今一度「悟り」について考えたい。と突然思いついたので、書いてみる。そしてついでに「解脱」についても考えていく。
わたしの「悟り」体験について
プロフィールにもあるようわたしはいちおう「悟った」からこのブログを作った。わたしが「悟った」時のエピソードは以下の関連記事にリンクしておくので、ぜひこれを読んでね。
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この記事を読み返しているとまだ文章も書き慣れてなく懐かしく恥ずかしい。この「悟り体験」はまだ始まりに過ぎなかった。
こちらの記事に「悟り」と「解脱」の定義を書いている。このブログでは「悟り」と「解脱」という言葉を別のものとして、このように定義を分けて考えている。
「悟り」の定義
自分の意識次第で「苦しみ」が消えることに気がつくこと。しかし「苦しみ」をもたらす「現実世界」が創造される原理を理解していない。
「解脱」の定義
自分の中の「罪悪感」を完全に消し去ることで「輪廻」から抜け出すこと。そのうえで「生きること」の真意を知ること。
こんな定義にしたけれど、これを踏まえてもう一度「悟り」とついでに「解脱」について考えてみたいと思う。
「悟り」とは何か簡単に解説!
「悟り」とは人生の「苦しみ」から逃れたい人が到達する結論。その結論は「世界は無い・自分はいない」というもの。その結論を出す時、神秘的な体験を伴ったりもする。
シンプルに世界(自分をとりまく事象)を無いものとすれば、全ては解決する。何にもないという前提で、この辛く厳しく悪がある現実世界は幻想である、という達観した世界観で生きていくのが「悟り(仏教系)」。また、そんな幻想の世界の中で喜びや楽しみにフォーカスし、ポジティブに生きていくのが「悟り(スピリチュアル系)」。仏教系、スピリチュアル系というのはわたしの偏見です。
「悟り」とは人間が苦しみから逃れる為のプログラムのようなもの。「悟り体験」は人によって様々であるけれど、最終的に「世界は無い・自分はいない」にしかいきつかない。
自分とは何者か?人生の意味とは?などと考え始め深みにはまっていくと、心の破壊をもたらすことになる。それを防ぐための防御反応として「悟り」がある。「悟り」とは思考をリセットさせ、人間らしい人生をおくらせる為の良くできたプログラム。
「悟り」が起きたにもかかわらず、また深みにはまる人間がいる。そんな人にはさらなる特別プログラム「解脱」が待っている。まずは「悟り」について話を先に進めようと思う。
「悟り」を開くとどうなるのか?様々な体験記を検証
自分から抜け出し自分を観察すること
わたしだけの体験談では説得力がないので、他の人の体験記も読みながら「悟り」を深掘りしていきたい。ネットで見つけたこちらの「悟り」体験記をまずはご紹介させてください。
先日、買い物帰りに突然、私は私の身体から出た。
私が抜けたというより、私のへそからポンっと肉体が飛び出た感じだった。身体は私のすぐ前に、後頭部と髪の毛が、鼻先にあたるくらいの距離感で、
私の前にぶら下がってる感じだった。(中略)
後頭部から見下ろす「私」は、悲しげだった。
寄る年波にやられ、人生の堆積が重たそう。
「すべては自分のせいだ」と、黙って受け入れ悲しんでいるようだった。肉体は勝手に動き、
思考はポンポン、温泉のように湧いては消え、
感情もそれに併せて匂い立っていた。それは全部、<自動的>に起こっている。
誰が起こしてるんでもない。
動きも、思考も、感覚も感情も。
やってきてる。(肉体のそばを通過していく)にもかかわらず、
「私」は、それ全部を、「自分がやってて自分に責任がある」と思ってうつむいていた!
