「人間」に変化することを表現しているのが「心の雲」なのである。

    女神と神魂神社

    八雲之図に描かれる「雲」は「二重性を持つたましい」であることは簡単に説明できたと思う。けれど「心の雲」が「女神」であることの説明が全く足りていない。それを証明していく為にも「女造」に目を向ける必要がある。

    日本最古の大社造である「神魂(かもす)神社」は「女造」である。なんと、ここにも「雲」が描かれているのだ。

    八雲之図なのに七雲しかない

    出雲大社「男造」の天井には全部で「7つの雲」が描かれている。「八雲之図」という名前がついているにもかかわらず。そのことについては2つの謂れがある。先ほどの引用から抜粋。

    8つ目を描いてしまうとそこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった等が言われる。

    これら謂われからわかることは、出雲大社の雲は元々「8つの雲」であったのだろう。そして、一つの雲が飛んできた「神魂神社」には「9つの雲」が描かれている。ということは「神魂神社」も元々は「8つの雲」であったのかもしれない。

    「神魂神社」の雲が天井にどのように描かれているのか、詳細はわからない。その天井の様子が少しだけわかる写真が絵葉書として神社で販売されているようだ。その写真を参考に、わたしの想像した神魂神社の雲を描いてみた。

    yakumonozu-onna
    神魂神社(女造)と瑞雲之図の想像図

    絵葉書の写真を見ると仕切りが見えるので、御神体の真上を撮影したように思える。ということは「神魂神社」の天井には、このように雲が描かれているのではないか。たぶん。写真を見ると、一番大きな雲にはやはり「黒色」が使用されているようだ。

    先ほども述べたことであるけれど、八雲之図の謂れから考えられることは、出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったのではないかということ。雲が「8つ」であったのならば、それは何故移動したのか。8という数字を紐解けば、「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりが見えてくるはずなのだ。

    八という数字の秘密を解き明かす

    出雲と8

    出雲は8という数字と縁が深い。日本神話には出雲を舞台とした「スサノオのヤマタノオロチ退治」という有名なお話がある。このお話の流れを追いながら8を探していく。

    スサノオ について

    伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)二神の子として(日本書紀)、また伊弉諾尊の禊(みそぎ)のとき(古事記)などに日月神とともに出現した、記紀神話の重要な神。出雲(いずも)系神話の始祖でもある。父から定められた支配地を治めず、母の国の根国(ねのくに)を慕って泣いたため、災いを起こして父に追放される。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    日本書紀ではイザナギとイザナミの子どもとして、古事記ではイザナギが禊をした時に洗った鼻から生まれたことになっているスサノオ。そして天照大神の弟でもある。スサノオはちょっとした厄介者。

    使命を果たさず,鬚が長く生えても泣きわめき続けて,草木を枯らせ,河と海を干上がらせ,怒った父に根の国へ追放された。アマテラスに暇乞いに天に上り,武装した姉に出迎えられ,厳しく詰問されたが,誓約による子生みをして,邪心のないことを証明した。この勝利に有頂天になり,高天原で田を荒らし,新嘗の宮を汚すなどした末に,アマテラスが咎めずに庇うと,いっそうつけあがって,機織殿に皮を剥いだ馬を投げこみ,驚いた織女を死なせ,ついに怒った大神が岩屋に隠れ,天地が暗黒になる事件を起こし,鬚と爪を抜かれ,天から放逐された。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    このように、泣きわめいたり有頂天になって暴れたりしている。その結果、天照大神は岩戸に隠れて世界は暗黒となってしまった。スサノオは悪や罪の象徴のような人物である。

    この罪により尊は神々に追放され、根国に赴くが、途中の出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、根国の支配者となる。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    その後スサノオは追放され根の国へ向かうのであるが、その途中でヤマタノオロチ退治をする。ところで根の国は出雲と深い関わりがある場所。

    根の国のあった場所は言うまでもなく地下であるという主張もあるが、一方で古くから神話を現実的に解釈し、地上のどこかに当てる説が行われた。その場合、イザナミやスサノオと縁の深い出雲国に入口があるとする説がある。

    根の国(wikipedia)

    出雲には黄泉の国の入り口だとされている場所が実際に存在していて、黄泉の国と根の国の関係性について様々な議論があったりする。根の国については既に別の記事で書いているから、ぜひそちらも読んで欲しい。

    関連記事:「なまよみの甲斐の国」番外編-山が神である理由-

    ともかく、スサノオは出雲でヤマタノオロチ退治をすることになる。出雲大社に祀られる大国主はそんなスサノオの子孫である。

    八岐大蛇神話のはじまり

    スサノオは出雲でアシナズチとテナズチという夫婦に出会い、二人の娘クシナダヒメをヤマタノオロチから救うことになる。古事記を現代文に訳したものを引用しながら、詳しくみていきたい。

    夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    夫婦の間には「8人の娘」がいた。8人目の末娘がクシナダヒメ。そして、8を象徴するような怪物「ヤマタノオロチ」が登場。

    須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    スサノオはヤマタノオロチと闘う準備をした。八塩折之酒(やしおりのさけ)を醸し、垣根に8つの門を作り、その門ごとに8つの桟敷を作り、それぞれに酒の桶を置く。

    ちょっと気になること

    ところで、このwikiのページには『7回絞った強い酒(八塩折之酒)』と書いてある。ネットで古事記の原文と現代文に訳したものをいくつか読んだが、7という数字が出てこない。この『7回絞った酒』の出どころを知っている方がいたら教えて下さい。

    八雲立つ出雲国

    八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛になった櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」と詠んだ。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ヤマタノオロチに見事打ち勝ったスサノオは、 クシナダヒメと暮らすことにした須賀の地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠った。この歌の意味を以下に引用させていただく。

    雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう。

    最古の和歌とスサノオの物語(こども教室もんじゅ)

    「八雲」とは幾重にも重なった雲のことで、出雲国の枕詞にもなっている。このように、しつこいくらい何度も8という数字が出てくる「スサノオとヤマタノオロチ退治」のお話である。

    八岐大蛇神話の新解釈

    8は魂

    8と縁が深い出雲なのだから、やはり出雲大社・神魂神社は元々「8つの雲」だったはず。前の章で「雲」とは「二重性のある魂」であると述べた。ヤマタノオロチ退治に登場する「8」という数字を「魂」と考えて物語を読んでみたい。

    夫婦の8人の娘たちは「8つの女の魂」と仮定してみる。年に一度、ひとつの魂(一人の娘)をヤマタノオロチに食べられてしまう。

    ヤマタノオロチは8つの頭と尾を持っている。8匹分のオロチなのだから「8つの魂」を持っているということになる。さらに、オロチの頭と尾を「魂の最初(頭)」と「魂の最後(尾)」だと考えたい。

    「蛇(オロチ)」は生と死や、繰り返すものを象徴するものであったりする。魂の最初は「生まれること」、魂の最後は「死ぬこと」。その両方の要素を持つヤマタノオロチはやはり「輪廻」を表しているのだろう。物語の中で8の繰り返しが多いことも「輪廻」を意識していると考えられる。

    女の魂を取り込むオロチ

    ヤマタノオロチをオスと仮定すると「8つの男の魂」を持っているオロチということになる。ヤマタノオロチは既に7人の娘を食べてしまったから、ヤマタノオロチの中には「7つの女の魂」も存在している。そして最後のひとつの魂をも取り込もうとしている。

    ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

    完成(8)させないこと

    8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。

    出雲大社の八雲之図は、8つ目を描いてしまうと完成してしまうので描かれていない、という謂れがある。ヤマタノオロチ退治のお話でも、スサノオが8人目の娘を救うことで、男女の組み合わせを完成させないようにしているのではないだろうか。

    だとしたら、8になること(完成させること)を避けるのは何故なのだろう。完成すると「永続性」が崩れてしまうようだ。永続性とは「永遠」に続くこと。何故「永遠」を保っておきたいのだろうか。

    魂は永遠

    常に絶対に有るもの

    ここでまた「たましい」は二重性を持つものであるということを思い出してほしい。午の刻に「心入れ」が行われるのは「目に見えない魂」から「目に見える魄」に変化させるためであった。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということであるだから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    目に見えない=無い?

    けれども人間は目に見えなくなってしまうと、その存在が消滅したと考えるもの。「魂」が「永遠」であることを知らない人間は、8という完成を迎えてしまったら「魂」が消滅すると考えてしまうのだろう。だからこそ、完成させないことで「永遠」を保とうとするのではないだろうか。

    死んでしまった人の「魂」は天国にあり、わたし達をいつも見守ってくれている。というような考え方を持っている人もいる。けれど現代において「魂」が「永遠」であることを絶対的に信じることは、盲目的になってしまった宗教の信者のように見なされてしまうのかもしれない。

    消滅する瞬間を恐れること

    完成と終末思想

    前述のとおり、人間は「完成」を「魂の消滅」だと感じている節がある。『完成してしまったら魂が消滅する』という思想は、昔から人間が持ち続けてきたもの。『時が満ちると世界の終わりがやってくる』という「終末思想」と同じものである。

    新約聖書ヨハネの黙示録に描かれる「最後の審判の日」のように、キリスト教をはじめ様々な宗教に終末思想がある。わたしたちは「終末」が何時やってくるのかを、とても気にしている。

    「終末の日」が何年何月何日なのかは、人間にとって有益な情報になる。「完成(時が満ちた瞬間)」に「魂の消滅」が起きると思っているから、どうにかしてそれを避けたいのである。「魂の消滅」とは自分自身の「死」を意味する。

    「ノストラダムスの大予言」では1999年7の月に人類が滅亡する、という解釈が持ち出された。また、2012年12月の「マヤ暦の予言」による滅亡説もあった。日付を具体的に指定されたから、大流行したと言えるだろう。

    現在「私が見た未来 完全版」という本が流行している模様。この本の中でも2025年7月が終末らしき日付として言及されている。

    予言が当たらないことを怒る人たちが存在するけれど、彼らは死ぬのがとても怖いのである。前もって「死」の時期を知ることで、少しでもその可能性を排除したいと思っている。

    関連記事:予言はなぜ当たらないのか

    出雲大社を恐れる人々

    出雲大社から、魂の消滅、死への恐れを無意識に連想してしまう人々がいる。『出雲大社には怨霊(大国主)が封印されている』という都市伝説には人間のそんな無意識が現れている。

    その都市伝説は、しめ縄が普通とは逆に巻かれていることや御神体が正面を向いていないことで結界を張り、その怨霊を閉じ込めている。という話なのだけれど、そう感じてしまう人間たちは「魂の消滅」を恐れているはずなのだ。

    出雲大社から何かを感じ取る人々。感じ取り方は様々だけれど、人々が出雲大社に惹かれる理由は「魂の消滅」という「死」の側面だけではないはずだ。

    時が満ちる瞬間の二重性

    もうひとつの側面

    「完成(8になること)」とは「時が満ちる瞬間」であると言える。わたしたちはそれを「消滅(死)の瞬間」だと捉えている。

    八岐大蛇神話において、死を連想させる「時が満ちる瞬間」は、オロチが女を食べる瞬間である。

    けれど、年に一度「女の魂」を取り込んでいるオロチの中には既に「7組の男と女」が揃っている。「男と女」とは「陽と陰・生と死」とも表現できる。オロチは「輪廻」を表していると言ったように、「生と死」の両側面を持っているのだ。

