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  • 「悟り」とは何か、もう一度じっくり考えてみる

    「悟り」とは何か、もう一度じっくり考えてみる

    今一度「悟り」について考えたい。と突然思いついたので、書いてみる。そしてついでに「解脱」についても考えていく。

    わたしの「悟り」体験について

    プロフィールにもあるようわたしはいちおう「悟った」からこのブログを作った。わたしが「悟った」時のエピソードは以下の関連記事にリンクしておくので、ぜひこれを読んでね。

    関連記事:私の悟り:悟りレベル よるか

    関連記事:私の悟り:悟りレベル いちらいか

    この記事を読み返しているとまだ文章も書き慣れてなく懐かしく恥ずかしい。この「悟り体験」はまだ始まりに過ぎなかった。

    こちらの記事に「悟り」と「解脱」の定義を書いている。このブログでは「悟り」と「解脱」という言葉を別のものとして、このように定義を分けて考えている。

    こんな定義にしたけれど、これを踏まえてもう一度「悟り」とついでに「解脱」について考えてみたいと思う。

    「悟り」とは何か簡単に解説!

    「悟り」とは人生の「苦しみ」から逃れたい人が到達する結論。その結論は「世界は無い・自分はいない」というもの。その結論を出す時、神秘的な体験を伴ったりもする。

    シンプルに世界(自分をとりまく事象)を無いものとすれば、全ては解決する。何にもないという前提で、この辛く厳しく悪がある現実世界は幻想である、という達観した世界観で生きていくのが「悟り(仏教系)」。また、そんな幻想の世界の中で喜びや楽しみにフォーカスし、ポジティブに生きていくのが「悟り(スピリチュアル系)」。仏教系、スピリチュアル系というのはわたしの偏見です。

    「悟り」とは人間が苦しみから逃れる為のプログラムのようなもの。「悟り体験」は人によって様々であるけれど、最終的に「世界は無い・自分はいない」にしかいきつかない。

    自分とは何者か?人生の意味とは?などと考え始め深みにはまっていくと、心の破壊をもたらすことになる。それを防ぐための防御反応として「悟り」がある。「悟り」とは思考をリセットさせ、人間らしい人生をおくらせる為の良くできたプログラム。

    「悟り」が起きたにもかかわらず、また深みにはまる人間がいる。そんな人にはさらなる特別プログラム「解脱」が待っている。まずは「悟り」について話を先に進めようと思う。

    「悟り」を開くとどうなるのか?様々な体験記を検証

    自分から抜け出し自分を観察すること

    わたしだけの体験談では説得力がないので、他の人の体験記も読みながら「悟り」を深掘りしていきたい。ネットで見つけたこちらの「悟り」体験記をまずはご紹介させてください。

    先日、買い物帰りに突然、私は私の身体から出た。
    私が抜けたというより、私のへそからポンっと肉体が飛び出た感じだった。

    身体は私のすぐ前に、後頭部と髪の毛が、鼻先にあたるくらいの距離感で、
    私の前にぶら下がってる感じだった。

    (中略)

    後頭部から見下ろす「私」は、悲しげだった。
    寄る年波にやられ、人生の堆積が重たそう。
    「すべては自分のせいだ」と、黙って受け入れ悲しんでいるようだった。

    肉体は勝手に動き、
    思考はポンポン、温泉のように湧いては消え、
    感情もそれに併せて匂い立っていた。

    それは全部、<自動的>に起こっている。
    誰が起こしてるんでもない。

    動きも、思考も、感覚も感情も。
    やってきてる。(肉体のそばを通過していく)

    にもかかわらず、

    「私」は、それ全部を、「自分がやってて自分に責任がある」と思ってうつむいていた!

    (中略)

    人間の動作も、
    人間の心にわく思いも、

    すべてがシナリオどおり。
    まるでプロンプターがいるみたいに、

    瞬間瞬間、指令(サイン?)、電気信号がやってきてその通りに再現されてるだけ。

    それを、自分がやっていると信じ込む、というオプションだけが、
    物体や動植物と違うところ。

    ベルのしずく2

    この方は自分が自分を観察している感覚に陥った。人生に起きる様々なことを考え嘆き悲しんでいる自分を客観的に観察したのだろう。自分から抜け出してみたら、自分の行動も思考もただシナリオどおりに自動的に起きているだけだったと知る。

    自分を含めた世界はありのままただそこに存在しているだけ。ありのままの世界を見て湧き出る思考は単なる反応で、その反応をコントロールしようとするから苦しい。この方は、その反応する心を「自分(わたし)」としていたから苦しいということに気がついた。その心を自分としなければいいのだ、と気がついたのである。

    この方はこの体験によって『悟りたいと思わなくなった』と言っているけど、この体験は「悟り」と言っていいと思う。とはいえ「悟り」にも段階のようなものがあるから、もっと上の「悟り」を目指していたのかもしれない。

    わたしはいない・全てはひとつの意識だと知ること

    「悟り」によって、多くの人が「わたしはいない」という体験をしている。次に引用させてもらう悟り体験記は、「悟り」を得るために禅の道場で修行をした僧侶の方のおはなし。とても興味深い悟りの瞬間です。

    またモヤモヤ考えはじめた。
    「何か」を「わたし」が為そうとすること自体が道に背いているということは理においてもよく分かる。「成りきる」にも「成りきる」という意識が沿う。「成りきらせている人」が残る。しかし功夫をするというスタートに立たなければどうにもならない。そもそも一体「誰が」功夫しているというのだろう。
    色々考えた挙句、結局為す術もなく一切を投げ出してしまった。諦めた。坐禅も修行もやめてしまった。

    (中略)

    その日の夜、また1炷を坐り終え、なんだかもう経行をするのも面倒になり、そのまま足を組み換える。坐禅に入ろうとしたその刹那、身体が世界に溶け、全て丸ごと消え失せる。

    只驚く。世界もこの身体も何も無い。
    「無い」も無い。無の根源。意識だけが鮮明。外の道路を車が走っていたのだろう、自分の身体の中を、車が走っている。

    1時間近く続いただろうか。徐々に感覚が戻ってくる。
    全ての存在がありありと存在感を増し、そのまま互いに溶け合っている。
    翌朝、鳥が自分の中で鳴いている。境内の中の橋を渡ると、下を流れる川が自分を抜けていく。

    「こんなにもこの世界は豊かだったんだ。」

    その二日後、坐禅中に意識が途切れる。はっと我に返ったとき、自分がいない。拍子抜けする。自分を見ていた「人」がいない。周りを見ても、どこにもカタマリがない。自分も世界も縁そのもの、ただ一つ。思いは思いのまま、意が意を扱おうとしない。坐る、立って歩く、手を動かす。それで終わっている。何も「自分」の知るところではない。全存在がすでに満ち足りている。何も求めようがない。

    やっと自分に会えた。無位の真人。このとき、確信する。

    ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落

    身体が世界に溶け全て丸ごと消える、世界もこの身体も無い、という体験。この後さらに「心身脱落」という体験も。

    この意識の中に世界が丸々すっぽり入っている。空も山も川も月も太陽も。夜中に雪が降っていた。漆黒の空から白い雪が音もなく降る。自分が降っている。とてつもなく荘厳な景色だった。それを包む鏡のような意識。乾坤只一人、宇宙にはこの意識たったひとつしかない。

    ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落

    この方は「意識の中にある世界・宇宙にたったひとつしかない意識」を感じた。このお話はリンク先で始めから最後までぜひ読んでもらいたい。

    わたしも同じ結論に至り、そのことについては「1度目の悟り」体験記の中にも書いている。わたしの場合、そのたったひとつの意識は「わたしのもの」という感覚であったが。

    永久で不変で独立する真我がある

    「悟り」によって「世界は無い」とか「自分はいない」という結論を出すのに、宇宙にたったひとつしかない意識は有る。それがわたしたちに幻想を見せ、現実世界を作り出しているということであろうか。けれど悟った人は、そのひとつの意識は「自分ではない」という。

    悟った人はそんな意識がどんなものであるか、結論も出している。それをわかりやすく解説してくれるのがヨーガでいう「真我独存」。その解説は元オウム真理教、上祐氏のサイトから引用させてもらいただきたい。

    ヨーガでは、真我というものを説く。サンスクリット語では、アートマン(Ātman)である。ヴェーダの宗教(バラモン教・ヒンドゥー教)で使われる用語であり、意識の最も深い内側にある個の根源などを意味する。

    わかりやすくいえば、真実の自分、自分の本質といった意味だが、重要なことは、心とは異なるものであることだ。本来、真我は、純粋な認識主体であって、思考・感情・意志・欲求などの心理的な要素は一切含まない。絶えず移り変わる心(の諸要素)と異なり、真我自体は決して変化することがなく、永久不変の平安の状態にあるとされる。

    ところが、ヨーガの根本経典(ヨーガ・スートラ)によれば、普通の人の場合は、真我が、心を自分自身と混同・錯覚しているとする。そして、真我が、心を自分自身と錯覚して一体となっているので、心が苦しむとともに、真我が苦しむ状態に陥っている。本来は、真我が認識の主体であって、心は、体や外界と同じように、真我が認識している対象にすぎない。

    しかし、映画の観客が、映画の主人公に熱中して、主人公と精神的に一体化すると、映画の主人公の苦しみを、そのまま自分の苦しみのように感じるのと同じように、真我は、心と同化して心の苦しみを感じているのである。映画のたとえを使って、さらに説明すれば、この映画の名前は、21世紀の宇宙・地球・日本であり、それは三次元立体映画であって、その中の主人公は「私」という名前であり、観客席は「私」の体の頭部にあって、観客であるあなたは、体はなく、単なる認識する能力を持った意識である。

    そして、あなた=真我は、「私」の心や体を動かしてはいない。あなたは純粋な観客・観察者として、それを見ているだけである。しかしながら、あなたは、「私」の心を自分だと混同・錯覚し、「私」の心や体とともに苦しむのである。

    ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    真我とは、永久不変で心ではないもの。「宇宙にたったひとつしかない意識」がこの真我のことだろう。意識というより認識するもので、心理的な要素は一切含まないとのことなので、意識と言ってはいけないのかも。とにかく、わたしはいないけれど真我はあるのだ。

    普通の人(悟ってない人)は、心を自分自身だと混同しているという。だからこそ真我も苦しんでいる。真我は移り変わる心のように変化するものではないが、心にひっぱられる。悟ってない人の真我は本来の真我じゃないということ。

    こうした思想に基づいて、ヨーガが目指すものは、真我が心(や体)を自分自身と錯覚した状態から抜け出して、独立することである。これを真我独存位という。真我独存位に至ると、永久不変の平安の状態に至るとされる。そして、この状態に至れば、インド思想が説く輪廻転生からの解脱(モークシャ)をもたらす。なぜ解脱できるかというと、輪廻・生まれ変わりの原因も、真我が、生き物の心(や体)に執着して、それを自分の物と錯覚することであるからだ。

    そして、真我独存位に至るために、ヨーガは、心の働きを止滅することを目指す。実は、心の働きを止滅することが、まさに「ヨーガ」という言葉の本来の意味である(ヨーガは体操ではない)。広くは、心の制御・コントロールとも解釈できるが、ヨーガの根本経典であるヨーガ・スートラには、心の働きを止滅することだと明記されている。

    ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    真我が心や体を自分自身と錯覚しない状態になると、真我は独立し「解脱」に至るという。それが「真我独存」であり、生まれ変わりの原因とか結果とかに執着しなくなる。そうなると、輪廻という概念など無くなってしまう。

    ヨーガでは真我独存(解脱)に至るために「心の働きを止滅する」ことを目指す。実はわたしが「1度目の悟り」で経験したのがこれ。心も呼吸も止まった瞬間を確認したので「無」を知った。止滅を経験したからこそ後々いろいろなことを理解できた。

    真我と自分(心)を同化させず、心を止滅し輪廻を作り出さない状態がヨーガでいう「真我独存」。ちなみにこのブログではそれを「解脱」とは定義しておらず、「悟り」という定義にしている。

    「悟り」について、わたしの見解

    たまごの外に出てみること

    「悟り」についてわたしなりにまとめてみたい。「悟り」とは日常から突然抜け出す瞬間でもある。今まで世界というたまごの中にいた自分は自分を通して世界(たまごの中)を見ていた。けれど、たまごの外に出てみたら自分というフィルターを通さない世界が見えた。たまごの中の事象は自分とは関係なしに自動的に起きていることを知る。

    たまごの内に入ること

    ところで、このブログを書いているわたしの「悟り」はベッドで読書している時に突然起きた。その時真っ暗い宇宙のような何も無い空間を観察した。宇宙かと思いきや、そこは自分の内側だった。たまごの中にいる自分のさらに内である。わたしは自分の呼吸(心拍)を観察した。「何も無い」と感じたのは息を吸った瞬間(心停止の瞬間)であったということ。そして息を吐くと世界が現れるということを理解した。

    このように生じては滅する、有ると無いとを体験した。呼吸(心拍)という自動的で規則的な世界。たまごの外に出た「悟り」と結論としては一緒だ。

    わたしは「無」を確認し心が自由になった。今まで悩んでいたことは「無」という真実を目の前にしたらどうでもよくなる。今までは「有る」という世界だけが連続していた。生きているかぎり「有」だけが続いてるように思っていたけれど、初めて「無」という存在を知ったことで、今まで続いていた世界を客観的に見れるようになった。

    「悟り」で自分と世界を分離したり一体化したり

    他の方の体験記のように、自動的でありのままで全てが満ち足りた世界がただ存在しているだけだと理解すると、今までの世界についての考え方を改めることができるようになる。

    とある「悟り」では、自分と世界とが切り離される。自分と苦悩を生む事象(世界)が切り離されたことで、人生における悩みや未来への心配ごとが消える。「苦しみ」は自分と世界が繋がっているからこそ生まれる。人間は世界に起きる様々な事象を見て感じ、心が揺れ動くのだから。

    またとある「悟り」では、自分と世界が一体化する。私が消えるという体験では、世界と自分が完全に一体化することで世界を全肯定できる。全肯定することは事象全てを受け入れること。善も悪も平等となる。「苦しみ」は世界(苦悩を生む事象)を否定するからこそ生まれる。

    結局「苦しみ」の発端は「わたし(自我)」なのだ。自我とは世界の中に存在する自分に対する感情みたいなもの。世界と離れて消える自我、世界と溶け込むことで消える自我。どちらも「苦しみ」を感じるわたしを止滅することで、自我(わたしは苦しみを感じていると思う心)を消すこと。

    『自分と世界が分離する悟り』と『自分と世界が一体化する悟り』。分離であれ一体化であれ、自分が生きる世界への認識が変わる。そして「悟り」が起きたのならその状態を保たなければならない。

    「悟り」を開く人の特徴

    最初の方にこのように書いたけれど、人生における「苦しみ」について真剣に考えている人がいずれ「悟り」を開く。特に「苦しみ」について考える時間が連続していて、深く考えている人。

    人生の中には良いことも悪いこともあるけれど、「苦しみ」に注目しはじめると今までさほど気にしていなかったささいな苦しみも拡大していく。精神病のようになる人もいるかもしれない。

    「苦しみ」について考えれば考えるほど思考は煮詰まっていく。そして同時に解決策を模索する。そしてある時、頭がすっきりとする結論が出ることがある。それが「悟り」。精神病から抜け出せない人は「悟り」という結論が出せなくて苦しんでいるのだろう。

    「悟り」は「苦しみ」に終止符を打つような体験である。わたしのように、終止符にならない人もいるのだけれど…。

    「悟り」を越え「解脱」にせまる

    わたしはいないのにわたしがいること

    先ほど引用した僧侶の方の体験記の中で、彼は師匠から「悟っても全てを忘れろ」とアドバイスされていた。「悟り」で起きたことに執着してはいけないという。

    けれどわたしは悟り体験について深く考えたり「わたし」という存在に執着した。何故なら「わたしはいない」という体験が「悟り」なのに、わたし(身体)は結局消えなかったし、宇宙と一体化するような体験はなかったから。

    実際「無」を観察したけれど、「無」を感じている存在が「わたし」なのだから、「わたしがいない」というのはあり得ないと思った。わたしはわたしに執着した。

    『悟りで起きたことに執着してはいけない』というアドバイスはすごく正しい。「悟り」が起きたのにまだ「自我」に執着するのはとても危険なこと。元オウム真理教の上祐氏は、オウム事件の教訓からこんなことを書いていた。

    (※「真我」について:なお、ひかりの輪では、自分自身の中に永久不変な「真我」があるとする説を絶対視したオウムの教訓として、真我を認めるヨーガの修行では、場合によっては自我意識が肥大化し自己を神であると考える意識状態(いわゆる魔境)に入る恐れがあることを指摘し、伝統仏教にならい自己を特別視しない無我説を重視している)

    ヨーガの真我の思想と最新の認知科学

    オウム真理教は自分自身の中に「真我」がある、という説を絶対視していたらしい。「わたしの中」に真我があるということを意識するのなら、「わたし(自我)」は消えることがない。だからこそ自我が大きくなってしてしまう。

    真我は宇宙にたったひとつの意識である。それを「わたしのもの」とするならば、宇宙の中心に自分がいると感じるし、自分を神だとも感じる。麻原はそのようになったからサリン事件を起こした。

    このブログを書いているわたしも、真我を「わたしのもの」だと思っている。だから宇宙の中心はわたしだし、神もわたしだと思っている。自我を強く意識するとはそういうことなのだ。

    このブログにおける「解脱」の定義

    ここで、このブログにおける「解脱」の定義をおさらいしたい。

    ヨーガにおける「真我独存」は心を止滅して輪廻から抜け出すものだけれど、わたしの考える輪廻からの抜け出し方は「罪悪感」を消すこと。

    そもそも何故人間が「苦しみ」というものを感じるのかというと「罪悪感」があるから。人間は事象に善か悪かという基準を決めていて、全ての「苦しみ」の根源に自分が決めた悪という基準がある。

    このブログが考える「解脱」というのは、善か悪かを分別している自分に直面し、何故その悪を悪と分別しているのか理解すること。自分が悪と考えている事象について考え、それに納得することなのである。悪=自分の罪という意識があり、それを否定したいから「苦しみ(罪悪感)」を感じる。最終的に『この世界における悪全ては自分の罪』ということを認めれば「罪悪感」は消える。

    「悟り」という体験で世界を全肯定したとき、既にそれは起きているように思える。全肯定とは善も悪も肯定することであるから。けれどそれは「苦しみ」の根源を大まかに「心」としているだけに過ぎない。「善も悪も存在する世界」をまとめて全肯定することでこれ以上「揺れ動く心」に執着しない、という結論を下しただけなのである。

    繰り返す世界と繰り返す思考

    輪廻とは「繰り返す思考」のことでもある。繰り返す思考によって心(自我)というものを感じて「悪」が定義される。喜び(善)や苦しみ(悪)の分別を繰り返すことにより、パターン化された思考から抜け出せなくなる。

    この世界も思考も「繰り返している」。繰り返されるシステムを自覚しながら「苦しみ」を何度も体験する。その過程で、そこから正しく抜け出す方法を考えるのが「解脱」。自分の罪を認め罪悪感を消すことで繰り返すシステムを超客観的に捉えることができるようになる。その状態でシステムを体験すると、全ての始まりが自我(わたし)であることを理解する。

    「悟り」は自我(わたしは苦しみを感じていると思う心)を消すことなのだから、既にこの繰り返す世界の原因が「自我(わたし)」にあることを理解している。だから解脱とあんまり変わらないとも言える。けれど悟ったって結局繰り返す人生はわたしを中心に続いていく。

    本当は怖い真我の真実

    「解脱」を目指すのならば「わたしの中にある真我」を探す必要がある。わたしをわたしと思う心(自我)は身体の内にある。自我の奥深くに潜ると、そこに「真我」と呼ばれているものがある。世間で「真我」は「本当の自分」とも言われている。

    「本当の自分(真我)」はほんとうはとても怖い。「本当の自分」に辿り着いた時理解することは、ありとあらゆる「わたし」がこの世界に存在しているということ。ありとあらゆる「わたし」をひとつにまとめたものが「本当の自分(真我)」なのだ。その真実を知る時、全ての「わたし」を受け入れなくてはならない。それはとてもとても難しい。

    全ては一つ、ワンネス意識、陰と陽の統合。これらはオカルト界隈、スピリチュアル界隈でよく聞く言葉である。その言葉の本当の意味とは、大嫌いなあの人も、ニュースで見かける凶悪な犯罪者も、みんな「わたし」であるということ。それを認められるかどうか。悪も含めての「わたし(世界)」なのだから。この人は悪い人だからわたしには関係ない、と思うのなら「真我」を理解していないことになる。

    自我=個であるならば、真我=全である。ヨーガなどで真我を目指す人々は自我を消そうとするし、「わたしはいない」という結論を下す。けれど、真我とは自我の集合体なのである。全ての自我を融合してまとめたものだから、個(自我)であることを認識できなくなるというだけで、自我(わたし)は消えていないのである。

    このように、個であるのに全・善であるのに悪・自我なのに真我・あるのにない、それに矛盾を感じないことで本当の神になれる。

    自我の奥深くにあるわたしという宇宙

    今回「真我」という言葉の説明をしたけれど、「真我」という言葉を使わずとも「自我」だけで良いと思っている。「自我」を追求しなければ、そこへ行けないのだから。

    自我の奥深く、全てのわたしを理解すると、それ以上先にいけない場所にたどり着く。そこで気がつくのは内と外は全く同じ場所にあるということ。場所という言葉は、わかりやすい表現として使っている。心のいちばん内側(精神)と、現実世界に存在する宇宙の果て(いちばん外側)は、まったく同じところなのだ。

    つまり、宇宙の始まりと終わりはわたしであるし、わたしの心の中に宇宙が存在していて、宇宙の中にわたしの心が存在している。それが永久で不変な「わたし」。宇宙は「わたし」というひとことで表すことができる。

    関連記事:内と外は同じ場所(生と死は同じ場所)

    「悟り」と「解脱」は理論構築

    言葉は円を描くもの

    ちょっと変わった「悟り」体験記を見つけたのでご紹介したいと思う。

    M1の夏、研究室から帰宅した私は、それまでに経験したことのない激しい息苦しさを感じていました。意識が飛んでしまいそうなほどの苦しみに耐えながら布団の中にうずくまっていると、突然頭のてっぺんから腕にかけて「雷に打たれた」と言いたくなるような衝撃が走りました。そして、世の中の全てのものが私と一体化したような不思議な感覚になりました。私にはこれが何なのかよく分からないのですが、小さい頃に読んだ手塚治虫の『ブッダ』の悟りのシーンに似ていたので、「悟り」と呼ぶことにしています。 

     その不思議な感覚の中で、沢山の映像が見えてきました。「軋んだような音を立てる、針がキラキラした大きな羅針盤のようなもの」「脳の中の情報が0と1まで分解される様子」「受精の様子」、、、などなど。それはまるで、誰か別の存在に無理やり見させられているかのようでした。映像が終わったあとは、またすごい速さで、今度は言葉が上から下へ流れるように、滝のように降りてきました。自分で考えているとは思えないほどの速さでした。私は5日間くらい必死で言葉を記録し続けましたが、後から気味が悪くなって全部捨ててしまいました。見たり考えたりした覚えのないものが頭の中にあるのは、とても不快でした。

    うっかり悟りを開いちゃった時の対処法

    この方も『世の中全てのものが私と一体化したような不思議な感覚』をもった。『言葉が滝のように降りてくる』という体験もしているが、わたしも二度目の「悟り」で同じような体験をしたのだ。思考がものすごい速さで続いてそれが止まらず、脳に異常な熱さを感じた。それが一週間ぐらい続いた。

    さらに、その後のお話も引用させていただく。言葉が視覚化した時の詳しい内容である。

    視覚化された言葉のうち、いくつかの文章としてまとまりを持ったものは、連なって円を描きました。これもやはり、機械音を立てて、「しかし」とか「だから」のような接続詞のところで区切られながら、4拍子で回っていました。起承転結という概念が具現化されているようだと思いました。言葉は、自分で考えるよりも先に湧き出して高速で回転していました。

     人との会話で言葉が回ることもありました。円を描いている私の言葉に、相手が答えたり問いかけたりすると、円の一部分が飛び出したり押し戻されたりするのが見られました。そして、言葉の輪は相手の言葉に刺激を受けてまた新しい回転を始めました。相手の言葉が円を描くこともありました。私の言葉は右側に、相手の言葉は左側に円を描いて、時折押し合いをしながら回転して、少し変わった歯車のようでした。

    しばらく回転を続けた言葉は、繋がりを持っていない、どこか別のところから来た言葉によって回転を止められます。この最後の言葉は縦に長い短冊状の言葉で、言葉の輪の真上から、これもまた音を立てて高速で降りてきます。「結論を下す」様子が視覚化されたのだと思いました。降りてきた「結論」は輪に鋭く刺さり、潰した虫の体液が飛び散るような不快感がありました。

     結論が下されて回転を止めた言葉の輪は、Φの記号のような形をしていました。私は数学の授業でΦは空集合を表すと習ったことがあります。だから、このΦの形になった言葉は、話の筋道が通っていないことを示しているように思えました。私は、論理構成を失敗してしまったのだと悔しく思いました。

    視覚化された言葉の繋がりの輪と空集合のΦの話

    わたしが最初に『悟りとは結論だ』と言ったのは、この方の体験記を読んで影響を受けたから。わかりやすい表現だと思う。彼は『論理構成を失敗してしまった』と言っているけれど、「悟り」も「解脱」も理論構成することなのだ。

    「悟り」が起きたならば「苦しみ」を消す方法を理論構成できたのである。私たちは「信じる」という言葉を使うけれど、「信じているもの」の裏には理論構成がある。「悟り」も「解脱」も信じるもので、理論構成を完璧にしないと信じることができないのである。

    また、自分や相手の言葉が円を描く映像が見えるというのも面白い。自分と他者(世界)との関わりが言葉の円となって表現されている。回転し円になった言葉の真上に突き刺さる、繋がりを持っていない言葉。この映像は「解脱」という結論を下そうとして失敗していることを表している。

    結論が下せたなら、繋がりを持っていない言葉が円に突き刺さったとしても回転が止まらないはず。『どこか別のところから来た繋がりを持たない言葉』は、円を永遠に回すための鍵となるからだ。言葉の輪が「Φ(空集合)」の形だというのも、この世界は無いのに有るという矛盾を表していて興味深い。その矛盾を話の道筋が通っていないと感じるのが「悟り」、通っていると感じるのが「解脱」。

    「悟り」で自動思考に任せるか「解脱」で繰り返す思考を続けるか

    人間は頭の中でいつでも思考し、この不思議な宇宙の理論を完成させようと頑張っている。けれど、完成の前に「悟り」を理論構築の終わりとして思考をやめる人もいる。思考をやめるというか、自動思考(悪を排除する機能付き)に任せるのだ。自動思考であっても、全人類の思考と行動でいつかは現実世界において理論が完成する。

    一方で「解脱」は茨の道であるけれど、現実において理論が完成する前に、先に自分の頭の中で(精神の中で)完成を迎えられる。

    1週間は7日間

    最後に、また別の「悟り」体験記を見つけたので少し長いけれど引用させてもらう。元オウム信者の方のブログから。この方はありとあらゆる「わたし」を体験している。

    それから、おかしなことが起こりはじめた。ある人と喫茶店で話をしていた。
    「意識は自分と他人の区別をしているけど、自と他の区別をなくしていくと意識は広がっていく」
    「そして、時間というのはあるように感じているけど、本当は時間なんてないんだよ…過去・現在・未来へと時間の流れがあるように意識は感じているけどね…」
    いつものこんな話をしていると、途中から私を取り囲んでいる世界の様子が変わってくる。まわりで雑談をしている多くの人の存在感が急に増してくるようだった。他人として私と別に存在していた人々が、性別も年齢も違う人々が、突然自分とつながってしまうのだ。
    「ここにいる人、みんな他人なのに、この人たちみんな私だ…」
    とてもリアルにそれを感じる。まわりの人たちの話し声が遠のくと、入れ替わるように彼らの考えていることが意識を向けるとわかる。このときの空間は、密度が濃く、空気とは別のなにかで充たされているようだった。
    この感覚が極まってくると、今度は私の胸(アナハタ・チャクラ)から、エネルギーがザァーッと世界に放出される。無尽蔵にあふれ出る圧倒的なエネルギーを感じながら、私は笑いだした。
    「これが愛なんだ!」
    これまで「愛ってなんだろう」「自分に愛がある」とか「愛がない」とか悩んでいたけれど、まったくナンセンスだった。愛は空気のようにこの空間に充ちていて、いつでもどこにでもあったのに! 
    私は無量の愛を経験して嬉しくてしょうがなかった。
    意識がこの状態に入ると、電話でだれかに質問しようと受話器に手をかける。その瞬間、質問の答えが心に浮かぶ。また、道を歩いていて向こうから二人連れが話しながら歩いてくる。すれ違うとき、彼らの会話の断片が耳に飛び込んでくる。言葉は独特な響きをもっていて、まるで「神の声」のように聞こえる。神の示唆のように聞こえる言葉が「右」だったら、それに従わなくてはならず、用もないのに右へ行くと何年も顔を見なかった信徒さんとばったり会うというようなことが起きた。

    狂った人というのは、きっとこのような世界にいるのだろうと思う。私は本当に狂ってしまったか、新興宗教の教祖にでもなれるのでは? と思った。
    ただし、これが続けばの話だが――。
    その状態は、ほぼ一週間続いて消えた。

    オ ウ ム と ク ン ダ リ ニ ー

    神秘体験って一週間続いて消えることが多くないですか?その理由をあれやこれやと考えるのが面白いと思うのです。日々理論構成。

    関連記事:「八雲之図」から導いた数の話 1〜7は多数の経験、8は理解、9は完成

  • 童歌「かごめかごめ」の秘密

    童歌「かごめかごめ」の秘密

    「かごめかごめ」の歌詞は怖い?

    誰もが知っている「かごめかごめ」というわらべ歌。オカルト勢はこの歌について様々な解釈を行っているようです。今回はこの歌の本当の意味を、お教えいたしましょう。

    本当は怖いかごめ歌

    かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

    「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。

    かごめかごめ(Wikipedia)

    まずはこの歌の様々な解釈を見てみる。wikipediaに一通りの解釈が載っているが、オカルトっぽいものを取り上げたい。

    いろんな解釈

    陰謀説

    「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。

    かごめかごめ(Wikipedia)

    人間の欲の為に子供を殺された女の恨みの歌』であるという説。

    囚人説

    かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。

    かごめかごめ(Wikipedia)

    牢屋の中にいる囚人が死を迎えるのか、生き残るのか、運命の歌』であるという説。

    神示説

    「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

    かごめかごめ(Wikipedia)

    肉体の束縛から逃れ、悟りを得る歌』であるという説。

    かごめ歌の解釈には不気味さを感じさせるものが多い。最後のものは囚われからの救いを感じさせるような説ではあるけれど。

    ヘブライ語説

    他の有名な解釈に『この歌詞自体がヘブライ語である』という説がある。こちらのサイトがとても詳しいので解説を引用させてもらう。

    カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであることから、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていたことが記載されています。

    (中略)

    ところが、これだけカゴメ印とダビデの紋との共通点が指摘され、「契約の箱」と「籠の中の鳥」の関連説が囁かれてきたにも関わらず、そのカゴメ印のわらべうたとなる「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で書かれているということについて、これまで多くは語られてきませんでした。

    「かごめかごめ」の意味とは Part I

    この説が考えられたのは『ユダヤと日本には繋がりがある』という「日ユ同祖論」が発端であると思われる。「日ユ同祖論」を知らない人はググってください。

    個人的に「日ユ同祖論」はワクワクして好き。日本語とヘブライ語の発音が似ているというのは面白い。引用させていただいたサイトの方によると、かごめかごめの歌の単語を似た発音のヘブライ語に変換し、またそれを日本語へと訳してみると、こういった意味になるそうだ。

    何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
    封じて安置すべきものを取り出せ!
    そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
    造られたお守りの岩は功を奏することなく
    焼かれた荒れ地は見捨てられた

    「かごめかごめ」の意味とは Part I

    何かが(誰かが)囲われていて(囚われていて)、封じられたものに火をつけ燃やし尽くす。最後には何故か見捨てられてしまう。やはりこの解釈もちょっと怖い。さらには別の解釈も考えられるという。

    何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
    封じて安置すべきものを取り出せ!
    そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!
    お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く!

    「かごめかごめ」の意味とは Part I

    前の解釈では「お守りの岩」というものが役に立たなかったが、こちらの解釈では「お守りの岩」から水が湧き荒地が支配された。

    ヘブライ語説を簡単に説明すると『山のような人目につかない場所に囲まれ隠されていた「神宝」を取り出し、新しい地に遷す(うつす)という』ような意味合いではないかという。そして『火をつけ燃やす』というのは「神の裁き」を意味しているのではないかということ。

    囲われ隠され安置されている「宝」は燃やされた。その結果、「宝の安置場所」は見捨てられた。もう一つの解釈では「宝の安置場所」には水が湧き支配された。神の裁き(火)の結果が二通りあるということになる。

    旧約聖書を教典とするユダヤ教。旧約聖書の中に登場する、神の指示で作られた「契約の箱」というものがある。それは、イスラエルから失われ行方が分からなくなったまま現在に至る。神宝である「契約の箱」は日本にあるのかもしれない…という話に続いているので、詳しくは引用元サイトをぜひお読みください。

    日本語→ヘブライ語→日本語という変換が、カバラのゲマトリアを思い出させる。かごめ歌は、変換させることで本当の内容が分かる暗号のようなものかもしれない。

    UOZAブログ的「かごめかごめ」の解釈

    pancyan説

    いくつかの説を簡単に紹介してきたが、ここからは全ての解釈をまとめるような「pancyan説」を提唱していきたい。わたしの考えた解釈とそれぞれの単語の意味合いは以下のようになる。その後、歌詞の内容も詳細に解説していく。

    四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。

    籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線
    鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物
    夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上
    鶴と亀→寿命と長寿、人間と神
    滑った→真実を知ること

    「籠の中の鳥」の意味

    人間は現実世界を生き、現実世界という籠(囲い)に守られている。この当たり前のことを「籠の中の鳥」と表現している。

    かごめかごめの遊び方は、中心に目隠しをした鬼を置いて、他の人が周りを囲む。中心にいる鳥が「人間である自分自身」であり、それを囲む他者は籠(現実世界)ということになる。

    国や社会の中に生きている個人。籠の中の鳥とは『自分と、周りを取り囲むもの(他者、環境など)』と考えてほしい。人はひとりでは生きていけないから国や社会や他者に守られている。

    守られていることを忘れてしまうほど長く籠の中を生きている私たち。けれど、いつしかその現実世界に疑問を感じるようになる。今現在、この社会はおかしい、この国に違和感を感じる、などと思う人が増えてはいないだろうか?

    「いついつ出やる」の意味

    現実世界(籠)からの脱出

    「いついつ出やる」という言葉は、守られた現実世界からいつかは出ようとすることを暗示している。予言とも思える言葉である。人間は現実世界を信用しなくなったとき、そこから出ようと考えるようになる。

    現実世界から逃れようとする人間が目指す場所と言えば、苦しみが無くどこまでも自由な「理想郷」ではないだろうか。けれど現実にそんな「理想郷」など存在しない。私たちは現実から逃れる為に現実には無いものを想像する。無ければ空想の世界で創り出すしかないのだ。

    私たちは「理想郷」を天国や涅槃などと名づけたり、物語にすることがある。が、そのような現実世界には無い場所(空想の世界)は「精神世界」と呼ぶ方が適切である。「現実世界」の対になるものとしての「精神世界」である。

    関連記事:「なまよみの甲斐の国」現実世界と精神世界が交差する国-前編

    現実世界(籠)の外は精神世界

    私たちは「理想郷」が現実には無いと思っているからこそ、現実世界(籠)の外に「理想郷」があると思っている。つまり『籠(現実世界)から出る時』というのは「精神世界」へ足を踏み入れる時を指しているのだ。

    「精神世界」に詳しい人がいるとすれば、薬物中毒者や上級瞑想者なのかもしれない。「精神世界」を体験する方法として、幻覚を見せるような物質を利用する、精神を超集中して自力で入り込む、などがある。また夢を見ることや臨死体験も「精神世界」の一種である。

    かごめ歌はそんな「精神世界」の真実を教えてくれるもの。籠(現実世界)から一度も出たことがない鳥(人間)が、籠の外(精神世界)に飛び出したらどうなるのか。その先には何があるのか。

    「夜明けの晩に」の意味

    曖昧な時間が精神世界へと誘う

    「夜明けの晩」について、wikipediaに載っている解釈を一部紹介する。

    • 「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。
    • 「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。つまり「夜明けの晩」とは「存在しない時間」のこと。
    • 「朝」と「晩(夜)」、対称的な物事の象徴を指している。
    かごめかごめ

    「真夜中過ぎ・存在しない時間・対称的な物事の象徴」これら解釈は全て正しい。夜が明けるのに晩であること。夜が明ける直前の時間だけれど夜という時間をも指していて、朝と晩という対極にあるものがひとつの言葉になっている。「夜明けの晩」とは朝なのか夜なのかわからない曖昧な時間である。

    「いついつ出やる」から続く言葉であるのだから、籠から出るきっかけになるのが「夜明けの晩」である。籠の外である精神世界に向かうには、現実世界と精神世界の境界線を越えなければいけない。境界線はとても曖昧だから、人間にとって「理解し難いもの」なのである。

    関連記事:黄昏に生きる 宵に友なし

    「かごめかごめ」は人間の心の中

    わたしは、かごめ歌が「人間の心の中」を歌ったものだと考えている。人間の心の中で特に人間が理解し難い感情が、かごめ歌に表現されているのだ。人々がこの歌を不気味に感じるのは「理解し難いもの」が怖いから。人間の心の中にある「理解し難い感情」とはどんなものだろうか。

    揺れ動く心

    人間の心はいつでも揺れ動いている。喜び・怒り・哀しみなど、様々で複雑な感情があるようで、単純化してみればポジティブか、ネガティブという二極化ができる。喜びはポジティブ、怒りや悲しみはネガティブに仕分けられる。

    感情を二つに分け目盛りで表すとして、ポジティブ最高値を+10として一番上に置く。ネガティブ最高値を-10として一番下に置く。簡単に言ってみれば、この目盛りを上下にいったりきたりしているのが人間の心なのである。

    晩は-10の感情

    目盛りの一番下「−10の感情」を体験したことがある人は少ないかもしれない。そこは地獄とも言える底である。体験したことがなくても、そんな感情が恐ろしいことだけはなんとなく想像できるはずだ。

    最悪最低なネガティブ感情。それは何度でもやってきて、苦しみを更新していく。底だと思っていたところからさらに下がり、底にたどり着くまで何回もそれが続く。感情の底辺にはまったら抜け出せない。「夜明けの晩」の「晩」という言葉はそんな「感情の底(−10の感情)」を意味する。

    一方で「夜明け」とはどんな感情なのだろうか。「夜明けの晩」とは『対称的な物事の象徴』である。だとすれば、晩(-10)の反対である一番上の目盛り(+10)が「夜明け」なのかもしれない。

    重なる2つの世界

    感情の目盛りが上であれ下であれ、最高値に近づくほど、籠の外である「精神世界」にも近づく。私たちは「現実世界」を生きているけど、心の目盛りを移動することで「精神世界」へ近づくことができる。

    目盛りが最高値に近づくほど「精神世界」の濃度が高まる。「現実世界(0)」から「精神世界(±10)」へのグラデーションのようになっていて、それら世界の区別をつけることは難しい。

    2つは全く別の世界であるが、心の揺らぎと共に世界間をスライドしていく。だから私たちはとても曖昧な世界を生きていると言える。「夜明けの晩」という言葉は、夜明けなのか晩なのかわからない、2つの世界を生きる曖昧さをも表現している。人間の中にある「理解しがたい感情」とはこの曖昧さ、でもある。

    kokoronomemori

    空想の世界は精神世界

    天国・常世の国などは「精神世界」であると言ったが、霊界・幽界・あの世、黄泉などの言葉も全て「精神世界」を意味する。死者が存在すると言われている場所も私たちの心の中にあって、現実には存在しない。自分だけが個人的に体験する世界である。

    人間は「現実世界」と対比するためにそういった場所を想像する。例えばアトランティスやムー大陸なども人間が空想するもので、現実には存在しない。実在を否定すると夢を壊してしまうかもしれないけれど、そんな場所が古代にはあったのかもしれない、と考えをめぐらすことは人間が「精神世界」と「現実世界」を区別するために大切なこと。

    籠の外へ出ることは難しい

    人間が籠から出るきっかけになるのが「夜明けの晩」である、と言ったけれど、ネガティブな感情を嫌というほど経験することに耐えられなくなると、籠(現実世界)から出ようと考えるはずだ。

    現実世界を抜け出だそうと考える時、心はネガティブ感情の最高値(-10)に向かっている。けれど、そう簡単には籠から出ることはできない。境界線で必ず足止めを喰らう。そうしてもがいているうちに地獄のような「感情の底(-10の感情)」を経験することになるだろう。

    +10へ向かう人

    現実世界を抜け出す為に、ポジティブ感情の最高値(+10)に向かう人もいる。今回はネガティブの話がメインだけど、説明だけはしておきたい。

    ポジティブ最高地に到達すると、現実世界と精神世界を隔てる境界線から出られなくなってしまう。そこは限りなく「精神世界」に近い場所だから、居心地がとても良いのだ。自分が望んだ空想の世界の中にずっと居るということである。それは、少し怖いことであるけれど、幸福ではあるのでそこを目指す人々もいる。

    境界線上で苦しみもがくこと

    「夜明けの晩」は、曖昧な世界で籠の外に出る為にもがいている状態を表している。その時「現実」と「精神」の境目がなくなり、精神が混乱し現実にも影響を及ぼす。精神的な障害で苦しんでいる人は「夜明けの晩」にいるのかもしれない。「夜明けの晩」に長くとどまるのなら、いずれ「鶴と亀と滑る」ことになる。

    「鶴と亀と滑った」の意味

    夜明けの晩に起きること

    まずは、wikipediaにある「鶴と亀と滑った」の解釈をいくつか紹介しておきたい。

    • 「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。
    • 清元節の浄瑠璃「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。
    • 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。
    • 対称性が崩れる、対称性が破れることを指している。
    かごめかごめ

    縁起の良い鶴と亀が滑ること。それをポジティブなものと解釈するか、ネガティブなものと解釈するかは意見が分かれるところ。「滑った」を「統べた」と考える人もいる。

    けれど「鶴と亀が滑る」のは「感情の底(−10の感情)」の時なのだから、ネガティブな解釈としてみたい。長寿の象徴である鶴と亀が滑るから「死」を表す、という解釈にわたしも同意したい。

    鶴と亀はなぜ長寿なのか

    「鶴は千年亀は万年」という言葉があるが、そもそも長寿のイメージはどこから来たのか調べてみた。

    鶴と亀は、千年、万年の寿命を保つという、「淮南子‐説林訓」などに見える中国の伝説から出た語

    コトバンク(鶴は千年亀は万年)

    淮南子(えなんじ)という古代中国の思想書に、そんな記述があるそうだ。特に亀は中国で昔から縁起が良いものとされている。中国神話における四神、青龍・玄武・白虎・朱雀、の「玄武」とは亀なのである。正確には亀と蛇が合わさった姿で霊亀(れいき)とも呼ばれる。詳しいサイトがあったので引用させていただく。

    霊亀は古代の人々が作り出した長寿を象徴する霊獣であり、長寿の代名詞ともなっています。張衡は《霊憲》で、”蒼龍がとぐろを巻いて左に、白虎は猛々しく右に、朱雀は翼を奮って前に、霊気は首を巻いて後ろにいた。”と描写しています。龍と鳳と麒と亀は古くから四大神獣とされており、尊い生き物とされていました。

    霊亀:四霊の一柱でおめでたくて長寿の象徴である亀

    玄武とは四神の内、北方を守護する黒い霊亀です。四神の中でもとりわけ信仰されているのがこの玄武であり、真武大帝として生命を司るその神性より四神最強はこの玄武なのではないかと思います。玄武はもともとの名前は玄冥と言い冥界へ行き神託を受けて帰ってくる霊亀の事を指していました。その神託は火にくべた亀の甲羅の割れ具合で判断されました。つまり玄武はもともとは亀甲占いから作り出された存在だったのです。玄冥はその後陰陽五行説に取り入れられて北方を守護する玄武となりました。

    玄武:亀と蛇が合体した四象で、水と人の生死を司る神秘的な霊獣

    このように、生命を司る神が玄武(亀)であるようだ。だからこそ鶴よりは寿命が長いのではないだろうか。

    鶴は人間的長寿、亀は神的長寿

    「籠の中の鳥」とは『現実世界に囲われている人間』のことだと既に述べた。わたしが考えるに、かごめ歌における鶴(鳥)も「人間」を表している。その対照になるものとしての亀は「神」を表す。

    鶴である人間は100歳を越えて生きることもある。神である亀は人間よりも遥かに長く生きる。「鶴は千年」は人間としての寿命(長寿であること)、「亀は万年」は神としての寿命(永遠であること)、であると考えられる。めでたい意味が二重に重なっている。

    感情の底で理解すること

    『長寿の象徴である鶴と亀が滑るから「死」を表す』という解釈は、鶴である人間も神である亀も「死」を迎える、ということを意味する。「感情の底」で理解することは『人間はまだしも、神さえも死を迎える』という真実である。

    心の存在が人間を苦しめる

    神は人間を「心」がある者として創造した。言い換えてみれば、神は「苦しみ」を感じる仕組みを持つかたちで人間を創造したのである。

    「揺れ動く心(感情)」があるから「楽しいこと」や「嬉しいこと」を感じることができるけれど、同じく「苦しみ」や「悲しみ」も感じてしまう。ポジティブな感情を固定することができれば、苦しむ心配もないのだけれど。

    「心」が存在する限り「苦しみ」からは逃れられないことは、人間である限り「苦しみ」からは逃れられないことを意味する。「感情の底」でもがき苦しみ「心」というものを知れば知るほど、現実世界に救いなど存在しないことを悟ってしまう。生きている間に、永遠の自由が得られるような「理想郷」が現実に現れることもない。