(中略)
人間の動作も、
人間の心にわく思いも、すべてがシナリオどおり。
まるでプロンプターがいるみたいに、瞬間瞬間、指令(サイン?)、電気信号がやってきてその通りに再現されてるだけ。
それを、自分がやっていると信じ込む、というオプションだけが、
ベルのしずく2
物体や動植物と違うところ。
この方は自分が自分を観察している感覚に陥った。人生に起きる様々なことを考え嘆き悲しんでいる自分を客観的に観察したのだろう。自分から抜け出してみたら、自分の行動も思考もただシナリオどおりに自動的に起きているだけだったと知る。
自分を含めた世界はありのままただそこに存在しているだけ。ありのままの世界を見て湧き出る思考は単なる反応で、その反応をコントロールしようとするから苦しい。この方は、その反応する心を「自分(わたし)」としていたから苦しいということに気がついた。その心を自分としなければいいのだ、と気がついたのである。
この方はこの体験によって『悟りたいと思わなくなった』と言っているけど、この体験は「悟り」と言っていいと思う。とはいえ「悟り」にも段階のようなものがあるから、もっと上の「悟り」を目指していたのかもしれない。
わたしはいない・全てはひとつの意識だと知ること
「悟り」によって、多くの人が「わたしはいない」という体験をしている。次に引用させてもらう悟り体験記は、「悟り」を得るために禅の道場で修行をした僧侶の方のおはなし。とても興味深い悟りの瞬間です。
またモヤモヤ考えはじめた。
「何か」を「わたし」が為そうとすること自体が道に背いているということは理においてもよく分かる。「成りきる」にも「成りきる」という意識が沿う。「成りきらせている人」が残る。しかし功夫をするというスタートに立たなければどうにもならない。そもそも一体「誰が」功夫しているというのだろう。
色々考えた挙句、結局為す術もなく一切を投げ出してしまった。諦めた。坐禅も修行もやめてしまった。(中略)
その日の夜、また1炷を坐り終え、なんだかもう経行をするのも面倒になり、そのまま足を組み換える。坐禅に入ろうとしたその刹那、身体が世界に溶け、全て丸ごと消え失せる。
只驚く。世界もこの身体も何も無い。
「無い」も無い。無の根源。意識だけが鮮明。外の道路を車が走っていたのだろう、自分の身体の中を、車が走っている。1時間近く続いただろうか。徐々に感覚が戻ってくる。
全ての存在がありありと存在感を増し、そのまま互いに溶け合っている。
翌朝、鳥が自分の中で鳴いている。境内の中の橋を渡ると、下を流れる川が自分を抜けていく。「こんなにもこの世界は豊かだったんだ。」
その二日後、坐禅中に意識が途切れる。はっと我に返ったとき、自分がいない。拍子抜けする。自分を見ていた「人」がいない。周りを見ても、どこにもカタマリがない。自分も世界も縁そのもの、ただ一つ。思いは思いのまま、意が意を扱おうとしない。坐る、立って歩く、手を動かす。それで終わっている。何も「自分」の知るところではない。全存在がすでに満ち足りている。何も求めようがない。
やっと自分に会えた。無位の真人。このとき、確信する。
ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落
身体が世界に溶け全て丸ごと消える、世界もこの身体も無い、という体験。この後さらに「心身脱落」という体験も。
この意識の中に世界が丸々すっぽり入っている。空も山も川も月も太陽も。夜中に雪が降っていた。漆黒の空から白い雪が音もなく降る。自分が降っている。とてつもなく荘厳な景色だった。それを包む鏡のような意識。乾坤只一人、宇宙にはこの意識たったひとつしかない。
ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落
この方は「意識の中にある世界・宇宙にたったひとつしかない意識」を感じた。このお話はリンク先で始めから最後までぜひ読んでもらいたい。
わたしも同じ結論に至り、そのことについては「1度目の悟り」体験記の中にも書いている。わたしの場合、そのたったひとつの意識は「わたしのもの」という感覚であったが。
永久で不変で独立する真我がある
「悟り」によって「世界は無い」とか「自分はいない」という結論を出すのに、宇宙にたったひとつしかない意識は有る。それがわたしたちに幻想を見せ、現実世界を作り出しているということであろうか。けれど悟った人は、そのひとつの意識は「自分ではない」という。
