こんにちは。ラムニンです。オカルト本ではないのだけど、今日はいくつか本を紹介したいと思います。信仰だと思うことを書くけど特定の宗教のことは1mmも入ってないです。

夜と霧

ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)

みすず書房

ユダヤ人心理学者の強制収容所での経験に基づいた本です。

ナチスによる強制収容所での体験談なのでかなりかなりつらい内容ではあるのですが、これはとても静かで美しい本だと思います。彼はそこで耐え難い苦痛と屈辱を与えられながらも、心の中で彼の奥さんと会話を続けて生き残ります。この時本物の奥さんは収容所にいて、当然生死もわからない状況なのですが、彼は本物の奥さんの生死とは関係ないところで、ただ心の中にいる奥さんとの会話が重要だったと述べています。

神も仏もないような状況で、これこそが心を守る純粋な信仰ではないでしょうか。

このごく個人的な信仰を完璧に、自然に描いている作品があります。

 

団地ともお 小田扉

小学館

団地ともおです。元気な小学生ともおとその周辺の人達がわやわやする漫画なのですが、この話の主人公のともおの爺ちゃんは亡き婆ちゃんとの心の会話をより所にしています。一方的に話しかけるだけでなく、爺ちゃんの心の婆ちゃんは完全に人格を持っていて、ことわざや格言を使って爺ちゃんにアドバイスをしています。実際爺ちゃんが解らないことを答えてるので婆ちゃんは霊という解釈もできるけど、それはどうでもいいことです。人が亡くなった時に、死んでいない心に生きているというような言葉がかけられる事がありますが、それをこの漫画は綺麗ごとや慰めではなく、日常生活として表現しています。

ちなみに私は昔長いこと遠距離恋愛をしていて、事あるごとに心の中で恋人の名前を呼んでいました。ストーブを消し忘れたかもしれないと思って急遽家に帰るとき、箪笥のかどに小指をぶつけたとき、ごきぶりの気配を感じた時、一人で流れ星を見つけた時。もし本人が聞いたら気持ち悪がるかもしれないけれど、人生においてあれほど心が守られていた日々は無かったように思います。

思えば様々な物語で人は追い詰められたとき、誰かの名前を呼んでいます。一番多く呼ばれているのはお母さんかもしれません。物語の中で追い詰められた人間がお母さんを呼ぶ姿は滑稽に臆病者であるかのように描かれますが、私はそうは思いません。それは、いざという時に呼べるような存在を心はしっかりと育ててきたということです。心の中に大切な人を住まわせること。よりその大切な人の強度を強くするには日々その人と過ごした明るい瞬間を愛することだと思います。この世を生きていくには、それはささやかだけど強い効果のある思いになります。

この世にはどうしても痛みや悲しみが存在します。それらの多くは私たちのコントロールのまったくきかないところから襲ってきます。それでも肉体のある私たちはここで生きていかなければなりません。まあ、死んでもいいのかもしれないけど、死ぬにあたっても準備があった方がいいのです。

死んだ後のことは死んだ人にしかわかりません。でも死ぬ瞬間どんな門をくぐるのかは生きている人間が作れるように思えるのです。これも心の話し相手と同じく現実の煌めきのレイヤーで作られていくと思います。最後の一冊は、生きている人の天国の作り方について書いてある本です。

瀕死のエッセイスト しりあがり寿

角川書店

瀕死のエッセイストが主人公なので、だいたい入院しています。急死ではなく、死はじわじわと近づいてくるタイプのものです。ここで、天国は自分の頭の上にイメージとして作られ、人はその中へ入っていくという話があります。

本当にそうだと思います。長く闘病している不治の病の人でなくても、日々の美しかったこと心地よかったことがあの世の入り口で、その門をつくる小さなパーツはこの世の愛なのではないでしょうか。それは寿命が0歳でも100歳でも変わらず与えられるものだと思います。

生きるには愛することが役に立ち、死ぬには愛を受け入れることが役に立つという話でした。