    籠の中の鳥は夢を見ている

    籠の中の鳥は、夢を見ている。『幸せな人生を生き、苦しみなく寿命をまっとうする』という夢。それは人間の「平凡な夢」なのかもしれない。『そんな夢を見る人間』の象徴が「鶴(長寿)」であり、『その夢を追うこと』の象徴が「亀(永遠)」なのである。けれど、感情の底では、鶴も亀も自分も滑る。

    人間が死を迎えれば夢を追うことも出来なくなる。死がある限り、長寿も永遠もいずれは無になる。そのような平凡な夢でさえも幻想であり、そんな夢を見ていた自分自身を呪う。

    「苦しみ」からは決して逃れられないし、永遠を得ることもない、という真実を知った自分も滑る。「鶴と亀と滑った」が表現するのは「あまりにも深い絶望」である。人間(鶴)も神(亀)も心の中で死ぬ。

    籠に守られるか境界線を超えるか

    『幸せな人生を生き、苦しみなく寿命をまっとうする』ということについて疑問を持たず、未来に希望を持って生きている人が「籠の中の鳥」である。それが人間の通常であり、籠に守られている状態なのである。(現代ではそれが通常ではないかもしれない…。)

    それなのに籠を出ようと考えてしまい、境界線に足を踏み入れ「あまりにも深い絶望」を体験する。その結果、境界線を越えることは出来ず「死」を選ぶ人も多い。しかしながら、境界線を超えられる人も存在している。

    「後ろの正面だあれ?」の意味

    籠の外にあるもの

    「感情の底(-10)」を乗り越え、境界線を超えた人だけが知る秘密がある。それは、ネガティブ最高値(-10)とポジティブ最高値(+10)が同じものであるということ。一番下(-10)と一番上(+10)、これら対極は正反対にあるようで全く同じ地点にある、という秘密である。

    正反対の感情が全く同じ地点であるということが何を意味するのか。「心」が判断をしなければポジティブに感じる事もネガティブに感じる事も、それは「ただの事象」になるということ。

    例えば、『人が生まれること』と『人が死ぬこと』。どちらも「ひとつの事象」である。嬉しくなる出来事や悲しくなる出来事があるが、ひとつひとつの「事象」に感情の色をつけているのは人間の「心」である。

    心は判断をやめられない

    人が生まれるという感動的な体験も、人が死ぬという悲観的な体験も『それらは、全く同じ事象だ』と冷静に言い放つ人がいたらどのように感じるだろうか?『他者の気持ちが分からない、恐ろしい人だ』と、思うかもしれない。

    感情が存在しないような人、他者の気持ちが分からない人、悪いことを平気でする人などが「サイコパス」という言葉で揶揄されることがある。そのような人に対して嫌悪感を持ったり否定的な気持ちになるから、そういった言葉で表現するのだろう。

    そのように人々は観測したものをすぐさま判断し、良い(ポジティブ)か悪い(ネガティブ)かを当てはめ表現している。目にした「事象」、耳にした「事象」を瞬時に判断する生き物が「心(感情)」を持つ人間である。

    事象と感情は強く結びついている

    「現実世界」に居るとき、「事象」と「感情」は人間の中で重なり合い区別することができない。とある事象について「ポジティブ(良い)」か「ネガティブ(悪い)」か、という判断が瞬時に自動的に行われている。

    その結果「事象」と「感情」はセットで記憶に残る。人間は「事象」より「感情」の方を強く記憶している。「感情」から『忘れていた別の事象』が呼び出されることもある。「事象」と「感情」の結びつきは強い。逆に「感情」が強く働かなければその「事象」はあまり記憶に残らないだろう。

    「事象」と「感情」の結びつきを弱めることができれば、それらを区別することができるはずだ。「事象」と「感情」を全くの別物と認識できれば、『人が生まれること』も『人が死ぬこと』も単なる「事象」となり、同じものとなる。

    境界線を越えた瞬間に起こること

    「あまりにも深い絶望」を体験すると境界線を超えてしまう。つまり「心」の目盛りが振り切れると、突然、不思議な感覚が訪れることになる。時間というものが突然無くなる感覚である。

    通常「心」は時間の流れと共にあるから、感情の目盛りも上下する。時間の流れに乗り、心の判断が自動的に起こり記憶され、「事象」と「感情」は人間の中で結びつきを強めていく。

    けれど時間の流れが消失してしまえば目盛りも動かない。時間が止まると(時間が消失すると)、心も判断を止めてしまう。すると「事象」と「感情」の結びつきが離れてしまうのである。

    悟り、覚醒、アセンション、ワンネス、陰陽の統合、などと呼ばれる神秘的な体験がある。それらも、心の揺れ動きが止まり『事象と感情が分離した』瞬間の体験である。

    この体験によって、記憶の中にある「事象」からも「感情」を除くことができるようになる。苦しかった事・嬉しかった事など、対極にあると思っていた「事象」が「同じ」であることにも、気がついてしまうのだ。

    心の働きが止まる

    境界線を越えることは、心の機械的な判断を止めた瞬間。心臓が停止した一瞬ということでもある。経験したことが無い人は驚くことかと思う。その体験に「神」のようなものを感じたりもするはずだ。

    心の判断を止めることができれば、心がとても楽になる。人間は時間の流れの中で常に判断をしているのだから、生まれて初めての心の休息となるだろう。そして記憶の中にある様々な「事象」から「感情」が分離された結果、記憶の中にあったポジティブな出来事、ネガティブな出来事の差が無くなる。

    そんな体験をしても一瞬で現実世界に戻り、また時間が進む。だからその瞬間に何が起きているか詳細に理解できている人は少ないのかもしれない。体験した人はその一瞬を「無我」とか「真我」とか「今ここ」などと呼んでいるのではないだろうか。

    大きな開放感、宇宙と一体になるような体感、真実を知ったような感覚。それは時間が無いから判断もない「全ての事象」が動きを止めて存在する世界で起きること。『全てが同じで違いが無いもの』だと知る。

    心の停止による事象の消滅(生成)もある

    話の流れ上深堀りしないけれど、心が停止する際に『全ての事象が消滅したり生成したりする』体験もある。心の停止後また心は動き出す。その一連の働きの中に、以下のような過程を見出すことができる。今回は「事象の消滅(事象の生成)」の部分については触れない。

    事象と感情の分離(事象の統合)→事象の消滅(事象の生成)→事象と感情の結合(事象への判断)

    完全なる精神世界

    先ほどまで解説してきた「精神世界」と『境界線を越えた先にある精神世界』は、厳密に言えば違う世界である。私たちが現実世界で体験する「精神世界」には、生きている自分の願望が混ざることがある。それが天国などの空想世界である。

    境界線を越えた先にあるものは「完全なる精神世界」で、そこには時間が無い。一方、現実世界で体験する「精神世界」には時間が有る。思考するには時間の流れが必要で、思考による自由な空想が現実世界の中に「個人的な精神世界」を作る。

    「完全なる精神世界」は時間と思考の始まりとなる「無」であるから、思考がまだ起きていない。だからこそ「事象」への判断が起きず、自由な思考による空想世界も存在しない。

    kago-in-out

    時間が無いから鶴と亀が統べる

    ところで、「夜明けの晩」は『存在しない時間』であるという解釈があった。「夜明けの晩」に境界線を越えることができれば、完全なる精神世界で時間が無い状態を体験するのだから、やはりその解釈は正しい。完全なる精神世界は『心が判断をしない究極の体験』ができる本当の「理想郷」と言ってもいいのかもしれない。

    「朝(夜明け)と晩」も「鶴と亀」も対極にあるものを表している。それはポジティブ(陽)とネガティブ(陰)である。時間の無い世界では、鶴も亀も同じもの。統一されているのだから『鶴と亀が統べる』という解釈もまた正しいのである。

    無の世界では、人間(鶴)にも神(亀)にも違いはない、ということにもなってしまう。仏教を信仰する人が仏陀を師と仰ぎ仏陀を最上級とするのも、現実世界では「心」が『違いを判断している』から。「わたしはブッダだ」と発言できてしまう人は、判断をしない「完全なる精神世界」を知る人かもしれない。自分とブッダを同等に置いているのだから。

    判断しているのは自分なのか心なのか

    さて、境界線を越えることができれば『完全なる精神世界』を体験し「鶴と亀が滑った(統べる)状態」を知ることになる。けれどその世界に長くとどまることはできない。瞑想が得意な人は長い間そこにとどまるのかもしれないが、生きている限りまた「現実世界」に戻ることになる。

    「完全なる精神世界」で体験したことを「現実世界」に持ち帰ってみれば、ありとあらゆる事象を良い(ポジティブ)か悪い(ネガティブ)か判断し分別をしているのは「自分の心」だと気が付くことになる。そして、その体験を他者に語りたくなるであろう。

    完全なる精神世界を体験した人が、インターネット上でその体験を言葉にして伝えようとしている。その内容を見ると『全ての事象を心(意識・脳)が自動的に判断している』と結論づけている人が多い。わたしの観測範囲ではあるが。彼らの多くは『自分が判断している』とは結論づけていないのである。

    彼らは「自動的に判断する心(意識)」のことを『神のようなもの』『自分ではないもの』だと感じている。そして、幻想のような世界が在るだけて『自分は存在していない』とも言うだろう。ここではっきり言っておきたいのだけど、「自動的に判断する心(意識)」は紛れもなく「自分」のものであり「自分」は存在している。

    現実世界から「苦しみ」を消す方法

    「完全なる精神世界」を体験したら、心が停止した瞬間の『判断しないここち良さ』を記憶してしまう。だからまた現実世界に戻った時、判断したくなくなる。しかし「現実世界」には時間が流れているから「心」は必ず判断をしてしまう。

    完全なる精神世界で「事象」と「感情」を分離できたのだから、現実世界に於いても「事象」と「感情」を分離しようと考えるだろう。しかし、社会や他者との関わりを持って生きるのなら「事象」と「感情」の分離は不可能である。現実世界では「事象」に「感情」で色をつける責任を負わなければいけない。それは「苦しみ」を負うことに繋がる。

    もう「苦しみ」には戻りたくない、という強い気持ちから、「苦しみ」から逃れる別の方法を見出すことになる。それが「自分」と「心」を分離するという方法である。そうすれば「心のみ」が判断しているということにできる。

    「判断する心」のことを、神・宇宙の意識・真我などと呼び『人間とは違うもの』にして、判断責任を負わせる。そして「自分(人間)」という個人の判断責任を放棄する。現実を生き続けなければいけない人間が「苦しみ」をこれ以上体験しない為の知恵である。

    判断する自分を認めないこと

    境界線を越えることは「心」というものを見破る瞬間。心を見破ることができれば全ての事象は『自分の心が判断している』という理解に到達する。けれども、現実世界に戻った時、心はまた自動的に判断してしまう。判断してしまう限り「苦しみ」も消えない。

    『自分の心が判断している』ことを私たちは「自我」と呼ぶ。「心」と「自分」を分けてしまう人は、判断の責任を負うことになるから「自我」を嫌う。自分に心がある、としてしまうと「苦しみ」を自分自身が呼び寄せてしまうことになるから「自分」から「心」を切り離そうと努めるのだ。

    境界線を越える経験を経た宗教者やスピリチュアリストは『自我を離れ感情を揺れ動かさない方法』を布教している。現実では「苦しみ」が消せない、ということを隠したまま。

    心(意識)も体も「自分」のものであるのは当たり前のことなのに、彼らは「苦しみ」を深く知っているから「判断する心を持つ自分」を認めない。自分という存在を消すことを「苦しみ」から逃れる方法とするのだ。

    後ろの正面は自分だった

    「後ろの正面だあれ」という言葉は、ある物事について、ポジティブであるかネガティブであるかを判断しているのは自分自身(心)であるということ。後ろ(ネガティブ)も正面(ポジティブ)も自分。「目を逸らすことはできない真実」を表現しているのである。

    「後ろの正面」という言葉もまた、対極を表す言葉。正面であり後ろであることは、ポジティブでありネガティブであること。籠の中の鳥(人間)は必ず判断をしているのだから、現実世界(籠の中)を生きているのならば、その責任を背負わなければならない。

    籠の外(完全なる精神世界)に出たとしても心が停止した一瞬があるだけで、そこには何も無い。また籠の中(現実世界)に戻ればやはり「苦しみ」は消えない。このように、不都合な真実が隠されているから、人々はかごめ歌から不気味な雰囲気を感じ取るのだろう。

    絶望から夜明けへ

    最後に「夜明けの晩」という言葉についての補足をしたい。「晩」はネガティブ最高値(-10)であったが、「夜明け」は暗闇から開放される時間帯であるから、ポジティブなものを感じさせる。

    「感情の底(-10)」であるのに「夜明け」でもあることには深い意味がある。ヘブライ語説と同じように「夜明け」の解釈は2通り考えられるのである。『心が事象を判断している』という真実を知ったあと、どのように世界を認識するのか。不都合な真実を知ったとしても、解釈次第で「幸せ」になることはできる。

    夜明けの解釈・その1
    「事象」について、ポジティブかネガティブかを「心」が機械的に判断していて、その作業に「自分」は関係ないと考えること。「自分」は存在しないのだから「世界」に意味がなくなる。よって「苦しみ」から開放される。

    夜明けの解釈・その2
    「事象」について、ポジティブかネガティブかを「自分の中にある心」が判断していると考えること。「自分」が心をコントロールしているのだから、「苦しみ」も「喜び」も自分の手の内にある。全てを「自分」が決定しているから、コントロールできる「世界」となる。よって「苦しみ」から開放される。

    2通りの解釈は、どちらも「苦しみ」を乗り越えることができる「夜明け」なのである。どちらの解釈を選んでも「苦しみ」から解放される。「晩」と対極にある「夜明け」とは、『新たなる世界の見方』だと言えるだろう。

    3つの対極

    人間が「心」を知るために、「心」に深く入り込み、「心」が全ての事象をネガティブに判断した結果、『心が全ての事象を判断』しているということに気がついて世界についての解釈を改める。この過程を歌っているのが「かごめかごめ」になる。

    目に見える世界を構成するありとあらゆる事象は全てが同等であるのに、ポジティブかネガティブに仕分けしているのは「心」。さらに細かく仕分けすることで、悲しみ・喜び・怒りなどの多彩な感情の違いも生まれる。

    全てが同等であるのに、目に見える世界には初めから「違い」が存在している。そのことを強調するのが『夜明けの晩・鶴と亀・後ろの正面』というこの3つの言葉である。

    夜明けがあり晩がある。鶴がいて亀がいる。後ろがあり前がある。自然(環境)にはそもそもこの対極が表現されている。ということは『世界とは、判断をしている心がそのまま現れているもの』という気付きにもなるはずだ。

    心が機械的に判断していると思うのならば、心の存在を認めている。だとすれば「自分は存在しない」という答えは有り得ない。何故なら「心」が現実に現れたものが『自分という肉体』なのだ。つまり、「夜明けの解釈・その2」が「正解」となる。

    『心が全てを判断している』という理解の後に、世界をどのように解釈するのか。その解釈にもまた対極が現れてしまう。『世界と自分は関係無い』と考えるのか、『世界と自分は関係有る』と考えるのか、という違いである。

    私たちは対極のある世界に住んでいるのだから、判断をするのは当たり前のこと。だから解釈だって2通りに分かれてしまう。そして「正解」をどちらかに選ぶこともまた正しい。

    わたしがこのブログで言う「解脱」の意味は、『心というものを理解した結果(解釈)には2通りある』ということを正しく理解し、強い心でどちらかを選択をすること。それが私たちの本当の終着点であることはまだあまり知られていないのかもしれない。

    関連記事:「悟り」と「解脱」の違い

    「かごめかごめ」は人間の心の歌だった

    童歌「かごめかごめ」の意味

    繰り返しになるけれど「かごめかごめ」の意味を、最後にもう一度文章にしてまとめておきたいと思う。単語の意味も更新しておく。

    籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線
    鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物、人間の心
    籠の内側→現実世界、現実世界で空想する精神世界、時間が有ること
    籠の外側→完全なる精神世界、時間が無いこと
    夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上
    鶴と亀→寿命と長寿、人間と神
    滑った→真実を知ること
    後ろの正面→対極にあるもの

    かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる

    籠に囲まれるように、他者や社会という現実世界に囲まれ、当たり前のように生き続けている私たち。いつしか自分自身の「心」に注目する時がやってくる。「心」は揺れ動きポジティブな感情やネガティブな感情、様々な感情を引き起こすもの。

    自分の「心」に注目すればするほど「ネガティブな感情」を繰り返すことにストレスを感じるようになる。やがて、生きている世界そのものにも「ネガティブ」な感覚を持つことになる。籠の中の鳥(人間)は現実世界を生きることに違和感を感じ、籠から抜け出す方法を模索する。

    夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

    人間は現実世界から抜け出す為に、心の自由を求め、それぞれの「理想郷」を夢想する。夢を持つこと・何かを信仰すること・欲に溺れること。そうやって心の中に「理想郷」を創る。

    それぞれの理想郷(方法)で「苦しみ」のある現実世界から目を逸らす。現実世界から抜け出すのは難しいと理解しているから「理想郷」を創り、現実世界から抜け出したようにふるまうのである。

    「理想郷」を創ることができない人々も存在する。彼らは現実世界から本気で抜け出そうと願い「心(精神世界)」の中へとさらに深く踏みこんでしまう。現実世界と精神世界の境界線(夜明けの晩)を彷徨いながら「ネガティブ感情の底」へと堕ちていく。

    やがて「心」は世界の全てを『ネガティブなもの』と判断し、鶴と亀と滑る。それは「死」という選択を考える程に世界に絶望を感じること。けれど、そんな深い絶望を乗り越えることはできる。ついに、現実世界から抜け出すのだ。

    うしろの正面だあれ?

    現実世界の外にあるのは「完全なる精神世界」。そこは心が停止した世界で、時間が無い。心が揺れ動くことが無いから「事象」から「感情」が分離してしまう。記憶の中にある、楽しい事や悲しい事、全ての事象から「感情」を取り除くと、それらは単なる事象となる。

    「心」が揺れ動かないから、ネガティブやポジティブの判断をしない「心」を体験し、「心」が解放される。そして『自分の心が全ての事象に色を付けている(判断している)』ことを理解する。違いを決めているのは「自分の心」で、全てのものは本来ひとつ(同等)だったと知る。

    つまり、後ろの正面(ネガティブとポジティブ)は「自分」だった。世界そのものは単なる事象の集合体であり、ある事象について悪(ネガティブ)なのか善(ポジティブ)なのかは「自分(心)」が決めていたのだ。

    人間の正体とは?

    四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。

    これがpancyan説であるけれど、人間の正体は「心」だったということ。世界を解釈するのは「人間の心(感情)」であるということ。苦しみも喜びも「心」次第。「心」に操られている存在が人間である。

    籠の中にいる鳥が籠の外へ出ようとする時、自ら「ネガティブ感情の底」へと堕ちていく。そして「心」に操られている自分に絶望する。けれど籠の外では「心」の束縛から自由になれる。

    籠の外では「生きる」ことができないことも知る。時間が無いことは死んでいるのと同じこと。結局私たち人間は、時間が有る「現実世界(籠の内)」で生きるしかない。

    籠の内側から外側に出ようともがくことで「心」の真実を知ることができる。その真実を知った後「現実世界」をどう生きるのか?結局「生きる」為には選択を続けることが必要で、『選択を続けること』についても善か悪かを選択することになる。その選択が世界の見方を左右している。

    結局どの説も正しい

    pancyan説を読んだ後にもう一度他の説を振り返ってみると、どの説も間違いではないことがわかるかもしれない。

    例えば、妊婦が囚われているというのは正しい。人間の心には男性性と女性性があり、女性性が「心(思考)」を司っているから、籠の中は妊婦で表現されている。子供が殺されることをネガティブに思うのは「心」であるから「心」への憎しみが表現されている。

    関連記事:女性性が心を司る

    ヘブライ語説には2通りあったが、選択次第で「世界の見方」が変わることを表している。安置されている「神宝」とは「心」のこと。

    ヘブライ語説の『封じて安置すべきものを取り出せ!そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!』という訳は『心に注目し(取り出し)、心を燃やし、今見ている世界を根絶せよ』という意味になる。「心」を自分の力でコントロールするために必要なものは「怒り」。心を燃やすような「怒り」の力で「心」の支配から脱出するのだ。

    今回の記事では「怒り」については触れていないけれど、「鶴と亀と滑った」という言葉が表現する『あまりにも深い絶望』を経験したのならば「心」を燃やすことが必要である。とはいえ「怒り」は扱いにくいものだから、失敗すれば世界が燃やし尽くされる結果にもなってしまう。「怒り」を上手く扱うことができれば水が湧き、新しい世界が生まれるだろう。

    関連記事:エメラルドタブレットと怒り 怒りと鬼

    籠の中は時間と心で成り立っている

    時間の中にある原因と結果

    「かごめかごめ」の解説が思ったより広がりすぎてしまった。最後に、心と時間の関係についてもう少しだけ話して終わりにしたい。

    心とは機械的なもので「原因(入力)と結果(出力)」という、シンプルな反応をするもの。『原因=起きたこと』について『結果=ネガティブorポジティブ』で返す。このシンプルな計算結果が、人間が生きる「現実世界」に現れている。国も町も社会もルールも、全てが計算結果の産物。その結果がまた原因となり永遠に続いている。

    心の機械的な反応で私たちの生きる世界が成立しているのであるが、時間が進まなければ心も動かない。心は時間の中でしか働かない。

    関連記事:因果(原因と結果)と時間

    時間の流れと蓄積される情報

    結果(事象)には感情の色が付いているから、長く生きれば生きるほど「感情の記録」も蓄積される。大人になればなるほど、ネガティブ感情の方が記憶に残りやすくなり結果を出すのが怖くなる。誰だってネガティブな感情を繰り返したくないだろう。

    長く生きるほど(時間が経過するほど)情報過多になり、さらには『結果を出したくない』という気持ちも強くなっていくと、脳内の情報整理が滞り混乱してしまう。そこから「ネガティブ感情の底」を経験するような流れになる。

    リセットで時間の始まりに戻る

    けれど、感情の底を越えてしまうことができれば「事象」から「感情」が取り除かれる。つまり、それまでの「感情の記録」が全リセットされる。それは「心のリセット」であり、『時間の始まりに戻ること』でもある。「心のリセット」とは巷で「悟り」と呼ばれるもの。

    私たち人間は生まれた時からずっと情報を蓄積しているから「心のリセット」が起きると赤ちゃんに戻ったような感覚になる。けれども大人には生きてきた経験があるから、記録された「事象」はリセットされない。

    「心のリセット(悟り)」が起きると、これまで経験した「事象」をポジティブに書き換え、これから経験する「事象」をポジティブという結果にしようとするのが大人である。やはり「ネガティブな結果」は出したくないという気持ちが出てしまう。悟った人がやたらポジティブになるのはこの為。

    関連記事:悟ってやたらポジティブになったわたしの話

    時間は過去から未来へ、心は上から下へ

    ポジティブからネガティブへ

    心というものは時間と深く関係している。時間は過去から未来へと一方通行に流れていて、心はポジティブ(+10)からネガティブ(-10)方向へ流れている。目盛りでいうと上から下へという流れである。

    けれど人間の「心」はいつでも揺れ動いていて、ポジティブになったりネガティブになったりしているから、そのような一方通行の流れとの矛盾を感じるかもしれない。意味が分かりにくいかと思うので、図で説明したい。

    kokoronoreset

    人間は『ポジティブ感情からネガティブ感情への流れ』の方を強く意識してしまう。だからこそ、ネガティブに囚われると沼にはまったように堕ちていく。もちろん、『ネガティブ感情からポジティブ感情へ流れること』もあるけれど、ポジティブな感情がどんどん高まることは感覚的に捉えられない。

    つまり感覚的には「ポジティブ感情からネガティブ感情へと移り変わる流れ」が支配している。心は常に上と下を行ったり来たりしているけれど、長期的に見れば上から下へと流れているということ。

    底をついたらリセットが起き、また上へ

    このような『時間と心の一方通行の流れ』があるから、「心のリセット」は「感情の底(-10)」でしか起きないのである。その後、心の流れは「ポジティブ最高値(+10)」に戻り、また「ネガティブ最高値(-10)」へと向かい流れ始める。

    「ポジティブ最高値(+10)」に戻る前に、感情は「ゼロ地点」に戻る。事象に感情の色を付けることをやめて、事象が同等になることが「ゼロ地点」に戻ること。整理すると「心のリセット」では以下のような流れが起きていることになる。

    ネガティブ最高値(-10)→ ゼロ地点 → ポジティブ最高値(+10)

    「ゼロ地点」とは、グラフにある目盛りの+10と-10の間の0ではなく、グラフの外である「完全なる精神世界(時間も目盛りもない世界)」のこと。(本当はグラフ内の0でもあるのだけれど、話がややこしくなるので割愛。)

    「心のリセット」は一瞬であるから「ゼロ地点」の詳細を掴むことが難しい。この流れと「ゼロ地点」を精妙に紐解くことができれば、「夜明け」の解釈が2通りあることを理解できるだろう。それがこのブログで言う「解脱」である。

    関連記事:「悟り」と「解脱」の違い

    繰り返す流れと複数回のリセット

    感情の流れは繰り返すものだから「リセット(悟り)」は人生の中で一度だけ起きるものではない。さらには「リセット(悟り)」が起きたとしても、あまり意識しないまま(気がつかないまま)その後の人生を生きることもある。

    『アセンション・ワンネス・覚醒・陰陽統合』などと呼ばれている体験は、「苦しみ」に強く意識を向けないままで起きる「リセット(悟り)」かもしれない。今回解説したような『絶望するほどの感情の底』を経験(意識)してからの「リセット(解脱)」はなかなか起きない。その前に死を選んでしまうからだ。

    ちなみに、わたしは「苦しみ」に強く意識を向けないままの「リセット(悟り)」を2回体験している。そこから理解したことをこのブログに綴っている。

    これはわたしの予想であるけれど、「現実世界」に何か大きな「苦しみ」が近づいているのを感知すると心の防御反応として「リセット」が起きるのではないか。現実世界における「大きな苦しみ」に備えて「心のリセット」を起こせば、頭を整理整頓させパニックを防ぐこともできる。心は未来を知っているのだ。

    関連記事:映画「TENET」で理解する、未来から過去への時間の流れ

    苦しみの終わりは時間の矢の先にある

    破壊と再生で成長する世界

    心(精神世界)は「上から下」への流れだけれど、目に見える世界(現実世界)は「下から上」へと流れている。精神世界と現実世界は逆の流れを持っているのである。

    今回説明してきた精神世界とは「個人の心」のことになる。それはとても個人的な世界で、一人一人が違う「心の世界」を持っている。そして、目に見える現実世界は「全人類(全体)の心」になる。現実世界は「集合的無意識」が現れたもの。全体の心は目に見えるが、個人の心は目に見えないのが、この世界の不思議である。

    genjitsu-seishin-chart

    私たちの生きている現実世界は、長期的に見れば上へ上へと成長している。そして「心の世界(精神世界)」とは逆に、一番上でリセットが起きるようになっている。現実世界の物質的豊かさや技術的成長が最高潮に達すると、必ずリセットが起きる。

    リセットとは「破壊」である。破壊が起きた後は再生が起きる。例えば経済危機は『現実世界のリセット』後の大きな下り坂であるが、その後波はまた上っていく。破壊と再生を繰り返さなければ現実世界の成長はない。もちろん「心の世界(精神世界)」も破壊と再生を繰り返しているのだから、現実世界と同じく成長する。

    繰り返すのだから、心もネガティブに留まり続けることは無く「苦しみ」には必ず終わりがある。それが感情の底(-10)で経験する「リセット(破壊)」である。けれども「苦しみ」に終わりがあるのか、終わりがないのかを決めているのも「心」であることを忘れてはならない。

    心に「終わり」を決めること

    現実とは違い「個人の心」は目に見えないから「終わり」も見えない。私たちは当たり前にある上下する波(パターン)を掴めていないから、終わりが見えない「心」に翻弄される。

    その上「心(精神世界)」では時間の流れを自由に操作できてしまうから厄介なのである。上から下への流れを無視することができてしまう。

    だからいつまで経っても「終わり」を決めることができず、「心(精神世界)」で擬似的に苦しんだり楽しんだりを繰り返してしまう。『擬似的な感情』を現実に持ち込み「死」を引き起こすこともあるから「心」は恐ろしい。

    「心」の流れを理解し「心」の流れに身を任せることで「苦しみ」に終わりを決めることができる。「心」の支配から逃れるには、強い心で『終わりを迎えること』を選択する必要がある。苦しみから自分を救うのは、未来の危機を感じた自分の心だけなのである。

    自分の心を深く知り、心の波(パターン)を掴むことで、現実世界と精神世界の波(パターン)が一致する。心と現実の奇妙な一致を体験し、自分の心が世界を動かしているのを感じることになるかもしれない。

  • 2ch「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの解説をしてみる その1

    2ch「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの解説をしてみる その1

    2ちゃんねるのオカルト板の中でも有名な「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレ。2014年に書き込まれたものであるが「予言らしきもの」として話題になった。今もこのスレについて考えている人は多いのかもしれない。

    1: 本当にあった怖い名無し 2014/07/19(土) 23:57:26.06 ID:j9wpobb55
    信じるならば聞くべきだ。しかし確定した事項ではない、過信はするな。
    
    近いうちに未来分岐が起こる。
    今回の分岐は大きいものとなるだろう。
    このルートの人間はパラレルワールドを感じたことはあるか?
    分岐とは非常に高い頻度で起こっている。

    こんな書き出しから始まったスレであるけれど、2014年時点で「未来の大きな分岐」を予言(推測)している。この書き込みをした人は自分のことを「推測者」であると言う。

    ところで、わたしがこの記事を書こうと思ったきっかけは、わたしが知っている「パラレルワールド」と同じものを見ているのが、このスレの「推測者」さんであったから。わたしの考える「パラレルワールド論」を補強できるようなスレであるので、解説してみようかな、と思った次第。

    「推測者」さんは「パラレルワールド」がどんなものか理解した上で、2chのオカルト板であることを考慮し読者の興味をひくように「パラレルワールドの真実」を書き込んでいるようだ。このスレに注目を集めることで「推測者」さんの意図するものに目を向けさせようとしている。それは「よーさん予言スレ」でよーさんがしていることと同じように思える。

    このスレ内容は「不思議.net」さんの記事にわかりやすくまとまっている。知らない人は先に読んでおくといいかも。コメント欄も興味深いのでおすすめです。

    4つの分岐と分岐の時期について

    これから起きる大きな分岐の予言

    3: 本当にあった怖い名無し 2014/07/20(日) 00:05:05.72 ID:GtY+YQMyC
    これは大きな分岐の予兆となる。
    分岐の多くは人為的に、稀に自然により引き起こされるが、今回の分岐は確実に人為的だ。
    しかし分岐とは必ずしも決断ではないことをまず理解しておいてほしい。

    まずはスレ内容を追いながら分岐の内容について確認していきたい。この分岐については『確実に人為的』、尚且つ『分岐とは必ずしも決断ではない』と言う「推測者」さん。

    分岐点は不定期ながらに存在し、それらを回避することは実質的にできない。回避は壊滅を意味し、選択権の剥奪となるためだ。分岐点から分かれるルートの数は不確定だが、今回与えられたルートの数はおおまかに4つほどだ。
    
    1、ほぼ変化のみられない、回避に限りなく近いルート。
    
    2、世界は変化する。それはもはや人類の知る世界ではないが、滅亡へのルートからは限りなく離れられるだろう。
    
    3、世界のバランスが崩壊し、2とは違う変化を起こす。もはや概念は全て無意味となる。
    
    4、これについては少し説明が要るので、聞きたい者がいれば簡単に答えよう。しかし詳細は話せない

    このように分岐は4つあるという。一旦分かりやすいようにまとめておく。

    1のルート:ほぼ変化はみられず、回避に限りなく近い。
    2のルート:世界は変化し、滅亡から限りなく離れる。
    3のルート:世界のバランスは崩壊、概念は無意味になる。
    4のルート:後ほど説明。

    「ある者」は2つの選択肢に気が付く

    今回の分岐における鍵となるのはある者のたった一つの決断だ。しかしそれらは1の分岐とは全く関係がない。1の分岐は限りなく自然に近い人為的な分岐だからだ。ある者は2つの選択肢を与えられる。内容は、簡単にいえば「イェス」か「ノー」。イェスは2へ、ノーは3へ繋がる。
    しかし1のルートのみ例外だ。このルートは、そもそも選択肢が無かった場合のルートだ。人の関与する余地はほぼ無い。

    これら書き込みからわかること。まずは「ある者」のたった一つの決断によって、これら分岐のどれかに決定されるとのこと。

    「ある者」が2つの選択肢を与えられた場合のみ「2のルート」か「3のルート」を選べる。「1のルート」は「ある者」が選択肢があることに気がつかない場合であろう。

    4のルートについて

    4は1、2、3との関連性が皆無なルートだ。
    
    4に入る際にも選択肢は存在する。よって、本来ならば5、6とルートが増えるはずだが、しかし、イェス、ノー等のどの選択肢を選んでも、結果が変わらないため実質は1つのルートとなる。
    
    これを自然による分岐とみるか、人為的な分岐とみるかは五分五分といったところだが。
    
    このルートは人類の殆どにとって最悪のルートになるだろう。しかし回避する術はない。ルートへの要素が発生した瞬間に、このルートに入ることは確定する。つまり運が悪ければ4に入る、という認識で構わない。大災害や不治の病、に近い大規模な障害による壊滅や絶滅という結末を迎えるのがこのルートだ。

    4のルートに入るのにも選択をする必要がある。そうなると選択ごとにルートが増えそうであるけれど、そうでは無いらしい。5、6とルートが増えたとしても結果は変わらない為、このルートは一つとしてまとめられる。

    4のルートは大災害、不治の病、絶滅などが回避できない最悪のルート。このルートに入るのは「自然的」と「人為的」の五分五分らしい。

    分岐はいつ起きるのか

    >未来分岐が近いうちに起こるとのことですが、それは具体的にいつ?
    
    細かい日時などはルートによって微妙に異なるのでどうとも言えないが、東京オリンピックが開催される前に分岐は起こる。逆に、年号が変わるまで分岐は起こらない。全てのルートに共通してるのは以上の2点。
    
    付け加えると、分岐点は、短い時間のうちに多数の変化の可能性が発生したもので、原因は同じであっても分岐するタイミングにはズレが生じる。また、今回における4のルートのように、他のルートとの関連性が全くないものも珍しくはない。

    こちらは分岐がいつ起こるのか、という質問に対しての返答。なんと、年号が変わってから東京オリンピックが開催されるまでに分岐が起こると明言している。

    2019年4月30日までが平成だった。そして2021年7月23日からオリンピックが始まっている。ということは、2019年5月1日から2021年7月22日までの間に「ある者」の決断が行われたのだろうか。

    あと、みんなが質問せずに流しているけど個人的に気になったところ。
    
    >東京オリンピックが開催される前に分岐は起こる。
    >逆に、年号が変わるまで分岐は起こらない。
    
    東京オリンピックが開催されるのは2020年。それまでに平成の年号が変わる? 天皇陛下が無くなられるのか?
    2020年までに天皇が無くなって年号が変わるってかなりすごい情報じゃないか?

    こちらはスレに居た人の書き込みである。この人の言う通り、2014年時点でオリンピック前に改元されることを知っているかのような「推測者」さん。そしてこのコメントへの返答がこちら。

    >それまでに平成の年号が変わる? 天皇陛下が無くなられるのか?
    
    どうだろう。もしかしたら別の理由(法的な)かもしれない。
    ……という風に、断定するわけにはいかず、ある程度はぼかさなければいけない。私はヒントを与えた。それだけなのだ。後に誰かが答えに辿り着こうと、(冷たく、切り離したような言い方になってしまうが)知ったことではない。
    
    それで運命が変わるのなら、それは私が直接的な何かを教えなくても未来が変化した、ということになり、偶然から必然となる。もしそうなれば、また新たなパターンとしてデータは追加される。

    上皇陛下が退位の希望を国民に発表されたのが2016年であった。となると、やはり予言のように思える。さらには、新型コロナウィルス騒動は2019年12月初旬から始まっている。分岐が起きるであろう期間にこの大きな出来事が起きているのは気になるところ。

    そして現在は2023年なので、既に分岐が起きているはずだ。果たしてどの分岐に進んでいるのだろう。次の章では分岐を決める「ある者」について考えていきたい。

    1のルート:ほぼ変化はみられず、回避に限りなく近い(ある者は選択肢に気がつかない)
    2のルート:世界は変化し、滅亡から限りなく離れる(ある者は選択肢に気がつく)
    3のルート:世界のバランスは崩壊、概念は無意味になる(ある者は選択肢に気がつく)
    4のルート:大災害、不治の病など、世界の壊滅(自然的か人為的)

    分岐の鍵となる「ある者」について

    権力者や指導者

    >分岐における鍵となる「ある者」とはどのような存在?
    
    分岐に影響を及ぼすのは国の権力者や指導者などが主で、今回もそれは変わらない。ただし、その存在が日本における権力者または指導者とは限らない。が、具体的に誰とは言えない。それは私のような推測者が、決してやってはいけないタブーだ。

    「ある者」についての質問への返答である。決断をする「ある者」は国の権力者や指導者などが主であるという。

    もう1つ質問させてください。分岐のカギになるのは国の権力者・指導者の決断とのことだけど、それはどのような決断?
    
    戦争や外交といった国際関係に関する決断なのか、温暖化、人口問題、資源など地球環境に関する決断なのか?それとも、異世界・異星人・真実の歴史などの隠された情報の開示に関することか?
    
    分岐に影響を与える者が科学者ではなく国家の為政者ということは、革新的な技術や理論、つまりテクノロジーによって未来に大きな変化が起こるわけではなく、その変化は政治によりもたらされる、という解釈で合っていますか?

    「ある者」の決断とはどんなものなのか?という質問に対しての返答が以下である。

    決断の多くは、1番目の「戦争や外交」に関するものが多い(全てではないが)。おおかた予想がついているとは思うが、やはり戦争の勃発などは分岐の代表例ともいえる。
    
    しかし、かといってテクノロジーの進化などが分岐に関係ないというわけでもない。確かに分岐の原因として世紀の大発明があったりはする。が、それをどう利用するかによってやはり分岐は発生する。例えばある科学者が永久機関を開発したとして、それの利用方法を決断するのはやはりその国のトップだろう。
    
    その国のみの利用で留めるか?それとも他の国にも技術を販売、または譲り渡すか?答えは「イェス」か「ノー」、そして長い時間を経てうやむやにする「タイムオーバー」。このような分岐も存在する。

    決断のきっかけの多くは「戦争や外交」に関するものが多い、とのこと。そしてテクノロジーの進化なども少なからず分岐に関係しているし、そのテクノロジーをどう利用するかによっても分岐が発生するという。

    >決断の内容は国際関係、地球環境、情報の開示のどれが一番近いですか?
    
    その中では、やはり国際関係の決断ということになるだろう。(4は例外的で間違いなく地球環境だが)

    そして決断の内容としては「国際関係」とのこと。一方で4のルートに行くための決断内容は「地球環境」に関すること。

    「ある者」とは誰なのか

    ここまでまとめてみると「ある者」は国の権力者や指導者。分岐への決断のきっかけは「戦争や外交」であり、その決断内容は「国際関係」であるとのこと。

    「推測者」さんのこのような書き込みから「ある者」について、現在の世界の状況と照らし合わせながら考察している人もいるかもしれない。

    2022年2月からロシアとウクライナの戦争が始まり、世界の状況にも動きがある。「ある者」が何かを決断したことが原因かもしれない。

    けれど、この記事では現実で起きている戦争とか政治とか国際情勢とかには一切触れない。それらは「ある者」や「パラレルワールドの真実」を知るためには本質的には関係の無いこと。「推測者」さんもそのことを理解しているはずだ。

    けれど国の権力者や指導者である「ある者」が「パラレルワールド」の選択を行なっているのは確かである。

    推測者と観察者について

    「ある者」が誰なのか、そして「パラレルワールド」の真実を知るためにも「推測者」と「観測者」の違いについて理解することが重要である。ひとまずスレの中から「推測者」と「観測者」について書かれているところを以下に抜粋してみる。

    >「推測者」って聞きなれない言葉だけど、未来を予測する人って意味かな?
    
    予測よりはある程度データが集まっている状態なので、推測という言葉を用いた。意味合いとしてはその考えでおそらく問題ない。
    
    観測者との違いは、推測者はあくまでルートの推測をするだけ。観測者は、ルートが変化したか、またはいつ変化したか、を断定する役割を持っている。(ルートが変化「した」というのは過去の出来事であるため、彼らには「断定」ができる)
    
    推測者でもそれは出来ない事も無いが、変化した、という断定と変化に至るまでの情報収集を同時にこなすのは、(趣味としては)ハードすぎる。
    まず、私に時を越える能力だったり、情報を時を越えて届けるといった物は持っていない。しかし、能力といえるのかは別として、別ルートの自分と精神を入れ替えることができる、というだけだ。「どういう状況で」「何が起こったから」そのルートになったのかという情報を、あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を基に予測をしているだけだ。
    
    例えば、経済破綻の起こったルートの自分に対して、原因、状況、何が起こったのか、と大まかなことを聞き、それはこちらのルートでも起こる「かもしれない」ということになる。この「かもしれない」が偶然集結したものを分岐点となる。
    
    余談になるが、別ルートの自分との情報交換の方法は、何か紙などに質問を書き、しばらくしたらまた入れ替わって確認、答えが書いてあれば暗記して元のルートに戻り、パターンとして書き残す、という方法を多く用いている(少々面倒ではあるが)。

    推測者は推測する

    これら書き込みからわかる「推測者」についてまとめる。「推測者」はあくまでルートの推測をするだけ。その方法は『別ルートの自分と精神を入れ替える』というやり方。

    あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を元に推測する。その情報については紙などに質問を書き、しばらくしたらまた入れ替わって答えを確認、パターンとして書き記す。その能力について、装置などは使っていないという。

    観測者は断定する

    同じく、書き込みからわかる「観測者」についてのまとめ。「観測者」はルートが変化したか、またはいつ変化したか、を断定できる。ルートが変化「した」というのは過去の出来事であるため、彼らには「断定」ができる。『観測者にとってはルート変更が過去の出来事であること』は重要ポイントである。

    パラレルワールドの真実

    パラレルワールドの基本情報

    ここからは少し「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレの内容から離れて、わたしの知る「パラレルワールドの真実」についてお伝えしていきたい。

    ところで、この記事を読む皆さんは「パラレルワールド」をどのように捉えているだろうか?「パラレルワールド」は「並行世界」とも言う。わたしたちは「パラレルワールド」についてこんな考え方を持っているのではないだろうか。自分の(誰かの)選択の数だけ世界が存在する。

    例えばある一本の道を歩いていたとして、道の分岐に出くわす。ここで「右の道へ行く自分」と「左の道に行く自分」という分岐が起きる。その時点で二つの並行世界が生まれることになる。

    パラレルワールドというオカルト

    このブログは「オカルトブログ」なのであるから、今回の「パラレルワールド」のはなしはオカルトとして読んでもらってもかまわない。

    けれど本当に、選択の数だけ「パラレルワールド(並行世界)」は存在するかもしれない。それは量子力学でいう「多世界解釈」というもの。「解釈」というのだからまだ決着がついていないし、つくかもわからないようなことだけれど。

    コペンハーゲン解釈に用いられた人為的な仮定を排除し、量子力学の基礎方程式の帰結をすべて素直に受け入れる。これが多世界解釈の本質だ。しかしその結果、我々の住む唯一の宇宙のなかで、ある現象が偶然起こるのではなく、すべての可能性は異なる宇宙のどれかで必ず実現していることを認めざるを得なくなる。
     有名なシュレーディンガーの猫の例で言えば、箱を開けた瞬間に猫が生死いずれかの状態に収縮するのではなく、我々が生きた猫と死んだ猫の存在するどちらの宇宙にいるのかを知るだけだ(しばしば宇宙が分岐したと呼ばれる)。

    「量子力学の奥深くに隠されているもの」 異なる宇宙ですべてが実現する 朝日新聞書評から

    パラレルワールド図解

    8つのルートがある宇宙

    ということで、わたしが知っている「パラレルワールドの全貌」を簡単な図にしてみたのでまずはご覧下さい。

    parallel-world8

    この図は簡易的なものであり、「8つのルート」が並行に描かれている宇宙の図になっている。8本のよこ線がそれぞれのルートである。この図は「観測者」から見たパラレルワールドで、「観測者」の8つの可能性が描かれている。「観測者」について多くは語られていないが、パラレルワールドにおいては「観測者」が最重要人物なのだ。

    順を追って、この図の意味するところを簡単に解説していく。

    左右の時間軸(西から東)

    この図の左から右に時間が進んでいる。私たちが通常体験している時間の流れである。この時間軸は「現実世界の時間」で、過去と未来を西と東で表現している。時間は東へ一方向に流れていて、いつかは「死」がある。どのルートでもこの法則は適用される。

    上下の時間軸(南と北)

    この図には上下の時間の流れもある。この時間軸は「精神世界の時間」で、過去と未来を南と北で表現している。私たちは「過去」のことを思い出したり、「未来」のことを予想したりすることがあるが、これも時間軸の移動になる。

    想像は自由だから、過去と未来を往来することができるので一方向ではない。どのルートでもこの法則は適用される。

    赤い線は観測者の視点

    この図には「観測者の8つのルート」が描かれているが、『赤い点は中心視点』である。8つのルートはどれも「観測者の可能性」なのだけれど、その「可能性」の中から一つだけを選ぶ必要がある。あるひとつのルート上にいる限り、その他の可能性を同時に体験することはできないということを表している。

    赤い点は「観測者」がある一つのルートを生きている「地点・時間」ということになる。左端の赤いたて線はその「観測者が誕生した瞬間」。そこから赤いよこ線を右に進んでいくと、右端の赤いたて線である「観測者が死亡する瞬間」に終着する。

    青い線は観測者であり推測者

    この図は『観測者の8つのルート』であると述べているから、赤い線と同じように青い線も「観測者の可能性」である。赤いよこ線のルートを生きる観測者にとって、青い7本のよこ線は別の可能性となる。

    観測者の別可能性である7つのルートは「観測者視点」でなかった場合のルートで、それは「推測者」のルートである。

    パラレルワールドひとまずのまとめ

    パラレルワールドには左右の時間軸があり、上下の時間軸がある。そして、1本の赤いよこ線が「中心となる観測者ルート」。7本の青いよこ線は「推測者ルート」であり『観測者の別可能性のルート』である。「推測者」は「観測者」の別ルートとして存在している。つまりスレ主である「推測者」さん自身も『観測者の別ルートを生きている』ということになる。

    パラレルワールドの真実

    さらに「パラレルワールド」の核心に迫ってゆきたい。実は、観測者の全ての可能性は、既に目に見えるものとして現れている。『観測者の別の7つのルート』は、単なる可能性ではなく「観測者」の目の前に「現実」として現れているのである。

    現在わたしたちの世界人口は約80億人(2023年時点)であるらしいが、「観測者1人」と観測者の他の可能性である「推測者たち」を足したものが世界の総人口になる。パラレルワールドの図は簡易的なものなので、世界人口が8人で表されているということになる。

    「観測者」と、観測者の可能性である「推測者たち」が同時に存在しているのがこの世界(宇宙)。今現在わたしたちの世界を生きている人々の中に「観測者」がたった1人だけ存在していることになる。

    ある者=観測者

    今生きている人の殆どが「観測者」が生まれた時に現れ、「観測者」が死ぬ時に消えてしまう存在であると言える。つまりこの宇宙(地球)は、赤いよこ線で表される「観測者」の人生の中のようなもの。

    そして、この世界にたった1人だけ存在する「観測者」は、スレ主さんが言う「ある者」のことを指す。「観測者」は普通の人間として、どこかで生きている。

    あらゆるルートの「自分」

    ところで、スレ主である「推測者さん」はルートの推測をするために、別ルートの自分と精神を入れ替えデータを収集していた。『あらゆるルートの自分に問い、集めた情報を基に予測をしているだけだ。』と言うように、スレ主さんは様々な「別の可能性」とコンタクトをとっている。

    スレ主さんの言う「あらゆるルートの自分」は「観測者の別の可能性」のことである。先ほど述べたように、私たちのほとんどが「観測者の別の可能性」を生きている。そして、スレ主さんは「別の可能性」を「自分」だと思っている。

    ということは「観測者の可能性」である全てのルートは「自分」なのである。もちろん「観測者」も可能性のひとつであるのだから「自分」である。この世界に存在する人間全てが「自分」ということになる。

    「自分」について考える

    自分という視点

    この世界に存在する人間全てが「自分」であるということを理解する為に、「自分という視点」について考えてみたい。話が次々と飛ぶようであるけれど、これは「パラレルワールド」を理解するのに一番大事なこと。

    人間が「わたし」や「ぼく」という「自分の視点」を持っていることは、当たり前のようですごいこと。決して「他者」の目線から世界を見ることはできない。

    人間であれば誰もが持っている「自分という視点」。みんながみんな「自分」である。「自分という視点」が沢山存在しているのがこの世界。けれど人間には「自我」があるから、「自分」と「他者」という区別をする。

    「他者」もまた「自分という視点」を持つものなのに、「自分という視点」から見ると「他者」に見える。おかしなことを言っているようだが。

    自分と他者

    これは、とてもややこしい話である。分かり易くする為に、自分(わたし)を「Aさん」・他者(あなた)を「Bさん」としておく。「自分(Aさん)」から見ると自分では無い者は「他者(Bさん)」である。けれど「他者(Bさん)」は自分自身のことを「自分(Aさん)」と言う。

    Cさんでも、Dさんでも、Eさんであっても、彼らは自分自身のことを「自分(Aさん)」と言うだろう。人間が「自分(Aさん)」という視点から外れることは無いということ。当たり前の事を言っているようだけれど。

    世間には、幽体離脱・体外離脱と呼ばれる不思議な体験をする人がいる。自分の肉体から抜け出してしまうのだから「自分」から外れてしまうような体験に思われるが、結局は「自分視点」で動き回ることになる。やはり「自分という視点」からは抜け出せないということ。

    神の正体について

    唐突ではあるが、ちょっと「神」について考えたい。人間は『神とは何か?』という問いに向き合い、考え続けてきたが、その答えは多様である。

    神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。

    Wikipedia(神)

    以下はWikipediaから引用した、人間が考えてきた「神という存在」についての結論一覧。第一原因、様々な物事に宿るもの、恩恵を与えるもの…などなど。

    • 創造主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
    • アニミズム(汎霊説)における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
    • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は信仰、犠牲、祈りなどに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
    • 人格神。神が人と同じような人格(や姿)を持つとする考え方。
    • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばスピノザはこのような考え方を採った[要出典]ことで知られている。汎神論。
    Wikipedia(神)

    このように「神」については多様な意見があるけれど、わたしが辿り着いた「神」という存在の答えがある。「神」とは単に「自分という視点」であるということ。「自分という視点」は第一原因であるし、様々な物事に宿るものであるし、恩恵を与えるものでもある。

    『神は全知全能』と言われることがあるが、この世界に存在する『自分という視点の全て』こそが「神」だから、そのように言われる。「自分という視点」を「ひとつ」にまとめるならば、「自分という視点を持つ者」全ての能力を持つことになる。

    あらゆる自分が集合するパラレルワールド

    「自分という視点」について少しは伝わっただろうか。当たり前のことすぎて「自分という視点」について考えることはあまりないのかもしれない。さて、ここまでの考察からわかる「パラレルワールド」とは?