    8から剣へ

    ここまでの話をまとめると8とは、魂(雲)であり、時が満ちる瞬間であり、それは生と死を含んでいるはずだ。8という数字について紐解いてきたけれど、ここで一旦剣の話をさせてほしい。

    剣の秘密を解き明かす

    剣と生

    出雲大社の雲について『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから、雲は7つ』という考え方が、「死」の側面だけに目を向けたものであるならば、もうひとつの側面をも見出す必要がある。完成(8)が「生」でもあることを、八岐大蛇神話クライマックスシーンから見つけていきたい。

    準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ここからは「剣」の役割に注目していきたい。まずはヤマタノオロチを倒した「十拳剣(とつかのつるぎ)」について深掘りしていく。

    十拳剣(とつかのつるぎ)が意味するところ

    固有名詞を持たない剣

    「十拳剣」は、拳10個分の長さの剣のこと。名前が様々に変わるなど、固有名詞を持たない剣の総称であるとのこと。日本神話の中に度々登場している剣である。様々な場面に登場する「十拳剣」の様子がまとまっていて分かり易いサイトがありましたので、そちらから引用させていただきます。

    怒り

    伊邪那岐命(イザナギノミコト)は腰に挿していた十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、迦具土神(カグツチノカミ)の首を切りました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    イザナミがカグツチという神を産んだ時、陰部が焼けて死んでしまったことに怒ったイザナギは「十拳剣」でカグツチを殺してしまった。また、別のお話ではアジスキタカヒコネという神が、死人と間違われたことに怒って「十拳剣」でその場をめちゃくちゃにした。怒りと共にある剣であることがうかがえる。

    分かれ増える

    天照大御神(アマテラスオオミカミ)がまず建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が持っていた「十拳の剣(トツカノツルギ)」を受け取って、三つに折り、天真名井(アメノマナイ)の水ですすいでから噛み砕き、吹き捨てました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    こちらは「アマテラスとスサノオの誓約神話」の一場面。詳しいあらすじはリンクから確認していただきたい。誓約(うけい)の為に、スサノオの「十拳剣」が折られ噛み砕かれ、そこから三柱の女神(宗像三女神)が産まれている。そして、このようなお話もある。

    イザナギは十握剣(トツカノツルギ)でカグツチを三段に切りました。それらの部位がそれぞれ神となりました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    こちらは、日本書紀の中のお話。カグツチは三つに切られ、それぞれ、雷の神・山の神(オオヤマヅミ)・水の神(タカオカミ)という三神に成った。

    古事記でのカグツチを殺すお話では、三神どころではない多くの神が生まれている。十握剣(トツカノツルギ)刃の先端から落ちた血から三柱、刃の根元から落ちた血から三柱、柄の部分から手を伝い落ちた血から二柱。

    カグツチを切った剣から滴る血から合計8柱の神が生まれている。その後、カグツチの死体からも8柱の神が生まれている。8という数字が気になるところであるが、ひとつの剣から多くの神が生まれていることに注目したい。

    強さを示す

    天鳥船神(アメノトリフネ神)と建御雷神(タケミカヅチ神)の二柱は、出雲の伊那佐(イザサ)の浜に降り立ちました。そして十拳剣(トツカノツルギ)を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神(オオクニヌシ神)に問いました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    これは「出雲の国譲り」の中のお話。天照大神は下界を平定するため、大国主の元にアメノトリフネとタケミカヅチをよこした。その際、タケミカヅチは十拳剣の刃の上にあぐらをかきながら大国主に直談判をした。この出来事が象徴することは何か。

    タケミカヅチは自分の強さを主張するために、わざわざ刃の上にあぐらをかいたのである。刃の上に座るには我慢強さが必要だ。国を譲り受ける為にも、大国主に強さを見せないといけないと思ったのだろう。

    変化する、増える、自己証明

    怒り・分かれ増える・強さを示す、というキーワードから見出せるものとは。「十拳剣」を持ち怒りを表現すること。怒りという感情は人を豹変させ、争いの元になるものである。怒りとは動物的本能でもある。

    「十拳剣」は三つに分かれて神と成る。そして「十拳剣」によって切られた者の血から多くの神が生まれる。一つの剣をきっかけに多数の生命が生まれること。これもまた変化であり、増える作用がある。

    「十拳剣」は自己を示すものでもある。交渉の為に危険な行為で自らの強さを表現したタケミカヅチ。そして誓約(うけい)に使用されたのは、自らの潔白証明のため。自分自身を示すものとして利用されている。

    変化するものであり、増えるものであり、自己を示すもの。これは「生きとし生けるもの」の表現であるといえる。「十拳剣」からは「生」を見出すことができるが、不安定さも持ち合わせている。

    不安定で未確定な「生」

    怒りをコントロールできず起きる死や混乱。血によって生命が続くこと。自己が曖昧であるが故に、わざわざ自己を示すこと。変化すること、続くことは未確定であり不安をもたらすものである。

    「十拳剣」は、不安定で未確定な「生」を表現している。名前が様々に変わる十拳剣名前は確定していないけれど、それは一つの剣(生)である。

    草薙剣(くさなぎのつるぎ)が意味するところ

    「十拳剣」と対比する

    準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    スサノオがヤマタノオロチを倒した時に現れた「草薙剣」は言わずもがな三種の神器のうちのひとつで、日本人にとって大切な剣。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも呼ばれる。「十拳剣」と対比することで「草薙剣」の性質が見えてくる。

    犠牲の上に成り立つ「生」

    またまた八岐大蛇神話を振り返ってみる。ヤマタノオロチが「女の娘」を食べると男女の魂が揃う。その瞬間は「生と死の瞬間」である。オロチは女を喰らう(殺す)ことで『生きながらえている』。

    わたしたちが「死」を恐れるのは、様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立っていることを無意識で理解しているから。それは罪悪感となって「死」への恐怖を引き出している。

    物語の中では「死」という犠牲の上に成り立つ「生」が7回起きている。しかし8回目で、女は犠牲とならなかった。スサノオはオロチを切り刻み「女の魂(クシナダヒメ)」を救ったのである。その結果、スサノオは「草薙剣」を手に入れた。

    オロチの尾から現れたこと

    オロチの尾から「草薙剣」が現れたことについて考えてみる。ヤマタノオロチが「人間の輪廻」を表すということは既に述べた。

    オロチの尾とは、輪廻の終わり、魂の最後、つまり「死」を表している。尾から現れた「草薙剣」は「死」から現れた剣であると言えるのではないだろうか。

    クシナダヒメを救ったことで「死」という犠牲が起きなかったのに、「死」から現れた「草薙剣」。犠牲は起きていないはずなのに「死」を表す剣だということ。

    物語の中の二重性

    『7回続いた死』では「女の魂」が犠牲になっていたが、それがオロチを生かしていた。『8回目の死』はオロチの犠牲であり「女の魂」は生かされた。8回目では女(クシナダヒメ)の代わりに男(オロチ)が犠牲になっている。

    この物語の主人公はスサノオという「男」で、女を救う者として存在している。「犠牲になった男(オロチ)」と「女を救う男(スサノオ)」。物語の中では、オロチとスサノオどちらも「男性性」を表しているのであるが、大きな違いがある。

    オロチは恐ろしい化け物で空想上の生き物。一方スサノオは神ではあるが人間の姿形をしている。同じ男性性ではあるが「精神(オロチ)」と「現実(スサノオ )」の対比になっているのである。そして「敗者(オロチ)」と「勝者(スサノオ )」という対比にもなっている。

    物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

    このお話の中では、オロチにも二重の意味がかかっている。ひとつは「スサノオの心の中の男性性」。もうひとつは「輪廻」である。これらをふまえてさらに考察を進める。

    オロチで表される精神世界

    酒で眠らされてしまったオロチ。つまり、スサノオの「男性性」は眠らされている。オロチの死とは『夢の中の出来事』であるということ。オロチは「精神」を表しているのだから、その死は「現実」ではなくスサノオの心の中で起きている。

    スサノオは「十拳剣」を利用してオロチを切り刻んだが、その刃は尾の中にあった「草薙剣」によって欠けてしまった。「十拳剣」は「草薙剣」に負けた。負けとは「死」である。

    「十拳剣」は怒りや自己証明を意味することは既に述べた。生き残ることに必死になると「精神」は荒ぶる。それが動物的本能。これまでは「精神」が荒ぶった結果「現実世界」で暴れまわっていたスサノオ。

    「十拳剣」によって怒りや強さを表現してきた神々であるけれど、八岐大蛇神話では「十拳剣」を持ちながらも、怒りや強さを「現実」で表現するのを封じているということに他ならない。

    ヤシオリ作戦

    「精神」と「現実」は直結していて、精神状態はそのまま現実世界に反映されてしまうことがある。けれども、わたしたち人間は「現実」へ移行するまえに、深く思考することができる。

    スサノオが思考の末行き着いたのは、オロチと正面切って戦うのではなく「八塩折之酒(やしおりのさけ)」を利用する方法だった。それが「心の中で死ぬ」という方法。

    オロチ(輪廻)とは生と死を「繰り返す」もの。そして「ヤシオリ」も「何度も繰り返すこと」を意味する言葉である。「繰り返すもの」を「繰り返すもの」で制す。

    7回繰り返された死を、8回目も同じように起こす。けれどそれを「心の中」に留めておいたのである。思考した結果「現実世界」で戦わず、「精神世界」で戦う選択をしたスサノオ。その結果の「心の死」とは、ある意味負けを認めること。スサノオは「輪廻(オロチ)」という「繰り返す死」を認めたのである。

    死んでしまった母に会いたくて泣き叫んでいたスサノオ。「死」を認められなかった子供から「死」を認めることができるようになった大人へ。

    十拳剣と草薙剣の違い

    「十拳剣」は現実で誰かを切ることなく女を救った。「十拳剣」は欠けてしまったが、代わりに「草薙剣」を手に入れたスサノオ。

    「草薙剣」とは「固く強い心」の象徴である。智恵によって怒りを沈めることができ、血によって続く「生と死」を認め、自己が確立された存在であることを信じる心のこと。「十拳剣」を持つ者は『不安定で未確定な生(子供)』であったけれど、「草薙剣」を持つ者とは『不動で確定した生(大人)』であるといえる。

    「草薙剣」はすぐさま天照大神に捧げられた。「草薙剣」は「固く強い心」という「目に見えないもの」であるから、実際に使用されることなく神に捧げられるのである。

    「草薙剣」は「現実」に姿を表してはいけないもので「精神」の中にあるもの。だからこそ現代でも「草薙剣」を見ることは許されていない。

    天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名について

    八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。

    天叢雲剣とは(コトバンク)

    「草薙剣」の別名「天叢雲剣」について考えてみると、やはり、オロチとは「輪廻」であり「精神(心)」であることがわかる。

    雲とは曖昧で不確定なものを意味する。オロチの上に常にかかる雲とは、終わりのない輪廻の不確定さ、コロコロと気分が変わる掴み所のない心を表している。

    不確定さはわたしたち人間を不安にするもの。さらには、確定後の負の作用を恐れている。「生と死」が繰り返される輪廻と、その「死」の側面を恐れているわたしたちは、オロチを恐ろしい怪物とみなすのである。

    死を受け入れるための剣

    自己(十拳剣)と自我(草薙剣)

    過去このブログで「自己と自我」について書いた。そこで、このブログに於いての「自己と自我」を定義している。他の記事でも度々自己と自我については書いているが、簡単に言えば『自己とはまだ曖昧な自分のこと』『自我とは意志の存在する自分のこと』である。