悟った人はそんな意識がどんなものであるか、結論も出している。それをわかりやすく解説してくれるのがヨーガでいう「真我独存」。その解説は元オウム真理教、上祐氏のサイトから引用させてもらいただきたい。
ヨーガでは、真我というものを説く。サンスクリット語では、アートマン(Ātman)である。ヴェーダの宗教(バラモン教・ヒンドゥー教)で使われる用語であり、意識の最も深い内側にある個の根源などを意味する。
わかりやすくいえば、真実の自分、自分の本質といった意味だが、重要なことは、心とは異なるものであることだ。本来、真我は、純粋な認識主体であって、思考・感情・意志・欲求などの心理的な要素は一切含まない。絶えず移り変わる心(の諸要素)と異なり、真我自体は決して変化することがなく、永久不変の平安の状態にあるとされる。
ところが、ヨーガの根本経典(ヨーガ・スートラ)によれば、普通の人の場合は、真我が、心を自分自身と混同・錯覚しているとする。そして、真我が、心を自分自身と錯覚して一体となっているので、心が苦しむとともに、真我が苦しむ状態に陥っている。本来は、真我が認識の主体であって、心は、体や外界と同じように、真我が認識している対象にすぎない。
しかし、映画の観客が、映画の主人公に熱中して、主人公と精神的に一体化すると、映画の主人公の苦しみを、そのまま自分の苦しみのように感じるのと同じように、真我は、心と同化して心の苦しみを感じているのである。映画のたとえを使って、さらに説明すれば、この映画の名前は、21世紀の宇宙・地球・日本であり、それは三次元立体映画であって、その中の主人公は「私」という名前であり、観客席は「私」の体の頭部にあって、観客であるあなたは、体はなく、単なる認識する能力を持った意識である。
そして、あなた=真我は、「私」の心や体を動かしてはいない。あなたは純粋な観客・観察者として、それを見ているだけである。しかしながら、あなたは、「私」の心を自分だと混同・錯覚し、「私」の心や体とともに苦しむのである。
ヨーガの真我の思想と最新の認知科学
真我とは、永久不変で心ではないもの。「宇宙にたったひとつしかない意識」がこの真我のことだろう。意識というより認識するもので、心理的な要素は一切含まないとのことなので、意識と言ってはいけないのかも。とにかく、わたしはいないけれど真我はあるのだ。
普通の人(悟ってない人)は、心を自分自身だと混同しているという。だからこそ真我も苦しんでいる。真我は移り変わる心のように変化するものではないが、心にひっぱられる。悟ってない人の真我は本来の真我じゃないということ。
こうした思想に基づいて、ヨーガが目指すものは、真我が心(や体)を自分自身と錯覚した状態から抜け出して、独立することである。これを真我独存位という。真我独存位に至ると、永久不変の平安の状態に至るとされる。そして、この状態に至れば、インド思想が説く輪廻転生からの解脱(モークシャ)をもたらす。なぜ解脱できるかというと、輪廻・生まれ変わりの原因も、真我が、生き物の心(や体)に執着して、それを自分の物と錯覚することであるからだ。
そして、真我独存位に至るために、ヨーガは、心の働きを止滅することを目指す。実は、心の働きを止滅することが、まさに「ヨーガ」という言葉の本来の意味である(ヨーガは体操ではない)。広くは、心の制御・コントロールとも解釈できるが、ヨーガの根本経典であるヨーガ・スートラには、心の働きを止滅することだと明記されている。
ヨーガの真我の思想と最新の認知科学
真我が心や体を自分自身と錯覚しない状態になると、真我は独立し「解脱」に至るという。それが「真我独存」であり、生まれ変わりの原因とか結果とかに執着しなくなる。そうなると、輪廻という概念など無くなってしまう。
ヨーガでは真我独存(解脱)に至るために「心の働きを止滅する」ことを目指す。実はわたしが「1度目の悟り」で経験したのがこれ。心も呼吸も止まった瞬間を確認したので「無」を知った。止滅を経験したからこそ後々いろいろなことを理解できた。
真我と自分(心)を同化させず、心を止滅し輪廻を作り出さない状態がヨーガでいう「真我独存」。ちなみにこのブログではそれを「解脱」とは定義しておらず、「悟り」という定義にしている。
「悟り」について、わたしの見解
たまごの外に出てみること
「悟り」についてわたしなりにまとめてみたい。「悟り」とは日常から突然抜け出す瞬間でもある。今まで世界というたまごの中にいた自分は自分を通して世界(たまごの中)を見ていた。けれど、たまごの外に出てみたら自分というフィルターを通さない世界が見えた。たまごの中の事象は自分とは関係なしに自動的に起きていることを知る。