    パラレルワールド論で語られる『別の世界線』や『別の可能性』というのは、単に「他者の人生」ということになるし、それは「自分」である。親、子供、友人、先生、同僚…。自分が認識できる全ての人間が「別ルートの自分」であり、「自分が選ばなかった可能性」を生きているのが「他者」なのである。

    ひとつの宇宙にひとりの人間

    『別ルートの自分』『別の世界線』という言葉を使うと、あたかも遠い遠い別宇宙の話のように思えるが、実はそれも間違いでは無い。「他者」はまったくの別宇宙に存在している。同じ空間に居るようで、実際は同じ空間には居ないのである。

    「ひとつの自分視点(ひとりの人間)」は、ひとつの宇宙の主(あるじ)である。ひとつの宇宙には1人しか存在できない。わかり易く言えば、たった1人で宇宙に存在しながら、VRゴーグルをつけて地球を体験するゲームをプレイしている、という感じ。同じ空間(地球)に沢山の人間が居るように見えているだけ。

    つまり現実ですぐ隣に誰かが居たとしても、その人はまた別の宇宙にいる。これは比喩や例え話では無い。「自分」がそれぞれ別宇宙に存在しながらも「あらゆる自分視点」がひとつの宇宙に集まっているのを感じているのが私たち人間なのだ。

    地球にしか無い自分視点

    根拠は示さないのだけれど「自分視点を持つ者」が住めるのは「地球」だけである。この前提は絶対であるから「違う宇宙」に生まれても「地球」に存在することになる。宇宙の数だけ「地球」が存在している。

    どの宇宙に生まれても「地球」という場所で「他者」を感じる。けれどその「他者」は別宇宙の「地球」に居る。

    唯一無二の存在

    「ひとつの自分視点(ひとりの人間)」が生まれると姿形・性格もひとつに決まる。その情報は遺伝子に書き込まれている。「ひとつの自分視点」においては、遺伝子と同じように人生がどうなるかも決まっている。

    同じ遺伝子を持った人間が別世界で全く別の人生を歩む、ということは無いのである。言い換えれば、別の人生を歩む時、遺伝子(姿形や性格)は変化してしまうということ。ひとりの人間(ひとつの自分視点)は唯一無二の存在である。

    一卵性双生児は遺伝情報が100%同じと言われているが、最近の研究では100%同じとまでも言えないような結果が出てきているようだ。

    しかしながら、近年、一卵性双生児の間で異なる遺伝情報があることが明らかになってきた。
    米アラバマ大学の研究チームは、2008年2月に発表した研究論文で、「一卵性双生児のゲノムは同一ではない」ことを示した。
    アイスランドのバイオ医薬品会社デコード・ジェネティックスの研究チームが一卵性双生児381組とその親、配偶者、子を対象に遺伝情報を解析した研究でも、これを裏付ける結果が出ている。
    研究チームは、2021年1月7日、遺伝学専門学術雑誌「ネイチャージェネティックス」で「初期発生段階で発現した平均5.2個の突然変異により、一卵性双生児は異なる遺伝情報を持つ」との研究論文を発表した。

    Newsweek 「一卵性双生児の遺伝情報は同一ではない」ことが明らかになってきた

    輪廻転生とパラレルワールドの関係

    自分視点で考える輪廻転生

    自分視点=認識

    パラレルワールドについて、さらに理解を深める為に「輪廻転生」という概念についても説明してゆきたい。『何度も生まれ変わる』のが「輪廻転生」であるが、wikipediaに載っていた輪廻転生についての説明を読んでみる。

    仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。

    Wikipedia 輪廻

    仏教における「輪廻」は『認識というはたらきの移転』であるという。「認識」は「自分」があるから行われるもの。「自分」という主体があるからこそ世界を認識できる。「認識=自分という視点」として良い。

    『輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。』とも書かれているように「自分視点(認識)」は常に移り変わるエネルギーのようなものであるから、それを主体(霊魂)とは呼ばないのが仏教の教えである。

    固定された自分視点

    生まれ変わりというと、魂が肉体に乗り移るというイメージがあるが、「自分視点(認識)」はずっと固定されていて『見えているもの』が変わる(移転する)というのがわたしの理解する輪廻転生である。このブログでは「自分視点(認識)」は『固定された主体』であり、その主体が輪廻を作り出していると解説している。

    仏教で『主体(霊魂)が無い』と教えるのは、輪廻から解脱することを目的としているから。主体があるからこそ輪廻が作り出されてしまうので、それを否定する。

    関連記事:この世界の真実(最終解答編)後編

    認識という個性

    「認識(視点)」とは「世界の見方」である。目の前にあるものを、どう感じるかは個々の「認識(視点)」が決める。同じものを見ていたとしても、それをどのように感じるかは人によって違うことがある。

    輪廻転生を体験している「自分視点」を固定すると「見ているもの(自分以外のもの)」の方が移転し続ける。だから「生まれ変わる」という表現よりかは『視点(認識)の移転』の方が正しいと言える。

    輪廻転生によって様々な「認識」を体験することができる。人間が五感で感じる「世界」は「自分という視点(認識)」が第一原因である。「自分視点」とは、移り変わるエネルギーであり、唯一無二の遺伝子であり、魂であり、神である。

    生まれ変わりには順番がある

    輪廻転生を信じるならば、前世や来世が存在する。生まれ変わることで、今現在の人生とは違う「自分視点」で世界を見ることになる。輪廻転生の話をしたけれど、パラレルワールドとはどんな関係があるのか。こちらの図を見て欲しい。

    rinne-number

    赤い線は「観測者」が生まれてから死ぬまで、青い線は「推測者」。左から右に時間が経過している。真ん中にある、たての青い破線は2023年を示してみた。この図はひとつの例である。

    全部で8本のよこ線にはそれぞれに数字がふってあるけれど、これは生まれ変わる順番を示している。人間は生まれ変わることで「自分視点(認識)」が移転すると述べたけれど、その移転には決まった順番があるということ。

    この世界を生きる人間全てにこの「生まれ変わり番号」が振られている。私たちは輪廻転生を繰り返しながら、順番通りに「視点」を移転させている。その順番については人間に理解できるものではないが、一つだけ分かっていることがある。

    最初の視点と最後の視点

    この世界に存在する人間の中で「一番最初の自分視点」を持つ者が「観測者」であるということ。そして「一番最後の自分視点」も「観測者」である。図には書いていないけれど生まれ変わり最後の番号は9番になる。

    この図の世界に生きるのは全部で8人であるが、「一番最初の自分視点」と「一番最後の自分視点」両方を持つ者が「観測者」。1人の人間が生まれ変わりの最初と最後を担っているのである。

    図を見ながら説明すると、「観測者(1番)」が死亡したら「推測者(2番)」に生まれ変わる。そして「推測者(2番)」が死亡したら次の「推測者(3番)」に生まれ変わる、という感じ。そうしていって「推測者(8番)」が死亡したら「観測者(9番)」に生まれ変わる。

    「観測者」は最後の視点(9番)でもあるのに、最初の視点(1番)でもある。最初と最後は1人の「観測者」が掛け持ちしているので「観測者(9番)」が死亡したら「観測者(1番)」に生まれ変わる、ということはない。

    重なる自分

    図の中の、たての青い破線上にある、1(9)・2・4・6・8番という「5つの自分視点」を見てほしい。2023年のとある時間に、『生まれ変わる前の自分』と『生まれ変わった後の自分』が同時に生きている。

    例えば「推測者(6番)」にとって、来世である「推測者(8番)」と同時に生きていることになる。「推測者(8番)」にとっては「推測者(6番)」は前世である。この世界では、来世や前世の自分と触れ合い、会話をすることだってできる。

    過去の自分や未来の自分が目の前に存在しているのが「パラレルワールド」の不思議。「自分」から見た「他者」という存在は、必ず、自分自身の前世または来世であるということになる。

    観測者が生み出したパラレルワールド

    生まれ変わりに順番があるのならば、私たちが良く知っている過去の歴史上の人物なども順番の中に含まれていると考えるかもしれない。けれど「パラレルワールド」は「観測者」が生まれてから死ぬまでの間だけ存在している宇宙である。

    「観測者」の宇宙とも言えるこの世界は、「観測者」が最初の視点を持ったと同時に生まれている。そして同時に多くの「推測者たち」も生まれる。「観測者」が最後の視点を持った時に、この宇宙は終焉する。

    だからこそ「観測者」が生まれる前に存在したとされる「人間」に番号が振られることは無い。「情報」として存在するだけとなる。あくまでも「観測者」が生きている期間(時代)に存在する人間だけがパラレルワールドを構成していて、それが「現実」になる。

    輪廻転生は永遠に続く

    「最後の視点」があるということは、輪廻転生には終わりがあるということになる。「推測者」はいつかは「観測者(9番)」の視点へと変わる。しかしながら、「最後の視点(9番)」は「最初の視点(1番)」でもあるから輪廻転生は既に始まっている。「パラレルワールド」とは輪廻転生が永遠に続いてしまう世界である。

    過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)という現実

    私たちは「自分視点」に立った時「現在」を感じているはずだ。ここまでの解説通り、「自分視点」から見た「他者」は前世の自分であったり来世の自分であったりする。つまり『自分が現在』であり『他者が過去と未来』なのが、パラレルワールド。

    『過去・現在・未来は同時に存在している』という言葉を聞いたことがあるかもしれない。その言葉が正しいか(信じる)・正しくないか(信じない)、などと議論をするまでもなく、目の前に「過去と未来」が存在している世界を生きているのが私たちである。

    タイムリープする「観測者」

    「観測者(1番)」の次の視点は「推測者(2番)」であり、その後「推測者(8番)」という経験を終えたら「観測者(9番)」になる。このように「観測者」も生まれ変わり順に含まれてはいるけれど、「推測者」と決定的に違うのは、最初と最後を掛け持ちしていること。

    「最後の視点」を持つ者なのだから「推測者(2番)〜推測者(8番)」の人生を既に経験しているはず。けれども「最初の視点」を持つ者でもあるのだから、「推測者(2番)〜推測者(8番)」の人生をまだ経験していない。

    「観測者」は自分自身の全ての可能性を知りつつも、その可能性を知らない。こんな矛盾を持つ「観測者」だからこそ使える魔法がある。その魔法は、世間では「タイムリープ」と呼ばれている。

    タイムリープ(和製英語:time leap)は、日本語に直訳すると「時間跳躍」となる。和製英語で『時をかける少女』で登場した造語。

    「タイムリープ」は一般的に「自分自身の意識だけが時空を移動し、過去や未来の自分の身体にその意識が乗り移る」という意味で使われており、自分自身が意識・身体とも時空を移動することを意味する「タイムトラベル」と使い分けられていることが多い。

    タイムリープ(Wikipedia)

    「観測者」は時空を移動して様々な視点(認識)を経験することができる。パラレルワールドでは、一人が一つの宇宙に住んでいるが、「観測者」はそれら宇宙を次から次へと乗り移ることができる。「タイムリープ」については、次回の記事で詳しく書く予定です。

    輪廻転生する「推測者」

    一方「推測者」は輪廻転生という仕組みで、順番通り『生まれては死ぬ』を繰り返している。「タイムリープ」することが出来ないから、地道に輪廻転生を繰り返すのみとなる。

    可能性の移転を繰り返すパラレルワールド

    「自分視点」を順番通りに移転する私たち。全ての可能性を経験する「観測者」と「推測者」である。「観測者」が生まれ、「推測者」として経験を積み、「観測者」として死ぬのがパラレルワールド(輪廻転生)の真実。

    残念ながら、輪廻転生から抜け出す方法など存在しない。この宇宙は「観測者」によって生まれているが、輪廻転生を抜け出したいと思っている「推測者」は、いつか輪廻転生を創り出す「観測者」になってしまうのだから。

    終わったと思ったら始まるのだから、人間はずっと渦の中に閉じ込められたまま。「解脱」とは輪廻から抜け出すことだと考えるかもしれないが、「解脱」とはこのシステムを理解すること。だからわたしは「解脱」をおすすめしない、と何度かこのブログで書いている。抜け出すことができないことを知ってしまうのだから。

    前編のまとめ

    今回の記事はここまでにしておく。最後に、今回明らかにした「パラレルワールド」の秘密についておさらいしておきたい。

    8つの可能性

    この地球に8人の人間が住んでいるとしたら、「観測者1人」と「推測者7人」という割合になる。観測者という1つの可能性と推測者という7つの可能性、合わせて8つのルート(8つの可能性)が存在しているのがパラレルワールド。

    しかし、パラレルワールドは「観測者」という中心人物が創り出している「観測者」の視点から見た世界であるから、その他「推測者」も存在している。「推測者」は「観測者」の別の可能性を生きている。

    ひとりひとつの宇宙

    地球には多くの人間が住んでいるように思えるが、地球に実在しているのはたった1人。目に見えている「他者」は別宇宙の地球に存在している。

    自分が集合した宇宙

    この地球に存在する8人(観測者1人と推測者7人)は皆「自分」という視点を持っている。けれども自我によって「自分以外」の人間を「他者」と感じてしまう。

    パラレルワールド論で語られる『別のルート(世界線)』や『別の可能性』というのは、単に「他者」のことである。みんながみんな自分を自分と思っているのだから。私たちは自分の様々な可能性がすぐ目の前に存在する世界を生きている。

    輪廻転生番号

    この地球に存在する8人(観測者1人と推測者7人)には生まれ変わる順で番号が振られている。パラレルワールドを生み出した「観測者」は、最初(1番)と最後(9番)の番号を掛け持ちしている。

    推測者(2〜8番)は、いづれ最後の輪廻転生者である「観測者(9番)」に生まれ変わるが、一番最初の転生者でもあるので、輪廻はまた始まっている。最初と最後が同じ人間(観測者)なので、輪廻を永遠に繰り返してしまうのがパラレルワールドである。

    推測者と観測者の違い

    「推測者」はルートを推測し、輪廻転生を順番通りに進んでいる。「観測者」はルートを断定し、タイムリープで時空(未来と過去)を移動している。

    次回に続く

    簡単にまとめてみたけれど「パラレルワールド」のだいたいのところは説明できたはず。まだまだ全ての秘密を明らかにできていないので次回へと続く。

    今回「このルートの人間はパラレルワールドを信じるか?」というスレからあまり考察ができていないけど、次回から踏み込んでいこうと思います。

    「上下の時間軸」について、観測者が使う「タイムリープ」の詳細について、スレ主さんが言う「4つの分岐」の意味について、そして「ある者(観測者)」とは誰なのか?ご期待ください。

  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 後編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 後編

    出雲大社の「御神体」について解き明かしていく記事を前編中編と書いてきた。それなのに「御神体」についてまったく解き明かせていない。

    前編では「大社造」と「大社造の柱」について紐解き、中編では「八雲之図」などについて紐解いてきた。これら考察をまとめ、今回はやっと「御神体」について書いていけると思う。まずは、これまでの考察を復習してから本題に入っていきたい。

    前編・中編まとめ

    出雲大社「大社造(たいしゃづくり)」について

    男造と女造を重ね合わせたものは「人間の心」

    出雲大社本殿の建築様式は「大社造」。前編では「大社造の構造」が『人間の心の構造』と全く同じであることを解き明かした。

    大社造には「男造」と「女造」があって、出雲大社本殿は「男造」である。わたしの考察は「男造」と「女造」という二つの構造を重ね合わせたものが『人間の心』である、というもの。

    ちなみに。「人間の心」とは『未来に進む時間と過去に戻る時間が重なったものである』、ということは別の記事で結論づけている。それを踏まえて以下のような結論を出した。

    大社造の「男造・女造」それぞれの構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられる。

    未来に進む時間(男造/実行/現実)

    わたしたちが出雲大社本殿に入ることはほとんど無いけれど、もし入るのだとしたら、わたしたち人間は「男造」を「右回り」することになる。そして、本殿西向きに配置されている「大国主(男神)」に向き合うことになる。

    男神は人間の心の構造の「実行」を表している。「実行」とは「確定すること」。思考していたこと・想像していたことを現実にすること。この行動が「未来」を創る。これが「未来に進む時間」ということ。

    過去に戻る時間(女造/思考/精神)

    わたしたちが『女造である神魂神社本殿』に入ることはほとんど無いけれど、もし入るのだとしたら、わたしたち人間は「女造」を「左回り」することになる。そして、本殿東向きに配置されている「イザナミ(女神)」に向き合うことになる。

    女神は人間の心の構造の「思考」を表している。「思考」とは実行前の大切なプロセス。「思考」はわたしたち人間を惑わすこともあるけれど、過去に起きたことを思い出し、分析するために必要なこと。これが「過去に戻る時間」ということ。

    大国主が西を向いている本当の理由

    大国主が本殿正面を向かずに西を向いていることについて世間では様々な考察があるが、「大国主」が未来を創り出す「実行の神」である、ということを認識させる為。そう言える根拠は今回の記事で述べていく。

    わたしたち人間は神によって大社造を「右回り・左回り」させられている。出雲大社を参拝する人間が「大国主」に向き合うには、右回りをする必要がある。

    神と人間は鏡写し

    この考察を導くには、神と人間が「鏡写し」の関係にあることを理解している必要がある。『人間は現実・神は精神』という鏡写しだけでなく、『男神は現実・女神は精神』という鏡写しもある。

    人間が右回りするから男神は左回りする。左回りするために、大国主は西を向いている。人間が左回りをするから女神は右回りする。右回りするために、イザナミは東を向いている。このあたりについては前編で詳しく述べたことなので省略します。

    出雲大社の参拝方法

    ちなみに。出雲大社は本殿を拝した後、本殿の周りを左回りするのが正式な参拝法らしい。この参拝法は「実行(右回り)」する前には必ず「思考(左回り)」が必要であることを伝えているはずだ。

    思考してからやっと「大国主」の真意を知ることができる。その後、わたしたちは右回りして「実行」に移し、「大国主」の偉大さを知るのである。

    出雲大社「9の柱」について

    9の柱の意味

    出雲大社本殿を造るのに重要なのは、全部で9本ある柱。日本では神様の数をかぞえるのに「柱」という単位を使う。「柱」も『神という精神』を表す。前編でこれら「柱」について結論付けたことが以下。9本の柱それぞれが意味するところ。

    宇豆柱×2…男神・女神という親
    心御柱×1…男神・女神の子どもとしての人間
    側柱×6…人間

    宇豆柱である2柱は「男神(実行の神)」と「女神(思考の神)」を表している。そして「心御柱」はその2柱の神々の子どもである「人間」。側柱が「人間」を表すことについて、詳しいところは今回の記事の中で。

    「心御柱」は自我

    「実行の神(男神)」と「思考の神(女神)」の子どもである「心御柱」は、思考と実行を行う「人間」である。その「心御柱」が「自我」であることについて、詳しくは前編をお読みください。

    お詫び

    ここまで書いてきて大変なことに気がついた。前編の終わりに、”9本の柱が『2柱の神(宇豆柱)』と『7柱の人間(心御柱・側柱)』であるということを証明していきたいと思う。”

    とか言っておいて、中編でこの件ついて証明することを忘れている!中編書いているときは「雲」について考えることに必死で「柱」のことなど忘れていた。適当ですいません。

    2柱の神と7柱の人間

    「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。

    「八雲之図(やくものず)」については中編で紐解いたので、「2柱の神・7柱の人間」については今回しっかりと解説してゆきたい。

    出雲大社「八雲之図(やくものず)」について

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    出雲大社(男造)と八雲之図

    一つだけ逆を向いている雲は「大国主」

    こちらは出雲大社本殿の天井に描かれている「八雲之図」雲の配置。「御神座」と書いてあるところは「大国主」が祀られているところ。

    「大社造(男造)」において「男神(大国主)」は左を向いている。一つだけ左を向いている雲も「男神(大国主)」ということになる。強引な考察だけれど、今回の記事の中でその意味をはっきりとさせていく。

    一番大きな雲は「女神」

    一番大きく、唯一黒色が使用されている雲。「大社造」と照らし合わせてみると、中心にあるから「心御柱」に対応している。この大きな雲は「心の雲」と呼ばれていることからもそれがわかる。

    そして、この雲は「女神」である。何故「女神」なのか、「男神」では無いのか。こちらも今回の記事で詳しく述べていきたい。

    一番大きな雲は「人間」でもある

    一番大きな雲は「人間」でもある。それは前編で『心御柱とは人間である』と考察したことにつながっている。「女神」であり「人間」であるという考察には矛盾があるように思えるけれど、魂の性質と同じであることを表す。

    魂は二重性を持つもの

    「八雲之図」に描かれる「雲」とは「魂」を表している。そして「魂」には二重性がある。目に見える魂・目に見えない魂、という二重性である。

    一番大きな雲に黒色を入れる作業を「心入れ」と言う。遷宮の直前にこの作業は行われるのであるが、その時間帯に注目すると「雲」が「目に見えない魂」から「目に見える魂」に変化することがわかる。詳しくは中編をお読みください。

    「心の雲」も二重性を持つもの

    一番大きな雲は「女神」であり「人間」である、という矛盾。けれど、これが一番大きな雲の正体。「心入れ」で目に見えない「女神」が、実体のある「人間」に変化することを表現しているのが「心の雲」なのである。

    「8」という数字について

    7つの雲と9つの雲の謎

    出雲大社の「八雲之図」には「7つの雲」が描かれている。そして「神魂神社」本殿の天井には「9つの雲」が描かれている。

    出雲大社の雲が一つ神魂神社へ飛んで行った、などという言い伝えがある。出雲大社と神魂神社はそれぞれ「男造」と「女造」であり、対になるものとして繋がりを感じさせる。

    出雲と8という数字

    出雲大社の雲は「八雲之図」と言うのだから、初めは「8つ」存在していたと仮定し、そのうちの一つが神魂神社へ飛んでいった。そうしたら出雲大社の雲は「7つ」になる。神魂神社も初めは「8つ」の雲が存在していたと仮定するなら、一つ増えて「9つ」の雲になる。

    「8」という数字は出雲に縁が深い。「八雲立つ」という枕詞を持つ出雲国なのだから「8」という数字には秘密が隠されている。

    スサノオの八岐大蛇退治

    中編ではスサノオの八岐大蛇退治の神話から「8」が意味するところを紐解いた。詳しいことはそちらを読んでいただきたいのであるが、簡単にまとめるとヤマタノオロチは「8回」生と死が繰り返される「輪廻」を表している。

    「8」という数字には「生と死」が含まれている。「魂」と同じく二重性を持つものなのである。

    8は「永遠」を意味する

    8とは、魂(雲)であり、生と死の両側面を表す。それは「永遠」を意味する。「魂」と同じく『目に見えないもの(死)』は『目に見えるもの(生)』に変化する。生と死が繰り返される輪廻は、変化が繰り返されること。変化することは消滅ではない。変化することが「永遠」なのである。

    「十拳剣」と「草薙剣」について

    怒り・分かれ増える・強さを示す「十拳剣」

    名前が様々に変化する「十拳剣」。この剣にまつわる物語は「生きる」ことの不安定さを感じさせるものである。「生きる」為に行動することで起きる「死」がある。わたしたちは様々な「死」の上に成り立つ「自分自身の生」に罪悪感を感じている。

    死を受け入れる為の「草薙剣」

    「草薙剣」はヤマタノオロチの尾から現れた剣。それはスサノオが『生と死が繰り返される輪廻』を認めたからこそ現れたもの。これまでに起きた「死」を認め、「新たな生」を自分自身の中に見つけたということ。「新たな生」とは、罪悪感を乗り越えた後に感じる「生」のことである。

    生と死が存在するこの世界に、確かに「生きている」と認識することは、『生と死が繰り返される輪廻』が存在しているからこそ自分も存在していることを理解すること。

    自己(十拳剣)と自我(草薙剣)

    「自己」とはまだ曖昧な自分のこと。「自我」とは意志の存在する自分のこと。

    八岐大蛇神話は、曖昧な自己を確定し自我という強い意志を見つける自分自身のストーリー。曖昧な自己は名前が様々に変わる「十拳剣」で表され、目に見えない固く強い自我は「草薙剣」で表されている。

    スサノオは最初荒ぶる厄介者であったが、後にヤマタノオロチを倒し英雄となった。それは、曖昧であった自己から、固く強い意志(自我)を持つ者に変わったことを意味している。

    「八雲立つ出雲八重垣」について

    クシナダヒメを守るもの

    クシナダヒメと暮らす為に見つけた「淸地(すが)」という地。そこに「八重垣」を作ったスサノオであるが、心の中に存在する「女性性(クシナダヒメ)」を守る為に作ったものである。

    「八雲立つ」というのは多くの新しい魂が生まれること。そして「八重垣」はそれら『男性性と女性性が合わさりひとつになった新しい魂(生)』を大切に囲むように幾重にも作られている。

    草薙剣で表される「男性性」と、櫛になったクシナダヒメで表される「女性性」。スサノオとクシナダヒメの結婚は、固く強い意志で「死」を受け入れたことを表している。その『固く強い意志のある生』は「新しい魂(生)」である。その魂は「八重垣」に囲まれることになった。

    八重垣とは輪廻を表す

    「八重垣」とは「輪廻」を表している。「輪廻」を受け入れたスサノオは「新しい魂」を守る為にまた「輪廻」を創った。「八雲立つ」という、幾重にも重なるものは「多くの新しい魂」の流れである。そして中心には『自分という新しい魂』も存在する。

    「生」を再認識したことで「新しい世界」が始まった。それは自分を中心として、その他生命も存在する世界である。

    繰り返された末に完成、また始まること

    スサノオの八岐大蛇退治神話からわかることは『繰り返されること』はいつか「完成」を迎えるということ。その魂の完成こそが『繰り返す輪廻』を創り出しているということ。「輪廻」が創り出される原因は「クシナダヒメ」で表される「女性性」であるということ。

    ということで簡単な復習はここまでにして、さっそく今回の記事の本題である「出雲大社御神体」の秘密を解き明かしていこうと思う。

    男造と女造を8で繋げる

    8は永遠の魂

    まずは、中編で紐解くことができなかったこと。雲が「出雲大社」と「神魂神社」を移動する理由について考えていきたい。

    「出雲大社」の雲が7つなのは「神魂神社」に飛んでいったから、という言い伝えは正しいと思っている。どちらも元々は「8つの雲」であったはずだから。

    「8」と言う数字は「永遠」を表す神聖な数字である。そして「永遠の魂」をも表すからこそ、雲(魂)の数は「8」でなければいけないのだ。

    永遠とは何か?

    輪廻と魂は切っても切れない関係

    「永遠の魂」とは『輪廻の中に存在する魂』を意味する。中編で八岐大蛇神話を解説してきたように、スサノオは魂を守る八重垣(輪廻)を造った。

    輪廻とは魂を守るもの。輪廻が生まれれば、必ずその中に魂も生まれる。魂が生まれれば、そのまわりに輪廻が生まれる。

    常に絶対に有るもの

    輪廻の中に存在する魂は、同じことが繰り返される輪廻に囲まれているからこそ「永遠」という性質を持つ。中編では「永遠」についてこう述べた。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということである。だから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    常に絶対に有るものが「永遠」である。ところで「永遠」についてちょっと検索してみた。

    宗教、哲学の用語。つねに在るものの在り方をいう。時間に対比して用いられる。時間が、移り変わり過ぎゆくものにかかわり、過ぎゆくものの在り方をいうのに対して、永遠は不変なものの在り方をいう。

    永遠とは(コトバンク)

    「永遠」とは『時間に対比されるもの』であり『不変なものの在り方』であるということ。

    永遠と時間の対比

    「永遠」はいつも「時間」と対比される。時間の経過は新しいものを古いものにさせ、「不変」とは言えない。栄枯盛衰という言葉があるように、形あるものは時間の中でいつか滅びる。

    時間=変化であるから、永遠(不変)と時間(変化)は対極にあるもの。けれども、前章の『8という数字についてのまとめで述べたように、『変化の繰り返し(輪廻)』こそが「永遠(不変)」なのである。

    状態変化は存在が無くなることではないから、存在そのものは常に絶対に有る。時間(変化)が存在することは「永遠(不変)」を証明しているようなものなのである。

    生きとし生けるものは「生」から始まり「死」で終わる。「永遠」を信じていない人間は「死」んだら「無」になると感じているのかもしれない。けれど『生から死へ変化』することは、既に「永遠の魂を持っていることの証なのだ。

    二重性が見えてくると「永遠」が理解できる

    『生と死・始まりと終わり・陰と陽・男と女』これら対極にあるものは、人間の認識では別々のものに見える。けれど、これら対極にあるものが重なっていることを理解することで「永遠」という認識に変わる。重なっていること(二重性・二面性)は『変化しても不変であること』を意味するのである。

    そう認識することは難しいことであるかもしれない。けれど「死」という経験の中から得る「生」が積み重なることで、重なりが見えてくるはずだ。無論、それには何度も「死」を経験する必要があるが…。

    完成とは更新されること

    中編では「8」という数字が「永遠の魂」を意味すると同時に、時が満ちる瞬間(完成)であるとも述べた。重なりを理解する瞬間が「完成」である。

    「完成」とは物事が「終わり」を迎える言葉であるけれど「始まり」も意味している。その「始まり」は前の「始まり」とは少し違うもので、更新されている。

    八岐大蛇神話においての現実的存在は「スサノオ」だけ。ということは、クシナダヒメは現実の存在ではない。物になっているのだから、それは人間ではないのである。櫛であることは、スサノオの心の中にあるものを意味している。ヤマタノオロチが「スサノオの男性性」だったように、クシナダヒメは「スサノオの女性性」を表す。

    これは中編で述べたことであるが、クシナダヒメに表される「女性性(受け入れる心)」は元々スサノオの中にあったもので、それは更新され新たなものになった。

    生贄になるはずだった8人目の娘(クシナダヒメ)は、スサノオに守られることになったのであるが、既に生贄になった7人の娘達とは違う魂である。それは「新しい魂の一側面(女性性)」を表現している。そして、スサノオも「新しい魂の一側面(男性性)」として更新された。

    ふたつでひとつ

    「死」を何度も経験したあと男性性と女性性が更新されたならば、二重性(男性性・女性性)こそが「ひとつ(魂)」であることを悟るのである。「ふたつ」だとしても「ひとつ」であることは『変化しても不変』であるのと同じこと。

    スサノオ(男性性)とクシナダヒメ(女性性)という『ひとつの新しい魂』を完成させた「八岐大蛇神話」はスサノオの新たな出発点である。完成(8)とは、目には見えない「ふたつの心」が更新され、新たな「ひとつの心」が始まること。

    9が表すもの

    古いものと新しいもの

    「ひとつの魂」は二重性(二面性)を持つが、現実に現れるのは一側面であるから繰り返しが必要になる。両側面を現す為に、輪廻という繰り返しの中で「古いもの」が「新しいもの」に更新される。時間の流れがあるから両側面を認識することができる。

    更新は、目に見えない心で起きること。「古いもの(終わり)」と「新しいもの(始まり)」は重なってもいるから、「8(終わり)」を迎えたら最初の「1(始まり)」に戻る。目に見えない心が更新されても、目に見えるものは変わらないから「1」であると言える。

    9は同じだけど新しいもの

    「同じ魂」だけれど「新しい魂」に変わること。目に見えるものは変わらないけれど、それを見ている自分自身の心が更新されるから、世界の見え方が変わる。それを「1」ではなく「8」の続きとして「9」という数字で表すこともできる。

    「8」という完成で終わりを迎え消滅するのではなく、引き継いで続くことで「同じ魂」であることを表す。「同じ魂(1)」であっても新しく見えるから数を増やして「9」になる。

    「神魂神社」の天井に描かれている雲は「9つの雲」である。何度も言うけれど「出雲大社」から飛んできた一つの雲が加わり「9つの雲」になったはず。

    9の柱と9の雲

    以下の図は「神魂神社」の雲の見取り図。これはわたしの想像図である。「9つの雲」は『同じ魂であり、新しい魂であること』を表しているのではないか。「大社造」の柱も全部で「9本」であることも気になるところ。ここからは「9」にまつわるお話をしていきたい。

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    神魂神社(女造)と瑞雲之図の想像図

    陽数は喜び

    日本には五節句というものがある。これらは中国から伝わったものであるが、日本の大切な伝統として現代まで残っている。

    1月7日は人日の節句(じんじつのせっく)
    3月3日は上巳の節句(じょうみのせっく)
    5月5日は端午の節句(たんごのせっく)
    7月7日は七夕の節句(しちせきのせっく)
    9月9日は重陽の節句(ちょうようのせっく)

    中国思想では奇数である『1、3、5、7、9』を「陽数」と呼び縁起の良い数字としている。だからこそ五節句も陽数が重なる日付になっている。

    人の日と獣の日

    ところで、1月7日だけ同じ陽数ではなく、違う陽数が重なっている。1月7日は七草粥を食べる日であるけれど、「人日の節句」というと馴染みがないかもしれない。「人日」という言葉の由来を引用させていただきたい。

    人日とは文字通り〝人の日〟という意味ですが、この由来は古代の中国において、正月の1日を鶏、2日を狗(犬)、3日を猪(豚)、4日を羊、5日を牛、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにし獣畜の占いをたてていました。そして、7日は人の日として犯罪者に対する刑罰も行なわない慣わしであり、翌8日は穀を占っていたようです。

    校長通信

    1日から6日は「獣の日」であり、1月7日は「人の日」だと言う。ここで再び、八岐大蛇神話で紐解いたことをおさらいしたい。

    1〜7という多数の経験の終わりには、8という理解を迎え、魂が完成する。この1〜8の流れがあるからこそ新しい魂が生まれるのだ。

    八岐大蛇神話が教えてくれることは、8という完成に至るまでには、1から7という経験が必要になる。7という数字が「繰り返す経験」を表すということは既に中編で述べたこと。「八岐大蛇神話」での経験とは、娘が何度も(7回も)ヤマタノオロチの生贄にされるようなこと。

    そして6日間の「獣の日」。厳しい自然の中で生きる「獣」、家畜として生きる「獣」、それは「困難」を表しているように思える。困難を繰り返した後の7日目に「人の日」がやってくる。

    「人日の節句」の由来から分かることは、獣から人になるという流れがあるということ。1日から6日という経験の最中は「獣」であり、7日目でやっと「人間」になる。

    苦しみの6

    仏教には六道輪廻という概念が存在し、苦しみのある動物に生まれ変わる畜生道と言う地獄がある。また、キリスト教では、666という6が3回重なった数字は獣の数字と呼ばれる。「6」という数字には獣であることの苦しみが現れているように思える。

    関連記事:六道輪廻 

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    8日目は神

    7日目で「人間」になったら、次の日は「8」日目。ここまでの考察の通り、8とは「永遠」であり「二重性をもつもの」であることを考えてみると、人間の次は「神」になる。

    『わたしはアルファにしてオメガである。』新約聖書ヨハネの黙示録にはこんな記述がある。これは神の言葉であり、自分自身を『始まりにして終わりである存在』だと宣言する言葉。

    始まりであり終わりであること。つまりキリスト教の「神」も同じく二重性を持ち、「永遠」であることを表している。「神」の本質とは二重性なのである。

    獣から人間を経て神へ

    スサノオが荒ぶる神からヤマタノオロチを倒す英雄になったように、わたしたちが「永遠という神」に成るためにも、多数の経験(困難)が必要になる。

    1から7という経験(獣から人間へ) → 8という永遠の完成(神に成る)

    1日から6日は「獣」であり、7日で「人間」になり、それを過ぎたら「神」になる。8日目が「神」を表すならば、9日目は何になるのだろうか。

    8は目に見えない

    スサノオがヤマタノオロチ退治を成功させた時、心の中に目に見えない大切なものを見つけた。中編で述べたことを再掲する。

    「完成」は輪廻というオロチの中ではなく、スサノオの心の中で起きたこと。8回目の「完成」は目に見えないものだから、わたしたちは信じるしかない。完成とは『男性性と女性性の心の中の結婚』である。

    「8」という数字は「二重性・永遠・神」を表すが、8は「目に見えないもの」をも表している。「新しい魂」が生まれ、完成を迎えたとしても、それは心の中に起きるもの。神も永遠も目には見えない。

    五節句の7月7日(七夕の節句)の次は8を飛ばして9月9日である。「8」は偶数(陰数)であるから節句も存在していない。陽は目に見えるもので、陰は目に見えないものであるから。

    重陽の節句

    9は陽数(奇数)の最大数であるから、特に縁起が良いとされている。9という陽が重なる9月9日は「重陽の節句」として祝事が行われる。

    9月9日の「重陽の節句」は不老長寿を願う節句である。先ほど述べたように、9とは『同じ魂であり、新しい魂』であること。9が重なる「重陽の節句」は同じ魂(人間/長寿)であるけれど、新しい魂(神/不老)に成ったことのお祝いにふさわしい。

    8という数字は「二重性・永遠・神」を表すけれど、目に見えない。目に見えないからこそ「9」という数字が「目に見えるものとしての二重性・永遠・神」を表しているのではないだろうか。

    九重で守るもの

    ところで、天皇がすまう皇居のことを「九重」と言ったりする。「九重」も「八重」と同じく幾重にも重なることを表す。

    「八重垣」とは『魂を守る輪廻』のこと。皇居が「九重」と呼ばれるのも、天皇を守るものとして何重にも囲われているイメージがある。

    天皇は天照大神が祖先の「現人神」である。すまう場所が「九重」と呼ばれることがあるのは、神の子どもとして生まれた『新しい魂(天皇)』を大切に守る場所だから。

    天皇は『神であり人であること』を象徴するもので『二重性を目に見えるものとして擬人化した存在』である。

    天皇家の紋章の意味

    天皇家の紋章は「十六弁八重表菊紋」というもので、十六の菊の花弁、裏(後)にも十六の花弁があるようなデザインである。

    八重という言葉が入っていることから、8が何度も重なるデザインであることがわかる。表に8が二重の十六の花弁、裏にも8が二重の十六の花弁。『8という完成(永遠)』が重なっている。

    十六弁八重(目に見えないものの重なり)が菊(目に見えるもの)を形作っている。9月9日の重陽の節句は「菊の節句」でもある。

    五節句のひみつ

    現代日本に残る節句は五つであるが、昔は多くの節句があったらしい。現代まで残っているものは、見事に、人間が神に成るまでの流れを表現している。

    1月7日は人日の節句…人になるまで(無病息災を願う)
    3月3日は上巳の節句…女性が生まれる(女の子のお祝い)
    5月5日は端午の節句…男性が生まれる(男の子のお祝い)
    7月7日は七夕の節句…男女が交わる(織姫と彦星の出会い)
    9月9日は重陽の節句…神になる(不老長寿を願う)

    9は8が現われたもの

    「9」という数字は「二重性・永遠・神」という目に見えない完成(8)が目に見えるものに変化した状態である、と結論づけたい。「神魂神社」に描かれる「9つの雲」は『目に見える新しい魂』ということになる。

    そして出雲大社に「8つの雲」が描かれていないのは、完成とは『目に見えないもの』だから。それは「心の中」で起きること。

    ふたつを繋げるもの

    完成前・完成・完成後

    8が「完成」であるのなら、「神魂神社」に描かれる雲は「完成後」であると言える。とすると「出雲大社」に描かれる雲は7つだから「完成前」になる。

    完成前:7つの雲(出雲大社)→ 完成:描かれることのない8つの雲 → 完成後:9つの雲(神魂神社)

    「完成」することとは『永遠である神』になること。人間が神に成る過程が雲で表現されているのである。完成後の「現人神」とは二重性を持つ存在が目に見える状態になったもの。

    完成前:7つの雲(人間)→ 完成:描かれることのない8つの雲(神) → 完成後:9つの雲(現人神)

    人と神とを繋げるもの

    「大社造」に描かれた雲で表される「心・魂・精神」とは『人間と神とを繋ぐもの』なのである。雲の数によって、男造と女造は繋がることができる。

    「8」という数字が真ん中でふたつのものを繋げている。けれどそれは目に見えないからこそ、わたしたちは理解するのが難しい。大社造の「男造」と「女造」は「8」という雲で繋がっているから「7つの雲」と「9つの雲」が天井に描かれているのである。

    わたしたちは真実を知っている

    「八雲之図」という名や、それにまつわる言い伝えでは「8つの雲」の存在が強調されている。わたしたちは、本当は、魂が永遠であることを知っている。

    未完成であるものはいずれ完成し、その後「神魂神社」へと向かうことを知っているから、出雲大社の雲が「神魂神社」へ移動したと感じるのだ。

    現実とは完成後の世界

    スサノオとクシナダヒメがすまう場所は「八重」で囲まれていて、現代の天皇がすまう場所が「九重」で囲まれている、という違いについても述べておきたい。

    神話は精神世界(物語)という『目に見えないできごと』であるが、皇居は現実世界の『目に見える場所』に存在する。精神世界は完成していて(八重)、現実世界は完成後(九重)ということである。わたしたちは完成後の世界を生きている。

    次のページへ続く。

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  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 中編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 中編

