前編に引き続き、この世界の真実を図解と共に解説していく。今回の記事もこの図を見ながら読んでほしい。前回は「自己と他者という空間(赤い円、青い円)」「未来に進む時間と過去に戻る時間(赤い実線、青い破線)」「世界の中心である自我(グレーの部分)」について説明してきた。今回は白い円について。

この世界の見取り図
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つぎに「このブログについて」を読んでもらうと
この記事への理解が深まると思います。

白い円についての概要

白い円について
2つのものが重なっている
人間は知覚できない
空間…地上と海、北と南
時間…生まれる瞬間と死ぬ瞬間

人間は生まれてから自己を持ち、いつかは必ず死が訪れ、自己と共に存在そのものが消えてしまう。そんな当たり前の人間の一生であるが、図解の中の白い円は人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間を表しているのである。それら瞬間は私たち自己を持った者たちが意識的に知覚できない。

死ぬ瞬間と生まれる瞬間は、重なっている。時間としても空間としても重なっている。「重なっている」ということがどういった意味を持つのかは、この後説明していく。

生まれる瞬間と死ぬ瞬間について

生まれた瞬間には自己や自我が芽生えておらず、世界と自分の境界線はまだ曖昧であるから、その時の詳細な記憶や感情も曖昧である。生まれた瞬間の記憶を持っている人も稀にいるようだけれど、ほとんどが大人になったら忘れてしまう。

そして死ぬ時の記憶や感情も、死んでしまうのだから表現することも思い出すこともできない。死んでしまった人から終わりの瞬間についての体験談を聞き出すことはできない。その瞬間は謎に包まれている。

このように白い円は、知覚することが難しい瞬間であり空間である。人間の生と死は実はとても不思議なもの。子供の誕生や親の死など、他者の生と死を見ることはできるけれど、自分自身の誕生時のことは覚えておけないし、死ぬ瞬間がどんな感覚なのかは、その時が訪れるまで知ることはできない。

重なっていることについて

自分だけが存在している世界

生と死は別々のものに思えるけれど、その瞬間(時間)と空間が重なっていることを説明していくのに重要なことがある。それは前回の記事でも説明したとおり、この世界において、実体をともなった存在は自分ひとりだけであるということ。

存在しているのは自分ひとりだけなのであるから、実際に死ぬのも自分ひとりだけである。もちろん生まれているのも自分ひとりだけである。自分だけが何度も生と死を繰り返しているというのがこの世界の真実。

実体と投影

ここで少し前回のおさらいをしておく。図にも書いてあるとおり、自己は実体であり他者は投影である。自分が生まれると同時に他者という存在もデータとして作り出される。

自分だけが何度も生と死を繰り返していると言ったけれど、自己が体験するイベントとして、他者にも生や死がある。

他者はデータであるけど、他者にも実体がある。前回の記事を読んでもらえば詳しく書いてあるけれど、どういうことなのか改めて引用しておく。

自己から見て、他者は人間のコピーである。例えば、このブログを書いている「わたし」は自己であるから、本体である。そして、わたしの親や旦那や友達やこのブログを読んでくれている人は全て人間のコピーである。

しかし、今このブログを読んでくれている「あなた」は自己であるから本体である。そして「あなた以外の人間」は人間のコピーである。「あなた」にとって「わたし」はデータでしかない。このように視点が変われば、本体と投影(データ)が切り替わる。それがこの世界の不思議なところ。

世界を映し出す自分

自分以外の「人・もの・こと」は全て投影されているもの。映画のように「世界」を投影する映写機が自分自身であり、目で見ているものは自分が映像として発しているのだ。

だから生まれる瞬間も死ぬ瞬間も自分自身が投影しているだけ、ということになる。何か神様のようなものが生を授けてくれたり奪ったりしているのではない。

映写機である自分だけが実体であるから、生と死は実体のないイベントである。けれど、生と死は人間にとっての一大イベント。投影であれど『生と死は実体である』と考えることができるのが「解脱」である。意味がよくわからなくても頭に入れておいてほしい。

