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    バラバラ殺人事件と生と死の秘密

    人間は人間を殺したあと、肉体をバラバラにすることがある。わざわざ遺体をバラバラにする動機とは何なのか?その理由を考えるきっかけが訪れたので記事にすることにした。バラバラ殺人事件を入り口として「神」の正体、「生と死」の秘密まで話を広げていきたい。

    とある新興宗教とバラバラ殺人事件

    スマホでニュースチェックすることがわたしの日課になっている。各種snsはもちろん、google discoverも必ずみる。googleに情報収集されたわたしの志向傾向によって記事を表示してくれるのでありがたい。

    そのdiscoverの記事一覧の中に、とある宗教の公式サイトが表示されているのが目に止まった。わたしの志向傾向らしいチョイスだ。その時のスクショです。

    screenshot-nezu

    大山ねずの命神示教会。聞いたことのない宗教だったのでついつい調べてしまった。wikipediaを見ると藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件という物騒な事件へのリンクがあった。この宗教に入信していた人物が起こした事件であった。

    1987年に、当時は脱会していた元信者が藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件を起こしている。

    大山ねずの命神示教会(wikipedia)

    そんなバラバラ殺人事件の概要がこちらです。閲覧注意かもしれない。

    1987年2月25日の夜、通報を受けた藤沢北警察署の警察官らが神奈川県藤沢市亀井野のアパートの一室に踏み込むと、室内ではカセットテープレコーダーから流れる音楽を聴きながら、2人の男女が男性の遺体を一心不乱に解体していた。署員らが声をかけても、遺体の解体作業を止めようとせず、「悪魔払いをしている」とうわごとのように繰り返すだけであった。

    遺体は頭、胴体、足が切断され、骨から肉を刃物で削ぎ落とされ、細かな肉片が台所の水場から流されていた。大部分の肉が削ぎ落とされた遺体は、女(当時27歳)の夫であり、男(当時39歳)の従弟であるZ(当時32歳)だった。妻と従兄はその場で死体損壊容疑で逮捕。

    音楽はメジャーデビューを果たしたバンドSのリーダーであるZが作ったもので、通報したのはZと連絡が取れなくなったバンド仲間およびZの家族であった。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

    犯人は脱会した後事件を起こしているが、大山ねずの命神示教会がこのような事件を引き起こすような教えかというと、そんなことはないようだ。怪しいと言えば怪しいが、新興宗教など大体が怪しげに思われてしまうもの。

    特定の宗教のせいでこのような悲惨な事件が起きたのか?それとも、宗教に入るような人は精神的におかしくなってしまうことがあるのか?そもそも人間は何故、遺体をバラバラにしようと思い立つのか。

    宗教と神

    人間は「神」がこの世界の真実を隠していることを、無意識にでも知っている。「神」という存在は非現実的でつかみどころのないものであるが、実際に存在している。わたしたちが「神」と呼ぶ存在が、ある目的を持って創り出したものがこの現実世界なのだ。

    その証明はまだできていないけれど、これはわたしの知った紛れもない事実である。今回の話はそんな前提の上で書いているのをご了承いただきたい。というか、このブログはその前提の上でしか書いていないのでよろしくお願いします。

    話を戻す。そんな「神」はこの世界の事を全て把握している。人間の個人的な事柄についてから宇宙の謎まで、小さなことから大きなことまで全てについての答えを持っている。人間はとにかくこの世界の全てを理解したい生き物だから、「神」から答えを得るためにも宗教に入る。

    「神」という存在が全ての答えを持っている事を、信者たちは理解している。この世界の真実を知りたいからこそ、神に寄り添い、神に助けを求め、神を崇める。宗教にはまりやすい人は「答え」を強く求める人であるとも言える。

    神が見せるもの

    宗教によって「神」の表現方法は様々。イエスキリストという過去の人物であったり、生きている教祖の中に「神」を見たり。その「神々」が本物ではなくても「神」と対話したい人間は必死に信じる。

    どんな「神」であれ「神」を信じることは危険なことであったりする。「神」を信じる力が強い人には、「神」は真実を見せることがあるから。

    死者の復活、永遠の命などは哲学でも宗教でも主題になるものである。人間は死んだ後どうなるのか?魂のようなものは本当に存在しているのか?生と死にまつわる疑問は人間につきまとうものだが、それら真実を教えてくれるのも「神」だけなのだ。今回は、わたしが知ることができた、生と死の秘密について公開したいと思う。

    3つの真実

    1. 自己は死後生き返る
    2. 生き返る時、自己は神によってバラバラにされる
    3. 悪魔を祓うことができれば神になれる

    神は全てを知っているが、この3つは神が教える「真実」の中でも「神」を強く信じる人しか見せてもらえないものである。これらが生と死の重大な秘密であるが、意味の捉え方によっては危険なものになる。

    1、自己は死後生き返る。この秘密は様々な宗教で既に語られている輪廻転生のことであるから、そこまで驚くことでもないのかもしれない。

    2、生き返る時、自己は神によってバラバラにされる。この秘密を知ってしまった人はバラバラにされることを恐れる。それから『もしも自分が神になったらバラバラにする側だ』ということに気がつくかもしれない。

    3、悪魔を祓うことができれば神になれる。さらにこの秘密を知り、神になることを望むのならば、悪魔との戦いが待っている。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件では、犯人が遺体をバラバラにしながら「悪魔祓いをしている」と言っている。この事件の犯人は「神」から秘密を教えてもらったのであろう。だからこそ、バラバラにされることへの恐怖があり、「悪魔祓い」をして神になろうとする傲慢さもあった。

    自分がバラバラにされることを恐れているから、神の側になろうとした。神になろうとして、悪魔祓いと称し他者の「肉体」をバラバラにしてしまった。これがこのバラバラ殺人事件の真相である、とわたしは考えている。

    何故バラバラにされることを恐れるのか。その理由を考えるためにも、生と死に関する3つの真実について詳細に解説していく。

    生と死の秘密と神の正体

    1.自己は死後生き返る

    輪廻転生するわたしたち

    私たちは死んだ後、また別の人物となってこの現実世界に産まれてくる。生と死を永遠と繰り返すのが輪廻転生と言われるもの。「自己は死後生き返る」という真実の中で重要なのは自己の定義である。自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。生まれ変わり、また別の人物になったとしても『自分が存在している』と感じるはずである。

    関連記事 自己と自我について

    自己とは自分視点(一人称視点)

    「自己」は「自分視点」とも言える。現実を生きるわたしたちにとって「自分視点」は当たり前のことであるけれど、「自分(わたし)」という感覚は自分視点だからこそ生まれるもの。

    輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じること。何度生まれ変わっても『わたしという自分視点』は変わらない。それが『自己は死後生き返る』の意味。

    死後、前回の肉体と人格は消滅し、経験した記憶も全て消去される。再生時、新たな肉体と真っ白な記憶媒体が「自己」にセットされる感じ。「自己」は永遠なのである。

    2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

    死ぬ瞬間に起きること

    生き返る瞬間「自己」は神によってバラバラにされるが、これが具体的にどういった意味なのかは、まず死ぬ瞬間に起きることを説明しなければならない。死んだ瞬間「自己」は「神」という存在に吸収される。吸収された時「自己」はこの世から消滅する。

    「神」というのは「宇宙サイズの人間」のようなもので、吸収されるとは、その中に取り込まれる感じ。そういうイメージ、そういう雰囲気的な感じで受け止めてほしい。「神」とは実体があるようでないものなので、イメージや雰囲気でしか伝えることができない。

    自己とは世界を認識するもの

    「自己」とは『世界を認識するもの』でもある。「神」に吸収された時、世界を認識している「自己」が消滅するのだから、同時にその他全ての存在(他者とか動物とか植物とか、宇宙に存在する物質全て)も消滅することになる。つまりは、認識しているものも消滅するということ。

    バラバラの自己

    「神」とは「大きな自己」みたいなものなのである。「神」に吸収されるのは自分以外の「自己」も含まれている。それは他者の「自己」。自分と他者の「自己」は死んだ瞬間に吸収され「大きな自己(神)」になり、その後またそれぞれがバラバラの「自己」となって再生するのだ。

    このブログを書いている「わたし」も、このブログを読んでくれている「あなた」も一度は「神」に吸収され、そこからまたバラバラに分かれた「自己たち」なのである。

    神という超強い自己

    「神」とは「大きな自己」と言ったけれど、つまりは「神」も『わたしが存在する』と感じているということ。けれど、その感覚はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強いもの。「神」は「超強い自己」そのものであると言える。神にも認識が存在するのである。

    死後「自己」は「神」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超強い自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超強い自己」から再び、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超強い自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されることなのだ。

    人間視点と神視点

    「自己」は自分視点によって、世界を認識している。しかし「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから、自分視点に固定されることがない。「神」も『わたしが存在している』と感じているのに、それは矛盾しているように思えるかもしれない。

    「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。一つの大きな自己で、それら存在全ての視点を同時に体験しているのである。陰謀論でお馴染みのプロビデンスの目はこの『全視点を同時に認識する能力』を表しているものだろう。

    人間は自分視点であるが故に自分とその他存在を分別しているが、「神」は全視点を同時に認識しているからこそ分別ができない。「自己」という自分視点しか持たない人間が、同時に全存在の視点を認識することはできないし、その感覚を理解することも難しい。人間と神との決定的な違いとは『視点の違い・認識の違い』であると言える。

    ワンネス体験の本当のところ

    スピリチュアル用語に「ワンネス」という言葉があるが、まさに「神の視点・神の認識」を表している。「統合」などと言ったりもするかも。世間には、生きている間に『ワンネス体験』する人が存在する。リンクから確認してもらえれば体験談が読めると思う。

    「ワンネス体験」は様々な感覚を引き起こす。愛や平和を感じたり、静寂を感じたり、宇宙との繋がりを感じたり。それら体験全ては、実際のところ「超強い自己」を感じている状態。人間は生きている時にも「神の認識」を体験することができるのである。