たまごの内に入ること
ところで、このブログを書いているわたしの「悟り」はベッドで読書している時に突然起きた。その時真っ暗い宇宙のような何も無い空間を観察した。宇宙かと思いきや、そこは自分の内側だった。たまごの中にいる自分のさらに内である。わたしは自分の呼吸(心拍)を観察した。「何も無い」と感じたのは息を吸った瞬間(心停止の瞬間)であったということ。そして息を吐くと世界が現れるということを理解した。
このように生じては滅する、有ると無いとを体験した。呼吸(心拍)という自動的で規則的な世界。たまごの外に出た「悟り」と結論としては一緒だ。
わたしは「無」を確認し心が自由になった。今まで悩んでいたことは「無」という真実を目の前にしたらどうでもよくなる。今までは「有る」という世界だけが連続していた。生きているかぎり「有」だけが続いてるように思っていたけれど、初めて「無」という存在を知ったことで、今まで続いていた世界を客観的に見れるようになった。
「悟り」で自分と世界を分離したり一体化したり
他の方の体験記のように、自動的でありのままで全てが満ち足りた世界がただ存在しているだけだと理解すると、今までの世界についての考え方を改めることができるようになる。
とある「悟り」では、自分と世界とが切り離される。自分と苦悩を生む事象(世界)が切り離されたことで、人生における悩みや未来への心配ごとが消える。「苦しみ」は自分と世界が繋がっているからこそ生まれる。人間は世界に起きる様々な事象を見て感じ、心が揺れ動くのだから。
またとある「悟り」では、自分と世界が一体化する。私が消えるという体験では、世界と自分が完全に一体化することで世界を全肯定できる。全肯定することは事象全てを受け入れること。善も悪も平等となる。「苦しみ」は世界(苦悩を生む事象)を否定するからこそ生まれる。
結局「苦しみ」の発端は「わたし(自我)」なのだ。自我とは世界の中に存在する自分に対する感情みたいなもの。世界と離れて消える自我、世界と溶け込むことで消える自我。どちらも「苦しみ」を感じるわたしを止滅することで、自我(わたしは苦しみを感じていると思う心)を消すこと。
『自分と世界が分離する悟り』と『自分と世界が一体化する悟り』。分離であれ一体化であれ、自分が生きる世界への認識が変わる。そして「悟り」が起きたのならその状態を保たなければならない。
「悟り」を開く人の特徴
「悟り」とは人生の「苦しみ」から逃れたい人が到達する結論。その結論は「世界は無い・自分はいない」というもの。その結論を出す時、神秘的な体験を伴ったりもする。
最初の方にこのように書いたけれど、人生における「苦しみ」について真剣に考えている人がいずれ「悟り」を開く。特に「苦しみ」について考える時間が連続していて、深く考えている人。
人生の中には良いことも悪いこともあるけれど、「苦しみ」に注目しはじめると今までさほど気にしていなかったささいな苦しみも拡大していく。精神病のようになる人もいるかもしれない。
「苦しみ」について考えれば考えるほど思考は煮詰まっていく。そして同時に解決策を模索する。そしてある時、頭がすっきりとする結論が出ることがある。それが「悟り」。精神病から抜け出せない人は「悟り」という結論が出せなくて苦しんでいるのだろう。
「悟り」は「苦しみ」に終止符を打つような体験である。わたしのように、終止符にならない人もいるのだけれど…。
「悟り」を越え「解脱」にせまる
わたしはいないのにわたしがいること
先ほど引用した僧侶の方の体験記の中で、彼は師匠から「悟っても全てを忘れろ」とアドバイスされていた。「悟り」で起きたことに執着してはいけないという。
けれどわたしは悟り体験について深く考えたり「わたし」という存在に執着した。何故なら「わたしはいない」という体験が「悟り」なのに、わたし(身体)は結局消えなかったし、宇宙と一体化するような体験はなかったから。
実際「無」を観察したけれど、「無」を感じている存在が「わたし」なのだから、「わたしがいない」というのはあり得ないと思った。わたしはわたしに執着した。
『悟りで起きたことに執着してはいけない』というアドバイスはすごく正しい。「悟り」が起きたのにまだ「自我」に執着するのはとても危険なこと。元オウム真理教の上祐氏は、オウム事件の教訓からこんなことを書いていた。
(※「真我」について:なお、ひかりの輪では、自分自身の中に永久不変な「真我」があるとする説を絶対視したオウムの教訓として、真我を認めるヨーガの修行では、場合によっては自我意識が肥大化し自己を神であると考える意識状態(いわゆる魔境)に入る恐れがあることを指摘し、伝統仏教にならい自己を特別視しない無我説を重視している)