    この記事は前編の続きです。前編では、出雲大社「大社造の秘密」と「柱の秘密」を解き明かしてきた。中編は「八雲之図」の謎解きからスタート。

    出雲大社「八雲之図」の秘密を解き明かす

    3つの謎とその謂れ

    八雲之図3つの謎と、それぞれの謎に対する謂れについて、分かり易くまとまっているブログから再び引用させていただきます。

    ①一雲のみ逆向きである。
    ②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
    ③八雲と言いながら七雲しかない。

    ①日光東照宮の逆さ柱にあるように”陽極まれば陰”を避けるため。

    ②最も大きな7の雲は『心の雲(シンノクモ)』と呼ばれ「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)「心入れ」する際は「天下泰平、国土安穏、朝廷宝位、仁民護幸給」などが祈られたとも伝えられる。

    ③ⅰ8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。ⅱ神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった 等が言われる。

    思ったこと

    一雲だけ逆を向いている

    yakumonozu-otoko
    出雲大社(男造)と八雲之図

    雲が出雲大社の天井にどのように描かれているのかネットで調べたところ、このような感じらしい。まずは、「一雲だけ逆を向いている」謎について。これは「男造」を観察していればなんとなくわかる。前編で述べた「男神」の回り方について再掲。

    男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしらを左回りすることになる。

    図の中「御神座」と書いてあるところが「男神」。「男造」において「男神」は左(西)を向いている。つまり、一つだけ左を向いている雲も「男神」ということになる。

    あまりにも説得力がない結論を出してしまったが、とりあえず話を続けていきたい。

    一番大きな黒が使われた雲

    一番大きな雲は「女神」

    次に一番大きな雲について。結論から先に言ってしまうと、この雲は「女神」を表している。一つだけ左を向いている雲が「男神」、そして一番大きな雲が「女神」。ということは、これら雲は「神」だから「人間」ではないと言える。

    岩根御柱(心御柱×1)…宇豆柱(男神・女神)の子ども、人間
    棟持ち柱(宇豆柱×2)…男神と女神
    側柱(その他の柱×6)…人間

    前回のおさらいとして、出雲大社それぞれの柱が意味するものを再確認。一つだけ左を向いている雲と一番大きな雲は「宇豆柱」に対応しそうだ。

    けれど、一番大きな雲は「心の雲(しんのくも)」と呼ばれている。一番太い柱である「心御柱(しんのみはしら)」との関連性を匂わせる名前である。「心御柱」は「人間」を表すから、そうだとしたら矛盾してしまうようにも思える。

    雲は「たましい」

    ところで。そもそも「雲」が何を表すのかというところに触れておきたい。「雲」とは「魂」なのである。「魂」という漢字について知ると「雲」と「魂」の関係がわかる。

    云(うん)と鬼とを組み合わせた形。云は雲のもとの字で雲気(雲、雲状のもの)の形。鬼は死んだ人の人鬼で、霊となって霊界にあるものをいう。

    魂のなりたち

    「雲状のもの」と「死んだ人の霊」の組み合わせで「魂」という漢字が成り立っている。空に浮かび、ふわふわと掴み所のないイメージがある「雲」。「死んだ人の霊」も、存在するのかしないのかよく分からない曖昧なもの。不確かなものを表現するのが「雲」や「魂」ということ。

    二種類のたましい

    ところで「たましい」と同じ意味を持つ漢字に「魄(はく)」がある。「魂」と似ているけれど、ちょっと違う。

    「魂」は陽、「魄」は陰の精気。「魂」は精神、「魄」は肉体をつかさどるもの。生きている人にはこの二つが宿るとされる。

    漢字辞典オンライン(魄)

    このように「魄」も「魂」と同じ意味をもつけれど、こちらは肉体を司る。「魂」は死後天上に昇るもので「陽の気」を表し、「魄」は死後地上に留まる「陰の気」を表す。合わせて「魂魄(こんぱく)」と言って中国道教の考え方であるらしい。

    「心入れ」をする理由

    「八雲の図」中唯一の「黒」が使われている。この黒は遷宮斎行直前の午の刻(正午)に塗られ、塗ることを「心入れ」と呼ぶ。(達磨の目を最後に塗るような感じ)

    一番大きな雲だけに「黒色」が使用され、その「黒色」を塗ることを「心入れ」と呼ぶ。「心入れ」はダルマの目入れのようなもので、国の平安を祈りながら行われるという。「心が入る」、「目が入る」というのは「生命が宿る」ということであろう。

    雲=魂=心=精神、全ては「目に見えない」もので実体を掴むことが難しい。しかし「心入れ」することで「雲」は実体を伴うことになる。それは「目に見えないもの」が「目に見えるもの」に変化すること。

    「たましい」には二種類の意味があった。だからこそ「心入れ」という儀式で、陽(天上)から陰(地上)へと変化させる。目に見えないものだった「雲(魂)」は、肉体を持った「人間(魄)」という目に見えるものに変化するのである。

    「たましい」という2つの漢字と「心入れ」から分かること。雲の意味を持つ云(うん)が使われている「魂」は精神という「目に見えないもの」を表し、「魄」は肉体という「目に見えるもの」を表す。「たましい」には二重性がある。

    「心入れ」の時間

    午の刻に「心入れ」が行われることも、「雲」という「たましい」が二重性を持つことを表現している。下の表は、以前この記事に使用した二十四方一覧表(方角と時刻)である。

    午の刻は十二時辰で11時〜13時に当たる。「心入れ」は正午(12時)に行われる。この表は十二時辰をさらに細かくしたものなので、11時〜12時のところを見てほしい。

    見てもらえると分かるように、正午の時間帯は八卦で表すと「離(り)」になる。八卦とは易占いに使われるものであるが、「離」の意味合いを知るとこの時間に「心入れ」が行われることにも納得できるはずだ。こちらのサイトを参考にさせていただきました。

    ついたり離れたり移動するもの、陰陽の分岐点、陰陽の両作用の分かれ目

    離(り)には様々な解釈があるけれど、このようなキーワードを見つけることができる。午の刻(正午)は変化の瞬間を表す時間帯になっている。

    最初に『一番大きな雲は「女神」である』と結論を述べたのだけど、一番大きな雲は「人間」という矛盾。けれど、これが一番大きな雲の正体。「心入れ」で目に見えない「女神」が、実体のある「人間」に変化することを表現しているのが「心の雲」なのである。

    女神と神魂神社

    八雲之図に描かれる「雲」は「二重性を持つたましい」であることは簡単に説明できたと思う。けれど「心の雲」が「女神」であることの説明が全く足りていない。それを証明していく為にも「女造」に目を向ける必要がある。

    日本最古の大社造である「神魂(かもす)神社」は「女造」である。なんと、ここにも「雲」が描かれているのだ。

    八雲之図なのに七雲しかない

    出雲大社「男造」の天井には全部で「7つの雲」が描かれている。「八雲之図」という名前がついているにもかかわらず。そのことについては2つの謂れがある。先ほどの引用から抜粋。

    8つ目を描いてしまうとそこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。神魂(かもす)神社の天井には九雲描かれており、そこへ飛んでいった等が言われる。

    これら謂われからわかることは、出雲大社の雲は元々「8つの雲」であったのだろう。そして、一つの雲が飛んできた「神魂神社」には「9つの雲」が描かれている。ということは「神魂神社」も元々は「8つの雲」であったのかもしれない。

    「神魂神社」の雲が天井にどのように描かれているのか、詳細はわからない。その天井の様子が少しだけわかる写真が絵葉書として神社で販売されているようだ。その写真を参考に、わたしの想像した神魂神社の雲を描いてみた。

    yakumonozu-onna
    神魂神社(女造)と瑞雲之図の想像図

    絵葉書の写真を見ると仕切りが見えるので、御神体の真上を撮影したように思える。ということは「神魂神社」の天井には、このように雲が描かれているのではないか。たぶん。写真を見ると、一番大きな雲にはやはり「黒色」が使用されているようだ。

    先ほども述べたことであるけれど、八雲之図の謂れから考えられることは、出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったのではないかということ。雲が「8つ」であったのならば、それは何故移動したのか。8という数字を紐解けば、「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりが見えてくるはずなのだ。

    八という数字の秘密を解き明かす

    出雲と8

    出雲は8という数字と縁が深い。日本神話には出雲を舞台とした「スサノオのヤマタノオロチ退治」という有名なお話がある。このお話の流れを追いながら8を探していく。

    スサノオ について

    伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)二神の子として(日本書紀)、また伊弉諾尊の禊(みそぎ)のとき(古事記)などに日月神とともに出現した、記紀神話の重要な神。出雲(いずも)系神話の始祖でもある。父から定められた支配地を治めず、母の国の根国(ねのくに)を慕って泣いたため、災いを起こして父に追放される。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    日本書紀ではイザナギとイザナミの子どもとして、古事記ではイザナギが禊をした時に洗った鼻から生まれたことになっているスサノオ。そして天照大神の弟でもある。スサノオはちょっとした厄介者。

    使命を果たさず,鬚が長く生えても泣きわめき続けて,草木を枯らせ,河と海を干上がらせ,怒った父に根の国へ追放された。アマテラスに暇乞いに天に上り,武装した姉に出迎えられ,厳しく詰問されたが,誓約による子生みをして,邪心のないことを証明した。この勝利に有頂天になり,高天原で田を荒らし,新嘗の宮を汚すなどした末に,アマテラスが咎めずに庇うと,いっそうつけあがって,機織殿に皮を剥いだ馬を投げこみ,驚いた織女を死なせ,ついに怒った大神が岩屋に隠れ,天地が暗黒になる事件を起こし,鬚と爪を抜かれ,天から放逐された。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    このように、泣きわめいたり有頂天になって暴れたりしている。その結果、天照大神は岩戸に隠れて世界は暗黒となってしまった。スサノオは悪や罪の象徴のような人物である。

    この罪により尊は神々に追放され、根国に赴くが、途中の出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、根国の支配者となる。

    素戔嗚尊とは(コトバンク)

    その後スサノオは追放され根の国へ向かうのであるが、その途中でヤマタノオロチ退治をする。ところで根の国は出雲と深い関わりがある場所。

    根の国のあった場所は言うまでもなく地下であるという主張もあるが、一方で古くから神話を現実的に解釈し、地上のどこかに当てる説が行われた。その場合、イザナミやスサノオと縁の深い出雲国に入口があるとする説がある。

    根の国(wikipedia)

    出雲には黄泉の国の入り口だとされている場所が実際に存在していて、黄泉の国と根の国の関係性について様々な議論があったりする。根の国については既に別の記事で書いているから、ぜひそちらも読んで欲しい。

    関連記事:「なまよみの甲斐の国」番外編-山が神である理由-

    ともかく、スサノオは出雲でヤマタノオロチ退治をすることになる。出雲大社に祀られる大国主はそんなスサノオの子孫である。

    八岐大蛇神話のはじまり

    スサノオは出雲でアシナズチとテナズチという夫婦に出会い、二人の娘クシナダヒメをヤマタノオロチから救うことになる。古事記を現代文に訳したものを引用しながら、詳しくみていきたい。

    夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    夫婦の間には「8人の娘」がいた。8人目の末娘がクシナダヒメ。そして、8を象徴するような怪物「ヤマタノオロチ」が登場。

    須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    スサノオはヤマタノオロチと闘う準備をした。八塩折之酒(やしおりのさけ)を醸し、垣根に8つの門を作り、その門ごとに8つの桟敷を作り、それぞれに酒の桶を置く。

    ちょっと気になること

    ところで、このwikiのページには『7回絞った強い酒(八塩折之酒)』と書いてある。ネットで古事記の原文と現代文に訳したものをいくつか読んだが、7という数字が出てこない。この『7回絞った酒』の出どころを知っている方がいたら教えて下さい。

    八雲立つ出雲国

    八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛になった櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」と詠んだ。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ヤマタノオロチに見事打ち勝ったスサノオは、 クシナダヒメと暮らすことにした須賀の地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠った。この歌の意味を以下に引用させていただく。

    雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう。

    最古の和歌とスサノオの物語(こども教室もんじゅ)

    「八雲」とは幾重にも重なった雲のことで、出雲国の枕詞にもなっている。このように、しつこいくらい何度も8という数字が出てくる「スサノオとヤマタノオロチ退治」のお話である。

    八岐大蛇神話の新解釈

    8は魂

    8と縁が深い出雲なのだから、やはり出雲大社・神魂神社は元々「8つの雲」だったはず。前の章で「雲」とは「二重性のある魂」であると述べた。ヤマタノオロチ退治に登場する「8」という数字を「魂」と考えて物語を読んでみたい。

    夫婦の8人の娘たちは「8つの女の魂」と仮定してみる。年に一度、ひとつの魂(一人の娘)をヤマタノオロチに食べられてしまう。

    ヤマタノオロチは8つの頭と尾を持っている。8匹分のオロチなのだから「8つの魂」を持っているということになる。さらに、オロチの頭と尾を「魂の最初(頭)」と「魂の最後(尾)」だと考えたい。

    「蛇(オロチ)」は生と死や、繰り返すものを象徴するものであったりする。魂の最初は「生まれること」、魂の最後は「死ぬこと」。その両方の要素を持つヤマタノオロチはやはり「輪廻」を表しているのだろう。物語の中で8の繰り返しが多いことも「輪廻」を意識していると考えられる。

    女の魂を取り込むオロチ

    ヤマタノオロチをオスと仮定すると「8つの男の魂」を持っているオロチということになる。ヤマタノオロチは既に7人の娘を食べてしまったから、ヤマタノオロチの中には「7つの女の魂」も存在している。そして最後のひとつの魂をも取り込もうとしている。

    ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

    完成(8)させないこと

    8つ目を描いてしまうと そこで完成してしまうので完成しないことで永続性を求めている。

    出雲大社の八雲之図は、8つ目を描いてしまうと完成してしまうので描かれていない、という謂れがある。ヤマタノオロチ退治のお話でも、スサノオが8人目の娘を救うことで、男女の組み合わせを完成させないようにしているのではないだろうか。

    だとしたら、8になること(完成させること)を避けるのは何故なのだろう。完成すると「永続性」が崩れてしまうようだ。永続性とは「永遠」に続くこと。何故「永遠」を保っておきたいのだろうか。

    魂は永遠

    常に絶対に有るもの

    ここでまた「たましい」は二重性を持つものであるということを思い出してほしい。午の刻に「心入れ」が行われるのは「目に見えない魂」から「目に見える魄」に変化させるためであった。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということであるだから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    目に見えない=無い?

    けれども人間は目に見えなくなってしまうと、その存在が消滅したと考えるもの。「魂」が「永遠」であることを知らない人間は、8という完成を迎えてしまったら「魂」が消滅すると考えてしまうのだろう。だからこそ、完成させないことで「永遠」を保とうとするのではないだろうか。

    死んでしまった人の「魂」は天国にあり、わたし達をいつも見守ってくれている。というような考え方を持っている人もいる。けれど現代において「魂」が「永遠」であることを絶対的に信じることは、盲目的になってしまった宗教の信者のように見なされてしまうのかもしれない。

    消滅する瞬間を恐れること

    完成と終末思想

    前述のとおり、人間は「完成」を「魂の消滅」だと感じている節がある。『完成してしまったら魂が消滅する』という思想は、昔から人間が持ち続けてきたもの。『時が満ちると世界の終わりがやってくる』という「終末思想」と同じものである。

    新約聖書ヨハネの黙示録に描かれる「最後の審判の日」のように、キリスト教をはじめ様々な宗教に終末思想がある。わたしたちは「終末」が何時やってくるのかを、とても気にしている。

    「終末の日」が何年何月何日なのかは、人間にとって有益な情報になる。「完成(時が満ちた瞬間)」に「魂の消滅」が起きると思っているから、どうにかしてそれを避けたいのである。「魂の消滅」とは自分自身の「死」を意味する。

    「ノストラダムスの大予言」では1999年7の月に人類が滅亡する、という解釈が持ち出された。また、2012年12月の「マヤ暦の予言」による滅亡説もあった。日付を具体的に指定されたから、大流行したと言えるだろう。

    現在「私が見た未来 完全版」という本が流行している模様。この本の中でも2025年7月が終末らしき日付として言及されている。

    予言が当たらないことを怒る人たちが存在するけれど、彼らは死ぬのがとても怖いのである。前もって「死」の時期を知ることで、少しでもその可能性を排除したいと思っている。

    関連記事:予言はなぜ当たらないのか

    出雲大社を恐れる人々

    出雲大社から、魂の消滅、死への恐れを無意識に連想してしまう人々がいる。『出雲大社には怨霊(大国主)が封印されている』という都市伝説には人間のそんな無意識が現れている。

    その都市伝説は、しめ縄が普通とは逆に巻かれていることや御神体が正面を向いていないことで結界を張り、その怨霊を閉じ込めている。という話なのだけれど、そう感じてしまう人間たちは「魂の消滅」を恐れているはずなのだ。

    出雲大社から何かを感じ取る人々。感じ取り方は様々だけれど、人々が出雲大社に惹かれる理由は「魂の消滅」という「死」の側面だけではないはずだ。

    時が満ちる瞬間の二重性

    もうひとつの側面

    「完成(8になること)」とは「時が満ちる瞬間」であると言える。わたしたちはそれを「消滅(死)の瞬間」だと捉えている。

    八岐大蛇神話において、死を連想させる「時が満ちる瞬間」は、オロチが女を食べる瞬間である。

    けれど、年に一度「女の魂」を取り込んでいるオロチの中には既に「7組の男と女」が揃っている。「男と女」とは「陽と陰・生と死」とも表現できる。オロチは「輪廻」を表していると言ったように、「生と死」の両側面を持っているのだ。

    8から剣へ

    ここまでの話をまとめると8とは、魂(雲)であり、時が満ちる瞬間であり、それは生と死を含んでいるはずだ。8という数字について紐解いてきたけれど、ここで一旦剣の話をさせてほしい。

    剣の秘密を解き明かす

    剣と生

    出雲大社の雲について『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから、雲は7つ』という考え方が、「死」の側面だけに目を向けたものであるならば、もうひとつの側面をも見出す必要がある。完成(8)が「生」でもあることを、八岐大蛇神話クライマックスシーンから見つけていきたい。

    準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ここからは「剣」の役割に注目していきたい。まずはヤマタノオロチを倒した「十拳剣(とつかのつるぎ)」について深掘りしていく。

    十拳剣(とつかのつるぎ)が意味するところ

    固有名詞を持たない剣

    「十拳剣」は、拳10個分の長さの剣のこと。名前が様々に変わるなど、固有名詞を持たない剣の総称であるとのこと。日本神話の中に度々登場している剣である。様々な場面に登場する「十拳剣」の様子がまとまっていて分かり易いサイトがありましたので、そちらから引用させていただきます。

    怒り

    伊邪那岐命(イザナギノミコト)は腰に挿していた十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、迦具土神(カグツチノカミ)の首を切りました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    イザナミがカグツチという神を産んだ時、陰部が焼けて死んでしまったことに怒ったイザナギは「十拳剣」でカグツチを殺してしまった。また、別のお話ではアジスキタカヒコネという神が、死人と間違われたことに怒って「十拳剣」でその場をめちゃくちゃにした。怒りと共にある剣であることがうかがえる。

    分かれ増える

    天照大御神(アマテラスオオミカミ)がまず建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が持っていた「十拳の剣(トツカノツルギ)」を受け取って、三つに折り、天真名井(アメノマナイ)の水ですすいでから噛み砕き、吹き捨てました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    こちらは「アマテラスとスサノオの誓約神話」の一場面。詳しいあらすじはリンクから確認していただきたい。誓約(うけい)の為に、スサノオの「十拳剣」が折られ噛み砕かれ、そこから三柱の女神(宗像三女神)が産まれている。そして、このようなお話もある。

    イザナギは十握剣(トツカノツルギ)でカグツチを三段に切りました。それらの部位がそれぞれ神となりました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    こちらは、日本書紀の中のお話。カグツチは三つに切られ、それぞれ、雷の神・山の神(オオヤマヅミ)・水の神(タカオカミ)という三神に成った。

    古事記でのカグツチを殺すお話では、三神どころではない多くの神が生まれている。十握剣(トツカノツルギ)刃の先端から落ちた血から三柱、刃の根元から落ちた血から三柱、柄の部分から手を伝い落ちた血から二柱。

    カグツチを切った剣から滴る血から合計8柱の神が生まれている。その後、カグツチの死体からも8柱の神が生まれている。8という数字が気になるところであるが、ひとつの剣から多くの神が生まれていることに注目したい。

    強さを示す

    天鳥船神(アメノトリフネ神)と建御雷神(タケミカヅチ神)の二柱は、出雲の伊那佐(イザサ)の浜に降り立ちました。そして十拳剣(トツカノツルギ)を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神(オオクニヌシ神)に問いました。

    日本神話・神社まとめ(十拳剣(トツカノツルギ))

    これは「出雲の国譲り」の中のお話。天照大神は下界を平定するため、大国主の元にアメノトリフネとタケミカヅチをよこした。その際、タケミカヅチは十拳剣の刃の上にあぐらをかきながら大国主に直談判をした。この出来事が象徴することは何か。

    タケミカヅチは自分の強さを主張するために、わざわざ刃の上にあぐらをかいたのである。刃の上に座るには我慢強さが必要だ。国を譲り受ける為にも、大国主に強さを見せないといけないと思ったのだろう。

    変化する、増える、自己証明

    怒り・分かれ増える・強さを示す、というキーワードから見出せるものとは。「十拳剣」を持ち怒りを表現すること。怒りという感情は人を豹変させ、争いの元になるものである。怒りとは動物的本能でもある。

    「十拳剣」は三つに分かれて神と成る。そして「十拳剣」によって切られた者の血から多くの神が生まれる。一つの剣をきっかけに多数の生命が生まれること。これもまた変化であり、増える作用がある。

    「十拳剣」は自己を示すものでもある。交渉の為に危険な行為で自らの強さを表現したタケミカヅチ。そして誓約(うけい)に使用されたのは、自らの潔白証明のため。自分自身を示すものとして利用されている。

    変化するものであり、増えるものであり、自己を示すもの。これは「生きとし生けるもの」の表現であるといえる。「十拳剣」からは「生」を見出すことができるが、不安定さも持ち合わせている。

    不安定で未確定な「生」

    怒りをコントロールできず起きる死や混乱。血によって生命が続くこと。自己が曖昧であるが故に、わざわざ自己を示すこと。変化すること、続くことは未確定であり不安をもたらすものである。

    「十拳剣」は、不安定で未確定な「生」を表現している。名前が様々に変わる十拳剣名前は確定していないけれど、それは一つの剣(生)である。

    草薙剣(くさなぎのつるぎ)が意味するところ

    「十拳剣」と対比する

    準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    スサノオがヤマタノオロチを倒した時に現れた「草薙剣」は言わずもがな三種の神器のうちのひとつで、日本人にとって大切な剣。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも呼ばれる。「十拳剣」と対比することで「草薙剣」の性質が見えてくる。

    犠牲の上に成り立つ「生」

    またまた八岐大蛇神話を振り返ってみる。ヤマタノオロチが「女の娘」を食べると男女の魂が揃う。その瞬間は「生と死の瞬間」である。オロチは女を喰らう(殺す)ことで『生きながらえている』。

    わたしたちが「死」を恐れるのは、様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立っていることを無意識で理解しているから。それは罪悪感となって「死」への恐怖を引き出している。

    物語の中では「死」という犠牲の上に成り立つ「生」が7回起きている。しかし8回目で、女は犠牲とならなかった。スサノオはオロチを切り刻み「女の魂(クシナダヒメ)」を救ったのである。その結果、スサノオは「草薙剣」を手に入れた。

    オロチの尾から現れたこと

    オロチの尾から「草薙剣」が現れたことについて考えてみる。ヤマタノオロチが「人間の輪廻」を表すということは既に述べた。

    オロチの尾とは、輪廻の終わり、魂の最後、つまり「死」を表している。尾から現れた「草薙剣」は「死」から現れた剣であると言えるのではないだろうか。

    クシナダヒメを救ったことで「死」という犠牲が起きなかったのに、「死」から現れた「草薙剣」。犠牲は起きていないはずなのに「死」を表す剣だということ。

    物語の中の二重性

    『7回続いた死』では「女の魂」が犠牲になっていたが、それがオロチを生かしていた。『8回目の死』はオロチの犠牲であり「女の魂」は生かされた。8回目では女(クシナダヒメ)の代わりに男(オロチ)が犠牲になっている。

    この物語の主人公はスサノオという「男」で、女を救う者として存在している。「犠牲になった男(オロチ)」と「女を救う男(スサノオ)」。物語の中では、オロチとスサノオどちらも「男性性」を表しているのであるが、大きな違いがある。

    オロチは恐ろしい化け物で空想上の生き物。一方スサノオは神ではあるが人間の姿形をしている。同じ男性性ではあるが「精神(オロチ)」と「現実(スサノオ )」の対比になっているのである。そして「敗者(オロチ)」と「勝者(スサノオ )」という対比にもなっている。

    物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

    このお話の中では、オロチにも二重の意味がかかっている。ひとつは「スサノオの心の中の男性性」。もうひとつは「輪廻」である。これらをふまえてさらに考察を進める。

    オロチで表される精神世界

    酒で眠らされてしまったオロチ。つまり、スサノオの「男性性」は眠らされている。オロチの死とは『夢の中の出来事』であるということ。オロチは「精神」を表しているのだから、その死は「現実」ではなくスサノオの心の中で起きている。

    スサノオは「十拳剣」を利用してオロチを切り刻んだが、その刃は尾の中にあった「草薙剣」によって欠けてしまった。「十拳剣」は「草薙剣」に負けた。負けとは「死」である。

    「十拳剣」は怒りや自己証明を意味することは既に述べた。生き残ることに必死になると「精神」は荒ぶる。それが動物的本能。これまでは「精神」が荒ぶった結果「現実世界」で暴れまわっていたスサノオ。

    「十拳剣」によって怒りや強さを表現してきた神々であるけれど、八岐大蛇神話では「十拳剣」を持ちながらも、怒りや強さを「現実」で表現するのを封じているということに他ならない。

    ヤシオリ作戦

    「精神」と「現実」は直結していて、精神状態はそのまま現実世界に反映されてしまうことがある。けれども、わたしたち人間は「現実」へ移行するまえに、深く思考することができる。

    スサノオが思考の末行き着いたのは、オロチと正面切って戦うのではなく「八塩折之酒(やしおりのさけ)」を利用する方法だった。それが「心の中で死ぬ」という方法。

    オロチ(輪廻)とは生と死を「繰り返す」もの。そして「ヤシオリ」も「何度も繰り返すこと」を意味する言葉である。「繰り返すもの」を「繰り返すもの」で制す。

    7回繰り返された死を、8回目も同じように起こす。けれどそれを「心の中」に留めておいたのである。思考した結果「現実世界」で戦わず、「精神世界」で戦う選択をしたスサノオ。その結果の「心の死」とは、ある意味負けを認めること。スサノオは「輪廻(オロチ)」という「繰り返す死」を認めたのである。

    死んでしまった母に会いたくて泣き叫んでいたスサノオ。「死」を認められなかった子供から「死」を認めることができるようになった大人へ。

    十拳剣と草薙剣の違い

    「十拳剣」は現実で誰かを切ることなく女を救った。「十拳剣」は欠けてしまったが、代わりに「草薙剣」を手に入れたスサノオ。

    「草薙剣」とは「固く強い心」の象徴である。智恵によって怒りを沈めることができ、血によって続く「生と死」を認め、自己が確立された存在であることを信じる心のこと。「十拳剣」を持つ者は『不安定で未確定な生(子供)』であったけれど、「草薙剣」を持つ者とは『不動で確定した生(大人)』であるといえる。

    「草薙剣」はすぐさま天照大神に捧げられた。「草薙剣」は「固く強い心」という「目に見えないもの」であるから、実際に使用されることなく神に捧げられるのである。

    「草薙剣」は「現実」に姿を表してはいけないもので「精神」の中にあるもの。だからこそ現代でも「草薙剣」を見ることは許されていない。

    天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名について

    八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。

    天叢雲剣とは(コトバンク)

    「草薙剣」の別名「天叢雲剣」について考えてみると、やはり、オロチとは「輪廻」であり「精神(心)」であることがわかる。

    雲とは曖昧で不確定なものを意味する。オロチの上に常にかかる雲とは、終わりのない輪廻の不確定さ、コロコロと気分が変わる掴み所のない心を表している。

    不確定さはわたしたち人間を不安にするもの。さらには、確定後の負の作用を恐れている。「生と死」が繰り返される輪廻と、その「死」の側面を恐れているわたしたちは、オロチを恐ろしい怪物とみなすのである。

    死を受け入れるための剣

    自己(十拳剣)と自我(草薙剣)

    過去このブログで「自己と自我」について書いた。そこで、このブログに於いての「自己と自我」を定義している。他の記事でも度々自己と自我については書いているが、簡単に言えば『自己とはまだ曖昧な自分のこと』『自我とは意志の存在する自分のこと』である。

    八岐大蛇神話は、曖昧な自己を確定し自我という強い意志を見つける自分自身のストーリー。曖昧な自己は名前が様々に変わる「十拳剣」で表され、目に見えない固く強い自我は「草薙剣」で表されている。

    輪廻=不確定と確定

    ヤマタノオロチとは相反するものを両方持ち合わせている存在であった。両方持ち合わせているからこそ曖昧であるけれど、それは変化し、どちらかの状態に確定するもの。ここで「魂(たましい)」についての解説を再掲。

    「たましい」は「目に見えないもの」から「目に見えるもの」に変化するだけで、無くなることはない。変化するということは、消えてはいないということである。だから「たましい」は「永遠」であると言える。「永遠」とは常に絶対に有るということ。

    スサノオのようにオロチの尾(死)から「草薙剣」という「固く強い心」を見つけることができると、不確定で曖昧な存在であった輪廻(オロチ)が「有る」ことをはっきりと認識する。そして、輪廻が存在しているからこそ自分も存在していることを理解する。

    生と死が存在する、苦しくも喜びがあるこの世界に確かに「生きている」と認識することが「自我」を見つける瞬間である。「自我」があるから、不確定で確定な二重性のある「輪廻」をも認めることができるようになる。

    「輪廻の死の側面」を受け入れることは『悪である自分の存在』を受け入れることでもある。はじめ悪者として語られるが、その後ヒーローとしても語られるスサノオ。そんな二面性を持つスサノオは、二重性を持つ「永遠の魂」を見つける者。

    固く強い心で曖昧なものを確定すること

    ということで、「強い心」で自己を確定するまでの過程を表しているのが「剣」というアイテムなのであった。「十拳剣」で何度も現実の死を体験し、8回目ではその剣を現実で使用しないことで「草薙剣」が生まれる。

    現実世界(十拳剣)でも、精神世界(草薙剣)でも、「戦うこと」は「強い心」の現れである。けれど、本当の窮地に陥った瞬間、それを現実世界で表すのか、精神世界で表すのか、冷静で的確な判断をするのは結構難しい。

    七転び八起きと七転八倒

    「七転び八起き」という言葉がある。これは何度失敗しても立ち上がること。八で起き上がることは「死=犠牲」という考えの輪廻を断ち切ることである。

    「七転八倒」という言葉がある。これは苦しみのたうちまわることを表す。八で倒れることは「輪廻=生と死」であることを心の中で認めること。それはとても苦しいこと。

    「七転び八起き」という言葉は「生」を表しているし「七転八倒」という言葉には「死」が表れている。7という数字は何度も何度も繰り返し学んでいる状態であり、8という数字で全てを理解し自己の完成が訪れる。

    剣という男性性

    わたしたちは誰もが「剣」という「男性性」を持っている。日本神話に登場する「剣」は「不安定な生」と「不動の生」二つの側面を教えてくれるもの。どちらも学び終えたのならば「死」を受け入れ、新たな「生」を見つける。その新たな「生」が「自我」なのである。

    様々な「死」の上に自分自身の「生」が成り立つことに、大きな罪の意識を感じるわたしたち。そんな罪悪感から抜け出すには、自分という存在が、今現在、力強く「生きている」のを実感することが必要だ。

    八重垣で魂を囲む

    クシナダヒメと暮らす場所探し

    最後に、スサノオが詠んだこの歌についても解説しておきたいと思う。

    そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

    ヤマタノオロチ(wikipedia)

    ヤマタノオロチ退治を終えたスサノオは、クシナダヒメと暮らす場所を探した。そして淸地(すが)という地に決めて、そこに宮殿を建てた。

    すがすがしい瞬間

    『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。

    須我神社(wikipedia)

    ヤマタノオロチ退治を終え「草薙剣」を手にした瞬間「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れることができる。個人的な話になるけれど、その瞬間とてもすがすがしい気分になることは、わたしも経験している。とにかく頭がスッキリするのである。

    わたしの個人的なすがすがしい体験はこちらに書いてあるので、気になる方はどうぞ。ちなみにその体験時には、頭の中で『草薙剣を手にした瞬間(死を受け入れた瞬間)』の感覚というか感情だけを先取りしているようなもの。

    つまり、今現在のわたしが完全に「死」を受け入れているわけではない。人間はこの先体験するであろう意識を先取りすることができる不思議な力を持っているのだけど、その件については今回の記事には関係ないことなので割愛。

    土地とは世界

    話を戻して、スサノオがヤマタノオロチ退治を終えた後、住む土地を探して名前をつけた理由について。スサノオが立つ須賀という土地とは、スサノオが見ている世界を表していると考えることができる。

    「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れた瞬間に、世界の見方はガラッと変わることになる。「死生観」が変化すると生き方そのものが変化し、世界も変わる。

    『確かに存在する自己』を認識すると「見ている世界」が再構築される。それを意味するのが、土地を探し、名をつけ、そこに宮殿を建てること。世界が自分中心になるから、自分の見つけた土地(世界)として名をつけるのである。

    「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れていない時、わたしたちはどこか流されるように生きているもの。『世界は既にあるもので、その中に生きている多数の人間のうちの一人が自分』というような感覚をもっているはずだ。

    けれど「生と死が繰り返される輪廻」を受け入れたのならば、新しい世界が生まれる。世界の中心が自分となることは「独裁者」のような世界の見方では無い。その時の自分と世界の状況を難なく受け入れながら、新しい世界を作ろうとしている状態である。

    櫛になったクシナダヒメ

    スサノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によってその身を変形させられ、小さな櫛に変えられた。櫛になったクシナダヒメはそのままスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。

    クシナダヒメ(wikipedia)

    実はクシナダヒメはヤマタノオロチと戦う前から櫛(くし)に変形している。このことが意味することについて。すこし前に、こんなことを書いた。

    物語とは全て人間のために書かれているもの。この物語においての現実的存在(人間的存在)は主人公の「スサノオ」だけである。だからこそ、読み手は「スサノオ」を「自分自身」として読み込むことが重要になってくる。

    八岐大蛇神話においての現実的存在は「スサノオ」だけ。ということは、クシナダヒメは現実の存在ではない。物になっているのだから、それは人間ではないのである。

    櫛であることは、スサノオの心の中にあるものを意味している。ヤマタノオロチが「スサノオの男性性」だったように、クシナダヒメは「スサノオの女性性」を表す。

    何故「櫛」なのかは、用途を考えれば分かること。髪をとかすものとしての道具である櫛は「永遠」を整えるものとしての役割である。人体の中で、伸び続けるものは髪や爪である。これらは永く続くものだから「永遠」を表す。

    輪廻というものは川の流れのように永遠に続くもの。人の数だけ流れが存在していて、それを整えるのが「櫛」なのである。「女性性」の役割とは輪廻という運命を規則正しく流すものであることがわかる。

    流れを堰き止めないこと

    繰り返された死(7回の女の死)を体験し、やっと8回目で女(死)を心の中に受け入れることができたのが、オロチを倒したスサノオ。

    7回続いた女の死の間は「死=犠牲」という考えであったから輪廻が受け入れられず、その流れは滞っていた。しかし、8回目では「死」の対極に「生」があることを理解し、輪廻が滞りなく流れることになった。そうして輪廻がやっと回るのである。

    女性性とは「受け入れる心」のこと。スサノオはヤマタノオロチと対決した際、負けを認める「心の死」を選んだ。一度心が死ぬような経験をしなければ心の中に「女性性」が生まれることはない。

    大切なものを守る決意

    八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

    さて、肝心なこの歌の意味について。8という数字が何度も登場するということは、魂のことを唄ったものであることがわかる。

    スサノオが心の中に手に入れた「魂の女性性の側面」は、妻のクシナダヒメとして表現されている。苦労して手に入れた「女性性」であるのだから、それはいつまでも続くように守らなければいけない。この歌は、新しい世界の中心に「女性性」を心に携えた自分(スサノオ)が居て、何層にも周りを囲ってその状態を守っているという情景。

    「八雲立つ」というのは多くの新しい魂が生まれること。そして「八重垣」はそれら『男性性と女性性が合わさりひとつになった新しい魂(生)』を大切に囲むように幾重にも作られている。

    魂を守る輪廻

    実は、「八重垣」は輪廻を表している。魂を守る為に、輪廻を作り出すのが「女性性(クシナダヒメ)」を手に入れた「男性性(スサノオ)」なのである。

    スサノオの髪に刺された櫛(クシナダヒメ)は輪廻の流れを整えている。滞りなく流れている状態を永遠に保つために、八重垣という輪廻を作る。輪廻とは何度も同じようなことが起きること。何度も同じことを経験するからこそ、わたしたちは絶対に手放してはいけない「女性性」があることを知る。

    1〜7という多数の経験の終わりには、8という理解を迎え、魂が完成する。この1〜8の流れがあるからこそ新しい魂が生まれるのだ。魂とは永遠であり輪廻というループの中にある。そのループは、8という完成を迎えたら最初の1に戻る。

    終わり(8・死)と始まり(1・生)は重なっているから、魂の完成こそが魂の始まりとなる。それを教えてくれるのが、八岐大蛇神話なのである。

    完成(8)を恐れない

    出雲大社の雲が7つであることについて『8つ目の雲が描かれたら完成してしまうから』という謂れがあった。そしてヤマタノオロチ退治でも、スサノオの活躍によって8人目の娘は犠牲にならずに済んだ。

    ヤマタノオロチの中には「8つの男の魂」と「7つの女の魂」があるから、もうひとつ女の魂があれば『8組の男女の魂』が揃うことになる。けれど、8人目の娘(8つ目の魂)が食べられてしまいそうなところをスサノオが救うのであるから『8組の男女の魂』が揃うことはない。

    ヤマタノオロチ退治についてこう書いたけれど「8組の男女の魂」は揃っている。「完成」は輪廻というオロチの中ではなく、スサノオの心の中で起きたこと。8回目の「完成」は目に見えないものだから、わたしたちは信じるしかない。完成とは『男性性と女性性の心の中の結婚』である。

    後編に続く

    長くなってしまったので今回はここまで。たくさんの話をしたけれど、まだまだ続く出雲大社の謎解き。出雲大社も神魂神社も元々は「8つの雲」だったこと、その雲は何故神社間を移動するのか?

    今回の記事で8という数字について解説することができたから「出雲大社の雲」と「神魂神社の雲」の繋がりをばっちりと紐解けるはず。果たして上手くまとめられるのか。

    後編はこちら

  • よーさんの「妄想かいてくよー」の解説をする その4

    よーさんの「妄想かいてくよー」の解説をする その4

    このブログへ辿り着く人のほとんどは「よーさん 予言」 で検索をかけている人らしい 。そろそろ「よーさん」以外のコンテンツでもこのブログを認知してもらいたいものだが、みなさん「よーさん予言」の情報を欲しているということなので、第4弾を書くことにしました。

    ところで、よーさん予言に関する記事を書き始めてだいぶ時がたった。改めて「その1」から読み直してみると面白い(自画自賛)。「その1」〜「その3」まで、私自身の理解度に合わせて記事の内容にも変化がある。

    「その1」では男性性と女性性の理解度が低すぎて、混乱があった。現在は完全に理解しました!

    「その2」はとある方のコメントを取り上げてバトルしてみた。

    そして、「その3」は答えを出すつもりで書いたけど、やはりわかりにくかったかもしれない。

    ということで、今回も「よーさん予言」の理解度を上げてもらうための記事を書いてゆきます。記事中ピンクのボックスは「よーさんの言葉」。読み終わればその言葉の意味がわかるようになるかもしれない。

    1と2と3は生命(宇宙)の基礎

    2→1→2→3の流れ

    よーさん記事にはコメントを色々いただいている。ありがとうございます。その中でも本質を突いたコメントをさっそく引用させていただく。

    2→1→2→3の流れが、生命の誕生に至るまでの流れそのものですね!

    このコメントを読んで、まさしく!と思った。『2→1→2→3』という流れがどこから出てきたのかというと、よーさんのこちらのコメントから。

    二つはある人たちにより混ぜられ一つになっているが、それが元の二つに戻ろうとしてる/でもそろそろ三つにしても良いなって世界が思ってる

    生命の誕生に至るまでの流れとは、精子と卵子(2→)が出会って受精卵(1→)になって、そこから細胞分裂していくという(2→3)こと。

    結局のところ1と2と3とは、生命とか地球とかの基礎になるもののこと。例えば、「男(1)」と「女(2)」が出会って「新しい命(3)」が生まれる。1と2は種類の違うもので、それらが合わさったものが3ということ。

    『2→1→2→3』という流れはこうも解釈できる。「自分(3)」が「父(1)」と「母(2)」から生まれた存在であると自覚しているならば『2(男と女)→1(自分)』という所までの流れを意識できている状態。

    そこから進んだ状態が『2→1→2』。現代の私たちは1(男)と2(女)の違いをすごく意識し始めた。昨今、ジェンダー問題の議論が盛んになっているようであるけれど、それはわたし達が性別の違いを強く意識し始めたから起きている。

    ここまでの流れは『2(男と女→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)』ということ。「分別の意識」とは違いを強く感じること。

    そしてさらに進んだ状態が『2→1→2→3』となる。最後の3は分別の意識があることを認め、自分自身が父と母(1と2)や男と女(1と2)など、どちらの要素も含んでいることを認めた自分のこと。最後にやっと「本当の自分」に気が付くという流れである。

    この3を「本当の自分」と言うのは大袈裟かもしれないが、この3までたどり着くことが困難なのだ。流れの全てをまとめると『(男と女→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)→3(自我)』。

    「本当の自分」を「自我」と表現したけれど、それは3に辿り着いたときに意味がわかると思う。自我については他の記事にも詳しく書いているので、そちらもどうぞ。

    全ての存在は既に3

    この世界に存在する目に見える物の基本になるものは原子である。「原子核(1)」と「電子(2)」で構成されているのが「原子(3)」。さらにミクロの世界を覗くと、「原子核(3)」は「陽子(1)」と「中性子(2)」で構成されている。

    陽子や中性子を、さらにミクロな世界で観察すると「クオーク」という素粒子で構成されていることがわかる。「クオーク」は、アップ(1)・チャーム(2)・トップ(3)というグループと、ダウン(1)・ストレンジ(2)・ボトム(3)というグループになっている。

    アップクオーク2個とダウンクオーク1個で陽子(3)に、アップクオーク1個とダウンクオーク2個で中性子(3)になる。やはり、1と2で3である。ともかく、1と2と3は基礎だということがわかる。

    原子をさらに観察すると、原子核の構成が見えてくる。原子核をさらに観察すると、陽子と中性子の構成が見えてくる。このようなマクロからミクロへの世界へは、マトリョーシカのような入れ子状態であると言える。そしてそれは永遠に続いている。

    この世界は入れ子状態であるのだから、3は1と2を内包している。つまりは、全ての存在が3であると言える。

    『2→1→2→3』という流れの「3」に辿り着いた時、この世界は『3→3→3→3→…』だったと気が付くことになるだろう。

    三つが分かっても何があるわけじゃなく、隠されてる様な事でもない常識的な事だ

    今までの記事と今回の記事の違い

    これまでの記事を1と2と3それぞれの世界で表現してきたのは、わかりにくかった部分もあるかもしれない。今回の記事では、1と2と3を生命の基礎として表現しているけれど、この基礎がそれぞれの世界を作っている。

    「その1」や「その2」の記事で表してきた「3つの世界」は、『悪を憎む世界(悪)』、『平和だけの世界(善)』、『悪も憎まず平和も求めない世界/悪を憎み平和を求める世界(善と悪)』というもの。

    「悪の世界」と「善の世界」も性質が違うもの。この世界は種類や性質が違うものだらけなので、1と2はわりと何ででも表すことができる。けれど3だけは、性質が違うものが合わさったものだということが重要。

    今までの解説はマクロな視点。今回の解説はミクロな視点として考えてもらうとわかりやすいかもしれない。今までの解説は目に見えるものとしての1と2と3、今回の解説は目に見えないものとしての1と2と3ということである。

    目に見えないものとは、原子や素粒子で表されるミクロの世界とか、意識の中(精神)のこと。

    情報を機械的に分別する人間

    1と2(性質の違うもの)は矛盾している?

    「その2」の記事の中で、とある方のコメントを取り上げた。

    1と2は矛盾してる、これが基本。それを両方自分にしちゃってるのは、貴方がまだ我慢してるから。

    このコメントには『人間らしさ』がわかり易く表現されているから、再び取り上げさせてもらう。このブログを書いているわたしは善と悪の性質を両方自分のものとしている様だけれどそれは我慢しているよ(無理しているよ)、というわたしへの指摘コメントであった。

    現代人は基礎を忘れている

    指摘のように、確かに『相反する性質が両方自分である』と理解することは難しいのである。なぜ難しいのかと言うと、現代は生命の基礎を忘れている人が多いから。

    先ほど述べた流れで言うと、現代は『2(男と女)→1(自分)→2(自分の中にある分別の意識)』というところまでやっと来た。『自分の中にある分別の意識』にやっと気がつき始めた時代である。つまりは、生命の基礎を思い出そうとしている時代。

    分別(判断)を繰り返している人間

    わたし達人間はみんな相反する性質を抱えている。人間を含めた全ての存在が、相反する性質を抱えているものなのに、それを認められない。認められないのは何故なのだろうか?