    八岐大蛇神話は、曖昧な自己を確定し自我という強い意志を見つける自分自身のストーリー。曖昧な自己は名前が様々に変わる「十拳剣」で表され、目に見えない固く強い自我は「草薙剣」で表されている。

    輪廻=不確定と確定

    ヤマタノオロチとは相反するものを両方持ち合わせている存在であった。両方持ち合わせているからこそ曖昧であるけれど、それは変化し、どちらかの状態に確定するもの。ここで「魂(たましい)」についての解説を再掲。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということである。だから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    スサノオのようにオロチの尾(死)から「草薙剣」という「固く強い心」を見つけることができると、不確定で曖昧な存在であった輪廻(オロチ)が「有る」ことをはっきりと認識する。そして、輪廻が存在しているからこそ自分も存在していることを理解する。

    生と死が存在する、苦しくも喜びがあるこの世界に確かに「生きている」と認識することが「自我」を見つける瞬間である。「自我」があるから、不確定で確定な二重性のある「輪廻」をも認めることができるようになる。

    「輪廻の死の側面」を受け入れることは『悪である自分の存在』を受け入れることでもある。はじめ悪者として語られるが、その後ヒーローとしても語られるスサノオ。そんな二面性を持つスサノオは、二重性を持つ「永遠の魂」を見つける者。

    固く強い心で曖昧なものを確定すること

    ということで、「強い心」で自己を確定するまでの過程を表しているのが「剣」というアイテムなのであった。「十拳剣」で何度も現実の死を体験し、8回目ではその剣を現実で使用しないことで「草薙剣」が生まれる。

    現実世界(十拳剣)でも、精神世界(草薙剣)でも、「戦うこと」は「強い心」の現れである。けれど、本当の窮地に陥った瞬間、それを現実世界で表すのか、精神世界で表すのか、冷静で的確な判断をするのは結構難しい。

    七転び八起きと七転八倒

    「七転び八起き」という言葉がある。これは何度失敗しても立ち上がること。八で起き上がることは「死=犠牲」という考えの輪廻を断ち切ることである。

    「七転八倒」という言葉がある。これは苦しみのたうちまわることを表す。八で倒れることは「輪廻=生と死」であることを心の中で認めること。それはとても苦しいこと。

    「七転び八起き」という言葉は「生」を表しているし「七転八倒」という言葉には「死」が表れている。7という数字は何度も何度も繰り返し学んでいる状態であり、8という数字で全てを理解し自己の完成が訪れる。

    剣という男性性

    わたしたちは誰もが「剣」という「男性性」を持っている。日本神話に登場する「剣」は「不安定な生」と「不動の生」二つの側面を教えてくれるもの。どちらも学び終えたのならば「死」を受け入れ、新たな「生」を見つける。その新たな「生」が「自我」なのである。

    様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立つことに、大きな罪の意識を感じるわたしたち。そんな罪悪感から抜け出すには、自分という存在が、今現在、力強く「生きている」のを実感することが必要だ。

    八重垣で魂を囲む

    クシナダヒメと暮らす場所探し

    最後に、スサノオが詠んだこの歌についても解説しておきたいと思う。

    そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ヤマタノオロチ退治を終えたスサノオは、クシナダヒメと暮らす場所を探した。そして淸地(すが)という地に決めて、そこに宮殿を建てた。

    すがすがしい瞬間

    『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。

    須我神社(wikipedia)

    ヤマタノオロチ退治を終え「草薙剣」を手にした瞬間「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れることができる。個人的な話になるけれど、その瞬間とてもすがすがしい気分になることは、わたしも経験している。とにかく頭がスッキリするのである。

    わたしの個人的なすがすがしい体験はこちらに書いてあるので、気になる方はどうぞ。ちなみにその体験時には、頭の中で『草薙剣を手にした瞬間(死を受け入れた瞬間)』の感覚というか感情だけを先取りしているようなもの。

    つまり、今現在のわたしが完全に「死」を受け入れているわけではない。人間はこの先体験するであろう意識を先取りすることができる不思議な力を持っているのだけど、その件については今回の記事には関係ないことなので割愛。

    土地とは世界

    話を戻して、スサノオがヤマタノオロチ退治を終えた後、住む土地を探して名前をつけた理由について。スサノオが立つ須賀という土地とは、スサノオが見ている世界を表していると考えることができる。

    「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れた瞬間に、世界の見方はガラッと変わることになる。「死生観」が変化すると生き方そのものが変化し、世界も変わる。

    『確かに存在する自己』を認識すると「見ている世界」が再構築される。それを意味するのが、土地を探し、名をつけ、そこに宮殿を建てること。世界が自分中心になるから、自分の見つけた土地(世界)として名をつけるのである。

    「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れていない時、わたしたちはどこか流されるように生きているもの。『世界は既にあるもので、その中に生きている多数の人間のうちの一人が自分』というような感覚をもっているはずだ。

    けれど「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れたのならば、新しい世界が生まれる。世界の中心が自分となることは「独裁者」のような世界の見方では無い。その時の自分と世界の状況を難なく受け入れながら、新しい世界を作ろうとしている状態である。

    櫛になったクシナダヒメ

    スサノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によってその身を変形させられ、小さな櫛に変えられた。櫛になったクシナダヒメはそのままスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。

    クシナダヒメ(wikipedia)

    実はクシナダヒメはヤマタノオロチと戦う前から櫛(くし)に変形している。このことが意味することについて。すこし前に、こんなことを書いた。

    物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

    八岐大蛇神話においての現実的存在は「スサノオ」だけ。ということは、クシナダヒメは現実の存在ではない。物になっているのだから、それは人間ではないのである。

    櫛であることは、スサノオの心の中にあるものを意味している。ヤマタノオロチが「スサノオの男性性」だったように、クシナダヒメは「スサノオの女性性」を表す。

    何故「櫛」なのかは、用途を考えれば分かること。髪をとかすものとしての道具である櫛は「永遠」を整えるものとしての役割である。人体の中で、伸び続けるものは髪や爪である。これらは永く続くものだから「永遠」を表す。

    輪廻というものは川の流れのように永遠に続くもの。人の数だけ流れが存在していて、それを整えるのが「櫛」なのである。「女性性」の役割とは輪廻という運命を規則正しく流すものであることがわかる。

    流れを堰き止めないこと

    繰り返された死(7回の女の死)を体験し、やっと8回目で女(死)を心の中に受け入れることができたのが、オロチを倒したスサノオ。

    7回続いた女の死の間は「死=犠牲」という考えであったから輪廻が受け入れられず、その流れは滞っていた。しかし、8回目では「死」の対極に「生」があることを理解し、輪廻が滞りなく流れることになった。そうして輪廻がやっと回るのである。

    女性性とは「受け入れる心」のこと。スサノオはヤマタノオロチと対決した際、負けを認める「心の死」を選んだ。一度心が死ぬような経験をしなければ心の中に「女性性」が生まれることはない。

    大切なものを守る決意

    八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

    さて、肝心なこの歌の意味について。8という数字が何度も登場するということは、魂のことを唄ったものであることがわかる。

    スサノオが心の中に手に入れた「魂の女性性の側面」は、妻のクシナダヒメとして表現されている。苦労して手に入れた「女性性」であるのだから、それはいつまでも続くように守らなければいけない。この歌は、新しい世界の中心に「女性性」を心に携えた自分(スサノオ)が居て、何層にも周りを囲ってその状態を守っているという情景。

    「八雲立つ」というのは多くの新しい魂が生まれること。そして「八重垣」はそれら『男性性と女性性が合わさりひとつになった新しい魂(生)』を大切に囲むように幾重にも作られている。

    魂を守る輪廻

    実は、「八重垣」は輪廻を表している。魂を守る為に、輪廻を作り出すのが「女性性(クシナダヒメ)」を手に入れた「男性性(スサノオ)」なのである。

    スサノオの髪に刺された櫛(クシナダヒメ)は輪廻の流れを整えている。滞りなく流れている状態を永遠に保つために、八重垣という輪廻を作る。輪廻とは何度も同じようなことが起きること。何度も同じことを経験するからこそ、わたしたちは絶対に手放してはいけない「女性性」があることを知る。

    1〜7という多数の経験の終わりには、8という理解を迎え、魂が完成する。この1〜8の流れがあるからこそ新しい魂が生まれるのだ。魂とは永遠であり輪廻というループの中にある。そのループは、8という完成を迎えたら最初の1に戻る。

    終わり(8・死)と始まり(1・生)は重なっているから、魂の完成こそが魂の始まりとなる。それを教えてくれるのが、八岐大蛇神話なのである。

    完成(8)を恐れない

    出雲大社の雲が7つであることについて『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから』という謂れがあった。そしてヤマタノオロチ退治でも、スサノオの活躍によって8人目の娘は犠牲にならずに済んだ。

    ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘(8つ目の魂)が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

    ヤマタノオロチ退治についてこう書いたけれど「8組の男女の魂」は揃っている。「完成」は輪廻というオロチの中ではなく、スサノオの心の中で起きたこと。8回目の「完成」は目に見えないものだから、わたしたちは信じるしかない。完成とは『男性性と女性性の心の中の結婚』である。

    後編に続く

    長くなってしまったので今回はここまで。たくさんの話をしたけれど、まだまだ続く出雲大社の謎解き。出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったこと、その雲は何故神社間を移動するのか?

    今回の記事で8という数字について解説することができたから「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりをばっちりと紐解けるはず。果たして上手くまとめられるのか。

    後編はこちら

  • よーさんの「妄想書いてくよー」の解説をする その4

    よーさんの「妄想書いてくよー」の解説をする その4

    このブログへ辿り着く人のほとんどは「よーさん 予言」 で検索をかけている人らしい 。そろそろ「よーさん」以外のコンテンツでもこのブログを認知してもらいたいものだが、みなさん「よーさん予言」の情報を欲しているということなので、第4弾を書くことにしました。

    ところで、よーさん予言に関する記事を書き始めてだいぶ時がたった。改めて「その1」から読み直してみると面白い(自画自賛)。「その1」〜「その3」まで、私自身の理解度に合わせて記事の内容にも変化がある。

    「その1」では男性性と女性性の理解度が低すぎて、混乱があった。現在は完全に理解しました!

    「その2」はとある方のコメントを取り上げてバトルしてみた。

    そして、「その3」は答えを出すつもりで書いたけど、やはりわかりにくかったかもしれない。

    ということで、今回も「よーさん予言」の理解度を上げてもらうための記事を書いてゆきます。記事中ピンクのボックスは「よーさんの言葉」。読み終わればその言葉の意味がわかるようになるかもしれない。

    1と2と3は生命(宇宙)の基礎

    2→1→2→3の流れ

    よーさん記事にはコメントを色々いただいている。ありがとうございます。その中でも本質を突いたコメントをさっそく引用させていただく。

    2→1→2→3の流れが、生命の誕生に至るまでの流れそのものですね!