    前述したような感覚の他に『世界を完全に理解した』という感覚が起きる事もある。しかし、「自己(人間)」に戻った時、その理解した詳しい内容を憶えておくのは難しい。自分視点しかない人間にとっては情報量が多過ぎるのだ。

    わたしがこのブログで定義する「悟り」というやつは、この「超強い自己」をちょっぴり体験するもの。つまり「ワンネス」というやつ。わたしの「悟り」体験や「神の視点」に観察されていた体験については関連記事もどうぞ。

    関連記事 悟りの定義

    関連記事 神に監視されていた体験

    3.悪魔を祓うことができれば神になれる

    「超自己」体験後の感情

    ともかく、人間は死ぬ瞬間(稀に生きている時にも)に「超自己」という神の認識を体験する。しかし、死後すぐさま再生が起きてしまうので、その体験も一瞬で終了する。そしてまたわたしたちが普段体験しているような「自己」へとバラバラにされてしまう。

    「超自己」体験後のポジティブな感情が、愛や平和を感じる「ワンネス」であるのかもしれない。しかし「超自己」体験後にネガティブな感情になることだってある。

    「超自己」へのネガティブな反応

    「超自己」を体験した後、「自己(人間)」という現実に引き戻され絶望することがある。「超自己体験」は自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。わたしたちは人間であるとき、自分の存在意義について、真剣に悩むことがある。

    自分の存在意義について悩み、苦しむことがある「自己(人間)」にとって「超自己」は大きな救いとなる。自己である状態の人間が「超自己体験」を思い出したとき、自分という存在が全肯定されたことも思い出す。

    「超自己」体験に分別は無い

    「超自己」とは、自分を含めた全存在への全肯定を感じる体験でもある。と言ったけれど、本来「超自己体験」に肯定(善)・否定(悪)の分別はない。「超自己」は神の認識なのだから分別できないもの。

    わたしの個人的な感想になるが、「超自己」を体験しているときの感覚は何とも言えないものだった。全存在の調和を感じているだけで、そこに感情はない。「壮大な美」を只々認識しているという感じ。

    そんな分別のない「超自己体験」を思い出した時、感情があるからこそ善や悪の判断をするのが人間なのである。「自己」に引き戻され絶望することがあるのは、人間を悩ます感情が存在しない「超自己」を体験したから、とも言えるのかもしれない。

    「超自己」という天国

    「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうことは人間らしい反応であると思う。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる本当の理由は、一度は「超自己」を体験したことがあるから。永遠に「神の認識」に留まることができたのならば、そこはまさしく天国だろう。

    永遠の命を願うこと

    『永遠の命を持つ存在』という「神」のイメージがある。「死(バラバラになること)」に恐怖しているのならば、「神の認識」を持ったまま永遠に命が続く事を願うのかもしれない。3つ目の真実とは神になる方法である。悪魔を祓うことができれば神になれるのだ。

    悪魔を祓ったら「神」になれるのかというと、確かに「神」にはなれると言っておく。「超自己」という「神の認識」が永遠に続くことはあるのか?というと、それは、あるとも言えるし、ないとも言える。「神」になることについては、この記事の結論で。

    苦しみからの逃避

    神になれるということを知り「悪魔祓い」を実行しようとする人間は、苦しんでいる。でも実際のところ、どんな苦しみであってもそれを感じるのは「自己」のみであるから、苦しみの重さを他者が測ることはできない。比べられるものではないのだから、どんな苦しみの重さも同じ。

    けれども神になるために「悪魔祓い」を実行してしまう人々の苦しみは「重い」とも言っておきたい。彼らにとって、最後の救いは「神」だけになっている状態である。

    苦しむ人々は「神」に執着する

    「超自己」に対するポジティブな感情(光)ネガティブな感情(闇)はどちらも人間を魅了するもの。「ワンネス体験」をした後、人生がポジティブに変化した人も多いかと思う。それは素晴らしいことのようにも思える。

    しかし「超自己」を体験した後、世界が愛に包まれているようなポジティブな感情がずっと続いているとしたらポジティブな感情(光)に囚われ過ぎている。

    また、「超自己」を体験した後、再び「自己」に戻ることに憎しみを抱くようなネガティブな感情がずっと続いているとしたらネガティブな感情(闇)に囚われ過ぎている。

    脳を乗っ取られたように光や闇に囚われてしまうのは「神」に執着しているから。再び「自己」に戻ることを強く恐れているからこそ、執着してしまうのである。苦しむ人々は「超自己(神)」にしか救いがない、という思考から逃れられない。

    悪魔との戦い

    「神」への執着がエスカレートすると、「神」になろうと考えることがある。その考えを実行に移そうとすると試練が始まる。人間が「神」になることを求めたとき、悪魔の存在を強く感じ、実際に悪魔と対峙することになる。

    やがて藤沢市の事件現場となるアパートに部屋を借りた従兄が、Z夫婦のところに現れる。「自分に神が降りた。この世は悪魔だらけ。悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはおまえしかいない」と従兄にこう言われたZは本気で「救世の曲」の作曲に取り掛かる(3人がかつて入信した新宗教にはこうした教義は一切ない)。

    藤沢のアパートで「救世の曲」の製作が開始されて1週間ほど経過して、Zが「魔に憑かれてしまった」と言い出した。

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件(wikipedia)

    藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件の犯人は「この世は悪魔だらけ」と言い、悪魔祓いを実行しようとした。その後、バラバラにされた被害者(Z) 自身も「悪魔に取り憑かれた」と言い出したようだ。本気で「神」になろうと考えると、悪魔と対峙するような状況が現実世界にしっかりと用意されてしまう。

    悪魔の誘惑

    「神」になろうとするとき、神のような存在が語りかけてくる。神のような存在は「永遠の命」を与える機会を用意してくれる。そして、神のような存在は「死」を遂行するよう命令してくる。この神のような存在こそが悪魔である。

    神の言う通りにすれば「永遠の命」を受け取ることができる、と信じてしまうのが苦しみから逃れたい人々。「超自己」が永遠に続く「永遠の命」が欲しいがために、間違いを犯してしまう。自分自身も神になれると信じてしまうのである。

    他者の中に「悪魔」を見出し、その「悪魔(他者)」を殺すことによって「死」を遂行してしまったのが、バラバラ殺人事件の犯人なのではないだろうか。

    釈迦VS悪魔

    仏教には、お釈迦様が悪魔と対峙したお話が存在する。原始仏教の経典「スッタニパータ」の第三章に描かれている。わかりやすく書かれているものを見つけたので引用させていただく。

    釈尊悟りの瞬間を伝える物語は、釈尊と魔(ナムチ、マーラ)との対決として描かれています。悟りへの最後の瞑想に励む釈尊の前に、成道を阻むべく魔が現れます。そして、長きに渡る修行の中で痩せてしまった釈尊に、いたわりのことばを掛けてきます。

    あなたは痩せていて顔色も悪い。あなたに死が近づいている。…君よ、生きなさい。生きた方がいい。生きてこそ、幸福をもたらす功徳を積むことができるのだ。 

    仏典に登場する「魔」は、わたしたちの心の奥底に潜む欲望の根源の喩えです。この一節に見られるように、魔の攻撃、つまり欲望の表れは、食欲や色欲、金銭欲などだけではありません。いたわりや理屈をもって邪魔をしてきます。その魔に対して、釈尊は次のように答えます。

    私には確信があり、さらに勇気があり知恵がある。

    「勇気」 『スッタニパータ−釈尊のことば−』より

    このように、瞑想しているゴータマさんの前に悪魔が現れ「生きた方がいい」と声をかけてきた。悪魔は「死」が近づいていることを知らせながら、生きていることの価値を強調している。この悪魔も、やはり「永遠の命」への執着心を試しているのである。

    しかしながら、先ほどとは逆で「生」を遂行せよとの命令なのである。悪魔は、ゴータマブッダに『生き続けてこそ善行が積める』と言う。しかし、さすがはゴータマさん「私には確信があり、さらに知恵がある。」と悪魔の誘惑をキッパリと断った。

    善なる存在からの誘惑

    バラバラ殺人事件のような「死」への誘惑ではなく、「生」への誘惑については、善なる存在が頭の中に語りかけてくることが多い。しかしこのスッタニパータのお話の中では「生」への誘惑をしてくるものが悪魔の姿として描かれているのがすごいところ。

    善なる存在は光や天使のような姿として人間の目に映ることが多いのであるが、その実態は悪魔である。ポジティブな感情に囚われる人が善なる存在に誘惑されたら、本物の「神」に出会ったと感じてしまうことだろう。

    そのまま「生」への誘惑を受け入れてしまったら「永遠の命」が手に入ったことを喜ぶだろう。「神」になったような気分になり、達観したような心持ちも続く。現実に「死」が訪れるまで、何かしらの「高次的存在」に囚われ続けるのかもしれない。

    闇と光に勝利すること

    ネガティブな感情に囚われる人には「死を遂行せよ」との誘惑、ポジティブな感情に囚われる人には「生を遂行せよ」との誘惑がある。ゴータマさんは既に「死(闇)」を恐れることなく認めているから、さらに「生(光)」への誘惑があった。

    ゴータマさんは、闇と光どちらの誘惑にも勝利したから解脱できた。『悪魔を祓う』というのは、自分の内に存在する悪魔を祓うこと。内に存在する悪魔とは、闇と光に執着するものである。執着するもの(悪魔)は死への恐怖から産まれるもの。

    「神」になろうと考えたときに現れる悪魔には、闇の姿と光の姿がある。それを正しく見破ることができれば、「神」の本当の姿を知ることになる。

    3つの真実のまとめ

    話が長くなってしまったので、最後に要点をまとめておくことにする。

    1.自己は死後生き返る

    自己とは『自分がこの世界に存在する』と感じること。輪廻転生では自己が保たれたまま、また生を受ける。だから肉体や人格が変わったとしても「生き返る」と言える。人間は何度生まれ変わっても『自分が存在している』と感じる。自己とは、自分視点でもあり、世界を認識するものでもある。