    人間は分別(判断)をする生き物で、どちらかに決めるのが普通になっている。例えば自分自身を、善か悪かどちらかの存在として決めておきたい、という意識が染み付いていたりする。

    人間は地球に生まれてから今まで、分別(判断)を何度も繰り返して結果を出してきた。結果とは現在である。分別(判断)という作業に慣れきった現代人は、物事が『どちらかの状態であること(結果)』に安心するのだ。

    『分別(判断)と結果』の例をあげればキリがないけれど、例えば人間からは、男か女が生まれる。生物学的に中性な人間は生まれないのが当たり前。人間が子供を作るたびに男か女かの分別がされ、結果として「生まれる」。

    分別病

    世代交代を繰り返しながら地球に永く生きている人間は『分別(判断)からの→結果(どちらかの状態)』という経験をずっとしている。その経験は遺伝子に染みついているから「相反する性質」両方を自分の中に抱えることに違和感を感じることになる。これはもう現代病みたいなもの。

    結果を出すことによって『性質がどちらかに決まる』というのが当たり前になっているから、『性質が決まらない状態』を「居心地が悪い」と感じる。だからこそ、自分の中に『相反する性質両方が存在していること』を認められない。

    人間には「脳」という思考をもたらすものがあり、自我もある。自我によって情報を書き記し残す生き物。過去生きていた人が情報を残し、それを後世の人間が学ぶ。わたし達は自分自身の経験だけでなく、残された情報から繰り返し学習も行なっている。

    例えば、第二次世界大戦で日本はアメリカに原爆を落とされて降伏した。この情報からわたし達は「アメリカは勝利」「日本は敗北」という判断をしているから、それが結果となっている。日本人には「日本は負けた」という意識が強く染み付いていると思う。

    そして『原爆が落とされたこと』について、日本人であるわたしたちの意識は「悪」であると判断している。原爆投下が「善」という判断になることはほとんど無いはずだ。このように人間は過去の情報についてもはっきりと分別をしていることが分かる。

    残された情報からも『分別(判断)からの→結果(どちらかの状態)』を学んでいるのだから、しつこいくらいの経験と学習である。それがこの現代病を作り出している。

    情報と進化

    もしも、過去の情報が全く残っていなかったら、一からの学習になるので人間は生命の基礎を忘れないであろう。けれど人間は過去の情報から進化する存在なので、そういったことにはならないし、情報を残さないのは「人間」では無い。

    進化の代償として生命の基礎を忘れる人間。取り入れる情報が増えれば増えるほど、生命の本質から離れていくことは少し悲しい。

    情報に苦しめられる人間

    こちらの記事で「アンドロゲン不応症」という病気について少し触れた。「リング」という物語に登場する「貞子」は「アンドロゲン不応症」という設定なのである。原作小説の設定であるが。

    この病気は遺伝子的には男性なのに、実際の身体は女性という珍しいものである。生物学的に中性な人間は生まれない、と言ったけれどある意味「アンドロゲン不応症」は中性であるのかもしれない。

    けれど、わたしたちは意識で当たり前に男と女を分別しているので「アンドロゲン不応症」という名前をつけて「普通」とは違うものとして捉えてしまう。

    『遺伝子的には男性で身体の造りは女性』という事実に直面したとしても、違和感を持たず、何も感じない状態でいることができるだろうか?

    一瞬でも『普通とは違う』と感じたのならば、『男と女を分別する意識』を持っているということになる。けれどそれが当たり前の人間。

    「リング」では呪いのビデオテープが広まることで「貞子の呪い」が広がる。物語の中にはテレビやビデオテープや電話が象徴的に登場する。それらはどれも情報が伝わるもの。

    わたしたちはありとあらゆる情報を、機械的に分別(判断)して決定をする(結果を出す)生き物。けれど、自らが導き出した単純な結果から苦しめられている。それが情報による「呪い」なのである。例えば映画「マトリックス」に登場する黒電話も『情報を伝えるもの』。

    ネオは、始めプラグに繋がれ夢を見ている状態であったが、プラグを外され現実世界の真実を知った。そこからまたプラグを繋ぎ「マトリックス」内へ。「マトリックス」は「意識の中(目に見えないもの)」を表している。

    黒電話はマトリックス(意識)と現実世界を繋げるもの。意識の世界と現実世界は情報が行き来している。わたし達の生きる現実世界とは、情報を伝えるもの(黒電話)から情報を受け取って目に見えるものとして表現する場所である。

    関連記事:精神世界(意識)と現実世界の行き来について

    人間は情報に直面すると、意識の中(マトリックスの中)で分別を始める。分別し「悪(エージェント)」と決定したものとさらに意識の中(マトリックスの中)で闘う。

    わたし達は、情報の中から意識で「悪」と分別(決定)したものを、現実にそのまま持ち込み「悪」と見立てて戦うことがある。それが戦争などである。意識の世界と現実世界は密接に繋がっているから、戦争は起きる。

    ネオはマトリックスの中(意識の中)で無数のエージェント(悪)と戦闘するけれど、マトリックス内で攻撃を受けると、現実の肉体も傷つくことになる。

    恐ろしいことに、情報を意識で「悪」と分別してしまうと現実にも「死」をもたらす。同じく「貞子」のビデオテープの「呪い」は見るものに「死」をもたらすが、それもやはり発端は情報(ビデオテープ)なのだ。

    情報とそれを分別する意識はわたし達人間にとって「死」を強く感じさせるものとなってしまう。しかし「死」とは一つの結果である。

    人間(生命)は本来相反する性質を両方持ち合わせているから「死」と「生」両方の性質を持っているのに、「死」という片方の結果にひどく怯えている。分別して一つの結果ばかりを導き出してしまうからからこその「呪い」である。

    「貞子の呪い」はビデオテープから広がるのであるけれど、ビデオテープをダビングすると「貞子の呪い」から(「死」から)逃れることができる。「死」から逃れようとするから「呪い」は広がってしまうのである。

    「呪い」の発生原因は人間が『分別して結果を出す』から、「呪い」が伝染していく原因は人間が『死を恐れる』から。

    本当の自分を知ることは怖いこと

    「マトリックス」の冒頭、現実に存在しているプログラマーとして働いているネオは、分別している自分自身に気がついていない状態。本当の自分を知らない状態である。

    けれど赤い薬を飲んで『分別する自分(本当の自分)』を知ると言う選択をした。だからこそ意識の中でエージェント(悪)と戦うことになる。『分別する自分自身』が現実に起きる「悪」の原因であることを理解する過程が始まるのである。

    「普通」であること

    「貞子」は両性具有ともいえる「アンドロゲン不応症」であり、自分自身が『普通ではない』ことを自覚している。「貞子」には超能力があり、そのことについても周りの人間が『普通ではない』と決定していた。

    『普通であること(分別をし、どちらかに決定すること)』も「呪い」の原因となるが、『普通ではないこと(相反する性質を持っていること)』も「呪い」の原因になる。

    「貞子」は「普通でありたい」から「呪い」を広げる。言い換えれば「貞子」は『自分自身が普通ではない』ことを『普通であること』に変えたいということ。だから、人間の意識(常識)を変える為に「呪い」を生んだ。

    「普通」ではないこと

    貞子から「呪い」が生まれたのは「憎しみ」が原因だと考えるかもしれないが、人間は本来『相反するものが違和感なく混ざり合っている存在』であることを多くの人に知って欲しいという強い意識から生まれている。それが「女」の根源的な願いである。

    けれどそれは「彼女」以外の人間には大きな「呪い」となってしまう。人間が「本当の自分」を知る過程を経験するのはとても辛く苦しいこと。

    男性は「単独(1)」という性質を持っている。対して女性は「二重(2)」の性質を持っている。「二重性」とは『相反する性質』両方持っていること。女性は世界に「二重性」を保つために存在しているから、必然的に「呪い」を広げる存在となってしまう。

    「単独」である男性は「二重(女性)」という性質を知らないから、「呪い」という「二重性(本当の自分)」を知らしめるものに苦しめられる。自分に無いものを理解することは難しい。

    男性に限らず『相反する性質が両方自分である』と感じられない現代人にとっても、その「呪い」はとても厄介なものとなる。

    けれど男性女性関係なく、誰だって自分自身が『二重性(相反するものが違和感なく混ざり合っている存在)』であることに気が付くことができる。人間はそもそも『普通ではない』存在であることを忘れてはいけない。

    よーさん予言が理解できる人とできない人

    現代的「人間らしさ」

    「その2」でコメントを取り上げさせてもらった方は、かなりの現代人である。だからこそ、違う性質を両方「自分」とするのはおかしい、とわたしに伝えてきたのであろう。

    相反するものをどちらも自分のもの、とすることは現代人にとっては、我慢や無理をしているような感覚になってしまうもの。相反するものは矛盾しているから共存できない、という考え方を持っているのが「普通」である。これが現代人の考えている「人間らしさ」である。

    考え方が違うと仲良くできないから、距離を取るのが当たり前。思想が違う人とは絶対に分かり合えない。このような考え方を持っているのならば、現代人的な「人間らしさ」を持っていると言えよう。

    原始的「人間らしさ」

    わたしがこのブログを始めたのは『相反する両方の性質が自分の中に矛盾なく(無理なく)存在している』ということに気がついたことがきっかけ。『2→1→2→3』という流れ最後の「3」に辿り着いてしまった。

    脳細胞が変化するくらいな衝撃と共に『相反する性質の両方が自分の中に矛盾なく存在している』ということに気がついてしまった経験が過去にあった。その時からわたしの中の「人間らしさ」の基準は変わってしまったのだ。

    変わったというか、原始に戻ったのである。生命の基礎という当たり前のもの、つまり1と2という種類の違うものが合わさって3が存在している、ということを改めて意識し理解することは、原始の意識に戻ること。

    『分別(判断)→結果(どちらかの状態)』を繰り返し学んでいるのにもかかわらず、『相反する両方の性質が自分の中に矛盾なく存在している』ことに違和感を感じなくなる。

    どちらかの状態(結果)が現れている現実を生きているのに、相反するどちらの状態も含んでいるのが人間であることを理解するから、違和感がなくなってしまうのである。

    ちなみに量子力学では「重ね合わせ」という状態があるけれど、相反するものが同時に存在している状態である。「重ね合わせ」こそ生命の基礎である。

    人間(生命)とは、そもそも相反する状態を抱えているのが当たり前だと考えること。これを『現代的人間らしさ』の対極にあるものとして、『原始的人間らしさ』と名付けたい。

    「よーさん予言」が理解できる人とできない人の違い

    「人間らしさ」をどう解釈するか

    このように、現代人の多くが理解している「人間らしさ」と、わたしが今現在理解している「人間らしさ」は全くの別物なのである。「よーさん」は脳細胞が変化するくらいなレベルで「人間らしさ」の解釈が変わってしまった人。「よーさん」は原始の人である。

    原始の人であれば「よーさん予言」の内容が無理なく理解できるはずだ。つまり、「人間らしさ」の解釈によって、「よーさん予言」が理解できる人と、「よーさん予言」が理解できない人にはっきりと分かれてしまう。これが「よーさん予言」のからくり。

    「よーさん予言」が理解できない人

    「よーさん予言」が理解できない人は、人間が分別する(判断する)生き物であることに罪悪感を持っており、相反するものが自分の中に共存することを納得できない。

    「よーさん予言」が理解できる人

    「よーさん予言」が理解できる人は、人間とは分別する(判断する)生き物であることを腹の底から理解しており、相反するものが自分の中に存在しているのを実感している。

    人間らしさは大事だけど、人間らしさに縛られてはダメ、動けなくなってしまう

    脳細胞が変化するレベルの理解とは解脱のこと

    理解している人について

    よーさん予言の記事にコメントをくれた方々は、『現代的人間らしさ』を持っている人がほとんどであった。しかし『原始的人間らしさ』を持っている人もいるみたい。とあるコメントを引用させてもらう。

    初めまして。よーさんの妄想と関係あるかはわからないのですが、「三つが本当に脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解」を経験してから「虚無」を感じなくなったんですが、pancyanさんも同じような経験をされた方ですか?

    自分の中では3つについては世界がどうとか全然関係なくて、もっとシンプルで分かり易いものなんですけど。

    この方は、1と2と3がシンプルで分かり易いものだと気がついている。ということは、1と2と3が当たり前のものだと理解している。そしてやはりこの方も脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解が起きているようだ。わたしも同じく「虚無」を感じなくなったから、同じ体験をしているのだろう。

    虚無感が何故発生するのか?

    人間に「虚無感」が発生する理由は、生命の基礎について理解できていないため。虚無を感じるのは『何故生きているのか?』という問いが発生してしまうから。そしてその答えがはっきりと出せないから虚無を感じる。

    しかし、生命の基礎を理解していると『何故生きているのか?』という疑問はなくなる。『生きていること』が当たり前になるので。

    人間は高度な知能を持った生命体であるからこそ、理解できないことがあるともどかしくなる。「虚無感」とは思考してしまう生き物しか感じないもの。

    当たり前のことに気がつくことを「解脱」と言う

    誰でも知っている当たり前のことをもう一度強く意識してみることが、「よーさん予言」を紐解くコツである。当たり前のことにはっきりと気がつくことをわたしは「解脱」と言っている。一周回って、世界が当たり前すぎてびっくりするのが「解脱」という体験。

    世界が「愛」でできている!世界は「無」である!という気づきは結構よくある。世間では「アセンション」とか「悟り」とかいう言葉で表現されているのかもしれない。精神世界やスピリチュアルに興味が強い人は、そのような体験をしているかも。

    しかし、世界は「1と2と3」でできている!という気づきが「解脱」である。このブログでは「悟り」ではなくて「解脱」をメインに解説している。だからちょっと異質であると思う。1と2と3という生命の基礎は当たり前すぎて、逆に説明が難しいもの。

    当たり前のことだから別にわざわざ「解脱」とかいう名前をつけて話す内容でもないのである。「解脱」と言うと凄そうなものに思えるけどそうでもない。

    三つが本当に脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解したら、自然と辿り着けるようにできてる

    視点はひとつだけ

    最後にこちらのコメントを引用させていただきたい。

    もっと広い意味だと、3つとは視点。

    円錐を見せられて、ある人は横から見て三角だ!ある人は上から見て丸だ!と。本当は円錐なのに。

    丸だ!三角だ!ケンカする始末。戦○に発展しなけりゃいいね。偏りきってる人は怖いね。どこにでも正義マンはいるもんだね。

    このコメントをくれた方は、1と2と3をそれぞれの視点として見ている。1と2と3はそれぞれ違う存在なので間違いではないのだけれど、視点(見え方)だけで考えるのは「本質(生命の基礎)」から離れていってしまうので注意が必要です。

    この世界には3という視点しか存在していない。1と2の視点は想像(空想)でしかない。3とは自分(あなた)です。3という存在だけが世界の見え方を決定している。

    この世界には自分しか存在していないのだから、視点だって自分だけしかない。意味がわからないかもしれないけれど、原始に還ってみれば理解できるはず。原始とは子供の心のようなもの。子供は経験が少ないから分別をはっきりとできない。

    三つ目が難しいのは、自分でいろいろやらないといけないから/子供の頃の方が楽しい、そんな感じ

    ということで、「よーさん予言」の解説その4でした。今までで一番分かり易く書けたのではないかと思うけど、どうだろうか。読んだ感想などはぜひぜひコメント欄にどうぞ。お待ちしております。

    陽子に関するおもしろニュース

    これまで物理の教科書には「陽子は2個のアップクォークと、1個のダウンクォークが結合したものである」と書かれていましたが、これからは、さらにチャームクォークと反チャームクォークのペアを加えて記入する必要があるかもしれません。

    陽子に新たな素粒子が含まれている可能性が浮上!教科書に書き直し必須か?

    タイムリーに陽子に関する新しいニュースを見つけました。なんと、陽子は3つのクオークだけで成り立っているのでは無いのかもしれない!とのニュース。

    チャームクオークという新たなクオークも含まれているかも?との結果が出てきたとのこと。結果は人間の意識で変えることができるものだけれど、まだ決定していない状況であるとき、含まれているものはあらかじめ大体決まっている。

    科学の世界で人間の予想が当たるのは、いくつかの選択肢はあらかじめ決まっているから。大まかなあらすじは決まっているのだから簡単な選択を楽しむべきだとわたしは思う。

  • 出雲大社御神体の謎を解き明かす 前編

    出雲大社御神体の謎を解き明かす 前編

    諏訪大社について書いた記事にある日こんなコメントをいただいた。

    諏訪大社の御神体が人間そのもの、というのは全ての存在が人間そのものだとは思いますが、その通りらしいですが、出雲の御神体が人間そのもの、という面を読め、と来ました。
    すみません、まだ私には答えが降りてきてないですが、その意味をpancyanさんがわかると降りてきたので、コメント残させていただきます。

    わたしは『諏訪大社の御神体は人間そのもの』というようなことを、その記事に書いていた。コメントをくれた方は『出雲(大社?)の御神体こそが人間そのものである』と教えてくれた。(諏訪大社について書いた記事、今読むと文章がまとまっていないと感じる。書き直したい。)

    出雲大社の御神体についてとりあえず色々調べてみたところ、謎が多く気になる。コメントによるとわたしには何かがわかるらしいので、今回の記事は出雲大社の御神体について紐解いていくことにします。

    出雲の神 大国主

    大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。

    大国主(wikipedia)

    出雲大社に祀られている神様(御祭神)は大国主という神様。そして今回の記事のテーマは『出雲大社の御神体について』である。ここで一つ気になったのが「御祭神(ごさいじん)」と「御神体(ごしんたい)」の違い。その違いについてあまり考えたことはなかったのでちょっと検索してみた。

    御祭神について

    元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。

    延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。

    祭神(wikipedia)

    神社に祀られている神様を「御祭神」と言う。現代では『神社=御祭神』という 図式が定着しているが、元々神社は自然崇拝から始まっており、人格のある神ではなく、海や山や川などが信仰の対象になっていた。

    古事記や日本書記には伊勢神宮や住吉神社の「御祭神」の存在が記述されているという。伊勢神宮の「御祭神」は天照大神という神。御祭神を祀るための神社の登場は、伊勢神宮が創られた頃なのだろうか?

    御神体について

    神体(しんたい)とは、神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。 宗像大社では沖ノ島、大神神社では三輪山が神体とされ、皇大神宮では三種の神器の一つの八咫鏡とされるなど様々である。

    その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。

    神体(wikipedia)

    神が宿るもの・神が降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物を「御神体」と言う。

    に降りる場合は神籬(ひもろぎ)または御神木(ごしんぼく)
    に降りる場合は磐座(いわくら)または岩坂(いわさか)
    に降りる場合は神奈備山(かんなびやま)

    出雲大社の歩き方

    引用させてもらったように、神が宿るものによって名称が変わるのは面白いですね。ところで、伊勢神宮の内宮に祀られている「御神体」は八咫鏡(やたのかがみ)である。つまり、天照大神が宿るのが八咫鏡という「御神体」。ちなみに外宮にも豊受大神が宿る「御神体」があるらしい。

    目に見えるもの(御神体)と目に見えないもの(御祭神)

    「御祭神」と「御神体」の関係性。元々は自然崇拝から始まった神社。海や山や川という自然から、神様という人格を持ったものを崇拝するようになったけれど、それは実際目に見えるものではないから場所や物を依り代(御神体)としている。

    人間は「実在性(目に見えるもの)」を重視しているはずだ。依り代として物体を祀ること・神が人格を持つことは実在性を強く感じる為だと考えられる。『自然が神』などと言われても、どこかふんわりとしていて、それを信じるには何か強い確信のようなものが必要だ。

    神社の境内の中にある樹齢何百年もある大木を見て、そこに神がいると感じることはあるかもしれない。けれど、道端のアスファルトの割れ目から生えるなんだか強そうな外来種の雑草に神を感じることはできるだろうか?

    古代の自然崇拝とは『全ての生きとし生けるもの』を神とするものだった。しかし、現代はどうだろう。わたし達はいつだって分別をしていて「神っぽいもの」とそうではないものにも分別をしていると感じる。さらには、目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。

    何かを信じる時「目に見えているもの・信頼があるもの・確実なもの」で安心するのならば、「目に見えないもの(神)」を信じることができなくなってしまった証拠なのだと思う。

    神社の役割について

    神と対話する場所

    御祭神と御神体について考えてきたけれど、「神社」という場所についても考えてみたい。ついでに「神」についても。

    神社とは「神」に向き合う場所である。「神」とは心の中に存在するもので、そもそも目に見えないもの全ては人間の心の中に存在している。

    神社には「ご利益」を求めてお参りをする人が多いが、迷いについて答えを求めたり、願い事をする人もいる。とはいえ、実際願いを叶えるのは自分自身の力であるし、答えを決定するのも自分自身。

    単刀直入で申し訳ないけれど「神」は現実に存在しないのだから、人間は「神」というイメージを創造し手助けをしてもらっているだけなのである。

    (ちなみにこちらの記事では「神」の存在を力説しているわたしであるが、現実に存在しない「神」についての話なのであしからず。)

    神社で『神に向き合うこと』とは『心の中に存在する「神」というイメージとの対話』である。「私と神劇場」を自作自演しているようなものなのだ。

    共有されたイメージの力

    日本における「神」のイメージは、古事記や日本書記に記されるような神々であるが、現代においてその神々の神格は定着している。神社には必ず御祭神がいて、その「神」のイメージは既に多くの人に共有されているということ。

    目に見えていて尚且つ多くの人のお墨付きがあるものでなければ、信じることが難しいのが現代なのかもしれない。

    先ほどわたしはこのようなことを書いたけれど、多くの人のお墨付きがあるものは人間にとって信じやすいものになる。例えば、太宰府天満宮には「学問の神(菅原道真)」がいるから合格祈願に行く人が多い。そして実際に合格したのならば「神」のご利益があったと考える人もいるだろう。

    『神社に行ったらご利益があった』というストーリーがその場所に蓄積していくと、それが人間を信じさせるための大きな力となる。多くの人々に共有されたイメージは、人間が強く信じる為に必要なもの。つまり、神社は『神を信じやすい場』としてうまく機能している。

    そして、既に日本人に共有された「神」のイメージと相まって『神社と神』という最強の組み合わせとなる。多くの人々が神社を訪れるのは、共有されたイメージから自分の「力」を引き出す為である。

    弱さのある人間

    人間は自分に力があることを信じていないとき、神の力を借りる。人間の心は弱い。弱い心では強い行動ができないから、神社という「信じやすい場」を利用して自分を騙す。

    神社という場所で「神」に向き合うことで、願いを叶える為の努力を始めたり、迷いから抜け出すよう自分を仕向ける。「神」を利用することで自分の行動を肯定することもできる。

    「神」の役割は弱い心を補うだけではない。「神」と対話する手法で「自分の心」を解き明かすこともできる。自分の心を解き明かすためには、心を開示する必要があるから聞き手として信頼できる「神」は重宝される。

    人間にとって「神」は「自分の心の代理人」として存在している。「神」という人格に自分の心のうちを語らせることで、普段は出てこない心の奥底にあるものを知ることができる。自分の心のことがよくわからない人間こそ「神」を必要としているのだろう。

    人間の本体は心(魂/精神)

    人間の本体は心である。心は魂や精神と呼ばれることもある。それらは目に見えないから、つかみどころがなく人間には理解しがたいもの。人間にはよくわからないものが、人間の本体であるということは、人間最大の困難である。

    宗教で人の心が変化することがあるのは「神」と真剣に対話するから。心の中から何を引き出すかによって、良い変化が起きたり、悪い変化が起きたりする。日本では悪い変化が起きた結果、悲しい事件が起きたことがあったから、宗教のイメージは最悪である。

    宗教に所属せずとも「神」と会話ができてしまう人がいるようだけれど、その「神の声」が「自分自身の声」であることを理解できていないことは危険なこと。

    人間は「自分自身の心」のことを理解できないように、「神」のことも理解できない。「心」のことを理解できないまま「神」を利用するのならば、細心の注意を払うべきである。ということで、説明が駆け足であったかもしれないが「神社」と「神」についてのまとめ。

    神社は「神を信じやすい場」として機能しており、神は「自分の心の代理人」であるということ。

    出雲大社の御神体について

    大国主神の別名

    さて、やっと本題に入ろう。出雲大社の「御祭神」は先ほども述べた通り「大国主」という国津神である。「大国主」には別名がたくさんある。以前、崇神天皇についての記事の中で「大物主(おおものぬし)」についても書いたけれど、「大物主」も「大国主」の別名である。

    出雲大社の御神体は、謎

    「御神体」についてネットで調べたところ、様々な噂が飛び交っている。先ほども引用させてもらったサイト(出雲大社の歩き方)から、「御神体」と思われるもの一覧を書き出してみる。

    • 七宝の筥(はこ)
    • 九穴の鮑

    「御神体」と思われるもの一覧について、詳しくはリンクしたサイトをご覧ください。このような噂はあるけれど「御神体」の実際のところは分からない。しかしながら、ヒントとなるものは出雲大社の造りにあると思われるのだ。

    大社造(たいしゃづくり)の特徴

    出雲大社(いずもおおやしろ)に代表される大社造は、伊勢神宮に代表される神明造や住吉大社に代表される住吉造と共に、もっとも古い神社建築様式とされる。

    大社造(wikipedia)

    神様が住まう場所としての神社、御神体が納まる場所としての神社には、様々な形態がある。出雲大社は「大社造」と呼ばれる神社建築になっている。神社庁による社殿(神社)の説明によるとその形態には大きく分けて2つあるそうだ。

    建物自体、細部まで見るとその違いは多岐にわたりますが、大きくみてその様式を二つに分けることができ、一つは高床式の穀物蔵の形から発達した「神明造」であり、もう一つは古代の住居の形から発達した「大社造」となっています。

    神社本庁

    出雲大社に見られる「大社造」は古代の住居から、伊勢神宮に見られる「神明造」は高床式穀物蔵から、という違いがある。住居用と食物貯蔵用の違いは大きい気がする。今回の記事を書くにあたって「大社造」の気になる特徴を一覧にしてみる。

    • 男造(おづくり)・女造(めづくり)
    • 心御柱(しんのみはしら)・宇豆柱(うずばしら)
    • 9本の柱
    • 正方形の「田の字」の形
    • 「妻入り」という出入り口
    • 本殿天井の「八雲之図(やくものず)」
    • 本殿内の「御客座五神」と「和加布都怒志命(わかふつぬしのみこと)」

    とりあえず羅列したけれど、これだけの特徴があれば、出雲大社の御神体について紐解くことができるはず。ずうずうしくも、UOZAブログ的考察で解き明かしていきたいと思う。

    出雲大社「大社造」の秘密を解き明かす

    御神体は西を向いている

    出雲大社の謎のひとつに『御神体が正面を向いていない』というものがある。大国主の宿る「御神体」は出雲大社の本殿にある。通常は本殿を直接参拝することはできず、「八足門(やつあしもん)」から参拝することになっている。公式サイトの境内図を見ると、八足門から伸びる壁が本殿をぐるりと囲んでいる。

    大国主を拝するのに八足門に向き合い参拝するのであるが、肝心の御神体は向かって左(西側)を向いているのである。参拝したとしても御神体と向き合うことにはならない。

    一般的な神社本殿は南か東を向いて造られていて、同じく御神体も本殿の正面に合わせた向きで配置されている。出雲大社の本殿も同じく正面が南を向いているのであるが、中にある御神体は西を向いているのである。

    ネット検索すると西を向いていることについても様々な説が飛び交っている。それら説を見比べることも面白い。

    本殿の内部構造

    出雲大社本殿内部の見取り図を、出雲大社公式サイトから引用させていただきます。

    third-img2-1

    御本殿出雲大社)

    このように、正方形の建物の中に東を向いて「御神体(御神座)」が納められている。この構造の面白いところは、入り口の扉を開け建物に入ると正面には壁があるところ。だから、ぐるりと右回りするような形で進むと「御神体」に対面することになる。

    wikipediaから引用させてもらった以下の画像を見ればわかるように、この構造は「男造」というものになる。対称的な構造として「女造」がある。例外もあるが、男神なら「男造」女神なら「女造」となっているようだ。

    大社造

    真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による

    一般的に出雲大社や熊野大社に代表される男造の神社は主祭神が男神となっていることが多く、神魂神社や揖屋神社に代表される女造の神社は主祭神が女神となっていることが多いとされる。

    大社造(wikipedia)

    この二つの構造を初めて知った時、人間の心(精神)の造りとまったく同じであるということに、わたしは気がついた。「男造・女造」を重ね合わせると「心の構造」になっているのだ。

    心の構造と大社造

    「男造・女造」を重ね合わせたものと「心の構造」が同じであることについて解説していきたいが、「心の構造」がどうなっているか、人間はあまり知らない。

    けれど、わたしはこのUOZAブログで「心の構造」について既に説明してきている。「この世界の真実」という記事では、わたし達の生きているこの世界の仕組みについて解説したのであるが、その記事の中で使用した以下の図を見てほしい。

    truth-of-this-world

    この図の中には、赤い実線の矢印で表される『未来に進む時間(現実世界)』と、青い破線の矢印で表される『過去に戻る時間(精神世界)』がある。大社造の「男造・女造」それぞれの構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。

    この図は「心の構造」の見取り図であるけれど、わたしが考えたものであるし、この図が正しいことを証明するのは難しいかもしれない。けれど、今回出雲大社の御神体について紐解いていくことで、この図が人間にとって普遍的なものであることを逆に証明していきたい。

    ということで、とりあえず話を続けてゆく。

    未来に進む時間・過去に戻る時間について

    頭の中で起きていること

    まずは時間についての話をしておきたい。人間は現実世界を生きていて、時間が流れるから歳をとる。そんな当たり前過ぎることが『未来に進む時間』。図の中の、赤い実線で表される右回りの流れである。

    次に『過去に戻る時間』について。現実の時間が過去に戻ることはないけれど、人間の頭の中では時間が逆行している。このことにはっきりと気がついている人はあまりいないけれど、図の中の青い破線で表される左回りの流れがそれを表わしている。

    2つの時間の流れ

    わたし達人間は、毎日判断をしながら生きている。生きているときの全ての行動は判断の結果であり、そこには自由意志がある。

    例えば学生や社会人は、朝目覚めたら学校や会社に出かけるための行動を始める。それら行動は義務のようなものであるけれど、各個人の判断の結果でもある。時には自己判断で学校や会社を休むこともできるし、辞めることだってできる。

    次にどんな行動をするのか常に頭の中で考え、決断し、行動に移しているのがわたし達人間。意識していないかもしれないが『過去の参照→分析→実行』という一連の流れが、人間の頭の中で起きている。

    わたし達人間は過去に起きたことを記憶している。過去の出来事を参照し、分析し、自分にとっての最適解を出しながら行動している。この繰り返しをしているのが人間なのであるから、人間の行動を決定付けるものは記憶という過去の出来事なのである。

    流れの中の「過去の参照→分析」部分が『過去に戻る時間(左回り)』のこと、「実行」部分が『未来に進む時間(右回り)』のこと。この2つの時間の流れは「心の構造」の中で重要なものである。

    心とは何か

    心の働きは流すこと

    頭の中で起きていることが「心の構造」と言うのには違和感があるかもしれないが、「過去の参照→分析」という計算が頭の中(脳)で行われているだけで、実際に一連の流れを起こしているのは心(心臓)部分なのである。

    人間は心臓が止まると死んでしまうが、動いているときは「生きて」いる。人間が「生きて」いるには血液が「流れる」ことが必要であるし、2つの時間が進むにも「流れる」ことが必要。

    頭(脳)の働きは計算すること・心(心臓の)働きは流すこと、という違いがあるけれど、流れが止まっていたら計算もできない。だからこそ心(心臓)の働きが重要。

    右回りと左回りの重なり合い

    右回り(未来に進む時間/実行)と左回り(過去に戻る時間/参照と分析)が休まず同時に行われているのが人間の心。心とは、右回りと左回りが重なり合うもの。わたし達は誰もがこの重なり合いを体験しているのであるが、それについて意識している人は少ない。

    UOZAブログでは、いくつかの記事で心の重なり合いを解説してきたのであるが、「大社造」には既にこの「心の構造」が表現されているのだ。

    大社造と国産み神話の共通点

    天の御柱を回る神々

    同じく島根県にある「神魂神社」は日本最古の大社造建造物であり「女造」である。御祭神は伊奘冉(イザナミ)という女神。ところで、日本神話には「国産み神話」というお話がある。その中でイザナギ(男神)は天の御柱(あまのみはしら)を左回りに、イザナミ(女神)は天の御柱を右回りし、出会ったところで交わり国を産む。

    大社造

    真上から見た男造(左)と女造(右)のイメージ(wikipedia) Kamdoomi – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, による

    ここでもう一度「男造・女造」の図を見てほしい。男神は左を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば心御柱(しんのみはしらを左回りすることになる。そして、女神は右を正面に向いていて、そのまま歩き出すとすれば、心御柱(しんのみはしらを右回りすることになる。

    「大社造」は、そのまま「国産み神話」と同じ構造になっている。「国産み」とは人間世界の始まり・宇宙の始まりのこと。世界の始まりには、右回りと左回りしている「心の構造」が大きく関わっているということを、「大社造」と「国産み神話」は伝えているはずなのだ。

    「国生み」について詳しくは他の記事をどうぞ

    心の状態が生まれる瞬間

    右回りと左回りが同時に行われることで「国を産む(世界が始まる)」ということについて今回の記事では深堀りしないけれど、以下で紹介する2つの記事に書いているのでそちらを読んでほしい。

    関連記事:2つの時間の重なりが因果を生む

    「2つの時間の重なりが因果を生む」という記事の中では、仏教用語である「異熟果」の解説をしている。「異熟果」をわかり易く言うと「心の状態」である。「心の状態」は、右回りと左回りが交差する瞬間に現れるものである。

    現実世界の時間の流れは過去から未来へ。精神世界の時間の流れは未来から過去へ。その時間の流れが交差する瞬間が「今という瞬間(異熟果)」である。そして、この世に現れる森羅万象を創造している(入力と出力を同時に行う)のが、現在の「自分(自我)」である。

    『この世に現れる森羅万象を創造すること』とは『国を産むこと』。2つの時間が流れていることで、交わり、現実が産まれている。詳しくは記事でどうぞ。

    世界の投影が行われる瞬間

    関連記事:この世界の真実(最終解答編)後編

    「この世界の真実(最終解答編)」という記事の中では、今回の記事にも引用した図について解説しながら「この世界の仕組み」を解き明かしている。以下に引用したものは、2つの時間の流れと交わりについての文章である。詳しくは記事でどうぞ。

    世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。

    右回りと左回りは鏡写し

    2つの時間は男と女

    話を戻そう。「大社造」と「心の構造」についてこう述べたことについて、もう少し詳しく考えていきたい。

    大社造の「男造・女造」構造は、この『未来に進む時間・過去に戻る時間』と同じものだと考えられるのである。

    再び図を見ながら「心の構造」をおさらいすると、「右回り」が『未来に進む時間/実行』・「左回り」が『過去に戻る時間/参照と分析』である。

    truth-of-this-world

    この図では「男性性」を赤色・「女性性」を青色で表現していて、時間の流れの線だけでなく、その他ゾーンも色分けがされている。「右回り(未来に進む時間/実行)」は「男性性」、「左回り(過去に戻る時間/参照と分析)」は「女性性」になっている。

    「大社造」に置き換えてみると、男の神が祀られている「男造」は「未来に進む時間/実行(右回り)」・女の神が祀られている「女造」は「過去に戻る時間/参照と分析(左回り)」だと言える。

    人間視点と神視点

    人間が「男造」に入り神に向き合うとするならば右回りをして「男神」に出会うことになる。また、「女造」に入り神に向き合うとするならば左回りをして「女神」に出会うことになる。「女造」は右下が入り口となっているので、左に曲がるだけであるが。

    「大社造」で人間が神に出会うことは、当たり前ではあるが、人間からの視点ということになる。そして、図にある時間の流れも人間の視点である。

    けれども、『大社造と国生み神話の共通点』で述べたことを思い出すと「男神」は「左回り」・「女神」は「右回り」をしている。これらは神の視点であると言えるから、神々が回る方向が逆になっている。

    肉体と精神・人間と神

    ここで「男性性(赤色)」と「女性性(青色)」について簡単に解説しておきたい。過去記事からの引用である。

    人間には「男」と「女」という性別が存在しているが、実際には心(精神)にも性別が存在している。私たちが頭の中で思考し判断を下すときに、「男性性」という心の性質と「女性性」という心の性質がそれぞれ考え最終的にひとつの答えを出すようになっている。
    つまり心の中には2つの性質が存在していて、それぞれの性質のバランスによって、判断も変わってくる。基本的には性別が男性であれば、心の中は「女性性」が主体となり決定権を握っている。性別が女性であれば、心の中の「男性性」が主体となり決定権を握っている。

    このように、肉体が「男性」であれば心の主体になるものは「女性性」・肉体が「女性」であれば心の主体になるものは「男性性」になっているのが人間の仕組み。人間とは、肉体の性別と精神(心)の性別が逆になっている存在。

    肉体と精神の性別が逆であることと同じく、神と人間の回り方が逆の動きになるのは、人間と神が「鏡写し」の関係性を持っているから。目に見えるもの(人間/肉体)と目に見えないもの(神/精神)は「鏡写し」になっているのである。

    目に見えるもの ↔︎ 目に見えないもの
    肉体 ↔︎ 精神
    人間 ↔︎

    この記事の始めに『神は「自分の心の代理人」である』と言ったけれど、神とは『人間の心の中に存在するもの』であることが、お分かりいただけたのではないだろうか。

    男神と女神の性質

    男の神は現実世界で実行する

    「大社造」で出会う神々はその性別によって性質や役割が違う。ここまで説明してきたことをまとめてみると、そのことが見えてくる。

    人間は「右回り」すると「男神」に出会う。『未来に進む時間』の先に存在する「男神」とは「実行の神」と言える。「男造」に祀られる「大国主」は「実行の神」ということになる。

    大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。

    その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。

    出雲大社と大国主大神(出雲大社)

    「大国主」はこの日本という国を造った、国づくりの神である。人間は行動することで、想像したものを目に見えるものにしていく。行動(実行)しなければ、国も完成しない。当たり前のことであるが、それを表現するのが「男神」だということ。現実世界を生きることは実行の連続である。

    女の神は精神世界で思考する

    人間は「左回り」すると「女神」に出会う。『過去に戻る時間』の先に存在する「女神」とは「過去を振り返り思考する神」と言える。わたし達の頭の中では過去の参照→分析→実行という作業が常に行われているが「過去の参照と分析」は、実行前のとても重要なプロセス。

    「思考」するからこそ感情が生まれ、喜怒哀楽を表現する。「思考」するからこそ、様々な予測をする。そして「思考」は人間を惑わすものでもある。

    人間が精神世界(心/頭)という目に見えない場所で「思考」することを表現するのが「女神」なのである。ちなみに「思考」でどんな行動をするか決定するのであるから、「実行作業」に「思考」はない。

    変わることのない性質

    心の構造である『未来に進む時間・過去に戻る時間』は「男神」と「女神」に置き換えることができる。時間という概念を人間にとってわかり易くするためには、人間と同じ姿形をしている「神」に置き換えることが必要だ。

    ちなみに。「国生み神話」においては神々の回り方が逆であるから、違和感を感じる人もいるかもしれない。神話の通りであれば、「男神」は「過去に戻る時間」・「女神」は「未来に進む時間」になるから。

    けれどもここまで説明してきた通り、神と人間は「鏡写し」の関係性を持っている。私たちが鏡を覗き込むと左右は反転する(流れが逆になる)ように見える。けれど鏡の中の自分は自分のまま。つまり、男と女の性質は変化することがないものなのだ。

    「神」とは、わたしたち人間に目に見えない世界を教えてくれる存在。そう考えると「大社造」は「男造・女造」という構造の中で、一歩踏み込んだところを教えてくれている。

    出雲大社「柱」の秘密を解き明かす

    出雲大社9本の柱

    心御柱と宇豆柱とその他柱

    ここからは「大社造」のそれぞれの柱について考えていきたい。出雲大社本殿を造るのは、全部で9本ある柱。その中心の柱は「心御柱」。「心御柱」は出雲大社だけでなく、伊勢神宮の正殿の中央床下にも埋められている。柱とは神が宿るものである。

    心御柱(しんのみはしら)とは、伊勢神宮の正殿、床下中央部分に建てられる柱をいう。日本の神は、木や柱を依り代(よりしろ)とするため、神が依り憑く神籬 (ひもろぎ)とした。

    心御柱(wikipedia)

    本殿の内部では「心御柱」がどんな様子なのか調べてみた。実際建築を支えるのに重要なのは「宇豆柱」であるらしい。

    中央にある最も太い柱の心御柱はほかの柱より太く堂々としたものだが、実際には梁を支えるためのもので、構造上、重要となる棟木は二本の宇図柱が支えている。

    出雲大社の象徴的存在、御本殿に迫る(Discover Japan)

    古代出雲大社

    古代出雲大社は、現在のものよりも高さがあったらしい。その高さについては現実味のない話と捉えられていたが、2000年に出雲大社境内から過去の柱が発見され巨大神殿の存在が現実味を帯びてきた。サクッと説明していきたいので、引用が多くて申し訳ない。

    出雲大社の現在の本殿は、1744年(延享元年)に造営され、高さ8丈(約24m)の建造物が三度の修繕を加えながら今に伝わっている。しかし、古代には32丈(約96m)、中世には16丈(約48m)だったとの言い伝えが残っている。

    出雲大社宮司「千家」家には、古い時代に書かれたと思われる出雲大社本殿の平面設計図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」が残されており、巨木3本を1つの柱として組み、全9本の巨大柱が本殿を支えた構造が記されている。

    日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった?(LIFULL HOME’S PRESS)

    1980年代に大林組が古代出雲大社復元プロジェクトを立ち上げ、実際に建造できるのかどうかを検証していた。復元するための資料として「金輪御造営差図」を参考にし、検証の結果48メートルの出雲大社は造れる!という結果になった。その後、実際に直径3メートルの柱が出土したのだからすごい。

    詳しくは、上記にリンクした記事の中のPDFを読むと面白い。そのPDF中に『古代出雲大社(想定)』9本の柱の詳細が記してあったので、簡単にまとめてみる。

    柱の長さと直径

    岩根御柱(心御柱×1)…直径3.6メートル、長さ36メートル
    棟持ち柱(宇豆柱×2)…直径3メートル、長さ42メートル
    側柱(その他の柱×6)…直径3メートル、長さ36メートル

    それぞれの柱の直径と長さを比べてほしい。この情報はここからの考察に重要なものになってくる。

    気になる点

    わたしが注目したいのは、「宇豆柱」2本が一番長く「大社造」を支える重要な柱であること、「心御柱」が中心にあること、それぞれの柱は3本を1つの柱として組まれていること、「心御柱」と同じ高さの「側柱」。この4点である。

    • 重要な「宇豆柱」2本
    • 中心にある「心御柱」
    • 3本の木を束ねること
    • 「心御柱」と同じ高さの「側柱」

    ここまで『大社造と心の構造』について述べてきたことを前提として、これら4点について考察しながら「柱」の秘密を紐解いていく。ここからの話を読むための建築用語メモを置いておきます。一応。

    建築用語メモ
    棟木(むなぎ)…屋根の一番高い位置に取り付けられる部材。
    梁(はり)…柱の上に棟木と直行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
    桁(けた)…柱の上に棟木と平行方向に渡して、上からの荷重を支える部材。
    妻(つま)…棟木と直行する両側面。

    「宇豆柱」の意味するところ

    「大社造」を「心の構造」ととらえると「宇豆柱」とは何を表すのか。これはあまりにもわかり易い。2本のうずの柱ということは、右回りの渦(うず)と左回りの渦(うず)という、2つの渦ということ。

    強引であるかもしれないが、「宇豆柱」は「男造(男神)・女造(女神)」を表わしているということ。柱は神なのだから、すでに2柱の神が「大社造」を造る部材として存在しているということになる。

    この2本は一番長く、棟木を支える大切な柱。2柱の大黒柱とも言える男神と女神が「大社造」全体を雨や風から守っている。けれども、男神と女神が本来守っているものは「大社造」の中心に存在する「心御柱」なのである。そう言い切れる理由については後述。

    「心御柱」の意味するところ

    「心御柱」は「自我」を表す

    「大社造」を「心の構造」ととらえると「心御柱」とは何を表すのか。出雲大社や伊勢神宮の本殿にとって一番大切なものは中心にある「心御柱」。再びこの図を見て欲しいのであるが、中心にあるのは「自我」。つまり「心の構造」の中で一番大切なものも「自我」ということになる。

    truth-of-this-world

    「自我」とは忌むもの

    別に社殿の実用的な支柱でなく,しかも神宮祭祀上きわめて清浄神秘を重んじられる柱として特に忌柱(いむはしら)とも称される。

    心御柱(コトバンク)

    こちらは、伊勢神宮「心御柱」についての引用。「心御柱」は「忌柱(いむはしら)」とも呼ばれる。清浄なものであるのに、忌むもの。忌むものといえば「自我」なのである。

    主張することが苦手な日本人は「自我」を嫌がることが多いはずだ。「自我」はエゴとも呼ばれ、利己主義的な考えや行動をもたらすものとして遠ざけられることがある。もちろん、「自我」を良いものとして捉えている人もいるけれど。

    「自我」とは何か

    そもそも「自我」という言葉の定義は人によって違うのかもしれない。UOZAブログでは、このように「自我」を定義している。

    自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。

    「自我」とは思考と行動をまとめたもの。ここまでに説明してきた、男神(右回り/実行)と女神(左回り/思考)を合わせたものが「自我」ということになる。

    関連記事:自我と自己について

    思考と行動の子ども

    『男神と女神を合わせたもの』は『実行と思考という性質を受け継ぐ子ども』、だと言うことができる。そして、『思考と実行』を常に行っているものといえば「人間」。つまり、「宇豆柱」に守られる「心御柱」は、神の子どもである「人間」を表している。

    一旦、ここまでの情報をまとめる。

    「心御柱(自我)」とは『男神(実行)と女神(思考)の子ども』。つまり「心御柱」とは「自我」を持つ「人間」のことなのである。「自我」とは人間を人間たらしめるもの。当たり前のことなのに、わたし達が気がついていないことでもある。

    伊勢神宮の中心

    出雲大社の「心御柱」は梁を支えているのであるが、伊勢神宮の「心御柱」は梁にも届かず、床下に存在している。建造物としては機能していないのであるが、引用を読むと重要さは伺える。

    心御柱(しんのみはしら)として神聖視されるが,これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で,構造部材としての柱ではなく,神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる。

    心御柱(コトバンク)

    このことが何を表すのか。建物を支える機能を成さないということは、その「心御柱」は成長途中の「人間」であることを表すのである。つまり「自我」に気がついていない状態。