重なっていることの意味

人間の生と死の仕組みは実はとても単純なもの。映写機から映像が投影される瞬間に人間は生まれ、映像が消える瞬間に死ぬのである。世界を(自分を)投影するのには、映写機のスイッチをオンにしなければいけない。

映写機のスイッチが切れた瞬間に死が訪れ、スイッチが入るから生まれる。そして、スイッチのオフとオンはほぼ同時である。つまり、私たちは死んだ瞬間に生まれている。生と死は同時に起きている。それが「重なっている」ということ。

輪廻転生の実際のところ

みなさんの「輪廻転生」のイメージは、死んだら魂が天へ登って、次の人物を探して地上に降りて、その肉体に魂が乗り移る、という感じであるのかもしれない。

実際は、自分の本体(魂とも言う)は移動などせず常に固定された場所にあり、1つの人生が終われば、また次の人生が投影されているだけなのである。

肉体に入り込むのではなく、目の前に映し出されるストーリーが次々と変わっていくのを見て体験しているだけ。ただ投影するものが変わっていくのが「輪廻転生」である。

固定された魂

自分という存在は常にとある場所に在る。場所という単語を使うのが正しいのかはわからないけれど、とにかく自分(魂)は絶対に移動したりしていないということが肝心。具体的にどこに在るのかというと図解の中心にあるグレーの部分である。具体的ではないかもしれないが…。

中心にあるグレーの場所に存在することについて言葉で言い表すとしたらこんな感じ。「自分が在る」ということがずっしりと重みをもちながら、世界の全てをすっきりと見渡せる感覚を持ち、「自我」を強く感じる状態。

関連記事:自我について

白い円は世界の基本となるもの

現実はリアルな夢

自分自身は常に固定されている存在なのだから、どこにも移動していない。人間である私たちは身体を持っていて、足で歩いたり手を動かしたりしているけど、そう感じているだけである。

前回の記事で既に説明しているけれど、私たち人間は水槽の中にある脳みそだけの状態のようなもの。現実の全ては夢である。けれど、あまりにもリアルだから夢だとは気がつくことができない。実際このような話は昔から人間の間で語られていることであるし、そんな世界観な物語も沢山ある。

信じること

少し話はそれるけれど「解脱」というのは『現実は夢の中である』と完全に信じることである。信じる、という言葉を使うと宗教ぽくなってしまうのであるが、信じないことには「真実」の全貌は見えてこない。

このことを「信じる」には勇気がいる。それから完全に「信じる」ことはとても難しい。信じているようで信じていないということは多々ある。

世界を投影する映写機

私たちはリアルな体験をするために、縦・横・奥行きのある空間というものを設定している。現実世界というのは、実体である自分が求めたもの・ことがそのまま投影されている場所である。

自分という映写機は、空間を映し出して、さらにその中に居る感覚をも作り出している。空間や感覚などすべてを創り出すかなり高性能な映写機と言える。

北と南、地上と海について

0と1から始まる世界

自分自身を夢の中に実体として存在させるには、まずは空間が必要である。世界を投影するための最初の仕事は、映写機のスイッチのオンとオフである。すべての始まりはオンとオフという2工程しかない。0と1である。世界の始まりはオン(1)だけと思われるけれど、同時にオフ(0)も行われている。

オンオフが同時に行われないと投影はできない。世界を映す光を生むには電力のようなものが必要であるけれど、オンとオフがほぼ同時に行われることで映写機を動かす力が生まれるのである。映写機を動かす力についてはまた別の記事で。

ともかく、スイッチをオンにしたら空間が創造される。世界が創造される第一歩として、映写機はまず空間に北と南を作りだし(そのあと西と東も)、そこに大地と海(そのあと山とか川とかも)を作り出す。さらにその他すべてのもの(生物など)が展開されていく。