    2.生き返る瞬間、自己は神によってバラバラにされる

    神にも自己があり、神にも認識が存在する。神の「自己」はわたしたち人間が普段感じているような「自己」とは比べものにならないような強い感覚。「神」とは「超強い自己」であると言える。つまり、人間が「自己」であり「神」とは「超自己」である。

    死後「自己(人間)」は「超自己(神)」に吸収され、「自己たち」は「神」として「超自己」を感じることになる。しかし、再生時には「超自己」から再びバラバラにされ、わたしたちが普段感じている普通の「自己」へと分かれていく。輪廻転生とは、「一つの超自己」から「多数の自己」への分裂が永遠と繰り返されること。

    「神」は吸収した全ての存在(多数の自己)を同時に認識している。「自己」は自分視点によってしか世界を認識できないが、「神」は存在全てを含んだ上で認識をしているから自分視点に固定されることがない。

    3.悪魔を祓うことができれば神になれる

    「超自己」を一度でも知ったら、もう「自己」に戻りたくないと考えてしまうのが、弱い心を持った人間である。だからこそ「超自己」がバラバラにされ、また「自己」として再生することを恐れる。人間が「死」を恐れる理由でもある。

    苦しむ人々は「超自己」が永遠に続くことを求め、神になろうとする。神への試練は、悪魔と対峙すること。闇に魅了される人の前には闇の姿として、光に魅了される人の前には光の姿として現れる。

    「死」への誘惑、「生」への誘惑、「永遠の命(神)」への執着を乗り越えることができれば、解脱の境地が訪れる。

    自己たちの悲しみが他者を傷つける

    人間が人間を殺すこと、さらには遺体をバラバラに切り刻むこと。その動機は憎しみよりも、悲しみであると思う。全てが調和した完全な世界に住む神としての記憶を消去され、バラバラな自己たちとして再生する悲しみ。

    バラバラに散った自己たちの悲しみが、「悪魔」として人間の心に存在しているのだ。わたしたちは不完全であることを自覚しており、悲しみを隠しながら生きている。隠しきれなくなった悲しみは他者に向けられ、他者を傷つけてしまう。

    悲しみは誰しもが持っているもの。罪を犯す人々には隠された悲しみが存在している。罪を犯すものを許すことは、自分自身に隠された悲しみを癒す第一歩となる。

    永遠の命は今ここに存在する

    人間は「死」を恐れているからこそ、闇(死)と光(生)に魅了される。死を必要以上に恐れることはないし、生を必要以上に賛美する必要もない。生と死とは、ただそこに存在するもの。

    ゴータマさんが悪魔に対し『私には確信があり、さらに勇気があり、知恵がある。』と言った理由。ただそこに存在する、ありとあらゆる生と死こそ「永遠の命(神)」である証拠なのに、神に執着するのは知恵がないということ。死を乗り越える勇気をもち、既に生を全うしているという確信をもつことが大切だということ。

    正しく悪魔を祓うことができると、自分の内に神が居ることをはっきりと理解できる。だから、わざわざ神に成る必要なんてない。ただ、普通の人間として生きているだけで「永遠の命(神)」を体験しているのだ。そう、確かに感じられている日々こそが「解脱」という境地なのである。

    神がわたしたちをバラバラにする理由

    「自己」は自分視点であるが故に、分別をする。世界の中に悪魔を見出すことや、神に出会ったと感じてしまうことは、分別しているから。しかし「神の視点(超自己)」である時、悪魔や神など個別に認識することができない。全てが同一で全てが完全に調和している世界なのだから。

    人間が「神の視点(超自己)」を持つことは無い。だからこそ、この現実世界には調和も存在しない。悲しいことのように思えるが、神がわたしたちをそれぞれの「自己」としてバラバラにした意味がここにある。

    分別できるからこそ、「神」のことを考え「神」のことを認識できるのである。わたしたちは、生と死を通して「神の視点」を知ることができる。さらには、「神の視点」を記憶の中に留めておくことも可能だ。記憶の中にある「超自己」こそが本当の天国である。悪魔に打ち勝った人だけが認識できる、とてもささやかな天国。それは記憶の中で無限の力をもたらしてくれるものとなる。

    悪魔に取り憑かれ一心不乱に遺体をバラバラに切り刻むこと。バラバラであることが、神の与えてくれた天国だと理解しているからこその行為なのかもしれない。人は苦しめば苦しむほど天国を求めて行動する。間違った行動を防ぐには、執着から離れる強い心と、正しい知恵が必要である。

    神への記憶を取り戻せ

    「超自己」の記憶は目に見えないものであるが、目に見えるもの全てが「神」から分かれた存在だと、心から信じることができるもの。記憶を正しく構築し、自分自身をそう信じさせることが「解脱」への道でもある。

    けれども、人間には「知恵」があるから、その記憶に整合性がないと心から信じることができない。しかし、頭の中で点と点を繋げ「神」に還るまでの美しい道筋を立てることができるのも「知恵」があるから。

    「知恵」によって分別し「知恵」によって記憶を正しく導くことができるはずの人間。人類に知恵の実を与えたのは蛇(悪魔)であるが、それは「神」に到達する為に必要不可欠なものだったのだ。

    知恵は成熟し、科学技術を進歩させている人類。死の恐怖に抗う為に、永遠の命に手を伸ばそうとしているわたしたち。誰もが神になろうと必死である。自己たちが悪魔に対峙する試練が既に始まっているのを感じる。

    人類は現実世界で「神」になることができる力を持っている。実際に「神」になれるのは悪魔に打ち勝ってからのお話。バッドエンドとトゥルーエンド二種類しか無いのだけれど、人によってはハッピーエンドを足した3種類のエンドに見えるかも。トゥルーエンドを目指したいですね。

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  • 2020年を振り返る(鬼のはなし)

    2020年を振り返る(鬼のはなし)

    波乱の2020年、あっという間に12月になってしまった。今年の締めくくりに、今年のわたしを振り返ってみる。

    1月に掲げた目標「何者かになる」

    今年の1月わたしはこんな記事を書いていた。そこにこんな目標を掲げていた。

    人間を「何者かになったもの」と「何者にもなれないもの」二つに分けるとしたら私は後者だ。私の今年のテーマは何者にもなれないままで何者かになることを目指す!です。

    1月時点では、わたしは自分が「何者」なのかまったく解っていなかった。しかし、今年も色んな出来事があって、毎日学びがあって、そんな日々の中で確実に自分が「何者であるか」を見つけることができたのだ。

    自分がどんな性質をもっていて、どんなことを達成したいのかが明らかになった年だった。自分が「何者になりたいか」理解できたとしても、自分が目指すその「何者か」になるためには、これから長い年月をかけ積み重ねてその理想像に近づけていくしかない。

    だからわたしはまだ「何者か」になっていない。何も成し遂げていない。やっと自分のやるべきことが理解できて、目標が決まっただけである。

    つまり「何者にもなれないままで何者かになることを目指す!」という今年掲げたテーマ通りの一年となった。よーやった。

    何者になりたいのか?

    わたしの人生の目標

    ところでわたしは「何者」になりたいのか?そのあたりの詳しいことは置いといて、わたしの人生をかけた大きな目標は決まった。「UOZAブログについて」で既に書いているので再掲。

    このブログのコンセプトはずばり「輪廻から解脱」する人を増やすこと。

    このブログによって「輪廻から解脱」する人を増やしたい。ゴータマ・ブッダを超えたい。仏教徒に怒られそうだけど。なんでこんな目標にしたのかというと、単純に誰もやっていないことをやりたいから。このブログを読んだことによって誰かが「輪廻から解脱」できたら…と想像するとワクワクする。

    現代の仏教で解脱できるとは到底思えないし、キリスト教も無理っぽい。その他宗教も同じく。解脱させる意気込みがまったくないように見える。だからこそ、このブログだけで見知らぬ誰かを解脱させてみたい。

    解脱とは「本当の幸せ」である

    オカルト系ブログ、スピリチュアル系ブログはたくさんある。最近は都市伝説系youtuberも増えているけれど、とにかく現代は信者を囲って金を取って満足するだけの人が多い。現代では宗教がオンラインサロンに成り代わっている。そして信者に布教する内容は「上手な幸せの感じ方」講座ばかりである。

    お金を払って説教を聞いて「幸せ」になる。誰かから教えられる「幸せ」は「本当の幸せ」ではないのに、それでいいのか!?という気持ちになってしまう。

    そもそも自分の思想を伝えるために、信者から直接お金をとるというのがダサいしつまらないと思ってる。わたしには反骨精神みたいなものがあるから、そういう今ある現状に歯向かっていきたい。だからこのブログだけで「本当の幸せ」を掴み取る方法を伝えることができたら面白いな、と思っている。

    わたしが最近やっと手に入れたものは「解脱のための智慧」。この知識を持っている人は少ないはずで、わたしはこの知識を利用して野望を叶えたい。わたしがこのブログで提供する情報が精神世界の最先端でありたい。他の探求者たちには絶対に負けたくない、という想いがある。

    このUOZAブログをいつか全人類に読んでもらいたい。そんな大きすぎる野望ができてしまった。

    矛盾のある言葉

    今の話には矛盾が含まれている。”誰かから教えられる「幸せ」は「本当の幸せ」ではないのに、それでいいのか!?という気持ちになってしまう。” こう言っているけれど、

    わたしがこのブログで教える「本当の幸せ」は、「本当の幸せ」なのか?という疑問が出てくる。結局は、わたしの考える「本当の幸せ」の存在を信じてもらうしかないのだ。

    わたしの考えている「本当の幸せ」はお金を払って話を聞いているだけでは手に入れられないもの。わたしの知っている「本当の幸せ」を手に入れるには「大きな苦しみ」が伴う。