    この件については「国譲り神話」を紐解いていけば理解できることなのだけど、この記事の後編か別記事に書きたい。長くなりそうなので。

    建物の「中心」であることが大事

    伊勢神宮では20年ごとの式年遷宮で建物の位置が隣の敷地に移動し、建て替えられることは有名である。気になるのは、建て替え後まっさらになった跡地の「心御柱」があった場所に小さな小屋が建てられること。

    その中には建て替え前の「心御柱」があるとかないとか。次にそこに建て替えた時に「心御柱」の位置がずれないよう、その小屋が建てられている、というのが有力な説らしい。

    「自我」という中心がずれないことは「人間」にとって大切なことなのである。「自我」が自分自身(人間)を動かしていることを自覚することが、「自我」を中心に固定しておくこと。中心に固定しておくことの重要性は、過去の記事にも書いていることなので、ここでは省略させていただきます。

    3本の木を束ねて1つにすること

    ここまで「宇豆柱」と「心御柱」の意味するところを説明できたかと思う。それを踏まえて、出雲大社の9本の柱が3本1組である意味について考えていきたい。けれどこれも、単純な理由である。

    前述した通り「心御柱」は「宇豆柱2本」の子どもである。ということは「男神(1本)」と「女神(1本)」の性質を併せ持った「心御柱(子ども)」は「3本」で表すことができる。

    「男神(1本)」と「女神(1本)」を足したら「2本」になりそうなところだけれど、「男神」でも「女神」でもない新しい柱であるから、『合わせた2本』ではなく、『合わせた2本に新しい1本を含めた3本』ということ。

    3本を束ねた柱は「人間」であるということを強調し、新たに独立したものを表わしている。つまり「心御柱」だけでなく、9本の柱全てが「人間」なのである。

    「神」は『人間の心の中』に存在し、「人間」と「神」は「鏡写し」の存在であることは既に説明してきた。柱とは「神」でもあるし「人間」でもあるということを教えてくれているのが、3本1組の柱。

    「心御柱(人間)」とは、神の子どもである。神に似ているが神ではない、新しい存在が「人間(3本)」。「男神(男性性)」と「女神(女性性)」の性質を持つ『人間(3本)』については、他の記事でもしつこく書いていることなので、ぜひともお読みください。

    関連記事:ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス から学ぶ女性性と男性性

    関連記事:シン・エヴァンゲリオン劇場版を考察 誰も知らないマリの正体について

    「心御柱」と「側柱(がわばしら)」が同じ高さである理由

    出雲大社の骨組み

    最後に、わたしが注目したいのは「側柱」である。「宇豆柱」と「心御柱」以外の6本の柱のこと。建築における「側柱」の機能についてはこちらの記事がわかり易かったので、気になる方はどうぞ。中柱(心御柱)と側柱の作用力の違いは「心の構造」を読み解くのに、必見かもしれない。

    こちらの論文(出雲大社本殿の心の御柱について)の中にある、出雲大社の骨組みシステム図(4ページ目、図-5)が、それぞれの柱同士の関係性を見るのにわかり易かった。説明用にわたしも骨組み図を書いてみた。

    izumoooyashiro-honegumi

    小屋梁中心を支える心御柱

    図を見ると、宇豆柱2本は長く伸び棟木を支えている。そして、田の字の中心、交差している所を下から支えているのが「心御柱」となる。この図には屋根の骨組みが描かれていないけれど、その骨組みを支える「小屋梁(こやばり)」中心を下から支えるのが「心御柱」となっている。

    棟木には届かないけれど、屋根全体の重みを受け止めるのに重要なのが「心御柱」であるらしい。先ほどの論文から、その重要さがわかる文章を引用させていただきます。

    この高大な本殿を単純な骨組システムで維持するには骨組を丈夫にすることが基本であった。そのとき縦横に架けられた小屋梁が重要な部材となる。またこの小屋梁には多大な荷重が加わり,心御柱はこの梁を有効に働かせるためにしっかりと中心で支えている。このことが構造上重要である。したがって出雲大社は心御柱を構造材として設計されており,心御柱は高大な本殿を構築していく上で不可欠な部材となる。

    出雲大社本殿の心の御柱について

    「宇豆柱」も棟木を支える重要な柱だけれど、「心御柱」こそ屋根全体を支える重要な柱であることがこの図からはわかる。

    側柱も「人間」

    またまた「心御柱」の話になってしまったが、わたしが注目したいのは「心御柱」が「側柱」と同じ高さになっていること。ここにもまた「心の構造」が表れている。

    柱は全部で9本ある。ここまでの話をまとめると、「宇豆柱(2本)」は「男神・女神」という親の役割をしている。そして、「心御柱(1本)」は中心に存在する子ども(人間)ということになる。そして残り6本の柱が何を表すのかというと、これもまた「人間」なのである。

    「側柱」6本が「人間」であるということは「心御柱」と合わせて、全部で7柱の「人間」の柱があるということになるが、それを裏付けるものが本殿天井に描かれている「八雲之図(やくものず)」である。

    八雲之図、3つの謎

    八雲之図は出雲大社の謎のひとつでもある。八雲之図の謎についてわかり易くまとまっているブログがあったので、引用させていただきます。

    ①一雲のみ逆向きである。
    ②一雲 ひときわ大きな雲があり その雲のみ黒い色が使われている。
    ③八雲と言いながら七雲しかない。

    思ったこと

    これら謎を紐解きながら、9本の柱が『2柱の神(宇豆柱)』と『7柱の人間(心御柱・側柱)』であるということを証明していきたいと思う。

    2022/07/18 追記
    最後にかっこつけて『7柱の「人間」の柱がある』とか言ってるけど、ちょっと前で『9本の柱全てが「人間」なのである』とか言ってますね。意味がわからないですね。ごめんなさい。文章の最終チェックが足りなかったです。後編で詳細を書いていきます。


    長くなってしまったので、今回はここまで。中編につづく。今回の考察を理解してもらえれば、「雲」の謎は解けるはずなので、ぜひ挑戦してみてください!考察コメントお待ちしております!中編を書き上げるのも、すごく時間かかりそうなので…。出雲大社の情報量やばい。

  • ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス から学ぶ女性性と男性性

    ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス から学ぶ女性性と男性性

    Amebaブログの方に、映画「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」の感想を書いていたら、女性性と男性性について詳しく解説できたように思うので、こちらのブログにも載せることにした。

    この記事は「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス(以降「MoM」と呼ぶ)」の物語を引用しながら女性性と男性性について解説していく。なので鑑賞しておくことをお勧めします。

    なお、過去のMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品も観ておかないと「MoM」に登場するキャラクターの理解はできない。となると、かなり量があるのでハードルが上がってしまうけれど興味のある方は是非。MCUは面白いよ。

    MCUを見る順番を詳しく書いてくれているサイトがありましたので、参考にリンクしておきます。ディズニープラスへの入会は必須になりますが。

    記事の中ではいくつかのMCU作品に触れているので、様々なネタバレがあります。全てのMCU作品を観ていない人、これからMCU作品を楽しみたい人はご注意ください。MCU作品は見ないけれど、女性性と男性性の要点についてなんとなく知りたい人は、次の章『男性性と女性性についての基本情報』を読んでから、こちらの章以降をお読みください。

    男性性と女性性についての基本情報

    これまで、UOZAブログの中で『男性性・女性性』については何度か触れてきた。ちなみに、投稿記事一覧ページ右上に検索ワードを入力する箇所があって(虫眼鏡マークをクリック)「男性性 女性性」と検索してみると、このように記事一覧が出てきます。ご活用ください。

    男性性・女性性についての基本情報をおさらいしてみる。過去記事から再掲。

    人間には「男」と「女」という性別が存在しているが、実際には心(精神)にも性別が存在している。私たちが頭の中で思考し判断を下すときに、「男性性」という心の性質と「女性性」という心の性質がそれぞれ考え最終的にひとつの答えを出すようになっている。
    つまり心の中には2つの性質が存在していて、それぞれの性質のバランスによって、判断も変わってくる。基本的には性別が男性であれば、心の中は「女性性」が主体となり決定権を握っている。性別が女性であれば、心の中の「男性性」が主体となり決定権を握っている。

    そして、男性性・女性性それぞれの特徴を一言で表すとこちら。シンプルなこと。

    男性性:強いこころ
    女性性:受け入れるこころ

    ということで、なんとなく頭に入れてから以降の記事を読んでほしいと思う。

    現実世界と精神世界が混ざり合うカオスな現代

    以前エターナルズの感想を書いたときMCUフェーズ4のイメージについてこんなことを書いた。

    フェーズ4から「精神世界突入後、その中に精神世界と現実世界を創り、それぞれ分かれていく」はなしなイメージ。

    これは、精神世界と現実世界が分かれてどちらも認識できるようになるということであり、そうなってしまうと、もうどちらが現実か分からなくて混乱してしまう。最終回を迎えた「ムーンナイト」もまさにそんな世界観だった。

    現代では、陰謀論とか集団ストーカーとか、アニメや漫画の内容に本気で怒ってしまう人とか、精神世界のお話を現実だと思ってしまう人々が増えていることと同じである。それはまったく非難することでもなく、仕方がないこと。人間が進化するための通過点なのだ。

    「ロキ(シーズン1)」の最終回では、在り続ける者が『境界線を超えた』と言っていたシーンがあったけれど、現代はまさに現実と精神を隔てていた境界が曖昧になり混じり合う時代。

    「ワンダヴィジョン」で、ワンダは自身が創り出した精神世界(ヘックス)にどっぷりと浸かってしまったから現実に戻ってこれなくなった。そして、スカーレットウィッチである自分を選んだ。「MoM」ではワンダ(現実)とスカーレットウィッチ(精神)との対比で境界を超え行き来する混乱が表現されていた。

    もちろんストレンジも違う世界線の自分に出会うのだけどワンダほど惑わされてはいない。主人公というものは、変わらない自分自身を肯定する強さを持っている。世界線の違う自分に出会ったとしても、現実の自分が絶対である。

    そしてこのワンダとストレンジの現実世界/精神世界の捉え方の違いが、女性性と男性性の大きな違いを表現している。

    「MoM」スカーレットウィッチから学ぶ女性性

    スカーレットウィッチとワンダという女の二面性

    スカーレットウィッチとは、グレートマザーの悪の側面であると言える。一方でワンダは善の側面になる。グレートマザーとは、心理学者であるユングが見出した夢の中に登場するイメージのうちの1つ。それらイメージは元型(アーキタイプ)と呼ばれており、人間の心の奥底に古代から存在し、人類はそれを共有している。

    グレートマザーとはこのようなものである。引用させていただく。

    あらゆる物を育てる偉大な母のイメージで、女性の成長の究極的な目標だとされています。ただ、母という要素には二面性があり、一つには子どもを慈しんではぐぐむ力、もう一つは子供を束縛し、のみこんで破滅させてしまう恐ろしい力です。

    夢に現われるグレートマザーは、年長の女性、女神、老婆、魔女などの姿を取り、否定的イメージが強い時には鬼婆、化け猫、メスの猛獣、渦巻きなどの姿になるそうです。

    ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

    グレートマザーは全てを生み出す母であるからこその悪を表現する。大きすぎる愛故の悪。魔女であり老婆であるスカーレットウィッチは予言されていた存在であった。予言されていた存在もなにも、世界とは女から生まれている。ワンダゴア山のスカーレットウィッチの銅像は、世界が『始まった』頃から存在しているのだろう。

    世界を産む存在としての苦しみ

    産みの苦しみとはよく言ったものだけれど、その「苦しみ」は女しかわからないものなのかもしれない。世界を産んでしまう者の苦しみ。それは『現実も精神も結局全ては幻想である』という真実を理解している苦しみであったりする。

    確か、ストレンジがワンダに対して『子供たちはただの幻想だ』って諭している場面があったと思うのだけど、それに対するワンダの返答にものすごいドキッとした。しかしそのセリフを忘れてしまった!『女は全部幻想だと知っている』みたいな返答だったと思うけど、もう一回見ないといけないな。

    ワンダの恋人ヴィジョンも、生身の人間ではないし幻想のようなものだったのかもしれない。現実でさえも全ては儚く虚しいということを理解しているワンダ。幸せを手にしたとしても、それはどうせいつか消えてしまう幻なのだ。

    だから、ワンダはヘックス内で創造した自分の息子たちを愛し留めようとする。世界が幻想であることを忘れるために。息子たちへの愛が強い執着へと変わる時、強大な悪に変貌する。これがグレートマザーの悪の側面である。

    全ては幻想であることについての悲しみ

    「ブラック・ウィドウ」はナターシャの過去のお話だったけれど、レッドルームで殺し屋として育てられたこと、『作られた家族』とのエピソードなどが明かされた。レッドルームの女性たち、作られた家庭、どちらも幻想である世界を表現している。

    エヴァでも綾波やアスカは自分がクローンであることを知っていて、世界を見る目がどこか冷めていた。やはり女は世界が幻想であるということを知っている。

    女は世界が幻想だということに納得した上で、それを乗り越えていくことが使命なのである。ナターシャは作られた家族であっても、そこに本物の愛があったことを最後には認識できたから救われた。乗り越えたからこそブラック・ウィドウは強い。

    女の執着は恐ろしい悪となる

    一方スカーレットウィッチの強さは、儚いものをなんとか留めておこうとする執着心から。どうせ幻想なのだから、自分の思い通りにしてしまおうと思っている。そしてワンダの時よりさらに強くなっているのは、自分自身が太古から存在する魔女であること(グレートマザーであること)を知ったからである。

    闇に落ちて初めて自分の原点(女であること)を知り、性質を理解することができる。そして自分の本当の能力をも理解する。ワンダゴア山で自分の銅像を見た時、そこが自分の玉座であると納得した描写がその瞬間である。だからこそイルミナティなんて瞬殺なのだ。

    また、自分の銅像を初めて見たとき、そこが自分の墓であるとも直感的に理解していた。未来の自分自身の死を予見しているし、死を司る存在であることが表現されている。

    ヨハネの黙示録に登場する『太陽を着て足の下に月を踏んでる女』はまさにグレートマザー(スカーレットウィッチ)のこと。産みの苦しみのために、破壊をもたらすのである。

    「MoM」ドクターストレンジから学ぶ男性性

    境界線を超えない男ストレンジ

    ワンダとは対照的なストレンジは現実世界と精神世界の境界線を曖昧にしない。それは現実世界が幻想であると思っていないということであるし、現実の自分が絶対だという自信でもある。

    『他人に絶対にメスを渡さない』ストレンジの傲慢さとも取れる性質は、自分自身が現実を支配しているという強い意識である。現実は精神世界であるということを認めない。けれど心のどこかでは精神世界であってほしいとも願っているのかもしれない。

    犠牲(死)のある世界への葛藤

    ストレンジは今回自分の世界線を守るために戦ったのであるが、他の世界線に移動し、他の自分の可能性を知ることになる。オープニングでは夢の中で魔物と戦う自分を見た。アメリカチャベスを犠牲にして世界を救おうとしていたが死んでしまった世界線。

    ストレンジが世界を救おうとすると必ず犠牲が出てしまう。「アベンジャーズ/エンドゲーム」でのトニースタークの死もある意味犠牲である。ストレンジがタイムストーンで可能性を探った中、世界が救われる世界線はトニースタークが死ぬ世界だけだった。

    ストレンジは、おそらく、世界を救う為には犠牲が必要だと感じていた。しかし「ホワット・イフ」ではクリスティーンが犠牲になる世界線から逃れるために、何度も時を戻しクリスティーンが死なない世界を探していた。犠牲は必要であるけれど、犠牲は伴いたくない。このような矛盾した気持ちと葛藤しているのがストレンジである。

    男の始まりは死

    「ホワット・イフ」の中でエンシェントワンは、クリスティーンの死は絶対点であり変えることができない、その点こそが魔術師ストレンジの出発点であると語った。

    映画版ドクターストレンジの世界線においては、自動車事故で両手が使えなくなることが魔術師ストレンジ誕生のきっかけである。外科医の仕事ができなくなるということは『現実の死』を意味する。男の本当の人生は『死(女)』から始まるものなのだ。

    男は『女の産みの苦しみ』から産まれる者。女の苦しみは『産みの苦しみ』であったが、男を苦しめるものは『女の死』である。「MoM」はストレンジが「死」の苦しみを乗り越える物語である。「死」から始まる試練は再び「死」を体験し乗り越えるしかない。

    精神世界で体験すること

    現実世界が絶対で、そこは幻想ではないと思っているストレンジ。しかし、今回はアメリカチャベスの力によって違う世界線(精神世界/アース838)へと足を踏み入れることになる。アース838はイルミナティというヒーロー軍団が守っている世界。

    そこではストレンジもイルミナティの一員であったが、既に死んでいた。アース838にもサノスから世界を守る戦いが存在していたのであるが、その際ストレンジは闇の魔術書ダークホールドを用い、別の宇宙を消滅させてしまっていた。イルミナティはそんな行動をするストレンジを危険視し、排除したのである。

    現実世界を絶対とし自信過剰すぎるストレンジであるが、別世界線では死んでいる。オープニングの夢もまた別世界線であったが、そこでもストレンジは死んでいた。

    ストレンジにとって別世界線(精神世界)は自分自身の「死」を教えてくれる場所である。「死」を別世界線(精神世界)で擬似体験しているようなもの。精神世界とはそういう役割を持っている場所である。

    ストレンジの意識は、現実世界=生、精神世界=死、と境界線をきっちりと引いているのであろう。

    世界を救う為に犠牲になるのは誰なのか?

    ストレンジは心のどこかで、世界を救うには犠牲が必要だと思っている。そんな深層心理が目にみえるものになったのがストレンジの別世界線(精神世界)である。別世界線では、犠牲者が自分自身になっている。誰かが犠牲になることは自分の「死」を意味する。そうストレンジは感じているのだ。

    オープニング、夢の世界線ではアメリカチャベスを犠牲にするという選択をし、アース838ではドリームウォークしたことで、インカージョンが起きてひとつの世界線を犠牲にする選択をしたストレンジ。

    別世界線では自分の選択によって世界に「死」がもたらされている。それを知ったとしたら普通の人間はすごく落ち込むであろう。そして自分の選択に自信を失い、選択することを止めてしまうだろう。

    しかしストレンジには至高の魔術師になる素質があるから普通じゃない。その素質とは現実世界と精神世界にきっちりと線引きをすること。現実に存在する自分が確かであることを信じているストレンジであるから、別世界線(精神世界)に起きる「死」という結果を見ても諦めないのである。

    つまり、本当の自分が存在するアース616では結果を変えたいという強い意志がある。それは「ホワット・イフ」という世界線でクリスティーンを亡くしている悲しみに由来する。女とは「死」の象徴である。その意志とは、「死」をもたらしたくないという強い願いなのである。

    自分の選択を信じる者

    ストレンジは自分の考えを曲げない。自分の選択が正しいと信じている。アース838ではストレンジの選択は非難され、ストレンジ自身もひとつの世界線を破壊した罪悪感を持っていたようだが、それは精神世界のお話。

    現実世界(アース616)のストレンジの強さは、そんな精神世界(アース838)の自分を知ったとしても、現実世界でやはりダークホールドを手にしてスカーレットウィッチと対決したところなのである。ダークホールドを使って戦うことを恐れていない。

    精神世界において自分自身の選択で「死」が起きているということを学んだ上で、現実世界の自分自身の選択に強い意志を持つこと。これが至高の魔術師の姿である。

    スカーレットウィッチ(死)との対決

    精神世界の死(予習)から現実世界の死(本番)へ

    ストレンジは現実世界(アース616)に存在する強大な悪スカーレットウィッチと対峙することになる。精神世界では「あったかもしれない自分の死(男)」と対決、現実世界では「現実に死をもたらす者(女)」と対決するという対比である。

    ストレンジは、ワンダと同じく闇の魔術書ダークホールドを手に入れドリームウォークで他の世界線の自分に乗り移る。

    死んでしまった者たち

    現実世界(アース616)のストレンジは別世界線(シニスター・ストレンジがいたとこ)に飛ばされ、その世界線にあるダークホールドを用いドリームウォークして現実世界(アース616)に置いてある自分の死体(夢の世界線のもの)を操った。

    ストレンジは自分の死体に群がる悪霊に苦戦していた。悪霊たちとは精神世界(別世界線)の生き物であり、悪霊とは死んでしまった者たちである。「死」とは選択の間違いによって引き起こされるものであるから、悪霊たちには大きな後悔がある。だから生きているものに対する執着があり、足を引っ張る。(ストレンジの肉体は死んでいるのであるが…)

    死を利用する

    ストレンジは悪霊に乗っ取られそうになったが、クリスティーンが助け舟を出してくれた。悪霊を利用することを教えてくれたのだ。女とは死を司るものであるから悪霊のことを一番理解しているのも実は女である。

    「死」から感じる強い苦しみ、「死」とは自分自身の選択でもたらされているということ。「死」の擬似体験によって学ぶことができるのはこの2点である。ストレンジは「死」について精神世界で充分に学んでいる。

    ストレンジは既に「死」を学び、クリスティーン(女)の助けもある。悪霊たちの苦しみや後悔を理解するための駒が揃っているのである。悪霊のことが理解できてしまえば、簡単に利用できてしまう。このように死(闇)の力を手にいれたストレンジはスカーレットウィッチと対等に戦えるようになった。

    弱さを認めても負けないこと

    今までのストレンジにあったものは、現実世界は自分だけが舵を握っていると思っている傲慢さ、世界は自分の力だけで救うことができるという過信。そして、他人の力を信用することができない心の弱さがあった。『他者を受け入れることが自分の弱さ』であると思っていたストレンジなのである。

    弱さを認めることは『負け』だとも感じていたのだろう。勝ちや成功にこだわるのがストレンジである。しかし、弱さが自分自身の中に存在することは当たり前であるし、弱さは自分自身の防御にもなる。弱さを否定してきたから、精神世界の自分が「死」んでいたのだ。

    今回はアメリカチャベスを犠牲にすることなく彼女の力を信じることができた。自分の考えを曲げないストレンジであるが、その強みを保ったまま他者を受け入れることは『負け』ではないことを理解したのだ。これがストレンジの大きな成長であった。

    抱えていた矛盾の克服

    ストレンジには、世界を救うための犠牲(死)が必要であるということを理解しつつも、犠牲(死)をもたらしたくないという葛藤があった。しかし自分の中に弱さ(死)があることを認めながらも強さを持ち続けることで、その矛盾を克服することができた。それは心の中(精神世界)で負け(死)を認めることで達成できるものであった。

    「MoM」から学ぶ闇(ダークホールド)と光(ヴィシャンティの書)

    苦しみを表現する悪霊やゾンビ

    闇に打ち勝つには光が必要であると思われがちだが、実際には闇の力でしか対抗できない。世界は悪霊で表される悲しみや苦しみで満ちている。悪霊やゾンビは、苦しみから抜け出したいから生きている者を脅かしてくる。

    スカーレットウィッチもまた苦しむ者である。アメリカチャベスの力によって悪のスカーレットウィッチと善のワンダが出会うことができたのも、ストレンジが苦しむ者の気持ちを理解したからであろう。闇に落ち世界を破壊する悪に対処できるのは、同じく闇に落ち苦しむ者の気持ちを知っている者だけである。

    全ての悪に打ち勝つ善は存在するのか?

    闇の力でスカーレットウィッチに打ち勝つことができたストレンジであるが『ダークホールド(闇)』の対極にある『ヴィシャンティの書(光)』が戦いに使用されることはなかった。それは何故なのか。

    光の力というものは『目には見えないもの』。だからヴィシャンティの書は精神世界にしか存在しない。つまり現実にはそんな都合の良いものは存在しないのである。

    冒頭でクリスティーンの結婚式に参列するシーンがあった。同僚がサノスの事件について、あの選択は正しかったのか?と問う。ストレンジは躊躇なく「その選択は正しかった」と答えるが「けれどクリスティーンを妻にできなかった」と痛いところを突かれる。

    現実世界のストレンジはクリスティーンを妻にすることはできなかった。けれどスカーレットウィッチとの対決において、違う世界線のクリスティーンがそばにいて協力してくれた。クリスティーンもワンダと同じく、女の善の側面として登場しているのである。

    アース838(精神世界)のクリスティーンは『目に見えない善』としての存在であり、ストレンジが自身の精神の中に『目に見えない光』が存在していることを見つけるのが今回の物語の終着点である。

    そしてスカーレットウィッチとして覚醒したワンダが、自分自身の中に存在する光(母であるワンダ)を認識することも、ワンダの物語の終着点となっている。

    目に見えないもの(光)を見つける旅

    光(善)というものは、現実世界には目に見えるように存在していない。精神の中に宿っていて、手でつかむことができない幻想のようなものである。ストレンジもワンダも『死』という経験を通し、自分自身の中に光(善)が存在するということを確実に認識できたということである。

    現実世界のストレンジがクリスティーン(善)を妻にすることはないが、精神世界に存在する目に見えない善(全ての世界線のクリスティーン)を愛している。あのセリフがそれを物語っている。


    ちょっと訂正をしたく、追記。わたしはストレンジが至高の魔術師(ソーサラー・スプリーム)になっているのだと思い込んでいたのだけど、これまでのMCU作品の中で、ストレンジが至高の魔術師であるということは特に言及されていないらしい。

    今回の記事は『ストレンジは至高の魔術師である』という前提で書いていたけど、ストレンジが至高の魔術師であるかどうかはよくわからないです!という訂正でした。

    今回「MoM」の中ではウォンが至高の魔術師であることが明かされていた。既にこの世を去ったエンシェントワンは至高の魔術師であり、その後を継いだのがウォンなのであろうか?

    額に3つ目の目が現れたストレンジは「至高の魔術師」を超えた存在であるとわたしは考えている。「至高」であることを捨てた先にあるものがそれなのではないだろうか。今後の展開が楽しみです。(2022/7/8)


    「MoM」から学ぶ女性性まとめ

    現実世界と精神世界がどちらも幻想だと知っている。そんな虚しさ故に、現実世界を自分の思い通りにしようとする。幻想の世界(現実と精神)に光(善)があることを認めるまで破壊を続ける存在。本質的には世界(子ども)を愛している。破壊(悪)と再生(善)を同時に行う二面性を持っているのが女性性である。

    あらゆる物を育てる偉大な母のイメージで、女性の成長の究極的な目標だとされています。

    ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

    女性の成長目標は、自分自身が善と悪の二面性を持っていること(グレートマザーであること)を理解することである。

    「MoM」から学ぶ男性性まとめ

    現実世界は現実、精神世界は幻想としっかり境界線を引いている。精神世界(幻想)を信用していない節がある。精神世界において、死が自分自身の選択の結果であることを理解し、光(善)の存在を見つけるまで破壊を続ける存在。生と死を分けて考え、現実世界でも精神世界でも変わらない自分自身を貫く強い意志を持っているのが男性性である。

    女性だけでなく、グレートマザーのイメージは男性にも重要な意味を持ちます。すなわち、母の影響力から逃れること、自立、精神的乳離れの際に、このグレートマザーと対決しなければならないと。

    ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

    男性の成長目標は、母(死)からの自立。死との対決の中で、母(死)の持つ善を受け取り、自己を確立することである。

    物語から学ぶ自己(わたし)

    1と2と3

    ワンダは二面性を持つ女性性、ストレンジは不動の男性性。男性性は『1』という数字で表すことができるし、女性性は『2』という数字で表すことができる。

    そして『3』という数字は、心の中に女性性も男性性も存在する、と理解できた「自己(わたし)」のことを表す。このような「自己(わたし)」の真の理解は、グレートマザーとの戦いに勝利したあとに訪れる。

    全ての物語は、人間の精神の成長方法を指南している。物語は時代を反映するものであるけれど、その時代の人間の精神状態に合わせられているとも言える。現代は「自己(わたし)」の真実を知るべき時代であり、そのような内容の作品が目立つことになるのかと思う。

    関連記事:自我と自己について

    自己(わたし)を真に理解すること

    「真の自己」の理解について重要なことは以下の2点である。

    1. 男性性(1/目に見えるもの)の中に女性性(2/目に見えないもの)が存在すること
    2. 自己とは3人であること

    一つ目の『 男性性(1/目に見えるもの)の中に女性性(2/目に見えないもの)が存在すること』は、今回の記事で説明できたことであるし、以前シン・エヴァンゲリオンの考察で説明したことでもある。

    人間は誰もが男性性として生きている。けれど、心という目に見えないものは女性性である。人間というものは、肉体は男性性、魂は女性性で成り立っている。

    関連記事:自己は男性性、他者は女性性

    二つ目の『自己とは3人であること』については、とても単純な計算。人間は男性性(肉体)として生きているけれど、性別としては(遺伝子的には)男性性か女性性どちらかをとるので1人分。けれど心という女性性には男性性と女性性が含まれているから2人分。肉体(1人)+魂(2人)=自己(3人)なのである。

    今回「MoM」には現実世界のストレンジ、ディフェンダーストレンジ、シニスターストレンジと3人のストレンジが登場した。「スパイーダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」でも3人のスパイダーマンが世界線を超えて集結している。

    どちらの作品も3人が象徴的であった。自己の理解とは、自分は3人居るということを理解することであり、それには3人分の経験が必要であるということ。人間は一度の人生の中で、自分の生まれ持った性別(男性か女性か)・心の中に存在する男性性と女性性、計3人分の経験をすることができるはずなのだ。

    関連記事:映画「TENET」の中で象徴的な3人

    自己(3人)を理解するための戦いについて

    前述した、女性・男性それぞれの成長目標。女性はグレードマザーであることを受け入れること、男性はグレートマザーから自立すること。その目標が達成された暁には「自己」が理解できるようになるはずだ。

    男女共に、グレートマザーとの戦いに勝利したあと「真の自己」の理解が訪れるということである。そして、話が飛ぶように思えるが、その戦いに勝利するためには全ての罪を被る覚悟がいる。

    「MoM」の中で、罪とは『闇の魔術書ダークホールド』として表現されていた。ダークホールドを手にしたのはワンダとストレンジだけである。彼と彼女は大きな代償(罪を被ること)と引き換えに「真の自己」を理解する資格を手に入れた。

    ワンダは「MoM」の物語の中で悪役としての役割を持っていたし、ストレンジは「MoM」という物語の中で主人公として活躍しながらも、物語の中に存在する精神世界(別の世界戦)では悪役になっていた。

    余談ではあるが、「真の自己」を理解する為に物語を読み解くには、このような入れ子状態(物語の中にある物語)を把握する必要がある。把握には境界線を意識すること(強い分別判断)が必要で、男性性の仕事である。

    話を戻すと、「真の自己」を理解するには悪役になる必要があるということ。「真の自己」に到達していない人の目には「悪いことをする人」は単なる悪として映るが、「真の自己」に到達すると悪の全てが明らかになるだろう。

    『悪い奴は許さない』という単純な思考だけを持っているのだとしたら、「真の自己」からは程遠い。けれど『悪い奴は許さない』という思考を持ち続けることも「真の自己」なのである。この矛盾に納得し、悪役になる覚悟を持てた人だけが「真の自己」を理解することになる。

    自己を理解したあと訪れる新世界

    ストレンジには、ダークホールドの代償として、3つめの目が額に現れていた。これは人間が進化した末、神のような存在になるということを表現している。人間が3人分の経験を終えるとき、神のような存在に変わる。というか、そもそも神であったことを真に理解するのである。

    神に変化すれば、目に見えるものも新しい世界へと変化する。今までは世界線を移動するのにも必死であったけど、神の領域では宇宙そのものを変化させるような力を手にいれていることだろう。

    新世界と新人類

    「MoM」はサム・ライミ監督らしいホラー要素が満載だったんだけど、個人的に一番怖かったのはアメリカチャベスのセリフだった。『夢を見ない』『他の世界線に自分がいない』など、新人類のメタファーすぎてゾッとした。

    新人類は生まれた時から他の世界線というものを認識し、移動することもできる。なのにそれをコントロールできない。そういった新人類を導いてあげることができるのは、ストレンジのような人だけなのだと思う。新世界に適応する新人類は既に生まれているのであるが、旧社会からの以降中には結構苦労するはずだ。

    グレートマザーという恐怖

    人間の終着点

    ユングの提唱した元型(アーキタイプ)にはいろいろあるけれど、全てはグレートマザーに集約することができるのではないか、と今回「MoM」を見て感じた。

    精神が成長する過程の最終段階では、誰もがグレートマザー(原点)に出会う。グレートマザーに向き合うと決めた時、真の人間の姿を目撃することになるだろう。恐ろしいものを見る覚悟はできているだろうか?

    両性具有の女

    「MoM」の中で貞子のような姿をしたスカーレットウィッチがテレビから這い出てきたシーンがあった。日本で大ヒットした「リング」に登場する貞子の性別は「半陰陽」と呼ばれるものである。貞子は、遺伝子的には男性であるのに外見などが女性の形をとるアンドロゲン不応症という病気なのだ。貞子もまた、スカーレットウィッチと同じく二面性を持つグレートマザーと言える。

    山村貞子が生きる世界は、実は現実世界の様々なシミュレーションを行うために、巨大なコンピュータ内に現実と同じ条件をプログラムして作られた、「ループ」と呼ばれる仮想の地球であり、貞子、浅川や高山ら登場する人物はコンピュータ上に生きる人間のプログラムとして登場する。この設定は『リング』『らせん』では明らかにされておらず、原作最終巻『ループ』にて初めて読者に明かされた。

    山村貞子(wikipedia)

    引用のように貞子はビデオテープの中に存在する呪いであり、仮想現実に生きていた。そして、ワンダ(スカーレットウィッチ)はヘックスという仮想現実を創造する魔女であった。

    ヘックスという仮想現実

    「ワンダヴィジョン」においてワンダが創り上げた「ヘックス」。ヘックス内で起きているワンダとヴィジョンの日常は、シットコムとして外側にいる人々に向けてテレビ放送されていた。ところで「ヘックス(hex)」をwikipediaで調べると、このような一覧が出てくる。

    ヘックスには六角形とか16進数とか魔女とかいう意味がある。ドイツ語で魔女は「Hexe」、英語では「呪い」という意味もあるみたいだ。ここで注目したいのは16進数という意味。

    16進数がどういったところに使われるのかというと、コンピューターの世界である。コンピューターは0と1(2進法)で全てが処理される。しかし0と1の表現は読み取りずらいもの。そこで、人間にわかりやすいものにする為に16進数が利用されている。

    ただし人間にとっては、2進数は扱いにくいものです。大きな数を表記しようとすると桁数が多くなります。例えば10進数の9を2進数で表すと、1001と4桁が必要になります。そこで登場するのが16進数です。

    なぜ10進数を飛び越して16進数なのかというと、2進数⇔16進数の変換が簡単だからです。

    日経クロステック

    ワンダは魔力で超リアルな現実を創り上げて人々を操っていたが、その仮想現実がヘックスと名付けられていた意味とは。

    本当の現実世界とは

    UOZAブログではわたし達の生きているこの世界が仮想現実であることについてなんとなく言及している。この現実世界は、人間に理解しやすいよう、そして真実が明るみにならないよう、精巧に創られている。人間の目には16進数(ヘックス)として見えているだけである。

    けれどこの世界の原型は0と1という2進数である。白黒の平坦で無機質なデータが、様々な色や形で表現される世界へと変換されている。そしてグレートマザーという二重性(0と1)を持つ女が、この目に見える世界を産み出している。

    人間の肉体は男性性で、心(魂)は女性性である、ということは既に話した。つまり、この世界の原型は二面性(二重性)を持った「心」であるということ。「心」が目に見えている現実世界を創造しているのであるが、「心」は『0か1を選択する単純な働き』をするものである。

    コンピューターにはマザーボードという部品があるけれど、全ての部品の中心となりそれらを繋ぐものである。部品単体でコンピューターが成り立つことはない。同じようにグレートマザーが存在しなければ、この世界も存在することはない。

    一度知ったら後には戻れない

    グレートマザー(心/魂)の真実を知ること。それはこの世界の全ての仕組みを知ること。けれど、知らない方が幸せなこともある。真実など知らないまま、与えられた仕事をこなし日常を送ること。それが「人間の幸せ」であると信じる方がずっと生きやすい。

    この世界の真実に向き合う覚悟がないのならば、今すぐこのブログを読むのをやめた方がいい。もちろん、このブログをただのエンタメとして楽しむのもいいけれど、言葉が一度でも頭に入ったらそれを消去するのは難しい。

  • バラバラ殺人事件と生と死の秘密

    バラバラ殺人事件と生と死の秘密

    人間は人間を殺したあと、肉体をバラバラにすることがある。わざわざ遺体をバラバラにする動機とは何なのか?その理由を考えるきっかけが訪れたので記事にすることにした。バラバラ殺人事件を入り口として「神」の正体、「生と死」の秘密まで話を広げていきたい。

    とある新興宗教とバラバラ殺人事件

    スマホでニュースチェックすることがわたしの日課になっている。各種snsはもちろん、google discoverも必ずみる。googleに情報収集されたわたしの志向傾向によって記事を表示してくれるのでありがたい。

    そのdiscoverの記事一覧の中に、とある宗教の公式サイトが表示されているのが目に止まった。わたしの志向傾向らしいチョイスだ。その時のスクショです。

    screenshot-nezu

    大山ねずの命神示教会。聞いたことのない宗教だったのでついつい調べてしまった。wikipediaを見ると藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件という物騒な事件へのリンクがあった。この宗教に入信していた人物が起こした事件であった。

    1987年に、当時は脱会していた元信者が藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件を起こしている。

    大山ねずの命神示教会(wikipedia)

    そんなバラバラ殺人事件の概要がこちらです。閲覧注意かもしれない。

    1987年2月25日の夜、通報を受けた藤沢北警察署の警察官らが神奈川県藤沢市亀井野のアパートの一室に踏み込むと、室内ではカセットテープレコーダーから流れる音楽を聴きながら、2人の男女が男性の遺体を一心不乱に解体していた。署員らが声をかけても、遺体の解体作業を止めようとせず、「悪魔払いをしている」とうわごとのように繰り返すだけであった。

    遺体は頭、胴体、足が切断され、骨から肉を刃物で削ぎ落とされ、細かな肉片が台所の水場から流されていた。大部分の肉が削ぎ落とされた遺体は、女(当時27歳)の夫であり、男(当時39歳)の従弟であるZ(当時32歳)だった。妻と従兄はその場で死体損壊容疑で逮捕。

    音楽はメジャーデビューを果たしたバンドSのリーダーであるZが作ったもので、通報したのはZと連絡が取れなくなったバンド仲間およびZの家族であった。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

    犯人は脱会した後事件を起こしているが、大山ねずの命神示教会がこのような事件を引き起こすような教えかというと、そんなことはないようだ。怪しいと言えば怪しいが、新興宗教など大体が怪しげに思われてしまうもの。

    特定の宗教のせいでこのような悲惨な事件が起きたのか?それとも、宗教に入るような人は精神的におかしくなってしまうことがあるのか?そもそも人間は何故、遺体をバラバラにしようと思い立つのか。

    宗教と神

    人間は「神」がこの世界の真実を隠していることを、無意識にでも知っている。「神」という存在は非現実的でつかみどころのないものであるが、実際に存在している。わたしたちが「神」と呼ぶ存在が、ある目的を持って創り出したものがこの現実世界なのだ。

    その証明はまだできていないけれど、これはわたしの知った紛れもない事実である。今回の話はそんな前提の上で書いているのをご了承いただきたい。というか、このブログはその前提の上でしか書いていないのでよろしくお願いします。

    話を戻す。そんな「神」はこの世界の事を全て把握している。人間の個人的な事柄についてから宇宙の謎まで、小さなことから大きなことまで全てについての答えを持っている。人間はとにかくこの世界の全てを理解したい生き物だから、「神」から答えを得るためにも宗教に入る。

    「神」という存在が全ての答えを持っている事を、信者たちは理解している。この世界の真実を知りたいからこそ、神に寄り添い、神に助けを求め、神を崇める。宗教にはまりやすい人は「答え」を強く求める人であるとも言える。

    神が見せるもの

    宗教によって「神」の表現方法は様々。イエスキリストという過去の人物であったり、生きている教祖の中に「神」を見たり。その「神々」が本物ではなくても「神」と対話したい人間は必死に信じる。

    どんな「神」であれ「神」を信じることは危険なことであったりする。「神」を信じる力が強い人には、「神」は真実を見せることがあるから。

    死者の復活、永遠の命などは哲学でも宗教でも主題になるものである。人間は死んだ後どうなるのか?魂のようなものは本当に存在しているのか?生と死にまつわる疑問は人間につきまとうものだが、それら真実を教えてくれるのも「神」だけなのだ。今回は、わたしが知ることができた、生と死の秘密について公開したいと思う。

    3つの真実

    1. 自己は死後生き返る
    2. 生き返る時、自己は神によってバラバラにされる
    3. 悪魔を祓うことができれば神になれる

    神は全てを知っているが、この3つは神が教える「真実」の中でも「神」を強く信じる人しか見せてもらえないものである。これらが生と死の重大な秘密であるが、意味の捉え方によっては危険なものになる。

    1、自己は死後生き返る。この秘密は様々な宗教で既に語られている輪廻転生のことであるから、そこまで驚くことでもないのかもしれない。

    2、生き返る時、自己は神によってバラバラにされる。この秘密を知ってしまった人はバラバラにされることを恐れる。それから『もしも自分が神になったらバラバラにする側だ』ということに気がつくかもしれない。

    3、悪魔を祓うことができれば神になれる。さらにこの秘密を知り、神になることを望むのならば、悪魔との戦いが待っている。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件では、犯人が遺体をバラバラにしながら「悪魔祓いをしている」と言っている。この事件の犯人は「神」から秘密を教えてもらったのであろう。だからこそ、バラバラにされることへの恐怖があり、「悪魔祓い」をして神になろうとする傲慢さもあった。

    自分がバラバラにされることを恐れているから、神の側になろうとした。神になろうとして、悪魔祓いと称し他者の「肉体」をバラバラにしてしまった。これがこのバラバラ殺人事件の真相である、とわたしは考えている。

    何故バラバラにされることを恐れるのか。その理由を考えるためにも、生と死に関する3つの真実について詳細に解説していく。

    生と死の秘密と神の正体

    1.自己は死後生き返る

    輪廻転生するわたしたち

    私たちは死んだ後、また別の人物となってこの現実世界に産まれてくる。生と死を永遠と繰り返すのが輪廻転生と言われるもの。「自己は死後生き返る」という真実の中で重要なのは自己の定義である。自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。生まれ変わり、また別の人物になったとしても『自分が存在している』と感じるはずである。

    関連記事 自己と自我について

    自己とは自分視点(一人称視点)

    「自己」は「自分視点」とも言える。現実を生きるわたしたちにとって「自分視点」は当たり前のことであるけれど、「自分(わたし)」という感覚は自分視点だからこそ生まれるもの。

    輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じること。何度生まれ変わっても『わたしという自分視点』は変わらない。それが『自己は死後生き返る』の意味。

    死後、前回の肉体と人格は消滅し、経験した記憶も全て消去される。再生時、新たな肉体と真っ白な記憶媒体が「自己」にセットされる感じ。「自己」は永遠なのである。

    2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

    死ぬ瞬間に起きること

    生き返る瞬間「自己」は神によってバラバラにされるが、これが具体的にどういった意味なのかは、まず死ぬ瞬間に起きることを説明しなければならない。死んだ瞬間「自己」は「神」という存在に吸収される。吸収された時「自己」はこの世から消滅する。

    「神」というのは「宇宙サイズの人間」のようなもので、吸収されるとは、その中に取り込まれる感じ。そういうイメージ、そういう雰囲気的な感じで受け止めてほしい。「神」とは実体があるようでないものなので、イメージや雰囲気でしか伝えることができない。

    自己とは世界を認識するもの

    「自己」とは『世界を認識するもの』でもある。「神」に吸収された時、世界を認識している「自己」が消滅するのだから、同時にその他全ての存在(他者とか動物とか植物とか、宇宙に存在する物質全て)も消滅することになる。つまりは、認識しているものも消滅するということ。

    バラバラの自己

    「神」とは「大きな自己」みたいなものなのである。「神」に吸収されるのは自分以外の「自己」も含まれている。それは他者の「自己」。自分と他者の「自己」は死んだ瞬間に吸収され「大きな自己(神)」になり、その後またそれぞれがバラバラの「自己」となって再生するのだ。

    このブログを書いている「わたし」も、このブログを読んでくれている「あなた」も一度は「神」に吸収され、そこからまたバラバラに分かれた「自己たち」なのである。

    神という超強い自己

    「神」とは「大きな自己」と言ったけれど、つまりは「神」も『わたしが存在する』と感じているということ。けれど、その感覚はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強いもの。「神」は「超強い自己」そのものであると言える。神にも認識が存在するのである。

    死後「自己」は「神」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超強い自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超強い自己」から再び、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超強い自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されることなのだ。

    人間視点と神視点

    「自己」は自分視点によって、世界を認識している。しかし「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから、自分視点に固定されることがない。「神」も『わたしが存在している』と感じているのに、それは矛盾しているように思えるかもしれない。

    「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。一つの大きな自己で、それら存在全ての視点を同時に体験しているのである。陰謀論でお馴染みのプロビデンスの目はこの『全視点を同時に認識する能力』を表しているものだろう。

    人間は自分視点であるが故に自分とその他存在を分別しているが、「神」は全視点を同時に認識しているからこそ分別ができない。「自己」という自分視点しか持たない人間が、同時に全存在の視点を認識することはできないし、その感覚を理解することも難しい。人間と神との決定的な違いとは『視点の違い・認識の違い』であると言える。

    ワンネス体験の本当のところ

    スピリチュアル用語に「ワンネス」という言葉があるが、まさに「神の視点・神の認識」を表している。「統合」などと言ったりもするかも。世間には、生きている間に『ワンネス体験』する人が存在する。リンクから確認してもらえれば体験談が読めると思う。

    「ワンネス体験」は様々な感覚を引き起こす。愛や平和を感じたり、静寂を感じたり、宇宙との繋がりを感じたり。それら体験全ては、実際のところ「超強い自己」を感じている状態。人間は生きている時にも「神の認識」を体験することができるのである。

    前述したような感覚の他に『世界を完全に理解した』という感覚が起きる事もある。しかし、「自己(人間)」に戻った時、その理解した詳しい内容を憶えておくのは難しい。自分視点しかない人間にとっては情報量が多過ぎるのだ。