    このコメントを読んで、まさしく!と思った。『2→1→2→3』という流れがどこから出てきたのかというと、よーさんのこちらのコメントから。

    二つはある人たちにより混ぜられ一つになっているが、それが元の二つに戻ろうとしてる/でもそろそろ三つにしても良いなって世界が思ってる

    生命の誕生に至るまでの流れとは、精子と卵子(2→)が出会って受精卵(1→)になって、そこから細胞分裂していくという(2→3)こと。

    結局のところ1と2と3とは、生命とか地球とかの基礎になるもののこと。例えば、「男(1)」と「女(2)」が出会って「新しい命(3)」が生まれる。1と2は種類の違うもので、それらが合わさったものが3ということ。

    『2→1→2→3』という流れはこうも解釈できる。「自分(3)」が「父(1)」と「母(2)」から生まれた存在であると自覚しているならば『2(男と女)→1(自分)』という所までの流れを意識できている状態。

    そこから進んだ状態が『2→1→2』。現代の私たちは1(男)と2(女)の違いをすごく意識し始めた。昨今、ジェンダー問題の議論が盛んになっているようであるけれど、それはわたし達が性別の違いを強く意識し始めたから起きている。

    ここまでの流れは『2(男と女→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)』ということ。「分別の意識」とは違いを強く感じること。

    そしてさらに進んだ状態が『2→1→2→3』となる。最後の3は分別の意識があることを認め、自分自身が父と母(1と2)や男と女(1と2)など、どちらの要素も含んでいることを認めた自分のこと。最後にやっと「本当の自分」に気が付くという流れである。

    この3を「本当の自分」と言うのは大袈裟かもしれないが、この3までたどり着くことが困難なのだ。流れの全てをまとめると『(男と女→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)→3(自我)』。

    「本当の自分」を「自我」と表現したけれど、それは3に辿り着いたときに意味がわかると思う。自我については他の記事にも詳しく書いているので、そちらもどうぞ。

    全ての存在は既に3

    この世界に存在する目に見える物の基本になるものは原子である。「原子核(1)」と「電子(2)」で構成されているのが「原子(3)」。さらにミクロの世界を覗くと、「原子核(3)」は「陽子(1)」と「中性子(2)」で構成されている。

    陽子や中性子を、さらにミクロな世界で観察すると「クオーク」という素粒子で構成されていることがわかる。「クオーク」は、アップ(1)・チャーム(2)・トップ(3)というグループと、ダウン(1)・ストレンジ(2)・ボトム(3)というグループになっている。

    アップクオーク2個とダウンクオーク1個で陽子(3)に、アップクオーク1個とダウンクオーク2個で中性子(3)になる。やはり、1と2で3である。ともかく、1と2と3は基礎だということがわかる。

    原子をさらに観察すると、原子核の構成が見えてくる。原子核をさらに観察すると、陽子と中性子の構成が見えてくる。このようなマクロからミクロへの世界へは、マトリョーシカのような入れ子状態であると言える。そしてそれは永遠に続いている。

    この世界は入れ子状態であるのだから、3は1と2を内包している。つまりは、全ての存在が3であると言える。

    『2→1→2→3』という流れの「3」に辿り着いた時、この世界は『3→3→3→3→…』だったと気が付くことになるだろう。

    三つが分かっても何があるわけじゃなく、隠されてる様な事でもない常識的な事だ

    今までの記事と今回の記事の違い

    これまでの記事を1と2と3それぞれの世界で表現してきたのは、わかりにくかった部分もあるかもしれない。今回の記事では、1と2と3を生命の基礎として表現しているけれど、この基礎がそれぞれの世界を作っている。

    「その1」や「その2」の記事で表してきた「3つの世界」は、『悪を憎む世界(悪)』、『平和だけの世界(善)』、『悪も憎まず平和も求めない世界/悪を憎み平和を求める世界(善と悪)』というもの。

    「悪の世界」と「善の世界」も性質が違うもの。この世界は種類や性質が違うものだらけなので、1と2はわりと何ででも表すことができる。けれど3だけは、性質が違うものが合わさったものだということが重要。

    今までの解説はマクロな視点。今回の解説はミクロな視点として考えてもらうとわかりやすいかもしれない。今までの解説は目に見えるものとしての1と2と3、今回の解説は目に見えないものとしての1と2と3ということである。

    目に見えないものとは、原子や素粒子で表されるミクロの世界とか、意識の中(精神)のこと。

    情報を機械的に分別する人間

    1と2(性質の違うもの)は矛盾している?

    「その2」の記事の中で、とある方のコメントを取り上げた。

    1と2は矛盾してる、これが基本。それを両方自分にしちゃってるのは、貴方がまだ我慢してるから。

    このコメントには『人間らしさ』がわかり易く表現されているから、再び取り上げさせてもらう。このブログを書いているわたしは善と悪の性質を両方自分のものとしている様だけれどそれは我慢しているよ(無理しているよ)、というわたしへの指摘コメントであった。

    現代人は基礎を忘れている

    指摘のように、確かに『相反する性質が両方自分である』と理解することは難しいのである。なぜ難しいのかと言うと、現代は生命の基礎を忘れている人が多いから。

    先ほど述べた流れで言うと、現代は『2(男と女)→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)』というところまでやっと来た。『自分の中にある分別の意識』にやっと気がつき始めた時代である。つまりは、生命の基礎を思い出そうとしている時代。

    分別(判断)を繰り返している人間

    わたし達人間はみんな相反する性質を抱えている。人間を含めた全ての存在が、相反する性質を抱えているものなのに、それを認められない。認められないのは何故なのだろうか?

    人間は分別(判断)をする生き物で、どちらかに決めるのが普通になっている。例えば自分自身を、善か悪かどちらかの存在として決めておきたい、という意識が染み付いていたりする。

    人間は地球に生まれてから今まで、分別(判断)を何度も繰り返して結果を出してきた。結果とは現在である。分別(判断)という作業に慣れきった現代人は、物事が『どちらかの状態であること(結果)』に安心するのだ。

    『分別(判断)と結果』の例をあげればキリがないけれど、例えば人間からは、男か女が生まれる。生物学的に中性な人間は生まれないのが当たり前。人間が子供を作るたびに男か女かの分別がされ、結果として「生まれる」。

    分別病

    世代交代を繰り返しながら地球に永く生きている人間は『分別(判断)からの→結果(どちらかの状態)』という経験をずっとしている。その経験は遺伝子に染みついているから「相反する性質」両方を自分の中に抱えることに違和感を感じることになる。これはもう現代病みたいなもの。

    結果を出すことによって『性質がどちらかに決まる』というのが当たり前になっているから、『性質が決まらない状態』を「居心地が悪い」と感じる。だからこそ、自分の中に『相反する性質両方が存在していること』を認められない。

    人間には「脳」という思考をもたらすものがあり、自我もある。自我によって情報を書き記し残す生き物。過去生きていた人が情報を残し、それを後世の人間が学ぶ。わたし達は自分自身の経験だけでなく、残された情報から繰り返し学習も行なっている。

    例えば、第二次世界大戦で日本はアメリカに原爆を落とされて降伏した。この情報からわたし達は「アメリカは勝利」「日本は敗北」という判断をしているから、それが結果となっている。日本人には「日本は負けた」という意識が強く染み付いていると思う。

    そして『原爆が落とされたこと』について、日本人であるわたしたちの意識は「悪」であると判断している。原爆投下が「善」という判断になることはほとんど無いはずだ。このように人間は過去の情報についてもはっきりと分別をしていることが分かる。

    残された情報からも『分別(判断)からの→結果(どちらかの状態)』を学んでいるのだから、しつこいくらいの経験と学習である。それがこの現代病を作り出している。

    情報と進化

    もしも、過去の情報が全く残っていなかったら、一からの学習になるので人間は生命の基礎を忘れないであろう。けれど人間は過去の情報から進化する存在なので、そういったことにはならないし、情報を残さないのは「人間」では無い。

    進化の代償として生命の基礎を忘れる人間。取り入れる情報が増えれば増えるほど、生命の本質から離れていくことは少し悲しい。

    情報に苦しめられる人間

    こちらの記事で「アンドロゲン不応症」という病気について少し触れた。「リング」という物語に登場する「貞子」は「アンドロゲン不応症」という設定なのである。原作小説の設定であるが。

    この病気は遺伝子的には男性なのに、実際の身体は女性という珍しいものである。生物学的に中性な人間は生まれない、と言ったけれどある意味「アンドロゲン不応症」は中性であるのかもしれない。

    けれど、わたしたちは意識で当たり前に男と女を分別しているので「アンドロゲン不応症」という名前をつけて「普通」とは違うものとして捉えてしまう。

    『遺伝子的には男性で身体の造りは女性』という事実に直面したとしても、違和感を持たず、何も感じない状態でいることができるだろうか?

    一瞬でも『普通とは違う』と感じたのならば、『男と女を分別する意識』を持っているということになる。けれどそれが当たり前の人間。

    「リング」では呪いのビデオテープが広まることで「貞子の呪い」が広がる。物語の中にはテレビやビデオテープや電話が象徴的に登場する。それらはどれも情報が伝わるもの。

    わたしたちはありとあらゆる情報を、機械的に分別(判断)して決定をする(結果を出す)生き物。けれど、自らが導き出した単純な結果から苦しめられている。それが情報による「呪い」なのである。例えば映画「マトリックス」に登場する黒電話も『情報を伝えるもの』。

    ネオは、始めプラグに繋がれ夢を見ている状態であったが、プラグを外され現実世界の真実を知った。そこからまたプラグを繋ぎ「マトリックス」内へ。「マトリックス」は「意識の中(目に見えないもの)」を表している。

    黒電話はマトリックス(意識)と現実世界を繋げるもの。意識の世界と現実世界は情報が行き来している。わたし達の生きる現実世界とは、情報を伝えるもの(黒電話)から情報を受け取って目に見えるものとして表現する場所である。

    関連記事:精神世界(意識)と現実世界の行き来について

    人間は情報に直面すると、意識の中(マトリックスの中)で分別を始める。分別し「悪(エージェント)」と決定したものとさらに意識の中(マトリックスの中)で闘う。

    わたし達は、情報の中から意識で「悪」と分別(決定)したものを、現実にそのまま持ち込み「悪」と見立てて戦うことがある。それが戦争などである。意識の世界と現実世界は密接に繋がっているから、戦争は起きる。

    ネオはマトリックスの中(意識の中)で無数のエージェント(悪)と戦闘するけれど、マトリックス内で攻撃を受けると、現実の肉体も傷つくことになる。

    恐ろしいことに、情報を意識で「悪」と分別してしまうと現実にも「死」をもたらす。同じく「貞子」のビデオテープの「呪い」は見るものに「死」をもたらすが、それもやはり発端は情報(ビデオテープ)なのだ。

    情報とそれを分別する意識はわたし達人間にとって「死」を強く感じさせるものとなってしまう。しかし「死」とは一つの結果である。

    人間(生命)は本来相反する性質を両方持ち合わせているから「死」と「生」両方の性質を持っているのに、「死」という片方の結果にひどく怯えている。分別して一つの結果ばかりを導き出してしまうからからこその「呪い」である。

    「貞子の呪い」はビデオテープから広がるのであるけれど、ビデオテープをダビングすると「貞子の呪い」から(「死」から)逃れることができる。「死」から逃れようとするから「呪い」は広がってしまうのである。

    「呪い」の発生原因は人間が『分別して結果を出す』から、「呪い」が伝染していく原因は人間が『死を恐れる』から。

    本当の自分を知ることは怖いこと

    「マトリックス」の冒頭、現実に存在しているプログラマーとして働いているネオは、分別している自分自身に気がついていない状態。本当の自分を知らない状態である。

    けれど赤い薬を飲んで『分別する自分(本当の自分)』を知ると言う選択をした。だからこそ意識の中でエージェント(悪)と戦うことになる。『分別する自分自身』が現実に起きる「悪」の原因であることを理解する過程が始まるのである。

    「普通」であること

    「貞子」は両性具有ともいえる「アンドロゲン不応症」であり、自分自身が『普通ではない』ことを自覚している。「貞子」には超能力があり、そのことについても周りの人間が『普通ではない』と決定していた。