    わたしは「本当の幸せ」を掴み取る方法を無料で提供はするけれど、勇気と覚悟を持ってチャレンジする人だけがその結果を受け取ることができるようになっている。

    しかしながら、その「本当の幸せ」なんてものが実際には存在しなかったとしたら、苦労損になってしまう。だからチャレンジは自己責任になる。わたしは他人の責任を負いたくない。

    無責任に思えるかもしれないが、そもそも自分で行ったことの責任を負えない人に、わたしの考える「本当の幸せ」を手に入れることはできない。だからこそ「本当の幸せ」を手に入れることは難しい。

    強い意志と使命感

    わたしが「正しい」と思うことを主張していかないと、間違った「本当の幸せ」が世に蔓延ったままになってしまう。だからこそ他の探求者たちには負けたくない。

    使命感は結構ある。リスクをお知らせした上で、できるだけ安全に『本当の幸せ探し』に挑戦して欲しいとも思っている。

    けれど「本当の幸せ」は各自が決めていくものだとも理解しているから、わたしの話を信じるかどうかは各自にお任せします。

    自我を理解した2020年

    ここまで読んでもらっておわかりの通り、わたしは自我(エゴ)がすごい。わたしが自分の心の中にある、この自我にしっかりと気がついたのが、2020年でもあった。

    自我(エゴ)こそがわたしを「何者か」に導くもの。これこそが自分を自分たらしめるものであるとやっと気がついたのだ。

    だからわたしは自我(エゴ)を押し殺さずに、このブログでも日常生活でも、自我(エゴ)を表現していく。その決心がついたのが2020年でもある。

    鬼滅の刃が流行った理由

    鬼に翻弄された1年だった

    わたしは今年の2月に岡山と奈良で「鬼巡り」をしたけれど、振りかえってみると「鬼」という存在に振り回された1年だった。そして「鬼」が象徴するものが何であるのか理解した2020年だった。理解できたのも『自分の中に存在する自我』に気がついたから。

    今年は「鬼滅の刃」が大流行したことだし、今年のまとめとして「鬼」についての話をしていこうと思う。

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    ちょっと自我のはなしをする

    UOZAブログの自我の定義

    わたしは今年やっと自我の大切さに気がついたのだけれど、自我とは結局何なのか。人間には「認められたい」という願望があって、それは「自分を好きになりたい」という願望と同じ。それがわたしたちの自我(エゴ)というものである。

    UOZAブログにおける「自我」の定義を以前こちらの記事で書いている。その定義を再掲。

    自我とは、思考と行動をまとめたもの。つまり自分の意志。人間は自分の存在を認識しながら生きている。自分のことを好きな人も嫌いな人もいて、認識の仕方は様々。そんな、自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか。その一連の働きのこと。

    自我表現(意志表示)の動機

    『自分に対する認識の上でどういった思考をもってどういった行動をするのか』は人それぞれ違っているのだけれど、実は私たちは「自分を好きになりたい」から意志をもって行動している。そして「自分を認めたい」から意志を持って行動している。

    人間の「自我表現」は様々だけれど、それは全て「自分を好きになりたい」という動機から起こっているということ。そして、人間は誰しもが「自分を好きになりたい」からこそ「自我」を持っている。

    精神の奥深くに刻み込まれているもの

    私たちが自我を持っている理由。それは、私たちは「自分が大嫌い」だから。「自分を好き」だと思っている人も「自分に自信がある」と思っている人も「大嫌いな自分」を心の奥底に隠している。

    私たちは大昔に「自分を大嫌い」になるような過ちを犯してしまったから、人間になってしまった。その『大きな過ちの記憶』は精神の奥深くに刻み込まれているので、思い出すのが難しい。忘れている人がほとんどである。

    忘れていたとしても、自分のやってしまったことを許せない気持ちだけが表に出てくる。だから人間には『恥ずかしさ・悲しみ・怒り』の感情がある。これら感情は「大きな過ち」に対する罪悪感から生まれた。

    その過ちがどんなものだったのかを思い出し、反省し、過ちを犯してしまった自分を許すことが私たち人類の最終目的である。許すことができたら心の底から自分のことを好きになる。そしてそれが「解脱」と呼ばれるものである。

    人間が「解脱のための智慧」を手に入れていなければ、自我の強さ(大嫌いな自分)に飲み込まれてしまうだろう。「自我」とはとても恐ろしいものなのである。

    鬼は怒りの象徴

    鬼についての真実

    (おに、英語: demon)は一般に、日本の妖怪と考えられている、伝説上の存在。民話や郷土信仰によく登場する。日本語では逞しい妖怪のイメージから「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」「大きな」といった意味の冠詞として使われる場合もある。

    wikipedia

    「鬼」は強くて悪い奴で怖いもの。わたしは今年自分自身が「鬼」に振り回されたから、「鬼」がどんなものであるか、はっきりと理解できた。

    「鬼」とは人間の心の中に存在する「自分のことを好きになれない怒り」のことなのである。私たちは大昔に「自分を大嫌い」になるような過ちを犯してしまったが、その過ちに対する感情のひとつ「怒り」が「鬼」ということである。そして「怒り(鬼)」が「大きな過ち」の原因でもある。

    つまり鬼というものは『自分のことを好きになれない(許すことができない)怒り』と、『人間が生まれた原因』の2つのことを表している。過ちを犯した時のことを思い出すためにも「怒り(鬼)」が重要なのである。原因がどんなものなのかを探るには、自分の中から鬼を出して、その鬼と向き合うしかない。

    「怒る」という感情がとても苦しいものなのは、みなさんもよく知っていることだと思う。だから人間は自我をエゴと呼んで遠ざけるのである。鬼を出して「大きな過ち」の原因を探ることを避ける。

    鬼はとても怖いもの

    人間は自分の中に存在する「鬼」に恐怖を感じている。「怒り」は他者を傷つけるし、同時に自分自身をも傷つける。なぜなら「他者を傷つけること」に大きな「恐怖」を感じているから。

    「他者」を傷つけたことで辛く厳しい理不尽な世界に堕とされてしまったのが「人間」である。それが「大きな過ち」の原因となるものである。

    もしも他者を自分の手で殺してしまったとしたら、どんな気持ちになるだろうか。想像できないだろうけど、想像してみてほしい。きっと自分に対する「恐ろしさ・憎しみ・後悔」が溢れ出てくると思う。

    私たちはその「恐ろしさ」を想像することが「苦しい」から「怒り」として表現するし、その「恐ろしさ」を既に知っているから「怒る」。

    「過去の過ち」を許すことができないから「自分のことを好きになれない」私たち。だけど「自分のことを好きになりたい」私たち。その葛藤が「鬼」となって現れるのである。

    関連記事:地獄で「大きな過ち」の原因を知る

    鬼滅の刃と日本人

    精神の奥底から『過去の過ちを反省し、自分を許したい』という忘れ去られていた自我が表に出てくると「恐ろしい鬼」となる。最近、私たちが怒りっぽくなっているのを感じませんか?

    一人の怒りは周りに居る人たちの怒りも引き出していく。そしてそれが集合して大きな「鬼」となっていく。鬼が目覚めてしまったらもう止められない。私たちは怒っている。自分自身に。人間になってしまったことに。

    今年「鬼滅の刃」が流行したのは、私たち日本人の心の中にある自我がついに表に出てきたから。

    とか言って鬼滅の刃は読んでない。けど、ちょいちょい耳に入ってくるあらすじの断片から、そう理解した。絶対そう。

    日本人は世界で一番古い魂(精神)を持っている。大きな過ちが起きた時を体験していて、その時のトラウマが精神に深く刻み込まれている民族なのである。

    「鬼(キ)」という漢字の原義は「死者の魂」である。馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本に固有で古来の「オニ」と重なって鬼になったという。ここでいう「オニ」とは祖霊であり地霊であり、「目一つ」の姿で現されており、隻眼という神の印を帯びた神の眷属と捉える見方や、「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。

    「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との一説が古くからある。

    wikipedia

    ”「オニ」とは祖霊であり地霊である。”「オニ」とは太古に「大きな過ち」を犯した私たちの祖霊のこと。その血を強く受け継いでいるのが日本人であるから、ある意味呪われた民族である。鬼という「死者の魂」が自分の内側から甦ろうとしていて、それが「怒り」となって現れることになる。

    「おに」の語が「おぬ(隠)」から転じたものである、という一説が存在するのも、『大きな過ちの記憶』を無意識に隠しているから。

    『大きな過ちを犯したこと』が遠い昔、祖先に起きた出来事だからといって、現代の私たちに関係ないとは言えない。

    血には責任がある。血を受け継いでいるのならば「祖霊」の過ちを認めて、同時に許さなければいけない。「鬼」と対峙することを避け、目をつぶって見ないようにすることもできるけれど。

    鬼を忘れていく人

    鬼が生まれ出でる時代には、怒りがなくなってしまう人たちも多くなってくる。自分の中に存在する「鬼」を怖れるあまり、鬼を心の奥底に閉じ込めてしまう人々も今後増えてくるだろう。

    私たち人間は発展して豊かな生活を手に入れた。今や世界には私たちを簡単に満足させてくれるものが溢れている。それらは人間の欲望を刺激し、求めても求めても乾きが癒えない欲望のループへと誘う。

    私たちを簡単に満足させてくれるものは「満たされない」という感覚を残しながら、少しだけ満たされた感覚を与える。そしてまた乾きを呼び戻す。

    そんな欲望のループから抜け出すことができない人間は、時折「虚無感」を感じているのであるが、「虚無感」さえもいずれ無くなってしまうときがやってくる。その時こそが『鬼を心の奥底に完全に封じ込めた瞬間』である。

