ジョージ・オーウェル「1984年」を読んで思ったこと。

1984年生まれのわたくし、ついに気になってた「1984年」読みました。村上春樹の1Q84ってこっから来てたのね。

1984年のあらすじ

読んでないひとにはネタバレ注意結末も書いちゃってます

超簡単なあらすじ。
「ビッグブラザー」という、人物?思想?が絶対的権力を持つ
超ディストピアな国で主人公のウィンストンがわちゃわちゃする話。
このディストピアな国は超監視社会でもあり「思考警察」が存在する。
この世界の掟に反発するような思考でさえも、持つことができない。


内なる世界

怖い話なんだけど、この世界観は個人の内なる世界の話とも読み取れた。

与えられた環境の中で、幸せを見つけて、心から楽しむ

与えられた環境に常に疑問を持ち、その環境を超えたところに幸せを求める

前者は、ジュリアという登場人物の考え方。後者は、主人公のウィンストン。
ウィンストンは真実を探しはしたけれど、最後にはディストピア世界の掟に従う。まさに、今の社会のなかにたくさん居る人間そのものだなぁと思った。

ウィンストンは、この環境から抜け出すのはどうせ無理だけど「ユートピアはいつか訪れる」という思想だけは残そうと考えていた。そして、その希望の実行は他人に任せるスタイル

ウィンストンは、この環境を覆すという気概がなかった。弱虫!って思ったけどこんな超ディストピアな国に生まれたらしょうがない。ディストピアから絶対に抜け出せないのならば、ジュリアのような考え方も大切かもしれない。

ウィンストンのようにユートピアを夢見て、考え続けるということもまた大切だと思う。一方で、ユートピアを作り上げる夢を他人に任せてしまうという時点で、世界は終了する。そこに気付けるかどうかが問題だなーと思った。

思考が先か言語が先か

また、この物語に登場する言語「ニュースピーク」で人々を支配してゆく、という概念が面白かった。

今までの言語(標準英語)を「オールドスピーク」と言うのに対し「ニュースピーク」という新言語。これは、ビッグブラザーが支配する社会において必要な単語のみを定義し、かつ単語一つに意味一つと限定する。単語に複数の意味をもたせず、支配するのに最適な意味だけを与えるということ。思考が言葉に依存している、というところからの発想で、その言語を使用させることで国民の思考力をなくす政策。

「ニュースピーク」という言語しか使えない世界になったら、人々は思考することができなくなり、人間ではなくなる。階級社会の上位の人間のための奴隷。そんな世界になったら、上位の人間たちもつまらないといつか気づいて、自殺でもしそうだ。ジエンド。

言葉とはなにか

わたしたちの生きる世界では、単語は多様な意味をもつし、新しい言語も日々生まれている。言葉によって世界が広がっているような気がするけど、言葉によって争いも起きている。

そもそも言葉というものは、世界を分断する。人間はそれぞれのものに名前をつけて、意味を与える。全ては一つだった世界を、言葉によって分けてしまったのが今の世界。バベルの塔の話のように、神様は私たちをバラバラにした。

私たちの今現在の社会がこのままテクノロジーを発展させていったら、きっと言葉はなくなる。テレパシーでやりとりするようになると思う。イメージだけのコミュニケーションってどんな感じなんだろう。言葉に縛られているので想像できない。楽しみだな。さらにその先は、退屈になってまた言葉を作り出すのかも。

ディストピアにきをつけよう!

物語の中には、「二重思考」という言葉がでてくる。感想を書くのも疲れてきたので、wikipediaで意味をどうぞ。

二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、Doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。それは「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]である。作中の例でいえば、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じることを指す。
二重思考は作中の全体主義国家オセアニアの社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持するため、住民(中間階級である党外局員ら)および自分たち自身に実践させている思考能力である。二重思考を実践していると、自分自身の現実認識を絶えずプロパガンダと合致する方向へと操作し、しかも操作したという事実をどこかで覚えている状態となる。

引用元:wikipedia

確かに、人間は常に「二重思考」をしているのかも。主人公ウィンストンのように、私も世界のことを考えているとき、何が正しくて、何が正しくないのか、わけがわからなくなるときがあった。歴史だって、教科書に書いてあったり、ニュースで見たりするけど、実際に起きたことを目の前で見ていないし、それが事実だとは言い切れない。真実は探せば探すほど、遠い。

1984年を読んでいるとき、私がこのブログで「悟った」とか言ってることについても自信がなくなってきたりした。昔の思考に戻された。これは恐ろしい本だ!!!ヒットの理由はここにあるのか。

でも大丈夫。世界は自分で作るものだし、自分が信じるものが世界になる。みんな惑わされないでくれ。ディストピアを想像しすぎたらだめだ。


Kindleのすすめ

Kindleのハイライト機能を使って、気になった言葉には線を引くんだけど、
ポピュラーハイライトという、多くの人が線をひいた箇所が分かる機能がある。
これKindleのいいとこ!みんながきになったところがわかる。

最後に私が線を引いたところを晒そうかな。

我々の社会では、現実に起こっていることを最もよく 知悉 している人々がまた、世界をありのままに見ることができない人々でもある。一般に、理解力が深くなればなるほど、 迷妄 も深まるものだ。つまり知的になればなるほど正気を失っていくのだ。このことをはっきりと示すのは、人は社会的地位が高くなるにつれ、戦争ヒステリーが強まっていくという事実だ。戦争に対する態度が一番まっとうであるのは、係争地域に住んでいる服従を強いられた人々である。彼らにとって戦争とは継続的な災害のようなもので、それは津波のように彼らの身体をあちらこちらへ押し流す。どちらの側が勝利を収めようと、彼らには何の関心もない。

引用元:ジョージ・オーウェル,1984年

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