    『普通であること(分別をし、どちらかに決定すること)』も「呪い」の原因となるが、『普通ではないこと(相反する性質を持っていること)』も「呪い」の原因になる。

    「貞子」は「普通でありたい」から「呪い」を広げる。言い換えれば「貞子」は『自分自身が普通ではない』ことを『普通であること』に変えたいということ。だから、人間の意識(常識)を変える為に「呪い」を生んだ。

    「普通」ではないこと

    貞子から「呪い」が生まれたのは「憎しみ」が原因だと考えるかもしれないが、人間は本来『相反するものが違和感なく混ざり合っている存在』であることを多くの人に知って欲しいという強い意識から生まれている。それが「女」の根源的な願いである。

    けれどそれは「彼女」以外の人間には大きな「呪い」となってしまう。人間が「本当の自分」を知る過程を経験するのはとても辛く苦しいこと。

    男性は「単独(1)」という性質を持っている。対して女性は「二重(2)」の性質を持っている。「二重性」とは『相反する性質』両方持っていること。女性は世界に「二重性」を保つために存在しているから、必然的に「呪い」を広げる存在となってしまう。

    「単独」である男性は「二重(女性)」という性質を知らないから、「呪い」という「二重性(本当の自分)」を知らしめるものに苦しめられる。自分に無いものを理解することは難しい。

    男性に限らず『相反する性質が両方自分である』と感じられない現代人にとっても、その「呪い」はとても厄介なものとなる。

    けれど男性女性関係なく、誰だって自分自身が『二重性(相反するものが違和感なく混ざり合っている存在)』であることに気が付くことができる。人間はそもそも『普通ではない』存在であることを忘れてはいけない。

    よーさん予言が理解できる人とできない人

    現代的「人間らしさ」

    「その2」でコメントを取り上げさせてもらった方は、かなりの現代人である。だからこそ、違う性質を両方「自分」とするのはおかしい、とわたしに伝えてきたのであろう。

    相反するものをどちらも自分のもの、とすることは現代人にとっては、我慢や無理をしているような感覚になってしまうもの。相反するものは矛盾しているから共存できない、という考え方を持っているのが「普通」である。これが現代人の考えている「人間らしさ」である。

    考え方が違うと仲良くできないから、距離を取るのが当たり前。思想が違う人とは絶対に分かり合えない。このような考え方を持っているのならば、現代人的な「人間らしさ」を持っていると言えよう。

    原始的「人間らしさ」

    わたしがこのブログを始めたのは『相反する両方の性質が自分の中に矛盾なく(無理なく)存在している』ということに気がついたことがきっかけ。『2→1→2→3』という流れ最後の「3」に辿り着いてしまった。

    脳細胞が変化するくらいな衝撃と共に『相反する性質の両方が自分の中に矛盾なく存在している』ということに気がついてしまった経験が過去にあった。その時からわたしの中の「人間らしさ」の基準は変わってしまったのだ。

    変わったというか、原始に戻ったのである。生命の基礎という当たり前のもの、つまり1と2という種類の違うものが合わさって3が存在している、ということを改めて意識し理解することは、原始の意識に戻ること。

    『分別(判断)→結果(どちらかの状態)』を繰り返し学んでいるのにもかかわらず、『相反する両方の性質が自分の中に矛盾なく存在している』ことに違和感を感じなくなる。

    どちらかの状態(結果)が現れている現実を生きているのに、相反するどちらの状態も含んでいるのが人間であることを理解するから、違和感がなくなってしまうのである。

    ちなみに量子力学では「重ね合わせ」という状態があるけれど、相反するものが同時に存在している状態である。「重ね合わせ」こそ生命の基礎である。

    人間(生命)とは、そもそも相反する状態を抱えているのが当たり前だと考えること。これを『現代的人間らしさ』の対極にあるものとして、『原始的人間らしさ』と名付けたい。

    「よーさん予言」が理解できる人とできない人の違い

    「人間らしさ」をどう解釈するか

    このように、現代人の多くが理解している「人間らしさ」と、わたしが今現在理解している「人間らしさ」は全くの別物なのである。「よーさん」は脳細胞が変化するくらいなレベルで「人間らしさ」の解釈が変わってしまった人。「よーさん」は原始の人である。

    原始の人であれば「よーさん予言」の内容が無理なく理解できるはずだ。つまり、「人間らしさ」の解釈によって、「よーさん予言」が理解できる人と、「よーさん予言」が理解できない人にはっきりと分かれてしまう。これが「よーさん予言」のからくり。

    「よーさん予言」が理解できない人

    「よーさん予言」が理解できない人は、人間が分別する(判断する)生き物であることに罪悪感を持っており、相反するものが自分の中に共存することを納得できない。

    「よーさん予言」が理解できる人

    「よーさん予言」が理解できる人は、人間とは分別する(判断する)生き物であることを腹の底から理解しており、相反するものが自分の中に存在しているのを実感している。

    人間らしさは大事だけど、人間らしさに縛られてはダメ、動けなくなってしまう

    脳細胞が変化するレベルの理解とは解脱のこと

    理解している人について

    よーさん予言の記事にコメントをくれた方々は、『現代的人間らしさ』を持っている人がほとんどであった。しかし『原始的人間らしさ』を持っている人もいるみたい。とあるコメントを引用させてもらう。

    初めまして。よーさんの妄想と関係あるかはわからないのですが、「三つが本当に脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解」を経験してから「虚無」を感じなくなったんですが、pancyanさんも同じような経験をされた方ですか?

    自分の中では3つについては世界がどうとか全然関係なくて、もっとシンプルで分かり易いものなんですけど。

    この方は、1と2と3がシンプルで分かり易いものだと気がついている。ということは、1と2と3が当たり前のものだと理解している。そしてやはりこの方も脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解が起きているようだ。わたしも同じく「虚無」を感じなくなったから、同じ体験をしているのだろう。

    虚無感が何故発生するのか?

    人間に「虚無感」が発生する理由は、生命の基礎について理解できていないため。虚無を感じるのは『何故生きているのか?』という問いが発生してしまうから。そしてその答えがはっきりと出せないから虚無を感じる。

    しかし、生命の基礎を理解していると『何故生きているのか?』という疑問はなくなる。『生きていること』が当たり前になるので。

    人間は高度な知能を持った生命体であるからこそ、理解できないことがあるともどかしくなる。「虚無感」とは思考してしまう生き物しか感じないもの。

    当たり前のことに気がつくことを「解脱」と言う

    誰でも知っている当たり前のことをもう一度強く意識してみることが、「よーさん予言」を紐解くコツである。当たり前のことにはっきりと気がつくことをわたしは「解脱」と言っている。一周回って、世界が当たり前すぎてびっくりするのが「解脱」という体験。

    世界が「愛」でできている!世界は「無」である!という気づきは結構よくある。世間では「アセンション」とか「悟り」とかいう言葉で表現されているのかもしれない。精神世界やスピリチュアルに興味が強い人は、そのような体験をしているかも。

    しかし、世界は「1と2と3」でできている!という気づきが「解脱」である。このブログでは「悟り」ではなくて「解脱」をメインに解説している。だからちょっと異質であると思う。1と2と3という生命の基礎は当たり前すぎて、逆に説明が難しいもの。

    当たり前のことだから別にわざわざ「解脱」とかいう名前をつけて話す内容でもないのである。「解脱」と言うと凄そうなものに思えるけどそうでもない。

    三つが本当に脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解したら、自然と辿り着けるようにできてる

    視点はひとつだけ

    最後にこちらのコメントを引用させていただきたい。

    もっと広い意味だと、3つとは視点。

    円錐を見せられて、ある人は横から見て三角だ!ある人は上から見て丸だ!と。本当は円錐なのに。

    丸だ!三角だ!ケンカする始末。戦○に発展しなけりゃいいね。偏りきってる人は怖いね。どこにでも正義マンはいるもんだね。

    このコメントをくれた方は、1と2と3をそれぞれの視点として見ている。1と2と3はそれぞれ違う存在なので間違いではないのだけれど、視点(見え方)だけで考えるのは「本質(生命の基礎)」から離れていってしまうので注意が必要です。

    この世界には3という視点しか存在していない。1と2の視点は想像(空想)でしかない。3とは自分(あなた)です。3という存在だけが世界の見え方を決定している。

    この世界には自分しか存在していないのだから、視点だって自分だけしかない。意味がわからないかもしれないけれど、原始に還ってみれば理解できるはず。原始とは子供の心のようなもの。子供は経験が少ないから分別をはっきりとできない。

    三つ目が難しいのは、自分でいろいろやらないといけないから/子供の頃の方が楽しい、そんな感じ

    ということで、「よーさん予言」の解説その4でした。今までで一番分かり易く書けたのではないかと思うけど、どうだろうか。読んだ感想などはぜひぜひコメント欄にどうぞ。お待ちしております。

    陽子に関するおもしろニュース

    これまで物理の教科書には「陽子は2個のアップクォークと、1個のダウンクォークが結合したものである」と書かれていましたが、これからは、さらにチャームクォークと反チャームクォークのペアを加えて記入する必要があるかもしれません。

    陽子に新たな素粒子が含まれている可能性が浮上!教科書に書き直し必須か?

    タイムリーに陽子に関する新しいニュースを見つけました。なんと、陽子は3つのクオークだけで成り立っているのでは無いのかもしれない!とのニュース。

    チャームクオークという新たなクオークも含まれているかも?との結果が出てきたとのこと。結果は人間の意識で変えることができるものだけれど、まだ決定していない状況であるとき、含まれているものはあらかじめ大体決まっている。

    科学の世界で人間の予想が当たるのは、いくつかの選択肢はあらかじめ決まっているから。大まかなあらすじは決まっているのだから簡単な選択を楽しむべきだとわたしは思う。

  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 前編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 前編

    諏訪大社について書いた記事にある日こんなコメントをいただいた。

    諏訪大社の御神体が人間そのもの、というのは全ての存在が人間そのものだとは思いますが、その通りらしいですが、出雲の御神体が人間そのもの、という面を読め、と来ました。
    すみません、まだ私には答えが降りてきてないですが、その意味をpancyanさんがわかると降りてきたので、コメント残させていただきます。

    わたしは『諏訪大社の御神体は人間そのもの』というようなことを、その記事に書いていた。コメントをくれた方は『出雲(大社?)の御神体こそが人間そのものである』と教えてくれた。(諏訪大社について書いた記事、今読むと文章がまとまっていないと感じる。書き直したい。)

    出雲大社の御神体についてとりあえず色々調べてみたところ、謎が多く気になる。コメントによるとわたしには何かがわかるらしいので、今回の記事は出雲大社の御神体について紐解いていくことにします。

    出雲の神 大国主

    大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。

    大国主(wikipedia)

    出雲大社に祀られている神様(御祭神)は大国主という神様。そして今回の記事のテーマは『出雲大社の御神体について』である。ここで一つ気になったのが「御祭神(ごさいじん)」と「御神体(ごしんたい)」の違い。その違いについてあまり考えたことはなかったのでちょっと検索してみた。

    御祭神について

    元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。

    延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。

    祭神(wikipedia)

    神社に祀られている神様を「御祭神」と言う。現代では『神社=御祭神』という 図式が定着しているが、元々神社は自然崇拝から始まっており、人格のある神ではなく、海や山や川などが信仰の対象になっていた。

    古事記や日本書記には伊勢神宮や住吉神社の「御祭神」の存在が記述されているという。伊勢神宮の「御祭神」は天照大神という神。御祭神を祀るための神社の登場は、伊勢神宮が創られた頃なのだろうか?