    わたしがこのブログで定義する「悟り」というやつは、この「超強い自己」をちょっぴり体験するもの。つまり「ワンネス」というやつ。わたしの「悟り」体験や「神の視点」に観察されていた体験については関連記事もどうぞ。

    関連記事 悟りの定義

    関連記事 神に監視されていた体験

    3.悪魔を祓うことができれば神になれる

    「超自己」体験後の感情

    ともかく、人間は死ぬ瞬間(稀に生きている時にも)に「超自己」という神の認識を体験する。しかし、死後すぐさま再生が起きてしまうので、その体験も一瞬で終了する。そしてまたわたしたちが普段体験しているような「自己」へとバラバラにされてしまう。

    「超自己」体験後のポジティブな感情が、愛や平和を感じる「ワンネス」であるのかもしれない。しかし「超自己」体験後にネガティブな感情になることだってある。

    「超自己」へのネガティブな反応

    「超自己」を体験した後、「自己(人間)」という現実に引き戻され絶望することがある。「超自己体験」は自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。わたしたちは人間であるとき、自分の存在意義について、真剣に悩むことがある。

    自分の存在意義について悩み、苦しむことがある「自己(人間)」にとって「超自己」は大きな救いとなる。自己である状態の人間が「超自己体験」を思い出したとき、自分という存在が全肯定されたことも思い出す。

    「超自己」体験に分別は無い

    「超自己」とは、自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。と言ったけれど、本来「超自己体験」に肯定(善)・否定(悪)の分別はない。「超自己」は神の認識なのだから分別できないもの。

    わたしの個人的な感想になるが、「超自己」を体験しているときの感覚は何とも言えないものだった。全存在の調和を感じているだけで、そこに感情はない。「壮大な美」を只々認識しているという感じ。

    そんな分別のない「超自己体験」を思い出した時、感情があるからこそ善や悪の判断をするのが人間なのである。「自己」に引き戻され絶望することがあるのは、人間を悩ます感情が存在しない「超自己」を体験したから、とも言えるのかもしれない。

    「超自己」という天国

    「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうことは人間らしい反応であると思う。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる本当の理由は、一度は「超自己」を体験したことがあるから。永遠に「神の認識」に留まることができたのならば、そこはまさしく天国だろう。

    永遠の命を願うこと

    『永遠の命を持つ存在』という「神」のイメージがある。「死(バラバラになること)」に恐怖しているのならば、「神の認識」を持ったまま永遠に命が続く事を願うのかもしれない。3つ目の真実とは神になる方法である。悪魔を祓うことができれば神になれるのだ。

    悪魔を祓ったら「神」になれるのかというと、確かに「神」にはなれると言っておく。「超自己」という「神の認識」が永遠に続くことはあるのか?というと、それは、あるとも言えるし、ないとも言える。「神」になることについては、この記事の結論で。

    苦しみからの逃避

    神になれるということを知り「悪魔祓い」を実行しようとする人間は、苦しんでいる。でも実際のところ、どんな苦しみであってもそれを感じるのは「自己」のみであるから、苦しみの重さを他者が測ることはできない。比べられるものではないのだから、どんな苦しみの重さも同じ。

    けれども神になるために「悪魔祓い」を実行してしまう人々の苦しみは「重い」とも言っておきたい。彼らにとって、最後の救いは「神」だけになっている状態である。

    苦しむ人々は「神」に執着する

    「超自己」に対するポジティブな感情(光)ネガティブな感情(闇)はどちらも人間を魅了するもの。「ワンネス体験」をした後、人生がポジティブに変化した人も多いかと思う。それは素晴らしいことのようにも思える。

    しかし「超自己」を体験した後、世界が愛に包まれているようなポジティブな感情がずっと続いているとしたらポジティブな感情(光)に囚われ過ぎている。

    また、「超自己」を体験した後、再び「自己」に戻ることに憎しみを抱くようなネガティブな感情がずっと続いているとしたらネガティブな感情(闇)に囚われ過ぎている。

    脳を乗っ取られたように光や闇に囚われてしまうのは「神」に執着しているから。再び「自己」に戻ることを強く恐れているからこそ、執着してしまうのである。苦しむ人々は「超自己(神)」にしか救いがない、という思考から逃れられない。

    悪魔との戦い

    「神」への執着がエスカレートすると、「神」になろうと考えることがある。その考えを実行に移そうとすると試練が始まる。人間が「神」になることを求めたとき、悪魔の存在を強く感じ、実際に悪魔と対峙することになる。

    やがて藤沢市の事件現場となるアパートに部屋を借りた従兄が、Z夫婦のところに現れる。「自分に神が降りた。この世は悪魔だらけ。悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはおまえしかいない」と従兄にこう言われたZは本気で「救世の曲」の作曲に取り掛かる(3人がかつて入信した新宗教にはこうした教義は一切ない)。

    藤沢のアパートで「救世の曲」の製作が開始されて1週間ほど経過して、Zが「魔に憑かれてしまった」と言い出した。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件の犯人は「この世は悪魔だらけ」と言い、悪魔祓いを実行しようとした。その後、バラバラにされた被害者(Z) 自身も「悪魔に取り憑かれた」と言い出したようだ。本気で「神」になろうと考えると、悪魔と対峙するような状況が現実世界にしっかりと用意されてしまう。

    悪魔の誘惑

    「神」になろうとするとき、神のような存在が語りかけてくる。神のような存在は「永遠の命」を与える機会を用意してくれる。そして、神のような存在は「死」を遂行するよう命令してくる。この神のような存在こそが悪魔である。

    神の言う通りにすれば「永遠の命」を受け取ることができる、と信じてしまうのが苦しみから逃れたい人々。「超自己」が永遠に続く「永遠の命」が欲しいがために、間違いを犯してしまう。自分自身も神になれると信じてしまうのである。

    他者の中に「悪魔」を見出し、その「悪魔(他者)」を殺すことによって「死」を遂行してしまったのが、バラバラ殺人事件の犯人なのではないだろうか。

    釈迦VS悪魔

    仏教には、お釈迦様が悪魔と対峙したお話が存在する。原始仏教の経典「スッタニパータ」の第三章に描かれている。わかりやすく書かれているものを見つけたので引用させていただく。

    釈尊悟りの瞬間を伝える物語は、釈尊と魔(ナムチ、マーラ)との対決として描かれています。悟りへの最後の瞑想に励む釈尊の前に、成道を阻むべく魔が現れます。そして、長きに渡る修行の中で痩せてしまった釈尊に、いたわりのことばを掛けてきます。

    あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたに死が近づいている。…君よ、生きなさい。生きた方がいい。生きてこそ、幸福をもたらす功徳を積むことができるのだ。 

    仏典に登場する「魔」は、わたしたちの心の奥底に潜む欲望の根源の喩えです。この一節に見られるように、魔の攻撃、つまり欲望の表れは、食欲や色欲、金銭欲などだけではありません。いたわりや理屈をもって邪魔をしてきます。その魔に対して、釈尊は次のように答えます。

    私には確信があり、さらに勇気があり知恵がある。

    「勇気」 『スッタニパータ−釈尊のことば−』より

    このように、瞑想しているゴータマさんの前に悪魔が現れ「生きた方がいい」と声をかけてきた。悪魔は「死」が近づいていることを知らせながら、生きていることの価値を強調している。この悪魔も、やはり「永遠の命」への執着心を試しているのである。

    しかしながら、先ほどとは逆で「生」を遂行せよとの命令なのである。悪魔は、ゴータマブッダに『生き続けてこそ善行が積める』と言う。しかし、さすがはゴータマさん「私には確信があり、さらに知恵がある。」と悪魔の誘惑をキッパリと断った。

    善なる存在からの誘惑

    バラバラ殺人事件のような「死」への誘惑ではなく、「生」への誘惑については、善なる存在が頭の中に語りかけてくることが多い。しかしこのスッタニパータのお話の中では「生」への誘惑をしてくるものが悪魔の姿として描かれているのがすごいところ。

    善なる存在は光や天使のような姿として人間の目に映ることが多いのであるが、その実態は悪魔である。ポジティブな感情に囚われる人が善なる存在に誘惑されたら、本物の「神」に出会ったと感じてしまうことだろう。

    そのまま「生」への誘惑を受け入れてしまったら「永遠の命」が手に入ったことを喜ぶだろう。「神」になったような気分になり、達観したような心持ちも続く。現実に「死」が訪れるまで、何かしらの「高次的存在」に囚われ続けるのかもしれない。

    闇と光に勝利すること

    ネガティブな感情に囚われる人には「死を遂行せよ」との誘惑、ポジティブな感情に囚われる人には「生を遂行せよ」との誘惑がある。ゴータマさんは既に「死(闇)」を恐れることなく認めているから、さらに「生(光)」への誘惑があった。

    ゴータマさんは、闇と光どちらの誘惑にも勝利したから解脱できた。『悪魔を祓う』というのは、自分の内に存在する悪魔を祓うこと。内に存在する悪魔とは、闇と光に執着するものである。執着するもの(悪魔)は死への恐怖から産まれるもの。

    「神」になろうと考えたときに現れる悪魔には、闇の姿と光の姿がある。それを正しく見破ることができれば、「神」の本当の姿を知ることになる。

    3つの真実のまとめ

    話が長くなってしまったので、最後に要点をまとめておくことにする。

    1.自己は死後生き返る

    自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。人間は何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じる。自己とは、自分視点でもあり、世界を認識するものでもある。

    2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

    神にも自己があり、神にも認識が存在する。神の「自己」はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強い感覚。「神」とは「超強い自己」であると言える。つまり、人間が「自己」であり「神」とは「超自己」である。

    死後「自己(人間)」は「超自己(神)」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超自己」から再びバラバラにされ、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されること。

    「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。「自己」は自分視点によってしか世界を認識できないが、「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから自分視点に固定されることがない。

    3.悪魔を祓うことができれば神になれる

    「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうのが、弱い心を持った人間である。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる理由でもある。

    苦しむ人々は「超自己」が永遠に続くことを求め、神になろうとする。神への試練は、悪魔と対峙すること。闇に魅了される人の前には闇の姿として、光に魅了される人の前には光の姿として現れる。

    「死」への誘惑、「生」への誘惑、「永遠の命(神)」への執着を乗り越えることができれば、解脱の境地が訪れる。

    自己たちの悲しみが他者を傷つける

    人間が人間を殺すこと、さらには遺体をバラバラに切り刻むこと。その動機は憎しみよりも、悲しみであると思う。全てが調和した完全な世界に住む神としての記憶を消去され、バラバラな自己たちとして再生する悲しみ。

    バラバラに散った自己たちの悲しみが、「悪魔」として人間の心に存在しているのだ。わたしたちは不完全であることを自覚しており、悲しみを隠しながら生きている。隠しきれなくなった悲しみは他者に向けられ、他者を傷つけてしまう。

    悲しみは誰しもが持っているもの。罪を犯す人々には隠された悲しみが存在している。罪を犯すものを許すことは、自分自身に隠された悲しみを癒す第一歩となる。

    永遠の命は今ここに存在する

    人間は「死」を恐れているからこそ、闇(死)と光(生)に魅了される。死を必要以上に恐れることはないし、生を必要以上に賛美する必要もない。生と死とは、ただそこに存在するもの。

    ゴータマさんが悪魔に対し『私には確信があり、さらに勇気があり、知恵がある。』と言った理由。ただそこに存在する、ありとあらゆる生と死こそ「永遠の命(神)」である証拠なのに、神に執着するのは知恵がないということ。死を乗り越える勇気をもち、既に生を全うしているという確信をもつことが大切だということ。

    正しく悪魔を祓うことができると、自分の内に神が居ることをはっきりと理解できる。だから、わざわざ神に成る必要なんてない。ただ、普通の人間として生きているだけで「永遠の命(神)」を体験しているのだ。そう、確かに感じられている日々こそが「解脱」という境地なのである。

    神がわたしたちをバラバラにする理由

    「自己」は自分視点であるが故に、分別をする。世界の中に悪魔を見出すことや、神に出会ったと感じてしまうことは、分別しているから。しかし「神の視点(超自己)」である時、悪魔や神など個別に認識することができない。全てが同一で全てが完全に調和している世界なのだから。

    人間が「神の視点(超自己)」を持つことは無い。だからこそ、この現実世界には調和も存在しない。悲しいことのように思えるが、神がわたしたちをそれぞれの「自己」としてバラバラにした意味がここにある。

    分別できるからこそ、「神」のことを考え「神」のことを認識できるのである。わたしたちは、生と死を通して「神の視点」を知ることができる。さらには、「神の視点」を記憶の中に留めておくことも可能だ。記憶の中にある「超自己」こそが本当の天国である。悪魔に打ち勝った人だけが認識できる、とてもささやかな天国。それは記憶の中で無限の力をもたらしてくれるものとなる。

    悪魔に取り憑かれ一心不乱に遺体をバラバラに切り刻むこと。バラバラであることが、神の与えてくれた天国だと理解しているからこその行為なのかもしれない。人は苦しめば苦しむほど天国を求めて行動する。間違った行動を防ぐには、執着から離れる強い心と、正しい知恵が必要である。

    神への記憶を取り戻せ

    「超自己」の記憶は目に見えないものであるが、目に見えるもの全てが「神」から分かれた存在だと、心から信じることができるもの。記憶を正しく構築し、自分自身をそう信じさせることが「解脱」への道でもある。

    けれども、人間には「知恵」があるから、その記憶に整合性がないと心から信じることができない。しかし、頭の中で点と点を繋げ「神」に還るまでの美しい道筋を立てることができるのも「知恵」があるから。

    「知恵」によって分別し「知恵」によって記憶を正しく導くことができるはずの人間。人類に知恵の実を与えたのは蛇(悪魔)であるが、それは「神」に到達する為に必要不可欠なものだったのだ。

    知恵は成熟し、科学技術を進歩させている人類。死の恐怖に抗う為に、永遠の命に手を伸ばそうとしているわたしたち。誰もが神になろうと必死である。自己たちが悪魔に対峙する試練が既に始まっているのを感じる。

    人類は現実世界で「神」になることができる力を持っている。実際に「神」になれるのは悪魔に打ち勝ってからのお話。バッドエンドとトゥルーエンド二種類しか無いのだけれど、人によってはハッピーエンドを足した3種類のエンドに見えるかも。トゥルーエンドを目指したいですね。

    関連記事 よーさん予言についてその1よーさん予言についてその2よーさんの予言についてその3

  • よーさんの「妄想かいてくよー」の解説をする その3

    よーさんの「妄想かいてくよー」の解説をする その3

    2chに現れた「よーさんの予言」を解説する記事その3です。よーさんの妄想・よーさんの予言という検索ワードでこのブログを訪れる人がここ何ヶ月かで増えている。なんだか盛り上がってきた。

    その1その2と解説してきたけれど、その1は訂正を入れてしまい読みにくく、その2は親切な解説ではなかったかも、、、という感じがしたので、改めてまとめてみたい。

    今回の記事では『よーさんは結局何を伝えたかったのか?』というところを、明らかにしていきたい。

    もうひとつ、よーさんの予言から解ることは『今後、現実世界で何が起こるのか?』ということ。それについては、この記事やこのブログを更新しながら少しずつ詳細を書いていこうかな、と思っている。

    結局、よーさんが言いたいこと とは

    自分と他者は違うということ

    ということで、結局よーさんが何を言いたかったのか、なるべく簡潔にまとめてみたい。サクッと知りたい人はこの章だけ読めばいいかも。

    ずばり、よーさんが言いたいことはこれです。『自分と他者には違いがある。』ということ。すごく当たり前のこと。

    よーさんの妄想の主題となっている「世界が三つに分かれていく話」は、この「違い」に気がついてしまった人間たちが起こすこと。

    私達は、昔、そんなに違いを意識していなかった。男と女の違い、日本人と外国人の違い。ありとあらゆる違い。

    違いがあることを意識していなかったし、違いは当たり前のことだったのに、なぜかすごく気になるようになってしまった。それが現代。

    現代人の悩みいろいろ

    「違い」を意識しはじめてしまった私たちは、個人的なところで言えば、例えばこんな感覚を持つ人が増えているのかもしれない。

    他の人と自分はなんだか違う、周りと馴染めない、違う考えを持つ人に違和感を感じる、など。もしくは、他の人とは違う自分を表現したい、今までとは違う自分を探したい、など。

    自分と他者との「違い」を強く感じるからこそ、疎外感や孤独感を感じる。自分と他者との「違い」を強く感じるから、自分の個性を主張したくなる。

    もっと深く、個人的なことから世界について考える人は、こんな問いを持つのかもしれない。男と女の役割の違いとは?貧しい人と富んだ人が何故存在して、何故そのような格差が生まれるのか?とか。

    そんな問いから生まれた社会問題の議論が盛んである昨今。「違い」を感じ始めたからこそ生まれる悩みであり、悩みから行動を起こす人間。

    「違い」に気がつくことで、私たちの思考や行動が変わっている。「違い」が一度気になってしまったら、もう後には戻れない。

    差をつけること・差をつけないこと

    自分と他者を「比較している」から違いを感じる。自分と社会を「比較している」から社会の中に生きる自分の存在について考えてしまう。

    比較し始めると、高い・低いから始まり、優れている・劣っている、美しい・醜い、右寄り・左寄りなど、最終的には差をつけるのが人間である。比較をして差をつけることは「判断し(分別し)決める」こと。

    差をつけることに嫌悪感を持つ人もいるのかもしれない。差をつけない人間など存在しないけれど、差をつけないことは「判断せず(分別せず)決めない」ということになる。

    差をつけたあと、自分をどちらかに当てはめて苦しくなってしまったり、差のことや平等のことを考え過ぎるあまり、疲れて無気力になったり。判断すること、分別することに苦しんでいる人が増えているはずだ。

    逆に、差をなくそうと使命感を持ったり、違い(個性)を表現することを推し進めたりする人も増えているかも。

    わたしはひとり

    自分と他者(社会)の違いを意識し始め、自分と他者(社会)の差を感じた後、ふと、あることに気がつくことになるかもしれない。

    世界の中に「自分」は一人しか居ないという事実。自分と同じ人間は一人も存在していないという、当たり前のこと。

    親子関係、友達関係など、他者との繋がりはあるけれど、自分は独り。自分とは考え方も見た目もなにもかも違う他者。他者を意識し始めると、自分という存在を強く感じるようになる。

    自分の存在について深く考え始めると、完全に分かり合うことができる他者は存在しない、ということに気がついてしまう。だからこそ「孤独感」を感じるのである。そして、人間は誰しもが「孤独」に恐怖している。

    似たような考えを持つ人と繋がりを求めることや、自己表現することで他者とは違う自分に自信を持とうとすること。そうやって「孤独であることの恐怖」から目を逸らそうとするのが人間である。

    進化と孤独

    人類は進化してきたのであるが、その進化が一段落して、次の大きな進化に差し掛かろうとする時代には、各自「孤独」について深く考えることが定められている。

    「孤独」について深く考えることが、この後説明していく「三つの世界」が生まれる根本原因なのである。

    世界が分かれていく原因

    恐怖からの行動

    「孤独」に気がついてしまった人間は、恐怖から行動を起こす。これらは「孤独」に向き合った結果の行動であり、無意識的な行動であるかもしれない。

    その行動は大まかに分けて2つある。その行動とは。

    1つめの行動:自分と他者に違いがあることを主張して、違いをはっきりとさせる。そして、差のある世界を求める。その後とある決断をする。

    2つめの行動:自分と他者の違いを無くそうとしたり、全てを平等にしようとする。そして、差のない世界を求める。その後とある決断をしない

    人間はこのどちらかの行動を取る。そして、その後「とある決断」をするか・しないか、選択をすることになる。

    選択によって世界は分かれていく。この2つの選択がよーさんの言う「三つ巴の世界・三すくみの世界」のうちの2つの世界を創っていくのである。

    関連記事:内にある恐怖が世界を滅亡させる

    1の世界と2の世界

    2つの行動から、最終的にとある決断をするか・しないか、も決まる。そのとある決断が世界を決定的に分けていく。

    とある決断とは何なのか?そして、それぞれの世界に何が起きるのだろうか?

    1の世界:差のある世界を求める

    1つめの選択は、違いをはっきりとさせ、差のある世界を求めること。

    ほとんどの人がこちらの選択になるかと思う。差をつけるということは、区別したり分別したりすること。

    差のある世界を求める人の現実世界に何が起きるのかというと「人間の超進化」である。肉体を永遠に保つような技術開発に同意し、自らもその恩恵を受ける。永遠の命を持ちながら、人間を続けるという決断である。

    2の世界:差のない世界を求める

    2つめの選択は、違いを作らず差のない世界を求めること。

    差をつけないということは、区別したり分別しないということ。区別や分別するのが人間(動物)であるから、人間(動物)をやめるということである。

    差のない世界を求めない人の現実世界に何が起こるのかというと、「超進化」を選ばず死を選ぶことになるということ。進化という決断をしないから、自然な死を選び、人間を続けることを選ばない選択と言える。

    人間は必ず進化する

    地球に生まれた人間の未来というのは「超進化する未来」しかない。これまでも人間は進化を続けてきたのだから。

    予め決められた未来があり、そこに向かって生きているのが私たちである。単純にその未来に生きることを「選ぶか・選ばないか」という選択。

    私たちは未来を知っているけど、知らない。だから、未来に喜びを感じたり、恐怖を感じたりしている。

    関連記事:2つの時間の重なりが因果を生む

    決断が未来を変える

    進化するのか・進化しないのか、人間を続けるのか・続けないのか、生き続けるのか・死を選ぶのか。

    同じ世界の中にいるけど、決断が自分の未来を変える。だから世界を分けることができる。

    永遠に生き続ける未来を選べば、人間で在る自分(意識)を保ったままその先へ進める。そんな未来には興味が無く、普通に死ぬことを選ぶのならば、肉体は土へと還り地球を構成する要素に戻り、自分という意識は消える。

    「現実的な永遠の命」として滅びない肉体(魂)を手に入れるのか、「精神的な永遠の命」として自然のサイクル(魂)の中に還るのか。

    どちらの選択でも「永遠」を手に入れることができるのであるが「永遠」の定義も人それぞれ。永遠」についての考え方でも世界は分かれていく。

    差のある世界=超進化

    なぜ「決断する」ことが超進化の道になるのかというと、差のある世界でなければ進化することはないから。

    超進化の道についての詳しい話は、別の記事で書いていければと思う。

    3の世界とは

    決断するし・決断しない

    さて、三つ巴の世界のうち、もう一つの世界はどんなものなのか。ここまで解説してきた2種類の世界は、進化を決断する世界と、進化を決断しない世界。

    もう一つの世界は、進化を決断しながらも、進化を決断しない。矛盾する2つの選択を両方選ぶ。意味がわからないかもしれないけれど、それをできる人が「3の世界」へ行くはずだ。

    進化する未来を選ぶか、進化しない未来を選ぶか、どちらか選べないから流れに任せて決めるということではない。人間である限り、進化するか・しないかは、必ず選ばなくてはいけない。

    「3の世界」に行く人は、現実世界において、進化するか・しないか、強い意志を持って、どちらかを選び取ることになるだろう。

    恐怖に対する理解

    決断する世界(1の世界)、決断しない世界(2の世界)、これらの世界は「恐怖」のことを理解していない世界である。「3の世界」に行く予定の人々は「恐怖」のことを理解している。

    人間が「恐怖」に支配されている生き物であることを知っていて、「恐怖」を克服する方法を知っている。だからこそ「3の世界」がはっきりと見えてくる。

    青い鳥はいい話

    「3の世界」に行くのは難しい。何故なら「3の世界」は存在するし・存在しないから。

    よーさんは『青い鳥はいい話』と言っている。青い鳥も存在するし・存在しない。つまりそういうことなのである。

    これを腹の底から理解できると、よーさんの言っていることも全て解るようになってくると思う。

    選択とは自由なもの

    ということで、よーさんの言いたいことを簡潔にまとめてみたつもり。よーさんの話の出発点は、自分と他者との「違い」という、すごく当たり前のことなのであった。

    私たちは常に選択をしながら生きている。選択ができることは自由なこと。二択しかないことに不自由を感じるのならばワガママなのかも。

    しかし、二択であることこそが「本当の自由」であることに気が付き、全てを乗り越えた究極のワガママ人たちが「3つ目の世界」を現実に創り出すかもしれない…。これはわたしの妄想です。

    よーさんの妄想(発言)一覧を詳細解説

    ここからは、よーさんの予言(発言)一覧を引用しながら、詳細な解説をしていく。その1その2とかぶるところもあるけれど。

    結構な量があるので、気が向いたら追加更新していく感じにしたいと思います。

    よーさんまとめwikiサイトに、よーさんの予言したこと一覧(妄想まとめ)がわかりやすくまとまっている。そちらを参照させてもらっています。グレーの背景の文章が引用させてもらったまとめです。

    三つの世界・それぞれの意志

    三すくみ・三つ巴の世界

    この世界は一つの意志によって導かれていると言う人々が大勢いるけど、実は二つの意志がある/世界には一つと思い込んでて欲しい人々がいるけど、そろそろみんな二つだと分かってくる/すると、どっちが正しいか分からず困る人が大勢出てくる/でも実はこの世界は三すくみ、これすごく重要/この三すくみはどちらかと言うと成長した結果

    よーさんの予言で一番重要な「三すくみの世界」について。よーさんは三つ巴の世界とも呼んでいる。この三つの世界の話について、既にその1の記事で解説しているものを改めて。

    三すくみ・三つ巴の世界とは何なのか。今後3つの世界らしきものが現れ人間はその中のどこかに属するようになるということ。それぞれの世界をわたしのブログでは「1の世界」「2の世界」「3の世界」と呼ぶことにしている。

    三つの世界というのは、世界の見方によって、自分が所属する世界が変わるということ。現実世界において、いきなりはっきりと住む場所や生きる場所分かれるという感じではない。他の世界の人たちと心が離れていく感覚と言えるのかもしれない。

    そんな状態に少しずつ慣れていくと、遠い未来では現実世界でも、それぞれ住む場所が変わることが予想される。

    心が離れてしまうことによって別の世界の人と喧嘩したりすることもあるし、心が離れてしまったとしても仲良くすることはできる。きっと始めのうちはなんとなく離れた感覚をもつだけなのだけれど、だんだんはっきりとそれがわかるようになってくるはずだ。

    心が離れることなど、人間であれば普通のことだと考えるかもしれない。けれど、今までは心が離れることなく上手くやってきていた。

    既に、わたしたちには心が離れてしまう感覚が起き始めている。孤独を感じるのは、他者と心が離れ始めている状態。その感覚に抗うために「愛」に注目したり、コミュニケーションを強くしようとしたり必死なのかもしれない。

    1・2・3それぞれの世界

    1・2・3それぞれの世界は、考え方の違いを表している。自分たちの世界を導いているものについての考え方が、世界を分けていくとも言える。

    それぞれの世界の人々は「ある一つの意志」が世界を導いていると考えている。「ある一つの意志」はそれぞれ違うものである。

    それぞれの世界がどんなものなのか、前回の記事のものを少し修正してお届けしたい。

    1の世界について

    この世界は現実的な人たちのグループ。世界に存在する「悪」に注目しており、その「悪なる存在」が世界の基礎であると考えている人々。唯物論者、物質主義者、科学主義者などもこちらのグループに多い。目に見えるものを第一としている。人間の進化は科学によって行われるものだと感じている。現実世界で永遠の命を得る。

    2の世界について

    この世界は空想的な人たちのグループ。世界に存在する「善」に注目しており、その「善なる存在」が世界の基礎であると考えている人々。唯心論者、スピリチュアリスト、精神主義者などもこちらのグループに多い。目に見えないものを第一としている。人間の進化は精神世界の中で行われるものだと感じている。意識の中で永遠の命を得る。

    3の世界について

    この世界は現実的かつ空想的な人々。運命(サイクル)を知り、生と死の存在理由を知っている人々。世界に存在する「悪と善」に優劣をつけ・優劣をつけない。「悪と善」が世界の基礎であると考えている人々。永遠の命を得る。この世界に行くのはとても難しい。

    それぞれの1つの世界

    1と2と3の世界の中の強い人たちは、自分たちの生きやすい世界を創り上げるために「この世界は一つである」と言うのである。強い意志を持っていない人でも、人間はいずれこの3つのどれかに所属していくことが運命として決定されている。

    ちなみによーさんは、3つについて【善(光)、悪(闇)、それらを統合した3つめ】という考え方を否定している。それは、単純に1が悪で2が善であるということではないから。

    世界の見方の違いが3つの世界へ分けていくということ。そして、統合されていた世界が分かれて1と2と3に別れるのであるから、3の世界は善悪を統合した世界ではない。

    3の世界は純粋に新しい世界。統合されていなくて・統合されている世界。

    善と悪という言葉を使って3つの世界に分けることをよーさんは避けていたけど、わたしのブログでは分かりやすくするために善と悪という言葉を使って説明している。誤解を生んでもいいから、分かりやすく説明したい。

    三つの世界については、結構複雑である。なるべくわかりやすいように書きたいけど、人間の考え方や表現は多種多様であるから、それぞれの世界についての解説を読んでも、自分がどの世界なのかわからないかもしれない。

    しかし、自己表現が強い人ほど、どの世界に行くのかわかりやすい意思表示をする。自己表現が苦手な人は、どの世界に行くか、外から見ても分からないし、自分でも分からないのかもしれない。

    けれど時間が流れ、世界が自然に整っていけば、それぞれの世界へ行くようになっている。時間はとてもゆっくりと流れるもの。だから、三つの世界の到来はまだまだ先かも。

    2→1→2→3へ・正義で悪で無

    二つはある人たちにより混ぜられ一つになっているが、それが元の二つに戻ろうとしてる/一つになってるのは政党、指導者、国よりもうちょっと大きな枠か/でもそろそろ三つにしても良いなって世界が思ってる/色で表すと白黒灰を混ぜたのが三つ/正義悪無×3

    ある人たち

    1の世界と2の世界はある人たちにより混ぜられ1つになっている。ある人たちというのは、この世界や宇宙そのものを創った人たちである。

    創った人たちについては、いずれこのブログで書いていきたい。この記事とは別にしたいので、今回は深堀しないことにする。

    2つに分かれていた世界

    1の世界と2の世界は元々分かれていたのだけど、人間の歴史の中でそれは1つになってなんとなく共存していたのである。

    けれど、21世紀を生きる私たちの意志によって1と2の世界はまた別れる流れになってきた。しかしそこには新たな3という世界も追加されていくのである。

    三つの世界は全て「正義・悪・無」と言っているよーさん。それぞれの世界の中には、自分たちの世界を「正義」だと思っている人もいる。つまり、1から見たら2と3は「悪」だけれど、2から見たら1と3は「悪」になる。もちろん3から見ても1と2は「悪」になる。

    これは、それぞれの立場によって対立している状態に思える。けれど、よーさんの解釈ではこの対立状態については『三つの世界ではない』という。

    「対立して正義・悪・無の状態になっていること」に対してよーさんは「二つが一つになって少し進んだところかなー、一つから二つになる過渡期なのかなー、詳しくは分からないけどねー、たぶんそのくらいな気がするよー」と言っている。

    つまり、善と悪が対立することは、1つにまとまっている状態なのである。

    よーさんが「正義・悪・無で分け、なおかつそれぞれが正義悪無という状態」を三つの世界としないのは、三つに分かれる世界はもはや対立などせず、それぞれが遠い存在になるからである。

    けれど、それぞれの世界に分かれるきっかけになるのは、正義・悪・無という風に世界に優劣をつける人(正義・悪)、優劣をつけない人(無)が意志をはっきりとさせるからである。

    飛び越せないもの

    三すくみはある意味で関所、いや踏み絵の方が適切か/飛び越してもたぶん意味はない

    よーさんが書き込んでいた2012年はどの世界を選ぶのか試されていた時期で、それを表現するために踏み絵という言い方をしている。もはや2021年の現時点で選び直すことはできない。

    自分がどの世界に所属するのかはっきりとして、それぞれが自覚を持つのはまだまだ先であるはずだ。

    というか所属する世界によっては、自覚という感覚も無くなってしまうだろうから、三つの世界に分かれてしまったときには、世界が分かれることについての話などはもうできないかも。

    三つの世界は思想みたいなもの・宇宙人のこと

    三つは思想といえば思想だけど、そのものを指すにはどう表現していいかはわからない/三つは宗教と関係してるけど、そのものを指してるわけじゃない/信仰とか革命とか関係あるといえばあるのかも/でも正直どんな状況でも当てはまりそうな言葉/もし宇宙人が存在するのなら三つと関係してるかもしれないけど、どっちでもいいこと

    三つは先ほど説明した三つの世界の内容の通り、思想とも言える。思想は宗教みたいなものを作り出すこともある。

    どの宗教がどの世界に関連しているのかを説明するのはキリがないし、とある宗教に所属している人の中でも、どの世界に所属しているかどうかは違うこともある。

    宇宙人が何故三つに関係しているのか。「宇宙人という概念」は人間の未来の姿を表現している。そして、三つの世界は未来の話である。

    人間は進化し続けるから、いつか宇宙へ移住し宇宙人になる。そう言い切れるのも、人間は宇宙に関心を持っていて、すでに宇宙旅行なども始まっているから。

    まだ知らぬ宇宙のどこかに宇宙人が存在するかどうかは「3の世界」に所属する人にとっては割とどうでもいいことである。

    今後更新するかも…

    三つ目はその内ぽっと出てくる/気付いてる人は昔からいて、自然的なもの/三つ目が難しいのは、自分でいろいろやらないといけないから/子供の頃の方が楽しい、そんな感じ
    1から2になって3になったわけじゃない、順番や過程を考えてみるといい/三つが分かっても何があるわけじゃなく、隠されてる様な事でもない常識的な事だ/三つが何かより、なぜ三つなのかを考えた方がいい/WhatじゃなくてWhyでHowを考えるのが大事/でも気付けても、人間は病気に罹っているから本当に理解できるとは限らない
    三つを理解したら気分的に楽になる人はいる/でも日本人はあまり変わらない/答えを得るよりも、三つあることを理解した状態でいることが大事/後は世界が勝手に色々やってくれる/三つはこれから必要な考え方になる/自然とわかるようになる人は多い、世界がそれを望んでるから/気付く人はそのうちいっぱい出てくる/まだわからないならたぶん理由があるんだと思う
    グラフだ 波線だ どこにいても進んでる/独楽だ 廻る どこにいても廻ってる/どこにいるか問題になるのは俺たちの間だけ/でも世界が見えるようになったら、一生懸命に逆回転して踏ん張ってる様に見える/水車の様に廻る/川の流れに沿った方が迷惑にならない
    そろそろ怖い人たちが出てくる/目とか見てるとなんだか怖くなる、今より老成した感じの人々だ/その中には、大人しい人、親切な人、暴れてしまう人、人を悪魔扱いする人が大勢いる/良いことも悪いこともする/全年代に満遍なくいるけど、偏りはあって30代ぐらいまでが多い/ヒトとしての種なのかはわからないけど、決定的に違ってしまう/怖い人になっても、ならなくてもいい/突然変わるのではなく、振り返ったらあの時変わったんだってわかる/実感沸くのは早くても二年後ぐらい/まだ自分で自分の居場所を決められる時間は残ってる/予兆に関しては気付ける人はいるはず/もうすぐ立ち位置が選べなくなるというか、お互いすっごく離れてしまう/最初の三つの話が重要/家族とも離れてしまうかもしれないけど、物理的に離れるわけじゃないから大丈夫/その内適応するしね
    人間らしさは大事だけど、人間らしさに縛られてはダメ、動けなくなってしまう/聖杯は外にはない、青い鳥はいい話/体は大事に/魂もちゃんとある/自我と自己の探求は灯台もと暗し/幸せを追求することは悪いことじゃない/幸せに価値がないって言い出す人は怖い
    人間は、本当はもっと動物的で、植物的で、機械的だ/水と大気と光があると植物は育つ/食べ物があると動物は動く/仕事があると機械は考えない/ロボットの様なものではない/人間にも機械の様な役割があるのかも、ヒトとしての根本的な部分として/植物的、動物的、機械的は三つに関係あるけど、その部分は考えない方がわかりやすい
    人類は、幸福を夢見てる人が多い/夢見てる状態は病気だ、曇って世界全体が見えてないような状態だ/知恵があると、考えすぎると病気になってしまう、ノイローゼは気持ちいい/感情があるからこそ、病気になり易かったってのはあるかもしれない/感受性養うのは大切だ/でもそろそろ治ってもいい頃、治ったら怖いけど/治ったら怖い理由は、病気の状態が俺たちが思う普通だから/病気になる前の状態を知る人はいない
    女性は、実は思ってる以上のとても重要な役割を持ってる/けれど女性は夢見てる人が多い/そのせいでいろいろと塞き止めてしまってる、他に迷惑/女性は病気が重症になりやすい
    いろいろな創作物を見て、背景を見るのは大切/惑わされないために
    好きなものを食べていいけど食べ過ぎはダメ/体が求めてるのかどうかを考えた方がいい/肉とアルコールばかりでも無くしても、脳に異常が出てくる、この話は三つの話と少し繋がってる/大切なのはバランス/実は食べ物の偏りで、脳を操ることができる、人間はそういう風にできてる/これは人間という種の運命みたいなもので、一方に偏ると操られてしまう/でも本質的にはどこも同じ/怖い人の出現ともあまり関係ないし、どれに偏っても植物的で、動物的で、機械的なのは変わらない/三すくみに関連してるのは確かだけど動物植物機械のどれかに偏らせようってことではない
    陰謀はあるし支配者はいる、でも怖がらなくていい/結局、みんな同じ知的生命だ/俺たちと同じだ/今後の世界のシナリオは三通りしかない/そのうち一つは難しい/乱入はできる/どの結末になっても今みたいに苦しいけど、良い人生は送れる/住めば都だ
    変な事件がたくさん起こるし、目立つようになる/日本より世界の方が多い/ヨーロッパがある日すごい事言ったら、みんな目を向ける/神の否定とかではないと思う/戦争はたぶんある、10年後ぐらいかも/日本もアメリカも中国も、相手の中東も負ける、世界中負ける/心配するふり上手くなっちゃダメ/日本はアメリカを助けてあげた方がいい
    これらの話は全部最初の話に繋がってる/三つを理解してからっていう過程が大事/三つが大切なのも事実だけど、それを自然にスルーして別のところに目がいく人もいるはず/順番が大事/三つが理解できないままその先を知っても、なぜ俺がそれを言いたいか分からないと思う/それに三つに囚われすぎると、俺的に流れて欲しくない方向へ流されてしまう 悪いわけじゃないけど/だから三つは重要だけど、気にしすぎても欲しくない/心配しすぎないことは本当に大切/三つが本当に脳細胞が変化するぐらいのレベルで理解したら、自然と辿り着けるようにできてる/ヒントを一つ、食べ物とか陰謀論とか戦争とかそういうの無視してかまわない
  • この世界の真実(最終解答編)後編

    この世界の真実(最終解答編)後編

    前編に引き続き、この世界の真実を図解と共に解説していく。今回の記事もこの図を見ながら読んでほしい。前回は「自己と他者という空間(赤い円、青い円)」「未来に進む時間と過去に戻る時間(赤い実線、青い破線)」「世界の中心である自我(グレーの部分)」について説明してきた。今回は白い円について。

    この世界の見取り図
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    この記事への理解が深まると思います。

    白い円についての概要

    白い円について
    2つのものが重なっている
    人間は知覚できない
    空間…地上と海、北と南
    時間…生まれる瞬間と死ぬ瞬間

    人間は生まれてから自己を持ち、いつかは必ず死が訪れ、自己と共に存在そのものが消えてしまう。そんな当たり前の人間の一生であるが、図解の中の白い円は人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間を表しているのである。それら瞬間は私たち自己を持った者たちが意識的に知覚できない。

    死ぬ瞬間と生まれる瞬間は、重なっている。時間としても空間としても重なっている。「重なっている」ということがどういった意味を持つのかは、この後説明していく。

    生まれる瞬間と死ぬ瞬間について

    生まれた瞬間には自己や自我が芽生えておらず、世界と自分の境界線はまだ曖昧であるから、その時の詳細な記憶や感情も曖昧である。生まれた瞬間の記憶を持っている人も稀にいるようだけれど、ほとんどが大人になったら忘れてしまう。

    そして死ぬ時の記憶や感情も、死んでしまうのだから表現することも思い出すこともできない。死んでしまった人から終わりの瞬間についての体験談を聞き出すことはできない。その瞬間は謎に包まれている。

    このように白い円は、知覚することが難しい瞬間であり空間である。人間の生と死は実はとても不思議なもの。子供の誕生や親の死など、他者の生と死を見ることはできるけれど、自分自身の誕生時のことは覚えておけないし、死ぬ瞬間がどんな感覚なのかは、その時が訪れるまで知ることはできない。

    重なっていることについて

    自分だけが存在している世界

    生と死は別々のものに思えるけれど、その瞬間(時間)と空間が重なっていることを説明していくのに重要なことがある。それは前回の記事でも説明したとおり、この世界において、実体をともなった存在は自分ひとりだけであるということ。

    存在しているのは自分ひとりだけなのであるから、実際に死ぬのも自分ひとりだけである。もちろん生まれているのも自分ひとりだけである。自分だけが何度も生と死を繰り返しているというのがこの世界の真実。

    実体と投影

    ここで少し前回のおさらいをしておく。図にも書いてあるとおり、自己は実体であり他者は投影である。自分が生まれると同時に他者という存在もデータとして作り出される。

    自分だけが何度も生と死を繰り返していると言ったけれど、自己が体験するイベントとして、他者にも生や死がある。

    他者はデータであるけど、他者にも実体がある。前回の記事を読んでもらえば詳しく書いてあるけれど、どういうことなのか改めて引用しておく。

    自己から見て、他者は人間のコピーである。例えば、このブログを書いている「わたし」は自己であるから、本体である。そして、わたしの親や旦那や友達やこのブログを読んでくれている人は全て人間のコピーである。

    しかし、今このブログを読んでくれている「あなた」は自己であるから本体である。そして「あなた以外の人間」は人間のコピーである。「あなた」にとって「わたし」はデータでしかない。このように視点が変われば、本体と投影(データ)が切り替わる。それがこの世界の不思議なところ。

    世界を映し出す自分

    自分以外の「人・もの・こと」は全て投影されているもの。映画のように「世界」を投影する映写機が自分自身であり、目で見ているものは自分が映像として発しているのだ。

    だから生まれる瞬間も死ぬ瞬間も自分自身が投影しているだけ、ということになる。何か神様のようなものが生を授けてくれたり奪ったりしているのではない。

    映写機である自分だけが実体であるから、生と死は実体のないイベントである。けれど、生と死は人間にとっての一大イベント。投影であれど『生と死は実体である』と考えることができるのが「解脱」である。意味がよくわからなくても頭に入れておいてほしい。

    重なっていることの意味

    人間の生と死の仕組みは実はとても単純なもの。映写機から映像が投影される瞬間に人間は生まれ、映像が消える瞬間に死ぬのである。世界を(自分を)投影するのには、映写機のスイッチをオンにしなければいけない。

    映写機のスイッチが切れた瞬間に死が訪れ、スイッチが入るから生まれる。そして、スイッチのオフとオンはほぼ同時である。つまり、私たちは死んだ瞬間に生まれている。生と死は同時に起きている。それが「重なっている」ということ。

    輪廻転生の実際のところ

    みなさんの「輪廻転生」のイメージは、死んだら魂が天へ登って、次の人物を探して地上に降りて、その肉体に魂が乗り移る、という感じであるのかもしれない。

    実際は、自分の本体(魂とも言う)は移動などせず常に固定された場所にあり、1つの人生が終われば、また次の人生が投影されているだけなのである。

    肉体に入り込むのではなく、目の前に映し出されるストーリーが次々と変わっていくのを見て体験しているだけ。ただ投影するものが変わっていくのが「輪廻転生」である。

    固定された魂

    自分という存在は常にとある場所に在る。場所という単語を使うのが正しいのかはわからないけれど、とにかく自分(魂)は絶対に移動したりしていないということが肝心。具体的にどこに在るのかというと図解の中心にあるグレーの部分である。具体的ではないかもしれないが…。

    中心にあるグレーの場所に存在することについて言葉で言い表すとしたらこんな感じ。「自分が在る」ということがずっしりと重みをもちながら、世界の全てをすっきりと見渡せる感覚を持ち、「自我」を強く感じる状態。

    関連記事:自我について

    白い円は世界の基本となるもの

    現実はリアルな夢

    自分自身は常に固定されている存在なのだから、どこにも移動していない。人間である私たちは身体を持っていて、足で歩いたり手を動かしたりしているけど、そう感じているだけである。

    前回の記事で既に説明しているけれど、私たち人間は水槽の中にある脳みそだけの状態のようなもの。現実の全ては夢である。けれど、あまりにもリアルだから夢だとは気がつくことができない。実際このような話は昔から人間の間で語られていることであるし、そんな世界観な物語も沢山ある。

    信じること

    少し話はそれるけれど「解脱」というのは『現実は夢の中である』と完全に信じることである。信じる、という言葉を使うと宗教ぽくなってしまうのであるが、信じないことには「真実」の全貌は見えてこない。

    このことを「信じる」には勇気がいる。それから完全に「信じる」ことはとても難しい。信じているようで信じていないということは多々ある。

    世界を投影する映写機

    私たちはリアルな体験をするために、縦・横・奥行きのある空間というものを設定している。現実世界というのは、実体である自分が求めたもの・ことがそのまま投影されている場所である。

    自分という映写機は、空間を映し出して、さらにその中に居る感覚をも作り出している。空間や感覚などすべてを創り出すかなり高性能な映写機と言える。

    北と南、地上と海について

    0と1から始まる世界

    自分自身を夢の中に実体として存在させるには、まずは空間が必要である。世界を投影するための最初の仕事は、映写機のスイッチのオンとオフである。すべての始まりはオンとオフという2工程しかない。0と1である。世界の始まりはオン(1)だけと思われるけれど、同時にオフ(0)も行われている。

    オンオフが同時に行われないと投影はできない。世界を映す光を生むには電力のようなものが必要であるけれど、オンとオフがほぼ同時に行われることで映写機を動かす力が生まれるのである。映写機を動かす力についてはまた別の記事で。

