投稿日:2020-02-08 | 最終更新日:2022-03-06

先日、諏訪大社に行ってきました。諏訪大社は諏訪湖を囲んで4箇所あるのですが今回は上社本宮へ。本宮の裏山にも足を踏み入れたのですが、そこで武田信玄のお墓を見つけたんです。その信玄の墓周辺はあまりにもさびれていて、なんでこんなところに?って思ったのでいろいろ調べてみたら面白かったのです。

諏訪大社上社と神宮寺

諏訪大社上社周辺を歩く

上社本宮にお参りを終えて東参道の鳥居を出ると、右手に上り坂と寺院らしき建物が見えた。近くにあった地図を見る。旦那がその地図の中にあった五重塔を見ようと言うので、坂を登ってみることに。途中には法華寺というお寺があり、さらにその先には墨繩神社という小さな神社があり、さらに進むと少し開けた場所が。そこにあったのは五重塔の跡地でした。地図は昔の地図だったと気がつく。

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諏訪大社上社五重塔跡

五重塔跡地についての説明看板。ここは神宮寺と言うらしい。「救われない神の世界を仏法により救済する」という思想、良いな。

守屋山のふもとにあった神宮寺跡地

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神宮寺跡

こんな看板もありました。このあたりは平安時代以降の神仏混合思想によって作られた寺院群跡でありました。神社に付属する寺院群を神宮寺と言うのですね。その後、この寺院群は明治維新の廃仏毀釈でなくなっちゃったという。時代の流れは容赦ない。ここは諏訪大社上社本宮、南方の高台。守屋山のふもと、ということでいいのだろうか。ちなみに諏訪大社上社本宮の御神体は守屋山とも言われている。(このあたりは歴史をひもとかないとややこしい話になるので後日ちゃんとまとめる予定!こわい神様関連の記事になると思う。)

さびれた遺跡にあった信玄の墓

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この場所に来るまでに「信玄公墓碑」という小さな看板が道行くところに立てられていて、みょーに気になったのでその看板の矢印を追って歩いていたのです。写真にある五本杉の右上の方を登っていった先にそれらしきものがありました。(弘法大師がこの木の下に宝を埋めたという記述も気になる。)

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もはや看板は錆びててほとんど読めないけど右の看板に「武田信玄碑」って書いてある。下の石にも何か文字が刻まれている。左のは「坂上田村麿碑」て書いてある。誰。歴史に疎いのでネットで調べてみたところ、この神宮寺は空海が建立し、神宮寺内に建っていた普賢堂は坂上田村麻呂が作ったという情報がみつかりました。

諏訪社上宮神宮寺は上宮の東にあった。神宮寺は弘法大師創建と伝え、普賢神変山(真言宗)と号する。神宮寺奥殿は普賢堂であり、この堂は坂上田村麻呂の開創とされ、今の地には空海が移したと伝える。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_kamisuwa.htm

これは本当に信玄の墓なのか?そもそも信玄の墓と言われる場所は、山梨・長野・愛知・京都など全国にあるみたい。信玄は戦いの最中病気で亡くなった。他の戦国大名に攻め込まれることを心配した信玄の遺言にしたがって、死は3年間隠されたと言われている。信玄の死は謎に包まれているが、調べていくと、信玄と諏訪大社には深い繋がりがあるのを知った。それならここに信玄の墓があってもおかしくはないはず。

諏訪頼重と武田信玄

諏訪大社の大祝、諏訪氏について

諏訪大社の大祝(おおほうり)を代々つとめてきた諏訪氏と武田氏にはちょっとゴタゴタした歴史がある。戦国時代に入り、お隣同士の甲斐国(武田氏)と諏訪郡(諏訪氏)の争いが大きくなる。諏訪氏は諏訪大社において重要な大祝をつとめる一族でありながら武士でもありました。

諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、大祝としては信濃国および諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。

wikipedia

諏訪氏VS武田氏

諏訪頼重という人物は幼少期は諏訪大社の大祝をつとめ、戦国武将でもあったので信玄と戦いました。wikipedia情報から頼重と信玄の関係をわかりやすくまとめてみる。

武田信玄と諏訪頼重の関係かんたんまとめ

1535年9月佐久郡侵攻を行う武田氏と和睦し、1540年11月には信虎(信玄の父)三女・禰々が諏訪頼重に嫁して諏訪氏と武田家の同盟関係が強化される。同年12月には信虎が頼重を訪問している。

武田氏と諏訪氏は仲良くしたり、気まずくなったりという歴史がありますが、この時代には信玄の父信虎によって諏訪氏との同盟関係が強化されました。

1541年6月甲斐国で信虎が嫡男・晴信(信玄)より駿河へ追放されるクーデターが発生する。7月には上杉憲政が佐久郡へ出兵すると、頼重は武田・村上方に独断で憲政と和睦すると所領を分割する。これにより武田・諏訪間の同盟は破綻する。

意見の不一致から信玄は父を追放し武田家を継ぐ。これのせいで武田・諏訪間の同盟は破綻。

1542年4月頼重と禰々の間に嫡男・寅王丸が誕生するが、7月には晴信(信玄)が高遠城主の高遠頼継と結んで、頼重の本拠である上原城を攻める。頼重は桑原城へ敗走するが7月4日に降伏し甲府へ護送される。頼重は7月21日に甲府の東光寺で自害する。

諏訪を侵略することにした信玄。頼重の本拠地を攻めた。その結果、甲府で自害してしまった頼重。悲しい。

頼重には遺児の寅王がいるが消息が不明で、戦国大名家としての諏訪氏は滅亡している。諏訪地方は武田氏の信濃侵攻において直轄領化される。

こうして戦国大名としての諏訪氏は滅亡してしまった。これは信玄の墓の看板がサビサビでも仕方ないよな…。

武田氏は諏訪氏の他にも征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏においても頼重の娘・諏訪御料人は信玄の側室となり、1546年には武田勝頼が生まれた。勝頼は諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、1562年に諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されている。

信玄は頼重の娘を側室として迎えた。周囲からは大反対されたみたいだが。側室との間に生まれた子供(武田勝頼)には「頼」という漢字を使って諏訪氏を継がせている。信玄は諏訪大社に強い思い入れがあるような感じがする。

日本一の軍神、諏訪大明神

武田家は代々諏訪大社の神をあつく信仰していたという。諏訪大社上社本宮のご祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ)。古事記の国譲りのおはなしの中で建御雷神(たけみかづちのかみ)と力比べをした神様である。建御名方神は諏訪大明神とも呼ばれていて、力強い神様のイメージがある。古事記の中では建御名方神は建御雷神に負けて、諏訪に逃げたことになっているけれど。

『梁塵秘抄』(平安末期成立)に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように、中世以降になると諏訪社の社家の武士化とともに諏訪明神は軍神として信仰されるようになり、その武功を語る説話が広まった。

wikipedia

信玄は諏訪大明神の力を信じていた。大事な戦の前には必ず諏訪大社で祈願し、旗には「諏訪南宮法性上下大明神」と記して戦いに挑んだ。信玄は仏教にも関心が強かったらしく、信心深い人物であったことは間違いありません。ところで、そんな諏訪信仰を持っている信玄にまつわる面白い伝承を知りました。

信玄に関するオカルト情報

諏訪湖に眠る信玄?