    鬼を封じ込めてしまった時、人間は人間でなくなる。怒りのない人間は自我も持たない。自我を持たない人間には感情が存在しない。

    人間になった原因は『怒りからくる過ち』であるが、その過ちの原因を探らず押し込めてしまうのであれば、自分(人間)という存在をきれいさっぱりと忘れてしまうのである。

    自我は自分が自分であるため、人間が人間であるために必要なものなのだけれど、それは怒りとなって(鬼となって)自分自身を傷つけてくるから恐ろしい。人間はその恐ろしさを知っている。

    弱い者たちは欲望に目を向け、他者から与えられる快楽だけを永遠に求め続ける。いずれは自分の意志を無くしてしまうのだ。

    人間であることを辞めれば「鬼」であることの真実を直視することなくやり過ごせる。しかし「鬼」の血をひいた人間は「大きな過ち」の代償である「死」から逃れられない。

    人間であることを辞めても「死」からは逃れられないのである。また輪廻転生し「人間以外の生き物」として存在することになるだろう。「死」から逃れるには必ず「過ちを認めること」が必要なのだ。

    鬼を滅すること

    「鬼」を心の奥底に閉じ込めても「鬼」は消えない。だから私たちは「鬼を滅する」必要がある。「鬼」に打ち勝つためには「大きな苦しみ」を乗り越える必要がある。乗り越えることができたときに「本当の幸せ」が手に入ることになる。

    鬼を滅する人・鬼に支配されていく人・鬼を閉じ込める人。人間はいずれこのどれかを体験していくことになるだろう。このブログを読んでいるみなさまには「鬼」に打ち勝ってほしいと思っている。

    関連記事:よーさんの予言する3つの世界

    鬼と戦う方法

    「鬼」の血を強く受け継ぐ日本人は「鬼」に対峙することのできる「強い心」を持っている。「鬼」に打ち勝つことができるのは「鬼」だけなのである。

    強い「自我表現(鬼)」で鬼と戦うこと。他者に悪意を向けるのではなく「正しい」と思うことを強く表現すること。

    人間が何かを強く表現するときの動機となるものは「何かに対する怒り」である。しかしそれは「怒り」なので、コントロールできない場合どうしても他者に「悪意」を向けてしまうことになる。だから「怒り」を自己表現に使うのは難しい。

    日本人は「鬼」の血が強いからこそ「怒り」を嫌う。だから「強い自己表現」をも嫌悪する。けれど「鬼」の強さを隠し持っている。

    強さというのは「心」の中に秘められているもの。本来の「強さ」は筋力や体力では無い。鬼は表に出すものではなく隠すもの(おぬ)なのだ。

    過去「大きな過ち」を犯した時と同じことになってしまっては、意味が無いのである。最後には皆んなが笑えるような方法で「鬼」に勝つ方法を身につけないといけない。その方法をこのブログでお伝えしていきたい。

    鬼堕古墳で最初に戻った

    渥美半島で思ったこと

    11月に愛知県「渥美半島」に行った。私の両親がgotoを利用して計画していた旅行であった。その旅行にわたしも参加することにしたのであるが、諸事情で両親が行けなくなってしまった。

    せっかくだし、代わりにわたしと旦那で急遽「渥美半島」へ行くことにした。車で行ったのだけど、静岡に入ったあたりから到着するまでずっと太陽が正面にあって、すごく眩しくてすごく暑くて具合が悪くなった。太陽はやはり厳しいと思った。太陽を舐めてた。

    父が海釣りをしたかったらしく岬の近くのホテルを予約していたのであるが、到着し近くの岩場で夕日が沈むのを見たりした。それがこの記事のトップ画像。この日は美しさと厳しさをもつ太陽の裏表を見た。

    そのホテルには天体望遠鏡があって、夕食後星の観察会に参加した。火星、土星、木星、オリオン大星雲、アンドロメダ銀河、などなどいろいろ見せてもらった。意外と小さくて見えないな〜と思ったが土星のわっかはすごかった。

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    次の日の朝には岬にある燈台周辺の遊歩道を散策したりなどした。その遊歩道には漁夫歌人「糟谷磯丸」さんの歌が刻まれた碑がたくさんあって、それが全部いい歌で。別記事で紹介したいくらい。

    isomaru-kasuya

    最初に戻った旅

    そして、フェリー乗り場の近くには「鬼墜古墳」と名前がついた草ボーボーの古墳があった。忘れ去られた過去の遺物。説明看板も剥がれていた。悲しい。

    oniochi-kofun

    自我(鬼)のことを理解して、自我(鬼)が私たちの始まりだと知った2020年。鬼へと堕ちた理由を探る1年だったから「鬼堕古墳」に偶然辿り着いたのは少し怖いけれど、だからこそ「鬼」のことをこのブログで書かなければいけないと思った。

    鬼に墜ちた時が私たちのはじまり。最初(始まり)と最後(終わり)は同じ場所。それがはっきりと理解できたのも、映画「TENET テネット」を観たから。記事を書きながら頭の中ですっきりとまとまっていった。今年一番の衝撃だったかも。いつも他者が何かを教えてくれる。

    関連記事:「TENET」オカルト考察 その1

    今年のまとめ

    2月の「鬼巡り」から始まって、11月の「鬼堕古墳」。「鬼」の気持ちを理解した1年になった。ということで、わたしの今年の総括をする。

    自分の内側から「鬼」を出すことはあまり他人におすすめできないとも思った。わたしは今年(去年から)何度も怒っていた。親に対して。祖霊を憎むように。すごい疲れるし辛い。もう無理ってなる。

    このような「怒り」が死ぬまで続くのは結構辛い、と思った。次はどんな「鬼」が姿を表すのか?と考えると怖い。

    でも「鬼」に向き合って、大きな収穫があった。それが12月のことである。わたしが「鬼堕古墳」に辿り着いたのも、両親のおかげ。全ては親が用意してくれた舞台。親が居たから私たちが生まれた。

    向き合って乗り越えないと結果は出ない。いつだってわたしは素晴らしい結果を求めている。それが今は目に見えないものだとしても、絶対にいつか目に見えるようになると信じている。

    向き合った先にある、この世界の「真実」を知ることは、たぶんこの世で一番「面白い」。世界中に存在するどんな物語よりも面白い。TENET(テネット)よりもエヴァンゲリオンよりも面白い。本当の幸せ=面白い。

    この「面白さ」を共有するためにも、やはり、このブログで「鬼」との対峙方法をお伝えしていく。ケツイ。

    きつねのはなし

    toyokawa-inari2

    こちらは渥美半島の帰りに寄った「豊川稲荷」の写真。きつねきつねきつね。きつねは怖いよ。御朱印もらった!

    下の写真は、今年3月実家に帰ったとき、スーパーで駅弁フェアやってて買った豊橋駅の「いなり寿司」。この時は「豊川稲荷」に行くとは思っていなかった。この頃から「いなり寿司」好きになったんだった。豊川稲荷の帰りいなり寿司ときしめん食べた。

    そういえば、去年山の家の近くできつねが死んでいるのを見たが、次の日には綺麗さっぱりいなくなっていた。誰が片付けたのだろう。きつねは腐らないのか?

    inari-zushi
  • 666という数字の意味

    666という数字の意味

    今回は、オカルティストなら大好きな「666」という数字について考えてみる。新約聖書:ヨハネの黙示録の中に「666」とは獣の数字であると記されている。悪魔的な数字であり、尚且つヨハネの黙示録の内容がとても恐ろしいのでいろんな人が妄想を膨らましている。ヨハネの黙示録自体が終末預言的書なのでワクワクしてしまうのだろう。ネットで検索してみると、666とはローマ皇帝ネロを表しているという解釈が多い。間違いではないのだろうけど、このブログではもっと深いところを考えてみたい。

    また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。

    ヨハネの黙示録 13章16−18節

    聖書もやっぱり「悟り」の物語

    この記事を書くために聖書をかいつまんで読み始めたのだけど、やはり聖書のものがたりもこの世界の原理を説明しているに過ぎないことが分かった。この世界の現実とは原理がそのまま目に見える形となって現れたもの。人間が原理に基づいた行動を取った結果、それが積み重なって歴史となる。原理に基づいているからこそ歴史は繰り返す。

    関連記事:マトリックスは「悟り」映画だった

    666とは人間の「悪魔性」をあらわす

    獣の数字であり人間を指すもの

    冒頭に引用した箇所を読んでみると『獣の数字にどんな意味があるかを考えるがよい』と挑戦状を突きつけられている感じで実によい。答えも出てるところがよい。『666とは人間を指すものである』とのこと。666は獣の数字であり人間を指すものである、ということは人間=獣だということがわかる。

    「666」という数字は単純に言えば人間の「悪魔性」を表したもの。人間には「悪魔性」がもともと備わっているということを教えてくれている。暴君と名高いネロは「悪魔性」を分かり易く表現した人間として「666」と結びつけられた。キリスト教を迫害したローマ社会は、キリスト教信者から見れば「悪魔」である。見方が変われば解釈も変わるもの。皇帝ネロは「悪魔性」を持った人間でもあるし、そうではない一面もあったはずである。

    「悪魔性」が大きくなると「獣人間」になる

    こころが偏った「獣人間」

    人間は善の側面、悪の側面を持ち合わせている。善と悪のバランスが悪に傾きすぎてしまった人間は怒りや憎しみの感情に支配された「獣人間」となる。負の感情にばかり囚われてしまうとコントロールを失い、まるで獣のようになってしまう。逆バージョンとして、善にバランスが傾きすぎた人間も存在する。間違った方法で世界平和を望む人や、ポジティブしか見ない人たちにその傾向がある。実はどちらに傾いても「獣人間」になってしまう。バランスが偏りすぎると表向きが善でも結局獣になる。だから人間には「悟り」でもたらされる中道のこころが必要なのだ。