    御神体について

    神体(しんたい)とは、神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。 宗像大社では沖ノ島、大神神社では三輪山が神体とされ、皇大神宮では三種の神器の一つの八咫鏡とされるなど様々である。

    その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。

    神体(wikipedia)

    神が宿るもの・神が降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物を「御神体」と言う。

    に降りる場合は神籬(ひもろぎ)または御神木(ごしんぼく)
    に降りる場合は磐座(いわくら)または岩坂(いわさか)
    に降りる場合は神奈備山(かんなびやま)

    出雲大社の歩き方

    引用させてもらったように、神が宿るものによって名称が変わるのは面白いですね。ところで、伊勢神宮の内宮に祀られている「御神体」は八咫鏡(やたのかがみ)である。つまり、天照大神が宿るのが八咫鏡という「御神体」。ちなみに外宮にも豊受大神が宿る「御神体」があるらしい。

    目に見えるもの(御神体)と目に見えないもの(御祭神)

    「御祭神」と「御神体」の関係性。元々は自然崇拝から始まった神社。海や山や川という自然から、神様という人格を持ったものを崇拝するようになったけれど、それは実際目に見えるものではないから場所や物を依り代(御神体)としている。

    人間は「実在性(目に見えるもの)」を重視しているはずだ。依り代として物体を祀ること・神が人格を持つことは実在性を強く感じる為だと考えられる。『自然が神』などと言われても、どこかふんわりとしていて、それを信じるには何か強い確信のようなものが必要だ。

    神社の境内の中にある樹齢何百年もある大木を見て、そこに神がいると感じることはあるかもしれない。けれど、道端のアスファルトの割れ目から生えるなんだか強そうな外来種の雑草に神を感じることはできるだろうか?

    古代の自然崇拝とは『全ての生きとし生けるもの』を神とするものだった。しかし、現代はどうだろう。わたし達はいつだって分別をしていて「神っぽいもの」とそうではないものにも分別をしていると感じる。さらには、目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。

    何かを信じる時「目に見えているもの・信頼があるもの・確実なもの」で安心するのならば、「目に見えないもの(神)」を信じることができなくなってしまった証拠なのだと思う。

    神社の役割について

    神と対話する場所

    御祭神と御神体について考えてきたけれど、「神社」という場所についても考えてみたい。ついでに「神」についても。

    神社とは「神」に向き合う場所である。「神」とは心の中に存在するもので、そもそも目に見えないもの全ては人間の心の中に存在している。

    神社には「ご利益」を求めてお参りをする人が多いが、迷いについて答えを求めたり、願い事をする人もいる。とはいえ、実際願いを叶えるのは自分自身の力であるし、答えを決定するのも自分自身。

    単刀直入で申し訳ないけれど「神」は現実に存在しないのだから、人間は「神」というイメージを創造し手助けをしてもらっているだけなのである。

    (ちなみにこちらの記事では「神」の存在を力説しているわたしであるが、現実に存在しない「神」についての話なのであしからず。)

    神社で『神に向き合うこと』とは『心の中に存在する「神」というイメージとの対話』である。「私と神劇場」を自作自演しているようなものなのだ。

    共有されたイメージの力

    日本における「神」のイメージは、古事記や日本書記に記されるような神々であるが、現代においてその神々の神格は定着している。神社には必ず御祭神がいて、その「神」のイメージは既に多くの人に共有されているということ。

    目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。

    先ほどわたしはこのようなことを書いたけれど、多くの人のお墨付きがあるものは人間にとって信じやすいものになる。例えば、太宰府天満宮には「学問の神(菅原道真)」がいるから合格祈願に行く人が多い。そして実際に合格したのならば「神」のご利益があったと考える人もいるだろう。

    『神社に行ったらご利益があった』というストーリーがその場所に蓄積していくと、それが人間を信じさせるための大きな力となる。多くの人々に共有されたイメージは、人間が強く信じる為に必要なもの。つまり、神社は『神を信じやすい場』としてうまく機能している。

    そして、既に日本人に共有された「神」のイメージと相まって『神社と神』という最強の組み合わせとなる。多くの人々が神社を訪れるのは、共有されたイメージから自分の「力」を引き出す為である。

    弱さのある人間

    人間は自分に力があることを信じていないとき、神の力を借りる。人間の心は弱い。弱い心では強い行動ができないから、神社という「信じやすい場」を利用して自分を騙す。

    神社という場所で「神」に向き合うことで、願いを叶える為の努力を始めたり、迷いから抜け出すよう自分を仕向ける。「神」を利用することで自分の行動を肯定することもできる。

    「神」の役割は弱い心を補うだけではない。「神」と対話する手法で「自分の心」を解き明かすこともできる。自分の心を解き明かすためには、心を開示する必要があるから聞き手として信頼できる「神」は重宝される。

    人間にとって「神」は「自分の心の代理人」として存在している。「神」という人格に自分の心のうちを語らせることで、普段は出てこない心の奥底にあるものを知ることができる。自分の心のことがよくわからない人間こそ「神」を必要としているのだろう。

    人間の本体は心(魂/精神)

    人間の本体は心である。心は魂や精神と呼ばれることもある。それらは目に見えないから、つかみどころがなく人間には理解しがたいもの。人間にはよくわからないものが、人間の本体であるということは、人間最大の困難である。

    宗教で人の心が変化することがあるのは「神」と真剣に対話するから。心の中から何を引き出すかによって、良い変化が起きたり、悪い変化が起きたりする。日本では悪い変化が起きた結果、悲しい事件が起きたことがあったから、宗教のイメージは最悪である。

    宗教に所属せずとも「神」と会話ができてしまう人がいるようだけれど、その「神の声」が「自分自身の声」であることを理解できていないことは危険なこと。

    人間は「自分自身の心」のことを理解できないように、「神」のことも理解できない。「心」のことを理解できないまま「神」を利用するのならば、細心の注意を払うべきである。ということで、説明が駆け足であったかもしれないが「神社」と「神」についてのまとめ。

    神社は「神を信じやすい場」として機能しており、神は「自分の心の代理人」であるということ。

    出雲大社の御神体について

    大国主神の別名

    さて、やっと本題に入ろう。出雲大社の「御祭神」は先ほども述べた通り「大国主」という国津神である。「大国主」には別名がたくさんある。以前、崇神天皇についての記事の中で「大物主(おおものぬし)」についても書いたけれど、「大物主」も「大国主」の別名である。

    出雲大社の御神体は、謎

    「御神体」についてネットで調べたところ、様々な噂が飛び交っている。先ほども引用させてもらったサイト(出雲大社の歩き方)から、「御神体」と思われるもの一覧を書き出してみる。

    • 七宝の筥(はこ)
    • 九穴の鮑

    「御神体」と思われるもの一覧について、詳しくはリンクしたサイトをご覧ください。このような噂はあるけれど「御神体」の実際のところは分からない。しかしながら、ヒントとなるものは出雲大社の造りにあると思われるのだ。

    大社造(たいしゃづくり)の特徴

    出雲大社(いずもおおやしろ)に代表される大社造は、伊勢神宮に代表される神明造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされる。

    大社造(wikipedia)

    神様が住まう場所としての神社、御神体が納まる場所としての神社には、様々な形態がある。出雲大社は「大社造」と呼ばれる神社建築になっている。神社庁による社殿(神社)の説明によるとその形態には大きく分けて2つあるそうだ。

    建物自体、細部まで見るとその違いは多岐にわたりますが、大きくみてその様式を二つに分けることができ、一つは高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」であり、もう一つは古代の住居の形から発達した「大社造」となっています。

    神社本庁

    出雲大社に見られる「大社造」は古代の住居から、伊勢神宮に見られる「神明造」は高床式穀物蔵から、という違いがある。住居用と食物貯蔵用の違いは大きい気がする。今回の記事を書くにあたって「大社造」の気になる特徴を一覧にしてみる。

    • 男造(おづくり)・女造(めづくり)
    • 心御柱(しんのみはしら)・宇豆柱(うずばしら)
    • 9本の柱
    • 正方形の「田の字」の形
    • 「妻入り」という出入り口
    • 本殿天井の「八雲之図(やくものず)」
    • 本殿内の「御客座五神」と「和加布都怒志命(わかふつぬしのみこと)」

    とりあえず羅列したけれど、これだけの特徴があれば、出雲大社の御神体について紐解くことができるはず。ずうずうしくも、UOZAブログ的考察で解き明かしていきたいと思う。

    出雲大社「大社造」の秘密を解き明かす

    御神体は西を向いている

    出雲大社の謎のひとつに『御神体が正面を向いていない』というものがある。大国主の宿る「御神体」は出雲大社の本殿にある。通常は本殿を直接参拝することはできず、「八足門(やつあしもん)」から参拝することになっている。公式サイトの境内図を見ると、八足門から伸びる壁が本殿をぐるりと囲んでいる。

    大国主を拝するのに八足門に向き合い参拝するのであるが、肝心の御神体は向かって左(西側)を向いているのである。参拝したとしても御神体と向き合うことにはならない。

    一般的な神社本殿は南か東を向いて造られていて、同じく御神体も本殿の正面に合わせた向きで配置されている。出雲大社の本殿も同じく正面が南を向いているのであるが、中にある御神体は西を向いているのである。

    ネット検索すると西を向いていることについても様々な説が飛び交っている。それら説を見比べることも面白い。

    本殿の内部構造

    出雲大社本殿内部の見取り図を、出雲大社公式サイトから引用させていただきます。

    third-img2-1

    御本殿出雲大社)

    このように、正方形の建物の中に東を向いて「御神体(御神座)」が納められている。この構造の面白いところは、入り口の扉を開け建物に入ると正面には壁があるところ。だから、ぐるりと右回りするような形で進むと「御神体」に対面することになる。

    wikipediaから引用させてもらった以下の画像を見ればわかるように、この構造は「男造」というものになる。対称的な構造として「女造」がある。例外もあるが、男神なら「男造」女神なら「女造」となっているようだ。

    大社造

    真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による

    一般的に出雲大社や熊野大社に代表される男造の神社は主祭神が男神となっていることが多く、神魂神社や揖屋神社に代表される女造の神社は主祭神が女神となっていることが多いとされる。

    大社造(wikipedia)

    この二つの構造を初めて知った時、人間の心(精神)の造りとまったく同じであるということに、わたしは気がついた。「男造・女造」を重ね合わせると「心の構造」になっているのだ。

    心の構造と大社造

    「男造・女造」を重ね合わせたものと「心の構造」が同じであることについて解説していきたいが、「心の構造」がどうなっているか、人間はあまり知らない。

    けれど、わたしはこのUOZAブログで「心の構造」について既に説明してきている。「この世界の真実」という記事では、わたし達の生きているこの世界の仕組みについて解説したのであるが、その記事の中で使用した以下の図を見てほしい。

    truth-of-this-world

    この図の中には、赤い実線の矢印で表される『未来に進む時間(現実世界)』と、青い破線の矢印で表される『過去に戻る時間(精神世界)』がある。大社造の「男造・女造」それぞれの構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。

    この図は「心の構造」の見取り図であるけれど、わたしが考えたものであるし、この図が正しいことを証明するのは難しいかもしれない。けれど、今回出雲大社の御神体について紐解いていくことで、この図が人間にとって普遍的なものであることを逆に証明していきたい。