1576年4月12日、夜が更けた頃、信玄を納めた石棺が諏訪湖に静かに沈められた。その際、作業にあたった侍たちの松明の赤い光に照らされて赤い泡を吹き出しながら湖底に沈んでいったと伝えられている。(甲陽軍鑑より)

歴史と共に旅をする「戦国武将ゆかりの地」

「信玄の石棺が諏訪湖に沈められている」という言い伝えが残っているのだが、なんと1987年に諏訪湖の湖底から菱形のくぼみが発見されたとのこと。菱形といえば武田家の家紋です。以下に湖底調査の詳細を引用させてもらいます。

湖底の調査は1988年から1990年までの間に5回にも及び行われた。しかし調査の結果、これが人工物であるということは確認できなかったのである。さらに調査を進めると、菱形(くぼみ)の内部に3~4メートルの大きさの穴があることが確認された。
1989年の調査の際にはその穴の中から長さ70~80センチの金属と思われる物体が水中モニターで確認されている。ドラム缶の類ではないだろうかと言われているが、15センチ大の文字で書かれた長さ25センチほどの石版や、桔梗(植物)の紋のお椀が1個発見されている。
また、菱形の「くぼみ(凹み)」は東西に17~20メートル、南北に20数メートルの大きさの形状であることが確認されており、菱形の頂点が東西南北を指していることから自然の造形物とは考えにくいとされている。

歴史と共に旅をする「戦国武将ゆかりの地」

底は厚い泥に覆われているのでこれ以上の調査は困難だったようです。菱形の頂点が東西南北を指しているとかオカルト過ぎない?

信玄の愛した人、諏訪御料人

この信玄伝説について諏訪湖に沈められた石棺には信玄の愛した側室が眠っているのではないかという、気になる考察を見つけた。諏訪湖が見渡せる場所にある小坂観音院の住職のお話から。以下に引用しておきます。小坂観音院には信玄の側室、諏訪御料人の供養塔がある。しかも、菱形のくぼみは小坂観音院と旧東照寺を結んだ線と、諏訪大社の上社と下社を結んだ線がちょうど交わるところで発見されたとのこと。

当時の武田勢は非常に勢力を持っていて、右肩上がりだった。信玄の正室は三条夫人なんですが、そんな勢いがある中で亡くなった三条夫人のお墓は、とっても立派なものを建てているんです。なのに、一番愛したとされる諏訪のお姫様のお墓はないんです。高遠のお寺にあるとされていますが、そのいわれは不明な部分があるらしいですしね。だから、もしかしたら、この石棺の中には諏訪のお姫様がいるのではないか。諏訪湖に葬って、湖全体をお墓にしたかったのではないか。とも考えられるわけです。

http://radikanchosatai.naganoblog.jp/e1788031.html

守屋山のふもとにお墓が存在する理由ってもしかして。信玄は諏訪御料人が眠る諏訪湖全体を見渡せる守屋山に静かに眠っている、ということだったりして…。ロマン。真実はわかりませんが、信玄のお骨は縁ある場所に分骨されている感じもいたします。

歴史とはロマン

神宮寺跡にあった信玄の墓と思われるものから、こんなにも歴史を調べることになるとは。めっちゃおもしろい。歴史マニアの気持ちがわかった。信玄という人物は文武両道で、神や仏を信じて戦う強い人。山梨県人として身近に感じてはいたけど、好きになりました。

私のおばあちゃんは韮崎市神山町の生まれで、そこは信玄の祖先武田信義がいたところなのです。おばあちゃんの実家の門には武田菱があるらしく、もしかしたら武田家関係者だったのかもしれない…。遠い血のつながりを想像しながらこの記事を書いておりました。単なる偶然ではありますが、諏訪神党と言われる諏訪氏一族の関係者と思われる姓に、私の旧姓と今の姓どっちもあったんです…。嫁ぎ先の本家は諏訪の近くでもある。ロマン。

他にも気になったこと

上社本宮の神宮寺跡は案内看板が倒れていたり、ちょっと荒れている。なぜかマレットゴルフのコースにもなっている。長野県ってマレットゴルフプレイ人口が多いらしい。去年とある縄文遺跡に行ったんだけど、そこもマレットゴルフコースと一体になっていた。長野県民による遺跡の有効活用法なのか。あとね、本宮近くのお土産やさん街がやたらフクロウ押しでフリーメイソン!って感じがしました。法華寺の先にあった墨繩神社って大工の神社ぽいし。諏訪大社はオカルト。