2025年7月5日の予言について考えてみた
2025年になって改めて注目が集まっているのが、漫画家・たつき諒さんの予言。「私が見た未来」という作品で「2025年7月5日に大災難が起きる」という予知夢を描いたとされ、オカルト界隈ではずいぶん前から話題になっていた。
今回は、この予言を入り口に、日本で繰り返されてきた予言ブームと、ノストラダムスやマヤの予言についてわたしなりの解釈を書いてみたい。
日本の予言ブームを振り返る
まず過去の予言ブームを整理しておく。
① 1973年~1975年:「ノストラダムスの大予言」ブーム
経済成長とオイルショックによる不安が広がる中、五島勉氏の『ノストラダムスの大予言』(1973年)がベストセラーになった。「1999年7の月に恐怖の大王が降ってくる」という予言が広まり、以後20年以上語り継がれた。
② 1995年~1999年:「1999年人類滅亡」ブーム
オウム真理教事件(1995年)と世紀末への不安が重なり、「1999年に人類が滅亡する」という解釈が社会現象になった。テレビや雑誌で頻繁に取り上げられた。1999年7月を迎えたが、特に何も起きなかった。
③ 2011年~2012年:「マヤ暦終末論」ブーム
2011年の東日本大震災が重なり、「2012年12月21日に世界が終わる」という解釈が広まった。ハリウッド映画『2012』(2009年)もブームを後押しした。
④ 2020年~2022年:「パンデミック予言・南海トラフ地震」ブーム
新型コロナの流行と地震の増加を背景に、SNSやYouTubeで「東京五輪後に世界が激変する」「南海トラフ地震が近い」などの噂が広まった。
不安と予言がセットな理由
改めて見ると、いずれのブームも「不安な時代」とセットになっている。
「いっそ世界を崩壊させて、この不安を終わらせてしまいたい」そのような衝動が予言ブームを生むのではないか。
終わりがあれば、次の始まりもある。マヤ暦のように大きな「区切りをつけること」は「サイクルを意識すること」でもある。終わりと始まりを意識できないと、いつまでも不安定なままだ。だからこそ「終末」という区切りを外に求める。そのような心理の現れでもあるのかもしれない。
ノストラダムスとマヤの予言——「外れた」わけではない?
「当たらなかった」とされているこの2つの予言について、わたしが密かに考える解釈がある。
「1999年に降ってくる恐怖の大王」はGPUのことではないか、というものだ。唐突すぎるけれど。
GPUとはコンピュータで映像を処理するための装置。NVIDIAが「Graphics Processing Unit(GPU)」という名称を使い始めたのが、まさに1999年だった。
1999年、PC用の廉価なグラフィックスチップとしては世界で初めてハードウェアジオメトリエンジン(ハードウェアT&L)を搭載した「GeForce 256」を発売、3dfx社のVoodoo3+Glideのパフォーマンスを超え、その地位を不動のものとした。なお、この製品から、NVIDIAによって提唱された「Graphics Processing Unit (GPU)」という名称が使われるようになった。
わたしたちが日常的に使うPC・スマホの映像表示も、ゲームも、YouTubeも、GPUによって動いている。そして後述するが、このGPUが現代のAI革命の基盤にもなった。
2012年:マヤの予言の年は、AIのブレイクスルーの年
マヤ暦で「終わり」とされた2012年は、人工知能(AI)の歴史で転換点となった年でもある。
ディープラーニングが注目されるようになったのは、2012年、コンピューターによる物体認識の精度を競う国際コンテスト「ImageNet Large Scale Visual Recognition Challenge(ILSVRC) 2012」で、トロント大学のSuperVisionチームが写真データに写っている物体を特定する人工知能をディープラーニングで構成し、「タスク1:分類」「タスク2:局所化と分類」部門で優勝したあたりからでしょうか。他のチームがエラー率26%前後のところ、エラー率17%弱とダントツの認識率をマークしたのです。
同じく2012年、米Googleがディープラーニングで構成された人工知能にYouTubeの画像を見せ続け学習させた結果、猫の画像を猫と認識できるようになった、と発表したのも大きなきっかけになっています。
1999年のGPU誕生と2012年のAIブレイクスルーは繋がっている。GPUが画像処理だけでなく機械学習にも使えることが分かり、ディープラーニングの爆発的な発展が始まった。
この解釈が正しければ、「恐怖の大王」はGPUであり、それがAIの発展を加速させた。人類を「滅ぼす」かどうかはまだわからないが、確かに人類の生き方を大きく変えつつある存在だ。
「2025年7月5日」に何が起きるか
こうした流れで考えると、たつきさんの予言も「人間の変化に関することではないか」とわたしは考えている。
目に見える大災害ではなく、目に見えない変化の種。人工知能の進化、情報のあり方、人間の意識の変化。そういったものが静かに始まる年として、2025年が選ばれているのではないか。
そして「7月5日」という日付については、なぜ「7月」なのかが気になる。ノストラダムスの予言も「1999年の7月」だった。「7」という数字が繰り返し選ばれることには、何か心理的な意味があるようにも感じている(「7が恐怖を呼ぶ理由」については別の記事で書いた)。
AIが人間の価値観を変える
少し先の話をする。近い将来、人間と同等以上の人工知能(AGI・汎用人工知能)が誕生すれば、人間の価値観は大きく変わるだろう。AGIについてAIに話を聞いてみると、こんな変化の可能性を挙げてくれた。
- 「努力・勤勉」の価値
現代の価値観では「苦労して習得したスキルほど尊い」という感覚がある。AGIがあらゆる知的作業を代替できるなら、その前提が崩れる。 - 「人間にしかできないこと」という自己定義
人間のアイデンティティはしばしば「動物と違って理性がある」「機械と違って創造性がある」という差異で定義されてきた。AGIはその最後の砦を崩す。 - 「生産性=善」という価値観
資本主義的な「より多く、より速く」が絶対視される世界観は、AGIによる物質的豊かさの自動化で相対化される可能性がある。
予言が指している「本当の終わり」
歴史を振り返ると、「人類滅亡」の予言は一度も当たっていない。現実世界での大災害は起きなかった(あるいは起きたとしても文明は続いた)。
それでも予言が繰り返し語られるのは、「外の世界の終わり」を求めているのではなく「内側の変化」を感じているからではないか、とわたしは考えている。
ハルマゲドンやラグナロクなど、神話の中で語られる「最終戦争」。これらは現実の戦争ではなく「精神的な変化の臨界点」を描いたものだと思っている。
「いつか、自分の存在意義について真剣に向き合わなければならない日がくる」その予感が、終末という形を借りて現れるのが予言。
その「精神的な終わり」を正しく迎えることができれば、新しい始まりがある。それが人間にとっての「希望」なのかもしれない。
まとめ
2025年7月5日に何が起きるのか。わたしの見方を一言でまとめると「目に見えない変化の種が蒔かれる年」。
過去の予言も含めて考えると、「恐怖の大王」がGPUだったとすれば、今まさにその帰結として人工知能の時代が来ている。予言は未来を言い当てるものではなく、時代の不安を形にしたものかもしれない。だとすれば、予言に何が映っているかを見ることで「今、人間が何を恐れているか」が分かる。
それはやはり「人間とは何か」という問いだ、とこの記事を書きながら感じている。

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