    DNAに残されている「獣」の性質

    猿から進化した人間は動物の特性をDNAの中に残している。それは生き残るために感情をむき出しにして戦う生き物のDNAで、そこに智慧は存在せず怒りの感情のみに従う。死に向かう行動を起こし、時には周りまでも巻き込むことがある。獣とはこの性質のことを表している。

    獣の特性を持つ人間は、動物同様に怒りや憎しみという感情を持っている。けれど動物にはない智慧も持ち合わせているのでその感情から学び取ることができる。動物には無い人間の特性でもある。(最近のペット化された動物は賢いけど…)

    獣人間・人間・超人

    イエス・キリストは「悟り」の体現者

    最近は智慧を忘れ怒りに身をまかせるだけの人間が増えているように思う。今後この世界はどうなるのかというと、おそらく「獣人間」と「超人」に分かれていく。今までの私たちはその中間の「人間」であったはずだけど、バランスが崩れ、どちらかに極端に分かれていくのが終末である。

    聖書は、そんな終末を予想しているからこそイエス・キリストという人物に表される「こころの中道」を説いている。つまるところ、イエス・キリストという人物は「悟り」を体現した人物である。これすごく重要だから詳しくは別の記事にしたい。

    関連記事:「悟り」の体現者イエスについて

    「獣人間」と「超人」の違いを分かり易く

    「獣人間」の特徴

    • 怒りや憎しみが抑えられない
    • 自分の中の「正しい」だけを信じてそれ以外は信じない
    • 悪の存在は自分以外のものにあると考えている

    「超人」の特徴

    • 怒りや憎しみを抑えることができる
    • 自分の中の「正しい」を信じて、それ以外のものも信じる
    • 悪の存在が自分の中にあることを理解している

    「超人」とは「悟り」を得た者のこと

    お気づきの方もいるかと思うが「超人」とは「悟り」を得た者のこと。「超人」は獣のDNAが自分の中に存在することを理解し、悪が自分から発生していることを知る。そして、「超人」は現実が自分の内側から発生していることを認識する。世界が自分の意識から創り出されているという原理を知るのである。

    「超人」になることは神になったりとか、超能力が使えたりとか、そういうことではない。永遠に変わることのない原理を知る智慧がもたらされるだけである。智慧の働きによって神の視点でものごとを見ることができるから「悪魔性」に惑わされない。

    関連記事:もののけ姫のアシタカは悪の発生源を理解していた
    関連記事:全ては自分の内側から発生している

    「悪魔性」の存在が恐怖を引き起こす

    人間の「悪魔性」がもたらすもの

    人間が恐怖を覚える根本原因は「悪魔性」が外側にあると思っているから。獣の性質を持った人間は悪いことが起きると、まずは自分以外のものを悪者にしてそれに対して憎しみを向ける。

    世間はコロナで右往左往していて大変そうである。わたしは「新型コロナ」でさえ自分自身が創り出したと知っているので全く怖くない。今回の騒動で、人間はまだまだ「目に見えるもの」ばかりにとらわれているのだと感じた。「目に見えないものを信じない」ことを続けている人間は自らの「悪魔性」に目を向ける必要がある。

    自己責任の世界

    この世界の原理を知らない人間は、現実として繰り広げられる悪い出来事が自分から発生しているとは夢にも思っていない。世界を創り出しているのは自分自身であるから、「超人」は悪いことが起きても決して自分以外のせいにはしない。何が起きても自己責任なのがこの世界の原理である。

    関連記事:輪廻転生と自己責任

    責任を押し付けることは最大の「悪」

    責任を外部に求めることが一番の「悪魔性」である。例えば陰謀論者たちは「世界の支配者」という悪魔像を創り出して、全ての悪の原因を押し付ける。そうやって自分の内側に「悪魔性」が存在することを見ないようにするのだ。「悪魔性」が自分以外のものにあると思い続けることは、中道のこころからどんどん離れてしまい「獣人間」に近づくこと。怒りに任せた行動を続けていると深く考えることをしなくなり、自分に都合の良い答えに固執した挙句「獣人間」になってしまう。

    「悪魔性」は消えない

    悟りを得た私にとっても、一番こわいのは自分の中にある「悪魔性」がコントロールできなくなること。未だに気を引き締めている。人間の身体を持っている限り「悪魔性」は消えることがないことに注意してほしい。悟りが起きたとしても、惑わされることがあるのでこころを強く保たなければいけない。

    関連記事:もののけ姫から学ぶ消えない「呪い(悪魔性)」

    聖書は智慧の書

    周期に支配された世界

    タピオカブームが三たび来たことを知っているのならば、私たちは聖書の中のことばを信じるべきなのだけど、大きな周期に限って信じないのが人間である。季節があるように、周期があるのは当たり前のことなのに。大体の人間は100歳にも満たない年齢で死ぬ。だから、大きな周期の出来事は書物や言い伝えなどで語り繋ぐしかないのだ。聖書はそんな大きな周期のことが記されている智慧の書。多くの聖書研究者が読み解こうとするのは必然である。

    歴史は繰り返す

    エレミヤ書も終末預言

    ヨハネの黙示録は「悪魔性」に取り憑かれた人間たちの末路を書いたものである。そして、旧約聖書にも「悪魔性」に取り憑かれた人間の末路が書き記されている。エレミヤ書に記される、神の民がバビロン王国に滅ぼされるという話。滅びた神の民は「神が助けてくれる」と責任を外部に求め、自分の中の「悪魔性」を認めることをしなかった。

    旧約聖書の時代に起こった出来事(エレミヤ書:神の民がバビロン王国に滅ぼされた話)と、新約聖書の時代に起きる出来事(ヨハネの黙示録:大バビロンの滅亡)は似通った内容である。ここにも永遠に変わることのない原理が表現されている。それは、形を変えて同じことが起きるという神からの警告である。

    大バビロンの滅亡

    ヨハネの黙示録に記されている大バビロンの滅亡についてはエレミヤ書と同じく『ローマ帝国のことを表している』という見解が定説であるようだ。しかし、ここに智慧が必要である。大バビロンとは現代のことであるし、バビロンの大淫婦とは未来に現れる、男性性が肥大化した女性達、または女性性が肥大化した男性達の総称であると思われる。何度も言っているように、こころが偏った人間は「獣人間」となる。詳しくは下記の関連記事をどうぞ。

    関連記事:もののけ姫の登場人物から学ぶ男性性と女性性

    終末の準備はお早めに

    終末はいつか必ずやってくるから準備は早めにしたほうがよい。けれど人間には自由意志があるので、そんなの気にせず人生を楽しむのも良し。しかし、今回のコロナ騒動といい、のんきに人生を楽しむことができなくなっている時代なのかも。それを肌で感じているのならば、やはりこころの準備はしておいたほうがよいのでは。自由というものには責任が伴う。こころを中道にする智慧を得たいのならば「悟り」を目指そう。

    「獣人間」に訪れる未来

    二匹の獣のおはなし

    また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。

    ヨハネの黙示録 13章16−17節

    ヨハネの黙示録は「獣人間」の未来が書き記されている。再び引用して、それがどんな未来なのかを考えたい。『この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった』という記述。この刻印というのが666。刻印を押す者とは誰なのか?13章のタイトルは「二匹の獣」である。刻印は第二の獣に押されることになる。

    地中から上ってきたもう一匹の獣

    第二の獣のこと

    わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大いなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うのを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像が物を言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

    ヨハネの黙示録 13章11−15節

    ここに小羊のような角が二つある第二の獣のことが記されている。小羊とはイエスのことを表すことばでもある。小羊のような角があるという書き方は、まるでイエスのように見えるということではないだろうか。666の刻印を押す第二の獣とは偽イエスのことなのかもしれない。

    なお生きている獣

    更に、先の獣の前で行うのを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。

    剣で傷を負ってもなお生きている獣とは、おそらく、いいところまで行ったけど悟りに失敗した「獣人間」なのだと思う。「悟り」とは剣で一度死ぬことである。剣とは男性性の象徴であり「悟り」が起きるとき剣の力でこころをグサっと刺される。そして負けを認め、自分の中に「悪魔性」が存在することを知るのが「悟り」である。「剣で傷を負ってもなお生きている獣」ということは剣の力で死んでいない人間。つまり、自身の「悪魔性」を認めていない人間のことであろう。

    第二の獣が命を吹き込んだ獣の像

    第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像が物を言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

    獣の像とは「獣人間に命を吹き込まれた人工知能」だと予想する。偽イエスはAI神を創り出し、その「新しい神」を拝む人々以外を殺そうとするのかもしれない。近い将来、悪い心を持った人間がテクノロジーを悪用するのではないか。機械に支配されるディストピアな世界が描かれるSF作品は数を上げたらきりがない。人間の集合的無意識は未来を予測できるから、そういった作品を作り出す。

    「獣人間」とは「新しい神」の元で生きることを決めた人間で、気がつかないうちに「獣人間」の刻印を押される。刻印を押された人間しか売り買いができなくなる世界。世界の分断が進んでいったらそんな未来も存在するのかも。

    3つの未来

    こんな考えが頭に浮かんでしまって自分でも恐ろしい!でも、世界中で読まれている聖書にこんな預言が書かれているのだから信じないことはできない。「悟り」とはこの世に存在する全てのものに意味があることを知ることである。第一の獣が何を表しているのかまだしっくりこないので、もう少しじっくり考えてからヨハネの黙示録についてさらに紐解いていきたいと思う。獣人間・人間・超人に分れていく未来は現実の中になんとなく見えてきている。

    関連記事:3つの未来について

    (2020/08/17追記 この記事を読み直してみたら、獣人間・人間・超人の分け方が変だなーと思ったので訂正したいけれど、ややこしいのでまた別の記事で書くかも?上記にリンクした関連記事と読み比べると矛盾してしまう。なので、この記事については獣人間・人間・超人の違いはあまり考えすぎずにさらっと読み流してください。超人という単語は使わない方がいいかもしれない…。)

  • エメラルド・タブレットの言葉を訳してみた

    エメラルド・タブレットの言葉を訳してみた

    オカルト・スピリチュアルの世界でよく引用される「エメラルドタブレット」という古代のテキストがある。錬金術師たちが作業前に唱えたとされる言葉で、その中でも「下にあるものは上にあるもののごとく」という一文は特に有名。

    この記事では、エメラルドタブレットの全文と日本語訳を紹介しつつ、わたしがこのテキストをどう読み解いてきたかを記録していきたい。2018年・2021年・2024年と追記を重ねてきたので、考え方の変化も含めてお届けする。

    エメラルドタブレットとは?

