ブログリニューアルしながら過去記事を読み返していたら、自分が悟りの段階のどこにいるのか急に気になったのでこの本を購入。どうも悟り直前にunlimitedで読んでたみたい。再読したところ、現代人は原始仏教の教えだけでは「悟る」ことは難しいと感じた。そこからいろいろ考えたこと。

ブッダの教えだけが悟りへの道なのか?

時代の違い

この本の中で度々語られていたのは「原始仏教の教えだけが正しい悟りへの道でその他は正しくない」ということ。この考え方は、ブッダが生きていた時代周辺には通用するかもしれないけども、今この時代にはもはや古い考え方だと思う。ブッダが生きていた時代は諸説あるが紀元前600年周辺である。おそらくその頃はまだまだ精神的な世界だった。今とは環境が全然違う。だからこそブッダの教えで「悟る人」はたくさんいた。現代などは物や情報が溢れているがゆえに相当な精神力がないと「悟り」を得る仏教修行など難しい。

大乗仏教だってすごい

大乗経典を奉じる日本の宗派も、特に最近、悟りをあまりにも簡単に考え過ぎているように見えます。浄土系統の宗派が奉じる『無量寿経』では、「今の世では悟りにくいので極楽浄土に往生( 輪廻 転生)してそこで安楽に修行して悟りましょう」と勧められていました。しかしそれでも、最後にもう一回輪廻するのが嫌なのか、輪廻自体を認めたくないのか、最近の浄土真宗では、「浄土に往生すると必ず悟りを開くのだから『往生=悟り』でいいじゃないか。往生とは悟りのことだ。つまり死んだら悟るのだ」などと言い始めているようです。だったら、みんな今すぐ死ねばいいだけの話ですけど。それに「往生=悟り」なら、極楽浄土の荘厳はどうしましょうか。極楽浄土は悟るための快適な修行道場なのですが、往生=悟りなら、もう必要ありませんね。

悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢課

「死んだら悟る」という浄土真宗は間違いである、と筆者は言いたいのだろうけどそんなことはない。私は「二度目の悟り」で生きながら一度死んだ。それから、輪廻とは死んでまた生まれ変わり「悟り」へと一歩一歩近くことなのだから「死んだら悟る」は間違いではない。むしろ大乗仏教は誰にでもわかりやすく真理を教えてくれていて、日本において原始仏教よりもメジャーになったことには意味がある。わかりやすい言葉ってのは無意識に蓄積される。

こころの偏りは大切

「真理」を見つけるには目線を変えることが必要。これは間違いである!という気持ちを起こしているのが「こころ」である。ブッダの教えを信じすぎてそこに偏りがでてしまうと、ブッダの教えとは真逆へ行ってしまうという罠。けれどその「こころ」の偏りがあることによって間違いに気がつくことができるので、少しづつ修正しながら進んでいくしかないのだ。

ブッダは「我の存在・非存在」についてあまり語らなかった

在るのか無いのか問題

ところで、「悟り」が起きてからすごく気になっていたことがある。私の「二回目の悟り」で解ったことについてブッダはどのように語っているのか。「なぜ何も無いのに何かが在るのか」の答えについて。そこで仏教思想のゼロポイントを読み直してみた。内容すっかり忘れていたが、解りやすい…。神。やはりおすすめできる。ブッダは我が在るとも無いともはっきり言わなかったみたいなのです。引用させていただきます。

経典による限り、ゴータマ・ブッダは「我が無い」と言い切ることには否定的だが、同時に「我が有る」と言い切ることに関しても、明確に否定的であるからである。

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―

仏教学者の桂紹隆は、広くインド仏教思想史における「無と有」をめぐる議論を参照した上でこの経典を取り上げ、「アートマンの有無の問題に関して『沈黙』を守った『無記』の立場、したがって有と無の二辺を離れた『中道』という理解こそ、初期経典に記録されるブッダのこの問題に対する最終的な答えであったのではないかと思う」と述べ、「無我説」でも「非我説」でもなく「無記説」こそがブッダの真意だったのではないかと推測しているが、私もこの解釈に同意する。

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―

「中道」という智慧

既に仏教研究者の間ではブッダの最終的な答えは「中道」ではないかという話が出ているのですね。なーんだ。この「中道」とは男性性と女性性を天秤が釣り合ったように均等にする智慧のこと。自己の中にある女性性と男性性が均等になったときに「我が在ること」と「我が無いこと」の矛盾が消える。在ると無いが両立する。この智慧が私の「二度目の悟り」で突然にもたらされたもの。

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ブッダはその他宗教に続きを託した

真実が明かされる時代

この「中道」へと至るヒントは、キリスト教や秘密結社などが隠してきたことでもある。解る人にしか解らないようになっているだけで隠してもいないのだろうけど。隠された智慧っていうのは明かされる時代が決まっている。だからブッダはあの時代に必要なものだけを伝えたのだと思う。「彼らに不死の門は開かれた」と言って悟りの智慧を広めたのも、遠い未来、多くの人間に不死が与えられることを見通していたのでしょう。

不死の門、全開

不死の門が開かれたことがやっと人間の意識に現れ、目に見えてきた時代。医学の進歩で寿命は伸びるし、人間に似せたAIが生まれるし、確実に神に近づいている。近い未来テクノロジーによって永遠の命を得た人間が生まれるだろうが「こころ」を中道にする智慧を得なければ苦しみは消えない。この智慧を習得しなければ「オルタードカーボン」に出てくるバンクロフトみたいになっちゃう。

好きなものから「真理」を見つけよう

在るもの無いものぜんぶが真理

仏教以外の宗教にもしっかりと「真理」は存在する。科学やテクノロジーも「真理」を解き明かすもの。情報が多い現代、私たちは好きなもので悟ればいい、というのが最近の持論。この世界の全てのものに真理へのヒントが隠されている。それこそヒントが無いものが無い。私の場合、振り返ってみれば自分の好きなものを探求した結果「悟り」に行き着いた。それが「オカルト」です。そのあたりはこの記事にちょっと書いてる。

好きなものを極めることは大切

もはや自分の好きなものじゃないと悟れないと思う。その「好きなこと」と「悟り」には大きな関連性がある。もしくは本当に好きなもの、自分の人生をかけられるものが見つかるのならば悟らなくていい。自我を上手に使いこなせればそれだけでいい。

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悟りチャンス到来

スピリチュアル界隈情報によると今はカルマのスピードが早くなってるらしい。悟りのラッキーチャンス来てます。結果が現れるまでの時間が早まっているのは私もなんとなく感じてる。つまり悪い結果が出たのならば、修正してゆこう。結果がすぐに見えてくるかも。

涅槃を説明したい

テーラワーダ仏教僧侶のウ・ジョーティカさんはこんなことを言っている。

涅槃とは一つの経験です。その瞬間には、対象と観察が停止する。その二つのものが停止するのです。 瞑想者には、全てが終焉したように感じられます。 これについて例を挙げることなんてできるでしょうか?この状態は、言葉を超えたものです。それについて語ることはできません。

仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―

確かに涅槃は言葉を超えたものであるが、わたしは語れないとは思っていない。語れないとか決めつけるのが嫌なのだ。それがわたしの自我でもある。涅槃について語ることができるようになった時代なのか、そこらじゅうに例が見つかる。前回の記事「オートポイエーシス」もそう。語れると思うのも様々な情報が簡単に手に入るから。インターネットという集合知を使いこなすことは私の超得意分野。これからも例を上げつつ「悟り」を説明してゆきたい。