    ということで、とりあえず話を続けてゆく。

    未来に進む時間・過去に戻る時間について

    頭の中で起きていること

    まずは時間についての話をしておきたい。人間は現実世界を生きていて、時間が流れるから歳をとる。そんな当たり前過ぎることが『未来に進む時間』。図の中の、赤い実線で表される右回りの流れである。

    次に『過去に戻る時間』について。現実の時間が過去に戻ることはないけれど、人間の頭の中では時間が逆行している。このことにはっきりと気がついている人はあまりいないけれど、図の中の青い破線で表される左回りの流れがそれを表わしている。

    2つの時間の流れ

    わたし達人間は、毎日判断をしながら生きている。生きているときの全ての行動は判断の結果であり、そこには自由意志がある。

    例えば学生や社会人は、朝目覚めたら学校や会社に出かけるための行動を始める。それら行動は義務のようなものであるけれど、各個人の判断の結果でもある。時には自己判断で学校や会社を休むこともできるし、辞めることだってできる。

    次にどんな行動をするのか常に頭の中で考え、決断し、行動に移しているのがわたし達人間。意識していないかもしれないが『過去の参照→分析→実行』という一連の流れが、人間の頭の中で起きている。

    わたし達人間は過去に起きたことを記憶している。過去の出来事を参照し、分析し、自分にとっての最適解を出しながら行動している。この繰り返しをしているのが人間なのであるから、人間の行動を決定付けるものは記憶という過去の出来事なのである。

    流れの中の「過去の参照→分析」部分が『過去に戻る時間(左回り)』のこと、「実行」部分が『未来に進む時間(右回り)』のこと。この2つの時間の流れは「心の構造」の中で重要なものである。

    心とは何か

    心の働きは流すこと

    頭の中で起きていることが「心の構造」と言うのには違和感があるかもしれないが、「過去の参照→分析」という計算が頭の中(脳)で行われているだけで、実際に一連の流れを起こしているのは心(心臓)部分なのである。

    人間は心臓が止まると死んでしまうが、動いているときは「生きて」いる。人間が「生きて」いるには血液が「流れる」ことが必要であるし、2つの時間が進むにも「流れる」ことが必要。

    頭(脳)の働きは計算すること・心(心臓の)働きは流すこと、という違いがあるけれど、流れが止まっていたら計算もできない。だからこそ心(心臓)の働きが重要。

    右回りと左回りの重なり合い

    右回り(未来に進む時間/実行)と左回り(過去に戻る時間/参照と分析)が休まず同時に行われているのが人間の心。心とは、右回りと左回りが重なり合うもの。わたし達は誰もがこの重なり合いを体験しているのであるが、それについて意識している人は少ない。

    UOZAブログでは、いくつかの記事で心の重なり合いを解説してきたのであるが、「大社造」には既にこの「心の構造」が表現されているのだ。

    大社造と国産み神話の共通点

    天の御柱を回る神々

    同じく島根県にある「神魂神社」は日本最古の大社造建造物であり「女造」である。御祭神は伊奘冉(イザナミ)という女神。ところで、日本神話には「国産み神話」というお話がある。その中でイザナギ(男神)は天の御柱(あまのみはしら)を左回りに、イザナミ(女神)は天の御柱を右回りし、出会ったところで交わり国を産む。

    大社造

    真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による

    ここでもう一度「男造・女造」の図を見てほしい。男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしらを左回りすることになる。そして、女神は右を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば、心御柱(しんのみはしらを右回りすることになる。

    「大社造」は、そのまま「国産み神話」と同じ構造になっている。「国産み」とは人間世界の始まり・宇宙の始まりのこと。世界の始まりには、右回りと左回りしている「心の構造」が大きく関わっているということを、「大社造」と「国産み神話」は伝えているはずなのだ。

    「国生み」について詳しくは他の記事をどうぞ

    心の状態が生まれる瞬間

    右回りと左回りが同時に行われることで「国を産む(世界が始まる)」ということについて今回の記事では深堀りしないけれど、以下で紹介する2つの記事に書いているのでそちらを読んでほしい。

    関連記事:2つの時間の重なりが因果を生む

    「2つの時間の重なりが因果を生む」という記事の中では、仏教用語である「異熟果」の解説をしている。「異熟果」をわかり易く言うと「心の状態」である。「心の状態」は、右回りと左回りが交差する瞬間に現れるものである。

    現実世界の時間の流れは過去から未来へ。精神世界の時間の流れは未来から過去へ。その時間の流れが交差する瞬間が「今という瞬間(異熟果)」である。そして、この世に現れる森羅万象を創造している(入力と出力を同時に行う)のが、現在の「自分(自我)」である。

    『この世に現れる森羅万象を創造すること』とは『国を産むこと』。2つの時間が流れていることで、交わり、現実が産まれている。詳しくは記事でどうぞ。

    世界の投影が行われる瞬間

    関連記事:この世界の真実(最終解答編)後編

    「この世界の真実(最終解答編)」という記事の中では、今回の記事にも引用した図について解説しながら「この世界の仕組み」を解き明かしている。以下に引用したものは、2つの時間の流れと交わりについての文章である。詳しくは記事でどうぞ。

    世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。

    右回りと左回りは鏡写し

    2つの時間は男と女

    話を戻そう。「大社造」と「心の構造」についてこう述べたことについて、もう少し詳しく考えていきたい。

    大社造の「男造・女造」構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。

    再び図を見ながら「心の構造」をおさらいすると、「右回り」が『未来に進む時間/実行』・「左回り」が『過去に戻る時間/参照と分析』である。

    truth-of-this-world

    この図では「男性性」を赤色・「女性性」を青色で表現していて、時間の流れの線だけでなく、その他ゾーンも色分けがされている。「右回り(未来に進む時間/実行)」は「男性性」、「左回り(過去に戻る時間/参照と分析)」は「女性性」になっている。

    「大社造」に置き換えてみると、男の神が祀られている「男造」は「未来に進む時間/実行(右回り)」・女の神が祀られている「女造」は「過去に戻る時間/参照と分析(左回り)」だと言える。

    人間視点と神視点

    人間が「男造」に入り神に向き合うとするならば右回りをして「男神」に出会うことになる。また、「女造」に入り神に向き合うとするならば左回りをして「女神」に出会うことになる。「女造」は右下が入り口となっているので、左に曲がるだけであるが。

    「大社造」で人間が神に出会うことは、当たり前ではあるが、人間からの視点ということになる。そして、図にある時間の流れも人間の視点である。

    けれども、『大社造と国生み神話の共通点』で述べたことを思い出すと「男神」は「左回り」・「女神」は「右回り」をしている。これらは神の視点であると言えるから、神々が回る方向が逆になっている。

    肉体と精神・人間と神

    ここで「男性性(赤色)」と「女性性(青色)」について簡単に解説しておきたい。過去記事からの引用である。

    人間には「男」と「女」という性別が存在しているが、実際には心(精神)にも性別が存在している。私たちが頭の中で思考し判断を下すときに、「男性性」という心の性質と「女性性」という心の性質がそれぞれ考え最終的にひとつの答えを出すようになっている。
    つまり心の中には2つの性質が存在していて、それぞれの性質のバランスによって、判断も変わってくる。基本的には性別が男性であれば、心の中は「女性性」が主体となり決定権を握っている。性別が女性であれば、心の中の「男性性」が主体となり決定権を握っている。

    このように、肉体が「男性」であれば心の主体になるものは「女性性」・肉体が「女性」であれば心の主体になるものは「男性性」になっているのが人間の仕組み。人間とは、肉体の性別と精神(心)の性別が逆になっている存在。

    肉体と精神の性別が逆であることと同じく、神と人間の回り方が逆の動きになるのは、人間と神が「鏡写し」の関係性を持っているから。目に見えるもの(人間/肉体)と目に見えないもの(神/精神)は「鏡写し」になっているのである。

    目に見えるもの ↔︎ 目に見えないもの
    肉体 ↔︎ 精神
    人間 ↔︎

    この記事の始めに『神は「自分の心の代理人」である』と言ったけれど、神とは『人間の心の中に存在するもの』であることが、お分かりいただけたのではないだろうか。

    男神と女神の性質

    男の神は現実世界で実行する

    「大社造」で出会う神々はその性別によって性質や役割が違う。ここまで説明してきたことをまとめてみると、そのことが見えてくる。

    人間は「右回り」すると「男神」に出会う。『未来に進む時間』の先に存在する「男神」とは「実行の神」と言える。「男造」に祀られる「大国主」は「実行の神」ということになる。

    大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。

    その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。

    出雲大社と大国主大神(出雲大社)

    「大国主」はこの日本という国を造った、国づくりの神である。人間は行動することで、想像したものを目に見えるものにしていく。行動(実行)しなければ、国も完成しない。当たり前のことであるが、それを表現するのが「男神」だということ。現実世界を生きることは実行の連続である。

    女の神は精神世界で思考する

    人間は「左回り」すると「女神」に出会う。『過去に戻る時間』の先に存在する「女神」とは「過去を振り返り思考する神」と言える。わたし達の頭の中では過去の参照→分析→実行という作業が常に行われているが「過去の参照と分析」は、実行前のとても重要なプロセス。

    「思考」するからこそ感情が生まれ、喜怒哀楽を表現する。「思考」するからこそ、様々な予測をする。そして「思考」は人間を惑わすものでもある。

    人間が精神世界(心/頭)という目に見えない場所で「思考」することを表現するのが「女神」なのである。ちなみに「思考」でどんな行動をするか決定するのであるから、「実行作業」に「思考」はない。

    変わることのない性質

    心の構造である『未来に進む時間・過去に戻る時間』は「男神」と「女神」に置き換えることができる。時間という概念を人間にとってわかり易くするためには、人間と同じ姿形をしている「神」に置き換えることが必要だ。

    ちなみに。「国生み神話」においては神々の回り方が逆であるから、違和感を感じる人もいるかもしれない。神話の通りであれば、「男神」は「過去に戻る時間」・「女神」は「未来に進む時間」になるから。

    けれどもここまで説明してきた通り、神と人間は「鏡写し」の関係性を持っている。私たちが鏡を覗き込むと左右は反転する(流れが逆になる)ように見える。けれど鏡の中の自分は自分のまま。つまり、男と女の性質は変化することがないものなのだ。

    「神」とは、わたしたち人間に目に見えない世界を教えてくれる存在。そう考えると「大社造」は「男造・女造」という構造の中で、一歩踏み込んだところを教えてくれている。

    出雲大社「柱」の秘密を解き明かす

    出雲大社9本の柱

    心御柱と宇豆柱とその他柱

    ここからは「大社造」のそれぞれの柱について考えていきたい。出雲大社本殿を造るのは、全部で9本ある柱。その中心の柱は「心御柱」。「心御柱」は出雲大社だけでなく、伊勢神宮の正殿の中央床下にも埋められている。柱とは神が宿るものである。

    心御柱(しんのみはしら)とは、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てられる柱をいう。日本の神は、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)とした。

    心御柱(wikipedia)

    本殿の内部では「心御柱」がどんな様子なのか調べてみた。実際建築を支えるのに重要なのは「宇豆柱」であるらしい。

    中央にある最も太い柱の心御柱はほかの柱より太く堂々としたものだが、実際には梁を支えるためのもので、構造上、重要となる棟木は二本の宇図柱が支えている。

    出雲大社の象徴的存在、御本殿に迫る(Discover Japan)