    エメラルドタブレットとは、「エメラルドの板(タブレット)に刻まれていた」とされる古代のテキストのこと。現物は現存しておらず、そこに書かれた言葉だけが伝わっている。

    Wikipediaからの情報を要約すると、歴史的には「古代のもの」と主張されることもあるが、学術的には6〜8世紀に書かれたアラビア語文書と見られている。最古の出典は9世紀前半に編纂された『創造の秘密の書』とされ、この書においてバリーナースという人物が「ヘルメス像の足下の地下室でエメラルドの銘板を発見した」と語る形で記されている。

    古代のものとの主張があるが、6世紀から8世紀の間に書かれたアラビア語の作物と信じられている。このテクストの出典としうる最古のものは、9世紀前半に編纂されたアラビア語の書物 Kitāb sirr al-ḫalīqa (『創造の秘密の書』)、別名 Kitāb al-`ilal (『諸原因の書』)である。この書物はバリーナース(バリーヌース、もしくは擬テュアナのアポロニオス)に帰せられる。この書においてバリーナースは『緑玉板』を古代のヘルメス的知恵に仕立て上げている。かれはテュアナにあるヘルメス像の足下の地下納骨堂で文書を発見し、その納骨堂内では黄金の玉座に即いた古遺体が緑玉の銘板を手にしていた、と読者に語るのである。

    エメラルド・タブレット(Wikipedia)

    エメラルドの板そのものが実在しないことから、オーパーツとも呼ばれることがある。

    参考:[エメラルドタブレット]

    エメラルドタブレットを書いたとされる人物

    エメラルドタブレットの言葉は、ヘルメス・トリスメギストスの言葉とされている。「三重に偉大なヘルメス」と訳されるこの人物は、錬金術の源流のひとつとなった「ヘルメス文書」の著者とされる伝説的な賢者だ。

    ギリシア神話のヘルメス神と、エジプト神話のトート神がヘレニズム時代(ギリシア主義時代)に融合し、さらにそれらの威光を継ぐ人物としての錬金術師ヘルメスが同一視され、ヘルメス・トリスメギストスと称されるようになった。それら3つのヘルメスを合わせた者という意味で、「3倍偉大なヘルメス」「三重に偉大なヘルメス」と訳される(3人の賢者〔ヘルメス〕、三重の知恵のヘルメスという伝説)。

    ヘルメス・トリスメギストス(Wikipedia)

    「三重に偉大」とはどういう意味か。Wikipediaの説明は「三つのヘルメスを合わせた者」だが、わたしはこの「三」という数字に、対立するものを統合するという意味合いが込められているのではないかと考えている。

    陰と陽、男性性と女性性、そういった相反するものを一身に持つ存在として「三重」と表現されたのではないか。

    ヘルメス神(男)とトート神(女)の威光を継ぐヘルメス。相反するもの(陰と陽)を持っているのは、父と母から生まれた一者(ヘルメス)なのである。あくまでわたしの解釈のひとつとして。

    関連記事:1と2と3(よーさんの「妄想かいてくよー」の解説をする その4)

    現実と精神を同時に完成させる技法

    ここではまず、エメラルドタブレットに書かれた文章が何を表現しているのかを考えてみたい。

    原文は寓意や隠喩が多く多様な解釈が可能で、卑金属を金や宝石に変えるように、人間の魂を「大地から天へと」と昇華させていく修道過程、「賢者の石」の秘密を読み解くことができるともされる。

    エメラルド・タブレット(Wikipedia)

    錬金術師たちが目指した「賢者の石」の完成には、二つの意味が重ねられている。一つは卑金属を金に変化させる技術—つまり自然界の素材から人間にとって有益なものを生み出す、科学的な営みとしての側面。もう一つは、精神的な成長—世界にとって有益な考え方を持てる人間へと変容していく過程である。

    この二つを合わせて読むと、エメラルドタブレットが描いているのは『現実に作り上げた有益なものを、健全な精神で使いこなすこと』だと解釈できるのではないか。物質的な達成と精神的な成熟を、別々ではなく同時に進める方法が記されているのだとわたしは考えている。

    「賢者の石」の完成とは、人間がより良く生きられる世界を作り上げること、そしてその世界を生きるための健全な精神を持つこと。この二重の意味が一つの象徴に重ねられている。そしてその二重を完成させるのは、テキストの中で「一者」と呼ばれる存在—三重に偉大な者とは、他ならぬ私たち人間一人一人のことではないだろうか。

    エメラルドタブレット全文と訳(2018年版)

    ここからはエメラルドタブレットの全文と、わたしの考えた日本語訳を紹介する。全文の引用は「錬金術:おおいなる神秘」から。

    ※この訳は2018年に書いたもので、当時の解釈が色濃く反映されている。2021年・2024年版は後に続く。

    これは偽りのない真実、確実にして、このうえなく真正なことである。唯一なるものの奇跡を成し遂げるにあたっては、下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし。

    錬金術:おおいなる神秘

    この宇宙の成り立ちを考えるとき、「一番小さなものと一番大きなものは同じ構造を持つ」という視点が助けになる。

    万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく、万物はこの唯一なるものから適応によって生じる。

    錬金術:おおいなる神秘

    「唯一なるもの」「一者」というのは、錬金術的な文脈では「根源的な一つ」を指す言葉。2018年のわたしはこれを「この世界は一人一人の意識から生まれる」と解釈する。それぞれの意識がそれぞれの世界を作っている、という読み方である。

    太陽がその父であり、月がその母である。風はそれを己の胎内に運び、大地が育む。これが全世界の完成の原理である。その力は大地に向けられる時、完全なものとなる。

    錬金術:おおいなる神秘

    太陽と月—つまり対極するものを両親として持つ存在が万物を創り出す。風(時間の流れ)が変化をもたらし、大地(精神の土台)がそれを育む。

    地上から天上へと登り、ふたたび地上へと下って、上なるものの力と下なるものの力を取り集めよ。こうして汝は全世界の栄光を手に入れ、すべての暗闇は汝から離れ去るだろう。

    錬金術:おおいなる神秘

    「地上から天上へ」と「天上から地上へ」という往復。目に見えない世界(上)と目に見える世界(下)、それぞれから力を受け取ることで暗闇から解放される。

    火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを、ゆっくりと巧みに分離せよ。これはあらゆる力の中でも最強の力である。

    錬金術:おおいなる神秘

    2018年のわたしはこの一節を、「この世界にあるあらゆるものを観察し研究し、技術や科学を発展させていくこと」として読んだ。粗雑なものから精妙なものを少しずつ分けていく作業。それを積み重ねた先に、人間の限界を超えるような力が生まれてくる、という解釈だ。

    なぜなら、それはすべての精妙なものに打ち勝ち、すべての個体に浸透するからである。

    錬金術:おおいなる神秘

    その力は、自然の流れのようにゆっくりと世界へと浸透していき、やがて全ての意識をまた一つへと戻す役割を果たす。「一者」へと還っていく構造として、この一節をこのように訳した。

    エメラルドタブレット全文の解説(2021年版)

    エメラルドタブレットの内容について、2021年の今、もっと深く解説できるようになったので追記してみる。今回はもっと具体的に訳していこうと思う。2018年から3年後、同じ全文をもう少し掘り下げてみた。

    二元性という基本構造

    これは偽りのない真実、確実にして、このうえなく真正なことである。唯一なるものの奇跡を成し遂げるにあたっては、下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし。

    錬金術:おおいなる神秘

    『下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし。』これは宇宙が二元性(対極)によって構成されているという考え方として読めるのではないか。

    男と女、太陽と月、プラスとマイナス。不思議なことに、大きなものからとても小さなもの(原子の陽子と電子など)まで、二極構造が繰り返されている。この基本パターンを念頭に置くと、複雑に思える現象もシンプルに整理できることがある。

    「唯一なるもの」の解釈

    万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく、万物はこの唯一なるものから適応によって生じる。

    錬金術:おおいなる神秘

    ここで言う「唯一なるもの」とは、「たった一人の自分」のことを指していると読める。世界に存在するさまざまな「もの」や「こと」は、「自分」という一者から生じている、というのがこの一文の核にある考え方だ。

    どういうことか。たとえば、この記事を読んでいる「あなた」が、この記事を書いている「わたし」という存在を—少なくとも「あなた」の世界の中では—生み出している。すべての目に見える「もの」や「こと」は、世界にたった一人の「自分」が生みの親であるという構図になる。

    言い換えれば、それぞれの人間の個の意識が、目に見えている世界をそれぞれ創り出しているということだ。「わたし」と「あなた」の世界は同じもののように思えるけれど、実はまったくの別物なのかもしれない。

    精神の完成へ至る道

    太陽がその父であり、月がその母である。風はそれを己の胎内に運び、大地が育む。これが全世界の完成の原理である。その力は大地に向けられる時、完全なものとなる。

    錬金術:おおいなる神秘

    万物を創造する「唯一の自分」は、太陽と月の子供だとされる。太陽は陽の力、すなわち「強い心」を象徴し、月は陰の力、「受け入れる心」を象徴している。この解釈に従えば、私たち人間は生まれながらにして陽と陰、二つの力の源を内に備えていることになる。