オウム真理教は自分自身の中に「真我」がある、という説を絶対視していたらしい。「わたしの中」に真我があるということを意識するのなら、「わたし(自我)」は消えることがない。だからこそ自我が大きくなってしてしまう。
真我は宇宙にたったひとつの意識である。それを「わたしのもの」とするならば、宇宙の中心に自分がいると感じるし、自分を神だとも感じる。麻原はそのようになったからサリン事件を起こした。
このブログを書いているわたしも、真我を「わたしのもの」だと思っている。だから宇宙の中心はわたしだし、神もわたしだと思っている。自我を強く意識するとはそういうことなのだ。
このブログにおける「解脱」の定義
ここで、このブログにおける「解脱」の定義をおさらいしたい。
「解脱」の定義
自分の中の「罪悪感」を完全に消し去ることで「輪廻」から抜け出すこと。そのうえで「生きること」の真意を知ること。
ヨーガにおける「真我独存」は心を止滅して輪廻から抜け出すものだけれど、わたしの考える輪廻からの抜け出し方は「罪悪感」を消すこと。
そもそも何故人間が「苦しみ」というものを感じるのかというと「罪悪感」があるから。人間は事象に善か悪かという基準を決めていて、全ての「苦しみ」の根源に自分が決めた悪という基準がある。
このブログが考える「解脱」というのは、善か悪かを分別している自分に直面し、何故その悪を悪と分別しているのか理解すること。自分が悪と考えている事象について考え、それに納得することなのである。悪=自分の罪という意識があり、それを否定したいから「苦しみ(罪悪感)」を感じる。最終的に『この世界における悪全ては自分の罪』ということを認めれば「罪悪感」は消える。
「悟り」という体験で世界を全肯定したとき、既にそれは起きているように思える。全肯定とは善も悪も肯定することであるから。けれどそれは「苦しみ」の根源を大まかに「心」としているだけに過ぎない。「善も悪も存在する世界」をまとめて全肯定することでこれ以上「揺れ動く心」に執着しない、という結論を下しただけなのである。
繰り返す世界と繰り返す思考
輪廻とは「繰り返す思考」のことでもある。繰り返す思考によって心(自我)というものを感じて「悪」が定義される。喜び(善)や苦しみ(悪)の分別を繰り返すことにより、パターン化された思考から抜け出せなくなる。
この世界も思考も「繰り返している」。繰り返されるシステムを自覚しながら「苦しみ」を何度も体験する。その過程で、そこから正しく抜け出す方法を考えるのが「解脱」。自分の罪を認め罪悪感を消すことで繰り返すシステムを超客観的に捉えることができるようになる。その状態でシステムを体験すると、全ての始まりが自我(わたし)であることを理解する。
「悟り」は自我(わたしは苦しみを感じていると思う心)を消すことなのだから、既にこの繰り返す世界の原因が「自我(わたし)」にあることを理解している。だから解脱とあんまり変わらないとも言える。けれど悟ったって結局繰り返す人生はわたしを中心に続いていく。
本当は怖い真我の真実
「解脱」を目指すのならば「わたしの中にある真我」を探す必要がある。わたしをわたしと思う心(自我)は身体の内にある。自我の奥深くに潜ると、そこに「真我」と呼ばれているものがある。世間で「真我」は「本当の自分」とも言われている。
「本当の自分(真我)」はほんとうはとても怖い。「本当の自分」に辿り着いた時理解することは、ありとあらゆる「わたし」がこの世界に存在しているということ。ありとあらゆる「わたし」をひとつにまとめたものが「本当の自分(真我)」なのだ。その真実を知る時、全ての「わたし」を受け入れなくてはならない。それはとてもとても難しい。
全ては一つ、ワンネス意識、陰と陽の統合。これらはオカルト界隈、スピリチュアル界隈でよく聞く言葉である。その言葉の本当の意味とは、大嫌いなあの人も、ニュースで見かける凶悪な犯罪者も、みんな「わたし」であるということ。それを認められるかどうか。悪も含めての「わたし(世界)」なのだから。この人は悪い人だからわたしには関係ない、と思うのなら「真我」を理解していないことになる。
自我=個であるならば、真我=全である。ヨーガなどで真我を目指す人々は自我を消そうとするし、「わたしはいない」という結論を下す。けれど、真我とは自我の集合体なのである。全ての自我を融合してまとめたものだから、個(自我)であることを認識できなくなるというだけで、自我(わたし)は消えていないのである。