まず最初に北と南が作られるのは、方向を定義付けする概念が必要だから。空間の位置を示すものとして「東西南北」という概念が存在するけれど、現実世界でそれらを実感するためにも目に見えるものが必要になる。だからそのあとに地上と海が作られる。概念が生まれれば、そのあと必ず目に見えるものとして現れる。

目に見えるものには意味がある

目に見えるものがあるから、つくられた空間であっても存在を実感できる。そして目に見えるものは、この世界が投影であることを暗に示している。暗にではなく、明にかもしれない。

目に見えるものは私たちに『この世界の真実』を語っているのだけれど、それは当たり前のようにそこに存在するものであるから、私たちはそれに疑問を持つことはない。

空間の重なり

南と北、地上と海はまったくの別物なのに、この世界に同時に存在していることは「重なっている」と言える。この世界に地や海が存在していることは当たり前のことであるが、よくよく考えると異様なのである。

オン(1)とオフ(0)から世界は創造されている。そのことを示すために、北や南、地上と海が存在する。世界(自分)が生まれる瞬間にあたるのが北であり、地上である。死ぬ瞬間にあたるのが南であり、海である。

目に見えるものが私たちに教えてくれる、この世界の仕組み。それにはっきりと気がつくのが「解脱」であったりする。

生と死を繰り返している私たち

世界が投影される瞬間が1であり、世界が消える瞬間が0。人間が生まれた瞬間に世界は投影され、人間が死んだ瞬間に世界の投影は終わる。けれどそれらは同時に起きている。つまりは、私たちが見ている世界はほんの一瞬のできごとなのである。

一瞬で基本(0と1)から世界(2〜無限)が展開していき、一瞬でそれら全てが消えている。けれど私たちはオンとオフが同時に起きていることを認識できない。その一瞬は目にもとまらぬ速さで繰り返されているから、この仕組みを見破るのは難しい。

一瞬が連続しているから、私たちはオンが続いていると錯覚している。人間の一生は『生まれるところから始まり死ぬところまでで終わり』だけれど、実は生まれてから死ぬまで、毎瞬生きては死んでいる。

基本が大切

世界には様々なもの・ことが存在しているのに、なぜ白い円には、北と南、地上と海しか書かれていないのか。それは基本が全てを創り出しているからである。

基本になるもの以外はすべて基本から生まれたもの。基本から生まれたものは、基本なしには生まれることがない。基本になるもの(0と1)と、それ以外のもの(2から無限)の違いは大きい。北と南、地上と海は特別なのだ。

重なる時間について

ということで、白い円についての解説はだいたいおわり。生と死の瞬間の「重なり」、北と南・地上と海という空間の「重なり」について理解できれば「解脱」にも近づけると思う。

ところで、過去に戻る時間(青い破線)の先には死を表す南と海があり、未来に進む時間(赤い実線)の先には生を表す北と地上がある。これが意味するところは前回の記事でこのように説明している。

左回りの青い破線について
精神世界
過去に戻る時間の流れ
「苦しみ」に囚われながら生きること
終わり(死)に繋がっている

右回りの赤い実線について
現実世界
未来に進む時間の流れ
「苦しみ」を受け入れながら生きること
始まり(生)に繋がっている

時間の流れには2種類あり、私たちはどちらも体験している。普段体感している時間は未来に進む時間だけれど、頭の中で過去のことを深く考える時、過去へ戻る時間を体感している。

どちらか片方の時間しか体感することはできないけど、過去に戻る時間と未来に進む時間は重なっている。そして、過去に戻る時間は死をもたらし、未来に進む時間は生をもたらす。

2種類の時間が重なっているから、生と死も重なっている。重なる時間についてはこちらの記事でも詳しく解説しているのでぜひ読んでほしい。右回りの時間と左回りの時間。そしてスイッチのオンとオフ。人間の仕組みはとてもシンプルだった。