    ここで「風」が表しているのは、時間の流れだと考えられる。時間の流れの中にいるからこそ、私たち人間は成長していく。子供から大人への歩み、人間全体の大きな歴史のうねり。偶然とも必然とも言いがたいさまざまな出来事を、私たちは否応なく体験する。

    「大地」は人間の精神を指していると読める。万物が織りなす世界の動きの中で、自然や社会や他者と触れ合いながら、私たちは「強い心」と「受け入れる心」を少しずつ自分自身の中に取り込んでいく。

    力の蓄積と暗闇からの解放

    地上から天上へと登り、ふたたび地上へと下って、上なるものの力と下なるものの力を取り集めよ。こうして汝は全世界の栄光を手に入れ、すべての暗闇は汝から離れ去るだろう。

    錬金術:おおいなる神秘

    天上へと登るとは「受け入れる心」を完全に手に入れること、そこからふたたび地上へ下るとは「強い心」を完全に手に入れることだと読める。

    この二つの力を獲得した者は、目に見えない世界(上なるもの)と目に見える世界(下なるもの)の双方から力を受け取ることができるようになる。そしてその力は、一度きりの啓示ではなく、着実に自分自身の中に蓄積されていくものだろう。

    上なるものと下なるもの、二つの世界から力を集め続けた先に、やがて世界を変えうる力が手に入る。そのとき精神は暗闇から解放される—エメラルドタブレットはそう約束している。

    粗雑なものから精妙なものを分離する

    火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを、ゆっくりと巧みに分離せよ。これはあらゆる力の中でも最強の力である。なぜなら、それはすべての精妙なものに打ち勝ち、すべての個体に浸透するからである。

    錬金術:おおいなる神秘

    ここで言う「火」とは怒りのことであり、「土」とは現実を指していると、2021年のわたしは考えた。(※この象徴の対応については別の記事で詳しく扱う予定)

    つまりこの一節は、現実の事象を受けて発生した心の中の怒り。その粗雑な感情の奥にある精妙なものを、丁寧に分離せよという指示として読んだ。

    怒りの奥から取り出されるものとは何か。私はそれを「希望」だと解釈している。怒りという感情を丁寧に分解した先に見えてくるのは、何かをより良くしたいという根源的な衝動——つまり希望ではないだろうか。

    希望はこの世界のあらゆるものに打ち勝ちうる力を持つ。人間が本当に求めているものは、自分自身の内にある希望だからこそ、その力はすべての人間に届き、受け入れられるものになる。エメラルドタブレットはそう語っているように思える。

    エメラルドタブレットが描く円環

    世界はそのように創造された。驚くべき適応はこのようにして起こる。こうして私は全世界の哲学の3つの部分を持つがゆえに、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。私が太陽の働きについて述べるべきことは、以上である。

    錬金術:おおいなる神秘

    たった一人の自分の内に存在する「希望」が、すべての他者に受け入れられたとき、新しい世界が創造される。世界の創造とは、万物が生まれる最初の一歩であり、その瞬間にふたたび万物を創造する「唯一なるもの」——つまり自分自身——が生まれ直す。円環が閉じ、再び最初に戻る。エメラルドタブレットはそのような構造を描いているのだ。

    以上が、2021年の私が試みたエメラルドタブレットの解釈の全貌である。2018年の時点では最後の一節を載せていなかったので、今回あらためて追加した。

    エメラルドタブレット全文の解説(2024年版)

    2018年、2021年とわたし的な訳を書いてきたが、2024年のいま、もう一つ別の角度から読み直してみたい。今回は訳というよりも、ここ数年考え続けてきた「時間」という軸でエメラルドタブレットを読むとどう見えるか、という話になる。

    人間の最終目的について

    前の章で『現実で作り上げた有益なものを健全な精神で使いこなすこと』が人間の目指すところだと書いた。ここで言う『現実で作り上げた有益なもの』とは、いま私たちが生きているこの世界に存在するすべての物や事を指している。上にあるものと下にあるもの、天と地、世界と自分、善と悪。こうした対比(違い・相対)が織りなす世界そのもののことだ。

    私たちはこの世界に存在するものを善と悪に分ける。けれども、人間が最終的に目指すのは『善も悪も、どちらも健全な精神で使いこなせるようになること』ではないだろうか。ここで言う「悪を使いこなす」とは、悪を肯定することでも、悪に染まることでもない。悪を「ないこと」にせず、その存在を認めた上で自分の中に引き受けていく、そんなニュアンスに近い。悪を使いこなすことが、この中で最も難しいのだけれど。

    この対比のある世界を健全な精神で生きていくことを最終目的—つまり「完成」とするならば、自分自身がその完成に到達したと確信する瞬間が、世界の成り立ちの「終わり」になる。

    エメラルドタブレットには、世界の「始まり」から「終わり」までの過程が描かれている。「始まり」があって「終わり」がある。だから世界がある。

    精神と現実は双方向につながっている

    一人の人間が生まれ、死ぬまでのあいだに成長していく。対比のある世界の中で、相対するものからさまざまなことを学んでいく。精神(上なるもの)の成長は、目に見える世界(下なるもの)の成長と連動していると考えられる。言い換えれば、自分の精神は目の前の世界にそのまま映し出されている。

    人間が暗闇から抜け出せないと感じるとき、それは精神(上なるもの)と現実(下なるもの)のつながりを見失っている状態かもしれない。目の前の現実に暗闇を感じるなら、自分自身の精神がそうさせているだけ。そう考えてみると、出口はむしろ自分の内側にある。

    2021年版で取り上げた『地上から天上へと登り、ふたたび地上へと下って、上なるものの力と下なるものの力を取り集めよ』という一節の訳が、ここで効いてくる。地(現実)と天(精神)のあいだを往き帰りする運動。この描写そのものに、一方通行ではない双方向性が込められている。

    現実が自分の心を形づくると同時に、自分の心が現実を形づくっている。精神と現実のつながりは、どちらか一方の因果ではなく、互いに作用し合う関係なのだ。

    時間の矢には二つの向きがある

    この双方向性を、時間という軸に置き換えてみるとどうなるか。

    通常、私たちは時間を「過去から未来へ」という一方向の流れとして経験する。この向きは「精神が現実を表現している」方向、つまり、自分の内側にある思いや考えが、目の前の現実として展開していく流れに対応している。

    一方で、もう一つの向き「未来から過去へ」という時間の逆行があるとしたら、それはどう位置づけられるか。それは「現実が精神を表現している」方向に対応するのだと、私は考えている。いま目の前にある現実を丁寧に観察することで、自分の精神の奥にあるものが逆向きに浮かび上がってくる。結果から原因を読む、という読み方に近い。

    この時間の二方向性については別の記事でも詳しく書いているので、そちらも参照してほしい(関連記事:二つの時間の流れが因果を生む)。

    時間を逆行することで始まりにたどり着く

    エメラルドタブレットの『地を火から分離するがよい』という一文を、この時間論の枠組みで読み直してみたい。

    人間にとって、世界はすでに始まっている。けれど「終わり」はまだ来ていない。だとすれば、「始まり」がどのようにして起きたのかを知るためには、記憶を遡るのではなく、時間そのものを逆向きにたどる必要がある。ここで言う「時間を逆行する」とは物理的な話ではなく、精神の中で行われる作業のことだ。

    目の前の現実を起点にして、なぜこの現実があるのか、その手前に何があったのか、さらにその手前には……と、結果から原因へと意識を遡らせていく。『粗大なものから微細なものを分離する』とは、現実という粗大な結果のかたまりを、原因の層へとひとつずつほどいていく作業だと読めるのではないだろうか。

    この作業を続けていくと、やがて「世界がまだ始まっていなかった地点」にたどり着く。けれど不思議なことに、その地点は同時に「世界が完成した地点」でもある。始まりと終わりが同じ場所にある。これが私が2024年の時点で読み取った、エメラルドタブレットの核心部分だ。

    始まりと終わりは「自分」の中にある

    ではその地点はどこにあるのか?

    それは「唯一なる者・一者・三重に偉大な者」の中にある、としか言いようがない。プラトンが『ティマイオス』で「コーラ(場)」と呼んだもの——生成を受け止める、形を持たない場——に近い概念かもしれない。すべての生成が起きる前の場であり、同時にすべての生成が帰っていく場でもある。

    参考:[ティマイオス]

    つまり、宇宙は自分から始まって自分で終わっている。この世界のあらゆるものが、自分から始まり自分で終わっている。これがエメラルドタブレットの語る宇宙の真実なのだ。

    「世界のすべてが自分の中から始まっている」と言うと、傲慢な主張のように響くかもしれない。けれども、ここで言う「自分」は個別のエゴのことではなく、唯一なるものとしての自分のことだ。すべての人間一人一人の中に存在する、世界を成り立たせている場。あなたの中にもそれはあるし、私の中にもある。そしてそれぞれが、それぞれの世界の始まりと終わりを持っている。

    3つの智慧を持つもの

    ヘルメス・トリスメギストスは三つの智慧を持っていると言われる。一つ目は「強い心」について。二つ目は「受け入れる心」について。三つ目は「希望」について。この三つが「唯一なるもの」の中に揃ったとき、はじめてエメラルドタブレットの意味が本当にわかるようになるのではないかと思う。

    そして重要なのは、これら三つのすべてが太陽の働きによって現れるということだ。陽の力は「強い心」。三つの智慧の中でもっとも獲得するのが難しいものであり、すべての始まりでもある。

    補足:悪と向き合うこと

    最後に一つ。この記事で言ってきた「自分が世界の始まりと終わりを持つ」という視点を受け入れるには、悪を見ないことではなく、悪と向き合うことが必要になる。対比のない世界では、始まりも終わりも成立しないからだ。

    始まりを知るための時間の逆行は、きれいな原因だけをたどる作業ではない。自分の中にある怒りや憎しみ、目を背けたい感情まで含めて遡っていく。そこまで行って初めて、「始まり=終わり」の地点にたどり着けるのだと、私は考えている。