このように、個であるのに全・善であるのに悪・自我なのに真我・あるのにない、それに矛盾を感じないことで本当の神になれる。
自我の奥深くにあるわたしという宇宙
今回「真我」という言葉の説明をしたけれど、「真我」という言葉を使わずとも「自我」だけで良いと思っている。「自我」を追求しなければ、そこへ行けないのだから。
自我の奥深く、全てのわたしを理解すると、それ以上先にいけない場所にたどり着く。そこで気がつくのは内と外は全く同じ場所にあるということ。場所という言葉は、わかりやすい表現として使っている。心のいちばん内側(精神)と、現実世界に存在する宇宙の果て(いちばん外側)は、まったく同じところなのだ。
つまり、宇宙の始まりと終わりはわたしであるし、わたしの心の中に宇宙が存在していて、宇宙の中にわたしの心が存在している。それが永久で不変な「わたし」。宇宙は「わたし」というひとことで表すことができる。
関連記事:内と外は同じ場所(生と死は同じ場所)
「悟り」と「解脱」は理論構築
言葉は円を描くもの
ちょっと変わった「悟り」体験記を見つけたのでご紹介したいと思う。
M1の夏、研究室から帰宅した私は、それまでに経験したことのない激しい息苦しさを感じていました。意識が飛んでしまいそうなほどの苦しみに耐えながら布団の中にうずくまっていると、突然頭のてっぺんから腕にかけて「雷に打たれた」と言いたくなるような衝撃が走りました。そして、世の中の全てのものが私と一体化したような不思議な感覚になりました。私にはこれが何なのかよく分からないのですが、小さい頃に読んだ手塚治虫の『ブッダ』の悟りのシーンに似ていたので、「悟り」と呼ぶことにしています。
その不思議な感覚の中で、沢山の映像が見えてきました。「軋んだような音を立てる、針がキラキラした大きな羅針盤のようなもの」「脳の中の情報が0と1まで分解される様子」「受精の様子」、、、などなど。それはまるで、誰か別の存在に無理やり見させられているかのようでした。映像が終わったあとは、またすごい速さで、今度は言葉が上から下へ流れるように、滝のように降りてきました。自分で考えているとは思えないほどの速さでした。私は5日間くらい必死で言葉を記録し続けましたが、後から気味が悪くなって全部捨ててしまいました。見たり考えたりした覚えのないものが頭の中にあるのは、とても不快でした。
うっかり悟りを開いちゃった時の対処法
この方も『世の中全てのものが私と一体化したような不思議な感覚』をもった。『言葉が滝のように降りてくる』という体験もしているが、わたしも二度目の「悟り」で同じような体験をしたのだ。思考がものすごい速さで続いてそれが止まらず、脳に異常な熱さを感じた。それが一週間ぐらい続いた。
さらに、その後のお話も引用させていただく。言葉が視覚化した時の詳しい内容である。
視覚化された言葉のうち、いくつかの文章としてまとまりを持ったものは、連なって円を描きました。これもやはり、機械音を立てて、「しかし」とか「だから」のような接続詞のところで区切られながら、4拍子で回っていました。起承転結という概念が具現化されているようだと思いました。言葉は、自分で考えるよりも先に湧き出して高速で回転していました。
人との会話で言葉が回ることもありました。円を描いている私の言葉に、相手が答えたり問いかけたりすると、円の一部分が飛び出したり押し戻されたりするのが見られました。そして、言葉の輪は相手の言葉に刺激を受けてまた新しい回転を始めました。相手の言葉が円を描くこともありました。私の言葉は右側に、相手の言葉は左側に円を描いて、時折押し合いをしながら回転して、少し変わった歯車のようでした。
しばらく回転を続けた言葉は、繋がりを持っていない、どこか別のところから来た言葉によって回転を止められます。この最後の言葉は縦に長い短冊状の言葉で、言葉の輪の真上から、これもまた音を立てて高速で降りてきます。「結論を下す」様子が視覚化されたのだと思いました。降りてきた「結論」は輪に鋭く刺さり、潰した虫の体液が飛び散るような不快感がありました。
結論が下されて回転を止めた言葉の輪は、Φの記号のような形をしていました。私は数学の授業でΦは空集合を表すと習ったことがあります。だから、このΦの形になった言葉は、話の筋道が通っていないことを示しているように思えました。私は、論理構成を失敗してしまったのだと悔しく思いました。
視覚化された言葉の繋がりの輪と空集合のΦの話