    ともかく、スイッチをオンにしたら空間が創造される。世界が創造される第一歩として、映写機はまず空間に北と南を作りだし(そのあと西と東も)、そこに大地と海(そのあと山とか川とかも)を作り出す。さらにその他すべてのもの(生物など)が展開されていく。

    まず最初に北と南が作られるのは、方向を定義付けする概念が必要だから。空間の位置を示すものとして「東西南北」という概念が存在するけれど、現実世界でそれらを実感するためにも目に見えるものが必要になる。だからそのあとに地上と海が作られる。概念が生まれれば、そのあと必ず目に見えるものとして現れる。

    目に見えるものには意味がある

    目に見えるものがあるから、つくられた空間であっても存在を実感できる。そして目に見えるものは、この世界が投影であることを暗に示している。暗にではなく、明にかもしれない。

    目に見えるものは私たちに『この世界の真実』を語っているのだけれど、それは当たり前のようにそこに存在するものであるから、私たちはそれに疑問を持つことはない。

    空間の重なり

    南と北、地上と海はまったくの別物なのに、この世界に同時に存在していることは「重なっている」と言える。この世界に地や海が存在していることは当たり前のことであるが、よくよく考えると異様なのである。

    オン(1)とオフ(0)から世界は創造されている。そのことを示すために、北や南、地上と海が存在する。世界(自分)が生まれる瞬間にあたるのが北であり、地上である。死ぬ瞬間にあたるのが南であり、海である。

    目に見えるものが私たちに教えてくれる、この世界の仕組み。それにはっきりと気がつくのが「解脱」であったりする。

    生と死を繰り返している私たち

    世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。

    一瞬で基本(0と1)から世界(2〜無限)が展開していき、一瞬でそれら全てが消えている。けれど私たちはオンとオフが同時に起きていることを認識できない。その一瞬は目にもとまらぬ速さで繰り返されているから、この仕組みを見破るのは難しい。

    一瞬が連続しているから、私たちはオンが続いていると錯覚している。人間の一生は『生まれるところから始まり死ぬところまでで終わり』だけれど、実は生まれてから死ぬまで、毎瞬生きては死んでいる。

    基本が大切

    世界には様々なもの・ことが存在しているのに、なぜ白い円には、北と南、地上と海しか書かれていないのか。それは基本が全てを創り出しているからである。

    基本になるもの以外はすべて基本から生まれたもの。基本から生まれたものは、基本なしには生まれることがない。基本になるもの(0と1)と、それ以外のもの(2から無限)の違いは大きい。北と南、地上と海は特別なのだ。

    重なる時間について

    ということで、白い円についての解説はだいたいおわり。生と死の瞬間の「重なり」、北と南・地上と海という空間の「重なり」について理解できれば「解脱」にも近づけると思う。

    ところで、過去に戻る時間(青い破線)の先には死を表す南と海があり、未来に進む時間(赤い実線)の先には生を表す北と地上がある。これが意味するところは前回の記事でこのように説明している。

    左回りの青い破線について
    精神世界
    過去に戻る時間の流れ
    「苦しみ」に囚われながら生きること
    終わり(死)に繋がっている

    右回りの赤い実線について
    現実世界
    未来に進む時間の流れ
    「苦しみ」を受け入れながら生きること
    始まり(生)に繋がっている

    時間の流れには2種類あり、私たちはどちらも体験している。普段体感している時間は未来に進む時間だけれど、頭の中で過去のことを深く考える時、過去へ戻る時間を体感している。

    どちらか片方の時間しか体感することはできないけど、過去に戻る時間と未来に進む時間は重なっている。そして、過去に戻る時間は死をもたらし、未来に進む時間は生をもたらす。

    2種類の時間が重なっているから、生と死も重なっている。重なる時間についてはこちらの記事でも詳しく解説しているのでぜひ読んでほしい。右回りの時間と左回りの時間。そしてスイッチのオンとオフ。人間の仕組みはとてもシンプルだった。

  • 2つの時間の重なりが因果を生む

    2つの時間の重なりが因果を生む

    今回は「解脱」するために理解すべきこと「因果と時間の関係性」について。仏教用語である、同類因と等流果、異熟因と異熟果という2種類の因果関係の解説と、それら因果が現実に現れる仕組みについて。「解脱」したい人は必読です。

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    因果とは、原因と結果のこと

    輪廻転生と因果の関係

    この世界は「因果」という絶対的なものに支配されている。そして、この「因果」こそが人間を苦しめる輪廻を創り出している。輪廻転生については関連記事で少し書いているので、先に読んでおいてもいいかも。

    関連記事:輪廻から解脱する方法

    関連記事:輪廻転生と自己責任 前半

    一切合切は因果により生じている

    はじめに言っておきたいこと。今回の記事に出てくる仏教用語については、元ある意味を大切に、わたしの考え方を織り交ぜつつ解説していく。まずは「因果」について。

    仏教における因果(いんが)は、因と果 による熟語。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、「無因論」「神による創造」などは否定される。

    因果(wikipedia)

    『一切は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ…』というのは、全てのものは因と縁により生じるということ。全てのものというのは、この世に存在する物質や現象全て。それらが生じているのは、因と縁の作用による。

    直接的要因(因)というのは、生じていることの原因は自分自身にあるということ。間接的要因(縁)というのは、自分をとりまく世界(生活環境、人間関係など)を通して結果がもたらされる、ということである。

    一切合切は必ず関係性を持っている

    縁起(えんぎ)とは、他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる。

    縁起(wikipedia)

    続いて「縁起」についての説明をwikipediaから引用。先ほど間接的要因について説明したように、結果は必ず「他との関係」を伴っている。全ての現象は、必ず「自分をとりまく世界(生活環境、人間関係など)」と関係を持ちながら起きるということ。

    『条件や原因が無くなると結果も自ずからなくなること』というのは、輪廻が生成されなくなるということを指す。条件というのは「自分をとりまく世界」そのもの。解脱というのは、原因が無くなり、世界も無くなること。結果(事象の全て)が消滅するのである。

    原因と結果=自分と世界

    ここまでの説明をまとめると、現れる結果(現象)の原因を自分自身が作っているということ。そして、結果とは自分をとりまく世界のこと。

    因(原因)を滅すれば果(結果)も作られなくなるので輪廻は終わる。原因を解明し、原因となるものを作らず、結果も作らないようにすることが解脱というもの。とある原因からどのように結果が現れるのかを知ると、原因解明の手助けになる。ということで次の章からは因果の法則について。

    2種類の因果関係について

    同類因・等流果と異熟因・異熟果

    原因と結果について説明するのに、いい仏教用語を見つけた。原因になるものとして、同類因(どうるいいん)と異熟因(いじゅくいん)という言葉。結果になるものとして、等流果(とうるか)と異熟果(いじゅくか)という言葉。

    ゴータマ・ブッダさんが亡くなってから彼の教えを元に、様々な仏僧集団にまとめられた思想・論書をまとめて「阿毘達磨(あびだつま)」という。アビダルマとも呼ばれていて、一部仏教者の間で研究されている。4つの言葉はその中に出てくるもの。

    「同類因(原因)等流果(結果)」と「異熟因(原因)異熟果(結果)」。因果関係についてはこの「2種類ある」と覚えておくといい。

    1.同類因・等流果という因果の法則

    原因その1 同類因(どうるいいん)

    現在の瞬間と同類の現象が後に果として生じる時の原因のこと。因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。例えば、忍耐をしているある瞬間は、忍耐をしている次の瞬間の同類因となる。

    阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

    原因の性質と結果の性質とが同様・相似である場合の原因。この結果を等流果という。同類因と等流果には因果同時はありえず、必ず時間的先後関係にある。

    真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

    同類因についてwikipediaから引用。同類因とは、この後説明する等流果(とうるか)の原因になるものである。等流果の説明と同じになってしまうのでこちらは簡単に。

    結果その1 等流果(とうるか)

    六因のうち同類因・遍行因に対応する果。等流果は多くの場合自らまた同類因となって次の等流果を生ぜしめ、そこに因果の連鎖が続く。等流とは、因から「流れ出る」の意。

    阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

    原因と同性同質の結果。同類因または遍行因によって生じる。

    真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

    等流果(とうるか)は、原因になるものと同じ結果のこと。善行をしたら(原因)→善行が起き(結果)、悪行をしたら(原因)→悪行が起きる(結果)。同類因と等流果は原因と結果が同じ性質のものになるので原因がわかりやすい因果関係と言える。その結果はまた原因になってしまうので、悪行をしてしまったとしたら、負の連鎖が続くことになる。

    『因が善ならば果も善、悪ならば悪、無記ならば無記と、その性質をともにしなくてはならない。ここで出てきた「無記」というのは、善でも悪でもないものを指す。そして「無記」とは煩悩に支配されていない行為のことでもある。無記という行為をしたら(原因)→無記という行為が起きる(結果)。

    では、善行と悪行は煩悩に支配されている行為と言えるのであろうか?厳密に言うと、煩悩に支配されていない。とある行為について「善行である・悪行である」と判断する意識を「煩悩」と言うのである。だから、同類因と等流果は全て「無記」と言える。

    自分のとある行為が、その後再び同じ性質の行為を引き起こす。この因果関係が存在するから、この世界そのものも継続していると言える。途切れることなく続く輪廻というものは、この因果関係によるところが大きい。

    時間差について

    『同類因と等流果には因果同時はありえず、必ず時間的先後関係にある。』とあるように、同類因と等流果は原因が作られ結果が現れるのに時間差がある。原因の後に結果が現れる、という当たり前といえば当たり前な時間差。

    2.異熟因・異熟果という因果の法則

    原因その2 異熟因(いじゅくいん)

    楽あるいは苦たる結果を引き起こす原因、有漏(煩悩)に基づいた善あるいは不善の行為。無記または無漏に基づく行為は異熟因とは決してならない。善なる行為をなしたとき、それは同類の善ではなく楽なる結果を生じるが、このように原因と結果との性質が異なることを異熟という。同類因に同じく、異熟因について因果同時はありえない。

    阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

    異熟因(いじゅくいん)とは、原因になる善行または悪行のこと。先程の同類因と似ているけれど、こちらの善行や悪行は煩悩から起こるものに限定される。同類因の原因や結果には「無記」という「善でも悪でもないもの」も含まれていた。

    しかし異熟因には「無記」に基づく行為は含まれない。異熟因は、この後説明する異熟果(いじゅくか)の原因になるものである。

    結果その2 異熟果(いじゅくか)

    六因のうち異熟因に対応する果。異熟果は善でも悪でもない「無記」であり、異熟果自体が自ら異熟因となって再び異熟果を生じそこに因果の連鎖をなすことはない。

    阿毘達磨倶舎論(wikipedia)

    善・悪の行為を原因として生じる楽・苦の結果。総じて無記(善悪の差別がない)であり、有情においてのみ生じる。異熟因による。

    真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

    異熟果(いじゅくか)とは、楽か苦という結果のこと。原因が「異熟因」という善行や悪行である場合、結果は楽や苦であるということ。楽や苦は「無記」である。つまりそれらは善でも悪でもないのである。

    こちらの因果関係は原因と結果が異なる性質になっている。原因になる善と悪とは違い、結果の楽と苦というのは感情である。喜び、楽しみ、苦しみ、悩みなど心の状態として結果に現れるということである。

    楽と苦という感情について

    仏教における(らく)とは、パーリ語、サンスクリット語のSukha (スカ)に由来し、幸福、喜び、容易さ、楽しみ、至福を意味する。対義語は(ドゥッカ)。

    楽(wikipedia)

    仏教における(く)とは、苦しみや悩み、精神や肉体を悩ませる状態を指す。対義語は

    苦(wikipedia)

    仏教における楽と苦の定義を引用してみる。楽や苦というのは、自分に生じる感情のことである。通常人間は楽という感情を善、苦という感情を悪と判断する。

    けれど、楽や苦は「無記」であるから、善や悪として区別できないものであるということ。感情には善も悪もない。ただそういった心の状態が存在するだけなのである。

    時間差について

    調べたところ、異熟因と異熟果の時間差には特徴がある。原因を現世に作ったとして、結果が現世に現れることはない。結果は、輪廻転生した後に結果として現れる。結果は未来のどこかで現れるということ。原因(現世)→結果(来世)、原因(過去世)→結果(現世)のような時間差である。

    この法則は人間にとって理不尽なものである。現世では原因を知る術がない。異熟果という結果の原因を見つけるのはとても難しい。等流果とは違い、異熟果自体が原因になることはなく結果のまま完結するので、そこから連鎖が続くことはない。それもこの原因を見出すことが難しいことの理由の1つになるだろう。

    わかりやすい因果とわかりにくい因果

    ここまで説明してきた、2種類の因果関係についてまとめてみる。

    同類因(原因)と等流果(結果)
    原因:善行 → 結果:善行
    原因:悪行 → 結果:悪行
    原因:無記 → 結果:無記
    異熟因(原因)と異熟果(結果)
    原因:善行 → 結果:楽という感情
    原因:悪行 → 結果:苦という感情

    わかりやすい因果関係

    わかりやすい因果関係として「同類因と等流果」という法則がある。こちらは、原因と結果が同じ性質のものである。悪いことをしたら悪いことが続く、善いことをしたら善いことが続く、というもの。この因果関係を意識できると、同じ行為が繰り返されることを防ぐことができる。

    わかりにくい因果関係

    わかりにくい因果関係として「異熟因と異熟果」という法則がある。原因は煩悩から起こる悪行や善行であるが、結果として現れるものは「心の状態」である。

    たとえば誰かに何かを言われて『とても傷ついた』という心の状態は「苦しみや悲しみ」である。つまり異熟果という結果になる。その結果の原因(異熟因)は、現世には存在しない。つまり「苦という心の状態」をもたらす原因は、傷つくようなことを言って来た人ではないのである。

    その「苦しみの心」を作る原因は前世における自分自身の悪行にある。しかし、私たちは傷つくようなことを言ってきた人を原因にしてしまうだろう。そうすることで、原因を考えることをやめてしまうから、解脱ができないとも言える。

    無記について

    ここで「無記」についてもう一度説明したい。同類因と等流果では「原因が無記であれば、結果も無記である」という法則があった。仏教用語である「無記」にはいくつかの定義があるが、今回の記事で使用する「無記」は善と悪を区別しないことを意味するもの。

    善でも悪でもないもの・善でも悪でもあるもの、どちらも「無記」である。原因や結果となるその行為の善悪を区別しないことが「無記」である。人間の全ての行為の本質は「無記」なのである。しかし、人間は必ず善・悪のどちらかで区別するからこそ、善行・悪行という概念がある。

    人間はある行為において「善か悪か」を明確に区別するのであるが、解脱した視点では、ある行為に「善と悪」両方適応されることを理解している。それが「無記」という判断である。解脱した視点では「善と悪」を区別しつつ、区別しないことができる。

    「無記」を理解できたとき、苦や楽という感情には善も悪もない、ということが理解できるのである。

    解脱するためには異熟を理解すること

    苦しみは異熟にあり

    解脱の最終局面の試練は「異熟因と異熟果」を理解することである。「同類因と等流果」という因果関係よりも、自分自身に起きている結果(感情が動くこと)の原因が何であるのかを見つけるのが難しい。

    わかりやすい「同類因と等流果」より、わかりにくい「異熟因と異熟果」に心を振り回される人間。これが輪廻を生きる人間に与えられる、大きな苦しみである。

    自分自身に様々な感情が湧き上がる原因は、自分自身の前世の行為に存在する。解脱するためには、苦や楽という感情がどうして起こるのか?を追求することが必要なのだ。

    苦という感情の原因(異熟果の原因)

    異熟因を知ることができれば、苦や楽という感情が起こる原因を知ることができる。異熟因というのは、自分自身が前世で行った「とある行為」である。

    前世が視えるという人に全ての前世を確認してもらって「異熟因らしき行為」を探す、という方法もあるかもしれない。が、それらを検証することあまりにも困難。現実的ではない。

    しかし、前世から現世までの全行為が自分の意識に記録されているからこそ、前世が視える人が存在するのである。その「たった一つのとある行為(異熟因)」も、忘れているだけで自分の意識には確実に残っている。

    その記憶を引き出す方法として、六道輪廻の地獄を体験するというものがある。わたしはその方法をこのブログの「輪廻からの解脱」カテゴリで少しづつ紹介している。

    けれど、私たちは「とある行為(異熟因)」を思い出すことを心から恐れているのでその記憶を固く封じ込めている。その記憶を引き出すことが難しいから、解脱も難しいのである。

    ちなみに。今回は「苦という感情」に注目しているけれど、もちろん楽という感情が生まれる原因も異熟因にある。

    複雑怪奇なこの世界

    大元になるたった一つの原因から枝分かれしていき、複雑怪奇な因果関係が生まれている。wikiの縁起の説明にあった通り、全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているものである。自分自身が元の原因を作り出したあと、生活環境や人間関係などが複雑怪奇に入り乱れた現状が結果として現れたもの。

    「因果の法則」は絶対である。この世界の事象と、自分に起きる感情には、必ず自分自身に原因がある。そして、人間の苦は「異熟果」として現れる。悲しみ、怒り、やるせなさ、これら苦しみの心に振り回され、疲弊した人間はこの世界を「意味のないもの」にしたがる。それは原因解明を諦めることである。結果には原因があるのだから「意味がある」のである。

    人間はこの「因果の法則」を信じず、原因を解明できないまま死んでいく。原因解明を達成したものには輪廻からの解脱が約束されているのに諦めるのである。生きとし生けるものに平等に訪れる「死」は原因解明を遂行できない結果である。

    時間が存在する理由

    初期仏教のとある宗派

    グーグル検索していて、たまたま佛教大学の方のこちらの論文(種子説の研究)を見つけたので、読ませて頂いた。仏僧集団ごとの「異熟」に対する考え方の違いを比較するとても面白いものだった。

    こちらの論文を読ませていただいて、このブログでわたしが一番訴えたいことは、既に「説一切有部(せついっさいうぶ)」が説明しているということを知った。というか、現代まで残っているアビダルマ(阿毘達磨)のほとんどは「説一切有部」という集団がまとめたものであった。

    ゴータマさんの生きている時代の弟子たちである「原始仏教の集団」から、ゴータマさん亡き後「上座部と大衆部」という2つに集団は分裂。さらに「上座部」から分裂した集団のひとつが「説一切有部(せついっさいうぶ)」。

    三世実有説と時間

    説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有と古来いわれている。森羅万象を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。

    説一切有部(wikipedia)

    説一切有部(せついっさいうぶ)の主な教義に「三世実有説」というものがある。『法(ダルマ)は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続ける』というもの。法(ダルマ)というのは、この世界を成り立たせているシステム全体のこと。

    人間はシステムに忠実にこの世界を生きている。今回説明した「因果の法則」もシステムのひとつ。システムがないと、人間は人間で在ることはできない。自分(人間)という存在はシステムありき。

    三世実有説というのは「システムは三世(過去・現在・未来)の間変わることがないから、自分という実体も三世にわたって変わりなく存在する」ということを説明している。けれど、私たちが認識できるのは「現在」という一瞬だけで、その過ぎ去っていく「現在」という瞬間が諸行無常であるとも説明している。

    変化すること・変化しないこと

    仏教用語である、諸行無常の意味するところ。それは「一切は常に移り変わり、常に変化しているから、同じものなどない」ということ。だからこそ、自分という存在も変化するものであり確かな自分など無い、という考え方を多くの仏教者が持っている。

    しかし、説一切有部は「システムは変化しないまま実在しているから、自分も世界も変化することなく、確かに実在している」と説いている。

    諸行無常と三世実有説は矛盾しているけれど、実はどちらも真実なのである。変化しているし・変化していない。この2つが重なっていることを理解することが解脱でもある。

    今という瞬間

    ところで、スピリチュアル界隈では『過去・未来・現在は同時に存在していて、今という瞬間だけがある』という言葉や『時間には過去も未来も現在も存在しない』という言葉をよくみかける。諸行無常を強く意識しているからこそ「今という瞬間」を大切にしていこう、という考え方である。

    けれど、そもそも時間とは「過去→現在→未来という流れ」のこと。だから三世を同時に感じたり、三世が存在しないと考えてしまうことは、時間という概念を無くしてしまうことにもなる。『今を生きる』という言葉を安易に使用しているのだとしたら、時間が存在する意味から目を背けていることになる。

    「今」は儚い。認識したとたんに過ぎ去っていくもの。実際「今」という概念を理解するのはかなり難しい。

    解脱で時間の謎を解く

    時間の概念を作り出したのは人間であるけれど、太陽が昇り沈むというサイクルが存在するからこそ時間も必然的に生まれた。因果の法則と同じく、時間の流れも絶対的なものなのだ。「今」という瞬間は儚いものであるが、時間の流れ(法則、システム)は変化することがない存在なのだ。

    変化することがないシステム(時間の法則、因果の法則)を完璧に理解することが、解脱というもの。「今」を生きるだけでは解脱などできない。因果と時間の関係性を解き明かすことで、この世界の基盤をなす大きなシステムを知ることが今回の記事の主題である。

    時間の捉え方の違い

    先程リンクさせてもらった論文を読み、「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」という集団を知ることができた。仏僧集団ごとに、因果と時間に対する考え方の違いが表れているのは興味深かった。

    今回わたしが説明してきた、2種類の因果の法則において、因(過去)→果(未来)という時間差について教えてくれているのが「説一切有部」という宗派である。因果と時間の関係に注目している。

    しかし「瑜伽行唯識学派」という集団は、因と果は同時に起きていると説く。つまり『過去・未来・現在は同時に存在している』ということを言っている。「時間は無い」ということに注目している。スピリチュアル界隈は、現代の瑜伽行唯識学派みたいなものかも。

    このように、因果と時間の関係性について宗派で言い分が違うのである。この世界には様々な主張の違いはあるけれど、結局全ては正しい。つまり、時間は有るし・時間は無いということ。人間は0か1かのように、どちらかを選択することで生命活動を保っているから、主張が違ってしまう。

    「有ること」を知ることについて

    「説一切有部」は名前からも分かる通り、有ることの方を重要視している。わたしのブログでは「有ること」が持つ意味を解説していることが多い。

    すべてのものは有ると無いが重なっている。しかし、無いことを理解するよりも、有ることを理解する方が困難なのである。「有ること」を知ることは、システムを理解すること。この世界の真実を知ってしまうことになる。

    システムを理解したとき正常な思考を保つことは難しい。真実を知ることは、絶対的なシステムの上にしか人間が存在できないことを知ることである。そうなると、システムの一部でしかない自分の存在に意味を見出すことが難しくなる。

    だから、人間は本能的に「有ること」を理解するのを避ける。「無いこと」に注目することは、本能的に安全な方を選んでいるのだ。話が少し脱線してしまったけれど、ここからは因果と時間の関係性について考えていきたいと思う。

    因果と時間の関係性について詳しく解説

    精神世界・現実世界それぞれのピラミッド

    「瑜伽行唯識学派」という集団は、因果関係を階層にして考えている。だから因果が同時に起きていると説く。しかし、「説一切有部」は時間の流れと因果を関連付けている。因果に対する時間の捉え方の違いが何故起きるのか、図解と共に説明できたらと思う。

    まずはこの図を見て欲しい。因果関係・意識の階層・時間の流れなどを、「現実世界」と「精神世界」に分けてそれぞれピラミッド型で表現してみた。

    現実世界のヒエラルキー
    精神世界のヒエラルキー

    現実世界と精神世界の繋がりについて

    現実世界と精神世界それぞれ図があるのは、意識の世界(精神世界)と目に見えている私たちの世界(現実世界)は切っても切り離せない関係で、どちらも理解していないと因果の仕組みについてもわからないようになっているから。

    現実世界とは、私たちが生きている世界のこと。精神世界とは一人の人間の意識のこと。現実世界には必ず階層がある。人間は物事を分別する意識を持っているから現実もそうなる。

    人間の意識も現実世界と同じく階層になっている。現実世界とは真逆のピラミッドになっていて、現実世界のピラミッドに重なっているのである。

    上の2つの図をそのまま重ねたものがこの世界の本当の姿であるけれど、私たちは現実世界のピラミッドばかりを感じている。意識の階層については、あまり理解していないのではないだろうか。

    意識の階層について「瑜伽行唯識学派」では、階層ごとに名前をつけて考えている。そして、こんな思想を持っている。

    唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。

    唯識(wikipedia)

    外界の存在を「現実世界」、心のもつイメージを「精神世界」と置き換えて読むことができる。『現実世界は実在しておらず、この世は心のもつイメージだけの世界である』と言うのである。精神世界だけに注目し、現実世界は実在していないという主張なのだ。

    けれども、精神世界と現実世界どちらにも注目し考えることが重要なのである。それぞれを見比べ、関連の仕方や、心のイメージがどのように現実に現れるのかを知ることが「有ること」を知ること。

    ピラミッドというかたち

    この図は何故ピラミッドのかたちになっているのか。今回の図は、階層を表すものであるけれど、階級を表すこともできる。階級についても言及したいけれど、ややこしくなるので今回の図には書き込んでいない。現実世界の一番上の階層、精神世界の一番下の階層を理解する人はほんの少数である。

    現実世界のピラミッドについて

    まずは「現実世界」のピラミッドについて。目に見えている因果と時間の関係性を解説してゆく。ややこしいかと思うけれど、ついてきてください。

    現実世界のヒエラルキー

    現実世界の時間について

    「現在」に存在する自分

    今回の記事で説明してきた因果の法則は、私たちが生きている「目に見える世界」にしっかりと現れている。目に見えている世界が因果そのもので、時間とも関係している。現実世界の時間は過去から未来へ流れている。

    人間なら誰しもが「現在」という時間を認識して生きている。ピラミッドは3層に分かれているが、常に「現在」という真ん中の場所に居るのが自分である。人間は「未来」に生きたり、「過去」に生きたりすることは決してできない。それが現実世界。

    システムを理解し、現在に固定する

    2種類の因果関係の章で説明してきた、2種類の因果に関する「時間差」についての説明は、過去から未来に流れる時間だけを感じているもの。当たり前だけれど、一方向の時間の流れの中で起こる因果の時間差を説明しているのである。

    これから説明していく因果と時間の関係は、自分という存在を「現在」に固定したまま、この世界のシステムを理解した上で、説明するもの自分を「現在」に固定することが重要であるから、ここからの記事はそのことを意識しながら読んでほしい。

    現実世界の階層について

    現実世界のピラミッドに書かれている、3つの階層を文章にしてみた。この世界のシステムを理解しつつ、自分という存在を「現在」に置いたとき、未来に「異熟因」現在に「異熟果」過去に「同類因・等流果」という因果が現れている。

    未来 異熟因(因果を生む場所)
    現在 異熟果(苦や楽が現れる場所)
    過去 同類因・等流果(善行や悪行が永遠に続く場所)

    過去「同類因・等流果」

    わかりやすい因果として説明してきた「同類因・等流果」という因果関係。こちらはピラミッドの最下層に存在している。この因果は「過去」に作られたものなのである。「過去」に起きたことは「現在」の私たちが認識できること。

    「現在」という瞬間はすぐさま「過去」になる。だから「同類因・等流果」という原因と結果は「過去」に蓄積していき、それがこの目に見える世界のベースとなるものを作っている。そして私たちは「現在」という視点からその蓄積した世界を見ている。

    「過去」から「現在」まで途切れることなく続いている世界は「同類因・等流果」という法則で成り立っている。その法則は「現在」まで含まれるから、自分のとある行為も過去にどんどん積み重なることになるのである。

    自分自身の行いと結果が「同類因・等流果」として過去に蓄積され、それを「現在」から見ているのが私たち人間なのである。

    現在「異熟果」

    「現在」という瞬間に「異熟果」という結果が起きている。過去や未来とは違って「現在」は一瞬で過ぎてしまうもの。その瞬間だけに現れるのが「異熟果」なのである。私たちが感じる心の状態は瞬間のものであるということ。例えば「苦しみ」という心の状態が続くときは、「苦しみ」が連続しているだけ。

    重要なことは「苦しみ」は感情であるから過去に蓄積することはない、ということ。過去には「同類因・等流果」だけが蓄積している。「心の状態」は現在に存在する自分自身だけが感じているもの。

    現在とは「心の状態」を表すものであると言える。過去と未来には、生きている人間が存在しないのだから「心の状態」もまた存在しない。

    未来「異熟因」

    そして「未来」に異熟果の原因となる「異熟因」がある。「現在」に起きる心の状態は「未来」に原因があるのだ。しかし、2種類の因果関係の章では『異熟因は前世(過去)にある』とお伝えしているので、混乱するかと思う。

    解脱して、この世界のシステムを理解するとわかることがある。時間の流れはループしながら、逆行もしていることを知る。それが今回の2つのピラミッドの図で表されている。

    「現在→未来(過去)→現在→未来(過去)…」とループしているのがこの世界のシステムである。ピラミッドの図片方だけを見ると、未来と過去が繋がることはないのであるが。

    時間がループしていることを理解すると、未来は過去そのもの。だから、異熟因(過去・未来)→異熟果(現在)という言い方もできる。私たちの心の状態を創り出す原因となるもの(異熟因)は未来にもあるし、過去にもあるということ。

    私たちの未来にどんな原因があるのか。未来に訪れる「とある出来事」がわたしたちの心の状態である「苦や楽」を感じてしまうきっかけになるのだ。今回は現実世界の未来に「異熟因」が存在するということを覚えておいてほしい。

    精神世界のピラミッドについて

    続いては、精神世界のピラミッドについて。こちらは意識の世界である。目には見えないのであるが、人間ひとりひとりがこの意識の世界の中を生きている。

    精神世界のヒエラルキー

    精神世界の時間について

    逆行している時間

    精神世界は意識だけの世界。実際、人間はこの世界にも生きているのであるが、現実世界とは勝手が違う。実体が無い世界であり、現実世界の法則が適応されない。

    現実世界とは違い、精神世界の時間は未来から過去に流れている。しかしながら精神世界は目に見えないので、私たちがそれをリアルに感じ取るのは難しい。

    「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」は、因と果は同時に起きていると説いていた。それは精神世界視点からの考え方だから。意識というものは、時間の流れの中を自由に移動することができる。だから過去・現在・未来が同時に存在している感覚がある。

    意識の世界は、重い肉体が存在しない世界。重力が無い世界であるから、自分の意識はとても自由なのだ。とは言っても意識の中を自由に行き来するのはとても難しい。瞑想が得意な人はできるかも。

    つかみどころの無い曖昧な世界

    とか、聖霊とかいう言葉は精神世界に存在する自分自身を表している。重力のない世界であるから、誰もがこの世界の中を、魂や聖霊というかたちでフラフラとしている。(「かたち」というのは現実世界の概念であるから言葉としてはふさわしくないが…。)

    精神世界はふわふわとしたイメージ。実体が無いから曖昧な世界である。例えば人間が見る夢は、精神世界を現実世界に存在するもので表したもの。夢のようにふわふわとした世界はつかみどころが無いから、理解するのが難しい。だけれど、解脱したら理解できるようになるのである。

    解脱によってフラフラとしていた自分の位置を「現在」に固定するこで、精神世界をはっきりと見渡すことができるようになる。だから、未来から過去に流れる時間についても理解できる。

    精神世界の階層について

    精神世界にもやはり3つの階層があり、図を文章にしたものが以下である。瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)が考えた「六識・末那識・阿頼耶識」という言葉を使用して、階層を表現している。

    未来 六識(弱い力の意識)
    現在 末那識(強い力の意識)
    過去 阿頼耶識(意識を生むもの)

    未来「六識(ろくしき)」

    認識(入力)器官

    精神世界のピラミッドの一番上に存在するものは「六識」である。目・耳・鼻・舌・体という器官で現実世界から取り入れる情報から感じること。一瞬間前の意識から感じること。これらを合わせて六識という。自分が認識したものの総称が「六識」である。

    眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6種の認識をいう。色形と目とによって視覚(眼識)が生じるように、色(いろかたち)、声、香、味、触(可触物)、法(考えられるもの)という六境(6種の対象)と、目、耳、鼻、舌、身(皮膚)、意(一瞬間前の識)という六根(6種の認識器官)とによって視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚、思惟(しゆい)が生じる。この6種の認識を六識という。

    六識(コトバンク)

    「六識」は受動的なものである。情報をそのまま受け取るイメージ。「六識」には個人差があり、同じものを見たり聞いたり嗅いだり食べたりしても、他者と感じ方が違ったりする。

    現実世界とのつながりについて

    これらは現実世界の話に思えるけれど「六識」というのは精神世界においての認識器官である。現実世界では目に見えるものとして表現されているだけ。現実世界では、実体としての入力器官であるが。そこから入力されたものが精神世界で「認識」されるという仕組み。

    つまり、精神世界の「六識」によって情報の認識が行われていて、現実世界にそれが出力される、というイメージである。現実世界の情報を参照し、精神世界で認識が行われ、それが現実世界に出力され、その情報をまた参照し精神世界で認識…という感じでループしているのである。

    この仕組みが現実世界と精神世界のピラミッドが重なっているということ。自分というのは入力と出力が同時に行われている存在。

    「六識」が精神世界の未来に存在する意味

    なぜ「六識」は未来に位置するのか。精神世界に存在する自分の意識は、現実世界では知ることのない「未来」を理解している。精神世界では未来から過去へ時間が流れているから、未来の情報が先に降りてくるのである。つまり、既に「未来」は決まっていて、それを過去に戻るのが精神世界の法則。

    現実世界に現れる「同類因・等流果」という因果は、「精神世界の未来」で創り出されている。「現実世界の現在」から見た「現実世界の過去」は自分自身の行いが蓄積された場所であるが、既に決まっている「精神世界の未来」を参照しながら蓄積しているということ。

    「六識」は決まった「未来」を創り出すために存在しているから、機械のように同じ事を繰り返すのである。「六識」というのは受動的で、力がない。力というのは意識の持つ力である。力が弱い意識はただ同じ事を繰り返すために存在している。

    5つの器官を使って現実世界から情報を受け取り認識すること、一瞬前の意識から何かを認識すること、それらはとても機械的なはたらきである。「六識」は生きている限り働き続けるし、自らの意思で止める事はできない。そうやって精神世界で感じたことから、現実世界で行動に移す私たち。行動に移した結果、現実世界の過去に蓄積されていく。

    現在「末那識(まなしき)」

    末那識(まなしき)とは、阿頼耶識を所縁(=対象)とする識である。また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。

    末那識(wikipedia)

    精神世界の現在に存在するものは「末那識」である。末那識は「六識」の背後で働いている、自我意識のことであるということ。自我とは何か?簡単に言えば「自分自身がこの世界に存在するもの一切合切を創り出している」という意識である。

    精神世界の「六識」は現実世界の「同類因・等流果」に対応していることは先ほど説明した通り。精神世界の「末那識」はというと、現実世界の「異熟果」に対応している。階層の中心は現実世界でも精神世界でも中心なのである。

    精神世界に存在する「末那識」は現実世界に存在する「異熟果」という感情を創り出している。そして、現実世界の「異熟果」という感情そのものが「末那識」を存在させている。感情が存在しなければ、自分も存在しない。

    「六識」は受動的で弱い意識であったが、こちらは強い力を持った意識である。機械的な意識である「六識」とは対照的な能動的意識が「末那識」。「末那識」は感情に強く入り込むことができるということ。そしてその行動がまた感情を創り出しているということ。「末那識」と「異熟果」もまたループしている。

    『末那識は阿頼耶識を対象とする意識である』の意味については次の阿頼耶識の説明にて。

    過去「阿頼耶識(あらやしき)」

    最後に、精神世界の過去に存在する「阿頼耶識」という意識について。「六識」と「末那識」はそれぞれ弱い意識と強い意識であった。「阿頼耶識」はそれら意識を生むものである。意識の始まりが、精神世界の過去に存在するのだ。

    阿頼耶識(あらやしき)は、大乗仏教の瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこと。

    阿頼耶識(wikipedia)

    現実世界の「異熟因」が目に見える世界全体(同類因・等流果、異熟果)を創り出していて、精神世界の「阿頼耶識」が意識全体(六識、末那識)を創り出している。精神世界の「阿頼耶識」は現実世界の「異熟因」に対応している。

    この関係性もまたループしている。つまり、現実世界の未来に起こる出来事(異熟因)によって「阿頼耶識」という意識が作られていて、「阿頼耶識」が現実世界の未来(異熟因)を創り出している。

    阿頼耶識は意識の奥底にあるもので、精神世界を生きている私たちが足を踏み入れることは難しい場所である。それと同じく、現実世界に生きている私たちが正確に未来を予測するのも難しいことである。

    ピラミッドの頂点、ピラミッドの最下層には人間誕生と意識誕生の大きな秘密が隠されていて、その秘密を知ったとき、精神世界と現実世界の中心である「現在」に意識が固定される。その時初めて、この世界の基盤をなすシステムのことが理解できるようになる。

    『末那識は阿頼耶識を対象とする意識である』この言葉の意味としては、阿頼耶識が意識の大元であるのだから、阿頼耶識なくては末那識も存在しないということ。阿頼耶識が創り出したものが自我(末那識)である。阿頼耶識が過去にあるから、現在の末那識が存在している。もちろん六識も阿頼耶識なくては存在しないのである。

    2つの時間の重なり

    現実世界と精神世界は表裏一体

    現実世界という上向きのピラミッド、精神世界という下向きのピラミッドについて説明してきた。2つの世界は常に情報交換をしているようなもの。簡単におさらい。

    六識(未来) ⇆ 同類因・等流果(過去)
    末那識(現在) ⇆ 異熟果(現在)
    阿頼耶識(過去) ⇆ 異熟因(未来)

    時間が有るから自分が在る

    瑜伽行唯識学派の『因と果は同時に起きている』という説に関して、再び触れたい。『因と果は同時に起きている』というのは「時間は存在しない」という解釈でもある。それは精神世界視点の考え方である、と先ほど説明したけれど、解脱した視点からの考え方とも言えるのだ。

    解脱すると、意識は「現実世界の現在」と「精神世界の現在」をまたいだ場所に固定される。2つの世界の中心に自分が存在すること、そして2つの時間の流れの中心に自分が存在することを知る。同時に「時間は存在しない」という概念の本当の意味を理解することになる。

    本当の意味とは「過去も現在も未来も自分の中に含まれている」ということ。有るも無いも「自分」に含まれている。時間をコントロールしているのが「自分」であり、時間を止めたり時間を進めたりしているのが「自分」。

    時間が止まり時間が進むのを繰り返しているから、森羅万象も滅しては生じるの繰り返しをしている。無いと有るを繰り返すから「自分」が生きていると感じるのである。

    精神世界と現実世界の時間差

    わたしは2017年、一度目の「悟り」が来て「全ては生じては滅しての繰り返しだ!」と精神世界の中で気がついたのだけど、その時点ではそれが具体的にどういったことなのか理解できていなかった。

    5年たってようやく、今回の記事のように現実世界で理解できるようになっている。精神世界と現実世界の理解の「時間差」についてはいずれ別の記事にしたいと思う。

    全ての因は過去と未来にある

    この世界の因果、このシステムを創り出す大元になるものは、阿頼耶識(過去)と異熟因(未来)である。先ほど触れたこちらの論文の中で「婆沙論」に書かれている異熟の定義がこのように紹介されていた。『異熟因が過去・現在・未来の三世に通じて異熟果を有する』

    これは、説一切有部の「三世実有説」のことであるが、つまり異熟因(阿頼耶識)は過去・現在・未来全ての時間に関係しているということである。

    今回、前半で「同類因・等流果」と「異熟因・異熟果」を別々の因果として紹介した。けれども、全ての果(等流果、異熟果)の因は異熟因なのである。それが『異熟因が過去・現在・未来の三世に通じて異熟果を有する』ということ。

    「同類因・等流果」と「異熟因・異熟果」を別々に観ることも大事だし「全ての果が異熟果」であることを理解することも大事なのである。精神世界と現実世界を別々に観察すること、2つの世界をまとめて観察することが大事。

    今回の記事についての余談

    鶏が先か、卵が先か の答え

    鶏が先か、卵が先か』という哲学的な問題があるけれど、この答えになるものを今回の記事でお伝えできたかと思う。鶏も卵どちらも同時に存在しているから、先も後もないのである。現実世界の法則だけで考えてしまうと『鶏が先か、卵が先か』の答えは出ない。

    絶望とサプライズ

    ここまで読んでいただき、もしかしたら薄々お気づきの方もいるかもしれないが、今回説明してきたシステムには人間にとって「不都合な真実」が含まれている。

    それは、過去も未来も既に決まっているということである。この世界のありとあらゆる現象は全て詳細に決まっていて、計画書通りに事が運んでいる。既に決定しているありとあらゆる現象が、再生と逆再生で流れているのがこの世界。だからこそ、入力と出力が同時に行える。双方向の時間が交差した瞬間を、私たちは「現在」として認識しているだけなのである。

    「運命」は既に決まっている。人間には自由意志など存在しないのである。この真実を知った時、人間は絶望するかもしれない。自分自身の存在に意味を見出せなくなるかもしれない。だから「有ること(この世界のシステム)」を中途半端に理解してしまうことは危険なことなのである。

    しかし、このシステムを完璧に理解することができるのが「解脱した瞬間」である。その瞬間は「精神世界」において、現実世界より先に意識の中で体験するもの。わたしはこのブログで「解脱した」と宣言しているけれど、それは意識の中の話なので現実世界ではまだ解脱していないのである。その件についてはこちらでも書いていること。

    精神世界で(意識の中で)解脱した瞬間というのは、このシステムの抜け穴を知る瞬間でもある。「変えることのできない運命」から抜け出す瞬間を体験するのである。それは解脱した人だけが受け取ることができるサプライズなのかもしれない。

    創作物は未来からの情報

    わたしが「時間が逆に流れている」ということにはっきりと気がついたのが、映画「TENET」を観たとき。「TENET」考察を書きながら、全てが繋がった感覚がある。ふんわりと理解していたものが、頭の中で理路整然とまとまったのである。

    「TENET」のストーリーは、まさに今回説明してきたことをそのまま映像化しているから、ぜひ見て欲しい創作物。私たちは「未来から過去に時間が流れている世界(精神世界)」をも生きているのだから、現実世界に存在する創作物には、未来の情報がふんだんに詰め込まれているのである。

    過去に蓄積されていく「創作物」は精神世界の未来を参照している。人間が創りだすものには、未来へのヒントが詰め込まれている。そして人間は、設計図通りの未来を創り上げていく。それがこの世界の真実です。

    始まりと終わり・右回りと左回り

    自分から始まり、自分で終わる世界

    さてさて、ここまで因果と時間に関する様々な説明をしてきた。しつこいようだが、最後に改めてまとめる。

    現実世界の時間の流れは過去から未来へ。精神世界の時間の流れは未来から過去へ。その時間の流れが交差する瞬間が「今という瞬間(異熟果)」である。そして、この世に現れる森羅万象を創造している(入力と出力を同時に行う)のが、現在の「自分(自我)」である。

    自分自身が原因となるものを作り、自分をとりまく世界を通して自分自身に結果が現れる。今回紹介した2つのピラミッドが相互に作用して因果が現れている。右回り・左回りの時間の流れの中心人物が「自分」という存在で、入力と出力を同時に行うからこそ、因果(この世界)が創られている。

    目に見えている世界は自分だけで完結している。この世界には本質的には自分一人しか存在していない。自分という存在は永遠に続く「永久機関」なのである。自分一人しか存在していないことについては、関連記事もどうぞ。

    関連記事:この世界の真実(最終解答編)

    因果からは逃げられない

    今回の記事の内容を理解してもらえたとしても、理解してもらえなかったとしても、伝えたいこと。自分に起きる結果が『自分が原因ではない』と思えるようなことであっても、原因は必ず自分自身にあるということ。この世界のシステムを理解しておけば、自分に現れる「苦という感情」についても向き合える、はず。

    「苦という感情」が生まれるシステム自体を、自分が生み出したのであるから、逃げることはできないのである。その謎を自力で解くために「自分」という存在がある。謎を解くまで永遠に「自分」を体験する輪廻というシステムの中に閉じ込められる。

    シンギュラポイント

    ちょうど今「ゴジラS.P(シンギュラポイント)」というアニメを見終えたところ。このアニメに登場する「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」というちょっと厨二病な言葉。この「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」は人類の破局を防ぐシステムとして作中に存在する。

    空間と時間に干渉する高次元的な物質「アーキタイプ」の13番目のフェーズで、アーキタイプ研究の第一人者である葦原道幸が過去に存在を提唱していた。名称を和訳すると「直行対角化」となる。
    怪獣の生存に必要な他のフェーズのアーキタイプを変質させる効果、すなわち怪獣を倒す力があるとされる。

    オーソゴナル・ダイアゴナライザー(ピクシブ百科事典

    人間は13番目のフェーズで苦しみの輪廻から「自分」を救済することが決定している。システムの謎を解き、輪廻から脱出する瞬間である。先ほど言及した「解脱した人だけが知ることができるサプライズ」がこれ。「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」である。

    シンギュラポイントとは、今回の記事では「異熟因」であるし「阿頼耶識」である。全てはそこから始まっているのであるし、全てはそこで終わる。「オーソゴナル・ダイアゴナライザー」はシンギュラポイントにある。

    13番目のフェーズとは何なのか?そもそも1から12とは?そのあたりは以下の関連記事を読んでもらえるとわかるかもしれない。13日の金曜日を私たちが恐れるのは、終わりの前だから。でも金曜日が終わると、楽しい楽しい土日が待っているのだ。

    「蛇とメビウスの輪」がこの世界そのもの(ゴジラSP13話参照)。ピラミッドの頂点(異熟因)と逆ピラミッドの最下層(阿頼耶識)に存在する蛇の正体(ゴジラ)を知るのが怖い私たちであるけれど、ひとまず今回の記事で、メビウスの輪であるこの世界のシステムを理解してもらえたらいいな。

    人間の6(12)形態:地獄とは何か

    1から12について:ひとりかくれんぼ

    北欧神話では12人の神が祝宴を催していた時に、13人目となる招かれざる客ロキが乱入して人気者のバルドルを殺してしまったとされ、キリスト教以前から13を不吉な数としており、13日の金曜日についても伝説を持つ。

    13日の金曜日(wikipedia)

    そういえば、ディズニープラスで現在配信中のマーベルドラマ「ロキ」も時間のお話。毎週楽しく観ている。