    古代出雲大社

    古代出雲大社は、現在のものよりも高さがあったらしい。その高さについては現実味のない話と捉えられていたが、2000年に出雲大社境内から過去の柱が発見され巨大神殿の存在が現実味を帯びてきた。サクッと説明していきたいので、引用が多くて申し訳ない。

    出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっている。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っている。

    出雲大社宮司「千家」家には、古い時代に書かれたと思われる出雲大社本殿の平面設計図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」が残されており、巨木3本を1つの柱として組み、全9本の巨大柱が本殿を支えた構造が記されている。

    日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった?(LIFULL HOME’S PRESS)

    1980年代に大林組が古代出雲大社復元プロジェクトを立ち上げ、実際に建造できるのかどうかを検証していた。復元するための資料として「金輪御造営差図」を参考にし、検証の結果48メートルの出雲大社は造れる!という結果になった。その後、実際に直径3メートルの柱が出土したのだからすごい。

    詳しくは、上記にリンクした記事の中のPDFを読むと面白い。そのPDF中に『古代出雲大社(想定)』9本の柱の詳細が記してあったので、簡単にまとめてみる。

    柱の長さと直径

    岩根御柱(心御柱×1)…直径3.6メートル、長さ36メートル
    棟持ち柱(宇豆柱×2)…直径3メートル、長さ42メートル
    側柱(その他の柱×6)…直径3メートル、長さ36メートル

    それぞれの柱の直径と長さを比べてほしい。この情報はここからの考察に重要なものになってくる。

    気になる点

    わたしが注目したいのは、「宇豆柱」2本が一番長く「大社造」を支える重要な柱であること、「心御柱」が中心にあること、それぞれの柱は3本を1つの柱として組まれていること、「心御柱」と同じ高さの「側柱」。この4点である。

    • 重要な「宇豆柱」2本
    • 中心にある「心御柱」
    • 3本の木を束ねること
    • 「心御柱」と同じ高さの「側柱」

    ここまで『大社造と心の構造』について述べてきたことを前提として、これら4点について考察しながら「柱」の秘密を紐解いていく。ここからの話を読むための建築用語メモを置いておきます。一応。

    建築用語メモ
    棟木(むなぎ)…屋根の一番高い位置に取り付けられる部材。
    梁(はり)…柱の上に棟木と直行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
    桁(けた)…柱の上に棟木と平行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
    妻(つま)…棟木と直行する両側面。

    「宇豆柱」の意味するところ

    「大社造」を「心の構造」ととらえると「宇豆柱」とは何を表すのか。これはあまりにもわかり易い。2本のうずの柱ということは、右回りの渦(うず)と左回りの渦(うず)という、2つの渦ということ。

    強引であるかもしれないが、「宇豆柱」は「男造(男神)・女造(女神)」を表わしているということ。柱は神なのだから、すでに2柱の神が「大社造」を造る部材として存在しているということになる。

    この2本は一番長く、棟木を支える大切な柱。2柱の大黒柱とも言える男神と女神が「大社造」全体を雨や風から守っている。けれども、男神と女神が本来守っているものは「大社造」の中心に存在する「心御柱」なのである。そう言い切れる理由については後述。

    「心御柱」の意味するところ

    「心御柱」は「自我」を表す

    「大社造」を「心の構造」ととらえると「心御柱」とは何を表すのか。出雲大社や伊勢神宮の本殿にとって一番大切なものは中心にある「心御柱」。再びこの図を見て欲しいのであるが、中心にあるのは「自我」。つまり「心の構造」の中で一番大切なものも「自我」ということになる。

    truth-of-this-world

    「自我」とは忌むもの

    別に社殿の実用的な支柱でなく,しかも神宮祭祀上きわめて清浄神秘を重んじられる柱として特に忌柱(いむはしら)とも称される。

    心御柱(コトバンク)

    こちらは、伊勢神宮「心御柱」についての引用。「心御柱」は「忌柱(いむはしら)」とも呼ばれる。清浄なものであるのに、忌むもの。忌むものといえば「自我」なのである。

    主張することが苦手な日本人は「自我」を嫌がることが多いはずだ。「自我」はエゴとも呼ばれ、利己主義的な考えや行動をもたらすものとして遠ざけられることがある。もちろん、「自我」を良いものとして捉えている人もいるけれど。

    「自我」とは何か

    そもそも「自我」という言葉の定義は人によって違うのかもしれない。UOZAブログでは、このように「自我」を定義している。

    自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。

    「自我」とは思考と行動をまとめたもの。ここまでに説明してきた、男神(右回り/実行)と女神(左回り/思考)を合わせたものが「自我」ということになる。

    関連記事:自我と自己について

    思考と行動の子ども

    『男神と女神を合わせたもの』は『実行と思考という性質を受け継ぐ子ども』、だと言うことができる。そして、『思考と実行』を常に行っているものといえば「人間」。つまり、「宇豆柱」に守られる「心御柱」は、神の子どもである「人間」を表している。

    一旦、ここまでの情報をまとめる。

    「心御柱(自我)」とは『男神(実行)と女神(思考)の子ども』。つまり「心御柱」とは「自我」を持つ「人間」のことなのである。「自我」とは人間を人間たらしめるもの。当たり前のことなのに、わたし達が気がついていないことでもある。

    伊勢神宮の中心

    出雲大社の「心御柱」は梁を支えているのであるが、伊勢神宮の「心御柱」は梁にも届かず、床下に存在している。建造物としては機能していないのであるが、引用を読むと重要さは伺える。

    心御柱(しんのみはしら)として神聖視されるが,これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で,構造部材としての柱ではなく,神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる。

    心御柱(コトバンク)

    このことが何を表すのか。建物を支える機能を成さないということは、その「心御柱」は成長途中の「人間」であることを表すのである。つまり「自我」に気がついていない状態。

    この件については「国譲り神話」を紐解いていけば理解できることなのだけど、この記事の後編か別記事に書きたい。長くなりそうなので。

    建物の「中心」であることが大事

    伊勢神宮では20年ごとの式年遷宮で建物の位置が隣の敷地に移動し、建て替えられることは有名である。気になるのは、建て替え後まっさらになった跡地の「心御柱」があった場所に小さな小屋が建てられること。

    その中には建て替え前の「心御柱」があるとかないとか。次にそこに建て替えた時に「心御柱」の位置がずれないよう、その小屋が建てられている、というのが有力な説らしい。

    「自我」という中心がずれないことは「人間」にとって大切なことなのである。「自我」が自分自身(人間)を動かしていることを自覚することが、「自我」を中心に固定しておくこと。中心に固定しておくことの重要性は、過去の記事にも書いていることなので、ここでは省略させていただきます。

    3本の木を束ねて1つにすること

    ここまで「宇豆柱」と「心御柱」の意味するところを説明できたかと思う。それを踏まえて、出雲大社の9本の柱が3本1組である意味について考えていきたい。けれどこれも、単純な理由である。

    前述した通り「心御柱」は「宇豆柱2本」の子どもである。ということは「男神(1本)」と「女神(1本)」の性質を併せ持った「心御柱(子ども)」は「3本」で表すことができる。

    「男神(1本)」と「女神(1本)」を足したら「2本」になりそうなところだけれど、「男神」でも「女神」でもない新しい柱であるから、『合わせた2本』ではなく、『合わせた2本に新しい1本を含めた3本』ということ。

    3本を束ねた柱は「人間」であるということを強調し、新たに独立したものを表わしている。つまり「心御柱」だけでなく、9本の柱全てが「人間」なのである。

    「神」は『人間の心の中』に存在し、「人間」と「神」は「鏡写し」の存在であることは既に説明してきた。柱とは「神」でもあるし「人間」でもあるということを教えてくれているのが、3本1組の柱。

    「心御柱(人間)」とは、神の子どもである。神に似ているが神ではない、新しい存在が「人間(3本)」。「男神(男性性)」と「女神(女性性)」の性質を持つ『人間(3本)』については、他の記事でもしつこく書いていることなので、ぜひともお読みください。

    関連記事:ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス から学ぶ女性性と男性性

    関連記事:シン・エヴァンゲリオン劇場版を考察 誰も知らないマリの正体について

    「心御柱」と「側柱(がわばしら)」が同じ高さである理由

    出雲大社の骨組み

    最後に、わたしが注目したいのは「側柱」である。「宇豆柱」と「心御柱」以外の6本の柱のこと。建築における「側柱」の機能についてはこちらの記事がわかり易かったので、気になる方はどうぞ。中柱(心御柱)と側柱の作用力の違いは「心の構造」を読み解くのに、必見かもしれない。

    こちらの論文(出雲大社本殿の心の御柱について)の中にある、出雲大社の骨組みシステム図(4ページ目、図-5)が、それぞれの柱同士の関係性を見るのにわかり易かった。説明用にわたしも骨組み図を書いてみた。

    izumoooyashiro-honegumi

    小屋梁中心を支える心御柱

    図を見ると、宇豆柱2本は長く伸び棟木を支えている。そして、田の字の中心、交差している所を下から支えているのが「心御柱」となる。この図には屋根の骨組みが描かれていないけれど、その骨組みを支える「小屋梁(こやばり)」中心を下から支えるのが「心御柱」となっている。

    棟木には届かないけれど、屋根全体の重みを受け止めるのに重要なのが「心御柱」であるらしい。先ほどの論文から、その重要さがわかる文章を引用させていただきます。

    この高大な本殿を単純な骨組システムで維持するには骨組を丈夫にすることが基本であった。そのとき縦横に架けられた小屋梁が重要な部材となる。またこの小屋梁には多大な荷重が加わり,心御柱はこの梁を有効に働かせるためにしっかりと中心で支えている。このことが構造上重要である。したがって出雲大社は心御柱を構造材として設計されており,心御柱は高大な本殿を構築していく上で不可欠な部材となる。

    出雲大社本殿の心の御柱について

    「宇豆柱」も棟木を支える重要な柱だけれど、「心御柱」こそ屋根全体を支える重要な柱であることがこの図からはわかる。

    側柱も「人間」

    またまた「心御柱」の話になってしまったが、わたしが注目したいのは「心御柱」が「側柱」と同じ高さになっていること。ここにもまた「心の構造」が表れている。

    柱は全部で9本ある。ここまでの話をまとめると、「宇豆柱(2本)」は「男神・女神」という親の役割をしている。そして、「心御柱(1本)」は中心に存在する子ども(人間)ということになる。そして残り6本の柱が何を表すのかというと、これもまた「人間」なのである。

    「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。

    八雲之図、3つの謎

    八雲之図は出雲大社の謎のひとつでもある。八雲之図の謎についてわかり易くまとまっているブログがあったので、引用させていただきます。

    ①一雲のみ逆向きである。
    ②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
    ③八雲と言いながら七雲しかない。

    思ったこと

    これら謎を紐解きながら、9本の柱が『2柱の神(宇豆柱)』と『7柱の人間(心御柱・側柱)』であるということを証明していきたいと思う。

    2022/07/18 追記
    最後にかっこつけて『7柱の「人間」の柱がある』とか言ってるけど、ちょっと前で『9本の柱全てが「人間」なのである』とか言ってますね。意味がわからないですね。ごめんなさい。文章の最終チェックが足りなかったです。後編で詳細を書いていきます。


    長くなってしまったので、今回はここまで。中編につづく。今回の考察を理解してもらえれば、「雲」の謎は解けるはずなので、ぜひ挑戦してみてください!考察コメントお待ちしております!中編を書き上げるのも、すごく時間かかりそうなので…。出雲大社の情報量やばい。