わたしが最初に『悟りとは結論だ』と言ったのは、この方の体験記を読んで影響を受けたから。わかりやすい表現だと思う。彼は『論理構成を失敗してしまった』と言っているけれど、「悟り」も「解脱」も理論構成することなのだ。
「悟り」が起きたならば「苦しみ」を消す方法を理論構成できたのである。私たちは「信じる」という言葉を使うけれど、「信じているもの」の裏には理論構成がある。「悟り」も「解脱」も信じるもので、理論構成を完璧にしないと信じることができないのである。
また、自分や相手の言葉が円を描く映像が見えるというのも面白い。自分と他者(世界)との関わりが言葉の円となって表現されている。回転し円になった言葉の真上に突き刺さる、繋がりを持っていない言葉。この映像は「解脱」という結論を下そうとして失敗していることを表している。
結論が下せたなら、繋がりを持っていない言葉が円に突き刺さったとしても回転が止まらないはず。『どこか別のところから来た繋がりを持たない言葉』は、円を永遠に回すための鍵となるからだ。言葉の輪が「Φ(空集合)」の形だというのも、この世界は無いのに有るという矛盾を表していて興味深い。その矛盾を話の道筋が通っていないと感じるのが「悟り」、通っていると感じるのが「解脱」。
「悟り」で自動思考に任せるか「解脱」で繰り返す思考を続けるか
人間は頭の中でいつでも思考し、この不思議な宇宙の理論を完成させようと頑張っている。けれど、完成の前に「悟り」を理論構築の終わりとして思考をやめる人もいる。思考をやめるというか、自動思考(悪を排除する機能付き)に任せるのだ。自動思考であっても、全人類の思考と行動でいつかは現実世界において理論が完成する。
一方で「解脱」は茨の道であるけれど、現実において理論が完成する前に、先に自分の頭の中で(精神の中で)完成を迎えられる。
1週間は7日間
最後に、また別の「悟り」体験記を見つけたので少し長いけれど引用させてもらう。元オウム信者の方のブログから。この方はありとあらゆる「わたし」を体験している。
それから、おかしなことが起こりはじめた。ある人と喫茶店で話をしていた。
「意識は自分と他人の区別をしているけど、自と他の区別をなくしていくと意識は広がっていく」
「そして、時間というのはあるように感じているけど、本当は時間なんてないんだよ…過去・現在・未来へと時間の流れがあるように意識は感じているけどね…」
いつものこんな話をしていると、途中から私を取り囲んでいる世界の様子が変わってくる。まわりで雑談をしている多くの人の存在感が急に増してくるようだった。他人として私と別に存在していた人々が、性別も年齢も違う人々が、突然自分とつながってしまうのだ。
「ここにいる人、みんな他人なのに、この人たちみんな私だ…」
とてもリアルにそれを感じる。まわりの人たちの話し声が遠のくと、入れ替わるように彼らの考えていることが意識を向けるとわかる。このときの空間は、密度が濃く、空気とは別のなにかで充たされているようだった。
この感覚が極まってくると、今度は私の胸(アナハタ・チャクラ)から、エネルギーがザァーッと世界に放出される。無尽蔵にあふれ出る圧倒的なエネルギーを感じながら、私は笑いだした。
「これが愛なんだ!」
これまで「愛ってなんだろう」「自分に愛がある」とか「愛がない」とか悩んでいたけれど、まったくナンセンスだった。愛は空気のようにこの空間に充ちていて、いつでもどこにでもあったのに!
私は無量の愛を経験して嬉しくてしょうがなかった。
意識がこの状態に入ると、電話でだれかに質問しようと受話器に手をかける。その瞬間、質問の答えが心に浮かぶ。また、道を歩いていて向こうから二人連れが話しながら歩いてくる。すれ違うとき、彼らの会話の断片が耳に飛び込んでくる。言葉は独特な響きをもっていて、まるで「神の声」のように聞こえる。神の示唆のように聞こえる言葉が「右」だったら、それに従わなくてはならず、用もないのに右へ行くと何年も顔を見なかった信徒さんとばったり会うというようなことが起きた。狂った人というのは、きっとこのような世界にいるのだろうと思う。私は本当に狂ってしまったか、新興宗教の教祖にでもなれるのでは? と思った。
オ ウ ム と ク ン ダ リ ニ ー
ただし、これが続けばの話だが――。
その状態は、ほぼ一週間続いて消えた。
神秘体験って一週間続いて消えることが多くないですか?その理由をあれやこれやと考えるのが面白いと思うのです。日々理論構成。
「「悟り」とは何か、もう一度じっくり考えてみる」へのコメント
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